柳の芽食む 鶸の村鳥

「ふう……」
 湯上がりで火照った身体を持て余し、小夜左文字は小さく吐息を零した。
 首に掛けた手拭いで汗を拭い、内側からほかほかと湧き出てくる熱に頬を緩める。一日分の疲れが湯気と共に抜け出ていくようで、なんとも言えない心地良さだった。
「暑い」
 夏の盛りはとうに過ぎたが、風呂場はあの頃を思い出させるに充分だった。
 湯船に浸かるだけでなく、蒸し風呂でも時間を過ごした。たっぷり汗をかいて、垢を擦り落としたお陰で、身体はどこもかしこもつるつるの、ぴかぴかだった。
 一皮捲れて、新しい自分になった気がする。
 こんなことで黒い澱みから解放されるわけではないが、しばしの幸福感に胸を満たして、短刀の付喪神は上機嫌に足を動かした。
 ひたひたと廊下を進み、賑やかな座敷の前を通りかかる。
「おっ、なーんだ。小夜じゃん。どう。一杯やってく?」
 偶々目が合った次郎太刀に誘われたが、首を振って、彼はそのまま真っ直ぐ進路を取った。
 後ろからドッと笑い声が起こったが、自分が笑われたのではないはずだ。
 思わず首を竦めて振り返って、小夜左文字は小さく溜め息を零した。
 毎日、毎晩、飽きもせずによくやるものだ。
 朝になって、飲み過ぎから来る頭痛に悩まされると分かっているのに、少しも学ぼうとしない。
 座敷には日本号や、燭台切光忠の姿もあった。膝丸と髭切が輪に加わっていたのは珍しいが、だからといってあの騒々しさに混ざろうとは思わなかった。
「なにもなければ、良いけど」
 酔いに任せて気持ちを昂ぶらせ、本音を吐き出す刀もいる。
 それで喧嘩になっても、周りは誰も止めない。それどころか拍手喝さいを送って囃し立て、煽るのが常だった。
 そうやって大乱闘が発生し、障子や襖がボロボロになったことが、これまでに何度かあった。
 当事者である刀が二日酔いで役に立たないからと、なにも関係ない刀が片付けに駆り出されるのは、癪だ。
 最近は起きていない騒動を思い出して、小夜左文字は目を瞬いた。
 前方に意識を戻し、深く息を吸い込んだ。廊下を照らす置き行燈の油の匂いが薄れ、ひんやり冷たい空気が肺に流れ込んできた。
「はあ」
 深呼吸を数回繰り返し、内側から冷えていく感覚に口元を綻ばせる。
 ようやく辿り着いたのは、秋草に彩られる庭に面した一角だった。
 紅葉するにはまだ早く、庭の公孫樹も、桜の葉も、まだ色付いていなかった。代わりに野の草が精一杯背伸びをして、紫や、橙色の花を咲かせていた。
 白粉花は蕾を閉じて、静かに朝を待っていた。
 誰かが昼間、沢山摘んだのだろう。日中に見た時よりも、花の数は随分と減っていた。
 花弁を絞って染め物に使ったり、蜜を吸ったり、遊び方は色々あった。
 黄色や赤、白が混じり合う花々を思い浮かべながら相好を崩して、小夜左文字は指先にそうっと息を吹きかけた。
「そろそろ――」
 風呂で温もり過ぎたのをどうにかしたくて歩き回っていたが、冷えすぎるのもあまり良くない。
 止まらなかった汗も落ち着いてきたことだしと、自室に向かうべく、来た道を戻ろうとして。
「うん?」
 視界の隅に黒っぽい塊を見つけて、彼はくるりと一回転した。
 踵を返すつもりが、半回転したところで止まれなかった。何をやっているのかと自分に赤くなって、短刀の付喪神は眉を顰めた。
 明るいうちとは一味違う景色を前に、誰かが座り込んでいた。濡れ縁の端に腰かけて、背を丸めていた。
 眠っているのか、声を殺して泣いているのか、ここからでは分からない。
 短刀でなかったら、気付かずに見過ごしていた。それくらい分かり難い場所に座り込んでいる刀に眉目を顰めて、小夜左文字は手拭いの端を撫でた。
「篭手切……ですか?」
 このまま立ち去っても良かったが、見覚えある輪郭に、動けなかった。
 確証が持てなくて自信無さげに呟けば、それで初めて、短刀の存在に気付いたらしい。蹲っていた脇差がハッと肩を震わせて、慌てた様子で背筋を伸ばした。
「小夜、じゃないですか。どうしたんですか、こんなところで」
 吃驚した様子で聞かれたが、それはこちらの台詞だ。
 どうしてこんな明かりもない、滅多に誰もやってこない場所を選んで、座り込んでいたのか。
 見たところ、風呂上がりというわけでもなさそうだ。もう床の準備を整えても良い頃合いなのに、彼はまだ、いつもの洋装姿だった。
 上着を脱ぎ、肘の辺りまで袖を捲っていた。襟を緩め、喉元を晒し、出陣時とは違って楽な格好だった。
 複数の紙を束ねて一冊にしたものを左手に、右手には墨の補充が不要な硬筆を握りしめている。
 どうやら彼は、月明かりくらいしか頼るものがない中で、書き物をしていたらしかった。
「目が悪くなりますよ」
「大丈夫。充分、見えています」
 暗い場所で作業をすると、そうでない時よりも疲れる。
 顕現してまだ間がない彼だから、知らないのかもしれない。身を案じて教えてやれば、どう受け取ったのか、彼はあっけらかんと言い返した。
 眼鏡の奥の目を細めて笑い、文字で埋め尽くされた書面を見せてくれた。だが字が細かすぎて、小夜左文字の位置からでは読めなかった。
「部屋でやれば、良いのでは」
 見える、見えないの話ではなかったのだけれど、伝わらなかった。
 仕方なく言葉を換えて、彼の方に足を進めれば、思う所があったらしく、篭手切江は目を泳がせた。
 背筋を伸ばしたまま遠くを見て、明後日の方角に顔を向けたかと思えば、すぐ戻ってきた。
 濡れ縁から足を垂らす脇差の隣に膝を折って、小夜左文字は淡い月光を頼りに、紙面に焦点を定めた。
 ところがいざ読もうとした途端、篭手切江はサッ、と帳面を隠してしまった。
「?」
 見せてくれるものとばかり思っていたので、反応は意外だ。
 首を捻って視線を上げれば、脇差の頬はほんのり紅に染まっていた。
 僅かに羞恥を滲ませて、もぞもぞ身じろいでいた。挙動不審な態度に目を眇め、短刀の付喪神は腿の間に手を挟んだ。
 会話が途切れ、続けて良いかどうかで迷う。
 だが様子からして、触れないで欲しい雰囲気が感じられた。
「早くしないと、風呂の湯が抜かれてしまいます」
「問題ない。あと少ししたら、向かうつもりだ」
 仕方なく空気を読んで、話題を変えた。
 寝間着としている湯帷子の衿を撫でながら囁いた短刀に、脇差は嗚呼、と頷き、首を後ろに向けた。
 見えるわけがないけれど、その方角に湯屋がある。利用できる時間は限られており、あまり遅くなってから向かうと、空っぽの湯船を前に打ちひしがれることになった。
 今なら充分間に合うが、座敷の飲み会が終わるのを待ってからだと、難しい。
 また聞こえてきた笑い声に肩を竦めて、小夜左文字は淡々としている脇差に首を捻った。
「なんですか?」
 不思議そうに見つめていたら、気付いた篭手切江が微笑んだ。
 生真面目な一面を脱ぎ捨てて、警戒心を解いていた。人好きのする笑みを浮かべた彼に、小柄な付喪神は緩慢に頷いた。
「歌仙が」
「歌仙?」
 居住まいを正し、小夜左文字は踵に尻を置いて正座した。膝小僧を覆う格好で両手を並べて、凛と背筋を伸ばした。
 急に畏まった彼に、脇差が眉間に皺を寄せた。小さな口から飛び出した名前にも渋面を作って、心当たりを探し、視線を彷徨わせた。
 歌仙兼定と小夜左文字、そして篭手切江は、共に戦国大名の細川家に所縁を持つ。しかし三振りが同時期に、同じ屋敷にあったことはなく、微妙に時期がずれていた。
 小夜左文字は初代藤孝から二代目忠興に伝わり、三代目忠利の時代に細川家を出ている。
 一方篭手切江は藤孝の時代に細川家を出て、忠利の時代に一度戻って来ていた。
 歌仙兼定は二代目忠興から始まり、三代目へと続いている。
 各々面識はあるけれど、一堂に会して和気藹々と過ごした過去はない。
 その打刀と、脇差は、先日一緒の隊で出陣した。
 戻ってきた歌仙兼定は妙に落ち込んでいて、かと思えば突然怒り出すなど、情緒不安定だった。
「歌仙が、どうかしたんですか」
 昔馴染みの刀がそんな状態になった原因が、自分にあるとは微塵も感じていないらしい。
 結局分からないと首を傾げた篭手切江に、小夜左文字は頬をピクリと痙攣させた。
 引き攣った笑みで返して、直後に深々とため息を吐く。項垂れて顔を伏した彼に、脇差の少年は不愉快だと小鼻を膨らませた。
「小夜」
 黙り込まれたのが面白くなくて、続きを促し、声を荒らげる。
 それでちらりと脇差を見て、短刀の付喪神は力なく首を振った。
「歌仙は、あなたが来ると知って、とても楽しみにしていたのですが」
 審神者が時の政府の意向に従い、この本丸を建ち上げた時、最初に顕現したのが歌仙兼定だった。
 風流を好む打刀は、周囲にもそれとなく、風流さを求めた。雅に務めるよう訴え、そうでない連中には目くじらを立てて怒った。
 だが仲間が増えていくに従って、彼は気付いてしまった。本丸内で風流さを解する刀の方が、圧倒的に少ないという事実に。
 だから彼は、長い間嘆き続けてきた。自分の真の理解者は小夜左文字くらいだと、事あるごとに縋りついて来た。
 そんな最中だ。審神者から、篭手切江顕現の兆候があると教えられたのは。
 同じ屋敷で過ごしたことがある刀の来訪を予感して、歌仙兼定は見事に浮き足立っていた。
「そうですか。それで?」
 きっと彼とは、仲良くやっていけるに違いない。他の刀たち相手では出来ない話をして、大いに盛り上がれるのを期待した。
 ところが、蓋を開けてみたらどうだろう。
 篭手切江はさほど興味がない様子で相槌を打ち、帳面の上に硬筆を転がした。
 脇差の持ち物は、小夜左文字の愛用しているものとは随分違っていた。毛筆ではなく、先端が金属製の硬筆を持ち歩き、書き物をする際に墨を磨ることもしなかった。
 便利だが、どうも味気ない。
 それは、歌仙兼定が毛嫌いするもののひとつだった。
 催促されたが、短刀は返事を渋った。様子を窺い、探る眼差しを投げかければ、脇差は少し仰け反り気味になった後、口を尖らせて膨れ面を作った。
「あれは、……向こうが勝手に、僕に期待しただけです」
 戦場で交わした会話の件だと、今更ながら気付いたようだ。
 それを小夜左文字が知っているというのにも機嫌を損ねて、篭手切江は頬杖をついた。
「僕は和歌などという、古臭いものとは、縁を切ったんです」
 一方的に捲し立てて、そっぽを向いた。暗闇を睨んで苛々と身体を揺らし、小夜左文字を視界から追い出した。
 その拗ね方が、微妙に歌仙兼定と似通っている。
 あの男も都合が悪くなると、すぐこんな態度を取った。
 変なところで共通点を見つけてしまって、藍色の髪の短刀は失笑を禁じ得なかった。
「なにがおかしいんです」
「いえ。別に、責めているつもりはないです」
 声もなく肩を揺らしていたら、見咎められた。
 横目で睨まれて弁解して、小夜左文字は正座していた足を崩した。
 板張りの床にぺたんと尻を着け、赤くなっていた臑を撫でた。ひんやりした感触を寝間着越しに堪能して、探るような眼差しに目を眇めた。
 月は雲の隙間に埋もれて、白く濁った暈の方が目立っていた。星はほとんど出ておらず、彼らを照らす光は弱かった。
 それでも、相手の顔はしっかり見えた。
 月明かりさえない、真の闇の中で敵と刃を交えている短刀には、これでも明る過ぎるくらいだった。
「歌仙が変になっているのは、ぼくの所為だと言いたいんですか」
 ここしばらく、あの打刀が馬鹿になっているのは、篭手切江も感じていた。
 味噌汁には出汁が入っていなかったし、一夜漬けの胡瓜は切れておらず、蛇腹状になっていた。
 歌仙兼定が作った朝食の不味さを思い出しながら呻いた彼に、小夜左文字は首を振った。漏れ出そうになる笑いを寸前で押し留めて、口元を覆い、唇を舐めた。
「そのうち、元に戻ります」
「何度も言いますけど、向こうが勝手に、僕を決めつけていただけです。僕は悪くない」
「分かってます」
 歌仙兼定は篭手切江と、和歌を詠みあう関係になりたかった。
 しかし、そうはならなかった。脇差が求める『歌』は、限られた文字数に世界観を詰め込んだものではなく、派手な演奏に演出を交えた、大衆娯楽としての歌だった。
 顕現して以降、篭手切江は熱心に歌仲間を勧誘していた。真っ先に粟田口派の短刀に目を付けて、一緒にやらないか、と毎日のように繰り返していた。
 平野藤四郎は嫌そうだったが、乱藤四郎は乗り気だ。金になるのなら、という理由で、博多藤四郎もやる気充分だった。
 そういうやり取りを食事時に目にする度に、歌仙兼定の機嫌がどんどん悪くなる。
 見かねた巴形薙刀が、食べている時は箸を動かすことにだけ集中するよう注意する。そんな日々が続いていた。
 今はまだ気持ちの整理がつかないものの、打刀もいずれ、諦めるだろう。
 しばらく時間がかかりそうだが、許してやって欲しいと逆に頭を下げて、小夜左文字は刀に視線を投げた。
 そして。
「古の」
 朗々と、伸びのある声を響かせた。
「今も変わらぬ 世の中に」
 抑揚を利かせて、厳かに。静かに、凛然と、闇に向かって吟じた。
 突然詠い始めた彼に、篭手切江がハッとなった。目を見張り、唇を戦慄かせ、音の行く末を追いかけて庭先へと視線を転じた。
「心の種を 残す言の葉」
 下の句を継いだのは、脇差だった。
 殆ど無意識だったと言うしかない。ゆっくり沈んでいく自身の声色に後から気付き、彼は驚いた顔で唇を開閉させた。
 決して強制したわけではない。
 けれどこうなればいいと願い、促したのは間違いなかった。
 思いの外あっさり叶ってしまったと笑って、小夜左文字は肩を震わせた。
「あ、いや。いえ。今のは、違う。違うんです、小夜」
 うっかりつられてしまったと、篭手切江は顔を赤くした。落ち着きなく両手を泳がせて、言い訳がましく声を張り上げた。
 先ほど自分で、古めかしい和歌とは縁を切った、と宣言した。それからものの数分としないうちにこの有様で、狂言でも見ているかのような滑稽さだった。
 動揺を隠し切れず、脇差は弱り果てて短刀の手を取った。両側から挟みこむようにして握って、頭を下げ、今のやり取りはなかったことにしてくれるよう懇願した。
 あまりにも必死で、可笑しい。
 だがそこまでして和歌から離れたい理由が分からなくて、小夜左文字は返事を保留した。
「嫌いになったのでは、ないんですね」
 あんなにもごく自然に、次を継げたのだ。
 覚えていないわけではない。
 和歌に傾倒した、かつての主を忘れたわけではない。
 それなのにどうして、距離を取ろうとするのだろう。
 現身での生活を楽しみ、歌集まで作ってしまった歌仙兼定ほどに熱を入れろ、とは流石に言わない。だが少しくらい、良いではないか。季節の移り変わり、その節目ごとに一句、口ずさむ程度なら、できそうなものなのに。
「当たり前です」
 芳しい返答が得られないと知って、篭手切江は背筋を伸ばした。短刀の手を解放して、膝から落ちた帳面を拾い、すぐ傍に転がっていた硬筆も回収した。
 ひとまとめにして抱きしめて、言葉を探し、数秒間沈黙する。
「小夜は、俳句を知っていますか」
「俳句?」
 やがて決心がついたのか、口を開いた彼の問いに、小夜左文字はきょとんとなった。
 あまり縁があるものではないけれど、一応知識としては有している。それは五七五七七を基本とする和歌の上の句と同じ数、即ち五七五を基準とする歌のことだ。
 その始まりは、連歌と呼ばれる長い詩の冒頭部分――発句が独立して作られるようになった、と言われている。
 細かな決まり事を廃し、優雅な文化に裏打ちされた和歌に滑稽みを足した俳諧が、再び芸術作品へと高められた。そうやって生み出された作品が、俳句だった。
 和歌には一定以上の知識と教養が必要となるが、俳句となるともっと自由だ。それもあり、爆発的に広がった。裾野を広げ、これまで閉鎖的だった和歌の世界に新風を吹き込んだ、と言っても過言ではなかった。
 長らく停滞していたものが、ふとした瞬間、一気に加速した。
 この変化は鮮烈だった。
 以前なら非常識、と鼻で笑われていたものが、ある時代からは当たり前になっていく。
 その一例だと、篭手切江は熱のこもった息を吐いた。
 握り拳を作り、それで胸を叩いた。頬を紅潮させて、当時の興奮を思い出してか、感動に目を潤ませた。
「いいですか、小夜。物事の価値とは、時代によって移り変わっていくものです。僕たち刀剣だって、そうです。歌もまた、例外ではありません」
 万葉の時代は、名もなき防人でさえ自由に歌を詠んでいた。
 だが歳月が流れるにつれて、歌は文化人のものとなる。一部の特権階級に当たる者たちが主流となり、独占されていった。
 武士の時代に入っても、その傾向はあまり変わらない。変わったのは太平の世になって、町人らの生活に余裕が出始めた頃だ。
 公家から武家へ、そして庶民へ。
 間口が広くなるにつれて、歌に付与される意味は変わって行った。上等な歌を詠むことが出世に繋がった時代は終わりを迎え、歌そのものの役目も移ろった。
 特定の誰かではなく、大勢を楽しませるものへ。
 皆が笑顔になるものへ。
 そうしているうちに、語数の縛りがなくなった。自由律が叫ばれて、様々な韻律が産み出された。
 疲れ果てた人々を癒やしたのは、美しい旋律だった。
 軽やかな歌声が、暗く沈みこんでいた心に、上を向くきっかけを与えた。
 歌には力がある。
 その時代に即した形で、永遠に続いていく。
「歌は、進化するものです。歌仙の懐古主義をどうこう言うつもりはありませんが、僕は常に、新しいものを追い求めたい」
 ぐっと拳に力を込めて、篭手切江が熱く宣言した。
 理想を語り、歓喜に打ち震え、突如ガバッと小夜左文字に迫った。
「小夜も、どうです。僕と一緒に、晴れやかなすてえじに登ってみませんか」
 鼻息を荒くして、血気盛んに吠えた。爛々と目を輝かせ、仲間を増やそうと必死だった。
 この顔には、覚えがある。
 風流仲間が見つからなくて、君だけは味方でいてくれ、と切願して来た時の歌仙兼定そっくりだった。
「遠慮、……します」
 方向性は真逆だが、彼らは似たもの同士だ。
 またひとつ、共通点を見つけてしまって、小夜左文字は頬を引き攣らせた。
「どうしてだい、小夜。君はもっと輝ける。その身軽さは、充分な武器になるよ」
「いえ、あの。ですから、僕は、そんなことより復讐を」
「有名になったら、君の復讐相手を知っている人が現れるかもしれないじゃないか!」
「…………」
 がしっと両手を掴まれて、額が擦れる近さで勧誘された。熱を含んだ鼻息が頻繁に肌を掠めて、ぎらぎら輝く眼が怖かった。
 よもやの切り返しには絶句したが、そういう探し方もあるのか、と一瞬納得しそうになった。仇討ち相手など、もうどこにもいないのに、見付かるかもしれない、と想像して、背筋がゾワッとなった。
 危うく口車に乗るところで、頷きそうになったのを堪えた。
 期待の眼差しで返事を待つ脇差を上目遣いに窺って、短刀は肩を落として溜め息を吐いた。
「ほかを、当たってください」
 山賊に奪われ、罪もない人々を次々手にかけてきた刀に、どうやって晴れやかな舞台に登れと言うのか。
 できるわけがない、と重ねて断った彼は、脇差ががっかりしながら呟いた言葉に愕然となった。
「どうしても駄目かい? 小夜のお兄さんは、割と乗り気だったんだけど」
「宗三、兄様……」
「いや、そっちではなく」
「は?」
 諦め悪く足掻いた篭手切江のひと言に、気絶しそうになった。
 小夜左文字の兄で、宗三左文字でない方はひと振りしかない。それこそきらびやかな衣装をまとって歌い、踊る姿が想像出来ない太刀の名前の登場に、短刀は顎が外れるくらい驚いた。
 呆気にとられてぽかんして、信じられないと瞬きを繰り返す。
「江雪、にい……さま……?」
「ああ、そうさ。歌には戦いを止め、愛と平和をもたらす、素晴らしい力があると言ったら、大層興味を示してくれたよ」
 あの気難しい、へそ曲がりにいったい何が起きたのか。
 物は言いよう、という言葉をじっくり噛み締めて、小夜左文字は天を仰いだ。
「兄様、騙されてます」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ」
 両手で顔を覆い、さめざめと泣きたい気持ちを押し殺した。詐欺師呼ばわりされた脇差は不満そうに吐き捨てて、手にした帳面を大事に撫でた。
 興奮していた肌色を落ち着かせ、しんみりした表情で手元を見詰める。
 何が書かれているのか、見せてもらえないままの短刀は眉を顰め、聞こえて来た溜め息に首を捻った。
「篭手切」
「けど、どうにもね。良い歌詞が、思い浮かばなくて」
 言いながら、脇差が手元の帳面を捲った。
 さほど広くない紙面にびっしり、几帳面な文字が書きこまれていた。
 その大半に横線が走り、修正したものが、更に修正されていた。書いては消し、書いては消しの繰り返しで、一部は真っ黒に塗り潰されていた。
 華やかな舞台に上がる日を夢見て、そのために用意しているのだろう。
 けれど、言うは易く行うは難し。
 これぞ、と思う歌が出来なくて、彼なりに悩んでいたようだ。
「部屋にいたら、鯰尾藤四郎がうるさくて」
「ああ……」
 脇差は六振りだけの時期が長かったので、刀派に関係なく、仲が良かった。
 篭手切江が使っている部屋は、長く空き部屋だった。だが使わないのは勿体ないからと、机を置いて、皆が好き好きに集まれるようにしていた。
 その名残だろう。今でも脇差連中が、彼の私室によく押しかけていた。
 集中して詩作に取り組みたいのに、邪魔されて、なかなか進まない。試しに作った文章を声に出して読み上げられて、ここが可笑しい、ここが変だと品評されるのも、気に食わなかった。
 それでこんな辺鄙な場所に陣取っていたらしい。
 彼も彼なりに苦労しているのだと知らされて、小夜左文字は憐憫の情を抱いた。
 もっとも、だからといって一緒になって歌って、踊ってやるつもりはない。
 きらっと輝いた眼鏡に戦いて、短刀は掴まれそうになった手を逃がした。
「あとは小夜、君だけなんだよ」
「お断りします」
 すかっ、と空振りした手を蠢かせ、篭手切江が捲し立てる。
 やはり次兄もその気になっていたか、と歯切りして、左文字の末っ子は膝で床を蹴った。
 諦めが悪いところまで、歌仙兼定にそっくりだ。一度や二度断られた程度ではへこたれず、何度でも挑戦して来るところも、始末が悪い。
「あなたの、歌への情熱は分かりましたが、僕を巻きこまないでください」
「そこをなんとか」
「しません」
「……小夜が冷たい」
「歌仙と同じことを言わないでください」
 時代とともに変遷する文化に合わせ、より歌を身近な存在にしようとしている彼の努力は、認める。
 そこに込められた思いを、誰もが感じられる形で表現したいという気持ちは、素直に応援したかった。
 あれこれ技巧を凝らし、ひとつの言葉に複数の意味を持たせた和歌は、ぱっと見ただけでは意味を解しにくい。そういう取っ付きにくさを排除して、高みから見下ろすのでなく、皆と同じ目線に立とうという姿勢は、賞賛に値した。
 だがそれと、これとは別問題だ。
 小夜左文字はできるだけ静かに、平穏に暮らしたい。餓えることなく、腹八分で過ごせたら、それで満足だった。
 注目を浴びたいとか、拍手喝さいを浴びたいとは思わない。華々しい舞台に立つなど、天地がひっくり返ってもあり得なかった。
「そう毛嫌いしないで。一度やってみれば、癖になるよ」
 これだけ言っているのに、尚も食いついて離さない脇差のしぶとさには、呆れるしかない。
 ぴゅう、と吹いた秋の風は冷たくて、色々あって悪寒が走った短刀は、咄嗟に身体を抱きしめた。
「風呂、入り直そうか……」
 なんだかんだやっているうちに、すっかり湯冷めしてしまった。あれだけ暖かかった身体は芯まで冷えて、指先は凍えそうだった。
 面倒だが、湯船で温まり直した方が、夢見も良くなるだろう。
 こっそり溜め息を吐いた彼の独白を聞き拾って、篭手切江はそうだ、と両手を叩き合わせた。
「風呂場は音が反響して、歌の稽古にはもってこいだ。さあ、小夜。僕と一緒にとっぷすたあを目指そうじゃないか」
「目指しません」
 風呂、と聞いて妙案を思いついたと声を高くする。
 さりげなく手を掴もうとする彼からサッと逃げて、短刀は屈託なく笑う脇差に肩を落とした。

声はせず色濃くなると思はまし 柳の芽食む鶸の村鳥
山家集 1399

2017/09/10 脱稿