ずっと気配は感じていた。
ドアの前に留まったまま、一向に動き出す様子はない。用があるのか、ないのか、時折衣擦れの音が聞こえてきた。
もぞもぞ身じろいでいるところからして、決心がつきかねているのだろう。
軽く五分近く待ってもノックが聞こえないのに焦れて、雲雀は深く溜め息をついた。
「追い払いますか?」
室内にいた草壁が気を利かせ、問いかけてくる。
こちらの顔色を窺っている雰囲気に、並盛中学校風紀委員長は小さく首を振った。
書類チェックの手を休め、どうしようか思案する。あと三分待っても動きがないようなら、と握ったボールペンを揺らし、彼はスッと目を細めた。
不意に尖った空気に、草壁も事務仕事を中断させた。慎重に雲雀を窺って、ハッとなって沈黙する扉に顔を向けた。
それから一秒となかった。
コンコン、とドアをノックする音が二度、彼らの耳朶を擽った。
随分と控えめな音色で、来訪者の性格が感じられた。喋っている最中であれば聞き逃していたかもしれず、不用意に話しかけなくて良かった、と草壁は密かに安堵した。
「誰?」
すぐ近くで胸を撫で下ろす存在があるとも知らず、雲雀が姿勢を変えないまま声を上げた。
「あ、あ……えっと。俺、えっと。沢田、です」
誰何を受けて、ドア越しにおどおどした声が響く。
俺です、と言いかけて途中で訂正したと分かる口調に、聞き耳を立てていた草壁は危うく噴き出すところだった。
どこの詐欺だ、と笑いたいのを懸命に耐え、口元を手の甲で覆ったままちらりと傍らを見る。黒髪の風紀委員長はいつもの鉄面皮を崩さず、揺らしていたボールペンで机を小突いた。
書類も何もない場所を数回叩いて、やおらそれを机上に放り投げた。細長い棒がコロコロ転がって、卓上カレンダーにぶつかって止まった。
小さいながらも予定がびっしり書き込まれた紙面を一瞥し、不機嫌な眼差しを前方に投げる。
「どうぞ」
表情通りの不愉快そうな声で告げて、彼は椅子の背もたれに身を預けた。
肘掛け付きのシックな椅子をギシギシ言わせ、鍵のかかっていないドアを一心に見つめた。
何故か草壁までもが固唾を飲んで、銀色のドアノブに注目した。
部屋の前で散々思い悩んでいただろう来訪者は、今度も躊躇に躊躇を重ねるかと思われた。
しかし一度踏ん切りをつけた後は、思い切りが良くなるらしい。ノブはゆっくり回転して、隙間が出来るまで十秒とかからなかった。
キイイ、と蝶番が軋み、嫌な音を立てた。そろそろ油を、と草壁が考える前で、扉を開けた少年が小さく頭を下げた。
リーゼントヘアの男が中にいるとは思っていなかったようで、目が合った途端、意外そうな顔をした。だがすぐに気を取り直し、雲雀に向き直って、右足を踏み出した。
「しっ、失礼、します」
敷居を跨ぐ寸前に思い出したらしく、片足を宙に浮かせた状態でもう一度、御辞儀をする。
俯いた体勢で器用に一歩目を刻んで、中学生としては小柄な少年が緊張気味に顔を上げた。
明るい亜麻色の髪は四方を向いて跳ねており、さながら針山のようだ。大きな眼は琥珀色をして、引き結ばれた唇は緊張で色が悪く、青紫に染まっていた。
学校指定の制服を着込み、シャツの裾は出ていない。ネクタイの結び方が少々雑であるが、まだ許容範囲内だった。
両手は空で、鞄はなかった。白の上履きは些か黒ずんでおり、しばらく持ち帰っていないのが推測出来た。
「なんの用?」
風紀委員は揃いの学生服に身を包むのが決まりなので、彼は委員ではない。
髪色は明らかな校則違反ながら、これが地毛だというのを入学時点で報告していた。
瞳の色が薄いのも、異国の血が僅かながら入っているからだと言われれば、納得がいく。
その割には背が低く、肉付きも悪い子供体型なのは、とまで考えて、雲雀は内股でもじもじしている少年に目を眇めた。
来訪の理由を問うて、返事を待つ。
どこからどう見ても平凡な中学生たる沢田綱吉は、胸の前で弄っていた手をぎゅっと握り、覚悟を決めて毅然と背筋を伸ばした。
なにをやってもダメだから、との理由でダメツナの異名まである少年には、実はもうひとつの裏の顔がある。彼はイタリアで九代続くマフィア、ボンゴレの次期後継者であり、初代の生き写しとまで言われる存在だった。
そして雲雀は、ドン・ボンゴレを守護する六人のうちのひとりに指名されていた。
雲雀としては強い相手と戦える環境が得られたのは、有り難いと思っている。しかしそれで他の守護者から仲間面をされるのは御免だし、仲良しごっこをするつもりはなかった。
それでもなにかと、大空の守護者は雲の守護者に絡んできた。
最初のうちは面と向かって話をする機会は殆どなかったが、最近は時々、こうして応接室に顔を出すようになっていた。
彼の家庭教師である赤ん坊に、なにか入れ知恵をされたのだろうか。
鼻息を荒くしている少年から時計に視線を移して、雲雀は転がしたボールペンを拾った。
「あの、ひ、ヒバリさん。ひとつ、その。お願い、が」
人差し指と親指で抓み、握り直す。
仕事を再開させようとしている気配を悟り、綱吉は早口に捲し立てた。
頻繁に息を詰まらせながらも言い切って、無関心を装う男の興味を惹きつけた。
「僕に?」
雲雀はボールペンをくるりと回転させて、頬杖ついて相槌を打った。
よもやの展開に、隅で聞いていた草壁はぎょっとなった。雲雀恭弥という人物を良く知るだけに、綱吉の申し出が恐ろしく図々しいものに思えたからだ。
次の瞬間、トンファーで滅多打ちにされる下級生を想像してしまい、ぶるりと震えて息を飲む。
だが、意外にも雲雀は続きを促し、黙って顎をしゃくった。
「ええと、その。試験、で。次の」
「ふうん?」
頼みごとの内容を求められ、綱吉がブレザーの裾を握りしめた。視線を外して俯いて、次の瞬間には壁に吊されたカレンダーを見た。
そちらにも、並盛中学校の予定が書き記されていた。
横に長く引かれた線は、試験期間を意味している。来週の中頃からスタートで、今日から部活動は一切禁止だった。
お蔭で普段は五月蠅いグラウンドが、いつになく静かだ。
聞こえてこない野球部の掛け声を脳裏に思い浮かべて、雲雀は椅子から腰を浮かせた。
膝の裏で押して隙間を広げ、立ち上がる。
「試験内容を教えろ、なんて。随分と良い度胸じゃない」
「ひぃっ!」
左手は背中に回り、羽織っている学生服の内側へと潜り込んだ。
そこに収納されているものが何であるか、知らない綱吉ではない。想定していなかった返答に彼は青くなり、大袈裟な身振りを交えて声を高くした。
「ちち、ちっ、ちが、違いますってば!」
ダメツナの異名をとる少年は、運動神経が皆無であり、成績も平均以下だった。これといった得意分野を持たず、いつもビクビクして、孤立していた。
それが変わったのは、リボーンという名の家庭教師が現れてからだ。雲雀も認める実力者を味方に付けた彼は、勉学は相変わらずながら、非凡な才能を開花させた。
トンファーでの一撃を警戒して、綱吉は大声で否定した。
そんなつもりは毛頭ないと叫んで、摺り足で数歩、後退した。
あの隠し武器で脳天を痛打されたら、折角試験対策で覚えた内容まで忘れてしまう。
強烈な痛みは過去に経験済みで、綱吉は必死に訴えた。顔の前で両手を振り回して、途中で力尽き、ぜいぜい言いながら肩を上下させた。
表情は悲痛で、切迫感が滲み出ていた。なんとしてでも一撃を喰らうのは避けたい、との雰囲気が窺えて、嘘を言っているようには見えなかった。
それで雲雀も納得して、左腕を戻した。膨らんでいた学生服を軽く撫でて、露骨に安堵した少年に眉を顰めた。
年に数回ある定期試験で、沢田綱吉といえば赤点の常連だ。授業中は居眠りばかり、課題は提出せず、ダントツで学年最下位をひた走っている。
鬼のような家庭教師を得て、一時期よりはマシになっているものの、それでも平均以下から脱出できていない。
この調子では、中学校を卒業できない可能性もある。
だというのに切迫した様子が見られなくて、雲雀にとっては頭痛の種だった。
そういう事情があり、試験直前の訪問に疑いを持った。
媚を売り、或いはドン・ボンゴレ十代目の権力を笠に着て、試験問題を事前に入手しようと目論んだ、と勘繰った。
「じゃあ、なに?」
それ以外に、彼が敢えて放課後に、応接室にやってくる理由が思いつかない。
一秒でも早く帰宅し、机に向かえばいいものを。
寄り道している暇があるのか、と腹立たしさを堪えた雲雀に、綱吉は深呼吸を数回繰り返した。
胸に手を当て、急上昇した体温と鼓動を整えた。額の汗を拭い、上着に寄った皺を伸ばして、惚けた顔で立つ草壁に一瞬だけ視線を投げた。
傍聴者を気にしつつ、咳払いで心を落ち着かせた。唇をひと舐めして踵を揃え、気を付けの姿勢で両手を身体の脇に寄り添わせた。
お手本のような姿勢を維持して、まっすぐ雲雀を見詰めて。
「あの、俺。次の試験、が、頑張るんで」
途中から力が入り、右手が拳を作った。
頬を紅潮させ、両足で踏ん張って。
「だから、あの。ひゃ、百点、取ったら。俺のお願い、聞いてくれませんか!」
段々早口になって、一気に言い切った。ぎゅうっと閉じた両目をカッと見開いて、身を乗り出し、勢い余って右足を踏み込んだ。
ダン、と靴底で床を蹴る音が大きく響いた。
振動が伝わって来るようで、勢いに圧倒された雲雀は呆然と目を丸くした。
草壁まで一緒になって唖然となり、小さな目を素早くパチパチさせた。持っていた書類を落としてから我に返って、慌てて身を屈めて拾い集めた。
慎重に隣の様子を探って、大それた願いを申し出た少年を見詰める。
綱吉は脇を締めて拳を固くし、血気盛んに勇んでいた。
彼が獲得した最高得点は、七十二点。それは中学一年の時点での、保健のテストだった。
もっともこれはただの偶然であり、そもそもテスト自体が簡単だった。選択問題が大半で、設問を理解しなくても、当てずっぽうで何点か稼げる内容だった。
幸運に恵まれたこの一件以降、彼は目を見張るような点数を取れていない。
記憶している過去の記録をざっと辿って、雲雀は緩慢に頷いた。
「百点。へえ。自信あるんだ?」
その彼がこんな風に宣言すること自体が、異常だ。
相当な自信がないと出ない発言であり、気合いの入れ方もこれまでと少し違う。
並盛中学校の平均点を押し下げていた少年は、嘲笑うかのような眼差しにも臆さず、はっきりと首を縦に振った。
「とります」
「へえ?」
雲雀の目を見ながらきっぱり言って、右手で胸を叩いた。
任せろ、と言わんばかりの態度に興味を示し、泣く子も黙る風紀委員長はふかふかの椅子に座り直した。
悠然と足を組み、頬杖を着いた。綱吉を上から下までじろじろ眺めて、決意表明した少年に口角を持ち上げた。
「分かった。良いよ」
「本当ですか!」
「うん。どの教科でもいいよ。本当に百点取れたら、どんな頼みでも聞いてあげる」
急にやる気を出したところが怪しいが、全体の底上げになるのなら出し惜しみはしない。どうせ無理な話だが、挑戦する意志は尊重すべきだ。
どんな頼みでも、とは言い過ぎた気がするが、撤回するのも癪だ。草壁が心配そうに横目で盗み見てくるのを無視して、雲雀は頬杖を解き、その手を膝に置いた。
綱吉はといえば、案外あっさり承諾を得られて、ぽかんとしていた。
もっと渋られると思っていただけに、呆けて立ち竦み、二秒後に我に返って猫背を正した。
びしっと姿勢を良くして、睨みを利かせる男にしどけなく笑いかける。
「約束ですよ」
「分かってるよ」
「約束しましたからね」
頼みごとの中身は、まだ言わないつもりらしい。
しつこいほどに念を押してくる彼が鬱陶しくなって、雲雀はつっけんどんに言い返した。右手をひらひら振って退室を促し、草壁には目で命じた。
視線だけで察して、ずっと見守るだけだった男が動いた。書類を置き、繰り返し釘を刺す生徒の肩を押して、応接室から追い出した。
「聞きましたからね!」
それでもなお、綱吉は叫んだ。見苦しく喚いて、ドアを閉められてもしばらく立ち去らなかった。
こんなにも念押しする辺り、余程の自信があるのか、それとも別の意図があるのか。
安請け合いしたかと一抹の不安を覚えるが、目を瞑った瞬間、雲雀はその疑念を掻き消した。
「よかったんですか?」
「いいよ。どうせ、聞くだけなんだから」
上機嫌にボールペンを回転させて、問いかけて来た草壁に言い返す。
不遜な態度と台詞に一瞬固まって、意味を解した男は少し困った顔を作った。
「それでは、沢田が……ああ、いえ。なんでもありません」
頼みごとを『聞いて』やると約束したが、『叶えて』やるとは言っていない。
こじつけも良いところの上司の台詞に、草壁は綱吉に同情を寄せ、睨まれて急ぎ口を噤んだ。
その後一週間は、綱吉は応接室に姿を見せなかった。試験期間は滞りなく過ぎて、採点の終わったものから順次返却が始まった。
カンニングの報告もなく、大きなトラブルはひとつも起きなかった。試験中に様子を覗きに行ったが、綱吉は教室で真面目に取り組んでおり、横顔は真剣そのものだった。
あれなら満点とはいかずとも、平均点くらいは期待できるのではなかろうか。
そう期待して取り寄せた全学年の結果を眺めて、雲雀は眉間の皺を深くした。
「恭さん?」
「前回よりは、……だね」
数百人分ある中で、真っ先に確かめた名前は沢田綱吉で間違いない。クラス別で集計されたリストで、その欄は神々しく輝いていた。
残念ながら、満点は見当たらなかった。
ただ、いつもはある零点が、ひとつもなかった。
平均点には遠く及ばないけれど、一桁さえザラだったものが、全て二桁に乗っていた。一教科だけだが赤点を脱しており、前回の試験よりはかなり改善されていた。
努力は認めるべきだろう。
椅子に深く凭れかかって、彼は手にした一覧表を机に放り投げた。
途中まで水平飛行していたそれは、やがて力なく滑り落ちた。端が卓上カレンダーに当たって跳ね返り、机上のほぼ中央に着地した。
遠くまで飛んで行かなかった偶然に目を見張り、愉快だと頬を緩める。
珍しく表情豊かな雲雀に苦笑で応じて、草壁はコンコン、と鳴ったドアに顔を向けた。
今回は、五分も悩み、迷わなかったようだ。
「失礼します」
「開いてるよ」
間髪入れずに声が聞こえて、ドアノブが回る音がそれに続いた。
嫌な軋みを立てることなく、応接室のドアが内側に開いた。散々なテスト結果だというのに、現れた少年は妙に得意げで、表情は自信に溢れていた。
約束した百点にはとても足りなかったが、落ち込む素振りは全くない。逆に嬉々として、どことなく嬉しそうだった。
「……うん?」
それが意外に感じられて、雲雀は眉を顰めた。
風紀委員の特権により、全校生徒の試験結果は把握している。そのことを、綱吉はとっくに承知していた。
長くはないが、短くもない付き合いだ。互いのことは、そこいらの一般生徒らよりは深く認識していた。
なにやら様子がおかしい。
想定していたのとは正反対の態度に戸惑っていたら、綱吉はふふん、と居丈高に胸を反らした。
「とりましたよ、百点」
そうして嬉々として宣言し、彼は合計五枚の答案用紙を鞄から取り出した。
高々と掲げて、不敵に笑った。いつものおどおどして、小さく震える小動物らしさが薄れ、さながらサル山で威張るボス猿の風格だった。
「なにを言ってるの、君」
その豪快さに唖然としつつ、雲雀は問い返した。事実と大きく異なる発言に眉を顰め、堂々と嘘を吐く彼への不信感を膨らませた。
不愉快と言わんばかりの表情で睨みつけ、苛々しながら机の角を叩く。
いつトンファーを取り出して襲い掛かるか分からない雰囲気に、巻き込まれるのを嫌った草壁がこっそり壁際へ後退した。
だが超直感の持ち主は、至って冷静だった。
それどころか不機嫌を露わにする雲雀を嘲笑い、良く見ろ、と並べて持った答案用紙を指差した。
教科までは見えないが、赤文字で記された点数ははっきり読み取れた。
左から順に、二十二点、十三点、十四点、四十点、十一点。
どれもこれも自慢にならない点数で、一般家庭の親が見れば卒倒ものだ。事実、雲雀でさえ、最初見た時は頭を抱えたくなった。
あらかじめ調べて、知ってはいたものの、いざ目の当たりにすると相応にショックだ。どんな勉強の仕方をすればこんな酷い点が取れるのかと、逆に聞きたいくらいだった。
家庭教師役の赤ん坊は、いったいどういうつもりなのだろう。
沢田家の教育方針に甚大な疑念を抱き、彼は鼻息荒い少年を睨みつけた。
「百点、です」
「……ん?」
それをものともせず、綱吉が誇らしげに告げた。
隠し切れない興奮に頬を染め、雲雀が待つ机に五教科分を広げた。
言っている意味が分からなくて、風紀委員長の右の眉がピクリと持ち上がった。胡乱げな眼差しを投げかければ、綱吉は屈託なく笑って、赤ペンで記された数字のひとつを指差した。
「百点でしょう?」
「十一だよ」
「違います。よく見てください」
同じセリフを繰り返されて、混乱した雲雀は苛立たしげに舌打ちした。眼力を強め、右手で武器を掴みに行こうとして、スッと横にずれ動いた視界に眉を顰めた。
五つ並んだ数字は、リストにあったものと同じだ。
放り出したままなのを思い出し、急ぎ回収した。直後にハッとして、彼は喜色満面とする下級生に瞠目した。
「ふざけないで」
ようやく理解して、湧き上がったのは感嘆ではなく、怒りだった。
「ふざけてません。ちゃんと、百点です」
吐き捨てられた言葉に反応し、綱吉が強固に言い張った。なにも間違っていないと訴えて、空になった両手を腰に据えた。
「冗談も大概にしなよ。五教科の合計って、そんなもの、認められるわけないだろう」
「俺、一教科で百点だなんて、一度も言ってません」
「ブフッ!」
早口に捲し立てられても、正面から受け止めた。気持ちで負けないよう奮い立たせて、堂々と言い放った。
彼らのやり取りに噴き出したのは、壁際にいた草壁だ。慌てて口を塞いだのだが、間に合わなかった。
直後に雲雀に睨まれて、背高な男は猫のように首を竦めた。恐縮して小さくなって、早足で応接室を出ていった。
そそくさとドアを閉めた背中にため息を零し、雲雀は痛むこめかみに指を置いた。ずらっと並んだ解答用紙を左から順に眺めて、合計値が綺麗に百になっている現実に肩を落とした。
一教科で百点満点も難しいが、五教科で合計百点も、相当難しいのではなかろうか。
計算して狙えるものでもなくて、器用としか言いようがなかった。
「がんばりました」
「その才能、別のことに使ったら?」
努力するにしても、方向が間違っている。どうせなら百点を越えて欲しかった、と愚痴を零して、彼は右手で首の後ろを掻いた。
もっとも雲雀にしても、詭弁を弄するつもりだったのだから、責められない。頼みごとを聞いてやるが、叶えてはやらない、との趣旨で押し通すつもりでいたから、お互い様だった。
「なにはともあれ、百点です。俺のお願い、聞いてくれますか?」
「断るって、言ったら?」
「ヒバリさんは嘘つきだって、骸に教えてきます」
「へえ……」
念のために訊ねれば、この世で一番聞きたくない名前を告げられた。
先にやり取りを想定し、答えを用意していたのだろう。滑らか過ぎる口調に頬を引き攣らせ、雲雀はこめかみを数回、爪で小突いた。
力尽くで妨害しても、彼の行動全ては縛れない。四六時中見張るわけにはいかなくて、誹謗中傷の流布は免れなかった。
あの南国果実が勝ち誇った顔で、こちらを嘘つきと罵りに来るのだけは、御免蒙る。
想像するだけで腹が立ち、はらわたが煮えくり返るようだ。露骨にイラッと顔を歪めて、雲雀は止むを得ないと首を振った。
「聞いてはあげる」
叶えてやるかどうかは、内容次第。
そう言葉尻に含ませた彼に、綱吉は構わない、と勢いよく頷いた。
「ありがとうございます」
「忙しいんだから、早く」
元気よく礼を言って、畏まって頭を下げた。行儀よく膝を揃え、四十五度に腰を曲げる仕草は見事だった。
それはそれで妙な特技だと、内心呆れつつ続きを促す。
今日は仕事などしていないくせに、ともう一人の自分からの指摘は無視して、雲雀は無邪気な笑顔に視線を移した。
昔は、目が合っただけでもおどおどしていたくせに。
いつの間にか堂々とした態度を取るようになった小動物に嘆息し、急かして机を叩いた。
少しでも調子に乗ったことを言おうものなら、遠慮なく殴り飛ばしてやる。ボンゴレ十代目云々は関係ない。彼が並盛町にいる限り、全ての法は雲雀の支配下にあった。
不敵な笑みを能面に隠し、掬い取ったボールペンの先を斜め前に向けた。
いつでも眼球目掛けて発射できる準備を済ませ、綱吉の次の言葉を待った。
彼のことだから、戦いたい、というのはないだろう。
ならば成績の改竄か、いじめっ子への報復か。
大声で公言すべきではない依頼ばかり想像し、予想した。風紀委員長に内々に頼みに来るのだから、よほどのものと思われた。
「握手、してください」
「――?」
しかし、違った。
軽く腰を捻って両手を合わせられて、雲雀はぽかんとなり、首を右に倒した。
甘えた仕草で強請った方は、揉み手を続け、神に祈る仕草で頭を垂れた。心からの願いだと言って、叶えてくれるよう念を送った。
その電波を受け取って、雲雀は瞬きを二度、三度と繰り返した。数秒の間を置いてパチパチと繰り返し、惚けた顔で真剣な表情を見詰め返した。
「握手」
手と手を握り合う、それにどんな意味がある。
百点を取る、と壮大なことを言って、謀略を経て掴み取った唯一のチャンスを、そんなことに使うとは。
自分の手に、そこまで価値があったのか。ふと思って、彼は思わず右手を見た。
握っていたペンを手放し、片手を宙に浮かせたまま、正面に向き直る。
綱吉はうんうん頷くと、自身の利き手をズボンに擦りつけた。
汗を拭い、汚れを落として、軽く息を吹きかけてから差し出してきた。
「そんなので、いいの」
物を強請るだとか、そういう類でもなかった。
当てが外れてがっかりしたような、そうでもないような変な気分で問い返し、雲雀は椅子を引いて立ち上がった。
特になにもしないまま、肘を伸ばした。指先を揃えないで宙に揺らしていたら、綱吉がそれに合わせて腕を伸ばした。
「ちゃんと、やったこと。なかったと思うので」
「そうだっけ」
「いつも、沢山、助けてくれて。ありがとうございました」
「君に礼を言われることなんか、してないよ」
指先が交錯して、一瞬だけ触れて、すれ違った。
巧くタイミングが合わなくて、綱吉は照れ臭そうに首を竦めた。
改めて重ねた肌はカサカサしており、体温はそれほど高くなかった。直前にあれだけズボンで擦ったのに、仄かに汗で湿って、触れ合った場所から吸いついて来た。
小さな手だった。
指は短く、掌は薄い。これといって運動をしていないと分かる、実に子供じみた手だった。
こんな拳では、誰かを殴ったとして、自分にもダメージを受けてしまう。皮膚が裂け、肉が千切れ、骨が砕け、あっという間に使い物にならなくなる。
それなのに彼は、臆することなく拳を振るった。
自身が傷つくのを恐れず、悔やまず、立ち向かい続けた。
「ヒバリさんは、思ってないかもしれないけど。でもオレは、ヒバリさんに助けられたと思ってます。だから、お礼、言わせてください」
「好きにすれば?」
「好きにします。それで、お願いなんですけど」
「ワオ、図々しいね。もう売り切れだよ」
綱吉は感触を噛み締めるように、何度か力を入れては緩める、を繰り返した。
その厚み、熱、固さを確かめ、ぱっと見ただけでは気付けない古傷を数えた。
感謝を述べて、屈託なく笑った。百点を取った交換条件の願い事はもう叶えてやった、と言われても、怯まなかった。
振り払われそうになった手を握りしめ、離さないとの意志を伝えた。雲雀が右の眉を持ち上げたのを見逃さず、目を細め、頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします」
顔を合わさぬまま、ひと息に捲し立てた。
今日一番の勇ましい声で吼えて、指の隙間から抜け落ちそうになった雲雀の手に縋った。
告げられた言葉に、雲の守護者の指先から力が失われた。だらりと垂れ下がろうとしたそれを引き留めて、大空の守護者は毅然と顔を上げた。
再び視線が交錯した時、バチッ、と火花が散った気がした。
迷いのない真っ直ぐな瞳に、雲雀の顔が大きく映し出されていた。
「……いやだね」
「ヒバリさん」
「これからも、僕は勝手にやるよ」
それを真正面から受け止めて、自由気ままな青年は素っ気なく言い捨てた。
繋いだ手を一瞬だけ強く握り返し、そして今度こそ払い除けた。仲間になったつもりはないと拒絶して、大胆不敵に口角を歪めた。
これまでも、これからも、群れる気はない。好きなように暴れ、気ままに相手を選び、好きなだけ戦いを繰り広げる。
その場に誰がいようと、関係ない。
雲雀は、雲雀が楽しいと感じることだけを選び続ける。
振り解かれた手をじっと見つめて、綱吉は肩を竦めた。肌に残る体温を大事に抱え込んで、相変わらずの男に目尻を下げた。
「分かりました」
ふたつめの願い事は、贅沢だった。
あっさり引き下がって、彼は後ろ向きに距離を取った。
「せいぜい、僕を退屈させないことだね」
立ち去ろうとする綱吉に、捨て台詞として雲雀が告げる。
それがまるで、引き留めたがっているかのような響きになった。失敗したかと内心悔いた矢先、綱吉は。
「がんばります」
肩越しに振り返り、百点満点の笑顔で頷いた。
2017/05/03 脱稿