影に添ひつゝ 立も離れじ

 すい、と影が動いた。
 足を動かせば、その通りについてくる。一度本体から分離したそれは、爪先が床板に接すると同時に無事合流を果たした。
 光があれば、どこかで影が生まれる。切っても切れない関係だ。どちらかが失われたとしたら、それはもう、この世にはない、ということだ。
 ならば自分たちは、まだ世界に必要とされている。
 己の存在意義をそうやって定義して、歌仙兼定は視線を上げた。
「お小夜?」
 遠くに小さな人影があった。本丸でも際立って小さく、華奢な体躯をそこに見出して、彼は怪訝に眉を顰めた。
 自室に帰る道中で、短刀に遭遇するのは珍しい。それもそのはずで、この本丸に集う刀剣男士は、刀種別で私室が割り振られていた。
 短刀は短刀ばかり、脇差は脇差ばかりの区画で生活している。打刀もそうだ。
 もっとも何事にも例外というものはある。部屋の数が足りなくなり、増築する敷地もないということで、ある時を境に二階部分が建て増しされた。以後顕現した刀は、刀種に関係がなくそちらに放り込まれていた。
 ただ小夜左文字は、早い時期から本丸に降臨している。歌仙兼定などは、最初に顕現した刀だ。
 例外には当てはまらない少年を、打刀が見つけた。
 この偶然に小首を傾げていた男は、ふとあることを思い出し、合点がいったと頷いた。
 彼が目指す自室は、短刀が佇む場所より奥にある。
 手前の部屋で暮らしているのが誰かを想像して、歌仙兼定は小さく肩を竦めた。
「宗三左文字の部屋、か」
 口の中で呟き、緩く首を振った。わざと足音が目立つように歩みを再開すれば、半開きの襖を前にしていた少年が、ビクッと大袈裟に反応した。
 高く結った髪をぶわっと膨らませ、ひと呼吸置いてからこちらを向いた。
 緊張と警戒で尖っていた眼差しは、一秒後にはホッとしたものに切り替わった。
「こんなところで、なにをしているんだい?」
 強張っていた肩を落とし、安堵の息を吐いた少年に問いかける。
 回答は分かり切っている。だのに敢えて質問して来た打刀に苦笑して、短刀の付喪神は無人の部屋に視線を戻した。
 襖は、彼が開けたのだろう。そして敷居を跨ぐことも出来ず、立ち尽くしていた。
 入室の許可が得られないのだから、迂闊に立ち入るのは許されないとでも考えているのか。兄弟刀なのだから遠慮しなくても良いはずなのに、その辺りが妙に義理堅く、他人行儀だった。
 室内は灯りなどなく、薄暗かった。障子越しに差し込む光も僅かで、床に落ちる影は曖昧だった。
「なにを、というわけでも、ないんですが」
 小夜左文字と同じものを眺めていたら、下から声がした。急ぎ焦点を手前に合わせ直して、歌仙兼定は首肯した。
 襖に左手を預け、短刀が目を細めた。微かに漂う香の匂いを嗅いで、呼びかけても返事がない部屋をじっと見つめた。
 小奇麗に片付けられた部屋の主は、昨日、修行へと旅立った。審神者に暇を請うて許され、僅かな荷物を手に、屋敷を出ていった。
 これまでの例に従えば、宗三左文字の帰りは明後日。だが気まぐれな籠の鳥がきちんと戻ってくるかどうか、誰にも分からなかった。
 出発は、酷く素っ気ないものだった。
 見送りは不要と言って、兄弟刀さえ拒み、一度も振り返らなかったという。
 先を越されたへし切長谷部が、随分と悔しがっていた。日本号を誘って珍しく酒を飲んでいた男を思い浮かべて、歌仙兼定は佇む少年の肩を叩いた。
「帰ってくるよ」
 宗三左文字とはあまり交友がなく、彼の真意がどこにあるかは分からない。
 だからこんな発言は無責任だと分かっているが、言わずにはいられなかった。
「知ってます」
 兄刀が本丸を離れ、便りはまだ来ない。
 不安に駆られて留守の部屋を訪ねて来たと予想していた打刀は、思いの外しっかりした受け答えに目を瞬いた。
「お小夜」
「兄様は、帰ってきます。必ず」
 驚いていたら、小夜左文字が振り返った。斜め下から真っ直ぐ空色の瞳を射抜き、一度も揺らがなかった。
 力強い宣言に、迷いや不安は感じられない。確信を抱き、信じているのが伝わって来た。
 左文字の兄弟は太刀を筆頭に、打刀、短刀の組み合わせだ。いずれもあまり恵まれた境遇を経ておらず、世の不幸を集めて注ぎ込んだ末に完成した、と揶揄出来そうな経歴だった。
 末の短刀は復讐に餓え、中の打刀は元主の名が刻まれたが故に権力者に囲われた。上の太刀は元主の奮闘も虚しく、争いが止まない歴史を間近で見続けた。
 世を憂い、世を儚み、世を憎み続けてきたのが彼らだ。
 そんなだから、宗三左文字は戻らないのでは、という懸念が本丸内にはあった。
 ところが弟刀は、微塵も心配している様子がない。当てが外れた格好で、歌仙兼定は二の句が継げなかった。
「そう、なんだ?」
 辛うじてそれだけを声に出したが、若干裏返っており、間抜けとしか言いようがない。
 唖然としている打刀の反応は、短刀には想定外だったようだ。
 ほんの数秒きょとんとした彼は、じきに頬を緩め、改めて頷いた。
「帰ってきます、兄様は」
 無人の部屋に視線を戻し、繰り返す。
 両手を背に回して指を絡ませ、彼はその場で二度、三度と背伸びした。
 縦に身体を揺らした後は、横にゆらゆらさせた。一定の間隔で往復させて、最後は歌仙兼定にトン、と寄り掛かった。
「おっと」
 不意打ちだったので、受け止め損ねるところだった。
 予期せぬところから凭れかかられて、打刀は慌てて両手を伸ばした。
 華奢な肩を左右から抱いて、緩い力で固定した。小夜左文字は体重の半分を男に預け、僅かに低くなった視界で動くもののない空間を眺めた。
 出発前に掃除をしたのだろう、中は綺麗に片付いていた。
 物は多いが、きちんと整えられているので、不快感はまるでない。表に出る調度品はあまり華美ではなく、かといって質素過ぎるわけでもなかった。
 枯れてしまうのを嫌い、花瓶に花は活けられていなかった。衣紋掛けは空で、木製の枠が寒そうに主の帰りを待っていた。
 残り香はするのに、姿は見つからない。
 部屋の中のそこかしこに、宗三左文字の気配が染み付いていた。
 彼が当たり前のように本丸にいるうちは、気付きもしなかった。
 振り向けばそこに居る気がして、歌仙兼定は思わず息を呑んだ。有り得ないと分かっていても、左右を確認したくなった。
 首を振り、目を泳がせる。
 真上で打刀がなにをしているのか知って、小夜左文字はクツリと笑った。
「兄様も、僕も。ここしか、ありませんから」
「お小夜?」
「本当は、僕は、山賊のところに行きたいと思ってたんです」
 挙動不審な男を嘲ったのではなかったらしい。過分に自虐を含む言葉を吐かれて、歌仙兼定は目を剥いた。
 それは初耳だった。思いがけない告白に騒然となって、彼は咄嗟に、再度左右を見回した。
 他に聞く者がないのを確認して、唇を舐めた。息を顰め、頭頂部しか見えない短刀に焦れて、膝を折って屈もうとした。
 それを短刀が、未然に防いだ。男に寄り掛かったまま、両の腕を背後に回し、袴の上から太い腿を押さえこんだ。
 腕の長さが若干足りず、完全な輪にはならなかった。ただ打刀を躊躇させるのには十分で、束縛された男は無理強いも出来ず、右往左往して、最終的には諦めた。
 一旦離した手を小夜左文字の肩に戻し、そこから胸元へと滑らせた。しゃがむのを止めて、背後から抱きしめる道を選択し、静かな室内に目を凝らした。
 彼らの前方にあるのは、宗三左文字の部屋だ。
 けれど復讐に囚われた少年は、行こうと望んで許されなかった、全く別の場所を見ていた。
「それは、……復讐のためかい」
「はい」
 彼が修行先としてどこに出向いたか、歌仙兼定は当然知っている。戦国大名細川家の祖を築いた、細川藤孝の元だ。
 そこで彼は隠居していた男の話し相手となった。僧形の小坊主に、警戒心などなかったらしい。色々な話をしてくれたと、本丸に帰還した少年は語っていた。
 その話の中には、当然『小夜左文字』と名付けられた短刀の逸話も含まれていた。
 現地で付喪神がどのような感想を抱いたか、それは語られていないので分からない。推測するよりほかにないが、想像するのは難しかった。
 故に思索を放棄した打刀は、迷わず頷いた少年の頭に顎を置いた。猫背になり、小柄な体躯を包み込めば、肩が辛くなったらしい短刀が腕を解いた。
 お蔭で膝の曲げ伸ばしが楽になった。歌仙兼定は中腰になり、右手を伸ばして襖の引き手に指を掛けた。
「君が復讐を遂げていたら、歴史改変になっていただろうね」
「はい」
 音も立てずに戸を閉めて、姿勢を正す。後頭部をぽん、と叩かれた少年は俯き、僅かに遅れて頭を撫でた。
 結った髪を押し潰し、毛先を掻き回した。根本を縛る赤い紐をぴん、と弾いて、歩き出した男を慌てて追いかけた。
 小走りに距離を詰め、横には並ばず、半歩下がったところをついてくる。
 外套を翻して振り返った歌仙兼定は、目が合う瞬間サッと逸らした少年に首を傾げた。
「なにも持ってないよ」
「食べ物を強請るつもりは、ないです」
 思ったことを率直に口にすれば、拗ねられた。菓子があると期待したのではない、と向きになって反論した短刀の顔は、いつにも増して子供じみていた。
 彼の方が年上である事実を、うっかり忘れてしまいそうだ。
「そう? どうぞ」
 喉の奥で笑いを堪えて、打刀は辿り着いた自室の襖を開いた。
 先に入るよう促し、小夜左文字が躊躇なく敷居を跨ぐのを待って、自らも中に入った。出入り口を閉め、外套を外している間に、勝手知ったる少年は文机の下から座布団を引っ張り出した。
 一枚しかないそれを部屋の真ん中に移動させて、次に窓の障子を開けた。中庭に面する縁側に道を作って、光と空気を通した。
「寒いよ」
「平気です」
 外套を脱いだのを、早々に後悔した。羽織っておけばよかったと嘆息して、歌仙兼定は素足で畳の縁を跨いだ。
 用意された座布団に腰を下ろせば、待っていたとばかりに短刀が駆け戻ってきた。体当たりする勢いでぴょん、と飛び跳ねて、空中でくるりと半回転し、そのまま打刀の膝に潜り込んだ。
 慣れた動きで座られて、衝撃が骨に響く。
「そりゃ、お小夜は温かいけれど」
「博多藤四郎だったら、小判三枚ですね」
「高いな……」
 手加減なしの動く懐炉を膝に抱いて、歌仙兼定は天を仰いだ。
 赤眼鏡をかけた粟田口の少年は、武人というより、商人気質の持ち主だ。金に目がなく、日々なにかしら稼ぐ手段を考えている。
 その執念を、たまには違うところにぶつけてみてはどうか。と、そんなことを言えば、お前だって風流を探すより先にやることがある、説教が飛んできそうだ。
 なにかと手厳しい年嵩の短刀をぎゅっと抱きしめて、髪の分け目に顎を置いた。背中を丸めて寄り掛かって来た打刀の膝で、小夜左文字は脚を伸ばして座りを安定させた。
 胸元に回った腕はきつくもなく、緩くもない。無意識に力加減が出来るくらい馴染んだ体勢に、少年はくく、と喉を鳴らした。
「さっきの話だけど」
「はい?」
「君が山賊のところに行かなくて良かったと、心から思うよ」
 調子よく寛いで、機嫌が良さそうだ。
 だからというわけではないが、一度は終わった話を引っ張り出した打刀に、短刀は一瞬、四肢を強張らせた。
 健をピンと伸ばし、停止した。直後に弛緩して、首を右に傾がせ、預かっていた男の顎を落とした。
「ぐ」
 ガクン、と上半身を深く沈め、歌仙兼定が呻く。
 思わぬしっぺ返しを食らって、彼は渋々猫背を改めた。
「君を斬らずに済んだわけだし」
「だから僕は、今でも復讐を諦めきれないでいます」
「君から復讐を取ったら、なにが残るんだろうね」
「左文字の短刀、です」
「それは、お小夜。君かい?」
 短刀の胴に回していた腕も解き、座布団の後方に置いた。膝に重石を乗せたまま、ぐうっと仰け反って、距離を作り、右目だけを眇めた。
 これまで間髪入れずに返事があったのに、最後の一問だけは無言だった。
 随分と意地悪な問いかけをしたものだと、自分でも後悔した。丁々発止のやり取りの末に、つい口が滑ったようなものだった。
 しかし歴史修正主義者ではない彼は、己の発言を取り返せない。撤回したところで、完全になかったことには出来なかった。
 しばらくの間、沈黙が流れた。小夜左文字が開けた障子から初冬の冷たい風が紛れ込んで、末端から熱を奪っていった。
 指先が悴み、感覚が遠い。血の巡りが悪くなっているのを自覚して、歌仙兼定は嘆息の末、腹に力を込めた。後ろに傾いだ上半身を真っ直ぐにして、つっかえ棒にしていた腕を取り戻した。
 襟足をがりがり爪で掻いて、丸くなっている短刀の頭をぽんぽん、と撫でた。
「宗三兄様も、同じです」
「……うん?」
「主に依存している」
 それが引き金になったのだろう、小夜左文字がぽつりと言った。髪を梳く手を振り払って、下を向いて動かなくなった。
 巨大な団子虫と化した少年を見詰めて、歌仙兼定は眉を顰めた。四方に瞳を泳がせて、告げられた台詞を精査した。
「依存?」
 審神者は、この本丸の主だ。器物に宿る思念を増大させ、具現化する能力を秘めている。刀剣男士とは、それを現身に宿らせたものだ。
 招聘された付喪神の使命は、歴史修正主義者の目論見を挫くこと。時間遡行軍を討伐し、捻じ曲げられた歴史を修正し、正しい流れを維持することこそが、彼らの目的だった。
 審神者がいなければ、刀剣男士は顕現しない。
 あの者に依存しているのは、本丸のどの刀も同じだ。
 だから小夜左文字が言っているのは、そういう意味合いではない。もっと別の、行動原理としての部分だ。
「僕は復讐を果たせなかった。復讐したい相手もいない。でも、復讐を求めてしまう」
 研ぎ師の男は、その手で山賊を殺害した。仇を討った。目的はそこで遂げられている。だが小夜左文字には、この男の積年に渡る恨みや、願いが染み付いていた。
 決して取り除くことが出来ないこの衝動を、彼はずっと胸に抱えて歩んできた。どこかに仇はいないか、復讐すべき存在がないかと、血眼になって探し続けていた。
「だから僕は、主の敵に復讐すると決めた。主が歴史を守ると言うなら、歴史を歪めようとする奴らに、僕は復讐できる」
 彼は戦う大義名分を、主に委ねた。復讐相手が見つからないのであれば、新しく作れば良いと、その相手の選択を審神者に任せた。
 それが彼の言う、依存だ。
 では宗三左文字は、どうなのか。
「兄様は、ここでなきゃ戦わせてもらえないから」
 まるで心を読み取ったかのように、小夜左文字が言葉を紡いだ。俯いているのに飽きたのか、顔を上げ、身体を左右に揺らした。
 爪先を交互に上げては下ろし、常にどこかしら動かして、じっとしない。
「兄様は、憐れまれたくないんだと思う。刀として戦わせてもらえないで、ずっと部屋に飾られているのが、屈辱だったから。可哀想に思われたくないけど、そう思われても仕方がないってどこかで諦めてて。でも主は、兄様を戦場に連れていった」
 まとまりを欠いた台詞は、考えながら発言しているからだろう。手探りで次兄の心理を紐解こうとして、それが上手く言葉に出来ずにいた。
 なんとかしっくりくる単語を探して、短刀の手が空を掻いた。
 その小さな手を捕まえて、力任せに抱きしめた。
「かせん」
「いい。分かった」
 今川義元を討ちとった織田信長に奪われた刀は、磨り上げられた挙げ句、戦勝品の証しである金象嵌が入れられた。
 本来の形を失い、主を失った刀は、左文字兄弟の中では異質だ。雰囲気が似る残りふた振りとは大きく異なり、本当に兄弟かと疑いの目を向けられることさえあった。
 逃げることが出来ないまま炎に巻かれ、刀としての有用性を失った。再刃されはしたものの、見た目の美しさとは裏腹に、彼は戦えない刀と化した。
 周囲から憐れまれるのを拒みながら、彼自身が己を憐れんでいる。
 自らを籠の鳥と嘲っていた彼を、審神者は容赦なく戦場へ叩き出した。
 だから彼は、修行を終えて帰ってくるのだと、小夜左文字が言う。
 他に行き場がない。他に武器としての彼を求めてくれる存在がない。
 飾られて、愛でられるだけの存在から脱却したければ、彼はここに戻るしかない。
 主を守りたいから、という思考からはかけ離れた理由だ。自己の存在理由を他者に求め、自己を守るために他者を利用しているのだから、あまり褒められたものではない。
 審神者に心酔している刀が聞けば、怒ることもあるだろう。
 滅多に口にすべきではないと釘を刺して、歌仙兼定は短刀を黙らせた。
 右手で小さな口を覆い、塞いだ。鼻の孔は残しておいたので、窒息とはならなかった。
 多少の息苦しさを堪え、小夜左文字がふっと遠くを見た。
「歌仙は」
 太い指の隙間から息を吐き、退かせた。微熱を含んだ指先を捕まえて、少年は肩越しに振り返った。
「帰ってきますか」
 戸惑い気味に揺れる眼が、打刀を大きく映し出す。
 問われた意味がよく分からなくて、歌仙兼定は一瞬ぽかんとなった。
「うん?」
 どこから、という一番大事な部分が欠落した質問だった。勿論これまでの話の流れから、修行のふた文字が当てはまるのは楽に想像がついたが、この時何故か、両者を結びつけられなかった。
 小首を傾げ、疑問符を頭上に生やして数秒。
 小夜左文字の表情が険しくなるのを見守って、彼はようやく、嗚呼、と顎を上下させた。
「そりゃあ……」
 彼はまだ、修行に出る許しを得ていない。
 けれどすでに、もう一振りの兼定がかつての主と対面を果たしていた。共に時を過ごし、前の主の死に際を見送って、本丸に帰って来た。
 和泉守兼定は帰還時、晴れ晴れとした表情をしていた。憑き物が落ちたとでもいうのか、ずっと抱いていたわだかまりが消え失せた、という雰囲気だった。
 小夜左文字も、修行をひとつの区切りとした。かっての主のひとりと向き合って、号の由来を聞き、名前を受け入れる覚悟を決めた。
 復讐の逸話に、この名前はあまりにも風流が過ぎる。
 しかしこの名前なくして、小夜左文字は小夜左文字たり得ない。
「帰ってくるよ」
 瞳を宙に投げ、歌仙兼定はひと呼吸置いて答えた。
 仲間が次々旅立つ中で、最初に顕現した打刀は未だ留守役から脱せられない。後から来た刀たちに追い抜かれ、置き去りにされている気分は否めなかった。
 早く、と心が急いている。
 見透かされたようで、少し照れ臭かった。
 気恥ずかしげに微笑んだ彼に、けれど短刀の表情は険しかった。疑わしげな眼差しで、じろじろと探るように見つめて来た。
 ちくちく刺さる視線は、あまり快いものではない。
「お小夜?」
 疑念をぶつけられる理由が分からなくて困っていたら、小夜左文字が窄めた口から息を吐いた。
 ふー、と時間をかけて肺を空にした。続けて鼻から吸い込んで、凹んでいた頬を戻した。
「歌仙は、違いますから」
「ん?」
「歌仙は、僕だちとは違いますから」
 一気に告げて、訊き返されて、同じ言葉を繰り返す。
 ふいっと顔を背けた彼を追いかけて、打刀は前のめりになった。
 横から覗こうとすれば、小夜左文字はサッと避けた。反対側に首を向けて、目を合わせてくれなかった。
「……僕が、違う?」
「はい」
 それは意外なひと言だった。
 何が違うのか、具体的な例示はひとつもない。修業に際しての心構え云々かと想像したが、どうにもしっくり来なかった。
 短刀を覗き込むのを諦めて、自分自身を指差した。人差し指で鼻の頭を小突いて、突き立てたまま首を捻った。
 怪訝にしている男を、小夜左文字が盗み見る。
 完全には振り返らず、斜めを向いた状態で瞳だけを後ろにやって、彼は伸ばした膝を引き寄せた。
 踵で無防備な男の踝を踏んだ。骨が突き出ている部分をゴリッと虐めて、察しが悪いのを責めた。
「痛いよ」
「歌仙は、主は必要ないでしょう」
「んんん?」
 嫌がった男が、片膝を伸ばした。爪先を遠くへ退避させて、聞こえたひと言には眉を顰めた。
 意味が分からない、という顔をすれば、小夜左文字はふっ、と窄めた口から息を吐いた。嘲笑と言うべきか否かで迷う表情を浮かべて、痛めつける先がなくなった足を畳に擦りつけた。
 あのまま足を放置しておかなくて良かったと思い、その傍らで短刀の表情の真意に疑念を抱く。
 ふたつのことを同時に処理しようとして、歌仙兼定の眉間に益々皺が寄った。
 険しい顔つきで見下ろされ、小夜左文字は持ち上げていた口角を下ろした。引き結ぶでもなく、力を込めずに捨て置いて、一瞬の間を置いて打刀に寄り掛かった。
 ずるりと下がった体躯をそのままにして、両足を遠くに投げ出した。
「歌仙は、審神者に縋らず、自分で立っていられるから」
「それは、……ええと……」
 左右に踊る爪先を見たまま、少年が囁く。
 小刻みに揺れる小さな足指を眺めて、歌仙兼定は言葉を切った。
 言いかけたが、上手く整理出来なかった。掴もうとしたら、するっと指の隙間から逃げられた感覚だった。
 実際は動かしてもない自身の手に視線を移し、考える。
 刀剣男士が顕現し、現身に宿った状態で居続けるには審神者が必要だ。それは拭いようがない事実であり、それ故に刀剣男士は審神者から逃れられない。
 けれど小夜左文字が言いたいのは、そういった部分ではない。
「歌仙には、僕たちが気付きもしないものが見えてる。季節の変化なんか、戦うだけの武器には必要ないことなのに」
 風流を好み、雅を追及する刀は、どんな状況であっても敵以外のものに目を向けた。遠征先では本丸で見るのが叶わない景色を楽しみ、時間遡行軍に攻め込む瞬間でさえ、火花散る戦場の光景に目を輝かせた。
 小夜左文字は、敵しか見ない。他の刀剣男士の多くもそうだろう。
 彼は、ものの見方が違う。
 審神者の機嫌を窺い、これに尽くそうという意識が薄い。代わりに己の欲求に正直で、自身に理解を示さないものに対しては、審神者が相手でも容赦なかった。
 彼は審神者越しにものを見ない。
 誰もが優先順位の最上にあの人間を置く中で、歌仙兼定だけは自分の欲望に忠実だった。
「褒められている気がしないのは、どうしてだろう」
 淡々と紡がれる言葉に、男は目を泳がせた。当て所なく彷徨わせ、膝に抱く短刀の身体を引き上げた。
 斜めになっていたのを戻してやり、腹に腕を回し直した。自分から寄り掛かりに行って、猫背になり、藍色の髪に顎を埋めた。
「褒めてないからです」
「酷いなあ、お小夜は」
「歌仙は、修行に出たらきっと、帰って来ません」
「どうしてそう思うんだい」
 抑揚なく告げられた真実に、傷ついている暇もなかった。
 素早く話を本筋に戻した短刀は、僅かに身動ぎ、潰されるのを拒んで首に角度をつけた。
 渋々背筋を伸ばし、歌仙兼定は問うた。短刀を抱えたまま離さず、結い上げられた髪の根本だけを見詰め続けた。
 小夜左文字は振り向かなかった。まっすぐ前を、遠くを見据えて、厳かに口を開いた。
「歌仙には、この本丸は、狭すぎます」
 ここは言うなれば、審神者が作った箱庭だ。審神者が望むように形作られた、居心地のいい檻だった。
 戦う刀剣男士の為に用意された、安らぎの空間と言えば聞こえはいいが、そこに刀たちの意見は反映されない。全ては審神者の気まぐれで決まり、審神者の裁量が無ければ覆せなかった。
 だが刀剣男士の大半は、この環境におおむね満足していた。そもそも彼らは、人から創り出された身。自らなにかを産み出すという創造性に欠けた、木偶人形だった。
 その中で歌仙兼定は、常に筆を持ち歩き、心に留め置くべきものを書き記す習慣があった。
 和歌を詠み、後代に遺そうと足掻いていた。
 小夜左文字には真似できない芸当だ。
 彼にしか出来ないことだった。
「だからきっと、外に出たら――」
 それまで訥々と語り続けていた少年が、ここで言葉を詰まらせた。
 唇を戦慄かせ、音になるくらい大きく息を吸い、吐き出した。
 華奢な体躯がか細く震えていた。抱きしめているので、よく分かる。藤色の髪の男はスッと目を細め、耳の後ろ辺りに頬を擦りつけた。
 潰すのではなく、寄り添って、押し付けた。微熱を分け合い、吐息を浴びせ、立ち上る微かな体臭を吸いこんだ。
 急速に膨れ上がる感情を、どうやって押し留めれば良いのだろう。
 為す術が見当たらないと心の中で絶叫して、彼は狂おしいほどに愛しい少年を抱きしめた。
「帰ってくるさ」
 頬を寄せたのとは反対側の頭に手を添え、藍色の髪を梳きながら囁く。
 目を閉じて視界を闇に塗り替えても、小夜左文字の気配は色濃く感じられた。
「帰って来ません」
 頑なに主張する短刀をどう宥めようか悩み、果たして本当のところはどうなのかと想像する。
「お小夜には、僕がそう見えるのか」
 彼の瞳には『歌仙兼定』がそんな風に映っていたと、知れたのは幸運だった。
 小夜左文字はあまり本音を口にしない。復讐に餓えた獣と化しているけれど、それは複数ある彼の表情の、そのうちのひとつに過ぎなかった。
 芸術に傾倒し、茶や和歌に親しむ側面も持ち合わせている。山に対する知識を有し、そこに棲む動植物の扱いにも慣れていた。
 どれもこれも、小夜左文字の一部だ。
 そんな短刀の中に、歌仙兼定という像が存在していた。
 その事実を喜んで、打刀はぐい、と頭で押し返して来た少年に顔を綻ばせた。
「歌仙は勝手で、我が儘ですから」
 拗ねたような口調が続いて、噴き出しそうになった。喉を突き、外に飛び出しかけた息を寸前で閉じ込めて、彼は詫びる気持ちで短刀を撫でた。
「そんなに?」
「そんなに」
 戯れ口調で問えば、真剣に返された。
 それほど業突く張りで、身勝手なつもりはなかったのだが、小夜左文字にはそう思われていた。今後は極力気を付けることにして、打刀は瞳だけを上空に投げた。
 微風が頬から首筋を擽った。
 カア、と烏が鳴くのが聞こえた。郷愁を催す声に一瞬だけ思いを馳せて、男は短刀に巻き付けた腕を解いた。
「歌仙」
「お小夜の言っていることは、一理あるね」
 急に束縛がなくなって、不安でも覚えたのか。遠ざかる体温を追って、小夜左文字が腰を捻った。
 振り向いた少年に目配せして、顔の中心に陣取る鼻の頭をちょん、と小突く。すると短刀はムッとして、素早く腰を浮かせたかと思えば、身体を反転させた。
 背中を預けていた座椅子の上で、背凭れに向かって座り直した。歌仙兼定の左足を跨ぎ、膝から脛全部を使って左右から挟んだ。
 短刀の左膝が、股のすぐ先に迫った。
 上から圧迫するのも、横から突くのも楽に狙える位置取りに、打刀はひやりとしたものを背中に覚えた。
「でも、帰ってくるよ」
 真下から射るように睨まれて、あまり生きた心地がしない。
 思わず両手を肩の高さまで掲げて、歌仙兼定はきっぱり断言した。
 脅されたから、その場凌ぎを口にしたつもりはない。そういう安易で、半端な覚悟で告げられるものではなかった。
「そもそも、お小夜は勘違いしている。僕は確かに、美しい景色に心惹かれるし、もっと色々な世界を見たいとも思っている。けど」
 腕を下ろし、短刀の手を取った。掌を重ね、指先を軽く揉んで、小さいけれどちゃんと爪があり、関節があり、細かな皺や傷に覆われた肌を確かめた。
 触れれば温かかった。
 魂の無い木偶人形だとは、どうしても思えなかった。
「けど?」
「歌を詠んで、それを聴いてくれるひとがなければ、これほどつまらないものはないと知っている」
 深爪を弄られるのを嫌い、小夜左文字が拳を作った。深追いするのは止めて、歌仙兼定はぽこっと出張った指の根本を擽った。
 優しく包み込み、熱を閉じ込めた。
 左右集めてひとつにして、短刀の丹田に移動させた。
「かせん」
「僕の歌は、日記じゃないからね」
 誰の目にも触れないようでは、歌集を編む意味がない。
 歌い手がいて、読み手がいて、両者の間で感情が交錯しなければ、なんの価値も生まれてこない。
 旅先には、歌仙兼定が求める相手が居るだろう。己を見極め、強くなるために、乗り越えなければならない存在と出会うだろう。
 道中では四季折々の景色が拝めるはずだ。屋敷に引き籠もっていては一生目にする機会を得ない、記憶に焼き付くような光景を、いくつも目の当たりにすると期待している。
 それらを語らうのは、旅の果てに待っている人物だけではない。
「聴いてくれるかい?」
 今度は短刀の手を、高く引き上げた。祈るように頭を垂れて、歌仙兼定はそこに額の中心を据えた。
 目を瞑り、囁きは微かだった。
 聞き取れるか否か、ぎりぎりの境界線上だった声色を拾って、小夜左文字は息を吸うと同時に肩を跳ね上げた。
 少年が目を見張るところを、打刀は見そびれた。
 しかし雰囲気が伝わって来て、口元は自然と綻んだ。
「僕で、……いいのなら」
 やがて恐る恐る短刀が呟いた。
 息を殺し、様子を窺っているのを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。
「勿論だ」
 歌仙兼定は一度だけ頷いた。
 まっすぐ目を合わせながら告げた彼に、小夜左文字は頬を緩め、首を竦めた。

月にいかで昔のことを語らせて 影に添ひつゝ立も離れじ
山家集 雑 1505

2017/11/23 脱稿