花咲きてこそ色に出でけれ 始

 ここ数日、物吉貞宗の顔が随分と面白いことになっている。
 簡素な造りの卓袱台を挟んで、にっかり青江は湧き起こる笑いを懸命に堪えた。
 右斜め向かいに座る短髪の脇差は、俯いて溜め息を零したかと思えば、突如背筋を伸ばしてぶんぶん首を横に振った。懸命に自身を奮い立たせようという素振りを見せて、その数秒後には猫背になって深く肩を落とした。
 百面相とは、こういうことを言うのだろう。
 うっかり噴き出さないよう腹筋に力を込めて、大脇差は頬杖つく手を入れ替えた。
「ただいまです~」
「喜べ。豊作だ」
 そうしているうちに、障子が開き、脇差仲間が帰ってきた。常に行動を共にしている鯰尾藤四郎と、骨喰藤四郎の登場に、にっかり青江は嗚呼、と首肯して居住まいを正した。
 一方で物吉貞宗は物思いに耽り、下を向いたままなにやらぶつぶつ言っている。
 丸めた人差し指を口元に添えて、黄金色の眼はどこか別の場所を見詰めていた。
 心此処に在らず、と表現するのが正解か。
 再び頬杖ついた大脇差の前で、藤四郎ふた振りは運んできた盆を卓袱台に並べた。
 直径一尺弱の丸盆をふたつ置いただけで、卓上はいっぱいになった。最初からあった菓子盆はほぼ空で、遠慮の塊となった煎餅が、落ち着かない様子で身を捩っていた。
 その菓子盆を隅に追い遣り、鯰尾藤四郎が胡麻団子を大量に盛り付けた皿をどん、と真ん中に置いた。
 空になった丸盆は卓袱台の足元に置いて、細く湯気を立てる甘味相手に胸を張る。
 骨喰藤四郎は大きめの茶瓶と、小さめの湯飲み茶碗を次々に並べ、手際よく茶を注いでいった。
 茶碗自体は六個だが、今ここにいるのは四振りだけ。
 余った二個には何も注がず、片隅に避けて、物静かな少年は浮かせていた腰を下ろした。
「こんなに沢山、入り切るかな……口にだよ?」
「鼻から突っ込んで欲しいんですか?」
「耳じゃなかっただけ、良かったと思うことにするよ」
 台所へ八つ時の菓子を受けとりに行っていた彼らに感謝しつつ、ちょっとした冗談に真顔で返されたのには苦笑を禁じ得ない。
 大袈裟に肩を竦めて首を振って、にっかり青江はまだ熱を持っている団子に手を伸ばした。
「ありがとう」
 横から温かい茶を差し出され、先にそちらを受け取って、改めて胡麻団子を抓み取る。
 表面をサッと油に潜らせただけのそれは、外側がカリッとして、内側はもっちりした柔らかさを残していた。
 中心部に漉し餡が入っており、三段階の触感と味わいが楽しめて、なんとも言えない美味しさだった。
「これは、誰が?」
「獅子王と、小烏丸さんです。といっても、小烏丸さんは胡麻を塗してただけですけど」
「弟たちも手伝っていた」
「へえ。どうりで、小さくて可愛らしいと思ったよ」
 太刀としては小柄な部類に入るふた振りを中心に、短刀たちが集まって、賑やかに作っていたのだろう。光景は楽に想像出来て、にっかり青江は二個目の胡麻団子をまじまじと見つめた。
 口の中に放り込んで、胡麻の香ばしさと、餡子のまろやかさをじっくり堪能する。
 すっかり甘くなった咥内を茶で濯ぎ、ひと息吐いたところで、彼は置物状態の同胞に視線を戻した。
「物吉?」
 物吉貞宗は依然として明後日の方向を見詰め、菓子にも、茶にも、反応しなかった。
 さすがに可笑しいと思ったらしく、骨喰藤四郎が眉を顰める。
「どうしたんですか? あれ」
 鯰尾藤四郎も脇差仲間を指差して、声を潜めた。
 なにか知っていると思われたようだが、にっかり青江だって事情は良く分からない。場所柄の所為か、脇差ばかりが集まる共同部屋を訪ねてきた時から、彼はずっとこの調子だったのだ。
 この本丸の建物は大きくふたつに分かれ、南側にあるのが大座敷や台所などが備わっている母屋だ。一方北側には刀剣男士らの私室を集めた居住区があり、ここは脇差が主に生活する区画の中だった。
 向かいには中庭があり、縁側から緑豊かな景色が堪能出来た。
 少し前までそこで後藤藤四郎が竹刀を握って素振りをしていたが、鯰尾藤四郎たちと一緒に台所へ向かい、そのままだった。
 かれこれ半刻近く、物吉貞宗は物憂げに座り込んでいる。
 呼びかけにも碌に反応せず、昏く澱んだ双眸には光が宿っていなかった。
 魂が抜け落ちているような雰囲気は、以前よりも遥かに酷い。
 ため息を数える気も起こらなくて、にっかり青江は苦笑した。
 放っておいても良いのだが、それはそれで冷たいだろうか。
 対処に困って口出しせずにいた大脇差だが、お節介で、悪戯好きの脇差はお構いなしだった。
 口の横に両手を置いて、ずずい、と卓袱台越しに身を乗り出す。
「おーい」
「……ふえっ?」                        
 ほぼ正面から風を吹きかけられて、前髪を煽られた少年は途端にビクッと肩を跳ね上げた。
 頭の天辺から飛び出した、と思える甲高い声を響かせて、四度も、五度も瞬きを繰り返した。息を飲み、竦み上がって、状況が理解出来ないのか、慌ただしく左右を見回した。
 正座から中腰になり、直後に力が抜けたのか、尻餅をついた。どすん、と傾いた上半身を両手で支えて、怯えた様子で目を泳がせた。
 本当に、周りの変化に一切感付いていなかったらしい。
「え? え、あれ? えええ?」
 素っ頓狂な声を上げた彼は、部屋にいる仲間を順繰りに見つめ、右の頬をヒクヒク痙攣させた。
 笑顔が張り付き、強張っていた。じりじり後退を目論み、畳の縁に指が引っかかったのにも大袈裟に反応した。
 何もない場所に恐々として、萎縮していた。
「大丈夫か」
「んー? また、なんですかねえ?」
「そうだねえ。ほかに思いつかないねえ」
 見かねた骨喰藤四郎が心配して歩み寄る中、卓袱台を挟んで反対側にいたふた振りは顔を向け合い、揃って首を右に倒した。
 ほんの数日前も、物吉貞宗は今と似たような状態になった。昔馴染みでもある太刀、ソハヤノツルキとの関係性に悩んで、終始憂鬱な顔をしていた。
 それを面白がった――もとい、案じた脇差たちが、彼に策を伝授した。幸運をもたらす脇差はそれを実行し、目論見通り、ソハヤノツルキに彼を意識させるのに成功した――はずだった。
「ソハヤさん、最近は露骨なくらい、物吉のこと、意識してますよねえ?」
「そうだねえ。見ていて、こっちが恥ずかしくなるくらいにねえ」
「聞こえてますよ!」
 ところがたった数日で、物吉貞宗は元通り。
 狙い通りの状態になったのに、なにが不満なのかと首を捻った鯰尾藤四郎たちに、槍玉にあげられた少年は声を張り上げた。
 どんな時でも朗らかに笑っている脇差が、珍しく声を荒らげた。目を吊り上げ、歯を食いしばり、鼻息を荒くして凄んでいた。
 ただ元々が愛らしい容姿なため、怒ってもあまり迫力がない。
 しかも肌色は紅を帯びて、羞恥に溢れているのが丸分かりだった。
「ソハヤノツルキと、なにかあったのか」
「ぐっ」
 傍らで見守っていた骨喰藤四郎に淡々と訊かれて、息を詰まらせたのは図星だからに他ならない。
 みるみるうちに尖っていた気配が薄れ、盛りを過ぎた花が萎んでいくかのように小さくなった少年に、にっかり青江は苦笑を漏らした。
 なんと純で、分かり易いのだろう。
 思わず頬杖を解き、背筋を伸ばして座り直してしまった。両手を膝に揃えて聞く体勢を整えた彼に倣い、鯰尾藤四郎も正座して、抑えきれない好奇心に目を輝かせた。
 否応なしに注目が集まって、物吉貞宗は両手で顔を覆った。
 墓穴を掘ったと思い知り、湧き起こる恥ずかしさに、耳の裏まで真っ赤だった。
「嫌なら、言わなくて良いぞ」
「こら、骨喰」
 それを間近で確認して、唯一同情を抱いた骨喰藤四郎が細い肩を叩いた。
 咄嗟に鯰尾藤四郎が割って入るものの、物静かな脇差は譲らなかった。
 もともと、最初に物吉貞宗へ協力を申し出たのは、彼だ。大事な仲間から笑顔が失われるのは嫌だと言って、どうにかしたい、と珍しく積極的に関わろうとした。
 今も、苦しむ仲間の側に立って、これを守ろうとしている。
 昔の記憶がない分、彼は本丸に集う仲間をなにより大切にしていた。藤四郎兄弟でなくとも、刀剣男士は皆家族だと言って、執着めいた感情を抱いていた。
 不躾な好奇心で、触れてはいけないものはある。
 鋭い眼で睨まれて、鯰尾藤四郎はばつが悪い顔をした。
 長い黒髪を雑に掻き回して、首を竦めて小さくなった。反省する態度を示し、小さく頭を下げ、冷めかけていた茶を飲んで場を濁した。
 ずずず、と啜る音がさほど広くない座敷に広がり、途絶えた。
 にっかり青江も胡麻団子をひとつ抓んで、目で合図した。
「……いえ」
 この話題は、これで終わり。
 折角の出来立ての菓子があるのだから、これを食べつつ、別の話題で盛り上がろう。
 そういう意図があったのだが、顔を伏していた物吉貞宗には届かなかった。彼はゆっくり両手を膝に降ろすと、静かに首を振り、毅然と顔を上げた。
「いえ。みなさんには、大変お世話になったのに、あれからなんのご報告もなくて。こちらこそ、すみませんでした」
 骨喰藤四郎にも座るよう促して、早口に告げた。最後に深々と頭を下げ、卓袱台の縁に額をぶつける失態を犯したが、誰も、なにも言わなかった。
 ゴッ、とそれなりに良い音がして、物吉貞宗が背筋を伸ばすのに、五秒近く猶予があった。
 その間、残る三振りは噴き出したいのを必死に堪えて、誤魔化しに胡麻団子を二個、三個と頬張った。
 山盛りだった菓子が、次々に消えていく。
 残り少なくなった茶を鯰尾藤四郎が注ぎ足そうとしたところで、額の一部を赤くした少年が覚悟を決めたのか、重い口を開いた。
「すみません」
「うん?」
 重ねられた謝罪の意味を、正しく理解出来た刀はいなかった。
 怪訝にしながら首を捻った仲間を左から右へと眺めて、物吉貞宗は両手を強く握りしめた。
 こみあげる恥ずかしさと、親身になって相談に乗ってくれた脇差たちへの義理を天秤に掛け、感情を押し殺した。
 目まぐるしく状況が変化したこの数日間をざっと振り返って、怒らせていた肩を落とし、四肢全体から力を抜いた。
「みなさんに、ご報告出来るようなことが、その。なにも……ないんです……」
 拳を解いた両腕を脇に垂らし、下を向く。
 尻窄みに小さくなっていく声を最後まで拾い上げて、にっかり青江は隣にいた脇差と顔を見合わせた。
 そういう意味での謝罪だったのか、と納得しつつ、解けない疑問に眉を顰めた。顔半分を覆っている長い髪を意味もなく弄って、足を崩し、頬杖を再開させた。
 鯰尾藤四郎はなみなみと茶を注いだ湯飲みを取り、口を窄めて吸いに行った。一期一振が見れば行儀が悪い、と一蹴しそうな仕草で音を響かせ、幾分量が減った器を卓袱台に戻した。
 骨喰藤四郎はなにも言わず、なにもしなかった。黙って物吉貞宗の横顔を見詰め、気を利かせたつもりなのか、胡麻団子の皿を彼の方へ押し出した。
 陶器が木目を削り、がりがりと嫌な音がした。
 どうにも気まずい雰囲気に、皆して牽制し合い、相槌を打つ役目を押し付け合う。
 兄弟から無言で顎をしゃくられて、鯰尾藤四郎は困った顔で天を仰いだ。
「いやあ、ええっと、そのお」
「でも君、最近はずっと、あっちで眠っているんだろう?」
 仕方なく合いの手を返そうとしたけれど、咄嗟に言葉が出てこない。
 空っぽの両手をうねうねさせながら声を発した彼の隣で、にっかり青江が代わりに問いかけた。
 人差し指を伸ばし、物吉貞宗の胸元を指差した。そのまま空中に円を描き、最後に遠くへと跳ね飛ばして、太刀部屋区画を暗に示した。
 天下五剣を兄弟に持つ太刀は、写しでありながら、性格は明るい。己の存在を肯定的に解釈し、前向きに受け止めていた。
 もっともそれは表向きの話で、心の内でどう思っているかは、誰にも分からない。
 案外山姥切国広よりも根深いものを抱えているのでは、と危惧したくなる。だが面と向かって相談されたわけでもないので、看過するより他になかった。
 そんな晴れやかで、元気が有り余っているソハヤノツルキに対し、並々ならぬ感情を抱いているのが、そこにいる物吉貞宗だ。
 彼は太刀を意識しているのに、太刀は彼を意識していない。一方的にどきどきさせられるのは不公平で、面白くないとの不満を聞かせられたのが、ほんの一週間ほど前のこと。
 ならばと脇差内で相談し合い、一計を案じた。
 ソハヤノツルキにどうすれば物吉貞宗を意識させられるか考えて、計略を巡らせた。
 結果、ああいう手合いには回りくどい方法は通じない、との結論になった。
 やるとするなら直球で、真っ向勝負。恥ずかしがらず、大胆に攻めろ、という方針が固まった後は、案外あっさり内容が定まった。
 ソハヤノツルキは豪快で、心が広い。己を鎮護の礎に指名した、かつての主への忠義心もそれなりに厚い。
 物吉貞宗は、最後まで元の主の名を出すのを嫌がったが、にっかり青江たちが押し切った。その名前さえ口にすれば、あの太刀はあっさり寝所へ彼を招き入れる。きっと疑わない。絶対に大丈夫だ、と太鼓判を押した。
 結果、狙いは的中した。
 以来毎晩のように、物吉貞宗はソハヤノツルキの部屋を訪れている。朝が来るまでひとつの布団に包まって、寝入るまで他愛無い話を繰り返した。
 これを大きな進展と言わずして、なんと言うのか。
 報告事項がなにもないなど、有り得ない。現実に、ソハヤノツルキは脇差を強く意識している。これまで話しかけられても飄々としていたのが、露骨に反応し、頻繁に顔を赤くしていた。
 あからさまに意識していると、傍目にもよく分かった。
 ところが物吉貞宗は不満があるようで、部屋でぼうっと過ごす時間が着実に増えていた。
「でも、ソハヤさん。あれから全然、抱きしめてくれないんです」
「……は?」
「布団の、端に逃げて。話しかけても上の空で、振り向いてもくれないし。仕方がないから僕から抱きついたら、そうしたら、凄い声で飛び起きて」
「う、う~ん」
 初めて同衾した翌日から、ソハヤノツルキは余所余所しくなった。
 これまで気軽に身体に触れて来たのに、ぱたりと途絶えた。事あるごとに頭を撫でてきたのがなくなって、軽々しく肩を組んだり、手を繋いだりする機会が激減した。
 以前の彼は物吉貞宗が台所で食事の用意をしていると、頻繁に覗きに来ては、味見を所望して雛鳥のように口を開いた。それがあの日を境に一変し、直接箸で食わせてやろうとしたら、嫌がるようになった。
 汚れ物を洗濯してやろうと引き取りにいったら、これからは自分でやるからいい、と断られた。
 万屋で並んで商品を眺めている時、肩が触れる距離だったのが、一気に遠くなった。
「なんか、俺たち。もしかして、惚気られてます?」
「しっ、静かに」
 指折り数え、一週間のうちにおきた変化を羅列する物吉貞宗を前に、鯰尾藤四郎が小声で囁く。
 唯一聞き取ったにっかり青江は短く息を吐き、むずむずする尻を踵に擦りつけた。
 膝をもぞもぞ動かしても、卓袱台が壁となっているので、向かいからは分からない。妙に揺れている彼らを怪訝に見やって、骨喰藤四郎は右隣に座る友人の肩を叩いた。
「急に、態度が変わったんだ。辛かっただろう」
「えええ~?」
 ソハヤノツルキの急変に対し、胸を痛める物吉貞宗に心を寄せて、声援を送る。
 それに鯰尾藤四郎が反論したそうに顔を歪め、横から肘鉄を喰らって卓上に突っ伏した。
 太刀の態度が変わったのは、狙い通り、彼が脇差を強く意識するようになったからだ。
 物吉貞宗が枕を抱きしめてソハヤノツルキの元に押しかけた夜、なにがあったのか、相談相手となっている三振りには分からない。けれどそこが分岐点になったのは、間違いなかった。
 そうなりたいと頼まれたから、手伝った。意見を集め、助言をした。
 だのに今、それが余計な御世話だったかのように言われるのは、面白くない。
「ひとつ、確認しておきたいんだけど」
「はい」
 卓袱台に顎を乗せ、頬を膨らませた鯰尾藤四郎の脇で、黙って考え込んでいたにっかり青江が口を開いた。
 今度は人差し指で卓を小突き、爪先を押し付けたまま盤面を滑らせた。自身からまっすぐ、物吉貞宗へと向かって進めて、円形の卓袱台の中心手前でぴたりと止めた。
 三振り分の視線がそこに集まり、なにかを気取った少年が神妙な顔をした。
 居住まいを正した物吉貞宗に、大脇差はその名に相応しからぬ、真剣な眼差しで応えた。
「君って、さ」
 もっと早い時点で気が付いて、問い質しておくべきだったのかもしれない。
 あれやこれやと謀略を巡らせ、想定した通りの展開になったのに喜んで、一番大事な部分を見落としていた。
 当たり前すぎて、考えもしなかった。灯台もと暗し。完全に盲点だったと内心反省して、にっかり青江は仲間が固唾を飲んで見守る中、厳かに問いかけた。
「君、ソハヤ君に、ちゃんと『好き』だってこと、伝えたのかい?」
「……え?」
 要らぬ茶々は挟まず、余分な言い回しも使わなかった。
 相手の目を見ながら質問を投げた彼に、返答を要求された側はきょとん、と目を丸くした。
 意外なところを攻められて、ぽかんとして、数秒間凍り付いた。惚けた顔で、瞬きも忘れて硬直し、じっと見つめ続ける仲間を呆然と見返した。
 やがて。
「え? え?」
 落ち着きなく身を捩り、物吉貞宗はボンッ、と顔面を真っ赤に染めた。火を噴く勢いで色味を強め、かああっ、と熱を持つ肌を両手で覆い隠した。
 広げた指の隙間から目を覗かせて、耳から湯気を噴き、集まる視線から逃げるように仰け反った。上半身を後ろに傾け、腹筋を引き攣らせ、縋るような気持ちで骨喰藤四郎の方を見た。
「言っていないのか?」
「つっっ!」
 それを、彼は素で問い返した。
 親身になって寄り添ってくれた相手に首を傾げられて、無垢な眼差しに耐えきれなくなった脇差は、ついに頭を爆発させた。
 耐えきれなくなって、先ほどの比ではない勢いで卓袱台に突っ伏した。ゴゥン! と強烈な音を響かせて、反対側にいた鯰尾藤四郎の顎を押し上げた。
 大きく傾いた卓を慌てて押さえたにっかり青江は、苦笑を隠しきれない。ただ凭れかかっていただけなのに、手痛い一撃を食らった少年は倒れかけた湯飲みを捕まえると、ひりひりする箇所を撫でて涙を堪えた。
 物吉貞宗の額からは、ぷすぷすと細い煙が上がっていた。
 開いていた指を閉じ、本格的に顔面を覆って、少年は蚊の鳴くような声で呻いた。
「言えるわけ、ないじゃ、ないですか」
 今にも消え入りそうな音量が、彼の精神状態をそのまま表している。
 大袈裟が過ぎる反応に失笑して、にっかり青江は結った髪を毛先まで梳いた。
「それで、じゃないのかなあ?」
「それで、……とは」
「ああ、そうか。ソハヤさん、物吉君がソハヤさんのこと好きって気付いてないから」
「うんうん」
「連呼しないでください!」
 最初は、物吉貞宗の片思いだった。
 それが嫌で、脇差の方から積極的に仕掛けた。
 結果として、太刀の側にも特別な感情が芽生えた、と思っていい。はっきり確認したわけではないけれど、露骨なくらいに態度に変化が生まれているので、ほぼ間違いないだろう。
 問題なのは、太刀の中に生じた感情に名前があると、太刀自身が認識できているか、否か。
 その想いがなんであるか、正しく把握出来ているのかどうか、だ。
 刀剣男士は、刀の付喪神だ。人に似せた器に宿り、活動しているけれど、人間とはまるで違う存在だ。
 内包する意識も、当然人間のそれとは異なる。なにに重きを置き、なにを軽んじるか。
 元々が器物である彼らは、持ち主に対する忠誠心に厚く、判断基準の全てをそこに求める傾向がある。時代や環境により物事の解釈は大きく異なって、倫理観が他の刀と大きく乖離している場合も、少なくなかった。
 武器として、命を奪うものとしての意識は強いが、育む側としてはどうか。
 守り刀としての役目がある短刀ならいざ知らず、戦場でこそ最も輝ける打刀や太刀となると、利己的な考え方が中心となり、相手の心情を汲むのが難しくなるようだった。
「なんだか分からないまま、混乱してるだけ、ってことも、ありますねえ」
「ですから、僕は別に、ソハヤさんが好きとか、そういう」
「好きではないのか?」
「ああああああああ!」
 大典太光世の方は、前田藤四郎が巧く情緒面を操っているが、ソハヤノツルキはどうだろう。
 この期に及んで悪足掻きを止めない物吉貞宗は、骨喰藤四郎からの致命的な一撃に悶絶し、絶叫した。
 屋敷の外まで響く大声に、花を啄んでいた鳥が驚き、逃げた。にっかり青江たちもビクッとなって、半狂乱に陥った仲間に青くなった。
 喧々囂々の騒ぎを中断させて、息を殺し、静かに待つ。
 吃驚して仰け反ったままだった鯰尾藤四郎が、そろそろ両腕を下ろして良いかと悩み出した辺りで、物吉貞宗はぽつり、掠れる小声で呟いた。
「……好き、です……」
 顔を覆ったまま、ようやく認めた。
 誰にも決して見せられないような顔をして、目を潤ませ、音を立てて鼻を啜った。
 合間にひっく、としゃくりあげ、他より幾分赤くなった鼻の頭を擦った。濡れていない目尻を拭い、肩で息を整えて、唇を舐め、ぺたんと尻を着いて畳に座り込んだ。
「好き、です。ソハヤさんのこと、すごく。だから……だから嫌なんです。もう嫌なんです。あんな風に僕の顔を見て、逃げられるのって、哀しいです。寂しいです」
 張りつめていたものが切れたのか、一度認めた途端、言葉が溢れた。
 早口で捲し立て、度々息継ぎを挟んだ。空っぽの左手を胸に押し当てて、両目をぎゅっと瞑り、唇を噛んだ。
 痛々しいその姿に、下手な合いの手は挟めない。
 骨喰藤四郎が黙ってふわふわの髪を撫でてやれば、物吉貞宗は嗚咽を堪え、その肩にしがみついた。
 彼が望んだ未来に手を貸したつもりだったが、自分たちがやったことは、本当に彼の為になったのだろうか。
 軽率な真似をしただけではないか。過去の行いを悔やんで、にっかり青江は力なく肩を落とした。
 ところが鯰尾藤四郎は、違う受け止め方をしたようだ。
「だったら、尚更。言わなきゃ駄目だと思います」
 いつもおちゃらけている彼にしては珍しく、口調は真剣で、眼力は強かった。語気は落ち着いているが、声自体は普段より低い。背筋は凛と伸びて、表情は何故か悔しげだった。
 腹を立てているようにも見えて、にっかり青江は目を見張った。斜向かいの骨喰藤四郎も驚いて、物吉貞宗を背中に庇った。
 それに更にムッとして、彼は握った拳で空を叩いた。
「だって、こういうの、言わなくても分かってもらえるっていうのが、傲慢なんですよ。俺なんか特に、馬鹿だから、言ってくれなきゃ分かんないですって。それで向こうが、俺の知らないところで嫌な思いしてるんだったら、余計に。言って欲しいって、俺は思います」
 直後に広げた手を上下に振り回し、前のめりになって力説する。唾を飛ばし、ひと息に言い切って、深呼吸して、ギリリと奥歯を噛んだ。
 過去に覚えがあるのか、言葉には厚みがあった。
 悲壮感とでも言うのか、切迫したものが込められていた。心の底でわだかまっていたものを全部吐き出して、息継ぎは荒々しかった。
 濡れてしまった口元を拭って、後からこみあげてきた照れ臭さに余所を向く。
 仄かに朱を帯びている横顔を唖然と見つめて。
「鯰尾君、君」
 にっかり青江は、ごくりと息を飲んだ。
「もしかして、好きな子が出来た?」
「違いますよ!」
「ブフッ」
 あまりにも的外れな疑問をぶつけられて、似合わない熱弁を恥じていた脇差が吠えた。
 間断ないやり取りを聞いていた骨喰藤四郎が堪らず噴き出して、背中を丸め、畳に突っ伏した。
 必死に声を殺しているが、細かく震える肩は隠し切れない。卓袱台の下はそこまで広さがなく、潜り込めないと知っていながら入り込もうとする兄弟に、鯰尾藤四郎は地団太を踏んで埃を撒き散らした。
「変な想像しないでください。違いますって。いち兄が、前に、愚痴ってるの聞いちゃっただけです」
 にっかり青江にも繰り返し訴えて、本当のところを仕方なく白状する。
 曰わく、馬当番であろうとなかろうと、馬糞をせっせと集める弟を度々叱って来たが、一向に行動が改まらない。五月蠅く言い過ぎたのが却ってよくなかったのかと、注意するのを止めてみたが、通じていないようで、困っている、と。
 そういう話を兄がしているのを、偶然耳にして、衝撃を受けた。
 てっきり一期一振は認めてくれたのだとばかり思っていたので、当時の驚きは、言葉では言い表し難い。
「それは、うん。どちらかというと、君のお兄さんに同情するな。僕は」
「なんでですか~~」
 懸命の弁解に頬を引き攣らせ、にっかり青江は首の後ろを掻いた。肌を伝う温い汗を拭い取って、ぽかすか殴りかかってくる脇差を遠くへ追い払った。
 腕を目一杯伸ばし、掴みかかろうとする鯰尾藤四郎の顔面を押さえて距離を保つ。
 滑稽なやり取りに本題をずらされて、物吉貞宗はしばらく惚けたまま動けなかった。
 間抜けに開きっ放しだった口を閉じ、きゅっと引き結んで一文字にする。
「まあ、行動するのは、君だからね。外野である僕たちがとやかく言う事ではないけれど、どうするんだい?」
 その変化を垣間見て、大脇差は訊ねた。しつこく足掻く元薙刀の額を指で弾いて転がして、残り六個まで減っていた胡麻団子を二つ、左右の手に持った。
 それを近づけたり、遠ざけたり。
 片方を寄せて、同じだけもう片方を引き離す。
 またはその逆で、終わらない鬼ごっこを延々と繰り返した。
「僕としては、君が満足できる答えを見つけるまで、協力は惜しまないつもりだよ」
 最後は互いをちょん、とぶつけ合わせて、ひとつに繋いだ。左右から押して一塊にして、黙って聞いている脇差へと差し出した。
 物吉貞宗は両手を揃えて受け取って、しばらくじっと、ひとつに繋がった胡麻団子を見詰め続けた。
 結論を急かさず、ゆっくり考えるよう諭された。
 心遣いに感謝しながらも、彼は期待に応えられない自分を悔やみ、唇を噛んだ。
 そこへ。
「一度、引いてみるって方法も、ありますよ?」
「――うわあ!」
 突然、四振り以外の声が降ってきた。
 思わぬことに騒然となり、にっかり青江までもが大仰に竦み上がった。鯰尾藤四郎などは腰を抜かし、挙動不審に畳の上を這いまわった。
「堀川国広」
 唯一無反応だったのが、骨喰藤四郎だ。物吉貞宗などは胡麻団子を握り潰す寸前で、卵形に丸まった指先を恐る恐る広げ、中身が無事なのに安堵した。
 開けっ放しの障子から、五振り目の脇差が顔を出していた。いつからそこに居たのか、屈託なく笑って、唖然としている仲間を掻き分けて卓袱台の前に座った。
 空だった湯飲みを引き寄せて、すっかり温い茶を注ぎ、ひと口飲む。
 周りが騒然としているのを一切無視して、己の調子を崩さなかった。
「あー、美味しい。今日は胡麻団子なんですね。嬉しいなあ」
 ひと息ついた後、あと四つまで減った胡麻団子に目を細めた。湯飲みの縁を指で拭い、早速ひとつ口に入れて、もぐもぐ咀嚼する姿は幼い子供じみていた。
 実際彼は、この五振りの中では若い部類に入った。名工、堀川国広作の脇差と言われているけれど、贋作の嫌疑は晴れておらず、浦島虎徹とどちらがより若いかについては、判断を保留するしかなかった。
「えっと。堀川君、ちょっと」
「はい? ああ、すみません。なんだか話が盛り上がってたんで、入るのを躊躇しちゃって」
 この部屋は誰の部屋、というわけではなく、元々は空き部屋だ。そこを勝手に借用して、寄り合い部屋のように使っていた。
 立ち入りは自由で、特別な許可も必要ない。
 だが入る機会が掴めなくて、堀川国広は今の今まで、部屋の外で話を盗み聞いていた。
「全然知らなかったです。物吉君、夜になるといなくなるなって思ってたけど、そんなことになってたんですね」
「うっ」
 前回の話し合いの時、彼は場にいなかった。広く言いふらす話題でもないので、仲間たちも黙っていた。
 そうと気付かないまま、蚊帳の外に捨て置かれていた。それを別段責めるわけでもなく、淡々と言って、堀川国広は胸を押さえて呻いた物吉貞宗に微笑んだ。
「す、すみません」
「やだな、なんで謝るんですか。それより、もっと早く言ってくれたら、僕だってお手伝いが出来たのに」
 それが却って、怒っているように聞こえてしまった。
 反射的に頭を下げた仲間にひらひら手を振って、彼はもう一つ、団子を口に放り込んだ。
 もぐもぐ咀嚼して、唇に付着した胡麻ひと粒を舌で絡め取った。奥歯に挟まった分も穿りだして、茶と一緒に喉の奥へと流し込んだ。
「そういえば、君。さっきの」
「ああ。押しても駄目なら引いてみろって、言うでしょう?」
「言う?」
「さあ……」
 すっかり寛ぐ体勢に入った彼に、唖然としたままにっかり青江が問いかける。
 あっけらかんと答えた堀川国広の弁に、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は顔を見合わせて首を捻った。
 意外に反応が鈍いのに目を丸くして、年若い脇差はふむ、と顎を撫でた。数滴分だけ残る湯飲みの縁をぐるりとなぞって、借りて来た猫のように大人しい少年に視線を投げた。
 見つめられて、物吉貞宗が盛大に身を竦ませる。
 緊張でカチコチに硬くなっている彼を笑いもせず、遅れて登場した少年は卓上で両手を握り合わせた。
「それで、先に確認したいんだけど。物吉君って、ソハヤさんと、どうなりたい?」
 盗み聞きの時点で、誰と誰の話で盛り上がっていたのかは、分かっていたらしい。
 細かな説明を求めず、逆にずばり聞いて来た彼に、傍で見守っていたにっかり青江は緩慢に頷いた。
「どう、……とは?」
 対する物吉貞宗は、質問がピンと来なかったようだ。戸惑いがちに聞き返して、首を右に傾けた。
 琥珀色の瞳が宙を泳ぎ、手元に落ちた。じわじわ分離を開始した胡麻団子が、小さな掌の上で、手持ち無沙汰に転がっていた。
 外側から圧力を加えただけなので、完全に張り付いたわけではなかった。
 放っておけば、いつかは独立した団子に戻るだろう。それを惜しみ、思い切って二個まとめて口の中に押し込んで、彼はさほど噛み砕かないまま飲みこんだ。
 喉に閊えそうになったのは、茶を使って押し流した。圧迫感から脱してホッと息を吐き、肩を二度、三度と上下させ、返答を待つ脇差に向き直った。
「どう、って、いうのは。どうにかなる、ってことでしょうか?」
 こちらから切り出さない限り、なにかを語ることはなさそうだ。
 ならば、と質問をより具体的にした彼に、堀川国広は深々と頷いた。
「うん。そうだね。詳しく言うと、今みたいなままでいいのか。それとも、ソハヤさんと睦みた――」
「あ、あああああ、あ、あお~~んっ!」
 そして、ゆっくり言葉を紡ぎだした矢先。
「どうした、兄弟」
 突如鯰尾藤四郎が雄叫びを上げ、堀川国広の声をかき消した。
 あまりに不審な動きに、兄弟刀の骨喰藤四郎が青くなった。
 彼は慌てて立ち上がり、駆け寄った兄弟の袖を引いた。遠吠えでぜいぜいと息を切らせた少年は、攫われかけた腕を奪い返すと、残っていた胡麻団子を煎餅の菓子盆へ放り込んだ。
 既に中身がない茶瓶を引き寄せ、後方に置いていた空の盆に置いて急ぎ立ち上がった。
「かっ、片付けてきますね。骨喰、お茶、新しいの貰ってこよう」
「うん? ああ、そうだな」
 真っ白い皿を回収して、骨喰藤四郎を誘う声には焦りが現れていた。だが呼ばれた方は気付いていないようで、何の疑いもなく同意した。
 バタバタと足音を立て、縁側を駆けていく。
 一陣の風のように去って行った彼らを目で追って、話を中断させられた少年は首を捻った。
「どうしたんでしょう?」
 少し狭いくらいだった部屋が、にわかに広くなった。舞い上がった埃が落ち着くのを待って疑問を口にした彼に、にっかり青江は乾いた笑みを浮かべ、目を細めた。
「彼らは兄弟のこともあるし、生々しいのは、嫌だったんじゃないかな?」
 勝手な憶測でものを言って、散々食べた胡麻団子の代わりに、湿気りかけていた煎餅を抓んだ。
 残るふた振りは分かったような、分からなかったような顔で首肯して、楽な姿勢で座り直した。
 煎餅を割る音が一度だけ響き、後は静かだった。中途半端なところで途切れた会話を再開させるか、否かでしばし迷って、堀川国広は目を泳がせた。
 偶々にっかり青江と目が合って、なにやら合図を送られた。
「?」
 だが意図を測り切れず、少年は首を傾げた。他力本願だった大脇差は小さくため息を吐き、残った胡麻団子ふたつを引き寄せて、左右で離れていたものを横に並べた。
 物吉貞宗に渡した時のように、外側から軽く押して、両者をひとつに張り合わせる。
 その上で半分に割った煎餅の片割れを右手に持って、尖った一端を団子の合わせ目に近付けた。
「要するに、君はソハヤ君と、こうなりたいか、ってことだろう?」
 そうして断ち切るのではなく、擦りつけた。くにくにと隙間を広げようと動かして、時に下から掬い、煎餅の角を操った。
「……え?」
「うわあ」
 露骨過ぎる説明方法に、物吉貞宗は目を点にした。
 堀川国広は、自分から言い出したことにも拘わらず顔を赤くして、団子を甚振る男に苦笑を漏らした。
 最初のうちは惚けていた少年も、やがて合点がいったのか、じわじわと首の根本から赤くなっていく。
「そっ、そん、な。そんなこと。考えた、ことも、ありま、せん!」
 声を張り上げて否定するものの、甲高く響いたそれは完全に裏返っていた。目元を潤ませながら怒ってみせるが、迫力に欠けて、説得力は皆無だった。
 ソハヤノツルキでなくとも、愛らしい刀だと思えてしまう。
 うっかり生じた悪戯心を封印して、にっかり青江は煎餅を頬張った。
 バリバリと噛み砕き、息せき切らしている少年に相好を崩した。堀川国広も笑いを堪え、真っ赤になって煙を噴いている脇差に風を送り付けた。
 手で扇ぐ程度では微風にすらならないが、落ち着くよう諭され、物吉貞宗は腰を落とした。額を流れる汗を袖で拭い、とんだ爆弾発言に背筋を寒くした。
「でも正直なところ、ちょっとは期待してたんだろう?」
「し、て、ま、せ、ん!」
 日が暮れた後、初めてソハヤノツルキの部屋を訪ねた時のことを揶揄されて、一言一句区切りながら断言する。
 あの時は教えられた通り出来るかどうかで必死で、他に考える余裕などなかった。布団に横になった後は、抱き寄せてくる腕の力強さにドギマギして、頭は真っ白だった。
「第一、ソハヤさんが、僕なんかに。そ、その。そんな風に、なるなんて」
 そもそも、睦むには相手が必要だ。
 あちらも同じ気持ちを抱いてくれるかどうか、物吉貞宗には分からなかった。
 しどろもどろに吐き捨てて、言っているうちに羞恥に負けて顔を伏す。
 両手を腿の間に挟んで小さくなった彼を卓袱台越しに眺め、堀川国広は緩慢に頷いた。
「その辺、大丈夫だと思うんだけどなあ」
「どうしてだい?」
「最近、ソハヤさん、自分で下着、洗濯してるじゃないですか。あれって、……ああ、いえ。僕が勝手に思うだけですけど」
 そうしてひとりごち、にっかり青江に訊かれて声を落とした。口元を手で覆い隠し、物吉貞宗に聞こえないよう注意しつつ、囁いた。
 彼は本丸の洗濯当番で、自ら洗おうとしない刀から汚れ物を預かっては、綺麗に畳んで返却していた。なので洗い場事情には詳しく、そこで聞き集めた情報にも精通していた。
 勿論、突然姿を見せるようになった刀の動向にも、注意を怠らない。
 今まで物吉貞宗に任せっきりだったソハヤノツルキが、不慣れな手つきで肌着を洗う光景は、なにか裏があると常々思っていた。
「へええ。怖いねえ。気を付けないと」
 他者には知られたくない秘密が、こうやって当人の知らないところで広まっていく。
 共同生活を送っている以上、すべての目を欺けるわけではない。情報を積み重ねれば、どんなに隠し通そうとしても簡単に見抜かれると教わって、にっかり青江は含みのある笑みを浮かべた。
 しっとり濡れた微笑みに、堀川国広は目を細めるだけ。
 なにやら親密なやり取りを前にして、物吉貞宗は眉を顰めた。
「あの……」
 堂々とコソコソされるのは、あまり良い気分がしない。漏れ聞こえてくる単語も気になるものが多くて、落ち着かなかった。
 腰から上を揺らし、上目遣いに呼びかける。
 それで我に返ったらしく、大脇差らは居住まいを正した。
 再び向き合ったが、途切れた会話はなかなか再開されなかった。
 ただでさえ恥ずかしい話をしていたのに、間を置かれると余計辛い。言うべきでなかった、と後悔がむくむく膨らんで、嫌な汗が止まらなかった。
 腋の辺りがしっとりして、肌触りが気持ち悪かった。背中も一面布が張り付き、ねっとりと湿った空気が絡みついた。
 心臓はトトトトト、と早鐘を打つように拍子を刻み、息苦しくてならない。頭の芯がぼうっとして、眩暈がして、気を抜くと意識が遠退くようだった。
 話の流れから、少なからずソハヤノツルキに劣情を抱いていると、知られてしまった。
 一介の付喪神であれば持ち得なかった、現身に宿った時点で初めて生じた感覚に意識を奪われ、逃げられなかった。
 非常に認め難いが、認めざるを得ない。
 皆の前で黄金色が眩しい太刀への思いを告白した時よりもずっと、身体の芯が熱くてならなかった。
「こんなの、変。……おかしい、ですよね」
 あの男の姿を思い浮かべるだけで、顔が火照り、赤くなった。笑いかけられたら鼓動が跳ねて、声がしたらつい聞き耳を立ててしまった。頭を撫でられると首の後ろがくすぐったくなり、手を握られた時はどきりとして、その指の長さ、太さ、分厚さ、逞しさが頼もしく、誇らしかった。
 彼が誉れを取って帰って来た時は、張り切って御馳走を用意した。
 傷ついて帰ってきた時は心配で、手入れ部屋を出てくるまで安心出来なかった。
 自分たちは刀剣男士、審神者に忠誠を誓った道具だ。今の主の願いを叶えるべく、歴史修正主義者の目論見を挫くために集められた、戦うための武器だ。
 それだというのに、主君ではない相手に心を奪われている。
 否、心だけでなく、身体までもが、ソハヤノツルキを欲していた。
 なんと強慾で、なんと傲慢で、なんと罪深いのか。
「それは別に、変でもなんでもないと、僕は思うけどねえ?」
「僕も、可笑しいとは思いませんよ」
 ところがにっかり青江と堀川国広は、ほぼ同時に否定の言葉を口にした。物吉貞宗が懊悩すること自体を笑い飛ばして、人差し指をくるくる回転させた。
「でも」
「んっふふ。それにねえ、考えてみなよ。君の以前の主の、家臣たちだって、ちゃあんと所帯を持っていただろう?」
「え、あっ」
 含みのある眼差しと、緩く綻んだ口元が、なんともいえない妖しさを放つ。
 長い髪に隠していた片目を露わにして、大脇差はぽかんとしている少年に口角を持ち上げた。
 目から鱗が落ちた、という顔で、物吉貞宗が瞬きを繰り返す。
「それに僕たちの主さんは、僕たちのこと、武器としての輝きが鈍らない限りは、干渉しない方針みたいですしね」
 堀川国広も言葉を補い、肩を竦めて苦笑した。なにやら心当たりでもあるのか、小さく舌を出し、クスクスと声を漏らした。
 そんな彼らを交互に見やり、物吉貞宗は膝の上で手を握り、広げる動作を何度か繰り返した。
 しっとり汗ばんだ肌が互いに吸い付き、引っ張り合っていた。幾分落ち着きはしたものの、まだ熱を蓄えている腹の奥底を軽く撫でれば、不安と期待が混ざり合い、なんとも言えない色を作った。
「そんな、簡単で。良いんでしょうか」
「難しく考えたって、結局答えは出ないんだよ。だったらあれこれ迷うだけ、時間の無駄じゃないかな」
「即断即決。潔いねえ」
「僕らが悩んでいる間も、時間は動いてるんです。立ち止まっていたら、置いて行かれる。それで後悔するのは、やっぱり嫌じゃないですか。その先にどんな未来が待っているのかは、誰にも分からないんだから」
 選んだ道を信じて突き進むしかないのは、遠い昔も、今も同じだ。踏み出すのを躊躇し、足踏みをしたところで、状況は変わらない。
 だったら自ら選び、決めて、行くしかなかった。
 辿り着いた先が破滅であっても、己を信じ抜いた結果なら、悔いはないはずだ。
 にっかり青江の相槌を躱して、堀川国広が朗々と告げる。
 まさしく躊躇し、足踏みしていた少年は反射的に背筋を伸ばし、投げかけられた言葉に表情を引き締めた。
 ただそれも、長くは続かない。
 正面を向いていた金の眼は緩やかに下降して、腿に転がした両手へと落ちた。
「だとしても、僕は。やっぱり、怖いです」
 皆が声援を送ってくれるのは、とても有り難いし、心強い。
 けれど未だ決心がつかず、二の足を踏んでしまうのは、ソハヤノツルキがこの気持ちを真剣に受け止め、扱ってくれる保証がないためだ。
 根が真面目な男だから、きっと茶化しはしない。むしろなんとか応えようとして、そのつもりはないのに相手を務めようとするのでは、という危惧があった。
 困らせてしまうのが嫌だった。
 嫌われるよりも、同情されて、前より優しく扱われるのが、耐えられなかった。
「物吉君って、結構、怖がりだね」
 肩を丸め、首を竦めて小さくなった脇差に、堀川国広が目を細める。
 それをどう受け取ったのか、彼は口を尖らせた。
「慎重だと、言ってください」
 臆病なのではなく、用心深いだけ。
 外堀を埋めてからでないと、安心できない。勢い任せに突っ走って自爆するなど、絶対に御免だった。
 幸運をもたらす刀と言われ、本人も周囲に幸運を届けると言って憚らないのに、自身の幸運については若干懐疑的。
 難儀なものだと苦笑して、にっかり青江は菓子盆を堀川国広の方へ押し出した。
「それで? 妙案があるんだよね」
「ああ、はい」
 駄賃代わりの胡麻団子を提供して、先を促す。
 間髪入れず首肯した少年は、騒々しく戻ってきた藤四郎たちに一瞬だけ顔を向け、胸の前で手を叩き合わせた。
「ソハヤさんが、物吉君をどう思ってるか、確かめるのに丁度良いと思いますよ」
 そうして悪戯っぽく笑って、重ねた両手を右の頬に添えた。
「名付けて、押しても駄目なら引いてみよう、作戦です」
「……そのままなんだね」
 登場した直後に口にしたと同じ台詞を朗らかに歌って、にっかり青江からの突っ込みには耳を貸さない。
 状況がいまいち掴めず、不思議そうにする鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎の前で、彼は物吉貞宗に向かい、パチン、と右目だけを閉じてみせた。