音にぞ人を 聞くべかりける

 遠征任務から戻った部屋に、見知らぬものが増えていた。
 時間を遡って向かう時代が古ければ古いほど、移動のための時間は長くなる。結果、本丸を丸一日以上留守にした大典太光世は、見慣れない品に眉を顰めた。
「なんだ、これは」
 手にした荷物を畳におろし、具足も解かずに歩み寄る。
 窓辺に置かれた文机の片隅にあったのは、瓢箪のように胴の真ん中がくびれた、透明な硝子の置物だった。
 中には細かな砂らしきものが入っており、揺らしたところで音はしない。
「いったい、誰が」
 試しに耳元で振って確認して、大柄の太刀は目を眇めた。
 彼が不在にしている間、無人の部屋に立ち入る存在は限られている。同じ光世作と伝わるソハヤノツルキウツスナリか、世話役を引き受けてくれている短刀のどちらかだ。
 そして目の前にある置物の形や、大きさからして、持ちこんだのは短刀の方で間違い無い。
「なにに使うものだ?」
 小柄な少年の顔を思い浮かべて、大典太光世は眉間の皺を深めた。
 無精髭が残る顎を撫で、ザリザリした感触でハッと我に返る。
 遠征中は碌に風呂に入れず、髭を剃るのも一苦労だった。身体もあちこち煤けており、服は埃まみれだった。
 現地で数日を過ごしたが、任務を終えて戻ってみれば、壁に吊した暦は一枚しか進んでいない。
 お蔭で感覚が鈍って困る。櫛を通していない髪を掻き毟って、彼は簡単に壊れそうな小物を机に戻した。
「先に風呂だな」
 まずはどこの浮浪者だ、と言われそうなこの身なりをどうにかしなければ。
 天下五剣の威厳など欠片も感じられない外見を鏡で確かめて、無造作に放置していた刀を床の間に移した。
 汚れた上着を脱ぎ、着替えの類を鷲掴みにした。あらかじめ一式用意されていたものを小脇に抱えて、疲労を訴える太腿を叱咤した。
「前田に、礼を言わないと」
 帰り着く時間帯を計算して、準備してくれていた。
 先のことまで見通している短刀の聡明さに感嘆して、彼は敷居を跨ぎ、風呂場へ向かった。
 泥と汗と、大量の垢を丹念に洗い流し、歩き詰めだった両足を労った。筋肉を揉みほぐしながら湯船に浸かっていたら、同じ遠征部隊にいた仲間たちが次々に現れ、去って行った。
 ほかにも演習帰りと思しき打刀の集団に出くわし、洗い場が若干混雑した。
 広々とした湯船も、むさくるしい男ばかりだと窮屈でならない。逆上せる前に出るのが吉と判断して、しっかり水気を拭き取った後は、湿った髪をひとまとめに縛った。
 雫が背中に垂れないように、毛先を上にして固定した。歩いている最中に落ちていかないよう、広げた手拭いを巻きつけて、額のやや右側で結び目を作った。
「……ふう」
 陽はまだ高く、地平線より上に位置していた。
 部屋へ戻る道すがら眺めて、大典太光世は向かいから来た短刀たちに道を譲った。
「あ、大典太さん。お帰りなさーい」
「聞いたぜ。任務、大成功だったんだってな」
 ドタドタ騒がしく駆けて来たのは、この本丸で最も大きな派閥である、粟田口の短刀たちだ。先頭を走っていた秋田藤四郎が元気よく右手を振って、続けて通り過ぎた薬研藤四郎が、すれ違いざまに肘で小突いて来た。
 眼鏡の奥から意地悪く笑いかけられ、どう返事をして良いものか分からない。
「ああ」
 結局無難な相槌ひとつでやり過ごすしかなかったが、薬研藤四郎は特別気にする様子を見せなかった。
 ひらりと手を振って、弟たちを引き連れて去っていく。
 喧騒は一瞬で止んで、手を振り返そうとしていた太刀は、行き場を失った右手に肩を竦めた。
「聞けば良かったか」
 集団が通り過ぎてから、ちょっとした後悔に見舞われて、つい声に出た。
 あの輪の中に、栗色の髪の少年はいなかった。肩より少し短く切りそろえたおかっぱ頭の短刀は、どこにいるのか、姿が見えなかった。
 部屋に残されていた、奇妙な置物のことを聞きたかった。
 しかし今更後を追いかけて問い質すのも気が引けて、悩んだ末、彼はガシガシ首の後ろを掻いた。
「そのうち、顔を見せるだろう」
 探しに行きたいところだが、具足の手入れやらなにやら、やることがある。
 時間が必要な、面倒なことから片付けようと思い直して、大典太光世は踵を返した。
 素足で床を踏みしめ、長い渡り廊を抜けて、私室を目指した。耳を澄まさずともあちこちから色々な音が聞こえて、賑やかな話し声が尽きなかった。
 何振りかは遠征に出て不在だが、それでも屋敷には四十振り近くが居残っている。畑仕事に駆り出されている刀もあるだろうが、そうでない刀も多かった。
 特に短刀や脇差の、甲高い笑い声は遠くまでよく通った。
「大典太さん、遠征お疲れ様でした」
「頑張ったな」
「ああ。ありがとう」
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎の兄弟とも顔を合わせたが、呼び止める暇もなく行ってしまった。
 単に自分が、話しかけるのが遅いだけだ。長く蔵に閉じこもっていた弊害と自嘲して、大典太光世は小さくなっていく背中から目を逸らした。
 粟田口の刀は仲が良いから、自分がいなくても、前田藤四郎は寂しくない。
 遠征は無事終わったが、調査自体はまだ続いている。今後も定期的に部隊を派遣すると、審神者から言われていた。
 当時の大典太光世は、京の都にあった。若干なりとも土地勘があるという理由で、次回の任務も率いるよう、すでに命令されていた。
 次回は、今回よりも戻りが遅いかもしれない。
 調査対象を未だ完全に絞り切れていないから、少々手古摺りそうだった。
「俺がいなくても、前田は問題ないだろうが」
 石鹸の匂いを漂わせて、小声で呟く。
 口にしてしまうと、途端に胸が締め付けられて、大典太光世は緩く首を振った。
 ずり落ち掛けた手拭いの結び目を解き、長さが不揃いな黒髪を背中に垂らした。鴨居に頭をぶつけないよう軽く屈んで、閉めた覚えのない部屋の襖を開けた。
「あっ」
 ぼうっとしていた。
 風呂場で温めた身体が徐々に冷めて、入れ替わりに睡魔が押し寄せて来ていた。
 怠さと眠気が合わさり、思考を阻害した。布団に横になれば、三秒で眠りに落ちる自信があった。
「……ん?」
 大きいが薄い足で畳の縁を踏み、ひと呼吸どころか三呼吸ほど置いたところで顔を上げた。
「お帰りなさい、大典太さん」
 部屋の真ん中に敷かれた布団の向こうで、正座した少年がにこやかに微笑んだ。
 淡い栗色の髪が、肩の上で揺れていた。くりっと丸い瞳は真っ直ぐ大典太光世を射抜き、両手が膝の上から滑り落ちると同時に、深々と頭を垂れた。
 三つ指揃えて出迎えられて、顎が外れそうになった。
「まえ、だ」
 妙なところで息継ぎが挟まった。
 手にした手拭いと落としそうになって、垂れた片側が畳に触れた。
 よろめいた際に踵で踏んでしまい、カクン、と身体が落ちかけた。自分の身に何が起きているか咄嗟に理解出来ず、結局彼は足がもつれるまま、その場で尻餅をついた。
 敷居を跨いだすぐの場所で転んで、衝撃に目を点にする。
「大丈夫ですか」
 驚いたのは向こうも同じで、前田藤四郎は慌てて膝立ちになり、駆け寄って来た。
 正面ではなく、左脇について、惚けている太刀の背を撫でた。小さな手をやや荒っぽく上下させて、放心状態の男の意識を引き寄せた。
「前田?」
 長く止まっていた息を吐き出し、大典太光世が唖然としたまま口を開く。
「はい」
 前田藤四郎は満面の笑みと共に頷いて、改めて正座して、腿に両手を揃えた。
 頭は下げず、じっと太刀の顔を見詰めた。窺うような、探るような眼差しを浴びて、蔵入り太刀は放り出していた足を集めた。
 よもや部屋で待ち構えられていようとは、思ってもいなかった。予定よりずっと早く顔を合わせられたのは嬉しいが、不意打ち過ぎて、咄嗟に言葉が出なかった。
「ああ、いや。ええと」
「お疲れでしょう。床の用意を調えておきました。夕餉まで、お休みになりますか?」
 言いたいことが沢山あったはずなのに、肝心な時に限って上手く喋れない。
 返事に困ってひとり喘いでいる間に、前田藤四郎は少し早口に言って、準備万端な布団を掌で示した。
 短刀とは、主の懐に控える刀。となればその身の回りの世話をするのは常識であり、手慣れているのも頷けた。
 ただ、大典太光世は彼の主ではない。
 こうも尽くされる道理はないのだが、何度注意しようと上手く言いくるめられ、ずるずると世話をされる日々が続いていた。
 布団くらい自分で敷けるのに、また甘やかされてしまった。
 もう充分だと言いたいのに、口に出せなくて、大典太光世は右手で頭を抱え込んだ。
「……大丈夫、だ」
 部屋に入る寸前までは眠かったのに、完全に消し飛んでいた。欠片すら残っていない眠気に苦笑して、彼は心配そうにしている短刀に首を振った。
「そうですか」
 長旅を終えて戻って、風呂に入って、きっと眠さでふらふらしているに違いない。
 そんな風に予測して、先回りして準備していた少年は、少しがっかりした顔で頷いた。
 見込みが外れて、落ち込んでいた。しかし十秒と経たないうちに気持ちを切り替え、ならば、と勢いよく鼻から息を吐いた。
「お腹が空いてはいませんか。温かいお茶と、すぐに準備致します」
 両手を強く叩き合わせ、ぱしん、と音を響かせた。言うが早いか早速膝を起こし、立ち上がろうとした。
 何かしていないと、落ち着かないのだろう。気忙しく働こうとする前田藤四郎に呆れて、大典太光世は目を細めた。
「いい。ここにいろ」
 中腰になった少年の手を掴み、引き留めた。代わりに自分が立ち上がって、開いたままになっていた襖を閉めた。
 前田藤四郎の前で出口を塞ぎ、改めて座り直した。胡坐を掻き、胸元に空間を作って、膝頭をぽんぽん、と二度叩いた。
「前田」
 名前だけ口にして。じっと見つめ返す。
 鮮やかな緋色の瞳に映る少年は、数秒間固まった後、ハッと息を吐いて顔を赤くした。
「も、もう!」
 凛々しく引き締まっていた表情が一瞬緩み、すぐに戻った。抑えきれない嬉しさに、勝手に出来る笑窪を両手で隠した。
 裏返った声で叫んで、ドスン、と一度畳を蹴った。折角用意した布団に背中を向けて、にじり寄った後、勢いつけて太刀の膝に飛び乗った。
 分厚い胸板に身体を預けて、膝を揃え、畏まる。
「無事、戻った」
 緊張でがちがちの彼を解してやりたくて、大典太光世は華奢な肩に額を沈めた。
 脇腹から腕を入れ、臍の前で緩く結んだ。いつでも逃げられる程度に束縛して、久方ぶりの匂いをいっぱいに吸い込んだ。
 毎日風呂に入って、清潔さを保っているためか、前田藤四郎の体臭は薄い。
 けれど、皆無というわけではない。恐らく他の刀たちは嗅ぎ分けられないとひとり笑って、天下五剣に連なる太刀は薄い肩甲骨に鼻梁を埋めた。
「……っ」
 ずい、と上半身を前に押し出されて、短刀が一瞬呻いた。
 声にならない声を上げた彼を知らず、大典太光世は服の上から骨の形をなぞり、露わになったうなじに唇を添えた。
 軽く押し当て、跡はつけない。
 見えないながら、何で触られたのか理解したのだろう。前田藤四郎は茹で蛸並みに赤い顔で振り返り、首筋を右手で覆った。
「そんなつもりで、用意したんじゃありません」
 若干鼻声で訴えて、潤んだ瞳で睨み付ける。
 熟れた林檎のような艶色に気を取られていた太刀は、しばらくして、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「……すまん」
 それからさらに間を置いて、小さな声で謝罪した。
 挨拶程度のつもりだったが、刺激が強かったようだ。そういう意図があってのことではなかったが、誤解させたと素直に詫びて、膨れている短刀の頭を撫で梳いた。
 よく手入れされており、髪はさらさらだ。どこも絡まっておらず、指通りは滑らかだった。
 乾かすのを面倒臭がり、濡れたまま眠って朝を迎えて後悔する太刀とは、根本からして違っていた。
 思慮深く、面倒見がよく、心優しい。
 あまりにも勿体ない相手だ。だが、かといって他に譲り渡す気は起こらない。
 束縛をほんの少しだけ強め、短刀のこめかみに顎骨を擦りつけた。傷つけないよう注意しながら頬擦りすれば、落ち着いたのか、前田藤四郎は控えめに笑った。
「ふふ」
「……いつも、助かっている」
「それが僕のお役目ですから」
 機嫌が直ったと安堵して、目を泳がせ、言葉を探した。
 ぎこちない感謝に更に笑って、短刀からも頬を擦りつけて来た。
 暫く互いに押し合って、引っ張られた皮膚が痛み出す前に離れた。短く息を吐き、慎重に様子を窺って、膝の上の温もりに目を細めた。
「ありがとう」
 面と向かっては言い難いことも、背中越しなら言えた。
 日頃からきちんと伝えてきたつもりだが、どうにも足りていないと感じられて、ここぞとばかりに繰り返した。
「いつも、面倒ばかりかける」
「そんなことは、ありません」
 細い首筋に額を預け、顔を伏して滔々と告げた。
「お前がいないと、俺は、なにも出来なくなりそうだな」
「……!」
 時折挟まる反論に苦笑して、甘やかされ過ぎて駄目になる自身を想像した。
 やっと蔵から出られたというのに、蔵の中にいる時よりも自堕落な生活を送る様を妄想したら、急に目の前の存在がビクッ、と背筋を震わせた。
「前田?」
 大袈裟な反応に、首を捻る。
 前田藤四郎は絹のような肌を朱に染めて、小刻みに肩を震わせた後、時間をかけて息を吐いた。
 強張っていた四肢の力を抜き、投げ出していた膝を寄せて抱いた。俯いたまましばらく動かず、三度目の呼びかけでやっと振り返った。
 熱に潤んだ眼が、斜め下から太刀を射た。
「大典太さんが、僕なしじゃなにも出来なくなれば、いいって。そんなのは、……いけないこと、ですよね」
「ん?」
「分かってます。そんなことになったら、大典太さんは、主君に蔵に入れられてしまいます」
「……」
 艶を帯びた眼差しにどきりとしている間に、感極まった少年が一層早口になった。途中で左薬指の第二関節を噛んで、自身の発言を否定し、首を横に振った。
 刀剣男士は、審神者の求めに応じて顕現した付喪神だ。自在に動く現身を得る代わりに、審神者並びに時の政府の求めに従い、過去を巡って時間遡行軍を討伐するのが役目だった。
 彼らは常に、戦うことを求められた。
 いや、それだけではない。遠征任務の内容は戦闘に限らず、炊き出しといった支援や調査と、多岐に亘った。
 本丸にいる間もぐうたら過ごすわけではなく、食事の用意や掃除、洗濯とやることは幅広い。畑仕事や馬当番もあり、休んでいる暇がなかった。
 この本丸では、自分で出来ることは自分でやる、というのが基本だ。
 誰かに依存し、委ねていたら、あっという間に周りから置いて行かれてしまう。
 それは大典太光世にとって、良い事とは言えなかった。
 だから彼の世話を焼き、彼がなにかをする前にその段取りを整えてしまうのは、本来は宜しくない。やるべきことを横から奪い続けていたら、後に残るのは自発的に行動出来ない木偶の坊だ。
「前田」
「すみません。忘れてください」
 随分と傲慢で、勝手なことを言った。
 直前の発言を悔いて呻いた少年に、大典太光世は一瞬の間を置いて、短く息を吐いた。
 眉間に寄った皺を解いて口元を緩め、珍しく本音を吐いた短刀の頭を抱き寄せた。
「構わない」
「大典太さん」
「遠征先で、嫌というほど働かされている。ここに居る間くらい、甘えさせてくれ」
 情報を得る為には、相手の心を開かなければならない。だが此処にいる太刀は、そういうのが苦手だ。
 図体は大きいのに声は小さく、見た目の割に小心者で、自身を卑下しがち。危害を加えるつもりなど毛頭ないのに、近付いただけで怯えられて、その度に傷ついて来た。
 武器を手に戦うだけなら楽でいいが、遠征任務はそうはいかない。毎回苦労し通しで、必要以上に疲弊させられた。
 本丸は刀剣男士の帰る場所であり、争いを一時的に忘れられる空間だ。
 その中でも特に心を許した相手に依存するのは、最高の喜びであり、疲れを癒やす最上の手段だった。
 微かに湿った黒髪で首筋を擽られ、前田藤四郎は身じろいだ。肩を抱く大きな手に視線を落として、そこに掌を重ねた。
「本当は、……寂しかったです」
 出陣もなく、ずっと本丸で過ごしていた短刀にとって、大典太光世が居ない夜はたったひと晩だけ。
 しかし心に吹く隙間風を止められなかった。ぽっかり穴が開いたような気がして、なんとか埋める方法を模索し、足掻いた。
「そうか」
 手の甲に軽く爪を立てられて、太刀はささやかな痛みに目尻を下げた。傷をつけられたのに嬉しそうな顔をして、甘い匂いを放つ短刀の髪を鼻先で押し退けた。
 朱色に染まった耳朶を発掘し、柔らかな皮膚に唇を寄せた。付け根に向かって吐息を吹きかけ、華奢な体躯がビクッと震えた隙を見計らい、唇で甘く食んだ。
「っ、ん……」
 膝の上で跳ねた前田藤四郎の腰を右腕で抱きかかえ、左手はその先へ伸ばした。短い洋袴の裾から覗く柔い腿を掌で覆い、赤みが強く出ている膝小僧の裏を擽った。
「前田」
 前屈みになって逃げた耳朶を追いかけ、熱い息と共に囁く。
 伸ばした舌で固い耳殻をちろりと舐めれば、悪戯な左腕に爪を立てられた。
 痣になりそうな力加減だが、爪自体は短い。そこまで深く食い込むことはなく、諦めて離れていった。
「いいか」
 悪足掻きの抵抗が弱まるのを待って、訊ねる。
 前田藤四郎は肩を数回上下させると、深呼吸を挟み、束縛する腕の中で身体を半回転させた。
「前田?」
 腰を大きく捻り、身体に無理を強いた。キッと気丈な眼で睨みつけて、直後に太刀の胸に手を伸ばした。
 乱暴に揉み洗いを繰り返した結果、若干伸びて草臥れてしまっている布を捕まえ、握り締めて。
「寂しかったと、申し上げました!」
「!」
 空気を読むのが下手な男を面と向かって罵倒して、背筋を伸ばし、直前で目を閉じた。
 強引に唇に唇を押し付けて、三秒としないうちに離れた。身長差の所為で姿勢の維持が叶わず、小柄な少年はみるみるうちに小さくなった。
 癇癪を爆発させ、行動に出たまでは良かった。
 しかし慣れないことをした結果、遅れてやって来た羞恥に支配され、顔を上げることさえ出来なくなった。
 大典太光世も突然のことに呆気にとられ、凍り付いて動けなかった。
 茹で小豆よりも鮮やかな赤い肌を下に見て、何度も瞬きを繰り返した。言葉もなく口を開閉させて、かなりの時間が過ぎてからハッ、と背筋を正した。
 行き場をなくした両手は空中で蠢き、怪しい踊りを披露した。掴む物を欲して空中を彷徨った末に力尽き、丸くなっている短刀の背に落ちた。
「……すまなかった」
 任務で止むを得なかったとはいえ、ひとりにさせたこと。
 汲んでやれず、言わせてしまったこと。
 まとめてひと言で謝罪して、鈍感ぶりも天下一品の太刀は細い背骨をゆっくり撫でた。
 上から下へ、下から上へ。
 赤子をあやす仕草で宥めて、残る手で膝に陣取る尻を掴んだ。
「穴埋めを、させてくれ」
 軽すぎて心配になる肢体を抱き上げる際、前田藤四郎はなにも言わなかった。驚きもせず、抵抗の気配すらなかった。
 彼が低い囁きに小さく頷いたのに、太刀は気付かなかった。濡れた手拭いをその場に残して、大男は綺麗に敷かれた布団を蹴り飛ばした。

 気が付けば日は暮れて、月が出ていた。
 中庭に建つ灯篭に火が入り、その光が辛うじて室内を照らしていた。
「夕餉、終わってしまいましたね」
「そのようだ」
 昼間は静かだった誰かの部屋が騒がしくなり、逆に賑やかだった部屋が静かになった。五月蠅かった複数の足音は遠ざかり、今は寝支度に忙しい気配が伝わって来た。
 あの騒々しさは、仲間が夕餉の席に向かう時のものだった。
 それがひと段落した、という事実を受け止めて、大典太光世は腹を撫でた。
「なにかお作りしましょうか」
「いや。問題ない」
 隣で横になった短刀が、動きを察して囁いた。それに首を振って答えて、彼は枕にしていた右腕を外した。
 寒さに耐えきれず、途中から布団を被った。互いの熱で事足りたのは最初だけで、最後の方はひたすら抱きしめ合っていた。
 離れていた時間を埋めるかのように。
 その間に出来た穴を、互いの身体で塞ぐかのように。
 微睡み、少しだけ眠った。目覚めた時、すぐそこに愛しい存在がある喜びを、改めて噛み締めた。
「よろしいのですか?」
 やや強引に前田藤四郎を引き寄せれば、驚いた風に訊かれた。吐息が交差する近さから覗きこまれて、大典太光世はその美しい艶に相好を崩した。
「久しぶりだったから、無理をさせた。お前は休んでいろ」
「そのようなことは」
「たまには、俺に甘やかされていろ」
「……はい」
 顕現した直後は出来ることが少なかった太刀も、周囲にみっちり鍛えられ、料理もある程度まで上達した。
 凝ったものは作れないが、粥は得意だ。大きさが不ぞろいな青菜と、卵が入ったものを思い浮かべて、前田藤四郎は照れ臭そうに頬を緩めた。
 言葉通り甘えて、分厚い胸板に顔を埋めた。ドクドクと音を刻む左胸にそっとくちづけて、そのすぐ横に自分が作ったと分かるひっかき傷を見つけて、耳の先まで赤くなった。
「どうした?」
 急にしがみついて来た少年に目を丸くし、大典太光世が身体を起こす。
 薄い掛け布団を押し退けた男に、彼はふるふる首を振った。
 本丸で数ある短刀の中で、前田藤四郎は小さい部類に入る。最小ではないものの、恵まれた体格とは言い難かった。
 一方の大典太光世は、太刀としても大柄な方だ。猫背なのであまり目立たないが、背が高い。蔵に長期間引き籠もっていた割には骨太で、筋肉に厚みがあった。
 だから短刀の腕は、太刀の背に回り切らない。辛うじて指先が衝突するくらいで、ぎゅっと抱きしめるには足りなかった。
「昨日は、平野と一緒に寝たんです」
 胸に突っ伏す少年の髪を撫で、太刀は布団に座った。
 前田藤四郎も彼の腿に座り直して、羨ましいくらいに逞しい胸筋に凭れかかった。
「そうか」
 数多い藤四郎兄弟の中で、平野藤四郎は特に前田藤四郎と仲が良かった。
 大典太光世も、加賀前田家で一緒だったことがある。外見が非常に似通っており、慣れないと見分けがつかないと周囲は言うが、生憎とこの太刀は間違えたことがなかった。
 生真面目で、いつも背筋がピンと伸びている。あんなに気を張り詰めていては疲れないかと心配になるが、近頃心許せる相手が出来たらしく、その男の前では子供の顔で笑っていた。
「そうしたら、今朝。僕の手が、なにかを探しているようだった、と」
「探す?」
「平野に抱きついている時に、手が、泳いでいたそうです」
 言いながら、前田藤四郎は両手をブラブラさせた。手首から先の力を抜いて、照れ笑いを浮かべ、鼻を啜った。
 笑っているのに、泣いているような顔だった。
 言い終えてから手を背に隠した少年をじっと見て、大典太光世は情景を思い浮かべた。
 彼が兄弟刀と寝床を共にすることに、なんら不満はない。それでいいと思っている。間違っても嫉妬めいた感情を抱くことはなかった。
 どうしてそんなことを説明されたのか、その理由を考えて、脆弱な脇腹をするりと撫でた。
「んっ」
 くすぐったかったらしく、短刀が鼻にかかった息を吐いた。触れた皮膚の奥では、筋肉が収縮したのが感じられた。
 握れば簡単に折れそうな腰は細く、太刀が指を広げて囲えば、半分近くが覆えてしまえた。片腕で抱き上げるのも容易で、両腕を使えば束縛の堅牢さは二倍になった。
 なんと小さくて、なんと愛おしいのだろう。
「探させてしまったか」
「いつの間にか、……馴染んでしまっていたみたいです」
 短刀と太刀の腰回りはまるで違う。
 大典太光世に抱きつき慣れていた少年は、自身と同程度の体格を代わりにした時、無意識に差を埋めようとしていた。
 妙な動きをしていたと、起床してしばらくした後に教えられた。
 原因も一緒に指摘された時は恥ずかしくてならず、余計なことを言わないでくれ、と兄弟刀を責めた。
 今思えば、不条理なことを言った。後で謝ろうと決めて、前田藤四郎は目を閉じた。
 力を抜いて寄り掛かって来た少年の肩を抱き、大典太光世もまた、すっかり身体が覚えてしまった大きさ、熱、柔らかさに下唇を噛んだ。
「そういえば、前田。あれは?」
「はい?」
「お前のものじゃないのか」
「ああ……」
 手放し難い温もりに顔を伏し、脳裏を過ぎった記憶にそっと息を吐いた。振り返り見た窓辺の文机には、帰還直後に見付けた奇妙な小物が、そのまま残されていた。
 仄明るい月の光に照らされて、輪郭だけが浮かび上がっていた。
 太刀が見ているものを把握して、前田藤四郎は身動ぎ、居住まいを正した。
「砂時計です」
「時計? あれが?」
「はい。三分間だけ、計れるそうです」
 太刀の膝から降りて畏まった後、裸のまま文机へ歩み寄った。最初は四つん這いで、途中から膝立ちになり、戻ってきた時は二本足で立っていた。
 夜も更けて、気温は下がっている。肌寒さにぶるりと震えた彼は、急いで布団に潜り込み、取って来たものを遠い光に晒した。
 硝子の表面が淡く橙色を帯びて、昼間よりも砂の色が濃くなって見えた。
「三分」
 時計なら、本丸にもある。大座敷の壁時計は螺子巻き式で、毎朝短刀が、交代制で発条を回していた。
 刀剣男士のうち何振りかは、携帯に便利な大きさの懐中時計を所持していた。遠征任務で持たされることもある。万屋で売っているが、かなり値が張る品だった。
 細かな部品を組み合わせた機械式のものに比べれば、砂が入っているだけの容器は随分原始的だ。
 本当に時計なのかと疑っていたら、くすっと笑った少年が、平らな場所にそれを置いた。
 軽く揺らして砂を均し、かと思えばえいや、とひっくり返した。
「こうやって、砂が落ち切るまでの時間が、三分なんだそうです」
 説明を受けた時は、前田藤四郎も信じられなかった。しかし壁時計の前で計ってみたら、本当にぴたりと三分だった。
 精巧な造りの懐中時計に比べたら、十分の一以下の金額だった。それくらいなら、と手を伸ばして、気が付けば砂が落ちていく様を眺める癖がついた。
 ひとりきり、広々とした部屋で。
 砂が落ち切るまでの僅かな時間を、机に寄り掛かりながら静かに待ち続けた。
 たかが三分。されど三分。
 落ち切った後はひっくり返して、ひたすらその繰り返し。
 あと何十回、何百回すれば、あのひとは帰ってくるだろう。
「我ながら女々しいと思うのですが」
「前田」
「砂のひと粒分の時間だけでも、早くお帰りにならないかと。そんなことばかり考えてしまって」
 自分でも虚しい行為だと分かっている。自嘲気味に言って、前田藤四郎はサラサラと流れていく砂時計を小突いた。
 大典太光世の顔は見ない。影になって、太刀の目には短刀の表情が映らなかった。
 寂しかったと、前田藤四郎は言った。初めて言われたかもしれないと気が付いて、大典太光世は布団の下で膝を曲げた。
 緩く角度をつけ、その上に手を置いた。しばらく遠くを眺めて、横で砂時計がひっくり返されるのを待って、息を吐きながら天を仰いだ。
「主に、頼んでみるか」
「え?」
「近いうちに、また同じ時代へ向かう」
「ああ。次はもっと、長引くかもしれないという話ですね」
「なんだ。知っていたのか」
「は、い」
 彼にしてみれば大層な計画を口にしたつもりだったが、前田藤四郎は際立った反応を見せなかった。驚く様子もなく返事して、砂時計を胸に抱き寄せた。
 右肩を下にして寝転がり、太刀の太腿を枕にした。赤子のように丸くなって、突き刺さる視線に苦笑した。
「ひらのが、言ってました」
 大典太光世が率いる部隊には、鶯丸がいた。長丁場になりそうな任務の内容は、彼から平野藤四郎を経て、前田藤四郎に伝わっていた。
 しどけない表情に眉を顰め、天下五剣のひと振りがその頬を撫でた。
 長く太い、節くれだった指で輪郭をなぞられて、短刀は静かに頭を振った。口を噤み、目を眇め、心地よい温もりを忘れないよう、胸に刻みつけた。
 我が儘を封印し、理性的であるようにと戒めた。
 贅沢な願いは身を滅ぼす。欲を出せば、必ず報いが訪れる。
 寂しさは、次に会えた時の楽しみに置き換える。もやもやと膨らむ不安は、信頼という盾で食い止める。
 気丈に振る舞おうとする短刀を憐れみ、愛おしんで、大典太光世は足りなかった言葉を補った。
「一緒に行くか」
「どこにですか?」
 強い決意の下で紡いだ勧誘は、空回りして、横滑りした。
 きょとんとしながら聞き返されて、太刀は自身の口下手具合を大いに反省した。
「……遠征任務」
「御冗談を」
 ぼそっと付け足せば、呵々と笑われた。
 本気で言っているのに、伝わらなかった。真面目に受け止めようとしない短刀にムッとして、男は珍しく早口になり、微妙に噛み合わない会話に小鼻を膨らませた。
「今回、思い知った。俺はどうやら、立っているだけで怯えられてしまうらしい」
「大典太さんは、大きいですからね」
 どう言えば分かって貰えるのか、足りない頭で懸命に考えた。
「俺は、情報収集に向いていない」
「そのようなこと、ありません」
「お前の方が、余程」
「主君が御認めになりませんよ」
「決めつけるには早いだろう!」
「うわっ」
 しかしあれこれ悩むのは、性に合わなかった。
 やり取りの最中に我慢ならなくなって、吼えた。前田藤四郎の右手を取ってぐいっ、と強引に釣り上げて、力技で正面から向き合わせた。
 砂粒をいっぱいに詰めた時計が短刀の手から落ちて、掛け布団の海に沈んだ。横倒しになった硝子の器の中で、視覚化された時は静かに停止した。
 見た目の割に物静かな男が、外見通りの荒々しさを発揮した。
 地平線に沈む夕焼けよりも鮮烈な赤を間近に見て、射抜かれた少年は大袈裟に息を呑んだ。
「大典太さん」
「まだやってもないことを、簡単にあきらめるな」
「ですが!」
 牙を覗かせ、男が叫ぶ。
 凄まじい気迫に圧倒されかけて、前田藤四郎は負けじと声を荒らげた。
 感情が高ぶり、涙が出そうだった。鼻の奥がつんとして、言葉を続けられなくなった彼を見詰めて、大典太光世はゆっくり目を閉じた。
「寂しかったのは、俺の方だ」
「――え」
 握りしめていた細い手首を解放し、赤くなっている場所をなぞった。優しく抱きしめて、その胸元に額を埋めた。
 右回りの旋毛を下に見て、前田藤四郎が絶句する。
 言葉を失った少年は十数秒の間を置いて、嗚呼、と深く息を吐いた。
 胸の奥底から湧き起こる、この暖かな感情はなんだろう。きっと素敵な名前が付けられているに違いなくて、彼は腕を伸ばし、男の頭を抱き返した。
「ええ、はい。明日、一緒に」
 黒髪に頬を寄せ、囁く。
 束縛が僅かに緩み、隙間から太刀が瞳を覗かせた。探る眼に頷けば、肩を抱く手に力が籠もった。
「ん……」
 縋り付く体勢から伸び上がり、直前で目を瞑った。軽く重ねるだけのくちづけに、身体の内側から熱が迸った。
 長い舌が顎を舐めた。
 悪戯な唇を叱って軽く噛みついて、前田藤四郎は潤む眼を瞼で隠した。

あひ見ずは恋しきこともなからまし 音にぞ人を聞くべかりける
古今和歌集 恋四 678

2017/12/10 脱稿