花咲きてこそ 色に出でけれ 続

 ソハヤノツルキは悩んでいた。
「う~~ん」
 胸の前で腕を組み、頻りに首を傾がせる。喉の奥から呻き声を響かせて、ガンガンする頭を懸命に支え続けた。
 目の前が暗いのは、瞼を閉じているだけが理由ではない。出口のない迷路に迷い込んだ気分で、憂鬱で、吸い込む空気はどれも苦かった。
 夜は良く眠れず、度々目が覚めた。暗がりの中で小さく、丸くなって、息を殺し続けるのは苦行だった。
 朝になればなったで、頭痛の種が待っている。
 額に脂汗を流し、唸って、彼は懸命に答えを絞り出そうとした。
「まだか」
 それを急かし、向かいから声が掛かる。
「待ってくれ、兄弟。あと少しなんだ」
 仕方なく目を開けて、ソハヤノツルキは右手を真っ直ぐ伸ばした。
 しばしの猶予を求めた彼の膝元には、将棋盤が鎮座していた。持ち運び易いよう軽量化されたもので、収納時は折り畳んで小さくなった。
 盤面はソハヤノツルキの一手を待ち、沈黙していた。状況はほぼ五分五分だが、若干大典太光世の方が有利に傾いている。それが分かっているからか、相対する太刀の表情にはどこか余裕があった。
 長くて邪魔な前髪を後ろに押し上げ、緋に濡れた鋭い眼光で兄弟分を射抜く。
 隙のない眼差しに怯みそうになって、ソハヤノツルキは懸命に己を鼓舞した。
「ええい。ままよ!」
 散々悩んだところで、決定打は見えてこない。
 ならばいっそ、思い切った行動をとるのみだ。
 覚悟を決めて、彼は桂馬で盤面を叩いた。
 パチン、と小気味よい音を響かせ、どうだとばかりに大典太光世を窺い見る。
 この手は予想していなかったようで、蔵入り天下五剣は神妙な顔で顎を撫でた。
「ふむ……」
 今度はあちらが、黙り込む番だ。目を眇め、戦況を端から端まで確認して、どこを攻め、どこを守るかの検討に入った。
 ひとまずこれで、窮地は脱した。ほっと胸を撫で下ろして、ソハヤノツルキは乾いた唇を舐めた。
 聞き取れない独り言をぶつぶつ言いながら、大典太光世が次の手を探して人差し指を躍らせる。それを向かい側からぼんやり眺めて、彼は胡坐を崩し、上半身を仰け反らせた。
 倒れないよう腕を支えに使い、深い意図がないまま視線を縁側に向けた。半端に開いた障子の隙間から明るい日差しが覗いており、むさくるしい男ふた振りが集う室内を優しく照らしていた。
 鳥の声はせず、獣の声も遠い。
 その原因たる太刀を一瞥して、パシッ、と響いた音に眉を顰めた。
「お前の番だ」
「……げえ。そう来るか」
 熟考の末に選び取られた答えに、ソハヤノツルキの顔がサーッと青くなった。
 折角切り開いた端緒を潰されて、強引に攻め続けるのが難しくなってしまった。
 状況が一気に不利に傾き、玉座の足元がぐらついた。このままでは数手のうちに詰んでしまうと冷や汗を流し、緋色の瞳を左右に走らせた。
 だが、妙案は浮かばない。目の前の勝負に集中したいのに、瞼を閉じる度に薄桃色の影がちらついて、気持ちが掻き乱された。
 今日も白い肩は細く、しなやかで、艶っぽかった。
 寝起きに垣間見た光景がふとした拍子に蘇って、どうしようもない雄の部分が力強く反応しかかった。
「どうした? 顔色が悪い」
「あんたに言われたくは、ねえな」
 そこへ声が飛んできて、咄嗟に言い返した。生意気な口ぶりで強気に構え、飛車に全てを任せた。
 この苦境を切り抜けるためには、ひたすら大胆に行動するしかない。慎重に行き過ぎて出遅れてはならないと腹を括って、意表を突く形で攻めに出た。
 ところが。
「本当に、それでいいのか」
「しまったあああああああ」
 大典太光世は淡々と言って、ソハヤノツルキが見落としていた歩を動かした。ここぞ、という場所で投入したつもりだったのに、あっさり捕縛されて、想定外の事態に彼は絶叫した。
 逆立っていた髪の毛を掻き毟り、頭を抱え、項垂れる。
 およそらしくない太刀の姿に眉を顰め、大典太光世は回収した飛車を手の中で躍らせた。
「近頃、少し、おかしいぞ」
 暇潰しの将棋は、これが初めてではない。これまでにも頻繁に、互いの手が空いた時に対局してきた。
 実力差は殆ど無く、勝敗は五分五分。けれどこの一週間近くは、ソハヤノツルキの一方的な敗北が続いていた。
 これでは遣り甲斐がなく、つまらない。
 もっと白熱した勝負を期待して、大典太光世は眉を顰めた。
 長い脚を斜めに投げ出し、楽な姿勢で飛車を自陣に置く。
 若干傾いている兄弟分を横目で窺って、鎮護の霊刀は小さく溜め息を吐いた。
 最早勝敗は決したようなものだが、悪足掻きを続け、盤面を操った。
「なあ、兄弟」
「なんだ」
「ひとつ質問なんだが。……物吉貞宗のやつを、どう思う」
「どう、とは?」
 ぱちん、ぱちん、と音が連続し、盤上の駒が少しずつ減っていった。玉座は丸裸に近くなり、王手は目前に迫っていた。
 それでもなんとか建て直そうとして、質問を返されたソハヤノツルキは指を引き攣らせた。
 触れる直前だった角を素通りして、なにもない場所を爪で削った。
 物吉貞宗は、徳川家康に所縁があり、所持者に幸運をもたらす脇差だ。世話焼きで、面倒見がよく、働き者で、いつも屈託なく笑っていた。
 最近は夜になると、ソハヤノツルキの部屋を訪れている。ふた振りで寝床を共にして、朝になると部屋に戻っていた。
 大典太光世は一時、それを勘違いした。後から必死の弁解を受け、誤解だと判明したが、その時の切羽詰まった様子もまた、今思えば奇妙だった。
「だから、その。良い奴だ、とか。あっと、……かわいい、とか」
「ああ」
 訊かれた内容が大雑把過ぎて、どう答えて良いのか分からない。具体例を求めた天下五剣の太刀は、例を示されて首肯し、何故か顔が赤い兄弟刀に目を眇めた。
「愛らしい刀だな」
「っ!」
 他者には分かり辛い笑みを零し、ぼそぼそ小声で言ったソハヤノツルキに同意する。
 直後に大袈裟に反応されて、彼は首を傾げた。
「かっ、かわ、かっ」
「どうしたんだ、兄弟。落ち着け」
「かかか、かわいい、とか。もももっ、もの、物吉がか?」
「お前が先に言ったんだろう」
 呂律が回らず、言葉になっていない。
 何度も息を詰まらせ、捲し立てて、手振りも交えて騒々しかった。
 膝立ちで暴れられて、将棋盤の上で駒が跳ねた。隣の駒とぶつかって、盤面が乱れた。
 下手をすると、ひっくり返ってしまう。慌てて手を伸ばし、盤の角を押さえて、大典太光世は狼狽激しい太刀に胡乱げな眼差しを投げた。
 ソハヤノツルキは肩を大きく上下させ、ぜいぜいと息を吐いた。合間に鼻を啜って、咥内の唾を飲み干した。
 顔は茹で上がった蟹よりも赤く、瞳の色に勝るとも劣らない。唇はわなわな震えており、そこだけ血の巡りが悪そうだった。
「……言った、か」
「ああ、言った」
「そうか。言ったか」
 やがて彼は、ぽつりと漏らした。
 力のない声に首肯してやれば、ソハヤノツルキはがっくり肩を落とし、畳の上に崩れ落ちた。
 立てた左膝に額を押し付け、俯いて、動かなくなった。両腕で頭部を囲って壁代わりにして、鼻を愚図らせ、言葉を発しなかった。
 沈黙が広がり、物音ひとつ響かない。
「物吉と、なにかあったか」
 勝負は決まっていないが、大典太光世の勝ちでほぼ決まりだ。これ以上は意味がないと諦めて、彼は問いかけを投げつつ、盤に散らばる駒を集め始めた。
 表裏を揃え、専用の小箱へ片付けていく。
 それを指の隙間から眺めて、ソハヤノツルキは右膝も起こした。
 三角に折り畳んだ脚を抱きしめて、その真ん中に顔面を押し込んだ。背中を丸めて小さくなって、低くくぐもった声で白状した。
「このままだと、俺がやばい」
「なぜ」
「……言ったよな。悪夢が怖いからって、あいつ」
「ああ。聞いた」
 切迫した状況を表現しようと、音量を絞った。大典太光世はそれをしっかり拾い上げ、淡々と切り替えした。
 皆が寝静まる時間帯、脇差の少年が太刀の部屋を訪ねるのには、理由がある。かつての主が己を使い、腹を切る悪夢を見た物吉貞宗が、それが現実になるのを恐れたからだ。
 彼ら刀剣男士は、歴史介入を目論む歴史修正主義者を討伐するのが仕事だ。けれど時間遡行軍は数が多く、どれだけ倒しても、倒しても、駆逐し切れなかった。
 ぼんやりしている間に、奴らはどんどん過去を変えていく。
 天下統一を成し遂げた武将もまた、奴らの格好の標的だった。
 夢で見た光景が、いつ現実と成り代わるかも分からない。
 怯える彼があまりにも哀れで、助けてやりたかった。自分にそんな力があるかは知らないが、己が霊力で悪夢から守ると、ソハヤノツルキは彼に約束した。
 以来物吉貞宗は、ソハヤノツルキの布団で共に眠るようになった。
 問題は、その後だ。
「なんでか、分かんねえんだけど。あいつ、すっげえ寝相、悪いんだよ」
「それも、聞いた」
 苦悩を押し殺し、金髪の太刀が吼える。
 淡々と合いの手を返して、大典太光世は役目を終えた将棋盤を半分に折り畳んだ。
 物吉貞宗は、それはそれは良い刀だ。性格は言うに及ばず、他の刀の為にいつも一生懸命だ。親切で、困っている刀がいれば放っておかない。料理の腕も悪くなく、教えられたことはすぐに覚えた。
 だが彼は、致命的に寝相が悪かった。
 暴れるのではない。頭と足の位置がひっくり返るわけでもない。
 ただ眠る前にきちんと着ていたものが、朝になると悉く肌蹴ているだけだ。
 それが原因で、ソハヤノツルキはあらぬ誤解を受けた。
 脇差にも繰り返し注意を促したが、一向に改まる気配がなかった。
 彼がひと振りで眠っていた時は、誰も問題視しなかった。聞けば太鼓鐘貞宗にも、同じような悪癖があるらしい。そこから類推するに、亀甲貞宗にも備わっている可能性が高いが、確認しようとは思わなかった。
 どれだけ腰帯をしっかり結んでおいても、衿を綺麗に合わせておいても、ひと晩過ぎればいつも通り。
 目覚めた瞬間に目にするものが、絹のように白い柔肌というのは、太刀でなくとも心臓に悪かった。
 しかもすやすや眠る顔は、成長しきらない少年特有の可憐さだ。
 適度に露わになった素肌と、安心しきっている無防備な寝顔。
「あんなの、目に毒過ぎるだろ」
 思い出すだけでも腹の奥が疼いて、背徳感は凄まじかった。
 抑えきれない欲望がむくりと首を擡げるのを、どうやって防げと言うのだろう。
 相手は自分を頼り、救いを求めて来た脇差だ。大切な仲間であり、本丸で共に暮らす家族のような存在だった。
 だというのに、近頃は彼の顔をまともに見られない。
 頻繁に戦場に出向き、敵と戦って発散出来ていたなら、問題はなかった。だが近頃は出陣の機会を短刀たちに奪われており、屋敷で留守番、という日が多かった。
 行き場のない欲望が高まって、昂ぶって、どうしようもなかった。
 眠る物吉貞宗を見ながら自身で処理した時の罪悪感は、半端なかった。
 もう駄目だ、止めようと思うのに、止められなかった。彼が起きてしまうのでは、とビクビクしつつ、荒ぶる熱を御し切れなかった。
「このままじゃ、俺は。あいつのこと、どうにかしちまいそうで」
「なら、別々で眠ればいいだけの話ではないのか」
「なんて説明するんだよ。お前をおかずにしてますって、言えるわけがないだろ」
 今はまだ、自分だけで熱を処分出来ている。
 だが放置すれば、いずれ過ちを犯す日が巡ってくるだろう。
「なぜだ。俺は、前田に言ったぞ」
「一緒にすんじゃねえ!」
 その前にどうにかしたいのに、助言を求められた男はさらりと言い放った。
 昔馴染みの短刀と懇意にしているのを、周囲に一切隠す気がない男の発言に、ソハヤノツルキは我慢ならずに大声で喚いた。
 咄嗟に空の湯飲みを掴んで、投げようとしたところでぎりぎり思い止まった。さすがにこれは不味いと我慢して、丸い盆にゆっくり戻した。
 と同時に深々と息を吐き、脱力して頭を抱え込んだ。
 大典太光世はなぜ怒鳴られたのか分かっていない顔で、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「一緒にしては、いけないのか」
 率直な疑問を正直に述べて、疑問の解消に努める。
 それで益々頭痛を酷くして、ソハヤノツルキは苦々しげに口元を歪めた。
「そもそも、前提が違うじゃねえか。前田藤四郎は、兄弟、あんたを慕ってる。あんだだって」
 互いに好きあっているのであれば、別段問題ないだろう。肉欲を伴わない関係もあるにはあるが、ここにいる天下五剣と、彼と過去に所縁を持つ短刀は、それを大幅に飛び越えていた。
 本丸で再会を果たした後、両者の距離は急速に縮まった。現身を得た直後の不慣れな段階から、前田藤四郎は大典太光世を献身的に支え、精神的な拠り所となっていた。
 そんなふた振りが、特別な仲になるのに、障害が皆無だったわけではない。
 最難関は粟田口一派を率いる太刀、一期一振。
 しかしあの男でも、弟の懇願を退けるのは容易ではなかった。
 そうして現在、彼らは度々、隣の部屋で褥を共にしている。抱き枕、湯たんぽ代わり云々と表向きには言っているが、それだけでないのを、ソハヤノツルキは知っていた。
 彼らを羨ましく思ったのは、一度や二度ではない。
 あんな風に堂々と触れられたら、と幾度も願い、その度に虚しさを覚えてきた。
「お前は、物吉貞宗に惚れているのではないのか?」
「は?」
 口惜しさに唇を噛んでいて、問いかけを聞き漏らすところだった。
 きょとんと目を丸くした彼に、大典太光世は深く頷き、真顔で問い詰めた。
「んなっ、な、なに。ななななに、なにを、ここっ、こん、こん、きょ、に」
「違うのか?」
 それでカアッと赤くなって、ソハヤノツルキはしどろもどろに捲し立てた。何度も息を詰まらせて、動揺を露わに身を捩った。
 挙動不審が過ぎる態度に淡々と問い返し、将棋盤を撫でた太刀が眉を顰める。鋭い眼光で兄弟刀を射抜いて、返答を迫った。
 威圧されて、ソハヤノツルキは竦み上がった。ぶるっと全身を震わせて、奥歯をカチカチ噛み鳴らし、鼻から息を吸って、口から吐きだした。
 仰け反って後ろへ倒れた身体を整え、足を組んで座り直した。猫背になって頭をガシガシ掻き回し、落ち着きなく視線を泳がせ、口元を覆い隠した。
「よく、分かんねえ……」
「好意があるから、身体が反応するんだろう」
「ただの生理現象かもしれないだろ」
「ならば同衾する相手が、物吉貞宗以外でも、同じになると言えるのか?」
「それは」
 言葉に迷い、断定を回避する。
 それが臆病に映ったのか、追及する大典太光世は珍しく多弁だった。
 再び言葉に詰まって、金髪の太刀は己の掌を見た。中途半端に指を曲げ、なにかを掴む寸前の仕草で固定して、空っぽの内部に焦点を定めた。
 目を瞑らずとも、脇差の姿がそこに現れた。子犬のようによく走り回って、ころころと表情が変化し、見ていて飽きない。笑顔が一番似合うが、刀を手にし、敢然と敵に立ち向かう横顔は凛々しかった。
 控えめな照れ顔、大喜びする仕草。困った時には首を右に傾がせて、嬉しい時は両手を叩くのが癖らしかった。
 短刀たちの面倒をよく見て、中でも包丁藤四郎には特に気を掛けている。
 慣れた手つきで縫い物をする光景が浮かびあがり、不意に顔を上げてソハヤノツルキを見た。
「っ!」
 幻に微笑みかけられて、どきりとした。
 心臓を鷲掴みにされて、動悸が止まらなかった。
 他の刀が相手では、こうはならない。ましてや寝所を共にしようなど、絶対に思わない。
 物吉貞宗だけだ。
 彼だけが、ソハヤノツルキの心を波立たせた。
「ちっくしょ……」
 外堀を埋められて、認める以外術がない。両手で頭を抱え込んで、彼は潔く白旗を振った。
 降参だ。よりによって兄弟刀に言い負かされた。蔵の中で黴臭く湿気ていたくせに、さすがは天下五剣と言うべきなのか。
 失礼千万な評価を心の中で並べ立て、ある程度落ち着いたところで深く息を吐く。
 自分で乱した髪の毛を雑に整えて、額を晒し、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああ、そうだよ。惚れてるよ。あいつは世界一、可愛い奴だよ」
 長らく腹の底に溜め込んでいた思いを膨らませ、正直に吐き出した。右腕を横薙ぎに払い、ぐっと拳を作った。
 その宣言に、大典太光世の眉がピクリと反応した。
「それは違う。世界一愛らしいのは、前田だ」
 本題とは異なる部分に反応し、食って掛かった。この世で最も慈しむべき存在を声高に告げて、真っ向から否定した。
 力強く訂正されて、看過できなかった。聞き捨てならないと小鼻を膨らませて、ソハヤノツルキは拳を作った。
「冗談言っちゃあいけないぜ、兄弟。物吉の方が、百万倍可愛いに決まってる」
「それこそ、戯言だ。前田の愛らしさが、お前には何故分からない」
「物吉だ」
「前田だ」
「もーのーよーしーだー!」
「前田において、他にいない」
「正直に認めろよ。物吉が一番だっての」
「お前こそ、常識を理解しろ」
「兄弟こそ、現実を見ろよ。絶対に物吉だって」
「前田以外有り得ない」
「だから――」
「あ、あのぉ……」
 互いに譲らず、口論が熱を帯びていく。
 殴り合いの喧嘩にまで発展しかかったそれを止めたのは、廊下に通じる襖から顔を出した少年だった。
 申し訳なさそうに首を竦めて、ぴたりと停止した太刀ふた振りに恐縮し、頭を下げる。
 ひと房だけ色が異なる髪を揺らして、物吉貞宗は困った顔で目を細めた。
 苦笑いを浮かべ、邪魔をしたかと仕草で問うた。それではたと我に返って、拳を振り上げていた太刀は熟れ過ぎた林檎のように赤くなった。
「も、もの、よし。お前、いっ、いつ。いつから」
「ええっと。今、です。名前が、聞こえたものですから、つい」
 狼狽しつつ問いかけて、下ろした腕を支えに四つん這いになった。崩れ落ちかけた身体を支えて蹲り、明後日の方向を見ている脇差に目を白黒させて、スススと動く影に急ぎ振り返った。
 見れば大典太光世が、将棋盤を抱えて縁側から出ていくところだった。
 去り際にひらりと手を振ったのが、健闘を祈る、と告げているようだった。
 もっともソハヤノツルキには、無責任に逃げ出したようにしか映らない。無言の声援も糧にはならず、目の前が真っ暗に沈んでいくようだった。
「あの、……?」
「うわあ、すまん!」
「え?」
 中庭の方ばかり見て、物吉貞宗の存在を頭から消していた。
 呼びかけられて反射的に謝ってしまい、部屋の中で飛び跳ねた太刀は、きょとんとする脇差に総毛立った。
 お互い、なにを謝り、謝れているかが分からない。
 咄嗟に出た言葉なので格別意味はないのだが、後付けで理由を探そうとして、ソハヤノツルキは虚空を見た。
 謝罪する必要があるとするなら、明け方、彼の半裸を前に自らを慰めたことだろう。大切な仲間なのを承知で情欲を抱き、彼が淫らに乱れる光景を、頭の中で幾度となく思い描いた。
 純粋無垢という言葉がぴったりくる少年を、己の欲望で穢した。
 この事実が知れたら、軽蔑されるだけでは済まない。
 そういう後ろめたさが、無意識に働いていた。
「いえ、こちらこそ。勝手に入ってしまって」
「違うんだ、物吉。ええと、その……そういうんじゃ、なくてだ」
「はい?」
 両手を揃えて頭を下げた脇差に、更なる弁解を試みて、墓穴を掘った。
 そもそもなにを言おうとしていたのかすら思い出せず、言葉を詰まらせて、ソハヤノツルキは意味もなく両手を振り回した。
 一旦深呼吸して落ち着こうとするものの、琥珀色の瞳に見つめられた途端、全身が戦慄いた。あらゆる汗腺からドッと汗が噴き出して、身動きが取れなかった。
 きちんと身なりを整え、一分の隙もない物吉貞宗の姿に、今朝目にした寝乱れた像が重なった。不思議そうに首を捻る顔が、頬を上気させて目元を潤ませる妄想と混じり合い、ゾワッと背筋が寒くなった。
 聞いたことなどないのに、甘く濡れた声で名を呼ばれた錯覚に陥った。
 欲情し、快楽に溺れ、淫らに喘ぐ吐息が耳朶を擽り、寒気が止まらなかった。
「ソハヤさん?」
「いや、えっと、そのう……めっ、珍しいな。俺になにか、用、か」
 そこに、凛とした少年の声が割り込んできた。
 至って平々凡々とした、普段耳にするのと同じ調子で呼びかけられて、ソハヤノツルキは溢れ出そうになった様々なものをぐっと押し留めた。
 丹田に力を籠め、歯を食いしばった。体内で蠢いている熱を懸命に抑えつけ、早口で問いかけた。
 言ってから、自意識過剰だったかと不安になった。彼が寝起きする部屋は太刀部屋区画の中にあり、左右や向かいにも沢山部屋がある。他の刀剣男士に用事があったのかもしれないのに、自分を訪ねてきたと早合点して、口が滑ったのが恥ずかしかった。
 もっとも、これは杞憂だった。
「僕の名前が、聞こえた気がしたので。ソハヤさんに用があったのは、確かですけど」
「あ、あははははは。そ、そうか」
 脇差が入室の許可を得る前に襖を開けたのは、室内から大声でのやり取りが響いていたから。
 大典太光世との白熱した論議に。周囲の環境のことをすっかり忘れていた。部屋の主である太刀は乾いた笑いを浮かべ、声が大きい自分を密かに恨んだ。
 もっと早い時点から盗み聞かれていたら、どうしよう。
 懸念は拭えないものの、物吉貞宗が嘘を言うとも思えない。
 今は信じることにして、胸の中で神仏に祈り、行き場のない手で鼻の頭を掻いた。
「いや、ちょっとな。兄弟と、誰の煎れた茶が、そう。茶を上手く淹れられるのは誰か、ってな」
「はあ」
 なんとか誤魔化そうとして、不意に思いついた案を素早く舌に転がした。
 大典太光世が短刀の名を連呼していたのも、間違いなく聞かれている。このふた振りに共通する事案を探して、出て来たのが茶の話だった。
 どちらの刀も、太刀らの面倒をよく見てくれた。小腹が空いた時には、間食と共に温かい茶を供してくれた。
 その話題から発展したのだと、調子良く告げて、真実を覆い隠す。
 物吉貞宗は緩慢に頷いて、しばらく黙った後、面映ゆげに首を竦めた。
「僕なんか、まだまだです。前田君の方が、ずっと美味しいお茶を煎れてくださりますよ」
「へええ。なら今度、頼んでみるかな」
「でも、ソハヤさんがそう思ってくださったのは、とても光栄です」
 手作りの料理や、菓子の感想なら述べたことはあるが、茶にまで及んだことはなかった。咄嗟に出た嘘だったのだが、脇差は素直に信じて、嬉しそうに頬を緩めた。
 それがあまりにもあどけなく、無垢なものだから、二の句が継げなかった。
 純粋過ぎる笑顔が胸に突き刺さって、罪悪感は半端なかった。
「ぐぅぅぅ」
「ソハヤさん? どうかしたんですか?」
 自身の穢れぶりをも強く意識して、心が激しく痛んだ。押し潰されそうな感覚に呻いて、伸びて来た白く細い手を咄嗟に跳ね返していた。
 黄金色の瞳が、蒼白になっている太刀の姿を大きく映し出す。
 たったそれだけのことでも、彼を汚している気分になって、ソハヤノツルキは口籠もった。
「なんでも、ねえ。大丈夫だ。それより。用って、なんだ」
 そんなつもりはなかったのに、咄嗟に叩いてしまった。さほど力が入っていなかったので、痛くなかったとは思うが、自分が物吉貞宗を打ったこと自体が衝撃的で、動揺が否めなかった。
 脇差の方もしばらく惚けた顔をして、訊かれたのに答えなかった。呆然と突っ立って、数秒してからハッと息を吐いた。
「えっと、そうですね。えっと。あの」
 急にピンと背筋を伸ばしたかと思えば、間誤付いて、慌ただしく両手を振り回した。挙動不審に身を捩って、猫背になって顔を伏した。
 胸の前で結びあわせた手を弄り、爪の生え際を頻りに撫でて、黙り込む。
 変なところで言葉を切った彼に、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
「物吉?」
「今夜、なんですけど」
「え? あ、ああ。なんだ。遅いのか?」
 沈黙が重く、気持ちが落ち着かない。訳もなく緊張して、汗が止まらなかった。
 空気がピリピリして、棘のように腕に刺さった。ようやく聞こえた小さな声に無性にホッとして、金髪の太刀は唇を舐めた。
 ここ一週間ほど、物吉貞宗はソハヤノツルキの部屋で眠っている。悪夢に怯え、ひとり寝を怖がった彼の為に、寝床を提供していた。
 今宵も、当然訪ねてくるものと疑わなかった。遠征か、もしくは屋敷内の仕事で遅くなる可能性を考えて、待てばいいのか、先に休んでいようかと、頭の中で計画を立てた。
 ところが、だ。
「いえ」
 投げかけられた疑問に、脇差は首を振った。動きに合わせて言葉を紡いで、握り締めた両手を胸に押し当てた。
 口を真一文字に引き結んで、顔を上げた。覚悟を決めた表情で見つめられて、雰囲気の変化に、ソハヤノツルキは戸惑いを露わにした。
「物吉」
 嫌な予感が膨らんで、言わせてはならない気がした。
 根拠はないが、直感した。反射的に手を出して、華奢な肩を掴もうとした。
「もう、あれから、嫌な夢は見ていません。だから。これ以上、ソハヤさんにご迷惑をかけるわけには」
「――え」
 けれどそれより先に、告げられた。
 ひと息のうちに捲し立てられて、あまりの早口に、全部を聞き取れなかった。
 いや、聞こえていた。だが頭が理解を拒んだ。目の前が真っ白になって、行き場を失った手が虚空を掻き回した。
 指先を蠢かせ、ゆっくり引っ込めた。物吉貞宗はそれが見えていたはずだが、特に言及はせず、瞬きを減らして太刀を見詰め続けた。
 きゅっと唇を噛み締めて、真剣な眼差しで男の反応を窺った。息さえ殺し、一挙手一投足を逃さず確認して、荒れ狂う鼓動にごくりと唾を飲んだ。
 ソハヤノツルキは軽くふらついて、左足を後ろにずらした。爪先を畳に擦りつけて重心を低くし、右手で頭を抱えて、金色の髪をくしゃりと握り潰した。
「なんだ。そう、か」
 その可能性を、どうしてだか一度も考えたことがなかった。
 物吉貞宗はこの先もずっと、自分の寝所で夜を明かしていくものと、勝手に決め込んでいた。悪夢がいつ忍び寄ってくるか分からないから、未来永劫、自分の霊力で彼を守り続けるものと、信じて疑わなかった。
 たった一週間。
 けれど一週間、脇差の身にはなにも起こらなかった。
 もう安心だと、彼が思うのは当然だ。霊刀はその実力をいかんなく発揮して、結果を残した。
 物吉貞宗は、端からそれが目的だった。それ以上は望んでいない。太刀は晴れてお役御免となった。ひと組の布団を分け合って、狭苦しい思いをしなくて済む。
 万々歳だ。
 だのに、この虚無感はなんだろう。脇差の役に立てたというのに、ちっとも嬉しくない。それどころか衝撃が強すぎて、息継ぎさえ巧く出来なかった。
 頭がくらくらした。全身から血の気が引いて、倒れてしまいそうだった。
「そうか。そりゃ、よかった」
 それとももしや、気付かれたのだろうか。
 白一色の寝間着から覗く太腿に興奮し、鼻息を荒くしていたことを。
 見てはいけないと思いつつ、衿から覗く細い鎖骨や、薄い胸板、小さくて可愛らしい臍までを目に焼き付けていたことを。
 男としての欲望の捌け口に使ったことを。
 無防備で、無抵抗なのを良いことに、こっそり柔肌に触れ、絹のような滑らかさを堪能していたことを。
 彼に、知られてしまったのか。
「……すまねえ」
 謝って済まされる問題ではないが、意図せずして声に出していた。
 情けなくて、惨めで、この世から消えてしまいたかった。
 事が露見したら、本丸にはいられない。最低な奴との謗りを受けて、後ろ指を指されながら過ごす日常は地獄だ。
「どうして、謝るんですか。ソハヤさんのお陰で、僕は、……はい。とても。とても、幸せでした」
「物吉?」
 けれどどうやら、心配は杞憂だったようだ。
 脇差の少年は太刀を糾弾することなく、逆に深々と頭を下げた。言葉尻は小声過ぎて聞き取れなかったが、背筋を伸ばした彼の表情は晴れやかだった。
「迷惑だなんて、俺は。全然」
「でも、やっぱり、嫌でしょう。僕、……寝相が悪いですし」
「俺は気にしてねえって。むしろ御世話に……げふんげふっ、んんっ」
「大丈夫ですか?」
 取り越し苦労だったのは助かったが、このままでは寝所が別になる。迷惑に思ったことは一度もないと、引き留めを図ったが、口が滑り掛けて青くなった。
 それに、あまりしつこく言い過ぎると、却って怪しまれる。
 これ以上墓穴を掘らないためにも、ここは一旦、引き下がるべきと思われた。
 下手を打ち、嫌われたくなかった。
「大丈夫だ、すまん。またなにかあれば、言ってくれ。俺に出来ることなら、力になろう」
「はい。ありがとうございます」
 表面上取り繕って、平静を装い、告げる。
 細かく震える手で肩を叩かれて、物吉貞宗はにっこり微笑んだ。
 咲き誇る花でさえ色褪せる笑顔を浮かべ、改めて頭を下げた。深々とお辞儀して、上手く笑えずにいるソハヤノツルキから離れた。
 追い縋ろうとする手を堰き止めて、太刀は奥歯を噛み締めた。顎が砕けるまで力を込めて、襖が閉まるまでその場に立ち尽くした。
 小さな足音が徐々に遠退いて、やがて完全に聞こえなくなった。直後に膝から力が抜けて、彼はへなへな、とその場に崩れ落ちた。
「うあっ」
 尻餅をつき、痛かったが、動けなかった。腰が抜けたようで、腕を支えにしても、起き上がれなかった。
 惚けた顔で瞬きを繰り返し、脇差がつい今しがたまで立っていた場所を見る。
 そこにはなにもなく、ただ白一色の襖が陣取るだけだった。
「なにやってんだ、俺は」
 あそこで聞き分け良く振る舞わず、思いの丈をぶつけていたら、どうなっただろう。
 当たって砕けるのが、自分の性分だ。思い切って突き進む、突っ走る。脇目も振らず、己の力を信じて。
 それなのに、臆病風に吹かれた。およそ自分らしくない。決めかねて、二の足を踏んだ。本音を隠し、ごまかし、取り繕い、逃げた。
 あれこれ屁理屈を捏ねて、意志を撤回させることだって出来たのに、しなかった。動揺して、少しも冷静でなかった。
 秘めた思いを悟られて、気味悪がられるのが怖かった。嫌悪感を向けられ、笑いかけてくれなくなるのを恐れた。
 好きだから、踏み出せなかった。
 好きなのに、踏み込めなかった。
「あ~~~……」
 立ち上がるのを諦めて、ソハヤノツルキは仰向けに寝転がった。部屋の真ん中で大の字になって、木目がはっきり表れている天井を何とはなしに眺めた。
 横になったまま上着の袖を伸ばし、皺を手繰った。枝に引っ掻けて破り、縫い繕われた場所を探り当てて、ほんの少しだけ違う色味に目を細めた。
 これがなければ、彼を特別視しなかった。
 冗談のつもりで茶化した時、いやに可愛らしい反応を見せられた。今思えば、それが始まりだった。
「やべえ。地味に、きつい」
 時間が経つにつれて、物吉貞宗に言われたことが頭をぐるぐる廻り始めた。
 今宵から、別々で眠ることになった。元に戻っただけなのに、この一週間が濃密すぎて、付き合ってもいないのに別れ話をされた気分だった。
「まじで……死にそう」
 いつになく落ち込んで、涙が滲んだ。それを手の甲で擦って、彼は額の上で腕を交差させた。

人しれず思ふ心はふかみ草 花咲きてこそ色に出でけれ 
千載和歌集 恋一 684