住めば住みぬる 世にこそありけれ

 夜明けとともに、ごく自然と目が覚めた。怠さを残す身体をのっそり起こして、大典太光世は自動的に目尻を擦った。
 現身を得て以降、目覚めと共に繰り返して来た所為で、癖になっていた。しかし今日は小さな欠伸すら出ず、いつもは長く居座る眠気まで、早々に退散を決め込んでいた。
 そもそも寝入ったのが、ほんの一刻ほど前のことだ。寝床に入ってもなかなか寝付けず、繰り返し、繰り返し寝返りを打っては、固く目を閉じて羊を数え続けた。
 妄想の中の羊は全体的に丸みを帯び、もこもこしていた。
 あれを枕にするのは、さぞかし気持ちよかろう。
 しかし有り余る霊力が邪魔をして、想像の獣ですら、彼に近付こうとしなかった。
 触れようと手を伸ばせば、一目散に逃げられた。懸命に追いかけて、捕まえた途端、それはボロッと崩れて灰になった。
 空想の産物であり、真面目に受け止める必要はないと分かっている。けれど衝撃を受けた。哀しくて、苦しくて、余計に眠れなくなってしまった。
「金輪際、羊を数えたりしない」
 決意を声に出して呟いて、彼は枕元を探った。後ろ髪を結んでいる紐を無事発見し、手櫛で梳くこともなく大雑把に縛って、薄い布団から足を引き抜いた。
 掛け布団もまとめて三つに折り畳み、最後に枕を上に置いた。部屋の隅の、邪魔にならない場所に寝具一式を移動させて、あらかじめ用意しておいた着替えに袖を通した。
 皺だらけの寝間着を、これまた雑に畳んで、枕の隣に並べた。前髪はどうしようか考えて、面倒臭さに負けてそのまま放置した。
 兄弟刀であるソハヤノツルキと揃いの上下に身を包み、襖を開けて廊下に出る。
「いつっ」
 途端になにも無いところで躓いて、彼は誰もいないと知りながら、かあっと顔を赤くした。
 部屋に灯りは灯っていなかったが、障子越しに朝の光を感じて、動き回るのにさほど苦労しなかった。
 しかし廊下側は、そうではない。両側が壁で、窓が遠い。明るさが足りない所為で、足元不如意だった。
 いつもなら夜目が利く短刀が迎えに来てくれるのだけれど、彼は昨晩、出陣だった。
 もう帰ってきているはずだが、姿は見えない。手入れ部屋かもしれない、と背筋を伸ばして、大典太光世は薄暗い天井を仰いだ。
「蜘蛛は、俺を恐れないのか」
 その天井板に、動くものがあった。小さく、素早い。見つかったと言わんばかりにサササ、と逃げて、あっという間にどこかへ行ってしまった。
 そういえば蔵にも、蜘蛛は多数、生息していた。
 烏さえ近寄らないと言われていたけれど、昆虫は違うらしい。
 けれどさすがに、昆虫を愛でる気は起こらなかった。
「膝丸に斬られては、可哀想だ」
 それにこの本丸には、土蜘蛛殺しの逸話を有する刀がいる。
 あの太刀に見付からないよう、早く立ち去るように心の中で呟いて、彼はヒリヒリする爪先を軽く振った。
 気を取り直して歩みを再開させ、慎重に廊下を進んだ。他の部屋の主はまだ夢の中らしく、物音はほぼ聞こえず、響くのは己の足音だけだった。
 ギィ、ギィ、と重みを受けて床板が撓んでいるのが分かる。
 大太刀や薙刀らと殆ど同じ音を奏でて、大典太光世は角を曲がり、二階へ通じる階段脇を通り抜けた。
 そこまで来ると、幾分明るさが増した。
「今日も、天気は良さそうだ」
 見上げた空は、東側から白み始めていた。
 夜闇は西の空へ追いやられ、劣勢に陥っていた。地平線近くで微かに星が瞬いているが、それもじきに消え失せそうだった。
 月はとっくに姿を消して、艶やかな藍色は光に飲みこまれようとしている。
 本丸に来る以前は見るのも叶わなかった景色に目を奪われて、彼はしばらく、窓の前から動かなかった。
 蔵から見えるのは、いつも同じ風景だった。
 四季の巡りは辛うじて感じられたものの、目に映る範囲は限られていた。山や谷が日暮れの時間、何色に染まるのかを、彼は長い間、知る術すら持たなかった。
「綺麗だ」
 ここに来てから、毎日が驚きの連続だ。
 勿論良いことばかりではないけれど、それさえも新鮮だった。
 かっては一喜一憂することすらなかったのだから、変化があるだけでも素晴らしいと思える。
 じわり、じわりと明るい範囲を広げていく空に目を眇めて、彼は今更出て来ようとした欠伸を噛み殺した。
「ふう……」
 代わりにため息めいた吐息を零し、目尻を擦る。寝不足のお陰でいつもより隈が酷いが、鏡を見ていない彼は気付かなかった。
 眠気覚ましも兼ねて肩をぐるぐる回し、首も振って骨を鳴らした。何気なく目を向けた方角は依然静かで、雨戸が開くのは当分先と思われた。
「前田は、どうしているだろう」
 隙間なく閉ざされた板戸の向こうで、粟田口の短刀たちは枕を並べ、眠りこけているに違いない。
 その中に良く知る短刀が紛れていることを切に願って、彼は直後、憂鬱そうに肩を落とした。
「いつかは回ってくると、承知していたが」
 歴史改変を目論む時間遡行軍の討伐を目的として、審神者なる者は時の政府の求めるままに、刀剣男士を顕現させた。
 時間を遡れるのは、刀剣のみ。過去を巡り、歴史修正主義者の目的を挫くのが、大典太光世らの使命だった。
 だが彼らの役目は、それだけに限らない。刀を手に、勇猛果敢に戦うだけでなく、本丸の維持管理もまた、大事な仕事だった。
 即ち炊事、洗濯、掃除、諸々だ。
 農作業もある。戦場で頼もしい味方となる馬の世話も、欠かせなかった。
 刀装具を作るだけならまだしも、何故こんなことまで、と言いたくなる内容が多々あった。力任せに暴れるだけでは済まされず、繊細な手仕事が各方面に求められた。
 そして大典太光世は、そういった作業がとてつもなく苦手だった。
 身体が大きいだけでない。長い間蔵に引き籠もっていた余波もあり、彼は俗にいう世間知らずだった。
 これまでは大勢いる仲間たちが率先して引き受け、彼は遠巻きに見ているだけで済んだ。
 しかしいつまでも、好意に甘えているわけにはいかなかった。
「俺に、包丁が扱えるのか……」
 目下最大の懸念材料を口にして、助けを求めて左右を見る。
 けれど願い虚しく、近くを通りかかる刀はひと振りもなかった。
 天下五剣に名を連ねる大典太光世は、本日目出度く、初めての調理当番を言い付かっていた。
 話を聞かされたのは、昨日の夜だ。夕餉の席で発表されて、大広間がざわついた原因がなんであるかは、想像に難くなかった。
 きっと誰もが、不安を抱いたに違いない。本当に大丈夫なのか、と言いたげな視線があちこちから感じられて、非常に居た堪れない気持ちになったものだ。
 だが皆がそう思うのも、仕方がないこと。なにせ大典太光世には、料理を作った経験などなかった。
 簡単な内容を手伝ったことならある。だがせいぜい野菜を洗うだとか、えんどう豆を莢から取り出す程度だった。
 味見をして感想を求められたことならあるけれど、その味がどうやって作り出されているのかは、知らない。
 お節介で世話焼きな短刀たちが、不器用な太刀でも作れそうな料理を見繕い、絵入りで作り方の説明書まで作ってくれたが、巧く行くだろうか。
 忘れないよう、昨日のうちから服に潜ませていた数枚の紙を取り出して、彼は丁寧で読み易い文字に頭を垂れた。
「やるしかない、か」
 幸いにも、当番は彼ひと振りではない。他に打刀の長曽根虎徹や、大倶利伽羅、脇差の骨喰藤四郎などが一緒だった。
 会話が弾む気がしない組み合わせであるが、決めたのは審神者だ。文句は言えなかった。
 間違って落とさないよう、手順書を折り畳んで握りしめて、彼は刀剣男士の私室が連なる北棟から、台所のある南棟へ向かった。
 長い渡り廊を抜けて、母屋に入った。日中は騒がしく、出入りが激しい玄関も、この時間はひっそりと静まり返っていた。
 大量に並べられた靴を順に眺め、ひと通り揃っているのを確かめる。例の出陣部隊の分も、邪魔にならない場所に、整然と並べられていた。
 誰の仕業かは、簡単に想像がついた。几帳面が過ぎる短刀を思い浮かべて、彼は安堵に頬を緩めた。
 どうやら全振り、無事に出陣先から帰って来たらしい。
 そうなると俄然手入れ部屋の様子が気になって、見に行こうかどうか、悩んでいた時だ。
「なにをしている」
「うっ」
 突然後ろから話しかけられて、不意を突かれた太刀は四肢を戦慄かせた。
 いつの間にか背後を取られていた。油断し過ぎも良いところであり、これが戦場であったなら、彼の首は胴から切り離されていた。
 嫌な想像をして、発作的に肩を掴んだ。頭と胴体が無事繋がっているかどうかを確認して、長い襟足を押し潰した。
「何処へ行くつもりだ」
 心臓がバクバク言って、冷や汗が止まらない。口から飛び出しそうになった悲鳴は辛うじて捕獲出来たが、動揺から来る挙動不審ぶりは、隠し通せなかった。
 目を白黒させて、恐る恐る振り返る。
「骨喰、藤四郎」
「台所は、あっちだ」
「あ、ああ。知っている」
 そこに立っていたのは、淡い藤色の髪をした脇差だった。
 長い睫毛に彩られた、大きな眼を上向かせていた。戸惑う太刀をじっと見つめて、自分からは逸らさなかった。
 口数は決して多くない脇差だが、その分目力が強い。体格では圧倒的な差があるのに、気圧されて、大典太光世は首を竦めて口籠もった。
 前田藤四郎や平野藤四郎、信濃藤四郎らの兄弟刀であるけれど、雰囲気は随分異なる。
 振り返ってみれば、彼とはあまり話をしたことがなかった。鯰尾藤四郎とは、短刀たちと一緒に居る時に何度か話しかけられたことがあるが、骨喰藤四郎とはなかった。
「そうか」
 口籠もりながらの返答に、脇差は淡々と頷いた。スッと目線を下にずらし、斜めだった首を正面に据え直すと、くるりと反転し、さっさと歩き出した。
 一度も振り返らず、一緒に行こう、といった誘い文句もなかった。
 一応右手を伸ばす準備だけはしていた太刀は、行き場を失った掌を呆然と見つめ、力なく項垂れた。
「俺は、嫌われているのだろうか」
 骨喰藤四郎は、誰に対してもあんな感じと分かっていても、考えずにはいられない。
 小声でぼそっと呟いたら、余計に心が傷ついた。うじうじ、ぐずぐず落ち込んで、黴臭い蔵に引き籠もりたくなった。
 だがそれは、許されることではない。
「……行こう」
 ちょっと嫌なことがあったからといって、すぐに逃げ出すのは、あまりにも迷惑過ぎる。引っ張り出す側の身にもなれ、と信濃藤四郎に説教されたのを思い起こして、大典太光世は気持ちを切り替えた。
 短刀たちが、時間がないというのに相談し合い、調理手順書を作ってくれたのだ。
 それを無駄にするわけにはいかないと腹を括って、彼は心持ち早足で台所に向かった。
 一歩ごとに床板を軋ませて、藍染めの暖簾を潜る。
「おっ、遅い出勤だなあ。遅刻は厳罰だぞ」
 真ん中の切れ目に手を入れ、首から先を前に出した彼を振り返って、長曽根虎徹が豪快に笑った。
「すまない」
 自分なりに早起きしたつもりだったのだが、遅かったようだ。それを証拠に、台所には残りの調理当番が全振り揃っていた。
 大倶利伽羅は竈の前にしゃがみ込み、燃え盛る炎と睨めっこの最中だった。骨喰藤四郎は自前の割烹着に袖を通して、手を洗うべく洗い場に向かっていた。
 兄弟刀と難しい関係にある打刀が、どうやら一番乗りだったらしい。献立を決めて、さっさと調理に入っており、強火で野菜を炒めていた。
 放置された俎板には、ざく切りの野菜の一部が残されていた。男らしく、豪快に刻んで、とにかく火を入れてしまえばいい、という雰囲気だった。
 味付けも大雑把で、味見すらしない。
 調子よく鉄鍋を振る男に唖然として、大典太光世は手にした紙束を背中に隠した。
 そんな料理で良いのか、と言いたくなったが、ぐっと堪えて飲みこんだ。完全に出遅れてしまって、短刀たちが選んでくれた一品を作るどころではなかった。
 そうでなくとも、台所は狭い。いや、充分広いのだが、大柄な男が複数いる所為で、そう感じずにはいられなかった。
「後は何を作る」
「そうだなあ。野菜炒めだけじゃあ、物足りないだろうし」
「なら俺は、味噌汁を作ろう」
 惚けている間に、準備を終えた骨喰藤四郎が戻ってきた。巨大な鉄鍋を難なく振り回す打刀に話しかけて、慣れた調子で段取りを整え始めた。
 大鍋に水を張り、湯を沸かすところから開始だ。具材とする茸や、味噌の準備も滞りなく進めて、惚れ惚れするくらい手際が良かった。
 考えてみれば、彼らは大典太光世より、この本丸での生活が長い。当然調理当番を命じられたのも、これが初めてではなかった。
 いつも前田藤四郎らがいる時しか台所に近付かないので、他の刀たちがどんな風に料理をしているのか、気にかけてこなかった。こんなにも雰囲気が違うのかと唖然として、なかなか入り口から動けなかった。
「なにかしたらどうだ」
 それを見咎めて、火の番がひと段落した大倶利伽羅が声を上げた。
 低い声で責められて、ぼんやりしていた太刀はハッと息を呑んだ。
「ああ、すまない。なにをすればいい」
 慌てて背筋を伸ばし、三方向に問いかける。
 だが背高な太刀の質問に、即答してくれる刀はひと振りもなかった。
 炒め物の手を休め、長曽根虎徹が骨喰藤四郎を見る。その脇差は言い出しっぺの打刀を窺い、大倶利伽羅はなにもない壁を見た。
 各々自分がやるべきことを定め、行動していた。そこに手伝いが必要かと聞かれれば、勿論と頷くだろう。だがそれは、相手側が台所作業に慣れているのが条件だ。
 初体験の太刀に逐一説明しながら作るのは、案外面倒だ。なにかやらせて、失敗されて、それが取り返しのつかない事態を引き起こすことだってあった。
 彼らが作っているのは、屋敷に住まう全刀剣男士の胃袋を満たす食べ物だ。自分だけの分であればどうとでもなるが、六十振り分が一気に駄目になったとしたら、目も当てられない。
 必然的に、彼らは押し黙るしかなかった。
「……おい」
 返事がないのを訝しみ、大典太光世が半歩前に出た。
 じり、じり、とにじり寄る天下五剣に頬を引き攣らせて、長曽根虎徹は焦げそうだった鍋の中身を急ぎ掻き混ぜた。
「そ、そう……だな。なにをしてもらおうか、大倶利伽羅」
「慣れ合うつもりはない。俺は俺で、勝手にやる」
 自分は炒め物作りで手一杯だからと、責任を丸投げした。しかし大倶利伽羅は受け取りを拒否し、急ぎ足で竈の前へと戻った。
 誰とも目を合わせてもらえず、優しい言葉もかけて貰えない。
 自分から何かを手伝う、という行動を起こそうにも、大典太光世は台所について、それほど詳しいわけではなかった。
 戸惑い、唖然とし、困り果てて脇差を見る。
 割烹着の少年は難しい顔で腕組みをすると、今にも泣き出しそうにしている大柄な太刀に嗚呼、と頷いた。
「卵が欲しい」
「たまご」
 猫背が酷くなった大典太光世にぽつりと言って、鸚鵡返しに聞き返された脇差は間髪入れずに頷いた。至極真面目な顔をして、やおら右腕を挙げ、勝手口を指差した。
 正確にはその先にある鶏小屋を、なのだが、骨喰藤四郎はその辺の説明は省いた。
 黒髪の太刀は唖然としながら目を泳がせ、背筋をピンと伸ばした少年と、窓の外とを見比べた。
 片や威風堂々として、片やビクビク震えて小さくなっている。これではどちらが天下五剣か、分かったものではなかった。
 やり取りを見ていた長曽根虎徹は声を殺して笑い、大倶利伽羅は呆れ顔で溜め息を吐いた。
「卵、を。取ってくればいいのか」
 ようやく脇差が何を言っているのかを理解して、大典太光世が呟く。
 骨喰藤四郎は鷹揚に頷き、足元に視線をやると、手ごろな大きさの編み籠を手に取った。
「よろしく頼む」
 それを差し出して、相手の目を真っ直ぐ見ながら告げた。
 外見はあまり似ていないながら、数ある藤四郎の短刀の中のひと振りを何故か思い出して、大典太光世は渡されたものを胸に抱きしめた。
 押し潰してしまわないよう注意しつつ抱え持ち、いざ勝手口から外に出ようとして、出しかけた足を引っ込める。
「ところでその、卵というのは、どこにある」
「ブッ!」
 外なのは分かっているが、具体的な採取方法までは、理解が及ばなかったらしい。
 基本的な知識すら有していなかった彼に、長曽根虎徹が堪え切れずに噴き出した。
 大量の野菜炒めを、鉄鍋ごとひっくり返すところだった。それを持ち前の腕力でどうにか防いで、顔の前で右手を振った。
「いやあ、すまん、すまん。鶏小屋があるのは知っているだろう。今の時間なら、産みたてが沢山転がっているだろうから、踏まないように気を付けるんだな」
「あいつらの攻撃は、容赦がないからな……」
 照れ笑いで誤魔化して、早口に助言を述べる。
 大倶利伽羅もぼそっと言って、事情が良く分かっていない大典太光世を焦らせた。
「攻撃? 踏む? 産みたて? 待ってくれ。まさか、卵というのは」
「鶏の卵に決まっているだろう。茸みたいに、木の根本に生えているとでも思っていたのか?」
 これまでにも何度か、卵料理は食卓に上っていた。けれどそれらはどれも調理された後のもので、元がどういう形状をし、どうやってこの世に現れるのかまで、彼は把握していなかった。
 頼まれたので安請け合いしたが、今になって後悔に襲われて、脂汗が止まらなかった。
 若干馬鹿にしたような問いかけに返事をせず、唇を戦慄かせて凍り付く。
 顔面蒼白で籠を落とした彼に、骨喰藤四郎は再度拾って押し付けた。
「卵焼きは、兄弟の大好物だ。急げ」
 彼が何故硬直したのか、理由を考えた形跡はない。ただ大典太光世が藤四郎の名を持つ何振りかの短刀と親しくしていると知った上で、行動を促した。
 脇差が卵集めを頼んだのは、烏さえ寄りつかなかった蔵の主だ。有り余る霊力による加護を期待され、且つ恐れられて来た刀だ。
 周りがどれだけ大丈夫と言って背中を押そうと、彼は己が与える影響を恐れ、動物に近付こうとしなかった。当然、日中は庭で放し飼いにされている、一部は凶暴と知られている鶏に対しても、だ。
 鳥除けとして畑仕事で重宝されている太刀に、よりによって鶏小屋に入れ、という指令が下された。
「俺には、無理だ。なにか他の仕事を」
「いいから、行け。時間がない」
 懸命に抗うが、受け入れられなかった。多忙を極める調理当番は、朝早く起きねばならなかった恨みもあって、気が立っていた。
 無駄話に付き合っている暇はないと、彼らは大典太光世の反論に耳を貸さなかった。
 率先して仕事を見つけ、動けない男に構っている場合ではない。時間との戦いに明け暮れて、打刀たちは目の前のことに必死だった。
 縋るような目を向けた脇差にも、一蹴された。コクリ、と頷き、腰を叩かれて、引き籠もり体質の男はビクッと背筋を伸ばした。
 両手で抱えた籠の底を覗きこめば、前田藤四郎が美味しそうに卵焼きを頬張る姿が見えるようだった。
 信濃藤四郎や、平野藤四郎らも嬉しそうに顔を綻ばせている。愛染国俊も満面の笑みを浮かべて、出された料理を全て綺麗に平らげた。
 あと半刻もすれば、座敷で見られるだろう光景だ。
 それを台無しにしたくなくて、ごくりと息を呑み、大典太光世は奥歯を噛み締めた。
「行ってくる」
 喉の奥から声を絞り出し、意を決して歩き出した。右手に籠をぶら下げて、土間へ降り、共用の草履に爪先を押し込んだ。
 彼の足には小さくて、踵がはみ出たが、気にならなかった。じゃり、じゃり、と音を響かせながら勝手口に向かい、会釈するように頭を下げて敷居を跨いだ。
 部屋を出た時よりも、外はずっと明るさを増していた。地面に落ちる影は濃く、輪郭は鮮やかだった。
 外に出て五歩ばかり進んだところで足を止め、左右を見回す。記憶を頼りに鶏小屋を探して、左に行こうとして、直後に思い直した。
「こっち、だったか」
 馬にさえ、極力近付かないよう心掛けている彼だ。家畜小屋に立ち寄った経験など、無いに等しかった。
 顕現した直後、敷地内を案内された時以来ではなかろうか。
 懐かしい記憶を辿りながら慎重に歩を進め、やがて現れた小屋の前で、彼はひく、と頬を引き攣らせた。
 それは板葺きの屋根を持つ、三方が壁で囲われた建物だった。左端に出入りの為の扉があり、今は隙間なく閉ざされていた。
 残る一面は金網で覆われ、糞と、餌に使われている米糠の臭いが辺り一帯に色濃く漂っていた。コケー、コココ、と姦しい鳴き声が絶えず響いており、現れた大男相手にも全く怯む様子がなかった。
 本丸には大典太光世より上背がある刀剣男士がいるので、慣れてしまったのだろうか。
 岩融や太郎太刀が、身を屈めながら小屋に入る姿を想像して、それよりは幾分小さい太刀は緊張に四肢を竦ませた。
 今や全身に汗が滲み、少し動くだけで関節がギシギシ音を立てた。薄暗い小屋の中から外を窺う獣の眼差しは鋭く、大典太光世を観察し、値踏みしている雰囲気だった。
 その数は、余裕で二十羽を越えるだろう。
「うおっ」
 端からざっと数えていたら、一羽が突然羽を広げた。飛べない癖に懸命に空を叩き、太刀目掛けて突進した。
 高く跳び上がり、他の鶏の頭を飛び越えた。直後にガシャッ、と金網に激突して、巻き込まれたくない鶏たちが一斉に壁の方へ移動した。
 勢いと音に驚き、大典太光世は卵を入れる籠を落とした。逃げ腰で身構えて、本当にこの中に入るのか、と閉まっている扉を横目で見た。
 彼は台所当番が初めてなら、卵の回収作業も初めてだった。
 だから先に餌を用意して、小屋の外に配置しておく、という手順を知らない。鶏たちがそちらに気を取られ、一斉に小屋から出ていった隙に中に入り、安全に卵を集める、というやり方を学んでいなかった。
 骨喰藤四郎は、てっきり前田藤四郎たちが教えたものと、思い込んでいた。
 その前田藤四郎は、本丸内を案内する際に簡単に説明したのだが、大典太光世は覚えていなかった。
 小屋の脇に桶や糠の入った袋があるのにも気付かず、鶏の前で右往左往して。
 散々躊躇し、懊悩して。
「……前田の、為だ」
 愛らしい短刀たちが喜ぶ姿を脳裏に描き、固い決意の下、太刀は思い切って鶏小屋の戸を引いた。
 直後。
「う、お……お、痛っ」
 待ち構えていた鶏数羽が、一斉に外に飛び出した。我先にと、普段から餌が用意されている場所を目掛けて突進した。
 目当てのものがないとも知らず、猛進し、砂埃を巻き上げる。一方で何羽かの鶏は、見慣れない男に疑問を抱いたのか、小屋の中で警戒する動きを見せた。
 足元を駆け抜けていった鶏の勢いに圧倒されて、大典太光世はしばらく動けなかった。
 もうこの時点で、帰りたい気持ちでいっぱいだった。しかし目的を果たさないことには、台所に戻れない。
 昨晩、わくわくしながら訪ねてきた短刀たちの為にも、期待を裏切るわけにはいかなかった。
「たまごとやらは、どれ……どれだ?」
 なんとしてもやり遂げると誓いを新たにして、落としたものを拾い、意を決して小屋に入った。中に残っていた鶏が警戒を強め、壁際へと後退するのをいいことに、目を皿にして辺りを探った。
 ぷわん、と漂う臭気を堪え、足元に敷き詰められた藁をそっと払い除ける。
 鳥たちの寝床でもあるそれはほんのり湿っていて、動かした途端に臭いが強まった。あまり嗅ぎ慣れない、獣特有の臭気に眉を顰めて、紛れていた柔らかな糞に渋面を作った。
 片隅に集まった雌鶏が、険しい目つきで男を見ていた。
 餌が用意されていないと気付いた雄鶏のうち、数羽が、いじけた足取りで小屋に戻って来ようとしていた。
「これ、か?」
 そんな中で籠を片手に、ガサガサと藁を掻き分けていた男が、白い塊を見つけて目を見開いた。
 藁の中に隠すように収まっていたその表面には、産み落とした雌鶏のものらしき羽が付着していた。表面はつるりとして、完全な円形ではなく、やや縦に長い楕円状だった。
 恐る恐る身を屈め、掴み取るべく腕を伸ばす。
 キラーン、と闇に潜む獣の目が一斉に輝いたのは、勿論錯覚だ。
 だが後に、大典太光世はこう証言する。奴らはこの身に宿る霊力を、一切恐れなかった、と。
「よし、まずはひとつ……いぢっ!」
 無事一個目を回収して、安堵の息を吐いた刹那。
 突如真後ろから攻撃を受けて、彼はガクン、と膝を崩した。
 倒れそうになって、すんでのところで踏みとどまった。ぐしゃ、と顔の前で音がして、生暖かい感触と同時に、太腿に鋭い一撃が突き刺さった。
「ぐあ」
 時間遡行軍に攻撃されるよりは優しいが、不意打ちで、避けられなかった。いったい何が、と思って辺りを見回した直後、視界いっぱいに白い羽が広がって、痛烈な蹴りがこめかみを直撃した。
 膝の裏側を嘴に突かれた。肉の薄い部分を抉られて、別の個体には臑を啄まれた。
「いっ、な、あ。止めろ。お前たち、止めるんだ!」
 知らない間に五、六羽の鶏に囲まれていた。群がられ、おしくらまんじゅうの真ん中に追い込まれ、大典太光世は混乱に声を上擦らせた。
 堪らず腕を振り回せば、指の間からぼたぼたと雫が垂れ落ちていく。細かな破片が皮膚に刺さって、そちらもチクチクとした痛みを発した。
 ぬるっとした感触は不快だけれど、怖ろしさが先に立ち、手を広げて状況を確かめられない。
 ゾワッと悪寒が駆け抜けて、大柄な太刀は顔を引き攣らせた。
「止めろ、止めてくれ。いたっ、こら、お前たち、大人しく……うぐ!」
 ばさばさと羽ばたく音がこだまして、白いものが大量に宙を舞った。蹴散らすわけにもいかず、力技で払いのけることも出来なくて、大典太光世は跳び上がった鳥の一撃に悲鳴を上げた。
 自在に空を飛べなくとも、跳躍力は凄まじい。顔面を狙って強靭な脚が突き付けられて、彼は咄嗟に腕を払った。
 迫り来る危機から逃れる為の、止むを得ない措置だった。しかし手首を襲った衝撃と、直後に響いた甲高い鳴き声に、太刀は騒然となって立ち尽くした。
 瞠目し、床に叩きつけられた雄鶏に唇を戦慄かせる。
 わなわなと全身を震わせて、彼は押し寄せる後悔に仰け反り、倒れそうになった。
「さあ、こっちです。こちらへ、早く!」
 意識が遠くなり、このまま消えてしまいたい衝動に駆られた時だ。
 小屋の外から勇ましい少年の声が飛び、地面になにかが撒き散らされた。
 バシャ、と扇状に広がって沈んだそれに、大典太光世を取り囲んでいた鳥の大半が反応した。攻撃の手を緩めてぴくっ、と固まったかと思えば、それまでのことなど忘れ、外目掛けて走っていった。
 歓喜と思しき雄叫びを上げ、雄鶏も、雌鶏も一斉に扉を潜り抜けていく。後には飛び散った藁と、糞と、ふわふわ宙を泳ぐ羽、そして呆然と佇む刀剣男士だけが残された。
 唖然として、瞬きも忘れていた。
 持っていた餌入りの桶を地面に置いて、前田藤四郎は放心状態の男の元へ急いだ。
「大典太さん」
 呼びかけ、服の裾を引っ張った。だらんと体側に垂れ下がっている片手が濡れて、透明な糸が複数滴り、白い破片がこびり付いている様には、眉を顰めた。
 なにが起きたのかを大雑把に把握して、惚けている太刀の腿を軽く叩く。
「う」
 力を込めたつもりはなかったが、鶏に囲まれた際、ここも突かれたらしかった。大典太光世は痛そうな顔をして、首を振り、長い息を吐いて傍らの短刀を見た。
 内番着に着替えたおかっぱ頭の少年に、驚いた様子で瞬きを繰り返す。
「前田」
「骨喰兄さんから、話は聞きました。すみません。もっと早く、やり方をお教えするべきでした」
 何故ここに、という顔をされ、前田藤四郎はぺこりと頭を下げた。何も悪い事はしていないのに謝って、小屋の外で飛び跳ねている鶏を一瞥した。
 彼が地面に撒いたのは、米糠を少量の水で練ったものだ。いつもは量を量って、身体が小さい個体にもちゃんと行き渡るよう注意するのだけれど、今日ばかりは構っている暇がなかった。
 大典太光世が鶏小屋に向けて出発して暫く後、身支度を調え終えた前田藤四郎は遅れて台所に顔を出した。眠い目を擦り、見当たらない太刀の行方を兄に訊ねて、返ってきた言葉に顎が外れそうなくらい驚いた。
 慌てて外へ出れば、案の定の事態が起きていた。
 救出作戦は、無事完了した。
 ホッと息を吐き、相好を崩して、短刀の付喪神は落ちていた編み籠を拾い上げた。
「前田、俺は」
「大丈夫です、大典太さん。どの鶏も、元気です」
 貼りついていた羽を払い落とし、青褪めている男を慰める。
 実際、太刀に打たれた鶏は、外で必死に餌を啄んでいた。
 彼を取り囲んでいた分も、そうだ。一羽たりとも調子を崩していない。大典太光世の霊力の封印は完璧で、外に漏れだすことはなかった。
 なんら影響を与えていないと念押しして、前田藤四郎は一呼吸置いてから首を捻った。太刀の反応が鈍すぎるのを気にして、可愛らしい顔を曇らせた。
「仕方がなかったんです。大典太さんが気に病むことは、ありません」
 彼が気にしているのが、成長を遂げた個体でないと察して、声を潜めた。
 手に取った瞬間、襲われたのだ。握り潰してしまったのは、不可抗力以外のなにものでもなかった。
 だが大典太光世は傷つき、哀しんでいる。じきに台所で潰える命と知っていても、自身の手で粉々にしてしまったのを悔やんでいた。
 慰めの言葉も、心に響かない。
「俺はやはり、蔵から出るべきではなかった」
 食事の準備で何ひとつ役に立てず、貴重な食材をむざむざ駄目にした。ひと振りでは対処出来ず、混乱するばかりで、能無しの謗りを受けて当然だった。
 自虐的思考が強まった。両手で顔を覆おうとして、直前で思い出し、割れた殻が貼りつく手を震わせる。
 たった一度の失敗で、この世の終わりのような落ち込み具合を見せられて、前田藤四郎は溜め息を吐いた。
 けれど彼の気持ちが、全く分からないわけではない。強すぎる霊力で周囲に害が及ぶのをひと際恐れている男だ。鳥小屋の中に入るのだって、かなりの勇気が必要だったはずだ。
 細心の注意を払ったのに、守れなかった。
 潤む眼から涙が零れ落ちるのも時間の問題と、短刀の付喪神は眉を顰めた。
「分かりました。では、練習しましょう」
「……練習?」
「はい」
 あまりのんびりしてもいられなくて、持っていた手ぬぐいを差し出しつつ、打開策を模索した。鸚鵡返しに呟いた男に頷いて、少年は近くにあった卵をひとつ、手に取った。
 他にも数個、見える範囲にあったものを拾って籠に入れ、差し出す。
「む、無理だ」
 これを持つよう無言で促されて、大典太光世はぶんぶん首を横に振った。
 すっかり怖じ気づいてしまっている彼に、前田藤四郎は渋面を作った。と同時に、いきなり本物からでは敷居が高いかとも考えて、目を泳がせた。
「では、こうしましょう」
 ぐるりと円を描くように瞳を動かし、足元に向かう途中に偶然見えたものに、望みを託した。
 現物が駄目ならそれに近しいものを、との発想に、これ以外ない、と確信した。
 卵が入った籠を置いて、彼は羽織っていた丈の短い外套の裾を掴んだ。大典太光世が怪訝にする前で鼻息を荒くして、膝を折ってしゃがむと同時に、手にしたものを頭に被せた。
 栗色の髪の毛を巻き込んで、外套の裏を表にした。背に垂らすべきもので頭部全体を覆い、弛まないよう真下に向けて引っ張った。
「前田?」
「僕を卵と思って、触れてみてください」
 屈んで小さく、丸くなって、呼ばれても顔を上げない。自分は卵だ、と己にも、太刀にも言い聞かせて、肩幅に広げた膝の間に胴体を押し込んだ。
 粟田口派の短刀はひと振りを覗き、生成り色の上着を内番着にしていた。彼の外套もだが、それらは卵の殻の色と近しい色だった。
 実物に触れるのが怖いのなら、まずはそれに似たものから順番に。
 徐々に慣れていけばなんとかなる、との発想から来た行動に、前田藤四郎は得意になって頬を赤らめた。
 我ながら妙案だと意気込み、大典太光世の役に立てるのを喜んだ。出陣の疲れがまだ残っているが、早起きして良かったと微笑んで、大きくて分厚い手が伸ばされるのを、今か今かと待ち続けた。
「……おや?」
 しかし待てど暮らせど、太刀の手は下りて来なかった。
 辛うじて見える爪先は、先ほどからピクリとも動かない。鶏に踏まれた際に出来たと分かる傷が甲や、足首に散見して、赤い筋が痛々しかった。
 早く消毒して、薬を塗ってやりたかった。
 だというのになかなか動こうとしない男に焦れた。言葉が足りなかったかと想像して、短刀は外套の下で百面相を繰り広げた。
 拗ねて唇を尖らせて、早くして欲しいと頬を膨らませる。
 鼻から荒い息を吐き、奇妙な事態に首を捻る。
「大典太さん?」
 試しに呼びかけてみたが返事はなく、代わりに大きな足指がピクッと動いた。
 前田藤四郎の倍くらいありそうな親指を一瞬浮かせて、草履からはみ出ている踵を地面に押し付けた。
「くっ」
 押し殺した声が聞こえた。
 懸命に笑いを堪えている気配が、空気を通して伝わって来た。
 きっと彼は、丸めた拳を口に当て、腹が捩れる感覚に耐えているに違いない。
 あまり聞くことのない太刀の笑い声にハッとして、短刀はカーッと駆け上がってきた羞恥心に真っ赤になった。
 これ以外にない、と自信満々だったのが、一気に萎んで小さくなった。もしや自分は、とてつもなく恥ずかしい事をしているのではと、冷や汗が止まらなかった。
 動物の鳴き真似や、仲間の癖を真似るのは、良くあることだ。酒宴の席でも度々披露されており、都度大きな笑いがこだました。
 だが卵の物真似など、聞いたことがない。
 冷静になって考えると、なんて馬鹿らしいのだろう。大きさからして全然違うのに、手触りも、構造自体も全くの別物なのに、どうして練習台に使えると思ったりしたのだろう。
 大典太光世が笑うのは当然だ。
 恥ずかしさと惨めさから、顔を上げられなかった。
 すぐにでも、この茶番を終わらせたい。だが今更止めるとも言い出せず、にっちもさっちもいかなかった。
 一秒も早くこの生き地獄から脱したいのに、その術が思いつかない。このまま後退して距離を取ろうにも、身を低くして、視界も碌に確保出来ない状態では、転んで尻餅をつくのが関の山だった。
 そうなったら余計、恥を曝すことになる。
 加賀百万石の前田家に伝来した守り刀としての矜持を傷つけず、この窮地から逃れるのには、どうすれば良いか。
 思いつきで行動するべきではなかった。後悔で頭をぐるぐるにして、前田藤四郎は上唇を噛み締めた。
 愚図り、涙を飲む。
 そこに、ぽん、と。
 軽い衝撃があった。自分の足元ばかり見ていた少年はハッとして、両手と外套の隙間から見える足を探した。
 直後に、よしよしと撫でられた。右に、左に狭い範囲で往復する手は、彼が良く知る感触と全く同じだった。
「あ……」
 絶句して、手の力が緩んだ。収縮性がない布は指先を離れ、するりと背中側へ流れていった。
 栗色の髪の毛が現れた。
 瞳いっぱいに光を宿して、前田藤四郎は控えめな太刀の笑みに四肢を戦慄かせた。
「大典太、さん」
「お前に触れるように、やれば良かったんだな」
「……はい。はい!」
 感極まった声を上げ、飛び上がった。得られた感想に相好を崩して、今度は頬に伸ばされた手に、自分から擦り寄った。
 存分に甘えて、太くて逞しい腕にしがみついた。
「さあ、行きましょう。皆が首を長くして待っています」
「ああ、そうだな」」
 卵は無事回収出来た。屋敷に集う仲間も、いい加減布団から抜け出している頃だろう。
「まるで、雛だな」
 片腕の動きを封じられても、太刀は嫌がらなかった。慎重に卵入りの編み籠を持ち上げて、楽しそうにじゃれ付く少年に目尻を下げた。
「はい?」
「いや、なんでもない」
 聞き取れたが意味が分からなくて、前田藤四郎が首を捻る。
 誤魔化され、歩き出した男のすぐ後ろをついて行こうとして。
 はたと我に返った少年は、真っ赤な顔を外套に隠した。

白雲のたえずたなびく峰にだに 住めば住みぬる世にこそありけれ
古今和歌集 945

2017/07/09 脱稿