都の人や 夢に見ゆらん

 ごろり、と寝返りを打った所為だろうか。
「う……」
 微かな振動が脳に伝わって、小夜左文字は小さく呻いた。閉じていた唇を数回開閉させて、一歩遅れて瞼を薄く開いた。
 眠りに入るのは大変だったのに、目覚める時はとてもあっさりしている。簡単に打ち破られた安寧に機嫌を損ね、仏頂面で眉を顰めた。
 なにもない空間を撫でて、ふう、と深く息を吐いた。いつの間にか頭の下から移動していた枕を回収し、首を安定させて、もう一度と祈りを込めて瞼を閉ざした。
 しかし睡魔はどこかへ立ち去った後で、全身に残るのは微妙な倦怠感だけ。
「ぬうう」
 これでは眠り損だと唸って、短刀の付喪神は横向きだった身体を仰向けに作り替えた。
 額に右手を置いて、眉の少し上を軽く擦った。前髪は重力に引っ張られて下向いており、枕に挟まれた後ろ髪はあらぬ方向に曲がっていた。
 きっと朝になったら、寝癖が凄まじいことになっている。
 けれど案外、これでも大丈夫かもしれない。
 相反する想像を同時に頭に並べて、小夜左文字は暗闇に支配された天井を眺めた。
 夜明けはまだ遠く、外は暗い。虫の声さえ聞こえて来ず、静かだった。
「……ん?」
 いや、騒がしい。
 一秒後に撤回して、彼は小振りの鼻をヒクつかせた。目を眇め、壁に阻まれたその先に意識を向ける。直後にまた、大勢の笑い声が聞こえてきた。
 調子外れの歌に合わせ、手拍子が響いた。下手な琵琶の音が重なって、非常に耳障りだった。
 もしや眠りが妨げられたのは、これの所為か。
 寝床で横になったまま考えて、小夜左文字はムッと口を尖らせた。
 どこかで、誰かが騒いでいる。おおよそ素面とは思えない歌声からして、かなり酔っていると思われた。
 酒を飲み、上機嫌になって、夜半を過ぎてもまだ起きている。
 なんとはた迷惑なのかと腹を立てて、血濡れた逸話を持つ刀はむくりと上半身を起こした。
「復讐、しないと」
 せっかくひとが、気持ちよくはなかったけれど、眠っていたのだ。それを邪魔してくれたのだから、相応の報いを受けて貰わないと困る。
 大体、夜遅くまでの宴会は、禁じられたのではなかったのか。放っておくと朝まで飲み続ける刀が出て、翌日の任務に障るからと、反対意見が出る中で強行採択されたではないか。
 本丸を運営していく上での約束事は、刀剣男士の総意で決められる。勿論最終的な決定権は審神者が握っているが、意見を集約するという目的で、月一回、全体会議が行われていた。
 その席で、随分前にそう決まった。
 五月蠅くて眠れない、という不満が各方面から噴出したのだ。酒好きの、宴会好きが必死に反対したけれど、こちらの意見は通らなかった。
 何事も節度を弁え、ほどほどに。
 そういうお達しが審神者から出されて、この一件は決着を迎えていた。
 あれからもう、一年以上が過ぎている。だからといって、決まり事が失われたわけではない。
 実害を被ったのだから、文句を言うくらい、許されるはずだ。酔っ払いの相手は面倒だが、反論するようなら、力技で黙らせるまで。
 どこかの文系のような発想をして、小夜左文字は拳を作った。乱れていた寝間着の衿を整え、防寒対策として上に一枚羽織った。
 今年新しく誂えたのは、濃い藍色に波模様が薄ら浮かぶ長着だ。綿は入っていないけれど、木綿で保温力が高い。裾が長く、踝まですっぽり覆ってくれるので、重宝していた。
 選んでくれたのは、篭手切江だ。着付けが得意と自慢するだけあって、短刀に似合う品を数ある中から探して来てくれた。
「あったかい」
 眼鏡の脇差にひっそり感謝して、寝床を簡単に整えた。戻ってきてすぐ横になれるよう、斜めになっていた掛け布団を真っ直ぐにして、襖を開き、廊下に出た。
 短刀ばかりが暮らす区画は見事に静まり返り、廊下には灯りひとつ見えなかった。
 隙間風を嫌い、どの部屋もしっかり襖が閉められている。粟田口の短刀らが寝起きする部屋の前を通れば、複数の刀の寝言が聞こえた。
「う~ん……それは、食っちゃ、駄目だって……」
「厚兄さんだけ、ずるい、で……すう……」
 本当は起きているのでは、という会話がしてぎょっとなったが、直後に寝息が続いた。眠っている時でさえ仲が良い彼らに感心して、兄弟刀とは部屋が違う短刀は肩を竦めた。
 江雪左文字や宗三左文字は、弟である彼に良くしてくれた。
 ただ接し方は少し余所余所しく、遠慮が残り、未だに探り合っている雰囲気だった。
 宗三左文字などは、小夜左文字よりも薬研藤四郎の方が仲がいい。へし切長谷部とは口論が絶えないが、つかず離れずの距離を保っていた。
 兄刀を前にすると、いつも口籠もってしまう。変なことは言えないと緊張して、ただでさえ少ない口数が、益々減ってしまった。
 そのうち時間が解決してくれる、と言われているものの、難しい。
 歩み寄ろうとしても、双方にその意思がなければ果たせない。片方が努力しても、もう片方が逃げているようでは、決して叶わない夢だった。
「宗三兄様でなければ、良いけど」
 今から向かおうとしている場所に、次兄が混じっている可能性は零ではない。
 あれで案外騒がしいのが好きな打刀は、織田ゆかりの刀らに誘われて、頻繁に宴に参加していた。
 へし切長谷部が長く世話になった黒田に縁が深い日本号は、戦場にまで酒瓶を持ちこむ男だ。この長身の槍もまた、かなりの頻度で酒宴を主催していた。
 喧しいのを静めるために、暴力に訴え出るのも辞さないつもりだった。
 眠りを邪魔された恨みを晴らす気で部屋を出て来たが、足取りはいつしか鈍くなっていた。
「どうしようか」
 未だ止まない歌声を頼りに進んでみれば、この先にあるのは打刀部屋だ。
 その中のどこが該当するのかはまだ分からないけれど、可能性が大きく膨らんだのは間違いない。躊躇して、小夜左文字はその場で足踏みした。
 膝同士をぶつけ合い、摩擦で熱を起こして冷えた身体を温める。
 吐く息が白く濁る幻を打ち消して、彼はぐっと腹に力を込めた。
 ここまで来たのだ、なにもせずに引き返すのは悔しい。
「復讐、してやる」
 仇討ちに用いられた短刀が、これを諦めるなどあってはならない。己の逸話に託けて、次の一歩を踏み出した。
 長い廊下をずんずん進み、漏れている灯りにこめかみをピクリ、と痙攣させた。
 段々と大きくなるだみ声に眉間の皺を深くして、小夜左文字は最終的に安堵の息を吐いた。
 短刀部屋区画まで聞こえるくらい騒がしいのに、隣近所の部屋の主が苦情を出さないのが不思議だった。
 だが、それもそのはずだ。喧騒の発生源の両隣に暮らす刀も、向かい側さえも、等しく同じ部屋に集まっていた。
 何故禁を破り、夜更けまで酒を飲み明かしているかについても、分かった。
 今夜は無礼講でいきたい気持ちは、重々理解出来た。そうならざるを得なかったのも、大いに頷けた。
 だが矢張り、迷惑極まりない。
「五月蠅いです!」
 意を決し、小夜左文字は襖の引き手に指を掛けた。力任せに一気に右へ滑らせて、目の前がハッと明るくなると同時に怒鳴った。
 眉を吊り上げ、牙を剥き、少しでも迫力を足すべく努力した。
「今、何時だと思ってるんですか」
 声を低くし、眼力を強め、狭い部屋に集まった刀剣男士を一様に睨みつけた。
 端まで跳んだ襖が、壁に当たって跳ね返った。ドンッ、と近所迷惑な音を一度だけ轟かせたそれに、中に居た男たちは揃って肩を跳ね上げた。
 まさか怒鳴り込んでくる刀があると、思っていなかった様子だ。
 一斉に振り返り、見つめられた。ぽかんと惚けた眼差しは酒の影響かどれも潤んで、頬は鮮やかな朱色だった。
「え、……あれえ?」
「なんじ?」
「なんじだろ?」
 呆気にとられた顔をして、堀川国広がまず首を捻った。視線を向けられた加州清光は不思議そうに首を傾げ、隣に居た大和守安定は顎に人差し指を突き立てた。
 長曽根虎徹は空の酒樽を抱いて、胡乱げな様子で小夜左文字を睨み返した。
 輪の中心に居た打刀は酒杯を右手に掲げたまま、ひっく、と大きくしゃっくりした。
「はえええ~?」
 その後くだを巻き、乱入者をねめつける。
 完全に出来上がっている和泉守兼定は、こんな時間でありながら、戦装束を解いていなかった。
 浅黄色の羽織に袖を通し、胸当てを身に着け、長い黒髪は高い位置で結ったまま。自慢の刀を膝に抱いて、呼ばれればいつでも出撃できる格好だった。
 もっともこの状態では、刀を抜くのさえ難儀するだろう。
 頭どころか身体全体が前後左右に揺れている彼は、ほんの一刻半ほど前に修行から戻ったばかりだった。
 行き先は、幕末。堀川国広と同じ、かっての主の元だ。
 そこで彼は何を見て、何を聞き、何を感じたのか。
 新たな姿を得て戻ってきた彼の話を聞きたがる刀は多く、自然とこの部屋に集まった結果が、この有様だろう。
 床には空の酒瓶が無数に転がり、肴として持ち込まれた食べ物の食い残しが散乱していた。干し肉の臭いと酒臭さが混じりあい、長く居座ると鼻が曲がりそうだった。
 露骨に顔を顰め、小夜左文字は不満げな刀を見渡して肩を落とした。
「迷惑です」
 たった数日とはいえ、本丸を離れていた仲間が帰って来たのだ。歓迎したい気持ちは痛いくらい理解出来た。
 小夜左文字も修行から戻った際、兄弟刀を初めとして、大勢に出迎えられた。無事な姿を喜んで、江雪左文字も、宗三左文字も、とても嬉しそうだった。
 ただこれまでは短刀や、脇差ばかりが修行に出ていたので、深夜まで宴席が続くことはなかった。
 今回、和泉守兼定は打刀として初めて旅立った。
 元々弱いくせに酒好きな彼のことだから、こうなるのは当然だった。
 部屋が近い仲間らも、今夜だけは我慢して、見逃すことにしたのだろう。そうでなければ自分が修行に出た時、宴会を開き難くなる。
 苦情を言いに来たのは、小夜左文字ひと振りだった。一度眠ってしまえば朝まで起きない短刀たちが多い中で、常時眠りが浅い少年だけが、止むことのない喧騒に腹を立てた。
 盛り上がっていた中で水を差されて、集まっていた新撰組に関わる刀たちは面白くなさそうだ。
 正論を言われて反発し、拗ねている。ひと晩ぐらい我慢するよう目で訴えて、譲る気はないようだった。
「いいじゃないか。和泉守がやっと帰ってきたんだしさ」
「そんなに五月蠅くした覚え、ないんだけど」
 大和守安定の言葉に乗っかり、加州清光が徳利をぶらぶらさせながら口を尖らせた。赤ら顔で、若干ろれつが回っておらず、発音は聞き取り辛かった。
 時間の経過も忘れて、話に花を咲かせていたようだ。もう子の刻を過ぎていると言っても、信じてくれそうになかった。
「お前さんだって、祝ってもらってたじゃねえか」
「僕は、こんな夜更けまでやってません」
「こいつは、帰りが遅かったんだ」
 ずっと黙っていた長曽根虎徹の口調には、小さからぬ棘があった。親指で和泉守兼定を指し示し、夕餉が終わってからの帰還だったと訴えた。
 小夜左文字は夕刻の帰還であり、夕食の席がそのまま修行お疲れ様会になった。ほかの短刀たちも、大体そんな感じだった。
 脇差の中には深夜の帰還もあったが、その時は翌日に、会が催された。
 時間帯のせいもあり、和泉守兼定の出迎えに出た刀は多くなかった。お披露目は明日、という話になって、格別なにかが開かれることもなかった。
 それが可哀想だったから、自分たちだけでも慰労会をやろう、となったようだ。
 言い出しっぺと思われる打刀に凄まれて、小夜左文字は深々と溜め息を吐いた。
「とにかく、これ以上続けるのでしたら、僕にも考えがあります」
 話し合いは平行線を辿り、解決の道筋は得られなかった。
 極力避けたかったが、分かってもらえない以上、力技でなんとかするしかない。最終手段をちらつかせて、本丸で最も練度が高い少年は長着の袖を捲った。
 出て来たのはさほど筋肉がついているわけでもない、柳のように細い腕だ。捻れば簡単に、ぽっきり折れてしまいそうだった。
 しかしこの細腕がどれだけの力を秘めているか、この本丸で知らない刀はいない。
 修行を終えて戻った刀剣男士の中で、練度が最も優れているのは彼だ。刀こそ握っていないけれど、一撃の重みは凄まじかった。
 殴られたら、一発で撃沈する。
 朝までぐっすり寝かせてやると態度で告げられて、強気一辺倒だった打刀らの間に緊張が走った。
「あ、あー。僕、そろそろ眠くなってきちゃったかも」
「ちょっと、堀川。お前だけが頼りだってのに」
「僕だと、小夜ちゃんのは受け流せないよ!」
 この中で唯一修行を終えている脇差が、真っ先に降参だと白旗を振った。
 己がなんたるかを見極め、旅から帰って来た少年は、だからこそ同じく自己を確立させた短刀の強さを肌で感じ取っていた。
 とても勝てないとあっさり諦めて、縋る仲間にぶんぶん首を振った。空っぽの皿を積み重ねて抱きかかえ、いそいそと部屋を辞す準備を開始した。
 和泉守兼定の帰還を一番喜んでいた少年が、真っ先に宴会の終わりを宣言した。
 勝ち目が見込めない敵を前に退散を決めた彼に触発されて、残る打刀らも渋々立ち上がった。
「あー、小夜。ちょい、ちょい」
「はい?」
 どうやら分かってくれたようだ。
 暴力に訴え出る前に復讐を終えられたと満足していたら、部屋の主でもある背高の打刀が短刀を手招いた。
 千鳥足の加州清光が部屋を出て、大和守安定が後に続いた。ぎゅうぎゅう詰めだった空間は少し広くなって、それまで埋もれて見えなかったものが姿を現した。
 物が散乱して足の踏み場もないところに入るのは、勇気が必要だった。
 欠伸をひとつ零した男が指差す巨大な塊に歩み寄って、小夜左文字はこれまで以上に深く、長い溜め息を吐いた。
「なにをしているんですか、歌仙」
「連れて帰ってくんねーか。こいつに居られちゃあ、俺が眠れねえ」
 片隅に追いやられた布団に、藤色の髪の打刀が寝転がっていた。掛け布団を丸めて胸に抱いて、ついでに枕にもして、すうすうと寝息を立てていた。
 鼻の頭だけが異様に赤く、だらしなく開いた口元からは涎が垂れている。幸せな夢でも見ているのか、時々「ふへ、ふへ」と笑うのが不気味だった。
 あれだけ喧しい連中を傍に置いて、よくぞここまで熟睡できるものだ。
 彼まで居るとは思っていなかった。驚きを通り越して唖然として、小夜左文字は痛むこめかみを叩いた。
 この部屋にある布団なのだから、持ち主は和泉守兼定に他ならない。それを歌仙兼定に占領されては、確かに彼は眠れなかった。
「もしかして、歌仙が、ですか?」
「おーう。こいつが一番乗りだったぜ」
 嫌な予感がして、振り返る。
 酔っぱらって上機嫌な打刀は不敵に笑い、肌色を悪くした短刀の頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
 皆の夕餉が終わってから帰還した和泉守兼定を労い、食事を提供したのは歌仙兼定だった。折角だから一献、と燗にした酒も持ちこんで、それが加州清光らを招き入れる遠因となった。
 元凶は、ここにあった。意外な真実に目を見張っていたら、不意にずしっ、と身体が重くなった。
「うわっ」
 急激に体重が増えたのではない。単に凭れかかられただけだ。
 背後から圧し掛かられて、小夜左文字は咄嗟に足を肩幅に広げた。潰されまいと膝を曲げて重心を落とし、呵々と笑う男の髪を払い除けた。
 馬の尻尾かと言いたくなる房が、押し退けても、押し退けても、すぐに戻ってきて首に絡みついた。
「和泉守さん、重い」
「はははっ、ははっ。そーれ、そうれ、っと」
 じゃれ付かれても嬉しくなくて、鬱陶しいだけだ。じわじわ圧力を加えてくる打刀に吠えて肘を繰り出すが、和泉守兼定は脇腹を攻撃されても怯まなかった。
 なにが楽しいのか高らかと笑って、首に腕を巻きつけて来た。体格差を考えずにぎゅうっとしがみつき、短刀の頭に顎を置いた。
「苦しい」
 一歩間違えれば、首を圧迫して折ろうとしているようにも映る。
 大型犬に絡まれている自分を想像して、小夜左文字はもう一発、肘鉄を叩きこんだ。
「いってえなあ」
 同じ場所を続けて狙ったからか、効果はあった。途端に不機嫌になった打刀はスッと身を引いて、拗ねたのか顔を顰めた。
 端麗な姿形が歪んで、急に見た目が幼くなった。強くなって帰ってきたはずなのに、圧倒的に小柄な短刀を組み伏すのさえ難しい現状に、不満を覚えている様子だった。
 そもそも酒が入って、四肢が上手く扱えていないのだ。
 べろんべろんの酔っ払いに負けてやるつもりは、小夜左文字には毛頭なかった。
 不敵な笑みを口角に浮かべ、まだやるのかと打刀に向き直る。
 挑発的な眼差しに負けじと応戦して、和泉守兼定が素手で身構えた直後だった。
「ぶひゃうっ」
 突如目の前が暗くなって、小夜左文字は変なところから悲鳴を上げた。ぐいっと後ろから引っ張られて、逆らえなかった。
 仰け反って、天井が見えた。仰向けに倒れた体躯は、意外にも衝撃が少なかった。
 一瞬真っ暗だった視界はすぐさま光を取り戻し、長く伸びた影を映し出した。行燈の火がゆらゆら踊って、船に揺られている気分だった。
 目をぱちくりさせて、大の字のまま凍り付く。
 何が起きたのか理解出来ない短刀の視界に、黒っぽい影がぬっと割り込んできた。
「おざよ!」
 酒焼けしただみ声で吼えられて、ようやく誰の仕業か分かった。
 鼻が詰まっているかのようなくぐもった声は、普段の歌仙兼定とはかけ離れたものだった。
 いったい彼は、どれだけの量を飲んだのか。物凄く強いわけではないが、決して弱くはない男が酔い潰れて眠るくらいだから、相当なものと推察できた。
 それがいつの間にか目覚めて、短刀の肩を押さえつけていた。不意打ちで背後からむんずと掴み、力任せに引き倒したのだ。
 転がった際に痛みがなかったのは、落ちた先が布団の上だったからに他ならない。和泉守兼定が本丸を離れている間、堀川国広が日向で干していたので、ふんわりと空気を含んで柔らかかった。
 なにはともあれ、怪我をせずに済んだ。
 受け身を取る余裕もなかったので、幸いだった。ふかふかして心地良い布団は暖かく、朝までぐっすり眠れそうだった。
 悔しいが、羨ましい。
 煎餅のような薄っぺらい布団と交換して欲しくて、小夜左文字はさりげなく柔らかな布を撫でた。
「なあにやってんだ、之定あ」
「おざよにざわるな」
 目の前にいた短刀にいきなり消えられた打刀は、四つん這いから身を起こした歌仙兼定に向かって怒鳴った。もっとも半笑いでの発言であり、別段機嫌が悪いわけではないようだった。
 反面、二代目兼定の打刀は不機嫌そのものだった。
 寝起きというのもあって、いつもより眉間の皺が深い。ずず、と大きく鼻を啜ったかと思えば、牙を覗かせて威嚇して、まるで人語を話す獣だった。
 唖然としている短刀に覆い被さる姿勢を維持し、会津兼定をけん制して腕を振るった。
 打たれる前に半歩下がった男は仰々しく眉を吊り上げ、何を思ったのか、にやりと口角を持ち上げた。
「なあ、小夜。いーこと教えてやろうか。こいつってば、自分だけ修行に出させてもらえねえって、わんわん泣いてやがったんだぜ?」
 膝を折って座り、ゲラゲラ笑いながら歌仙兼定を指差した。あれほど滑稽なものは滅多にないと腹を抱えて、上半身を起こした短刀の肩をバシバシ叩いた。
「痛い、です」
 酒の力は大きく、遠慮がまるでなかった。
 一発ずつはそれほどではないけれど、加減なしの連打は流石に堪えた。
 自分の肘鉄がいかなる痛みを与えたか、少し申し訳なくなった。ただ当の和泉守兼定は、そのことはもう忘れているようだった。
 下品な笑い声を響かせて、まだ歌仙兼定を指差している。
 本来なら不快感を露わにし、力尽くでも黙らせようとする打刀は、今日に限って大人しかった。
 振り返り見れば、顔が赤い。酒の影響かとも思ったが、眠っている時よりも明らかに色合いが異常だった。
 鼻の頭だけでなく、頬も、目尻も赤かった。耳朶どころか首筋まで、紅葉も真っ青な色付き具合だった。
「ん?」
 肩を叩かれる痛みでうっかり聞き逃していたが、和泉守兼定はなんと言っていただろう。
 右から左に素通りした台詞を慌てて追いかけて、小夜左文字は目を点にした。
「ぢがあう! 泣いでなど、ぬわい!」
 にわかには信じ難い発言に絶句し、酔っ払いを交互に見比べた。
 歌仙兼定は舌足らずに喚き散らして、足元の布団をポカスカ殴った。
 その度に埃が舞い上がり、布団の凸凹が増えた。果てには枕を鷲掴みにして、大きな動作で放り投げた。
 癇癪を爆発させて、完全に子供に戻っている。刀剣男士に成長という概念があるかどうかは疑問ながら、やることはその辺の短刀よりも幼かった。
 幼児退行した打刀の一撃は、和泉守兼定を直撃した。喧しく笑っていたところ、顔面に枕をぶつけられて、怒りからというよりは、埃を吸いこんだことで激しく噎せた。
「ゲッホ、ゲホ、うぇっ」
 ぼとっと落ちた枕を膝に乗せ、目の前を忙しく手で扇いだ男に歌仙兼定がしたり顔を作った。
 瞬間、ガシッと枕を掴んだ男が少ない動作で投げ返した。
「なにをずる!」
「そいつあ、こっちの台詞だ」
 売り言葉に、買い言葉。
 だみ声で怒鳴った打刀に、和泉守兼定が勝ち気に応じて、間に座っていた短刀はがっくり肩を落とした。
 背が低くて良かったと、こんなことで思いたくなかった。頭上を行き交う枕を追うのは止めて、彼はあまり馴染みのない室内を見回した。
「なにしに来たんだっけ……」
 和泉守兼定の部屋は、それほど汚くなかった。
 酒宴で出された料理の臭いが充満し、食べかすがそこかしこに散らばっているが、それは最近のものだ。
 不在にしている間に、面倒見の良い脇差が掃除していたのだろうか。棚は綺麗に片付けられて、埃はあまり落ちていなかった。
 何度か入ったことがあるけれど、記憶に残るほど鮮烈なものではなかった。物は意外に少ない。元主の影響か、歌を詠むのが好きな刀だが、出来栄えはまだまだだと歌仙兼定が言っていた。
「和泉守さん」
「んあ?」
 蕎麦殻の枕は打刀の間を何往復かした後、すっぽ抜けて壁に当たった。
 拾いに行くか迷っていたところに話しかけられて、和泉守兼定は間抜けな顔で鼻から息を吐いた。
 飛び道具を警戒していた男も、突然割り込んできた短刀に興味を示した。構えを解き、首を傾げて、藍色の後頭部を食い入るように見つめた。
「楽しかった、ですか?」
 その視線が、僅かに上にずれ動いた。
 静かに問われ、男たちはハッと息を呑んだ。
 酒の勢いに任せて笑いっ放しだった打刀は、ほんの一瞬固まって、じきに表情を引き締めた。弛緩していた筋肉に電流を走らせ、微睡んでいた眼に光を宿した。
 沈黙はそれほど長くはなく、けれど短くもなかった。
「どうだろうな」
 ふっ、と笑った男は、ここではない場所を見ていた。
 瞬き一回分の時間で様々なことを思い出したのか、哀しげで、切なげで、苦しそうだった。
 俯いていたかと思えば突然背筋を逸らし、なにもない天井を見た。胸の前で腕を組んで、喉仏を晒して停止した後、疲労を訴える首を慰めながら肩を回した。
「けど、行って良かった。それだけは間違いねえ」
 ひと言ひと言を噛み締めながら呟いて、骨をぼきりと鳴らした。
 首の後ろを撫でながら嘯いた彼に、小夜左文字は満足げに頷いた。
「つぅか、てめーこそ、どうなんだ。満喫してきたのか?」
「お小夜」
 布団に正座して畏まった少年に、自分ばかりが話すのは不公平だと和泉守兼定が水を向ける。
 大人しく聞いていた歌仙兼定も興味があるようで、呼ばれてもないのに姿勢を正した。
 ふた振りから痛いくらいの視線を浴びて、半年以上前に修行を終えて帰って来た短刀は、居心地悪そうに身を捩った。
「どう、でしょうか」
 答えは帰ってきたばかりの打刀と、そう変わらなかった。
「楽しくは、なかったです。でも、行かないで済ませるよりは、良かったと……今は思います」
 血に濡れた逸話を持つ短刀は、時に有り難がれ、時に煙たがられた。高値で取り引きされて、珍重されて来たけれど、その事は別段嬉しくもなんともなかった。
 各地を転々とする中で、自分が存在している意味はなにかと、ぼんやり考えていた。
 号など欲しくなかった。
 仇討ちを果たした短刀として、研ぎ師の男の手によって葬られてしまった方が良かった。
 だが過去に跳んで、名付け親である男に会って、少しだけ考えが変わった。
 小夜左文字が本当に復讐したかったのは、己自身だ。最初の主を守れず、次の主となった山賊までもを自らの刃で殺した、自分自身を消してしまいたかった。
 けれど願いが果たされることはなかった。細川藤孝の手に渡った際には風雅な号を与えられて、自らを殺す術は失われた。
 会いに行った男には、恨みしかなかった。仇討ちの短刀を『小夜左文字』にした男が、憎らしくてたまらなかった。
 だがいざ顔を合わせてみれば、男は嬉々として語り掛けて来た。その腰に差す短刀は、と指摘すれば、来歴からその刃の美しさまで、口角泡を飛ばす勢いで喋り続けた。
 愛されていた。
 慈しまれていた。
 復讐心に囚われて、ずっと昔に置き去りにしたものを、まざまざと思い出した。
 良い事ばかりではなかった。だが、悪い事だけでもなかった。
 満足いく旅路だったかと言われれば首を横に振るが、物足りない旅路だったかと訊かれても、同じく首を横に振るだろう。
 しんみりした気持ちになって、和泉守兼定と向き合い、しどけなく微笑む。
「ずるいぞ」
「え?」
「ふたりだけで分かり合った顔をして。狡いじゃないか!」
 そこに唐突に割り込んでくる男がいて、ふた振りは一斉に振り返った。
 歌仙兼定はまたもや癇癪を爆発させて、綿入りの掛け布団を握りしめていた。爪を立て、噛みつき、力いっぱい左右に引っ張った。
「馬鹿、止めろって。破れるだろ」
「こんなもの、こうして、こうして、こうしてやる!」
 この中で、彼だけが修行に出る許しをもらえていない。何度か審神者に掛け合っているものの、色よい返事は得られていなかった。
 仲間外れにされて、拗ねていた。背高な打刀に合わせて丈が長い布団をぶんぶん振り回して、地団太を踏んで、喧しい事この上なかった。
 酒の力というものは、かくも凄まじいものなのか。
 理性を忘れて暴れる彼を押さえつけ、和泉守兼定が寝具を引き剥がした。
 投げて寄越されたのを抱き止めて、小夜左文字はじたばた藻掻き続ける男に苦笑した。
「歌仙もそのうち、お許しが出ます」
「いつだ。明日か。明後日か」
「そうやって暴れているうちは、出ないと思います」
「おざよがづべだあい」
「ぶははははは!」
 粟田口の短刀たちが次々旅立つ中、小夜左文字もかなり待たされた方だ。
 歌仙兼定にも、いずれ沙汰が下るだろう。ただしいくら酔っぱらっているからとはいえ、こうも見苦しく騒ぐようでは、能力不足として先送りにされても仕方がなかった。
 冷静に言い切った短刀に、打刀が鼻声で愚図った。
 和泉守兼定は腹を抱えて笑い転げて、直後に閉まっていた襖がドーン、と開かれた。
「ちょっと! うっさい!」
 先ほどまでここで騒いでいた加州清光が、こめかみに青筋を立てて怒鳴り込んできた。
 喧しいからという理由で酒宴が解散したのに、まだ騒がしいとはどういうことか。あまつさえ文句を言いに来た短刀まで一緒で、道理に合わないとはこのことだ。
 罵声を浴びせられて、室内が水を打ったかのように静まり返る。
 言いたいことを言ってスッキリしたらしい。加州清光はふんっ、と鼻を鳴らすと、開けた時同様の荒っぽさで襖を閉めた。
 どしどし五月蠅い足音は、すぐ聞こえなくなった。
 ひと組しかない布団の上でもつれ合っていた三振りは、互いに顔を向け合い、数秒の間を置いて噴き出した。
「しゃーねえ、寝るかあ」
「寝よう、寝よう」
「そうしてください」
「おやおや。どこへ行くんだい、お小夜」
「そうだぜ、小夜坊。帰るだなんて、寂しいこと言うなって」
「ちょ、え。うわあ」
 和泉守兼定がいかにも渋々といった感じで頭を掻き、歌仙兼定が皺の寄った敷き布団を撫でた。小夜左文字は部屋に戻るべく立ち上がろうとして、またもや後ろから引っ張られて倒れた。
 二度目の仰向けでの万歳姿を、ふた振りの兼定が仲良く覗き込んできた。
「いえ、僕は……」
「泊まってけよー」
「そうだ、お小夜。もう遅い。ここで休んでいくといい」
「つ~か、之定。てめえは部屋帰れよ」
「やめろ、蹴るんじゃない。貴様とお小夜を、ふたりだけに出来るわけがないだろう」
 断ろうとするが、押し切られた。最後まで言わせてもらえず、左右から抱きつかれて、ぺしゃんこに潰れてしまうのでは、と恐ろしかった。
 挙げ句にひとを挟んで蹴り合いの喧嘩まで始まって、ゆっくり休むどころの騒ぎではない。
 あらゆることが面倒臭くなって、小夜左文字は溜め息を吐いた。和泉守兼定が身に着ける防具は固く、今のまま横に来られると当たって痛かった。
「和泉守さん、胸当てが、痛いです」
「おっと、こいつはすまねえ。待ってろ、今脱ぐからよ」
「よし、お小夜。剥ぎ取ってしまえ」
「ぎゃっ。なにしやがんだ、之定。って、小夜坊も、こら。やめろ、やめ……ぶひゃはははっ」
 指摘すれば、打刀は素直に応じてくれた。寝転がっていたのを起き上がり、外そうとして、歌仙兼定の擽り攻撃を受けて身悶えた。
 着替えを手伝っているのか、邪魔をしているのか、それすらもよく分からない。
 嗾けられた短刀はふむ、と頷いて、羽織を脱がせるついでに後ろからしがみついた。
 艶やかな黒髪に鼻筋を埋めて、ぐりぐりと擦りつけた。三振り団子になって布団に倒れ込んで、降って来た大きな手に首を竦めた。
 歌仙兼定はもう、誰を撫でているのか分かっていない様子だった。
 短刀が修行を終えて帰って来た夜は、江雪左文字や宗三左文字と、珍しく枕を並べて寝た。
 昔馴染みのこの刀は、翌朝なにも無かったように笑いかけて来た。けれどもしかしたら、話したいことや、聞いて欲しいことがあったのかもしれない。
「歌仙が修行に行って、帰ってきたら。お祝い、しましょう」
 和泉守兼定の向こう側に居る男に手を伸ばすが、指先しか届かなかった。
 それでも構わず撫で返して、部屋を照らす行燈の火を吹き消した。
 程なく聞こえ始めたふた振り分の寝息を数えて、小夜左文字も目を閉じた。

草枕旅なる袖に置く露を 都の人や夢に見ゆらん
山家集 雑 1009

2017/10/22 脱稿