涙もよほす 小牡鹿の声

 写経に集中していた意識が、ふっと途切れた一瞬だった。
「やったー!」
「うわー、美味しそ~」
 それほど遠くない場所から、甲高い声が上がった。大喜びして飛び跳ねているのか、ドスン、バタン、と激しい足音のおまけ付きだった。
 すっかり聞き慣れた声なので、誰が騒いでいるかは見ずとも分かる。包丁藤四郎、それに信濃藤四郎の顔を思い浮かべて、江雪左文字は握っていた小筆を置いた。
 居住まいを正し、文机の下に隠してあった小箱を取り出した。両手を揃えて蓋を持ち上げ、中に収めていた小さな包みを、多めに膝へ移し替えた。
 転がり落ちて行かないよう片手で押さえて、蓋を閉め、元の場所へと押し込む。
「お邪魔しま~す」
 そうしている間に足音が迫って、襖がそろりと開かれた。
 幅一寸にも満たない隙間から室内を覗かれた。
 距離があるものの目が合った気がして、江雪左文字は座布団の上で身体の向きを変えた。
 座ったまま、腕の力だけで下半身を浮かせ、九十度回転する。
 役目を終えた拳を解くと同時においで、おいでと手招いてやれば、恐る恐る様子を窺っていた短刀が、襖を左右に押し開いた。
「トリック・オア・トリート!」
「お菓子くれなきゃ、悪戯しちゃうぞ~」
 バン、と入り口を大きく開き、待ってましたと声を張り上げた。
 早口で捲し立てられた太刀はその勢いに一瞬驚き、すぐに我に返って頬を緩めた。
「おふたりで、よろしいですか?」
 入って来たのは、予想していたふた振りで間違いなかった。
 ただパッと見ただけでは、本当に彼らかどうか疑わしい。それもそのはずで、短刀たちはいつもの洋服ではなく、今日の為に用意した衣装を身に纏っていた。
 包丁藤四郎は三角形の帽子を被り、蝙蝠を模した黒い翼を背負っていた。信濃藤四郎は色違いの帽子を被って、表が黒、裏が赤い外套を羽織っていた。
 白粉を塗りたくった肌に赤や黒、緑で模様が描かれて、特に口元の装飾が奇抜だ。
 次郎太刀が朝から張りきっていたのが、記憶に新しい。
 化粧ひとつでこうも違うと感心して、江雪左文字は膝に置いた菓子の包みを数えた。
 ふた振りとも籐編みの籠を持ち、半分近くが色鮮やかなもので埋まっていた。すすす、と摺り足で近付いて、期待の眼差しで太刀を見た。
「どうぞ」
 その包みをひとつずつ持ち上げて、籠の中に置いてやる。
「これ、なあに?」
「私は、あまり……あなたがたの、好きなものに、詳しくは……ありませんので……」
 白地に花模様を散らした懐紙が、雫型に捻られていた。中身が零れないようにと、端を捩って留められていた。
 振ればカサカサ音がして、数個入っているのが分かる。
 短刀の掌にすっぽり収まってしまうその正体に、江雪左文字は肩を竦めた。
「落雁、は……お嫌いでしょうか……」
 今日は本丸で年に数回行われる祭りの日。それも西洋の影響を過分に受けた、特別な祭りという話だった。
 ただ生憎と、江雪左文字はその辺りに詳しくない。由来を聞かされても、さっぱり理解出来なかった。
 分かるのは、思い思いに仮装した短刀や、脇差に、一部の大太刀が仲間の元を訪れ、大声で合い言葉を口にする、ということ。
 その合い言葉を告げられた刀は、菓子を与えるか、悪戯を受けるかを選ばなければならない。
 悪戯の中身は、各刀の自由だ。相手が相手だけに、そこまで酷い事にならない場合が多い。
 もっともそれで高を括っていたとある太刀が、一昨年に散々な目に遭っている。彼の失敗は教訓となり、翌年からは菓子を用意する刀が圧倒的多数となっていた。
 江雪左文字も誘われて万屋へ出向き、あれこれ吟味して来た。
 とはいえ、洒落たものは手が出しにくい。短刀たちに配るものだというのに、つい自分好みのものを選んでしまった。
 今になって反省の弁を述べた彼に、信濃藤四郎は小さく噴き出した。あからさまに不満げな顔をした弟の足をさりげなく踏んで黙らせて、お手本のような笑顔を維持した。
「ううん、好きだよ。ありがとう、江雪さん。大事に食べるね」
「いった~。なにするんだよう」
「ほら、包丁。次行くよ、次。じゃあ江雪さん、またね」
 足指の付け根を思い切り圧迫されて、包丁藤四郎が怒るが意に介さない。
 ぷんすか煙を噴く短刀の肩を押して、彼はひらりと手を振り、一礼して部屋を出ていった。
 外から襖が閉じられて、程なくして、隣の部屋から例の合い言葉が聞こえてきた。
 彼らはああやって、各部屋を回っていた。全ての刀を捕まえて、菓子を強請っているとしたら、最終的にはとんでもない量になるのではなかろうか。
 それだけの数を、ぺろりと食べてしまえる。
 身体は小さいが胃袋は大きいと苦笑して、江雪左文字は自身の腹を袈裟の上から撫でた。
 とてもではないが、自分はあんなに食べられない。
 食が細いのを自覚している太刀は、次に来る刀のためにと、文机の端に落雁入りの包みを置いた。
 筆先に墨を吸わせ、写経を再開させる。
 だが二文字目を終えたところで、再び外から声がかかった。
「江雪さーん、いる~?」
 甘ったるい猫なで声は、乱藤四郎のものだ。文字通り猫の耳を生やし、尻尾を揺らした少年は、包丁藤四郎らと揃いの籠をいそいそ差し出して、嬉しそうにぴょん、と飛び跳ねた。
 後藤藤四郎に平野藤四郎、前田藤四郎も立て続けに姿を現した。
 五虎退は虎の格好を、秋田藤四郎は可愛らしい恐竜の格好をしていた。
 愛染国俊と蛍丸は荷物持ちとして明石国行を伴い、太鼓鐘貞宗は気乗りしない様子の不動行光を引っ張っていた。
 謙信景光が意気揚々とやってきて、厚藤四郎は渡された菓子をその場で食べた。薬研藤四郎の分も、と受け取って去った後で、その薬研藤四郎がやって来たのには苦笑せざるを得なかった。
 用意した落雁は、あっという間に底をついた。
「……来ませんね」
 空になった小箱を覗きこみ、閉じられている襖を見る。
 耳を澄ませても足音は響かず、聞こえてきたのは塒へ急ぐ烏の声だった。
 カア、カア、とどこか哀愁を漂わせる声色に、時間の経過を悟った。障子越しに差し込む光は斜めに長く伸びて、僅かに紅色を帯びていた。
 この時期は、陽が沈むのが早い。
 ぼんやりしていたらあっという間に、空は闇に飲みこまれた。
 もうじき夕餉の時間なので、短刀たちの狂乱も終わりだ。
 ところがまだひと振り、残っている。風変わりな衣装で身を包み、年に一度の祝祭を楽しんでいるはずの弟が、江雪左文字を訪ねて来ていなかった。
「どうしたのでしょう」
 今日は特別だからと、短刀たちは出陣も、遠征も任されていない。畑仕事や馬当番も免除されていた。
 朝餉の席にはちゃんと居たし、昼餉も食べていた。
 だというのに夕暮れが西の空を茜色に染めても、小夜左文字は菓子を取りに来なかった。
 彼の為に、特別なものを用意した。贔屓だと言われるのを覚悟で、落雁ではないものを準備していたのに。
「お小夜」
 もともと小夜左文字は、騒がしいのを好まない。自分は復讐の刀だと言って、晴れの舞台には相応しくないと主張していた。
 だから正月も、他の刀のようにはしゃがない。ただ去年は粟田口の短刀らに連れられて、狼の仮装をして菓子を取りに来た。
 今年もそうなると期待していたが、誰も彼の手を引いて現れなかった。
 さすがにおかしいと眉を顰め、口をへの字に曲げる。
 中断したまま再開の機を得ない小筆は、すっかり乾いていた。
「どうしましょうか」
 今から写経に取り掛かっても、どうせ集中出来ない。
 ため息をひとつ吐いて、彼は重い袈裟を揺らし、膝を起こした。
 立ち上がろうと中腰になったところで、襖越しに気配を感じた。ハッとして身構えた彼の前方で、入り口はゆっくり開かれた。
 隙間を作ったのは、短刀の可愛らしい手ではなかった。
「江雪兄様、宜しいですか?」
 肉が薄く、骨張っている指を操るのは、もう一振りの弟だった。薄紅色の髪を持ち、左右で瞳の色が異なっている。胸元には決して消せぬ刻印が刻まれているが、今は着物に隠されて見えなかった。
 敷居の手前で室内を覗きこみ、左右を確認してから正面に向き直る。
 なにかを探す素振りに、江雪左文字は騒然となった。
「宗三」
「お小夜、来ましたか?」
 もしや、と思って問いかけるより先に、宗三左文字が本題を切り出した。
 声を潜め、辺りを窺いながらの質問に、戦嫌いの太刀は身体をよろめかせた。
 立ち上がるのを諦め、座布団に尻を沈めた。正座出来ず、足を崩した状態で文机に寄り掛かって、手本とすべく積み上げていた経文の山を崩した。
「兄様」
「そちらにも、ですか」
 この祭りは、なにも菓子を集めて回る短刀たちばかりが楽しむものではない。日頃あまり接触がない相手と会話する、貴重な機会だった。
 江雪左文字は気難しい性格をしていると思われており、小柄な短刀たちからはあまり懐かれていなかった。遠慮のない刀ならばまだしも、見た目同様中身も幼い謙信景光とは、実は今日初めてまともに喋った。
 弟である小夜左文字とも、さほど会話が弾まない。
 お互い口下手で、口数が多い方でないのが災いして、どう頑張っても盛り上がりに欠けた。
 きっかけがあれば、変わるかもしれない。
 そう期待して、特別なものを用意した。ところが待てど暮らせど、肝心の短刀がやってこなかった。
 宗三左文字も部屋で楽しみにしていた。いつ来るだろう、と正座して構えていたのに、気配さえ掴めなかった。
 薬研藤四郎を捕まえて訊ねたら、今年は一緒に仮装していない、という話だ。自分で用意すると言っていたのでそれを信じて、粟田口は一切関与していなかった。
 けれど現実には、小夜左文字の仮装姿を、誰ひと振りとして目撃していない。
 彼は最初から、やるつもりがなかったのかもしれない。去年も、一昨年も、巻き込まれて参加しただけであり、表情はあまり楽しそうではなかった。
 乗り気ではないのに、無理矢理列に加えられるのは、不本意なのだろう。
 三度目ともなれば、周囲に流されずに振る舞う術も思いつく。江雪左文字たちは、まんまと末弟に騙された、ということだ。
「そんな。僕は三月も前から、ずっとこの日を楽しみにしていたんですよ?」
 仮装の内容は当日まで内緒、との一点張りで、宗三左文字たちはなにも知らされていなかった。
 それで余計に楽しみを膨らませていたのに、裏切られた。心に深く傷を負った打刀はその場でよろめき、大袈裟な身振りの果てに膝を折った。
 四つん這いになって涙を呑む弟を憐れんで、江雪左文字は深く溜め息を吐いた。
「お小夜の気持ちも、汲んであげましょう」
「ですが、兄様。本当にそれでよろしいんですか?」
 喧騒を嫌い、孤独を好む短刀に、無理強いは出来ない。
 やりたくないものを押し付けるのはいかがなものかと訴えれば、宗三左文字は色違いの瞳をキッと眇めた。
 悔しさに唇を噛んで、気色ばんだ肌は薄い紅色だった。小鼻を大きく膨らませ、握り拳で畳の縁を殴った。
 江雪左文字だって、今日を楽しみにしていた。自分が用意した菓子で喜んでもらえるのが嬉しくて、戦とは無縁の、平和なひと時に満足していた。
 その中に小夜左文字が混じっていれば、これほど幸福なことはない。
「……それは」
 相手の気持ちを考えれば、この仕打ちも止むを得なかった。だが本音を言えば、残念でならない。
 図星を指摘されて、太刀は押し黙った。
 言葉に窮し、目を泳がせる。
「失礼するよ」
 そこに、軽やかな男の声が紛れ込んだ。宗三左文字が開けた襖に手を添えて、顔を覗かせたのは歌仙兼定だった。
 鮮やかな外套を翻し、紫紺色の袖を揺らして江雪左文字の部屋を見回す。
 誰かを探している素振りに、姿勢を正した太刀は嗚呼、と頷いた。
 もうこれだけで、探し刀が誰なのか分かってしまうのが嫌だった。
「お小夜でしたら、こちらには」
「やっぱり、そうかい?」
 言わずに済ませられるならそうしたいが、教えてやらなければ打刀はここを去らないだろう。
 覚悟を決めて口を開けば、歌仙兼定は意外にもあっさり納得した。
 それどころか、前々から知っていた口ぶりだった。左文字のふた振りとは違い、こうなることを予想していた雰囲気だった。
 意外な反応に、蹲っていた宗三左文字が身体を起こした。唖然とした表情で打刀仲間を見上げて、何かを言わんとして口をパクパクさせた。
 餌を欲しがる鯉になった彼に苦笑して、歌仙兼定は困った風に頬を掻いた。
「仮装をすると言っていたのに、道具を買いに行く様子もなかったからね。お小夜は、こういうのが好きではないから」
 直接短刀に言われたわけではないが、直近の様子を観察していれば、想像は可能だ。
 兄刀以上に弟のことを見ていた男は、諦めがついたのか、深く息を吐いた。
「もしお小夜を見かけることがあったら、台所に焼き菓子を用意してあるから、取りに来るよう、伝えてはもらえないだろうか」
 無理に探し出そうとはせず、歌仙兼定は伝言を残し、踵を返した。
「承知しました」
 後ろ姿に頷いて、江雪左文字は袈裟の裏で両手を握りしめた。
 弟のことを常に気にかけているようで、さほどちゃんと見ていなかった。同じ屋敷で暮らしていることに安心して、どこに行き、誰と会い、どうやって過ごしていたか、あまり把握していなかった。
 兄刀だということに胡座を掻いて、それらしいことをなにひとつして来なかった。
「なんなんですか、あの男は。お小夜が可愛くないんですか?」
 一方で宗三左文字はプンスカ煙を噴き、歌仙兼定に対して怒りをぶちまけた。
 今日は短刀が年に一度、可愛らしい格好になるのを許された日だ。ところがあの男は、小夜左文字が仮装をしない可能性に気付いておきながら、手も口も出さなかった。
 むざむざ見過ごしたのかと、腹を立てている。
 些か自分本位が過ぎる発言に肩を落とし、江雪左文字は力なく首を振った。
「あの子が、それを……選んだのです」
「じゃあ、僕たちの気持ちは、どうなるんです?」
「お小夜が、心から笑ってくれないものを……無理に押し通すのは、どうなのでしょう?」
 気持ちはわかるが、ここは堪えるべきだろう。あまりしつこく食い下がれば、その分、小夜左文字が苦しむことになる。
 復讐を追い求め、仇を探し続ける短刀とはいえ、冷血漢ではない。相手を思いやり、慈しむ心を持ち合わせた守り刀は、宗三左文字たちが今日を心待ちにしていたのを当然知っている。
 その上で、この道を選んだのだ。
 微塵も迷わず、葛藤しなかったわけがない。
「それは、……分かりますが」
 自分の楽しみの為に、誰かを犠牲にするのは間違っている。
 滔々と説かれた宗三左文字は自身の髪を弄り、兄刀から目を逸らした。
 未だ納得がいかない様子だが、激しい憤りは失われていた。小夜左文字の立場に立って考えて、己の感情に折り合いを付けようとしているのが窺えた。
 毛先を指に巻きつけては解き、巻きつけては解き、を繰り返す弟に目を細めて、江雪左文字は今度こそ立ち上がった。
 袈裟の皺を撫でて伸ばし、机上の隅に置いていた巾着袋を懐に収めた。
 転がり落ちないように位置を安定させて、彼はゆっくり、摺り足で歩き始めた。
「兄様、どちらへ」
「歌仙殿の伝言を、届けなければなりませんから」
 脇をすり抜けて行った太刀を目で追い、宗三左文字が首を捻った。
 江雪左文字は敷居を跨いだところで振り返り、大きく開け放たれていた襖を半分、閉めた。
 残りは弟に任せて、静まり返った廊下を行く。五歩目を刻んだところで背後から、
「僕も、行きます」
 我に返った打刀の大声が響いた。
 立ち止まり、腰を捻って、僧形の太刀は静かに首を振った。
「宗三、あなたは部屋で。あの子が、もしかしたら、来るかも……しれません」
 日暮れが迫り、夕餉まで間がない。どこかに身を隠していた短刀が、良心の呵責に苛まれた挙げ句、姿を現すかもしれなかった。
 その時、兄ふた振りとも部屋を留守にしていたら、寂しいではないか。
 淡い笑みを浮かべた江雪左文字の言葉に、宗三左文字はハッと息を呑んだ。喉まで出かかった反論を堰き止めて、唇を戦慄かせ、身体全部を使って頷いた。
「……分かりました」
 肩を怒らせ、拳を震わせた。随分と仰々しく首肯して、乱暴に襖を閉めた。
 大股でずんずん進んで、あっという間に兄を追い抜いた。荒々しい足取りで角を曲がり、自身が寝起きする部屋を目指した。
 嫌な役を押し付けてしまった。宗三左文字はなにより待たされる――部屋でひとり、来るはずがない時を待ち続けるのが、嫌いだった。
 刀でありながら、その身に刻まれた刻印のために、戦場に出るのを許されなかった。珍しがられ、世の支配者に愛されても、渇きが癒えることはなかった。
 彼の魂は、今川義元が討たれた桶狭間に縛られたまま。
 元の主の下で華々しく戦う日々を夢見ながら、永遠に叶わないという現実に苦悩している。
 表には出さないけれど、激しい怒りを胸に秘める弟刀に心を寄せて、江雪左文字は懐をそっと撫でた。
「私に、出来ることがあれば、良いのですが」
 不運な境遇に甘んじて、己の望むものとはかけ離れた現実に苦しめられてきた弟たちを、どうにかして救いたい。
 だがそう思うことそのものが、傲慢で身勝手なことなのでは、と懸念して、身動きが取れなかった。
 それでも、一歩を踏み出すのを躊躇していては、状況は変わらない。
 僅かでも希望がある限り、諦めない。無益な争いを避ける術を模索し、身を粉にして働いたかつての主の教えを守って、江雪左文字は己を奮い立たせた。
 彼が最初に向かったのは、屋敷の南に広がる庭だった。
 紅葉が始まり、そこかしこで赤く色づいていた。まだ全体が染まり切らず、斑模様になっているけれど、これはこれで美しかった。
 茶室を兼ねる庵を訪ね、池に架けられた橋を渡った。飛び石が配置された散歩道を辿って、晩秋の空気で胸を満たした。
 ただ見える範囲に、弟刀の姿はなかった。
 隠蔽能力に優れる短刀を、あっさり見つけられるとは思っていない。雪駄の裏で小石を踏んで、視線を巡らせ、次に向かう先を選んだ。
 畑にも、道場にも、目当ての刀はいなかった。
 地面に落ちる影は色を薄め、赤焼けた空はじわじわ藍色に侵食されていく。烏の鳴き声に誘われて天を仰ぎ、江雪左文字は唇を引き結んだ。
「お小夜」
 大声で名前を呼べば、返事があるかもしれない。
 だが彼はあまり声を張ったことがなかった。
 毎日読経しているものの、声量は大きくならなかった。どうすれば出せるようになるか、山伏国広に訊ねたことがあるけれど、教わった特訓は効果がなかった。
 忌まわしい喉を撫で、自分なりに頑張って、弟刀を呼ぶ。
「お小夜、どこですか。お小夜」
 両手を口元に添え、地面を踏みしめた彼の声に触発されたのか。ざざ、と地面を舐めるように風が吹いた。
 巻き上げられた砂埃が、太刀の長い髪を押し上げた。咄嗟に両手で顔を庇って、無力な自分を隠した。
 同時に、ズザザ、となにかが擦れあう音がした。
 沈む夕日を浴びて、庭木の輪郭が影絵のように浮き上がっていた。
 黒一色のそれには、大きな瘤があった。しかももぞもぞ動いて、地面に落ちる影も大きく形を変えていった。
 太い枝にしがみつくものがある。
 腕を下ろした江雪左文字は、その形状に息を呑み、大慌てで庭木へと駆け寄った。
 とはいっても、彼はさほど足が速くない。精一杯急いだつもりでも、足に絡む衣が邪魔で、転ばないよう進むのがやっとだった。
 そうこうしている間に、枝にぶら下がっていた影が、ひょい、と地面に降り立った。両手をパンパン、と数回叩いて、捩れ、捲れあがっていた着物を順次整えていった。
 複雑に入り組んだ模様が、夕焼けの中で黒ずんで見えた。
 斜めに寄っていた皺を伸ばして、短刀は早歩きで近付いてくる男に目を眇めた。
「お小夜」
「江雪兄様」
 陽が沈むこの時間帯は、逢魔が時との別名がある。
 光と闇が入り組み、現と幻の境界線があやふやになった。魑魅魍魎が跋扈して、良く知る相手でさえ顔を見失うことがあった。
 だが江雪左文字は間違えなかった。
 小夜左文字も、正しく兄刀の名を紡いだ。
 息を弾ませて、太刀は斑に染まった広葉樹を仰いだ。真下からなら枝の配置がよく分かるが、遠くからでは茂る葉に阻まれ、内側は望めなかった。
 小夜左文字はずっと、ここに居たらしい。
 西洋由来の祭りがひと段落するのを待ち、ほとぼりが冷めるのを待っていた。
 そのうちに、暇を持て余して眠ってしまったのだろう。枝からずり落ちた経緯は分からないが、一直線に転落しなかったのは幸運だった。
 どこも怪我がないのに安堵して、江雪左文字は胸を撫で下ろした。乱れていた息を整えて、首筋を伝った汗を拭った。
「探しました」
「……」
 畑と屋敷を繋ぐ細い小路を抜けて、厩舎に向かう道中だった。台所からは見えず、玄関からも分かり辛い。
 近くはないが、遠くもない場所だった。祭りだと騒ぐ仲間の動向を窺いながら、時間を過ごすのに最適とも言える位置だった。
 見つけられたのは偶然だが、御仏の思し召しのような気がした。
 仏の慈悲に感謝して、太刀は黙り込んだ短刀に手を伸ばした。
 頭に触れようとしたら、ビクッと肩を跳ね上げられた。叱られると思っているのか、怯えていた。
 拳で殴られるのを覚悟して、身を竦ませ、構えている。それがあまりにも憐れに思えて、江雪左文字は指の行き先を変更した。
 敢えて掌を見せて、指を揃えた。弟刀の視界を横切るように動かし、緩く曲げた関節部で柔らかな頬を撫でた。
 スッと触れて、下へ滑らせた。顎の輪郭はなぞらず、表面を削るようにして数回、同じ仕草を繰り返した。
「ごめん、なさい」
 無言で撫で続ける兄に驚き、小夜左文字が唇を震わせた。蚊の鳴くようなか細い声で謝罪して、自分から筋張った指に頬を押し付けた。
「なにを、謝るんですか?」
 短刀の体温が、指先を伝って四方に広がった。あまり熱が高くないのは、ずっと外にいたからだろう。
 天気は良かったが、日蔭は肌寒い。木から滑り落ちたのも、寒さが原因のような気がした。
 手首を返し、掌側を頬に添えれば、小夜左文字がそこに指先を重ねた。両手を使って掴み、握り締めて、離れていかないように固定した。
「兄様たちを、がっかりさせました」
 その上でぽつり、ぽつりと呟いた。顔を伏して、一度も太刀を見ようとしなかった。
 矢張り彼は、端から仮装する気がなかったのだ。特に宗三左文字が楽しみにしているのを知りながら、これを裏切った。
 今更どんな顔をすればいいか、分からない。
 それでいながら逃げようとはせず、正直に謝った彼に、江雪左文字は口元を緩めた。
「構いません。お小夜がどうしても、というものを、無理強いするなど……私たちには、とても」
 弟の愛らしい仮装が見られなかったのは、確かに残念だ。
 けれど宗三左文字に言ったように、小夜左文字に笑顔が伴わないのであれば、それは避けるべきことだった。
 祭りの主役は、あくまで短刀たち。弟刀が望んでいないのに、自分たちがはしゃぎたいがために強引に参加させるのは、あまりにも無責任だ。
 ゆるゆる首を振り、左文字の長兄はしどけなく微笑んだ。
「ですが、やはり。……お小夜」
「すみませんでした」
 そう言いながら、撫でていた頬を、軽く抓る。
 当日まで本音を隠していたのは悪手だったと責められて、小夜左文字はしおらしく頭を下げた。
 ほんのり赤くなった箇所を労わって、江雪左文字は小さく頷いた。分かっているなら良い、とこれ以上はなにも言わず、代わりに預かっていた伝言を述べた。
「歌仙殿が、お小夜のために菓子を作ってくださったそうです」
 軽く膝を曲げて、短刀の背丈に合わせて屈んだ。
「知ってます」
「宗三も、あなたにと」
「それも、……分かってます」
 小夜左文字は苦虫を噛み潰したような顔をして、矢継ぎ早に返事した。
 俯いて、小さくなった。ただでさえ華奢な体躯を縮ませて、息を詰まらせ、鼻を啜った。
 ずび、と比較的大きく響いた音に、江雪左文字は眉を顰めた。仮装はしなくても、菓子を受け取るくらいは問題ないと考えていただけに、この反応は想定外だった。
「お小夜」
「僕は、復讐の刀です。それなのに、貰っても、僕は、……なにも、返せない」
 訝しみながら名を呼べば、短刀が堪えていたものを吐き出した。鼻を愚図らせ、喘いで、大きく頭を振った。
 短刀たちは思い思いに仮装して、打刀や太刀らの間を練り歩く。珍しい格好を対価にして、菓子を強請り、用意していない刀には悪戯を敢行した。
 小夜左文字はなにもしていない。
 対価を支払えない。
 いや、そもそも彼には、祭りに参加する資格すらなかった。
 歴々の所有者に愛され、慈しまれて来た短刀だちとは違う。小夜左文字は簒奪者だ。血に汚れ、黒い澱みを引き連れた、所有者に不幸を招く忌まわしき存在だった。
 そんな刀が天の恵みのおこぼれを預かろうなど、烏滸がましいにも程がある。
 両手で顔を覆い隠し、小夜左文字は唇を噛み締めた。情けない表情を見せまいと身を捩って、長兄に背を向けた。
 仲間が声を立てて笑い、喜び、はしゃぎ回るのを遠くから眺めていた。
 木に登ってぽつん、とひと振りで過ごしている自身と比較して、想像以上に衝撃を受けた。
 自分で選んだ結果なのに、疎外感を覚えた。哀しくて、切なくて、苦しくて、痛かった。
 後悔した。
 これで良かったとも思った。
 一番欲しいものは復讐相手であり、仇討ちを果たすことだ。だのに欲張って、結局なにも手に入らなかった。
「お小夜。なにも私たちは、見返りが欲しくて、貴方と過ごしているのでは、ありませんよ」
「……兄様」
「こちらを向いては、もらえませんか」
 小坊主姿ではない短刀を見てみたかった気持ちは、否定しない。
 けれどそれがなくとも、江雪左文字は弟に施しを与えていた。
 全ては自己満足のためだ。
 そうすることで短刀は腹が、太刀は心が満たされる。
 目には見え辛いが、釣り合いはちゃんと取れていた。だから気にしなくて良い。むしろ受け取ってもらえないと、折角用意した品々が駄目になってしまう。
 食べ物はいつの時代でも貴重だ。
 餓えに苦しむ辛さを知っている短刀が、ものを粗末にして良いのか。
「でも」
 真摯な訴えに、小夜左文字は口籠もった。目を泳がせて、言いかけた言葉を途中で切った。
 短刀が要らないからといって、棄てなければならない道理はない。本丸には六十を越える刀剣男士が暮らしている。希望者はいくらでも現れるはずだ。
 代わりに食べてくれる存在がある状況で、江雪左文字の言葉は説得力を持たない。
 一番肝心の『小夜左文字に受け取らせたい』という認識が抜け落ちている短刀に、太刀は眉を顰めた。
「お小夜」
「はい」
 優しく名を呼んで、彼は藍色の髪を梳いた。頬に掛かるもみあげを指で払い除けて、露わになった耳朶をふにふにと捏ねた。
 こんな風に触れてくるのは、珍しい。
 日頃の太刀らしからぬ行動に戸惑った少年は、それ以上にらしくない太刀の言葉に騒然となった。
「鳥喰い、媼と、李杜……でしたか?」
「え?」
 酷く覚束ない、たどたどしい発音だった。
 耳に馴染みのない単語を、無理矢理知っている言葉に変換した江雪左文字の囁きに、小夜左文字は目を点にして凍り付いた。
 全く意味をなさない言葉の羅列だったが、何を言わんとしていたかは、薄らぼんやり理解出来た。
 今日だけで何回、その台詞を聞いただろう。短刀たちの大合唱は、しっかり耳に貼りついていた。
「とりっく、おあ、とりーと……ですか?」
 それを太刀は間違って覚えていた。
 どうやればそんな合い言葉になるのかと苦笑して、小夜左文字は首を傾げて訊き返した。
「ええ。そうです。それですね」
 訂正されて、太刀は鷹揚に頷いた。嬉しそうにはにかんで、なにかを期待し、弟刀をじっと見た。
「……え」
 口よりも雄弁に語る眼差しに、短刀は一瞬置いて頬を引き攣らせた。ひく、と上下に震わせて、背中を駆け抜けた悪寒に総毛立った。
 嫌な予感がした。
 生真面目で冗談が通じない男が、洒落で口にする台詞ではなかった。
「えええっ」
 意図を推し量り、小夜左文字は大慌てで胸元を叩いた。腰や背中、腹の辺りも次々撫でて、なにかひとつくらい入っていないかと探し回った。
 だが今日に限って、飴玉ひとつ持ち合わせていなかった。
 出陣する時は、非常時に備えて一食分の兵糧は持ち歩くようにしていた。
 けれどここは本丸。安全地帯の中で非常食を携帯する方が稀だった。
 すっかり腑抜けになっている自分に気が付いて、復讐を追い求める短刀は大きく身震いした。顎をカチン、と噛み鳴らし、鼻から息を吸いこめば、引き攣った表情を見た太刀がしてやったりと口角を持ち上げた。
 江雪左文字がこんな顔で笑うところを、初めて見た。
 驚き、声も出ないでいる弟刀に目尻を下げて、懐に手を入れた。
 絹の巾着袋を取り出して、紐を緩めた。
 中から姿を現したのは、艶を帯びた橙色の塊だった。
 灰褐色の蔕を被っており、上から見れば丸いが、横からだと四角い。
 上下に挟んで圧力を加えたかのような、扁平に潰れた物体の正体は、柿だ。
 しかもつるりとした表面には、墨でなにかが描かれていた。
 小さな四角形や三角形を幾つも組み合わせて、目と、鼻と、口が表されている。
 見覚えがあった。粟田口の短刀たちが南瓜を使って作った灯篭が、ちょうどこんな顔をしていた。
「これって……」
「お小夜の好物に、悪戯をしてみました。どうですか?」
 恐る恐る手を伸ばせば、太刀がどうぞ、と置いてくれた。中はくり抜かれておらず、ずっしりと重かった。
 皮に描いてあるだけなので、剥いてしまえば食べられる。思いもよらぬ贈り物に目を見張って、短刀は柿越しに兄を凝視した。
 江雪左文字の頬は、ほんのり茜色に染まっていた。それが西日の影響ではないと信じて、小夜左文字は鼻をスン、と鳴らした。
「ひどい、いたずらです」
 自然と綻びそうになる頬を引き攣らせ、誤魔化すように呟く。
 巾着袋を握りしめて、銀髪の太刀は照れ臭そうに目を細めた。

さらぬだに秋はもののみかなしきを 涙もよほす小牡鹿の声
山家集 秋 432

2017/10/28 脱稿