花咲きてこそ 色に出でけれ 結

 物吉貞宗は憂いでいた。
「やっぱり、みんな、買い被りすぎです」
 ぽつりと愚痴を零し、整えていた寝床から視線を上げた。
 落ち着いた調度品で揃えられた室内は広くもなく、かといって狭くもない。床の間には幸運を招き入れると言われる脇差が、鞘に収まったまま飾られていた。
 気になって手を伸ばし、少しだけ刀身を引き出した。
「はあ……」
 鏡のように美しく研がれているものが、いつになく曇って見えたのは、彼の心がそのまま表れていたからだろう。
 思わずため息を零して、元に戻した。綺麗に折り畳んだ戦装束を避けて、部屋の真ん中に敷いた布団と転がり込んだ。
 風呂に入って身を清め、今の彼は湯帷子一枚だった。
 細めの帯を二重に腰に巻き、それ以外は身に着けない。丈は踝までで、袖は少々短かった。
 ほんのり肌寒いけれど、我慢出来ない程ではなかった。上着を羽織ると逆に暑いくらいで、なにより身動きがし辛くなった。
 どんな時でも、あらゆる事態に対処できるよう、極力身軽でいたい。それは刀剣男士として、当たり前の考えだった。
 ただ今は、そういうことに頭が向かなかった。
 久しく使っていなかった自分の布団を撫でて、彼は室内を照らす細い灯明に目を眇めた。
 淡い橙色が、行燈の内側で揺れていた。黒い影がそれにつき従い、右に、左にと床や壁を這う。瞼を閉じても光は消えず、網膜に焼き付いて離れなかった。
 まるで、あの男だ。
 鮮烈な輝きを放つ霊刀は、お調子者で、元気が良い。それでいて己の役目に真摯に向き合い、全うした。
 写しであることに引け目を覚えず、むしろ誇りにしている雰囲気だ。本歌に劣るつもりはないと豪語して、それに見合う立ち位置を確立していた。
 彼は強い。
 気高く、眩しい。
 太陽のようで、直視出来なかった。太刀を手に敵を斬り伏せる姿は獅子さながらで、凛々しく、益荒男と呼ぶに相応しかった。
 それに比べ、脇差の線の細さはなんなのか。
「僕なんか、釣り合いませんよね」
 右手で左手首を撫でて、指を回し、太さを測った。
 楽々一周出来てしまう華奢な体格に、劣等感が膨らんでいく。嫌な感情が倍増して、とても眠る気になれなかった。
 外はすっかり闇に覆われ、月は姿を隠していた。星の煌めきは弱く、屋敷を照らすのは常夜灯や、吊り行燈の光だけだった。
 左右の部屋は静まり返り、話し声は聞こえてこない。そもそも隣室の部屋の主である鯰尾藤四郎は、弟らが暮らしている大部屋で眠っているので、静かなのは当然なのだが。
 残る脇差たちも、とっくに寝入った後らしかった。
 共同部屋に最後まで陣取っていたにっかり青江も、少し前に私室へ戻っていた。
 縁側に光が漏れるのは、今や彼の部屋だけだ。
 遠く、耳を澄ませば笑い声が聞こえたが、それは打刀か、太刀部屋のものだろう。
 きっと加州清光や大和守安定たちが、仲間たちと飲み明かしているのだ。一番可能性が高そうな刀剣男士を思い浮かべて、彼は寝間着の裾を引っ張った。
 油断すると、何故かすぐに肌蹴てしまう。
 帯は苦しくない程度に、しっかり結んでいた。寸法だって、体格にちゃんと合っている。
 だというのに、寝ている間に袖から腕が抜け、肩が露出した。胸元が広がって、太腿は丸出しだった。
 寝相は元々酷かったが、ひとりで寝ている間は、特に問題視してこなかった。他の刀たちもきっと同じと、身勝手に信じていた。
 そうではないと知ったのは、割と最近だ。堀川国広たちと遅くまで盛り上がり、そのまま彼の部屋で眠って、朝になって指摘を受けた。
 自分だけ違うと判明し、動揺した。以来なるべく気を付けていたのだが、ソハヤノツルキの前では決意も形無しだった。
 太刀だって、きっと呆れているに違いない。注意しても一向に改まらないものだから、三日目くらいからはなにも言わなくなってしまった。
 見るに見かねて、衿を整えられている時に目を覚ました時は、死ぬほど恥ずかしかった。
 ソハヤノツルキは飛び退いて、出来心でつい、と言い訳していた。
 それくらい、見るに堪えない状態だったのだ。
 思い出すだけで顔が熱くなるやり取りを頭から追い出して、物吉貞宗は両手で顔を覆い隠した。
 とんだ醜態を曝したものだ。もっと早い段階で、こうしておくべきだった。
 もう大丈夫と言って、今宵からはひとり寝を選択した。もともと太刀の部屋に出入りしていた理由が、仲間内からの入れ知恵による嘘なのだから、これで良かったのだと思っている。
 しかし今、とても心細い。
 敷き布団は脇差の体格に合わせたもので、太刀が使っているものより若干小さかった。
 にも拘らず、とても大きく感じられた。こんな広い空間で、ひとりで朝まで過ごすと考えると、気が遠くなりそうだった。
 ぶるりと震えが来て、袖の上から腕を擦った。二度、三度と往復させて、摩擦で身体を温めた。
 けれどとても足りなくて、逆にどんどん冷えていく。爪先の感覚が薄れて、端から崩れていくようだった。
「ソハヤさん」
 押し寄せる夜闇に、潰されてしまう。
 前のめりになって首を竦めて、彼は自分自身を抱きしめた。
 眠らなければいけないのに、寝るのが怖かった。灯りを消し、真っ暗な中で目を瞑るのが、どうしようもなく恐ろしかった。
 ずっと平気だったものが、急に駄目になった。たかが一週間、ソハヤノツルキと同衾しただけで、こうも変わってしまえるものかと、驚きが隠せなかった。
 許されるなら、今すぐにでもあの男の元へ走りたい。つまらない嘘を吐いたと白状して、思いの丈をぶちまけたかった。
「どうして、受け入れてしまったんでしょうね」
 堀川国広の口車に乗せられて、選択を誤った。
 押しても駄目なら、引いてみる。太刀の本心がどこにあるかを探るには、一旦距離を置き、遠くから観察してみるのが効果的、と教えられた。
 これまで当たり前だったものが失われて、向こうがどんな反応を見せるか。それにより、ソハヤノツルキの心が読み解けると力説され、つい頷いてしまった。
 助言に従い、一歩引いてみた。
 結果は、どうだろう。太刀はあっさり承諾し、期待したほど追及してこなかった。
 理由を聞いて、簡単に納得した。言葉の端々からは、役に立てたかどうか分からない、といった雰囲気が感じられた。
 必死に否定し、感謝を述べたが、伝わっただろうか。
 あの時のやり取りは、あまりはっきり覚えていない。変に思われないよう、平常心を保つのがやっとで、心臓はずっとバクバク言いっ放しだった。
 一方的に押しかけておきながら、一方的に終わりを宣言した。
 身勝手な刀だと呆れられ、嫌われてしまったらどうしよう。
 後悔が後から、後から押し寄せて来て、なにが正しかったのか、さっぱり見当がつかなかった。
「ぜんぶ、僕が悪いんです」
 ひとりで決められなくて、仲間に頼った。それで上手くいかなかったからと、仲間を責めるのは筋違いだ。
 それでも、恨み言が出てしまう。あそこで思い止まっていたならと、自分の決断を、他者の責任にすり替えて、強い言葉で詰りたくなった。
 明日からどんな顔をして、ソハヤノツルキと会えば良いのだろう。
 きちんと挨拶が出来るだろうか。
 ちゃんと目を見て話せるだろうか。
 素っ気なくされるのが嫌で、なんとかしたかった。急に他人行儀になった理由が知りたくて、でも聞けなくて、どうすれば良いか分からなかった。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、ひとつのことに集中出来ない。目を閉じれば太刀の顔が浮かんでは消えて、締め付けられるように胸が痛んだ。
 知れず涙が溢れ、目頭がじんわり熱を持った。
 泣きたくなくてかぶりを振って、物吉貞宗は荒っぽく目尻を擦った。
「気分転換、しましょう」
 早く眠らなければならないというのに、睡魔が訪ねてくる気配は皆無に等しい。
 目が冴えて、心は静まらず、落ち着かなかった。
 涼しい風を浴びて、気持ちを入れ替える必要があった。荒療治で頭を冷やし、清々しい気分で朝を迎えたかった。
 それには身体を動かすのが一番だ。最も手っ取り早い方法を選択して、彼は言うが早いか立ち上がった。
 夜の庭を散歩するのもよし。屋敷内をうろうろして、飲み明かしている刀らの部屋へ押しかけるもよし。
「どうしましょう」
 障子を開け、縁側へと出た。音を立てないようそうっと閉めて、素早く左右を確認した。
 案の定、どの部屋も灯りは消えていた。中庭に設置された常夜灯はおぼろげな光を発して、大脇差に斬られないかとビクビクしていた。
 絶えず揺れ動く薄い影を眺め、恐る恐る一歩を踏み出す。
 鴬張りではない床はさほど軋まず、足音は響かなかった。
 それにまず安堵して、脇差は寝間着の上から胸を撫でた。一枚羽織って来た方が良かったと悔やむが、取りに戻る気は起きなかった。
 動いているうちに、自動的に温まると頭を切り替えた。さらには手っ取り早く暖を取る手段を考え、目的に定めた。
「台所、でしょうか」
 宴の賑わいに背を向けて、母屋へと進路を取る。こういう決断だけは迷わないのか、と自嘲して、左右の脚を交互に動かした。
 この本丸は、ふたつの建物が広い中庭を挟み、向かい合う形で構成されていた。
 南側が大座敷などを揃える母屋で、北側が刀剣男士の居住区。審神者は西側の竹林に別邸を構え、そこから滅多に出てこなかった。
 だから今夜も、この建物には刀しかいない。奥座敷には近侍が寝ずの番として控え、終わらない饗宴の声に苦々しい顔をしているはずだ。
 それに少なからず同情して、今日の近侍が誰だったかを思い出す。
「獅子王さん、だったでしょうか」
 太刀としては小柄な青年は、鵺退治の褒美として贈られた逸話を有する。どこぞの太刀と同じ金髪で、明るく元気な性格も似通っていた。
 そういえば彼は、ソハヤノツルキと仲が良かった。
 茶の一杯でも差し入れてやろう。日頃世話になっている礼だと思いを巡らせて、物吉貞宗は南北の棟を繋ぐ渡り廊を潜り抜けた。
 左右に広がる中庭は暗く、虫の声さえ聞こえなかった。常夜灯も消えており、星明かりだけが頼りだった。
 但し彼は、脇差だ。短刀には若干劣るものの、夜目が利く。この程度の暗さならば、慣れれば全く問題なかった。
 すいすいと段差を乗り越え、母屋へ繋がる木戸を潜った。正面に大きな衝立が現れて、急に明るくなった視界に瞬きを繰り返した。
「うう……」
 衝立の向こうは玄関で、行燈がふたつ、左右に据え付けられていた。油はたっぷり用意され、朝が来るまで火が消えることはなかった。
 夜遅くに遠征から戻る部隊があるので、彼らを出迎えるための措置だ。
 その為、ここだけが昼のような雰囲気で、頭が混乱した。
 左胸に手を添えて深呼吸し、瞳から入ってくる光の量を調整する。静まり返っている座敷の方を一瞥して、物吉貞宗は左に進路を取った。
 奥座敷や手入れ部屋に通じる廊下に背を向けて、東に進んだ。明るい空間が遠ざかり、足元に伸びる影は徐々に薄くなった。
 再び周囲が闇に呑まれ、静謐に包まれる。
 だがそれも一瞬で、顔を上げた彼の視界には、台所から漏れ出る光が映し出された。
「あれ?」
 深夜と呼ぶにはまだ早いけれど、それに準ずる時間だ。風呂を使う刀もないようで、窓から見える湯屋は真っ黒だった。
 だのに台所には、灯が灯っている。
 酒の肴を探している刀でもいるのか想像して、脇差は首を傾げた。
 夜遅くに腹を空かし、食べ物を漁る刀が居るとも聞いている。貴重な保存食をぼりぼり貪り、翌日使うはずだった食材を駄目にされた過去もあるとかで、物吉貞宗は警戒して息を殺した。
 慎重に歩を進め、壁に背中を預けた。開けっ放しだった引き戸に貼りついて、時間をかけて首を伸ばした。
 内部を窺い、目を凝らす。
「……ん?」
 真っ先に見えたのは、眩い金色だった。
 それが低い位置で、ひょこひょこ踊っていた。手前にある調理台に大部分が隠されて、頭の一部だけがはみ出していた。
 どうやら調味料などを保存している棚を開け、中を探っているらしい。
 塩や砂糖、醤油がぎっしり詰め込まれているそこに、食べ物は保管されていない。それは普段から料理当番として包丁を握る刀なら、誰もが知る事実だった。
 ということは、滅多に台所に立たない刀で間違いない。
 その上で金髪となれば、おのずと対象は絞られた。
「そんな。どうして」
 髪の毛を見た時は、近侍である獅子王かと思った。
 だが、違う。彼ではない。物吉貞宗よりずっと前から本丸にいる彼は、比較的料理が得意だった。
 となれば、残る刀はひと振りしかいない。
「ん~、ここじゃねえのか?」
「!」
 想像を巡らせ、悶々としている間に、目当てのものが見つからないのか、家探し中の刀が呟いた。不満を端々に感じさせる口調で、とても聞き覚えのあるものだった。
 散々脳内で反響していた音声が、くっきり、はっきりと耳朶を打った。
 膝を折って屈み、顎に手を置いて、眉を顰める姿までもがはっきりと思い浮かんで、物吉貞宗は騒然となった。
「ソハヤさん」
「んお?」
 無意識のうちに呟いて、それが思いの外大きく響いた。
 夜というのもあり、空気が冷えている。静かに広がっていった声に自分自身も驚いて、脇差は直後、ゴズッ、と轟いた振動に首を竦めた。
「いって~~~~!」
「ソハヤさん、大丈夫ですか!」
 反射的に立ち上がろうとした太刀が、抽斗の底に激突したのだ。
 自分で引き出しておきながら、失念していた。凄まじい音がして、棚どころか、物吉貞宗の足元まで揺れた。
 星が散らして蹲ったソハヤノツルキに、一秒後にハッとなって呼びかける。けれど返事はなく、痛みに悶絶しているのが窺えた。
 急ぎ調理台を回り込み、駆け寄った。彼が頭を打った抽斗を棚に押し込んで、跪き、姿勢を低くして顔を覗き込んだ。
 この場合、患部である頭部を真っ先に気にするべきだった。しかしそのことに気付いたのは、床すれすれの位置から太刀を仰ぎ見てからだった。
 苦痛に歪んでいた眼が、脇差を映した途端に大きく見開かれた。仄暗い中でもしっかり相手を認識して、表情を強張らせた。
 太刀は脇差と違って、夜目が利かない。それを証拠に、台所に配置された壁行燈や、蝋燭の殆どに、明るい橙色の炎が宿っていた。
 廊下を移動する際、手元灯りとして使ったのだろう。長い柄を持つ燭台が、調理台の上に残されていた。
 油の燃える微かな臭いが、鼻腔を擽った。
 しばらく無言のまま見詰め合って、先に身を引いたのは物吉貞宗だった。
「こんな、時間に。なにをなさっているんですか」
 語尾の上がらない問いかけは、質問というより、責めている印象を抱かせた。
 夜半遅くに部屋を抜け出し、台所の棚を漁っていた。目的は明白で、本来は訊く必要がないのだけれど、敢えて口にした時点で、彼の心理を読み解くのは容易だった。
 怒っている、と気取ったソハヤノツルキは、一部が乱れた金髪から腕を降ろした。未だじんじん響く痛みを耐えて、諦めがついたのか、照れ臭そうに笑った。
「まさか、お前に見付かるとはなあ」
 答えを濁すが、否定しないところからして、間違いない。
 盗み食いの現行犯で捕まった太刀は大人しく白旗を振って、力なく溜め息を吐いた。
「なんか、眠れなくってよ」
「ソハヤさん」
「寝酒の一杯でも、って思ったんだが。いや。ははは……はあ」
 両膝に手を置いて、乾いた笑みを浮かべた。明るく振る舞おうとして、結果的に失敗して、最後は溜め息で締めくくられた。
 肌色は優れず、瞳には覇気がない。口調は静かで、いつもの闊達さが感じられなかった。
 伏し気味の眼が、床の上を這った。物吉貞宗を見ない。それが哀しくて、脇差の少年は唇を噛んだ。
 直後に思ったのは、彼が眠れない原因が、もしや自分にあるのでは、ということだった。
 自分と同じように、ひとり寝に違和感を覚え、落ち着かないのではないか。ふた振りで一対の関係に慣れてしまい、単独での行動が馴染まなくなっているのではないか。
 もしそうだとしたら、嬉しい。
 そうであって欲しいと願い、腹の奥深くから歓喜が湧き起こった。
 にわかに興奮して、鼻息が荒くなりかけた。勝手に緩みたがる頬をけん制して、物吉貞宗は己を強く戒めた。
「あの、僕、も」
「うん?」
「なんだか、眠れなくて」
 勝手な想像で期待して、違っていたらどうする。後から哀しい思いをしたくなくて、暴走しそうになる心を律した。
 それでも口は、自然と動いていた。
 左胸に右拳を押し当てて、彼は昂ぶる感情を必死に抑えこんだ。
 膝立ちでにじり寄り、蹲る男に迫る。
 左手は宙を泳ぎ、太刀の太腿へ落ちた。指を大きく広げても半周させるのがやっとの筋肉を寝間着の上から探って、伸びあがり、間近から顔を覗きこんだ。
 呼気が肌を掠めた。
 彼が吐き出したものを飲みこんで、脇差は思いの丈を眼差しに込めた。
「おかしい、です、よね。平気だって……思ったのに」
 怖い夢を見たのは、ソハヤノツルキの寝床に潜り込むための作り話だ。
 だというのに、今では本当に、悪夢を見た気がした。
 かつての主が幸運の象徴である脇差を使い、腹を切る。それは物吉貞宗に恐怖心を抱かせるだけでなく、彼に与えられたふたつ名の否定をも意味していた。
 主君を介錯しておいて、なにが幸運を運ぶ刀だ。
 そんなことになれば、誰も彼を欲しがらない。形見分けの席では逆に厄介者扱いされて、不吉と誹られ、呪詛を受けていただろう。
 審神者だって、戦力として期待しない。そもそも、喚び出しもしないはずだ。
 こうやって数百年の時を経て、ソハヤノツルキと再会することもなかった。
 悪い方へ、悪い方へ思考が傾き、沈んでいく。それに合わせて視線も下がって、胸に添えていた右手が滑り落ちた。
 拳を解いて、だらんと脇に垂らした。笑おうとして失敗して、頬の筋肉がぴくり、痙攣を起こした。
 ソハヤノツルキへの思いが大きくなり過ぎて、自分で自分の過去を改変していた。記憶をすり替え、ねつ造して、これが真実であったかのように頭が誤認した。
 狡く、卑怯な手だとは分かっていた。けれど止められなかった。
 ぽっかり空いた穴を埋められるなら、なんだってする。彼を繋ぎ止められるなら、歴史に介入し、改竄するのだって厭わなかった。
「ひあっ」
 最低最悪なことを想像して、直後襲ってきた寒気に四肢が粟立った。
 ゾワッと内臓が沸き立ち、足元がぐらついた瞬間、伸びて来た腕が、華奢な体躯を強引に引き寄せた。
「物吉」
「――っ、あ」
 右腕一本で脇差の背を抱いて、ソハヤノツルキが前のめりになった。分厚い胸板に小柄な少年を抱え込み、細い肩に顎を置き、額を擦りつけた。
 狭い場所に閉じ込めて、熱で覆った。左腕も遅れて合流させて、掻き抱いた。
「すまない。お前を、あの時。俺は行かせるべきじゃなかった」
 昼間、部屋でのやり取りが目まぐるしく頭の中を駆け回った。
 後悔を口にした太刀に鼓動が跳ねて、物吉貞宗は零れ落ちそうなくらい、目を丸くした。
 最初に部屋を訪ねた時も、こんな風に抱き寄せられた。いや、それよりももっと荒々しい。義務感、正義感といったものだけでは説明出来ないなにかが、男の中に蠢いていた。
 再び彼に抱きしめられたのが嬉しくてならず、同時にそうさせたことへの申し訳なさが増大した。
 こうなるよう仕掛けたくせに、実現した途端に心苦しさで一杯だった。本当は違うのに、か弱い刀を演じて騙しているのが耐えられなかった。
「ちが、……ちがう。違うんです」
「物吉?」
 胸躍り、心が沸き立つのに、別のところが暗く澱んでいく。
 身体は熱を抱き、疼いて止まない。だのに頭の片隅からは、サーッと音立てて血の気が引いていった。
 自分がふたつに分裂したようだった。相反する感情を同時に抱え込んで、彼は堪え切れなかった涙をひとつ、頬に零した。
 かぶりを振り、ソハヤノツルキの胸を押し返した。
 薄い湯帷子一枚なので、鍛えられた身体がよく分かる。できるならずっと手を添えて、その熱に触れていたかったけれど、辛うじて残った理性がそれを許さなかった。
 束縛を振り解き、後ろへ逃げた。目の前に戸惑う男の顔が現れて、行き場を失った両手を彷徨わせていた。
 緋色の瞳は宙を泳ぎ、困惑がはっきり見て取れた。
 彼は純粋に、脇差を案じていた。不安を訴える少年を助けようと、義侠心を奮い立たせていた。
 そこに付け込んだ。
 なんと小賢しく、傲慢な考えだろう。
 己の気持ちばかり優先させて、太刀の優しさを利用し、踏み躙った。看過出来る行為ではない。許されて良いものではない。
 もしこの先ずっと、ソハヤノツルキが同衾を許したとしても、物吉貞宗はこのことを忘れない。それどころか、益々罪悪感を強めていく。
 もう二度と彼の顔を、真正面から見られない。
「どうした。何故泣く」
 静かに涙を流す脇差に、太刀は動揺を露わに声を震わせた。
 青褪めて、自分が原因かと的外れなことを言い出した。強く抱きしめすぎたか、乱暴だったか。痛かったのかと、矢継ぎ早に言葉を並べ立てた。
 焦り、怯え、顔を拭う少年に必死に弁解した。自分がいかに粗暴であるかを力説して、すまなかったと頭を下げた。
「違う、違うんです。ソハヤさんは、なにも。なにも悪くありません」
 それが余計に、物吉貞宗の心を締め付けた。
 こんなにも優しい太刀を騙し続けるなど、できない。辛い。苦しい。哀しくて、切なかった。
 両手を交互に動かし、涙を拭うけれど、感情は高ぶる一方で、次から次へと溢れて止まらなかった。
 息苦しさから鼻を啜り、喘ぎ、嗚咽を漏らす。口元を手で覆って、肩を上下させ、しゃくりあげ、下唇に牙を立てた。
「泣き止んでくれ、物吉。頼む。お前が泣いているのを見ると、こう……俺は、どうしていいのか分からない」
 たとえソハヤノツルキが原因でないとしても、目の前で涙を流す刀がいれば、助けたいと思うのがこの男だ。
 泣いている理由を教えるよう、真摯に訴え、眼力を強めた。唇を真一文字に引き結び、どんな言葉が投げかけられても良いように、腹の底に力を込めた。
 あらゆる状況を想定し、身構えた男の真剣さが伝わってきて、それで尚更涙が零れる。
 押しても駄目なら引いてみろ、と言われたが、それ以前に物吉貞宗が耐えられなかった。
「うそ、なんです」
「え?」
「全部、……嘘、なんです」
 下手な小細工を仕掛けたばかりに、自縄自縛に陥った。相手の善意を利用して、それで得た環境に満足出来なかった。
 本当に欲しかったのは、もっと別のものだ。だのに一時の感情に流されて、見て見ぬふりをした。気付いていたのに、目を逸らし、そこに胡坐を掻いていた。
 心地よかったから。
 都合がよかったから。
 そこで留めておけばよかったのに、欲を出した。
 我が儘を振り翳したばかりに、周りを巻き込んだ。迷惑を振りまき、自滅した。
「うそ?」
 掠れる小声を拾い上げ、ソハヤノツルキが目を丸くする。
 呆然と見つめ返す緋色の眼に、物吉貞宗は喉を引き攣らせた。
「ごめん、なっ、さい」
 息を詰まらせ、呻くように言った。僅かに遅れて頭を下げて、その体勢のまま動かなかった。
 顔を上げられなかった。太刀が今、どんな表情を浮かべているのか、目で見て確かめるのが怖かった。
 いっそこのまま、塵となってしまいたかった。彼の前から姿を消して、どこかに隠れてしまいたかった。
 相談に乗ってくれた脇差仲間にも、合わせる顔がない。こんなに惨めで、罪深い刀を、審神者はきっと許さないだろう。
「嘘って、なにがだ。なんのことだ、物吉」
 強い言葉で咎められ、責められると思っていた。しかしソハヤノツルキは、突然の話題転換に頭がついていかなかった。分からない、と首を捻って、床に落ちた小さな手に手を重ねた。
 微熱が触れた瞬間、心に積もる澱がスッと溶けていく気がした。優しくされる資格などないというのに、彼の気遣いが嬉しくて、つい顔が緩んだ。
「物吉、言ってくれ。でないと俺は、なにも分からない」
 それでも俯いていたら、急かされた。言葉で説明するよう催促して、太刀は指先に力を込めた。
 遠慮がちに握られて、それがまた心地いい。
 だが数秒後にはこれが失われるのだと思うと、背筋が凍え、止まっていた涙がぶり返した。
 大粒の涙が目尻に溜まり、床へ落ちた。衝撃で雫が砕け散る様になにを連想したのか、ソハヤノツルキは必死の形相で捲し立てた。
「言ってくれないか、物吉。俺は、馬鹿だから。お前にどうしてやればいいのか、分からないんだ」
 空いている手で胸を叩き、吼えた。顎を軋ませ、歯を食い縛り、目の前の脇差を救おうと必死だった。
 そんな彼だから、好きになった。
 想いを寄せた相手が彼で良かったと、心の底から思えた。
「内府様の、……夢を、見たと」
 全身から力が抜けて、ホッと息を吐いた。
 押し潰されそうだったのが嘘のように軽くなって、清々しい気分だった。
 顔を上げ、涙混じりに微笑んだ。重ねられたソハヤノツルキの手に手を添えて、弱い力で引き剥がした。
「え――?」
 男はぽかんとして、硬直した。抵抗を忘れ、床に置き去りにされた自身の手を直後に握りしめた。
 物吉貞宗は背筋を伸ばし、胸の前で左右の手を結びあわせた。掌を重ね、指を互い違いに絡ませ、ひとつの塊として頭を垂れた。
「騙していて、すみませんでした」
 祈り、或いは贖罪の仕草で告げて、目を瞑る。
 どんな罰でも受ける態度を示されて、ソハヤノツルキは瞬きを繰り返した。
「嘘? どうして。ええ?」
 真実を暴露されて、動揺が隠せなかった。一度として疑わなかったものが、偽りだったと言われても、にわかには信じられなかった。
 根底が覆され、訳が分からなかった。挙動不審に目を泳がせて、開きっ放しだった口を強引に閉じた。
 首筋に脂汗を流し、下向いている脇差をじっと見る。自身の頬をぺちりと叩き、爪で引っ掻いて、口元を覆って指先に息を吹きかけた。
 ずるずる滑り落ちていく手を放置して、肩の力を抜いた。床に沈めていた尻をもぞもぞ動かして、上半身を少し左に傾けた。
 倒れそうになったのを堰き止め、もう一度顔を覆った。状況を整理しようと懸命に頭を働かせ、指の隙間から覗く右目だけを脇差に投げた。
 深呼吸を三度繰り返してから、躊躇を投げ捨て、口を開いた。
「嘘、だったんなら。それはそれで良い。だが、なんだってお前は、そんな嘘を吐いたんだ」
 物吉貞宗が軽率にひとを騙す刀でないのを、ソハヤノツルキは知っている。だからこそ苦しみ、真実を吐露したのだ。
 それでも彼は、嘘を吐いた。
 後から辛くなると分かっていたはずなのに、太刀を、そして自身をも欺かなければならなかった理由は、いったい何なのか。
「物吉」
 それが分からないことには、先へ進めない。
 脇差を責めることも、糾弾することも出来なかった。
 男の声は落ち着いており、感情の起伏に乏しかった。懸命に怒りや苛立ちを抑えつけている、というよりは、未だ戸惑い、混乱している雰囲気だった。
 ないことを、あるように装って、何がしたかったのか。
 望みは何か。
 そうまでして叶えたかった願いとは、なにか。
 記憶から薄れつつあるやり取りを振り返って、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
 渋面を作った彼に、物吉貞宗は苦笑した。照れ臭そうに首を竦めて、涙をまたひとつ、零した。
「すみませんでした」
 告げたのは、そのひと言のみ。
 詳細な事情の説明一切を拒んで、深く息を吐いた。
 言うつもりはないと、態度が語っていた。無責任となじられるのを覚悟して、思いを内に隠した。
 賢しい真似をして近付いておきながら、心まで欲しいと、どうして言えるのか。好きが高じてのことだったとは、言い訳にはならない。
 全ての咎は、自分にある。
「僕がいけなかったんです。僕が弱かったから。……ごめんなさい」
「物吉」
 ソハヤノツルキには、なんら非はない。彼が責任を覚える必要もない。
 彼は、被害者だ。
 言葉だけで許されるわけなどないけれど、頭を下げずにいられなかった。他に謝罪の術を持たず、これ以外思いつかなかった。
 説明がないまま謝られても、太刀は納得しないだろう。それでも、口を割るわけにはいかなかった。
 この想いは、穢れてしまったのだ。
 これから先、幾度となく、物吉貞宗は彼への感情を再認識する。眩い輝きに惹き付けられ、焦がされ、今日という日を思い出すのだ。
 それが罰だ。決して公に出来ない、してはいけない脇差が背負う罪だった。
「教えては、くれないのか」
「……すみません」
 だんまりを決め込む少年に、太刀は声を落とした。力の抜けた口調で囁いて、重ねて頭を下げられたのを受け、項垂れて背中を丸くした。
 ため息を吐き、鬣のような金の髪を掻き上げた。緩く首を振りながら舌打ちして、沸き立つ苛立ちを誤魔化した。
 失望させてしまったのが悔しくて、胸が痛んだ。彼がこんな顔をするところは見たくなかったのに、自分がそうさせてしまったのが、堪らなく恥ずかしかった。
「なあ、物吉」
「はい」
 やがて、ソハヤノツルキは静かに呼びかけた。
 罵詈雑言の気配を嗅ぎ取って、脇差は神妙な顔で頷いた。
 どれだけ罵られても構わなかった。それで太刀の気が済むのであれば、殴られるのも本望だった。
 居住まいを正し、肩から落ちかけた衿を引っ張った。眠ってもないのに勝手に着崩れる湯帷子を整えて、呼吸を鎮め、頭の中を空っぽにした。
 何を言われても、もう心は揺らがない。泣かない。喚かない。
 だからどうか、罪を背負わせて欲しかった。傷つけたこと、裏切ったことをなかったことには出来ないから、この先永遠に、罪業を胸に刻み続けよう。
 久しぶりに真っ直ぐ見つめた顔は、困っているようだった。言わんとしていた内容を忘れたのか、がりがりと頭を掻いて、ソハヤノツルキは首を振った。
「俺はさ、馬鹿だから。言ってくれねえと分からねえんだ」
「……すみません」
「だから、先に言っておく。逃げるなら、今のうちだ」
「はい」
「言ったぞ。逃げてもいいんだぞ。本気で、俺のこと殴るなり、ぶっ飛ばすなりしねえと、どうなっても知らねえからな」
「大丈夫です」
「本当に良いのか? 知らねえぞ。後からやっぱり嫌です、なんてのは言いっこなしだからな」
 くりゃりと髪を握り潰して、呻くように言った。次第に口調を荒らげ、早口になって、唾を飛ばして物吉貞宗に訴えた。
 理性で繋ぎ止めていたものを解き放ち、感情のままに怒鳴った。
 繰り返し確認し、何度も念押しした。少し諄いのではないか、と思うくらいに釘を刺してきて、都度脇差はしおらしく頷いた。
 どんな責め苦でも受けると決めた。
 罵倒され、打たれても、抵抗するつもりはなかった。
 勢い任せに吼えた太刀は、膝立ちになり、苛立たしげに床を蹴った。ダンダンと音を響かせ、脇差を驚かせた。
 わざと怯えさせ、こちらから逃げ出すように仕向けている。
 いったいなぜ、と目を丸くした直後、彼は顔を伏し、すぐに視線を上げた。
「っ!」
 その眼差しに、どきりとした。
 これまでとはまるで違う、戦場で垣間見るような鋭く、険しい、敵という名の獲物を見つけた時の眼光だった。
 射抜かれて、内側から震えが来た。全身がゾクッと波立ち、圧迫された心臓が悲鳴を上げた。
「ソハヤ、さん」
 呼ぶ声が震えた。押し潰されそうな恐怖におののいて、物吉貞宗は指先を痙攣させた。
 一度目が合ったが最後、逸らせなかった。緋に濡れた瞳に映し出された己の姿に、魂までもが囚われた気分だった。
 初めてこの太刀を、怖ろしいと思った。
 それと同時に、酷く憐れで、哀しい存在に感じられた。
 畏怖と愛慕が混じり合い、複雑な色を作り出す。それは虹色に輝くようで、斑に汚れているようでもあり、美しい一面と、そうでない一面が入り乱れた、なんとも言い表し難いものだった。
「……ソハヤさん」
「俺は、ちゃんと言ったぞ」
「はい」
 嗚呼、と脇差の少年は深く息を吐いた。
 その倍の量を吸いこんで胸に留め、頬を緩めた。
「ソハヤさんの、気が済むように」
 優しく告げて、目を細めた。顔をくしゃくしゃにして笑って、小さく頷いた。
 息を飲む音が聞こえた。ソハヤノツルキは驚いたのか、僅かに仰け反って、なにかを言いかけ、唇を噛んで堰き止めた。
 目を泳がせ、明後日の方角を見た。力なく首を横に振って、観念したのか頭を垂れた。
 そして。
「俺は、馬鹿だからな。すぐ勘違いしちまう」
「!」
 何度も繰り返される自虐的な台詞を、咄嗟に否定しようとして、物吉貞宗はぐっと堪えた。
 余計な合いの手を挟まないよう自制して、締め付けられるように痛む胸に手を添えた。
 ここに、心があるのだろうか。そんなことをふと考えた。
 刀剣男士は、刀剣の付喪神。器物に宿った想いの欠片の集合体だ。
 だから本来、刀自体に心など、ない。あるのは持ち主や、それに連なる人々の祈り、願い、憎悪、恐怖。
 ならばこれも、他の誰かが、他の誰かに抱いた感情なのだろうか。物吉貞宗自身に生じたものではなく、借り物の感情を、自分のものと錯覚しているだけなのか。
 違うと思いたかった。
「物吉」
「はい」
「俺は、今から。お前を抱く」
「……はい?」
 そうやって物思いに耽っていたから、ソハヤノツルキのことを忘れかけた。眼前で繰り広げられる百面相を見損ねて、聞こえたひと言には素っ頓狂な声を上げた。
 目を点にして、凍り付いた。
 あれやこれやと悩んでいたものが、遙か遠く彼方へと、まとめて吹き飛んだ。
 絶句して、動けなかった。頭の中は真っ白で、今し方告げられた台詞ひとつが、耳の奥で反響し続けた。
 間抜け面を曝して、瞬きを繰り返す。
 笑顔が引き攣った脇差を奇異に思ったのか、太刀は一呼吸置いてから眉を顰めた。
「ん?」
 清水の舞台から飛び降りる覚悟だったのに、どうも反応が鈍い。
 もっと驚くなり、嫌がるなりすると思っていたのに何故、と振り返って、彼は渋かった表情を徐々に強張らせた。
 それから約三秒後。
「……ち、ちちち、ちが、ち、ちがああああぁああ!」
 己が犯した重大な間違いに気が付いて、両手で顔を覆い、大声を上げて身悶えた。
 瞬時に顔を真っ赤に染めて、羞恥に打ち震えた。一番大事なところで言い誤ったと、台所の床に横倒しになって、海老が海底で飛び跳ねるかのように、膝を折ったり、伸ばしたりと繰り返した。
 勿論ここは地上なので、そんな事をしても逃げられない。
 この場から消え去るべきは自分だったと喘いで、泣きたい気分で歯軋りした。
「違う。違う、物吉。そうじゃない。そうじゃなくて、そうじゃなくて」
「だ、大丈夫、です。大丈夫です、ソハヤさん」
 自分よりも狼狽する相手がいると、妙に冷静になれるらしい。 
 ハッと我に返った脇差は、なにが大丈夫なのかと頭の片隅で思いつつ、悶絶する太刀を懸命に宥めた。
 ドッタンバッタン暴れ回られ、衝撃で埃が舞った。
 それを右手で薙ぎ払って、物吉貞宗は想像もしていなかった発言の主に手を伸ばした。
 言われた時は驚いたが、間違えた、と言われて少し安心した。ドキッとしたのは確かだけれど、今はそこまで頭が回らなかった。
 思考を放棄して、動揺したまま太刀の肩に触れた。仰向けに寝転がった男の膝を避けて、起き上がるよう促すつもりだった。
 ところが、だ。
「うっ」
 次の瞬間、手首が痺れた。骨が折れそうなくらいの痛みに、息が詰まった。ぐらっと来た直後、急変した視界に、意識は爆発寸前だった。
 男の顔が、すぐそこにあった。
 咄嗟に後ろへ下がろうとしても、強固な枷に阻まれて、右にも左にも、身動きが取れなかった。
「えええ?」
 理解が追い付かず、どうなったのか自分でも分からない。戸惑い、焦り、声を上擦らせて、物吉貞宗は真っ赤になっているソハヤノツルキに瞠目した。
 肩を掴もうとした手を、逆に奪われ、引っ張られた。重心が傾き、太刀に向かって倒れ込んだところで、腰に腕を回された。
 捕らえられた。
 脇差程度の力では振り解けないくらい強固に、華奢な体躯を束縛された。
「そ、ソハヤ、さん?」
「逃げろよ、物吉」
 これをどう解釈して良いか分からず、再び頭の中がぐちゃぐちゃに乱れた。
 そこへ追い打ちをかけるようにして、耳元で低く囁かれた。
 顔を伏した男が、物吉貞宗を抱きこんだまま身体を起こした。背中を浮かせ、床にどっしり腰を下ろした。
 手首は解放されたが、代わりに後頭部を抱えられた。色素の薄い髪に指を潜らせ、頭がい骨の形を確かめているようだった。
「早く。逃げてくれ」
 低く掠れた声は、太刀の心理状態を的確に伝えてくれた。
 切に祈り、懇願された。そのくせ脇差を抱きしめる腕は一向に緩まず、圧迫感は増す一方だった。
 逃げろと言いながら、逃がさないと態度が告げていた。言動不一致のソハヤノツルキに目を白黒させて、物吉貞宗は行き場のない手を蠢かせた。
 耳朶を擽る息遣いは荒く、苦しそうだった。
 どうにか救ってやりたくて、彼はその広い背に自らの腕を巻き付けた。
「っ!」
 触れた瞬間、太刀が大きく震えたのが分かった。
 耳を澄ませるまでもなく、肌を通して鼓動が伝わってきた。雄々しく、強く脈打ち、それでいて繊細に震えている。常よりもやや小刻みで、呼吸の間隔は短かった。
「なに、やってんだ。俺は、さっさと逃げろって。そう言ってんだ」
「いいえ」
「止めろよ。変な慰めとか、そういうのは欲しくねえ」
「そんなつもりはありません」
「勘違い、しちまうだろうがっ」
「構いません」
 この大きくて、小さな子供のような太刀への愛おしさが膨らんだ。
 駄々を捏ねて頭を振った彼を宥めて、物吉貞宗は太刀の湯帷子を握りしめた。
 布の皺に指を絡め、貼りついていた埃を撫で払った。下に隠れる皮膚さえ巻き込むくらいに力を込めて、深く吸い込んだ息をゆっくり吐き出した。
 静かに告げられて、ソハヤノツルキがまた震えた。
 後頭部にある手の所為で、顔を上げられないのが残念だった。彼が今どんな表情をしているのか、瞼の裏に思い描いて、脇差は声を殺して笑った。
「ふふ、……んふふ、ふふっ」
 けれど、我慢できない。抑えきれず、溢れ出るのを止められなかった。
 鼻から息を漏らし、喉を震わせた。小刻みに肩を揺らし、横隔膜を引き攣らせて、こみあげてくる感情に身を躍らせた。
「もの、よし」
「構いません。してください。……だから、僕も。勘違い、していいですか」
 突然笑い出した彼に怯えて、ソハヤノツルキが息を飲んだ。拘束が僅かに緩み、息がし易くなって、その隙を使って脇差はひと息に捲し立てた。
 背に回していた腕を胸元へ移し、衿を掴んだ。腕を動かした余波で右肩からするりと湯帷子が落ちたが、構わず、物吉貞宗は背筋を伸ばして太刀に縋った。
 胸に胸を押し当て、真下から覗きこんだ。
 緋色の瞳があらぬ場所を彷徨い、視線が合わないのに焦れて、勢い余ってその胸倉を掴んだ。
 直後。
「お前、……なで肩なんだな」
「それって今言わなきゃいけないことですか!?」
 衝撃で、残っていた左肩からも袖が落ちた。
 もれなく上半身が露わになって、布が肘の内側に集まった。あまりに場違いなことを言われてカッとなって、怒鳴り返し、それと入れ替わりに迫り上がってきた可笑しさには突っ伏した。
「ふっ、ふふ……はは。あははは、はは、あはははは」
「っは、ははは。くっそ……笑わせんじゃ……はははっ」
 真顔で言われただけに、拍子抜けだった。
 緊張が瞬く間に緩んで、数日分の笑いが襲い掛かってきた。
 あんなに悩み、苦しみ、辛さに耐えてきたことが、不意にどうでも良くなった。なんてくだらないことに悶々として、馬鹿みたいに考え込んでいたのかと、過去の自分を叱りたかった。
「はは、あはははは、ひはっ、やべ。苦しい」
「もう、変なこと、急に言うから。ふふっ、んふ、はは」
「変、じゃ、ねーだろ。お前の、はは、それ。なんでかって、ずっと、かんが、ってたけど……やべえ。なで肩かよ。すげえ」
「放っておいてください。好きでこうなったんじゃありません」
 白い歯を見せ、ソハヤノツルキが腹を抱え込んだ。目尻に涙まで溜めて喘がれて、物吉貞宗はムッとしながら衿を整えた。
 だが急いで直した所為か、上手くいかない。持ち上げ、手を放した途端にまた滑り落ちていって、それを見た太刀が一段と大きな笑い声を響かせた。
「ああ、もう!」
 上手く出来ない自分に、そして笑い転げる太刀に苛立ち、いっそ最初から全部やり直してやろうかと画策した。
 だが気取った男が一足先に衿を掴み、広げられようとしていたものを、逆に閉じた。そうっと左右の身頃を重ねあわせ、余った分は帯の下から引っ張った。
「そういうのは、村正の奴だけで充分だ」
「僕が脱ぐのは、駄目ですか」
「だめだ。俺の理性が危ない」
 黙って身繕いされて、不満が否めない。すぐに脱ぎたがる悪癖を持つ打刀を例に挙げられて、物吉貞宗は後に続いた小声に頬を膨らませた。
「べつに、いいのに」
 さっきは驚き、否定されてホッとしたが、今思えば勿体ないことをした。
 言質を取ったと迫り、既成事実を作ってしまえば良かった。
 否、急いては事をし損じる。
 機が熟すまで待つのは、嫌いではない。これから先もずっと、彼と一緒なのだ。
「このまま、……部屋に行って、いいですか」
 きっともう、ひとり寝でも平気だ。けれど寂しい。物足りない。
 熱が欲しかった。すぐ傍で、手を伸ばせば届く近さで。
「ああ。俺からも、頼む」
 同じ気持ちなのか、間髪入れずに返事があった。がりがりと金髪を掻き毟って、照れてか鼻を赤くして、ソハヤノツルキが頭を下げた。
 その仕草ひとつさえ、たまらなく愛おしい。
 ここで笑ったら拗ねるだろうと我慢して、不自然にならない程度に深呼吸を繰り返した。務めて平静を装って、抑えきれなえい喜びに胸を満たして、物吉貞宗は相好を崩した。
「はい。喜んで」

2017/08/27 脱稿