我かと行きて いざとぶらはむ

 ふわりと香る夜風に、頬を撫でられた。
「ん、む……?」
 深く、暗いところに沈みこんでいた意識が、僅かに波立つ。潮の満ち引きが始まって、流れが起こり、導かれるまま水面へ上昇を開始した。
 瞼がぴくぴく痙攣を起こし、縁を彩る睫毛が躍った。薄く開いていた唇から吐息が零れ落ち、うつ伏せの体躯がぶるりと戦いた。
 弛緩していた筋肉に、弱いながら電流が駆け抜ける。
 ビクッと四肢を震わせて、前田藤四郎は薄い瞼を開いた。
 最初はおぼろげだった視界を、瞬きで徐々に明るくしていった。ぼんやりした輪郭を明らかにして、涎で濡れた顎を敷き布団に擦りつけた。
「あふ」
 そこで一旦意識が遠退き、折角開いた瞼が落ちた。ストン、と吊り上げ式の窓が落下するかのように、ぴしゃりと閉ざされた。
 そのまま意識も沈黙し、再び眠りに入るかと思いきや。
「んー……?」
 ちょっとした違和感が、二度目の就寝を阻止した。
 口をへの字に曲げて、短刀の付喪神はもぞもぞ身じろいだ。顔面を敷き布団に押し付けて、なにかを探し、右手をバタバタさせた。
 傍目には寝床を海とし、泳いでいるように見えた。けれどこれを面白がり、笑う存在はなかった。
 確かにあるはずの気配が途絶え、見付からない。
 何度やっても空振りする右腕に眉を顰めて、前田藤四郎は不機嫌に頬を膨らませた。
「おおれんら、さん」
 廻り切らぬ舌を操り、不満を込めて呟く。
 被っていた布団ごともそりと起き上がって、彼は眠気を残す目を頻りに擦った。
 合間に大欠伸を挟み、二重、三重にぶれている世界に首を傾げた。まだ夢の続きなのかと剣呑な目付きを作り、静まり返った空間を見回した。
「いない」
 耳を澄ませば虫の声が五月蠅いが、それは部屋の外の話だ。
 短刀にはかなり大きい布団に正座して、彼は掠れた声で呟いた。
 八畳ほどある室内の真ん中に陣取り、灯りを探して目を泳がせた。枕元の行燈の灯はもう消えて、油の匂いもしなかった。
 それでも広々とした空間を認識できるのは、彼が人の身でありながら、人間ではないからだ。
 歴史修正主義者が歴史改変を目論み、時間遡行軍を編成して過去への介入を開始して、もう二年と半分が過ぎた。
 初めのうちは戦力が揃わず、あちらの横暴を許した時期もある。しかし時の政府側も、手をこまねいて見ていたわけではない。審神者は順調に、所属する刀剣男士の数を増やしていた。
 前田藤四郎が顕現した直後には居なかった刀剣男士が、本丸には随分と増えた。
 この部屋の主である太刀も、後からやって来た刀のひと振りだ。
 大柄な男の体格に合わせられた布団は、短刀には広すぎる。
 身の丈に合わない空間は落ち着かず、居心地が悪かった。
「どこへ」
 次第に明朗さを取り戻していく意識に合わせ、鼻が詰まったかのような声も、はっきりと響くようになった。
 肩からずり下がっていた寝間着を整え、緩んでいた帯を結び直す。少しもじっとせず、身体のどこかを動かし続けて、彼は見つからない大きな影に小鼻を膨らませた。
「厠でしたら、起こしてくださればよかったのに」
 いつの間にか、共寝をしていた男が姿を消した。
 こんな夜更けにいなくなる原因が他に思いつかなくて、前田藤四郎は不満を露わに呟いた。
 太刀は、夜目が利かない。夜間の戦闘でも不利益を被るので、陽が暮れてからの隠密行動は、短刀や脇差の出番だった。
 本丸の屋敷には随所に常夜灯が設けられているものの、死角が全くないわけではない。男士らの眠りを妨げないようにとの配慮から、各自の私室に近い場所には設置されていなかった。
 だからすぐそこの廊下は、とても薄暗い。
 短刀なら難なく歩き回れる場所も、大典太光世らにとっては脅威だった。
 どこかで転び、小指を打って悶えているのではなかろうか。
 そんな事を考えて、前田藤四郎は畳にはみ出ていた掛け布団を回収した。
 手早く寝床を整え直し、綿の間から爪先を引き抜いた。
「冷えますね……」
 途端に末端から熱が逃げて行って、彼は季節の変化に首を竦めた。
 ひと月半前だったら、裸でも平気だった。あまりの暑苦しさに負けて、薄衣一枚羽織るのさえ億劫だった。
 ところがこの数日はめっきり冷え込んで、二枚や三枚着込んでいないと、肌寒い。ついこの間まで鋭かった昼間の陽ざしも、昨日あたりからとてもまろやかになっていた。
 穏やかで、過ごし易い気候になった。
 ただそれは人間や刀剣男士に限った話ではない。
 収穫期を目前とした農作物を前にして、大地を踏み荒らす野分が、ここぞとばかりに襲撃を繰り返していた。
 獣ならば行動がある程度予測できるが、自然災害はそうはいかない。
 次はいつ押し寄せて来るか分からず、農作業は空模様を確認しながらだ。雨戸の補強や、雨漏りの調査も、随時行われていた。
 夜が明けたら、新しい一日が始まる。
 危険に備えての準備に加え、野菜類の収穫と、やることは山積みだった。
 たとえ半刻だけであろうとも、しっかり休み、眠らないと、体力は戻らない。
 廊下で転がっている太刀まで想像して、前田藤四郎は臍を噛んだ。
「大典太さんになにかあってからでは、遅いですから」
 本当に小指を角にぶつけたのでは、と疑いたくなるくらい、太刀の帰りが遅い。
 用便だけなら、ここまで掛からないはずだ。いよいよ疑念が膨らんで、短刀は膝同士を擦り合わせた。
「迎えに行きましょう」
 いかにも仕方なく、を装って独白し、立ち上がった。寝起きとは思えない機敏さで、捲れあがった寝間着の裾を叩いて伸ばした。
 鼻から息を吐き、唇は真一文字に引き結ぶ。世話の掛かる太刀の面倒を見るのは自分の役目と、決意を込めて一歩を踏み出した。
 隙間なくぴったり閉ざされた襖に向かい、丸型の引き手に指を掛けようとして、ふと瞳を泳がせる。
 彼を目覚めさせたのは、太刀が寝床を抜け出したからではない。布団は冷めており、大典太光世の体温は残っていなかった。
「……あれ」
 違和感を強め、彼は眉間の皺を深くした。目を眇めて俯いて、思案の果てにくるりと身体を反転させた。
 便所へ行くには、廊下に出なければならない。だがこちらには、風を通す隙間はなかった。
 するとあの時、鼻先を掠めた夜風はどこから迷い込んだのか。
 もっと早く気付くべきだった。まだ頭が眠ったままだったのかと自省して、彼は畳の上を走るか細い光にため息をついた。
 太刀部屋は正方形の中庭を囲む形で並んでおり、縁側に出る窓も設けられていた。打刀や脇差部屋より少しだけ広く、床の間の構造も立派だった。
 障子に出来た隙間は、寝入る前にはなかったものだ。外から侵入者があったとは考え難くて、前田藤四郎は自身の迂闊さに力なく首を振った。
「決めつけは、良くないですね」
 灯台下暗しとは、よく言ったものだ。
 ひとつのことに頭が向いて、他に気が回らなかった。最初の段階で別の可能性を考えておけば、こんな単純な間違いは犯さなかった。
 失敗した。
 舌を出して首を竦めて、彼は今来た道を戻った。いつでも潜り込めるよう整えた布団は迂回して、細く、長く伸びる光の筋を辿った。
 すい、と横に押し開いた障子の前方は、黒い塊で埋まっていた。
「こちらにいらしたんですね」
 縁側はさほど幅がなく、大柄な太刀が座ると、それだけでいっぱいだ。仕方なく障子の開きを大きくして、前田藤四郎は男の胡座を掻く男の右足を跨いだ。
 蹴らないよう注意して、砂埃が散る床の上で飛び跳ねる。寝間着の裾があまり広がってくれず、理想と現実が乖離して、跨いだ後の着地は綺麗にいかなかった。
「便所でなくて、すまなかったな」
「意地が悪いですよ、大典太さん」
 思ったほど歩幅が確保出来ず、転びそうになった。すんでのところで堪えて事なきを得たが、続けて底意地の悪い台詞が飛んできて、不満が膨らんだ。
 跳ね上がった鼓動を寝間着の上から撫でて宥め、短刀が口を尖らせる。
 不機嫌な声で叱られた太刀は声もなく笑って、額を隠す前髪を掻き上げた。
「……あ」
「どうした」
「いえ、なんでも」
 そのまま手を頭に置いて、淡い月光に瞳を晒した。
 内番の時でも隠れている生え際が表に出ており、白い肌が透けるように美しかった。
 思わず見惚れて、怪訝に見つめ返された。慌てて誤魔化して、前田藤四郎はとくん、と跳ねた鼓動に息を呑んだ。
「寝起きには、刺激が強すぎます」
「前田?」
「どうぞお気遣いなく!」
 自動的に赤く染まる頬を両手で隠し、ボソボソ言って、直後に声を大きくした。
 急に怒鳴られた方は呆気にとられ、ぽかんとして、上げていた右腕も膝に下ろした。
 もれなく黒髪が額に戻り、緋色の双眸も半分隠れた。開きっ放しだった唇がキュッ、と引き結ばれて、横向きに寝かされていた左膝が起き上がった。
「どうせ、俺など……」
 そこに額を預けて丸くなり、大典太光世がしょぼくれた声で呟く。
「ああ、いえ。大典太さんはなにも悪くないです。ご心配いただき、ありがとうございます」
 落ち込んで、蔵に戻ると言い出しかねない雰囲気を察して、前田藤四郎は大慌てで弁解した。
 顔の前で両手を振って、慰め、その隣にいそいそと腰を下ろした。最初は正座だったが、板敷きの上に直接は負担が大きく、すぐに取りやめた。
 縁側の中ほどに座す太刀より前に出て、軒下に向かって足を垂らした。頭上を仰げば月は雲に隠れ、夜を照らす光は儚かった。
 星も見えず、かなり暗い。両側も、真向かいの部屋も総じて灯りは消えていた。
 鼾が聞こえたが、どの部屋からなのかは分からない。
 少なくとも大典太光世ではない、と横目で隣を窺って、少年は安堵の息を吐いた。
「お休みにならなくても、よろしいのですか」
 中庭は苔生した地面に覆われ、同じく苔で覆われた大きな石が複数、並んでいた。背の低い木が意図的にばらばらに配置され、白い小石が境界線を描き出していた。
 この白い筋を境にして、庭を構成するものの高さが分けられていた。
 片方は低く、片方は高く。
 なんらかの思想が背景にあるのは明白だが、具体的にどのような考えあってのことなのかは、短刀には分からなかった。
 そんな石庭を眺めて、大典太光世は足を崩した。胡坐を組み直し、傍らに座す前田藤四郎を一瞥する。
「よくはない、が」
 視線を前方に戻したところで、短刀が再び太刀を見た。
 なかなか交わらない視線に焦れることもなく、彼らは思い思いに見たいものを視界に収め、穏やかに流れる時間を楽しんだ。
「虫の声が、美しくてな」
 夏が終わり、暑さは遠くなった。昼の時間が日増しに短くなっていき、地面に落ちる影は長くなる一方だった。
 季節の流れに敏感な虫たちは、種を残すべく躍起になり、毎夜の如く鳴き耽っている。
 こうしている今も、りーん、りーんと、軽やかな音色を響かせていた。
 この石ばかりの庭にも、何匹が紛れているらしい。途切れ途切れに聞こえて来て、前田藤四郎は感嘆の息を吐いた。
「本当ですね」
 空気が冷えているので、余計に澄んで聞こえるようだ。こんなに美しい演奏が聴けるのなら、夜更かしも存外悪くないと思えた。
 眠りは必要だが、急くことはない。心安らげる時間は、同じくらい重要だ。
「綺麗です」
 音は形を持たず、目にも映らない。だがぼんやりした月明かりの下で奏でられるそれらは、玻璃のように透き通り、淡い輝きを放っているように感じられた。
 きらきらと光を反射し、踊っている。
 目を閉じ、不要な情報を一切排除して、短刀の付喪神はうっとり頬を緩めた。四肢の力を抜き、風に身を任せてゆらゆら揺れて、荘厳な音色の中に魂を泳がせた。
「くしゅっ」
 しかしそれも、長く続かなかった。
 寝間着一枚で、夜気を浴びたからだろう。
 不意打ちのようにくしゃみが飛び出して、防げなかった。
 窄めた口から唾が飛び、声に驚いた虫がぴたりと鳴き止んだ。警戒してか、息を潜める。
 鼻の下を擦って、前田藤四郎は深く溜め息を吐いた。
「寒いか」
「平気です。……いえ、少しだけ」
 指先に呼気を浴びせ、捏ねて温める。
 一連の仕草を見守っていた男が、囁くように問うた。一旦は否定したものの、短刀はひと呼吸挟んで訂正した。
「そうか。では、そろそろ」
「いいえ。大典太さん、もう少し」
 首肯を受けて、大典太光世が起き上がろうと腰を捻った。障子の向こうに視線を投げて、袖を引かれて顔を顰めた。
 床に戻ろうと促した男を制し、短刀が掠れる小声で告げる。
 中途半端なところで言葉を切り、俯いた彼に、太刀は思う所があったのか、縁側に座り直した。
 下半身に体重を集め、裾が乱れるのも覚悟で胡坐を掻き直した。隙間から逞しく、雄々しい太腿や脛を晒した男を見上げて、前田藤四郎は嬉しそうに目を細めた。
「懐、お邪魔します」
 信濃藤四郎のようなことを言って、垂らしていた脚を回収した。四つん這いになって短い距離を進んで、待ち構えていた太刀の膝に腰を下ろした。
 どっしりとして固い胸を背凭れにして、両膝を揃え、懐に潜り込む。
 すっぽり収まった少年に苦笑を漏らして、大典太光世は華奢な体躯を包み込んだ。
「随分と冷えている」
「大典太さんこそ、こんなに冷たくなって」
 触れ合った肌を、示し合わせたわけでもないのに擦り合い、互いの体温を確かめた。
 そのうちに手だけでなく、足や、頬まで使って擦り始めて、ふた振りはもつれ合うように丸くなった。
「くすぐったいです」
 頬を捏ねられて、前田藤四郎が子供らしい声で笑った。
 きゃっきゃとはしゃぐ姿を眩しそうに見つめて、大典太光世は姿勢を正した。
「ここは、広いな」
 そうして緩慢に頷き、ぽつりと零した。
 中庭は、言うほど広くない。本丸の公的設備が揃う南棟と、刀剣男士の私室が集まる北棟との間にある庭の方が、余程広かった。
 だからきっと、彼が言いたいのは、面積がどうという話ではない。
 推測し、短く息を吐いて、短刀の付喪神は四肢の力を緩めた。
 立派で温かい椅子に身を預け、不意に落ちて来た睡魔に抗い、闇に目を凝らした。
 虫の声は止まず、近くなったり、遠くなったり、忙しかった。
「厚兄さんが」
「厚が、どうかしたか」
「いえ。たいしたことではないのですが」
 それで思い出したことがあって、前田藤四郎は呟いた。興味惹かれた太刀が合いの手を挟んできたのに首を振って、一瞬躊躇し、諦めて肩を竦めた。
「万屋で、虫かごを沢山買ってきて」
 それは、日付的には一昨日のことだ。
 粟田口の短刀のひと振りが、万屋で竹製の虫かごを大量に購入して来た。
 ひとつひとつはさほど大きくないけれど、並べると相当に場所を取る。これでいったい何をするのかと聞けば、鈴虫を捕まえて、飼うのだそうだ。
 そうやって手元に置いておけば、いつだってあの軽やかな鈴の音を楽しめる。多く捕まえれば、良い音を出す虫を厳選するのも可能だ。
 話を聞いていた歌仙兼定が、なんと風流なのかと褒めていた。
 それで厚藤四郎は上機嫌になって、早速虫取り網を手に取り、庭の草むらを駆け回っていた。
 秋田藤四郎や、後藤藤四郎らも一緒に地面に這い蹲っていた。
 金になる匂いを嗅ぎつけたのか、博多藤四郎も途中から参戦していた。
 前田藤四郎はその場にいたが、なにか違う気がして、加わらなかった。
「そうか」
「はい」
 淡々と説明して、言葉を切る。
 さほど面白くもない話だ。だからどうしたと聞かれたら、答えられない。
 だが大典太光世は、特になにも言わなかった。黙って虫の音に耳を澄ませて、前田藤四郎を優しく抱きしめ続けた。
「大典太さんだったら、どうしますか」
 退屈だったのではないかと懸念しつつ、沈黙を嫌い、敢えて問いかけた。
 勇気を振り絞った短刀に、前を見据えていた太刀は、瞳だけを彼に向けた。
「俺は、……そうだな。お前と同じだ」
 一瞬だけ目線を外し、淡々と音を紡ぐ。
 息継ぎの合間を縫うようにして虫の声が響き、リィィン、と余韻を残して消えていった。
 その後続いた沈黙は、そこまで息苦しいものではなかった。不思議と心が安らいで、ホッとできる時間だった。
「厚兄さんがやろうとしていることは、分かります。でも、僕は」
「ああ」
 緊張がほぐれて、楽になったからだろう。兄弟には言えなかったことを口にして、前田藤四郎は男の腕に頬を擦りつけた。
 ささやかに甘えて、芋虫のように丸くなった。手足を折り畳み、小さくなって、居心地が良過ぎる空間に身も心も委ねた。
 大典太光世はそんな彼の頭を撫でて、癖のない髪を梳った。
「狭いところに閉じ込めて、自分の好きにするのは、おかしいのではと」
 虫かごは小さく、簡素な構造だった。隙間はあるけれど、逃げられない幅に設計されていた。
 飼われる方は餌の心配がなく、捕食されることもないので安全かもしれない。だが虫らは、本来は野の中に在って、自在に駆け回るもののはずだ。
 こちらの都合でどうこうするのは、間違っている。
 しかし言い出せる雰囲気ではなく、ずっとしこりとなって残っていた。
「そうか」
「はい」
 先ほども交わしたやり取りを繰り返し、吐息を零す。
 ふっと目の前が暗くなった気がして顔を上げた短刀は、一瞬のうちに通り過ぎた微熱に頬を赤らめ、拳を作った。
 猫を真似て、ぺちん、と悪戯な男の胸を叩く。
 大典太光世は声もなく肩を震わせて、拗ねてしまった少年に目を細めた。
 どさくさに紛れて、なにをしてくれるのか。気持ちよく眠れそうな雰囲気だったのに、一発で頭が冴えてしまった。
「酔ってるんですか?」
 彼がこんなことをするのは珍しく、酒の力によるものかと疑った。だが共にひとつの布団で眠っていたのだ。彼が酒臭さを纏っていなかったのは、前田藤四郎が一番よく分かっていた。
 では自分で用意し、こっそり飲んだのかというと、それもない。
 灯りなしで夜の本丸をうろうろ出来るほど、この男は器用ではなかった。
「虫の声に、な」
 だからこれは、酒に酔ったからではない。
 秋の深まりを告げる虫たちの語らいに紛れ、当てられただけだ。
 虫が鳴くのは、番を探すため。己の魂の一部を受け止めて、命を引き継ぐ卵を産んでくれる相手を求め、呼びかけている。
 そこに情愛の類は、ないのかもしれない。本能に従うまま、そうすべきと組み込まれた遺伝子が、そうするように駆り立てているだけなのかもしれなかった。
 だとしても、夜空に響き渡る声の美しさは変わらない。
 一心に雌を欲する雄たちの熱意に毒されたのだと、太刀は密やかに微笑んだ。
「……では」
 真上から覗きこんでくる緋色の瞳を見詰めて、前田藤四郎は顎を引いた。仰け反り、分厚い胸板に後頭部を埋めて、右手を先に伸ばした。
 僅かに遅れて左腕も伸ばして、固くてごわごわしている黒髪を掬い、骨太な輪郭をなぞった。
「僕も、当てられてしまったようです」
 自身や、長兄である一期一振とはまるで違う逞しさを肌で感じながら、ぐん、と背筋を伸ばした。
 首を後ろに倒し、顎を突き出して。
 淡く微笑む男を確認して、目を閉じる。
 ちゅ、と吸い付いたのは、唇ではなかった。背丈に差があり過ぎて、この体勢からではどうやっても届かなかった。
 大典太光世が協力的であれば叶ったが、彼は行動を見守って、動いてくれなかった。
 触れた場所が少しザリザリしていたのは、髭が伸びて来ているからだ。
 毎朝丁寧に剃っているが、たまに剃り残しが飛び出ていることがあった。
 指摘してやれば、太刀は恥ずかしそうにして鏡に向かってくる、と言う。だが前田藤四郎自身は、ジョリジョリした感触が嫌いではなかった。
 再び顎に吸い付いて、ざらりとした感触を舌の腹で楽しんだ。先端を窄め、特に伸びている一本を探り当て、その周囲を擽った。
 それがまるで本物の猫のようで、くすぐったい。
「前田、こら」
 ねっとり舐られ、塗された涎が垂れていくのを感じとり、大典太光世は短刀の頭を押さえこんだ。
 反対の手で喉を拭ってやり、濡れた肌は寝間着の裾に擦りつけた。悦に入っていた前田藤四郎は、邪魔されて不満顔を作り、可愛らしく口を尖らせた。
「いけませんか?」
 何故止めるのかと、窄めた唇から息を吐く。
 膝を胸に寄せ、その前で両手の指を小突き合わせた彼に、上から眺めていた男は深く溜め息を吐いた。
 一旦遠くを見やり、なにを考えているのか、前髪を梳き上げた。あまり広くない額を晒し、灼眼を眇めた。
 りーん、りーん、と鈴虫が鳴いていた。近くにいる雌を誘い、惑わせんとしていた。
 夜明けはまだ遠く、虫たちの営みはこれからが本番だった。
「……お前の兄に、怒られてしまうな」
「いち兄に、なにか言われましたか」
「いや」
 ため息混じりの呟きに、前田藤四郎がムッとする。
 数ある藤四郎を率いる太刀の名を出されて、ドキリとするより、反発心が勝った。
 一期一振は時に厳しく、時に優しく、弟たちに接していた。前田藤四郎も彼を尊敬しており、兄として慕っていた。
 だから大典太光世との関係を快く思って貰えないのは哀しいし、悔しかった。どうして分かってくれないのかと苛立って、大好きな刀と刀が仲良く出来ずにいるのを憂いでいた。
「言われたわけではない、が」
 嫌味のひとつやふたつ、ぶつけられたのかと思ったが、違うらしい。
 口籠もり、歯切れの悪い太刀に首を捻って、前田藤四郎は男の胸に寄り掛かった。
 仰け反ったままだと苦しくて、頚椎も悲鳴を上げていた。楽な姿勢を作り、体重の大半を太刀に預けて、伸ばした膝の上に両手を転がした。
 足首から先だけが縁側からはみ出し、なにもない空間を横切った。足の裏に冷えた空気が触れて、末端を走る血管が一斉に萎縮した。
「大典太さんは、もっと、堂々とすべきです」
 仮にも天下五剣に名を連ねているのだ。自信無さげでおどおどしているのではなく、胸を張り、威風堂々として、肩で風を切るように歩いていればいいのだ。
「難しいな」
 血気盛んに吠えた短刀に、隈が消えない太刀は苦笑した。
 怪異も、病も、烏さえもが彼を恐れ、逃げていった。強すぎる力は時に不幸を招くというが、その典型だった。
 だが虫は、数が多いからか、それとも霊力に対して鈍感なのか。大典太光世を恐れることなく近付き、蔵の傍でも遠慮なく鳴いていた。
 りーん、りーんという鳴き声は、当時も、今も、変わらぬ響きで彼を楽しませた。
「この本丸が、今の大典太さんにとっての、蔵、ですか」
 感じるものがあり、前田藤四郎が声を潜めた。
 あまり口にすべきではない疑問を述べた彼に、太刀は紅蓮の瞳を細めた。
 自分の足で立ち、歩むのを許されなかった付喪神は、この地に至って、自在に動き回れる現身を得た。
 けれど行動範囲は、審神者によって制限されている。本丸の内側と、指令を受けて向かわされた過去の時代のみ、だ。
 規範から逸脱し、歴史を変えてしまうような行動を起こせば、処罰される。彼らを顕現させた時の政府の目的が、時間遡行軍の討伐なのだから、当たり前といえば当たり前だった。
 刀剣男士は、審神者に忠誠を誓う。新たな主の役に立とうと奮起して、この当然の決まりごとを無条件で受け入れた。
 しかしそれは、裏を返せば、己の行動に枷を嵌められている、ということだ。
 彼らに自由はない。
 この本丸は、審神者が作った箱庭だ。
 小声での問いかけに、大典太光世は少し困った顔をした。他に聞くものがないかと素早く左右を確認して、肩を竦め、短刀の丸い頭を撫でた。
「お前にこうして触れられるのだから、随分と居心地が良い蔵だな」
 栗毛色の髪をくしゃくしゃにして、告げた台詞は早口だった。
 前田藤四郎が漂わせた、不穏な空気を乱暴に薙ぎ払った。そういう考えを持つべきでないと叱って、太い指で頭皮を揉みしだいた。
 優しく触れられる分は良いが、適度に力が籠もっていたので、最初は良くても、段々と痛くなってくる。そのうち素手で頭蓋を破壊されるのでは、と恐怖に駆られて、短刀はかぶりを振って逃げた。
 緩く曲げた膝に向かって倒れ込んで、じんじんする箇所を庇い、涙目で後ろを振り返る。
 視界に入った男は呆然として、空になった右手を当て所なく揺らしていた。
 もしや無意識だったのでは、と後から気が付いた。加減知らずの触れあいは、彼なりの照れ隠しだったのかもしれなかった。
「ああ、もう」
 そんな顔をされたら、怒るに怒れない。
 膨れ上がった苛立ちは、一瞬のうちに弾け飛んだ。真面目に考えるのも馬鹿らしくなってきて、前田藤四郎は背筋をしゃんと伸ばし、膝に両手を揃えた。
「大典太さんがそうおっしゃるのなら、もっと居心地良くするために、頑張らねばなりませんね」
 無制限の自由は、とてつもなく重い責任が付きまとう。何をしても良いということと、なにをしても許される、ということは、決して同義ではない。
 鈴虫の鳴き声が弱まった。リィィ、リィィ、とか細くなって、静かな夜に溶けて行った。
 前田藤四郎としても、大典太光世と離れ離れになるくらいなら、いつまでもこの本丸に留まり続けたい。たとえここが箱庭だとしても、沢山の兄弟や、仲間と笑いあえるのであれば、不満はなかった。
「さあ、明日のためにも、そろそろ休みましょう。床を整えてまいります」
 気持ちを切り替え、血気盛んに宣言した。
 いつまでも夜風に当たっていては、冷える一方だ。眠気はさっぱりだが、横になっていればいずれ眠くなるはずと、彼は座り心地抜群の椅子から起き上がろうとした。
「前田」
「大典太さん」
 それを制して、大典太光世の腕が動いた。
 堰き止められた少年は中腰を止めて、仕方なく太刀の胸に舞い戻った。
「明日に、響きます」
 一度は自分から誘ったが、もうそんな雰囲気ではなかった。
 背中越しに感じる鼓動と熱に頬を赤らめて、燻っていた感情を力技で抑えこんだ。
「分かっている。少しの間で良い」
 だというのに、大典太光世はその努力をあっさり吹き飛ばした。
 懇願されたら、断れない。顔を見せないで、耳元で低く囁くのは卑怯だ。
 ぞくりと来て、背筋が粟立った。寝間着の裾を払い、太腿に触れた節くれだった指の感触に、電流が走った。
 左足が引き攣って、爪先が空を蹴った。耳朶を甘噛みされて、全く関係のない場所がゾクゾクした。
 咄嗟に開きそうになった膝を閉じ、右足を床板に押し付けた。内股になって侵攻を防ぐがさほど効果はなく、ぴったり貼り合わせたはずのものが、簡単に左右に割れてしまった。
 狭い空間を突き進み、骨張った手が深く沈んだ。
「……あっ」
 やり方は強引なのに、触れ方は存外優しくて、そのちぐはぐさがおかしかった。
 幼い柔肌を擽り、暗がりの中で掌が蠢く。
「前田、……いいか」
 僅かに乱れ、低さを増した声が耳元で跳ねた。
 質問の瞬間だけ、まさぐる手の動きが止んだ。敏感な場所のすぐ脇に添えて、まだ引き返せると暗に伝えていた。
 本気で嫌がるのなら、ここで終わらせる。
 言外に込められた思いを汲んで、少年は斜めに崩れた姿勢はそのままに、首を傾け、上を見た。
「なんて顔を、しているんですか」
「前田」
 覗き込むようにして待っている男の表情を確かめ、笑みが零れた。相変わらず自信無さげで、心細げな姿に相好を崩して、彼は両手を伸ばし、太刀の頬を挟んだ。
「大典太さんが望むことが、僕の、願いです」
 この箱庭は、心地いい。
 願わくばこの先もこのまま、共に在りたいと祈る。
 一度掴んでしまった以上、手放し難い感情を膨らませて、前田藤四郎は首を伸ばした。
 今度こそ、大典太光世は協力的だった。
 背を丸め、顔を伏した。
 唇を重ねた彼らを羨むように、りーん、りーん、と虫が鳴いた。

秋の野に人まつ虫の声すなり 我かと行きていざとぶらはむ
古今和歌集 秋 202

2017/10/15 脱稿