つつあるものと 思ひけるかな

「さよくん、さよく~ん」
 声は突然、彼方から降ってきた。
「え?」
 だというのに姿が見えなくて、小夜左文字は困惑した。辺りをきょろきょろ見回しても、それらしき影は見つからなかった。
 いったいどこに居るのだろう。とても近くから聞こえるにも拘わらず、隠れられる場所はない。広い庭の一画で、左手には屋敷の屋根が見えた。
 縁側で何振りかが寛ぎ、軒先では粟田口の短刀たちが球蹴りで遊んでいた。遠くへ飛ばさないよう、地面を転がして、相手の正面に届けられるかを競い合っていた。
 思わずそちらに注目して、すぐに意識を引き剥がした。違う、と首を振って、もう一度左右に視線を走らせた。
「ここですよ、ここ」
「今剣?」
 それでも、声の主は見つからない。
 早く、と誘う声に焦りを覚え、彼は辛抱出来ずに助けを求めた。
 あの短刀は、どこへ行ってしまったのか。ふと怖くなって、小夜左文字は足元に生える草を踏み潰した。
 青草が拉げ、鼻につんと来る臭いがした。
 草履の裏が緑色になっているのを想像して、顔を上げれば太陽の光が目に飛び込んできた。
「うっ」
 その痛烈な眩しさに、自然と顔が歪んだ。顰め面を作って、苦々しげに天を睨みつけた。
 視界の中心が、周囲の明るさに反して、黒く染められていく。
「こっこで~すよ~」
「今剣!」
 そこに再び声が降って来て、小夜左文字はゾッとなった。
 嫌な予感がして、腰が引けた。一刻も早く逃げ出すよう、本能が警句を発した。
 頭の中で鐘の音が鳴り響く。縁側からの歓声が瞬く間に遠ざかって、彼はヒクリと頬を引き攣らせた。
 戦場では敵に臆することなく突っ込んでいけるのに、どうしてこんな時ばかり、身体が凍り付いてしまうのだろう。
 直感に背筋を粟立て、冷や汗を流し、短刀の付喪神は耳元を駆け抜けた風切り音に四肢を硬直させた。
 そこから瞬き一回分もなかった。
「ぐぎゃっ」
 潰れた蛙のような悲鳴を上げて、小夜左文字はズドン、と落ちて来た衝撃に呆気なく押し潰された。
 受け止めきれず、仰向けに倒れた。受け身を取る暇はない。避けるなど不可能な状況下で、凶悪な圧迫感にひたすら悶え苦しんだ。
 背中と後頭部を痛打して、咄嗟に息が出来なかった。臓器が一斉に跳ね上がって、肋骨を突き破って外に飛び出すのではないか、と恐怖を抱いた。
 それは上から降ってきたものが押さえつけ、封じてくれたわけだが、かといって助かったとは言い切れない。
 上からと、下からの両方の圧力に背骨はギシギシ音を立て、痛みに貫かれた筋肉が揃ってひきつけを起こしていた。
「いづ、つうう」
 悲鳴を上げたいのに、息を吸い、吐くだけでもあちこちが引き攣る。
 声もなく喘いで、彼は霞む視界に光を取り戻した。
 何十回と瞬きを繰り返して、圧し掛かってくる悪代官を懸命に睨んだ。
 けれど今剣はまるで悪びれる様子なく、逆に目が合ったのを喜んだ。
「うえですよ。う、え」
「おも、い」
 得意げに言って、頭上を指差す。
 その間も彼は小夜左文字の腹に座り、全体重を預けて来た。
 いくら小柄とはいえ、紙より軽いわけがない。そもそも彼は、小夜左文字より目方があった。背丈も、僅かながら上回っていた。
 それが弾丸と化して降ってきたのだから、体当たりされる方は堪ったものではない。早く退くよう促すが、にこにこ笑う短刀は全く耳を貸さなかった。
 彼らの近くには年老いた槐の木があった。
 幹は細く、頼りない。枝振りはまだまだ元気だが、あまり花を咲かせない、という話だった。
 止血剤として薬に使うので困ると、薬研藤四郎が言っていた。そんな事をぼんやり思い出しながら、その樹上から飛び降りて来た烏天狗に歯を食いしばった。
 渋面を作り、眼力を強める。
 ふふん、と鼻を鳴らした今剣は、少しも怯えてくれなかった。
「ぼくをさがして、うえをみないなんて、よくないですよ」
 それどころか舌足らずの声で捲し立て、小夜左文字の観察不足を叱った。そばに木があると分かっているのだから、真っ先にそこを探すべきだと懇々と説いて、偉そうに人差し指を立てた。
 指先を振り回しながら滑らかに告げて、どうだ、とばかりに口角を持ち上げる。
 ついムッとなって、小夜左文字は仕返しだと蹴り上げた右足で烏天狗の背後を狙った。
「うわあ」
 膝頭を叩きつけ、不意打ちを喰らわせた。
 予期していなかった短刀は、背中を打たれた衝撃に悲鳴を上げた。肩甲骨のやや低い場所に一撃を食らい、前倒しになった体躯をわたわたさせた。
 両手を振り回して崩れた重心を立て直し、してやったりとほくそ笑む短刀仲間をねめつける。
 今度は小夜左文字が余裕綽々として、不遜な態度で今剣を見詰め返した。
「も~」
「退いてください」
「さよくんの、けちんぼ」
 拗ねられても、意に介さない。最初に非礼を働いたのはそちらだと責めて、なじられても耳を貸さなかった。
 今剣はぶすっと頬を膨らませると、渋々膝を伸ばして立ち上がった。千切れて散った青草を払い落とし、ようやく小夜左文字の上から退いた。
 直前に、名残惜しげに腹を撫でられ、その瞬間だけは悪いことをした気分になった。けれど正当性は自分にあると思い直し、藍の髪の短刀はぐずぐずしている仲間の胸を押した。
 突き飛ばし、出来上がった隙間から下半身を引き抜いた。
 絶対に安全だ、と分かる距離まで後退して、股袴の白を緑に染め変えた。潰れた草の汁が繊維に絡みついて、吸着を止める手立てはなかった。
 斑色になって、まるで夜尿症をした跡のようだ。あとで目いっぱい擦り洗いしようと決めて、小夜左文字は注意深く相手を窺った。
 今剣は口を尖らせ、いかにも不満があると言わんばかりの態度だった。
「どうして、おこるんですかー?」
「どうして、あれで怒られないと思うんですか」
 ぶーぶー文句をぶつけられて、つい皮肉で返してしまった。
 彼の思考回路はどうなっているのか真剣に悩んで、まだズキズキする背骨を宥めた。
 腕が回る限りの範囲で撫でて、張り付いていた青草を払った。関節の至る場所がぎしぎし軋んで、少し動かすだけでも激痛が走った。
 当分の間、立ち上がれそうにない。雑草生い茂る地面に座り込んで、小夜左文字は呼吸を整えた。
 左胸に手を添えて、慎重に回数を重ねた。骨に響かないようゆっくりと、少しでも変調を感じれば吸い込む量を減らした。
 今剣は真正面に腰を下ろし、黙ってこちらを見詰めていた。
 袖のない貫頭衣に、大きな腕輪を三つも、四つも腕に通していた。木登りの邪魔になるからか、一本足の下駄は履かず、白い足が緑の大地に転がっていた。
「さよくん、あそびましょうよ~」
 だがものの数秒としないうちに、沈黙に飽きたようだ。己が引き起こした悪事を忘れ、暢気に誘いを掛けてきた。
 手を伸ばし、掴み取るよう言った。五本ある指を大きく広げ、空を掬い取る形で二度、三度と動かした。
 催促されて、小夜左文字は頬をピクリと動かした。怪訝に相手を覗き見て、特に意味もなく脇に視線を流した。
 座り込んでしまったのもあり、屋敷の縁側は一気に見えにくくなった。だが声は続いており、前田藤四郎と包丁藤四郎のやり取りが、途切れ途切れに聞こえてきた。
 遊ぼうと言われたが、なにをして遊ぶかまでは言及されなかった。
 胡乱げな眼差しを今剣に投げ返せば、彼は一瞬ムッとして、余所見した短刀を責めた。
「さよくん~?」
 自分が話しかけているのに、どうして他に意識を向けるのか。
 ただでさえ不機嫌だったのに、一層の不快感を表に出して、強引に手を掴み取ろうとした。
「ちょっと、待って」
 それを咄嗟に跳ね除けて、小夜左文字は悲鳴を上げた関節に息を詰まらせた。
 急に動いたから、反動が凄まじい。どんっ、と後ろから突き飛ばされた錯覚を抱いて、冷たい汗が背筋を伝った。
 木から飛びかかってきた短刀の、その衝撃がまだ消化し切れていない。足に力が入らず、立つことさえ難しいのに、力尽くで来られるのは許容できなかった。
 友人だと思っているのなら、少しは労って欲しい。
 強引すぎる今剣に毒づいて、彼はバクバク五月蠅い心臓を内番着の上から撫でた。
 首筋に汗が伝い、そこに張り付く髪の毛が鬱陶しい。吹く風は生暖かくて、こちらも甚だ不愉快だった。
「さよくん」
「今日は、いやだ」
 悪いことをしたら、きちんと謝り、許しを請うべきだ。
 だのに今剣は、上空から勢いつけて飛び降りて来たのを、悪いと思っていない。それにより小夜左文字がどんな被害を蒙ったのか、まるで頭にないようだった。
 彼はこんなにも、想像力が欠如した刀だっただろうか。
 分からない。思い出せない。
 修行に出る前の今剣がすぐに浮かんで来なくて、小夜左文字は喉を掻き毟った。
 勢いを増す一方の鼓動に喘いで、足りない酸素を懸命に集めた。金魚のように口を開閉させて、溢れて止まらない唾液を一気に飲み干した。
 あまり目立たない喉仏を上下させ、沈黙を保つ短刀を盗み見る。
 拒絶された後の彼はぴくりとも動かず、真ん丸い目をいっぱいに見開いていた。
「今剣」
 それがとても不気味で、空恐ろしく思えた。
 彼が自分の知る今剣とはまったくの別物になってしまった気がして、全身からサーッと血の気が引く音がした。
「あそびましょうよ」
 そこに、無邪気な声が響いた。
「ぼくといっしょに、のやまをかけめぐりましょう」
「今剣」
 淡々と紡がれる声に、感情はさほど籠められていない。抑揚なく告げられて、小夜左文字は瞠目した。
 ゾッとして、背筋が粟立った。ただでさえ五月蠅かった鼓動が爆音を奏で、耳鳴りがして、くらりと眩暈を覚えた。
 意識が遠退きかけて、寸前で引き留めた。僅かに仰け反って、またもや伸びて来た手を必死に拒んだ。
「今日は、いやです。今剣」
 これといった用事はなかった。どちらかといえば暇だった。身体が万全であれば、裏山を駆け回るくらい、なんてことはなかった。
 いつもなら断らない。しかし今回は意地が勝った。向こうが謝らない限り、誘いには乗らないと誓って、伸びてくる手を悉く叩き落とした。
 当初の目的を忘れ、それが遊びになればと願っていた。遠出するのでなく、この場で、座り込んだままでも出来る内容に切り替わればと、心のどこかで祈っていた。
 そうはならなかった。
「さよくん!」
「うっ」
 痺れを切らした今剣が、突如身体ごと前に出た。
 鋭く突き出した手で反撃を封じ、強引に小夜左文字の手首を拘束した。
 信じられない力だった。
 同じ短刀とは思えず、大太刀や槍に抓られている気分だった。骨が折れそうなくらいぎゅうぎゅうに絞められて、血流を阻まれ、指先がみるみるうちに白くなった。
 感覚が遠くなり、思うように動かせない。奪い返そうと躍起になるが、腕一本取られただけで全身が痺れ、凍り付いた。
「い、った……」
 元々あった痛みに上書きされて、衝撃は二倍だった。
 精神的にも圧倒されて、脂汗が止まらなかった。
 全身の汗腺が開き、だらだらと流れていく。やがて干からびてしまうのでは、と危惧する勢いで、息も巧くできなかった。
 はあ、はあ、と漏れる呼気が頭の中で渦を巻いた。
 とてつもなく強大ななにかと対峙している感覚に、全身が「逃げろ」と叫んでいた。
 けれど、出来ない。
 恐怖に呑まれ、身動きが取れなかった。
「あそびましょう?」
「いま、の、つるぎ……」
「ぼくといっしょに、あそんでくれますね?」
 そこに居るのは、今剣だ。大切な仲間だ。顕現してすぐの頃、本丸で出会った、頼れる友人だった。
 顔は同じだ。声も同じだ。
 だが雰囲気が違う。気配が違う。
 瞳の奥に、底知れぬ闇が見えた。
「今剣っ!」
 小夜左文字が背負う、黒い澱みと似て非なる色だった。
 どろりとして、全身にまとわりついて離れない。こびりつき、絡みつき、動きを封じて呑み込もうと蠢いた。
 頬を撫でられただけで悪寒が走り、己を形作っているものが崩れていく予感がした。奪われ、吸い取られ、別物に置き換えられていく、そんな雰囲気だった。
 そうして最後に行き着く先は、無。
 虚妄を剥がされた付喪神は、空っぽの世界でさらさらと崩れ落ちた。
「――うああああ!」
 絶叫し、飛び上がった。
 この世のものとは思えぬ存在から必死に逃げて、小夜左文字は全身を戦慄かせた。
 ぜいぜいと肩を上下させ、一瞬のうちに乱れた息を整える。ど、ど、ど、と脈打つ心臓に何度も唾を飲み下して、真っ白だった視界に輪郭を浮き上がらせた。
 全体的にぼやけていた空間が、じわり、じわりと形を取り戻していく。
 狂っていた遠近を瞬きで調整して、彼は手首に落ちた汗に背筋を震わせた。
「ううっ」
 震えが来て、首を竦めた。全身を伝う汗に身体が冷やされて、寒気が止まらなかった。
 堪らず己を抱きしめて、肩や上腕、あちこちを撫でた。五体満足であるのを無意識に確かめて、まるで痛まない背中と、失われた関節痛に疑問符を投げた。
「あ、……え?」
 見えていたのに意識しなかったものに気付き、目を瞬く。
 ぱっちり丸く見開かれた眼に映るのは、青々と茂る雑草でもなければ、不気味に笑う今剣の姿でもなかった。
 投げ出した足の裏には畳の感触があり、ひんやりと冷たかった。身を起こした時に跳ね飛ばしたのは洗いざらしの単衣で、大きさから薙刀のものと思われた。
 開け放たれた御簾の向こうに、日差しを受けた庭が広がっていた。蝉の声が遠く聞こえて、やぶ蚊が飛ぶ羽音が存外近くから響いた。
 発作的に顔の横で手を払って、不快な音を遠ざける。
 そうしている間も頭は状況を整理し切れず、小夜左文字は惚けた顔で座り込んだ。
「ここ、は」
 ひとりで暮らすには些か大きい部屋は、三条派に属する男の私室だ。身体が他の刀より大きい分、広めの空間を宛がわれて、それを良いことに、刀派を同じくする短刀が入り浸っていた。
 お蔭で小夜左文字の私室の隣は、いつ訪れても蛻の殻。
 たまには屋敷の中で遊ぼうと誘われて、出向いたのがここだった。
 ようやく記憶が繋がって、彼は違和感を覚えて首を叩いた。
 一歩遅く、血を吸われた。後から痒みが起きるのを想像して、深々とため息を吐いた。
「うう~ん……」
「今剣」
 ぺちん、と小さな音を響かせ、足に被さっていた薄衣を退ける。
 左斜め後ろに寝転がった短刀は、目を瞑り、午睡を楽しんでいた。
「あれは、夢?」
 寝顔は無邪気で、幼い。左右で僅かに色が異なる瞳は瞼に隠され、見るのは叶わなかった。
 短刀の中で誰よりも年上ぶる少年は、現実には存在しない刀だ。後の人々が創り上げた物語の中にのみ存在し、時代を経て語り継がれるに従って、形を成したのが彼だった。
 その話を聞いた時、小夜左文字は複雑な気持ちになった。
 自分と似ているようで、まるで違う。逆だ。正反対もいいところだった。
 小夜左文字にまとわりつく黒い澱みは、彼が背負う復讐に取り込まれた人々の怨念だ。山賊に殺された人、そして小夜左文字が殺した人々が、彼に寄り添い、物語を成した。
 小夜左文字から物語が剥がれ落ちても、刀は残る。それが最早『小夜左文字』とは言えぬものだとしても。
 あまりにも現実味が強すぎた夢が、頭に残って消えなかった。
 本当に目覚めているのか、こちらが現実なのかどうかを疑って、上腕の肉を抓めば、しっかり痛かった。
 しかし夢の中でも、充分過ぎるくらいの痛みを覚えた。
「胡蝶、か」
 虚と実が混じり合い、どちらが真実なのかは判然としない。
 蝶になる夢を見た詩人が、自身は蝶の見ている夢ではないかと疑った故事を思い起こして、小夜左文字は畳にごろ寝する今剣に単衣を被せた。
 客人だからと、譲られていた。これは本来、彼が使うべきものだと首肯して、まだ引かない汗を拭った。
 鼓動は幾ばくか落ち着き、冷静さが戻って来た。深呼吸を五度も繰り返して、家主がいない部屋をぐるりと見回した。
 近くには盤双六があり、白黒に塗り分けられた小石が転がっていた。双子の賽子が手持ち無沙汰にしており、勝負の続きを催促した。
 あれで遊んでいる最中に、眠ってしまったようだ。
 三日月宗近が持って来たまんじゅうを食べ、石切丸が煎れてくれたほうじ茶で喉を潤した。小狐丸が稲荷寿司をこっそり分けてくれて、満腹になったのが良くなかった。
 撫でた腹は、まだ丸い。部屋の中ほどまで差し込んでいた日差しは、今は随分手前へ流れていた。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、ぱっと思いつかない。
 未だ半分夢の中にいる気分でいたら、御簾を揚げ、背高な男が部屋に入って来た。
「んん? なんだ、起きたのか」
「岩融さん」
 言わずと知れた、薙刀だ。本丸でも屈指の背丈を有しており、その剛腕ぶりは目を見張るものがあった。
 彼のひと振りで、敵が一斉に薙ぎ払われていくのだ。見ていて壮観だが、自分たちの出番が失われるのは面白くなかった。
 居住まいを正し、小夜左文字は背筋を伸ばした。上着を貸してくれた礼を込めて頭を下げて、声を立てずに笑う男に相好を崩した。
 後ろを見れば、今剣はまだ寝ていた。ふにゃりと笑ったかと思えば、急に顰め面になって、百面相は見ていて面白かった。
「今剣は、眠ってしまったようだな」
「すみません。とんだ失礼を」
「なあに、構わぬ。寝る子は育つと言うしな」
 その短刀を上から覗き込み、黒手袋を外しながら岩融が呟く。
 賽の目を数えていた覚えはあるのだが、途中から記憶は曖昧だ。確実に言えるのは、先に眠ったのは小夜左文字の方、ということくらいだった。
 他者の部屋に邪魔しておいて、睡魔に負けるとはなんと情けない。だが薙刀は大きな手で短刀の頭を撫でると、器用な手つきで今剣に衣を掛け直した。
 大柄な彼だけれど、仕草は気配りに満ちている。
 笑い方や闘い方は豪快だが、それ以外は意外に細やかだった。
「拗ねておったぞ。続きができない、と」
「すみません」
「俺に謝ることではない。よく眠れたなら、それでいい」
 布団代わりの衣を被せられたばかりなのに、今剣は早速寝返りを打ち、裾を乱した。白い手が畳の上を這い回って、なにかを探しているようだった。
 その指に触れるか否か、という場所に、岩融は己の手を置いた。尻を浮かせた状態で屈み、物語から産み落とされた刀を優しい顔で見詰めた。
 ふた振りが見守る中、今剣が力強く、頼もしい男の手を探り当てた。
 指を絡め、きゅっと握りしめる姿は、赤子が母の乳房をまさぐっているようでもあった。
「今剣は」
「ん?」
 双六の盤面は、眠りに落ちる直前のまま、動いていなかった。
 やろうと思えば、いくらでも細工が出来たはずだ。勝負は小夜左文字優勢で、今剣は必死に挽回しようと足掻いていた。
 勝負の続きを強請り、舟を漕ぐ短刀を起こそうと躍起になった。夢の中で感じた衝撃は、もしかせずとも、体当たりで目覚めさせようとした影響だろう。
 岩融の手を握って、今剣の表情は安定した。穏やかで、心地よさそうで、安心しきっているのが伝わってきた。
「どこにも、行かないですよね」
 独り言のつもりだった。
 質問の体を取ってはいるが、返事は期待しなかった。ふと頭に浮かんだ不安が音となり、舌の上をするりと零れ落ちた。
 足を崩して座る少年を一瞥し、大柄な男はすぐに視線を戻した。すやすや眠る幼子に相好を崩して、空いた手で乱れていた髪を整えてやった。
「ここ以外の、どこに行けと言うのだ?」
 そうして低く、小さく、けれど朗々と響く声で問い返した。
「そんな、つもりは」
 鋭い眼光に射抜かれ、小夜左文字はハッとなった。
 恐ろしく残酷で、不躾もいいところの質問をしたと気が付いた。深く考えないまま、傲慢な想いを抱いたと思い知らされた。
 光も届かない、深い谷底へ突き落とされた気分だった。背筋が寒くなり、夢の中の痛みが現実になった錯覚を抱き、発作的に自分の身体を抱きしめていた。
 か細く震え、唇を戦慄かせる。
 歯の根が合わない奥歯をカタカタ言わせた短刀に、死地にあっても忠義を貫いた男の薙刀はふっ、と短く息を吐いた。
 険しかった表情を一瞬で緩め、目を眇めた。
 怯えさせて悪かったと詫びて、小夜左文字の頭をぽんぽん、と優しく叩いた。
「冗談だ」
 最中に言って、控えめにガハハと笑う。
 しかしその横顔はどこか哀しげで、寂しげに映った。
「岩融さん」
「そんな顔をするな、小夜左文字よ。心配ない。今剣は、今の主を今生の主と定めた。どこにも行かぬ。無論、俺もな」
 拭いきれない不安が、表に現れていた。下を向いた薙刀は噛み締めるように呟いて、尻を落とし、畳に胡坐を掻いた。
 少し高くした左膝に肘を置き、健やかな眠りを楽しんでいる短刀を眺める。表情は和らいで、小夜左文字がよく知る男の貌に戻っていた。
 ふた振りを交互に見やって、復讐を背負うと決めた短刀は少し赤くなっている腿を掻いた。いつ蚊に刺されたのか、全く覚えがない場所に爪を立て、十字になるよう跡を作った。
 右肩を下にして寝転がる今剣は、むにゃむにゃとなにかを呟いたが、聞き取れなかった。言葉にならない音を刻んで、相変わらず幸せそうだった。
「なんだか、不思議です」
「なにがだ」
「……いろんなことが」
 今剣は本来、存在しない刀。
 それなのに彼は、今、ここにいる。
 付喪神として審神者に喚ばれ、現身を得て顕現した。よく喋り、よく眠り、よく笑い、良く拗ねる。喜怒哀楽が激しい、ほかの刀剣男士と並べても違和感ない刀だった。
 とてもひと言でまとめきれなくて、小夜左文字は曖昧に濁した。
 寝入る短刀を見詰める少年にふむ、と頷き、岩融は今剣に握られた指をぶらぶら揺らした。
「こやつは、今は、主殿の守り刀だ」
「はい」
「確かに、義経公の刀ではなかったかもしれん。だが後の世に編まれた物語に、こやつは存在した。それは何故だ? 必要とされたからだ」
 物語には語り手がいて、聞き手がいた。
 語り手は、なにも真実を広める役目だけを担っているのではない。聴衆もまた、面白おかしく脚色された内容を欲した。
 現実に存在しなくても、物語の語り手たちにとって、今剣は必要だった。聞き手たちは、今剣が加わることで新たな一面を開いた物語に心を寄せて、その活躍と悲運に一喜一憂した。
 もし『今剣』というものが存在しないままであったら、義経公の生き様は別の伝承となっていた。時の権力者に睨まれ、語り継がれることもなく、消滅していたかもしれなかった。
「だからこやつは、やはり義経公の守り刀よ」
 時代の荒波にもまれながらも、ひとりの若者の生き様は後世へと伝えられた。
 形を変え、本来はなかった寓話が挿入されもしたけれど、源義経という男が存在した事実は消えなかった。
 歴史は保たれた。
 今剣が守った歴史だ。
 そう語る岩融の横顔は、我が事のように誇らしげだった。嬉しそうで、楽しそうで、とても晴れやかだった。
 見ているこちらまで胸が高鳴り、温かい気持ちになった。男につられて頬を緩めて、小夜左文字はひとつ、深く頷いた。
「そうですね」
 馬鹿なことを聞いた件は、なかったことにしてもらおう。今剣にも秘密にして、時の彼方へと投げ捨ててしまえ。
 すっと軽くなった心を撫で、岩融の隣に並んだ。膝立ちで距離を詰めて、鼻をヒクヒクさせている短刀の傍らに陣取った。
「今剣、双六の続きをしよう」
 そうやって手では触れず、語り掛けた。夢の邪魔をするつもりはなくて、けれど出来れば目覚めて欲しかった。
 祈りを込めて、そっと囁く。
「僕の勝ち逃げで、良いんですか」
 滔々と語り掛ければ、穏やかな寝顔がピクリ、反応した。しどけなく緩んでいたものが急に険しくなって、見守っていた岩融も「おお」と驚き、肩を震わせた。
 声を漏らさぬよう口を閉ざし、愉快だと腹を抱え込む。
 その隣でふふん、と鼻を鳴らして、小夜左文字は意地悪く口角を持ち上げた。
「今剣は、双六、弱いです。つまらない」
「ううう~」
 ここぞとばかりに言い放ち、短刀との距離を一段と詰めた。面と向かっては絶対に言えない悪口を並べ立て、反応を窺った。
「もう、今剣と遊ぶのはやめます」
 声が届いているのか、今剣はみるみるうちに顔を顰め、悔しそうに唇を噛んだ。
 勿論本心ではないけれど、彼のしつこさには時々辟易させられた。気が向いた時に、こちらの都合などお構いなしに突撃してくるので、迷惑に感じることがあったのは事実だ。
「今剣なんか、知りません」
 夢の中で見た、真っ黒い闇と、その向こう側に広がる虚無が脳裏を過ぎった。
 あれがただの夢であるよう切に願って、次の言葉を探し、口を開いた直後だった。
「あああああー!」
「うわっ」
 突如雄叫びを上げたかと思えば、顰め面で眠っていた短刀がガバッ、と単衣を吹き飛ばして起き上がった。
 握りしめていた岩融の手ごと高く持ち上げて、獣が威嚇する仕草と共に絶叫した。両腕を振り回してジタバタ暴れて、埃を撒き散らし、飛んでいた蚊を追い払った。
 耳元で囁こうとしていた小夜左文字は唖然とし、殴られる寸前に避けて尻餅をついた。
「あっはっはっはっは」
 無事指を取り戻した岩融は、今度こそ高らかに声を響かせた。ずっと我慢していた分も合わせ、愉快痛快と歓声を上げた。
「あ、あれ?」
 対する今剣はといえば、目をぱちくりさせて辺りを見回した。己を取り巻く環境が即座に理解出来ないようで、きょとんとしながら瞬きを繰り返した。
 下肢に被さる薄衣を揺らし、惚けている小夜左文字と、笑い転げる岩融とを交互に見る。
 それを五度か、六度も繰り返した後、彼はハッとして、大き過ぎる単衣を放り投げた。
 彼が向かったのは、双六だ。囲碁や将棋のように、四つの足がついた四角い盤面を覗き込んで、慌ただしく状況を確認し、目を吊り上げて小夜左文字を睨みつけた。
「さよくん、ずるはだめです!」
「ええ?」
「なんで、なんでですかー。なんで、もどってるんですか。ここから、ぼくが、ばびゅーんってぎゃくてんして、さよくんをこてんぱんに、やっつけたのに」
「あ、ああ……」
 いきなり怒鳴りつけられて、訳が分からない。
 だが話を聞くうちに事情が理解出来て、藍の髪の短刀は身振りが大袈裟な友人に肩を落とした。
 岩融は腹がよじれると、苦しそうに笑っていた。それにも今剣は煙を噴いて、失礼な男だと薙刀を責めた。
 一気に喧騒が戻り、室内が賑やかになった。
 堪え切れず噴き出して、小夜左文字は目尻を擦った。
「今剣。それは多分、夢です」
 頬に畳の跡が残ったままなのに、彼は気付いていない。それも滑稽で、笑わずにはいられなかった。
「ゆめ?」
「僕は、ずるなんかしてません」
「ほんとうですか?」
「本当です」
 歯が見えないよう口元を手で覆い隠し、肩を小刻みに震わせながら必死に言い返す。
 今剣は意外にもあっさり引き下がって、両腕を胸の前で組んだ。うんうん唸って、進行が止まった双六に向き直った。
「わかりました。じゃあ、いまから、まさゆめにしてみせます」
 記憶より傾いた太陽、足元に打ち捨てられた岩融の単衣。そういったものを見て、自分が今まで眠っていたのを把握したようだ。
 小夜左文字が先に睡魔に負け、必死に起こそうとしているうちに己も寝こけてしまったのも、しっかり認識できていた。
 だから、理解が早かった。すんなり納得し、けれど諦め悪く言って、小夜左文字目掛けて双六の賽を投げた。
 ふたつあるそれを振るよう、催促された。
 寝起きだというのに頭はシャキッとしているようで、表情は不敵で、尊大だった。
「僕だって、負けない」
 それで俄然やる気になって、小夜左文字は息巻いた。拾った賽子を掌で転がして、いざ尋常に勝負、とばかりに力いっぱい放り投げた。
「おお~?」
 ふたつ並んだ賽の目を確認すべく、横から回り込み、今剣が身を屈めた。
 小夜左文字も上に来た数字を調べて、楽しそうに笑う短刀仲間を覗き込んだ。
 色違いの瞳の奥には、きらきら輝くものがいっぱいに溢れていた。

夢とこそいふべかりけれ世の中に うつつあるものと思ひけるかな
紀貫之 古今和歌集 834

2017/07/19 脱稿