いかばかりなる 色にはあらまし

 サク、サクッ、と音がする。
 一歩を踏み出す度に微かに響く音色に耳を傾け、小夜左文字は右足を高く蹴り上げた。
 宙を駆ける爪先に巻き込まれ、落ちていた木の葉が数枚、空を舞った。赤と黄色とが入り混じって、視界の一部を覆い隠した。
 掌よりも大きい葉が、ゆっくり弧を描いて沈んでいく。行く手を遮るようにして降り注ぐそれを躱して、短刀の付喪神は口角を持ち上げた。
 見える範囲一面が、木の葉に埋もれていた。
「落ち葉まみれだ」
 率直な感想を呟き、今度は左足で空を蹴る。踵で地面を踏みしめれば、そこにあった枯れ葉がカサカサ音を立てた。
 何枚もが重なり合っていて、互いに擦られての音だ。一番下にあったものは、割れてしまったかもしれない。
 覆っているものを払い除けて確かめる真似はせず、想像を巡らせるだけに済ませ、交互に足を動かした。両手は背中に回して緩く結び、トントントン、と歩調に合わせて前後に揺らした。
 頭上を仰げば、木々はまだ葉を大量に残している。丸裸には程遠く、どれだけ多く茂らせていたのかと、呆れるしかなかった。
「はー」
 腹の底に溜めた息をひと思いに吐き出せば、一瞬だけ白く濁って見えた。
 早朝だから、空気は凛と冷えていた。肌に突き刺さるほどではないけれど、寒さは日増しに厳しくなっていた。
「お小夜」
「はい」
 鼻の頭を赤くして、ずず、と垂れそうになったものを啜った。唇を舐め、呼ばれて振り返って、小夜左文字は指を解いた。
 両腕の振り幅を大きくして、跳ねるように距離を詰めた。少し離れた場所に立っていた男は破顔一笑して、すぐ近くに根を下ろす木の幹を撫でた。
「なんて鮮やかな色だろうね」
 ごつごつした樹皮をなぞり、視線は遠く、高くに向けられた。つられて同じ方角に顔をやれば、楕円形の木の葉が一面黄色に染まっていた。
 公孫樹の木とは違い、あの嫌な臭いはしない。鼻の粘膜にツンと来る悪臭を頭の隅に追い遣って、短刀の少年は嗚呼、と頷いた。
 ほんのひと月前まで、この巨木は一面の緑に覆われていた。
 遠くから眺めれば、枝がどこに伸びているのかすら分からないくらいだった。こんもりと丸い山型で、底なしの生命力に溢れていた。
 それが今や、どうだろう。
 ひらひら舞い踊る木の葉を視界に収め、小夜左文字は何気なく手を伸ばした。
「あ、っと」
 捕まえようとしたけれど、片手では難しかった。ちょっとした気流の乱れで簡単に進路を変えられて、するりと指先から逃げていった。
 追いかけて再度挑むが、今度も叶わなかった。下から掬い取るべく、残る片腕を振り上げてみたけれど、こちらも空振りだった。
「む、う」
 空中でぱしん、と両手を叩き合わせたものの、掌には何も残らない。
 夏場、蚊を仕留め損なった時に似ている。思わず頬を膨らませて唸れば、隣で見ていた打刀が呵々と笑った。
「なにをやっているんだ、お小夜」
 歯は見せず、高らかと声を響かせる。
 馬鹿にされたと感じて、気分が悪かった。だが可笑しくて仕方がない、と顔を綻ばせた男を睨みつけても、残念ながら効果は薄かった。
「歌仙も、やってみればいいんです」
 簡単そうに見えて、意外と難易度が高かった。
 試してもない者に、滑稽だと言われる筋合いはない。掴もうとしたのがどれだったか分からない、木の葉に埋もれた地面を蹴散らして、小夜左文字は小鼻を膨らませた。
 負けず嫌いを発動させて、気の短い男を挑発する。
 歌仙兼定は緩慢に頷き、顎を撫でて目を細めた。
「では」
 調子よく頷いて、彼はやおら、腕を伸ばした。
 掌を上向きに広げ、視線は斜め上に固定した。風が吹き、木の葉が落ちてくるのをじっと待って、羽織った外套を優雅に翻した。
 ただ立っているだけなのに、景色に溶け込み、風情がある。
 派手さを内に隠し、黙って佇んで、男は手甲で覆った利き手を泳がせた。
 瑠璃色の袂を躍らせて、ひらり、ひらりと落ちて来た木の葉を目指して肘を伸ばして。
「……ふふ」
 風がないまま、自重に負けて大地を目指した一枚の速度に合わせ、彼はゆるりと膝を折り、軽く屈んで小さくなった。
 ゆっくり沈む木の葉に動きを揃え、静かに受け止めた。微妙な空気抵抗を封じ込め、難なく掴んでしまった。
 ほんのり橙混じりの黄色を手に取り、得意げに胸を張る。笑みを殺して目を細めた打刀に、小夜左文字はカッとなった。
「そんなの、自慢になりません」
「あいたっ」
 落ち行く木の葉を掴めたところで、戦闘でことを有利に運べるわけではない。おおよそ実用的でない特技だと吐き捨てて、短刀は力任せに男の臑を蹴った。
 草履の裏を使い、抉るように一撃を加えた。中腰状態で耐えられるわけがなく、歌仙兼定は呆気なくその場に崩れ落ちた。
 両膝を地面に着けて蹲り、手にした木の葉も放り投げた。求められたから実戦しただけなのに、あんまりな仕打ちに鼻を愚図らせ、奥歯を噛んで激痛をひたすら耐えた。
「酷いじゃないか、お小夜」
「歌仙が軟弱なのが悪いんです」
 抗議を受けたが、小夜左文字は跳ね除けた。
 強気に任せて言い放って、隙があった打刀を断じ、ふん、と鼻息を荒くした。
 揚げ足取りも良いところの台詞をぶつけられ、歌仙兼定は苦笑を禁じ得ない。徐々に薄まっていく痛みに肩を竦めて、時間をかけて立ち上がった。
 袴の汚れを叩いて落とし、地面に落ちていた団栗を靴の先で転がした。細く尖った部分で数回小突いて、朝日が眩しい東の空に頭を下げた。
「今日も、良い一日になりそうだ」
「そうだと、いいですね」
 左手を庇代わりに掲げ、白く沸き立つ光を遮る。
 万感の思いを込めて告げられたひと言に同調して、小夜左文字は素っ気なく後を継いだ。
 そろそろ屋敷の者たちも、寝床を抜け出している頃だろうか。
 一足先に朝餉を済ませた彼らは、遠征任務の出発を待つ間の、暇潰しの真っ最中だった。
 朝の気温が下がって、寝坊癖がついてしまった刀は多い。反面、布団でじっとしているのは寒いから嫌だ、と夏場より早起きになる刀も、少数ながら存在した。
 前者は粟田口の短刀たちに多く、後者は同田貫正国が典型だ。では小夜左文字はどうかと言えば、季節に関わらず、起床時間は変わらなかった。
 歌仙兼定も、似たようなものだ。食事当番を引き受けていた期間が長かった所為で、すっかり早起きの癖がついてしまっている。今は料理が出来る刀が増えて、前ほど台所に入らずに済んでいるというのに、だ。
 春や夏だったら、もう遠征に出発できていた。
 他の刀の都合で、諸々の予定が遅れるのは癪だ。しかしこうしてのんびり庭を散策できる余裕が持てたのは、怪我の功名と言うべきだろう。
 屋敷とは距離があるので、賑わう声は聞こえない。だが瞼を閉じれば、情景は鮮やかに浮かび上がった。
「遠征先も、紅葉しているといいのだけれど」
「それは、ちょっと困ります」
「どうしてだい?」
 そこに打刀の声が紛れ込み、意識が拡散した。暗闇に描き出された光景を掻き消して、小夜左文字は反射的に呟いた。
 うっかり声に出してしまい、当たり前だが拾われた。歌仙兼定は首を右に傾がせて、両腕を胸の前で組んだ。
 彼らが出向くよう言われたのは、江戸。歴史修正主義者の出現は確認されていないが、万が一に備えて情報を集め、異常がないか探るのが目的だ。
 どの時代の、どの季節の、どの日に足を運ぶかは、時の政府と審神者によって決められる。刀剣男士には選択権がない。秋になるか、春になるかは、着いてからのお楽しみだ。
 だが今のところ、本丸の暦に合わせて選ばれる場合が多かった。
 だから深く考えるまでもなく、彼らは秋の江戸を巡ることになる。屋敷を囲む庭の木々のように、山の植物は一斉に色付いているはずだ。
 それはそれは、見事な紅葉だろう。
 想像するだけで圧倒されて、目が離せなくなるに違いない。
「歌仙、動かなくなるでしょう」
 日の出から、日の入りまで、ずっと眺めていても飽きない。
 時間の変化によって姿形を変える光景に魅入られて、心を奪われ、任務どころではなくなってしまう。
「そんなことは、……」
「約束できますか?」
「返事は保留させてくれ」
 押しても、引いても、梃子でも動かない打刀に、どんなに迷惑してきたことか。
 今回もそうならない保証を求めれば、歌仙兼定はさっと目を逸らした。明後日の方角を向いたまま言って、小夜左文字を見ようとしなかった。
 もっとも、彼の気持ちは分からなくもない。
 真っ赤に色付いた山々と、そこに沈みゆく太陽、鮮やかな朱色に染まる空。
 どこを見ても一面の赤色に、心奪われない方がどうかしている。
 ものの数日としないうちに枯れ落ちて、寒々とした姿を曝すことになる木々を前に、この一瞬を切り取らずにはいられない。
 自分が立ち止まっていても、時は無情に過ぎていく。季節が切り替わっていると気付くのは、いつだって歌仙兼定と歩いている時だった。
 本丸には大勢の刀剣男士が暮らしているが、彼らはあまり景色を見ない。見ていても、それを敢えて言葉に表したりしない。
 小夜左文字だって、本当はそうだ。
「置いていかれても、知りませんよ」
「せめて手を引いてくれると、助かるんだけれど」
「甘えないでください」
「お小夜が冷たい」
「僕はずっと、こんな調子です」
 景色に見惚れてぼうっとしていたら、風流を解さない刀たちに置いて行かれ、迷子になりかねない。
 過去にあった事例を思い出すよう揶揄して、短刀は縋る男に肩を竦めた。
 素っ気なく言い放ち、渋面を作った打刀に背中を向けた。前に進むわけでもないのに右足を蹴り上げ、木の葉を散らして、両腕を肩より高く掲げた。
 背筋を反らして伸びをして、広げた両手は指二本を残して折り畳んだ。親指と人差し指を九十度に開いて、右掌は手前に、左掌は外向きになるよう、手首を捻った。
「お小夜?」
 その後、顔の前で親指の先と、人差し指の先端とを貼り合わせ、四角い枠を作った。丁度目の前に来るように、肘を緩く折り畳んだ。
 なにをしているのか、歌仙兼定には分からない。
 奇妙な動きを見せた短刀に、打刀は訝しげな声を投げた。
 語尾がほんの少し持ち上がった声には、感情が溢れていた。不思議そうに見つめられて、小夜左文字は失笑した。
「前に、陸奥守吉行さんがやっていたので」
 武士の世が終わりを告げた時代に生きた男の刀は、海の向こうからやって来た品々にも興味津々だ。
 刀でありながら拳銃を所持し、こちらの方が戦いの理に適っていると言って憚らない。舶来品も多数所持しており、その中のひとつが写真機だ。
 但し固定式の大型なもので、写すのにとても時間がかかるため、あまり実用的ではなかった。お蔭で評判もいまいちで、出番はあまり多くなかった。
 だが彼は、見たままに姿を残せる機械を気に入っていた。
 失敗は許されないので、毎回、どういう構図にするかじっくり時間をかけて練っていた。その作業の中で、こんな風に指を組み合わせていた。
 こうすることで、四角い縁取りの中に世界を収納する雰囲気が掴めるという。実際にどんな風に仕上がるのか、出来上がりが想像し易くなるのだと言っていた。
「へえ?」
 写真機はないけれど、その前段階なら身ひとつあれば可能だ。
 記憶というものは、心に深く留め置くことで、より強く、色濃く残される。ただぼんやり眺めるのではなく、こうやって仕草を伴うことで、今日の紅葉が、小夜左文字の中で永遠になる。
 これまでなかった発想に、歌仙兼定は興味を示した。相槌を打って目を輝かせ、早速見よう見まねで指を操った。
 短刀に倣って中指、薬指、小指の三本を折り畳み、残る二本を直角に広げた。拳銃を撃つ仕草を真似て人差し指を伸ばし、その上にもう片方の指を置いた。
「こう、かな?」
 最初は手首の捻りを忘れて、三角形を作った。
 これは違う、と自分で悟って首肯して、あれこれ動かした結果、小夜左文字がやっていた通りの形を導き出した。
 そうやって出来上がった長方形を、恐る恐る顔の前へ。
 首を竦めておっかなびっくり覗き込む姿は、傍目から見ても滑稽だった。
「上手ですね」
 だが小夜左文字は笑うことなく、逆に褒めた。両手こそ叩き合わせなかったけれど、心から告げて、自らも指が作り出した四角形に世界を詰め込んだ。
 陸奥守吉行から教わった時、最初は上手く出来なかった。指を四角に組んだ後も、片目だけを閉じて覗き込むのが難しかった。
 両目を開いたままだと、枠の外も広く視界に入ってしまう。かといって片方のみ瞑ろうとしても、何故か開けておきたい方まで閉じてしまった。
 変な顔になって、顔の筋肉がぴくぴく引き攣った。百面相をしたつもりはないのに、大笑いされて、とても不愉快だった。
 その後こっそり、周りに誰もいない時に練習して、最近やっと不自由なく出来るようになった。ところが歌仙兼定は、ごく自然に隻眼を実現してしまった。
 燭台切光忠の眼帯を借りて来てやろうか、などと意地悪を言う準備までしていたのに。
 当てが外れたが、がっかりはしなかった。
 そういう無駄な才能にだけは長けている、と呆れることで溜飲を下げて、赤や黄色に染まった景色を目に焼き付けた。
「なるほど。これは、新鮮だ」
 斜め向かいでは歌仙兼定が、感極まった様子で呟いた。右足を軸にぐるりと一回転して、遠眼鏡でも覗く感覚で、一大風景に驚嘆の声を上げた。
 勿論、指で枠を作らない方が、どこまでも広がる木々の彩りを堪能できるのは確かだ。しかし空間を小さく切り取ることで、逆に見逃していたちょっとしたものに意識を傾けられるのも、嘘ではなかった。
「どうですか?」
「ああ。良いことを教わった。ありがとう、お小夜」
 興奮で体温が上がったのか、打刀が吐く息が白く濁った。綿の塊のようなものが溢れ出て、即座に消え去り、後にはきらきら輝く空色の瞳が残された。
 ずっと腕を高く掲げているので、肩の筋肉が疲れてくる。片目だけ閉じ続けるのも案外体力が必要で、彼は時折休憩を挟み、四方の景色を切り抜いた。
 なんとも忙しなく、落ち着きがない。
 呆れつつも、止めることなく見守って、小夜左文字は目尻を下げた。
 これでまた、彼が遠征先で立ち止まる機会が増えることになる。それはあまり宜しくないのだが、最早取り返しがつかなかった。
 惚けた顔で立ち尽くし、景色に魅入られて動けなくなるよりは、良い。こうやって身体を動かしている限り、彼の意識はその器に宿り続けるのだから。
 小突くなり、音を起こすなりすれば、今までよりは楽に我に返ってくれるだろう。そこに期待して、短刀は左の踵で地面を擦った。
 凹凸が激しい地面は、隙間がないくらいびっしり木の葉で埋もれていた。多くは卵形をした楕円だが、風で流されて来たであろう、別の形がたまに紛れていた。
 こちらを眺めている分にも、充分楽しい。大小さまざまな団栗が陣地を奪い合い、冬枯れを起こすまいと気丈な雑草が緑を主張していた。
 赤、黄色、茶、緑。
 春先に比べると、その風合いは極端に地味だが、派手さに欠けるとは言い切れない。
 むしろこの寂れ具合が心地よくて、小夜左文字は好きだった。
 冬に備えて葉を落とす木々は、枯れ果てる日を目前にして、死に装束を整えているようにも見える。その根本では、負けてなるかと名もなき草が意地を通していた。
 けれどその根性も、あまり長くは続かない。
 冬の寒さは覆し難く、ちょっとやそっとでは耐えられなかった。
 枯れ落ちた命は、いったいどこへ行くのだろう。
 地獄というものが地の底にあるのだとしたら、小夜左文字はきっと一番近い場所にいる。
「まだやってる」
 何もない場所を草履で踏みつけて、短刀は飽きもせずくるくる回っている打刀に苦笑した。余程気に入ったらしく、瞑る目の左右を頻繁に入れ替えて、頭上だけでなく、正面や、足元にまで視線を向けていた。
 凄まじいはしゃぎようが、実に面白い。
 良いことをした気分になって頬を緩め、少年は右手を振った。
「歌仙」
 いい加減、屋敷へ戻らなければ。
 朝餉はとうに済ませたが、弁当の準備が出来ていない。遠征先で食べる握り飯を人数分用意して、笹の葉で包む作業が残っていた。
 本来は食事当番の仕事だが、忙しい彼らの手を煩わせるのは忍びない。
 庭の散歩に出る前に交わした会話を振り返り、合図を送った。手首から先をひらひらさせて、自分を見るよう注意を促した。
 それを、どういう風に解釈したのだろう。
「僕じゃないです」
「いやいや、これはなかなか、良い景色だ」
 歌仙兼定は指で作った四角い窓に、小夜左文字の姿を切り抜いた。
 長方形の真ん中に据えて、満足そうに笑った。何度も頷き、背伸びをしたり、屈んだりして、背景の角度を調整した。
 一番優れた景色を探して、試行錯誤を繰り返す。その熱意は認めるが、努力の向け先が間違っていると指摘しても、まるで耳を貸さなかった。
 陸奥守吉行の写真機を与えたら、一日中弄り倒していそうだ。
 それに付き合うのは絶対に御免だと決めて、短刀は髪を掻き上げ、溜め息を吐いた。
「お小夜、こっちを向いて」
「歌仙……」
 俯いていたら、文句を言われた。鋭い声で催促されて、脱力感は凄まじかった。
 馬鹿な刀だとは知っていたが、底なしだ。こんな短刀を記憶に焼き付けて、いったいなにが楽しいと言うのだろう。
 二度目の嘆息で顔を上げ、首を僅かに傾がせる。正面を見れば打刀が膝を折り、低い位置からこちらを見上げていた。
 右目のすぐ上に、指で作った枠があった。その範囲は案外広く、鼻梁の半分が収まっていた。
「あ」
「うん?」
「いえ、なんでも」
 それで思ったことがあって、ぽつりと声が漏れた。無意識に上半身が傾いで、崩れた重心を支えるべく、左足が前に出た。
 不安定な動きを見せた彼に、歌仙兼定が眉を顰めた。腕を下ろし、指で組んだ枠を解いた男に首を振って、小夜左文字はチリッと胸の奥を焦がす炎に唇を噛んだ。
 黒く濁った感情が、奥の方で蠢いていた。どんより濁って酷く不快で、出来るものなら喉を抉って吐き出したかった。
 呼吸は自然と荒くなり、唇が渇いた。無意識に掻き毟って、中指の爪を噛んだ。
 肉を巻き込み、牙で穿った。皮膚が破れ、血が出るのも厭わない仕草に半眼して、歌仙兼定が止めさせるべく声を上げた。
「お小夜、なにをしているんだ。傷になる」
 つい今しがたまで落ち着いていたのに、態度が急変した。
 瞳は落ち着きなく宙を駆け回り、肌色は優れない。放っておけばもっと自分を傷つけると直感して、打刀は手を伸ばし、短刀の手首を掴まえた。
 振り払おうと暴れるのを、力尽くで捻じ伏せた。嫌がって身を捩るのを強引に押さえつけ、嫌々と首を振るのは、額に額をぶつけることで封じた。
「お小夜」
 ガンッ、と骨同士がぶつかる音がした。衝撃で中身が揺れて、一瞬くらりとなったが、気を失うところまでは至らなかった。
 それは、短刀も同じだ。
「お小夜!」
「……かせん」
 力任せの頭突きに、霧散していた意識が一箇所に集まった。ひとつに固まり、形を取り戻して、色を失っていた眼には鈍いながら光が戻った。
 数回瞬きを繰り返した後、彼は短く息を吐いた。全身からしなしなと力が抜けていくのが分かって、カクン、と膝が折れ、軽い身体が急激に沈んだ。
 歌仙兼定が手を掴んでいなかったら、地面に倒れ伏していただろう。実際、その手前まで至って、幼い体躯はぶらぶらと不安定に揺らめいた。
「急に、どうしたんだ」
 直前までなんともなかったのに、いきなりだった。
 何がきっかけになったのか分からず、困惑する打刀を呆然と見上げて、支えられて二本足で立った少年は嗚呼、と呻いた。繋いだ手の大きさ、逞しさを指先で辿って、太さや長さがまるで違う現実に皮肉な笑みを浮かべた。
「お小夜?」
「僕の、手は。……こんなにも小さい」
 撫で回されて、男は怪訝に首を捻った。眉を顰め、掌を裏返せば、短刀の手はその中にすっぽり収まった。
 まるで赤子と大人のようだ。玩具のような小さな爪と、しなやかながら男らしい骨格とを見比べて、小夜左文字は自嘲気味に呟いた。
 鼻声で、泣いているのでは、と錯覚を抱かされた。歌仙兼定は渋面を作ると、瞼を伏し、もう片方の手で顎をなぞった。
「僕は、君の手は、とても好きだけれど」
「ありがとうございます」
「……なるほど。違うか」
 短刀の独白がどういう意味を持つのか探るべく、当たり障りのない感想を述べて確かめる。
 間を置かずに礼を言われ、的外れな意見だったと悟り、最初から考え直す。
 落ち着きなく動く左人差し指を見上げて、小夜左文字は分かり易くて仕方がない男に肩を竦めた。
 こんな時でさえ、歌仙兼定は百面相を止めない。感情の起伏の激しさが、ひとつ残らず表面に現れていた。
 裏で策略を巡らせるのが苦手で、計算ができない。正直すぎて、思い立ったが吉日と即座に行動に移すから、あれこれ準備している周囲がいつも大わらわだ。
 けれどそういう実直さが、彼の美点でもあった。
 とても真似できない。
 羨むことさえもが、烏滸がましかった。
 小夜左文字は本丸で最も地獄に近く、天から遠いところにいる。崇高な理念を掲げるわけでもなく、ただ己の境遇に固執し、過去の亡霊を追いかけ続けている。
 だから彼が見る景色は、いつだって狭い。
 指で囲えば尚のこと小さく、惨めだった。
 己の視野の狭さを痛感し、歌仙兼定の大きさに嫉妬した。
 羨み、双方の間に横たわる溝の深さ、広さに戦いた。
 到底飛び越えられない亀裂に、足が竦んだ。身動きが取れなかった。心が悲鳴を上げて、絶望に押し潰された。
 あんなに赤や黄色で鮮やかだった景色が、みるみる灰色に染まっていく。虫に食われて枯れていく病葉のように、斑に染まり、朽ちていく。
 彼を待っているのは、冬の白く輝く世界ではない。
 黒く穢れ、濁った、芯まで冷える凍えた世界だ。
「もう、戻らないと」
 自分で選んだ道なのに、進むのを躊躇した。行きたくない、けれど行かざるを得なくて、何故こんな風に創りあげたのかと、命名者に恨みさえ抱いた。
 鼻を大きく啜り、小夜左文字は歯を食い縛った。
 唸るように呟いて、真顔で思案する男の手を引っ張った。
 それを、逆に引っ張り返された。
「うあ」
「ああ、なんだ。そういうことか」
 つんのめり、短刀は悲鳴を上げた。爪先立ちで飛び跳ねて、男の足を踏まないよう腰を捻った。
 その隠れた努力を知りもせず、歌仙兼定は感嘆の息と共に呟いた。
 導き出した答えに満足げな顔をして、虚を衝かれて目を丸くした短刀ににっこり微笑んだ。いつもの楽しげな表情で口角を持ち上げて、有無を言わさず繋いだ右手に力を込めた。
「え、あ。ちょ、歌仙?」
 そのままくるりと反転して、合図もなしに歩き出す。
 半ば引きずられる格好になり、少年は素っ頓狂な声を上げた。
 何度も転びそうになって、その都度片足立ちで跳ねて、体勢を立て直した。歩幅が全然違うのに考慮してもらえず、ずんずん行く打刀がどこを目指しているかさっぱりだった。
 屋敷に戻るのかと思えば、そうではない。むしろ遠ざかっており、聞こえてくる音の種類は限られていた。
 鳥の囀りさえもが遠い。響くのは己らの足音と、木の葉が踏み潰される音。木々のざわめき。そして。
 とぷん、と水の音がしたのは、気の所為だろうか。
 大きなものが波穏やかな水中に沈み、優しく包まれていく。温かく、心地よい感覚が胸の辺りに広がって、小夜左文字は瞠目した。
「かせん、どこへ」
 前を行く男は左右をきょろきょろ見回し、なにかを探しているようだった。
 この辺りに特別ななにかがあったとは、記憶していない。一面秋色の森が広がるばかりで、吸い込む空気は土の匂いが濃かった。
 白っぽい花が樹上で咲き誇り、通り過ぎる時に爽やかな香りがした。しかし歌仙兼定は関心を示さず、無言で素通りしてしまった。
 様子がおかしくて、不安になった。いつの間にか知らない誰かに成り代わってしまったのではと、有り得ないことを考えて、背中が寒くなった。
「歌仙、待って」
「あれが良いかな」
 恐ろしくなって、声が震えた。
 必死の思いで吼えるが届かず、歌仙兼定は自分の調子を崩さない。我田引水の趣で、男は遠くを見やって呟いた。
 小夜左文字もそちらに顔を向けたが、どれのことを指しているのか分からない。これまで潜り抜けて来た紅葉の洞窟と、景色は殆ど違っていなかった。
 彼が見る世界と、自分が目にする光景は違う。
 愕然となって、短刀はサーッと青くなった。
「お小夜」
 その手を引いて、打刀が足を速めた。冷たく凍える指先を温めて、彼はとある木の下で立ち止まった。
 四方に枝を広げて、根本には無数の木の葉が散っていた。ずんぐりとした楕円形をしており、それが隙間なくびっしり地面を覆っていた。
 手を触れる者は誰もおらず、獣ですら踏み荒らしていない。風に踊らされるのではなく、自然と降り積もった落ち葉が一帯を埋めていた。
 一本の木を中心に、黄色が広がっていた。
 歌仙兼定はそのただ中に腰を下ろし、小夜左文字を膝に座らせた。逃げられないよう右腕で腰を抱いて固定して、短刀には右手を高く掲げるよう求めた。
 拳を解き、関節を伸ばして指を広げるよう促した。中指、薬指、小指の三本を折り畳むよう言って、親指と人差し指を真っ直ぐ伸ばすよう訴えた。
 そして彼自身もまた、左手を広げ、三本を折り畳んだ。
「歌仙」
「そら、出来た」
 完成したのは、上辺と底辺で長さが違う、やや歪な四角形だった。
 歌仙兼定と小夜左文字で二辺ずつを分け合った、それぞれの長さが違う枠だった。
 打刀ひと振りで作るものよりは小さく、短刀だけで作るものよりは大きい。
「どうだい、お小夜」
 ただそれだけで、どうと訊かれても困る。彼が何を意図してこんな行動に出たのかも、さっぱり読み解けなかった。
 詳細な説明が一切省かれており、なにがなんだか分からない。意味不明過ぎてどう切り返すべきかも思いつかず、頭はまるで働かなかった。
 だが歌仙兼定は屈託なく笑い、満足そうだった。
「ああ。もう」
 彼はそれを押したり、持ち上げたりして、短刀を翻弄した。空中で指の枠が分離して、慌てて追いかけて顔を上げて、小夜左文字は思わず息を飲んだ。
 ずっと、四角形は四角形のまま、形を維持しなければいけないと、そう思い込んでいた。
 けれど歌仙兼定の指が離れて、その延長に線が見えた。青く澄んだ空と、黄色と赤に彩られた光景が眼前いっぱいに広がって、指の動きに合わせて徐々に狭まって行った。
 再び歪な四角形に戻って、閉じ込めた景色は黄色一色だった。
 角度を変えれば、赤に埋もれた。今度は小夜左文字から動かして、青を織り交ぜ、緑を探して紛れ込ませた。
 打刀は首を伸ばしたり、縮めたりしながら瞳を動かし、変幻自在な枠の中身を追いかけた。その振動が背中を通して伝わって、小夜左文字は堪え切れずに噴き出した。
「歌仙は、本当に」
「うん?」
「いえ。なんでもありません」
 少し前まで胸を埋めていた黒い感情は薄れ、奥へと引っ込んでいた。白黒だった世界は色を取り戻し、目を見張る光景を演出していた。
 指の長さ云々の話ではなかったのだけれど、どうでも良くなってしまった。
 相変わらず馬鹿で、認識がちょっとずれている男に苦笑して、短刀は眩しい光に目を細めた。

もみぢ葉の散らでしぐれの日数経ば いかばかりなる色にはあらまし
山家集 秋 479

2017/08/31 脱稿