開門を告げる声が、風に乗って流れて来た。
恐らくは江戸へ出陣していた第一部隊が、その役目を終えて帰還したのだろう。遠征部隊の戻り予定時間ではないのを確かめて、歌仙兼定は嗚呼、と首肯した。
刀剣男士は、闇に紛れて暗躍し、歴史改変を目論む時間遡行軍を討伐するのがその役割。故に短刀たちは、今日も戦場で血を流していた。
歌仙兼定も江戸には幾度か出向いた経験があるが、あそこはなかなかに、魔窟だ。
その時代に生きる人々に見付からないよう侵入し、襲い来る敵を討つ。
難易度はこれまでの任務の比ではなく、警戒すべきが敵の襲撃だけでないのが、なんとも厄介だった。
そんな苦難の多い仕事を、第一部隊の面々は文句も言わず、やり遂げている。
凄まじい精神力と、胆力だと感心しつつも、頭の片隅では少し呆れていた。そして僅かではない羨望が入り混じり、ここのところ出番のない戦装束が脳裏を過ぎった。
「戦わずして勝つのが、一番なんだけどねえ」
鍋の表面に浮き上がる灰汁を丁寧に掬い取りながら、呟く。
負け惜しみにしか聞こえない台詞だと自分に向かって苦笑して、歌仙兼定は騒がしくなった方角に顔を向けた。
もっともそこには壁があるだけで、現地でなにが起きているかは、想像するより他になかった。
心配性の一期一振が、弟たちの帰還を喜んでいるのは間違いない。手入れ部屋に向かう短刀たちを労い、賞賛を贈る刀もさぞかし多かろう。
左文字の太刀と打刀も、恐らく顔を出しているはずだ。本当なら自分も、と落ち着きを欠いた膝をぶつけ合わせて、彼は急く心を戒めた。
「彼らに美味しいものを提供するのが、僕の役目だからね」
残念なことに、昼餉の準備がまだ終わっていない。今ここで火の傍を離れるのは、無責任との謗りを受けかねなかった。
心優しく、同情的な刀は見逃してくれるだろうが、へし切長谷部はそうはいかない。
口喧しい男にぎゃんぎゃん説教されるのは御免で、我慢するしかなかった。
「手入れが終わった頃に、顔を見に行くとしよう」
些細なことにまで目を光らせている、本丸の番人に捕まると、厄介だ。
仕方なく今は諦めて、歌仙兼定は手にした玉杓子をくるりと回転させた。
寸胴の大鍋を掻き混ぜ、底に沈んでいたものを水面近くで解き放った。途端に薄茶色の塊がぶわっと広がって、三々五々、沸き立つ湯に散って行った。
今日の昼餉は、肉うどんだ。
出汁の準備は、既に出来ている。後は中に入れる具を仕上げ、饂飩を必要分、茹でるだけ。
器の支度は、当番で一緒になった秋田藤四郎に任せていたのだが、いつの間にか姿が見えない。打刀は懸命に耐えたというのに、あの桃色頭の少年は、辛抱出来なかったようだ。
彼の数いる兄弟のうち、数振りが江戸に出ていた。
あそこに出向いて、無傷で戻ってくる刀の方が珍しい。負傷具合も気になるだろうしと、叱るのはやめにして、歌仙兼定は肩を竦めた。
少し前まで台所の方が騒がしかったのに、玄関に持って行かれてしまった。
やはり様子を見に、と気もそぞろになる自分を律して、彼は水面に浮いてくる灰汁を根こそぎ掬い取った。
第一部隊がやるべきことを成し遂げて来たのだから、自分も負けていられない。
気持ちを奮い立たせ、手元に意識を集中させた。火を通し終えた肉を笊に上げて、葱や蒲鉾といった他の具材の準備も進めていく。
「戻ってこないな」
その一方でなかなか帰ってこない短刀たちを気にして、彼は視線を遠くへ投げた。
無味乾燥とした壁をじっと見つめるが、向こう側が透けて見えることはない。耳を澄ませても足音は響かず、近くを通りかかる刀はひと振りもいなかった。
クツクツと鍋が湯立つ音だけが、耳朶を擽った。郭公らしき鳥の声がして、一陣の風が窓から吹き込んだ。
額の真ん中を叩かれて、遠くへ飛び立とうとしていた意識を引き戻された。
「……なにかあったのか」
掠れる小声で呟いて、彼は白くて平らな額を撫でた。
前髪は邪魔になると、後ろに梳き上げて結んでいた。随分昔に、色が揃いだと笑いあった記憶が不意に蘇って、胸の奥がざわめいた。
嫌な感覚が膨らんで、内側から腹を圧迫した。不快感が食道を通って喉まで迫り、一瞬の吐き気に背筋が寒くなった。
「いや、まさか」
もしや重傷者が出たのかと懸念して、慌てて否定するが、根拠はない。
あるとすれば、玄関の方から聞こえた声が、さほど慌てふためいていなかったこと、くらいだ。
敵に後ろを取られるなりして、陣形を崩され、不利な状況の中で戦わなければならなくなったとして。
負傷者多数により進軍不可と審神者が判断し、即時撤退となっていたのだとしたら。
門を抜けて戻ってきた時点で、もっと大きな騒ぎになっていた。
台所まで響くくらいの大声が、いくつも重なり合い、混乱に陥っていたに違いない。
だが今日は、それがなかった。一時は賑やかだった玄関先も、今となっては静かだった。
だからきっと、大丈夫。
逸る心を落ち着かせ、呪文のように繰り返した。蒲鉾を薄く切る手を休めて、暗く沈みそうになる表情を引き締めた。
「ああ、駄目だ。僕がこんな顔をしていては」
繰り返し首を振り、吐き出す寸前だった溜め息を飲みこんだ。
陰鬱な顔をして作った料理が、美味しいわけがない。仲間の身を案じ、心を痛める刀たちの為にも、一時の慰めになるような美味なものを用意するのが、彼の務めだった。
言い聞かせ、気合いを入れ直した。今の自分は、本丸全体の胃袋を任されている。個人の感情で、出来栄えを左右するわけにはいかない。
「そうさ。だから、お小夜。どうか無事でいてくれ」
秋田藤四郎たちが戻れば、なにか話が聞けるだろう。
それまでじっと耐えることに決めて、彼は集中すべく、包丁を握り直した。
しかし。
「……いたっ」
やはりどこかで、気持ちが揺れていた。
普段通りなら絶対にない失敗に、歌仙兼定は渋面を作った。
蒲鉾と一緒に、指の皮まで切ってしまった。見れば皮膚一枚が薄く削がれて、ぺらん、と爪の先ほど捲れていた。
流石は、刀ばかりが暮らす本丸で使われている包丁、といったところか。位置がもう少しずれていたら、蒲鉾でなく、指が二本か三本、饂飩の具になるところだった。
洒落にならない想像をして、打刀は後からじわっと滲んできた血を啜った。傷口を唇で挟んで押さえつけ、削げた皮を傷口に貼りつけた。
そのまま舌で圧迫し、物理的に傷口自体を塞いでしまう。
じくじくとした疼きは、簡単には消えなかった。動かすのに支障はないが、ひょんな拍子にまた血が出て来られると厄介で、包帯かなにかで覆ってしまいたかった。
「確か、薬研藤四郎が置いていったものが、どこかに」
いつまでも片手を咥えたままではいられない。
記憶を掘り返し、眉を顰めて、歌仙兼定はやむを得ず包丁を置いた。
ここ台所は、戦場、畑に続いて負傷者が多い場所だ。
なにせ本丸では振り回すのを禁じられている刃物を、堂々と扱えるのだ。火を使うので、火傷することもある。その都度手入れ部屋や、薬室に駆け込むのは、効率が悪すぎた。
だからと、薬事に通じている短刀の手配により、台所には薬箱が置かれていた。
内容物は極端なまで絞られて、消毒薬と、軟膏と、包帯に、絆創膏のみ。
あれこれ詰め込まれるよりも分かり易い、と小さく頷いて、彼は見つけ出した蓋付きの木箱を棚から引き抜いた。
山積みにされたどんぶり鉢の横に置き、金具を外して蓋を開けた。
「ええと、確かこれが……」
中身と用法はひと通り説明を受けているが、なにせ随分前のことで、記憶が古い。
声に出しつつ確認して、彼は赤く染まっていく左人差し指に渋面を作った。
「僕が怪我をしていては、お小夜に笑われてしまうな」
「べつに、笑いません」
「ひえっ!」
戦場でもないのに負傷するなど、刀剣男士の名折れ。
苦笑し、消毒薬の入った瓶を揺らしていた打刀は、期待などこれっぽっちもしていなかった合いの手に、飛び上がらんばかりに驚いた。
独り言のつもりだっただけに、余計だ。誰もいないと思い込んでいたので、心臓が口から飛び出すところだった。
素っ頓狂な声を上げ、液体入りの瓶を落としそうになった。すんでのところで掴み直し、事なきを得たが、あらゆる汗腺が解放され、ドッと汗が溢れ出した。
心臓がバクバク言って、眩暈を覚え、耳鳴りが酷い。
よもやの展開に騒然となって、中腰になった男は挙動不審に身を捩った。
左右を急ぎ確認して、恐る恐る振り返る。
「歌仙?」
白昼夢でも見ている気分でいたが、現実だと痛感させられた。
へっぴり腰で身体を反転させた男に、小夜左文字は奇異なものを見る目を投げた。
首を捻り、眉間には浅く皺が寄っていた。右目は大きく開き、左目は眇めるといった胡乱げな眼差しを向けられて、打刀はぶるっと身震いした後、出そうになった悲鳴を必死で堰き止めた。
「ふむっ」
代わりに鼻から息が漏れて、こちらの方が余程怪しい。
直後に両手で穴を塞いだが後の祭りで、短刀の視線は益々鋭くなった。
「足は、あります」
それがやがて、別な方面に歪められた。
不満そうに吐き捨てられて、どきりとして、歌仙兼定は慌てて腕を振り回した。
「あ、当たり前じゃないか。お小夜。なにを言い出すんだ、急に」
亡霊かなにかと見間違えた、という風な解釈をされてしまったらしい。足の無い幽霊画を例に出されて息を呑み、彼は飛んでいく勢いで首を横に振った。
懸命に否定して、不満顔の少年を宥める。傷の痛みなど忘れて胸を叩いて、白い胴衣に赤い血の跡を刻んだ。
「あ」
「傷は酷いんですか、歌仙」
「いや、あ……たいしたことではないよ」
とはいえ、色は薄く、範囲は狭い。
軽く擦った程度だと苦笑して、打刀は爪先立ちになった少年に目尻を下げた。
それとなく身体を揺らし、薬箱を背中に隠した。背の低い短刀からは見えないよう位置取りして、愛想笑いを浮かべ、見たところ無傷の小夜左文字に小首を傾げた。
彼は間違いなく、戦場に出ていた。第一部隊の副隊長に任じられて、機動力が高い他の短刀たちが仕留め損ねた敵を、確実に打ち滅ぼす役目を担っていた。
修行を終えて帰ってきた彼は、一段と強くなった。
以前から短刀としてはずば抜けていた攻撃力に、更に磨きがかかった。現在の彼と腕相撲をして、歌仙兼定が勝てる確率はかなり低かろう。
「それより、お小夜は? 手入れは、いいのかい?」
左手の傷も拳の中に隠して、気配を消すのまで巧くなった少年に問いかける。
小夜左文字は戦装束を解き、刀を手放し、袈裟も外していた。
白衣の上に黒の直綴を羽織り、腰の高い位置に白い細帯を結んでいた。太腿から足首にかけて包帯で覆われており、股袴の丈は短いのに、肌の露出は控えめだった。
素足で、指はどれも小さい。それに付随する爪は、尚更だ。
人形のようだと、見ていて思った。
作り物めいた細かさと、正確さが、自分たちは現身に宿る付喪神という事実を、否応なしに教えてくれた。
「終わりました」
「終わった?」
「はい」
人間としては整い過ぎた外見が、良い証拠だ。
美化された伝承が起因しているのかどうかは分からないが、見目麗しい刀剣男士が多いのは確かだった。
そんなどうでも良いことを考えつつ、歌仙兼定は教えられた事実に目を丸くした。再度甲高い声を響かせて、間髪入れずに首肯した短刀を唖然と見つめた。
けれど三秒としないうちにハッとして、自分で出した答えに納得した。成る程、と頷いて、開けっ放しの口を閉じた。
「大事ないのかい」
どうやら審神者は、手伝い札を使ったらしい。
手入れ時間を大幅に短縮し、一瞬で終わらせてしまう便利な道具だ。けれどその便利さ故に、数を揃えるのが難しかった。
今回、それを使ったらしい。勿体ない、と貯めこむ一方だったものを解放した辺り、小夜左文字の傷は相当酷かった、と推測が可能だった。
「今はもう、平気です」
「今、は……」
「誉れ、いただきました」
「そうかい」
苦虫を噛み潰したような顔になった打刀に、安心させようとして、短刀は矢継ぎ早に言った。
失言を取り返そうと躍起になって、胸を張り、どこも問題はないと両手を広げて証明した。ぴんと伸びた五本の指は綺麗で、目立つ傷といえば、昔からある目の下のものだけだった。
彼は足が遅く、他の短刀より行動が一歩半ほど遅い。故に仲間が一閃を与え、手負いとなった敵と対峙する機会が多かった。
傷を負った獣は、しぶとい。
時間遡行軍もまた、同じだ。
「無茶をしたんじゃないだろうね」
「したのは、厚藤四郎です」
「そう。彼は?」
「僕と同じで、先に出ました。今は一期一振さんと、鳴狐さんに、叱られていると思います」
「そうかい」
複数の敵に、一斉に襲い掛かられる姿が瞼に浮かんだ。
開門の声が聞こえた時、なにもかも投げ出して玄関まで走っていればよかったと、後悔が胸を過ぎった。
今回の出陣で出た中傷者は、ふた振り。功を焦って先走り、敵に囲われてしまった厚藤四郎と、これを助けに向かった薬研藤四郎、乱藤四郎らの分も敵を引き受けた小夜左文字だ。
残る刀たちは、幸いにも軽傷で済んだ。厚藤四郎も、守りを捨てて攻めに転じたのが吉と出て、折れることなく帰還出来た。
料理当番の短刀が戻ってこないのも、道理だ。
今頃は手入れ部屋区画の前で、修復作業中の兄弟が出てくるのを、息を殺して待っていることだろう。
「大変だったようだね」
「……それが、役目ですから」
「お腹が空いているだろう。先に食べるかい?」
厚藤四郎も修行に出て、少しはやんちゃぶりが落ち着いたかと思ったが、実情は違うらしい。
責任感が強くなったのは良いけれど、勲功を焦るのは宜しくない。それで仲間が傷つくのであれば、尚更に。
長兄からの説教に懲りて、今後は改まるといい。巻き込まれた結果、必要ない痛みを味合わねばならなかった短刀に心を寄せて、歌仙兼定は静かに問いかけた。
背中に回した手で薬箱の蓋を閉じ、消毒薬の瓶はどんぶり鉢の中に紛れ込ませた。空にした両手を大袈裟に揺らして、派手な身振りで小夜左文字の注意を余所に向けた。
示された方角に顔を向けて、彼は嗚呼、と頷いた。
「今日は、なんですか」
薬研藤四郎たちが手入れ部屋を出るのは、当分先の話だ。
つまりそれまで、第一部隊に組み込まれた短刀たちは、本丸を出て行かない。
審神者がいつ気まぐれを起こすかは分からないものの、憂いでいても仕方がなかった。ならば今出来ることを、と鼻息を荒くした打刀に、短刀は可愛らしく首を捻った。
甘い香りがする出汁と、山盛りの蒲鉾、葱に、乱立するどんぶり鉢。
これらを総合的に判断すれば、答えは自ずと導き出せる。
それでも敢えて声に出して訊ねた少年に、歌仙兼定は自信作だと鼻を高くした。
「肉うどんだよ」
麺は朝のうちから仕込んであったので、もう完成している。あとはたっぷりの湯で、茹でるだけ。
その茹で時間さえ我慢出来るなら、すぐに食べられる状態だ。
どうするか、と空色の目を眇め、小夜左文字を覗きこむ。
二つ返事で頷いてもらえるとばかり思っていた打刀は、次の瞬間、むすっと膨らんだ頬に絶句した。
「お小夜?」
「違うのが、良いです」
「ええ?」
同意されるものと信じて疑わなかったので、驚いた。強い語気で拒否されて、唖然とさせられた。
後ろからいきなり話しかけられた時より、もっと吃驚したかもしれない。跳び上がりはしなかったものの、目を真ん丸に見開いて、歌仙兼定はぶすっと不貞腐れている少年に瞬きを繰り返した。
小夜左文字は基本的に、素直だ。正直で、裏表がない。
口数は少ないけれど、全く喋らないわけではない。大倶利伽羅のように無視するのではなく、呼びかければきちんと応じてくれた。
相手の意見に耳を傾け、助言はいつも的確だった。頭ごなしに否定するのではなく、ひと通り聞いてから、間違っている部分をひとつずつ指摘して、訂正してくれた。
だからこんな風に、取りつく島もないのは珍しい。
面と向かってきっぱり言われて、打刀は惚けた顔で立ち尽くした。
無意識に痒みを訴える指先を掻き、折角静まりかけていた痛みをぶり返した。
それがあって一瞬顰め面を作って、奥歯を噛み、口をへの字に曲げた。
「違うの、って……」
「甘いのがいいです」
「こんな時間からかい?」
「はい」
困り果て、小声で繰り返す。
すかさず小夜左文字が、助け舟になっていない助け舟を出して、問い返されて首肯した。
真っ直ぐ相手の目を見て、揺るがない。確固たる意志を嗅ぎ取って、歌仙兼定は天を仰いだ。
八つ時の菓子は、万屋で購入した花林糖の予定だった。最近は自作する時間が足りず、材料を揃えるのにも苦労するようになって、買ったもので済ませる機会が増えていた。
まだ時間には早いが、止むを得ない。
他ならぬ小夜左文字の要望だから特別に、と肩を竦めて、彼は隠してある棚に足を向けようとした。
だが、叶わなかった。
「おおお、お小夜?」
歩き出そうとした途端、後ろから腕が伸びて来た。
腰に巻き付け、ぎゅっと力を込められた。行かせない、と言っている事とは逆の行動をとられて、打刀は目を白黒させた。
前に出そうとした身体を戻しても、締め付けは緩まなかった。圧迫された骨がミシミシ言って、そのうちぽっきり折れてしまいそうだった。
怖い想像をして、サーッと血の気が引いた。しかもこの間小夜左文字は無言で、それが尚更恐ろしかった。
「ど、どうしたんだい。甘味が良いんだろう?」
こんなことが、過去にあっただろうか。
生まれてこの方経験したことのない状況に身を置いて、声が裏返った。脂汗が噴き出して、心臓が喧しく騒いだ。
胸の奥の鼓動が、耳元で轟いた。いつの間に頭の中に引っ越したのかと、有り得ないことに瞠目して、必死に首を捻って後ろを見た。
「歌仙のじゃないと、嫌です」
「えええ?」
下半身が固定され、腰から下は動かせない。
肩を引いて限界まで視野を広げるが、背中に貼りつく短刀は頭の先しか目に映らなかった。
濃い藍色が揺れたのは、我が儘に仰天した打刀が震えたからだ。
百年に一度あるか、ないかの台詞に仰け反って、歌仙兼定は耳を疑い、頭を抱え込んだ。
指の怪我など、もうどこかへ消えてしまった。それどころではなくて、昼餉の準備も完全に止まっていた。
「いや、けれど。お小夜」
「お腹が空きました」
目の前に陣取る大量のどんぶり鉢を視界に入れ、辛うじて理性を保つ。
だというのにそれを台無しにする台詞を吐かれて、膝から崩れ落ちそうになった。
そんな風に言われたら、応えてしまいたくなる。要望を聞いて、贅を尽くし、気に入る菓子を満足するまで作ってやりたくなるではないか。
しかし彼は、今日の料理当番だ。本丸に暮らす刀剣男士全振りの腹を満たす義務があった。
職務を放棄して、個人の都合に走るわけにはいかない。
だがこんな機会は二度とないかもしれなくて、天秤は激しく揺れ動き、定まらなかった。
「歌仙、駄目ですか」
懊悩していたら、急かされた。
背骨の低い位置に熱を感じたので、その辺りに短刀の顔があるらしかった。
白の胴衣に顔面を押し付けて、ぴったり張り付き、離れない。臍の前でぎりぎり届く指先を重ね、絶対に逃がさないと力を込めていた。
なんと健気で、情熱的なのだろう。
叶うなら今すぐ身体を反転させ、抱きしめ返したかった。勿論叶えてやると大声で宣言し、食べたいものを問うて材料集めに奔走したかった。
「いや、駄目……じゃ、うう」
けれども、簡単には頷けなかった。息を吸えば出番を待つ出汁の香りが鼻腔に広がり、出しっ放しの包丁が目についた。
あと半刻後であれば、ここまで悩まされなかった。昼食前でなく、終わってからなら、歌仙兼定もある程度自由に台所を使えた。
どうしてこういう時に限って、こうも間が悪いのか。
己が天より与えられた命運を呪って、彼は喉の奥で呻き声を上げた。
「かせん」
「少し、待ってくれないか」
「今すぐが、良いです」
「お小夜……」
顔を向け合わせていないからか、短刀はよく喋った。強請って、甘えて、擦り寄って、解いた指を打刀の帯に絡ませた。
踵を交互に浮かせ、ドンドンと足音まで響かせる。繰り返し催促し、妥協せず、譲歩もしないと態度で示し、一刻も早い決断を迫った。
弱り果てて、歌仙兼定は顔を歪ませた。嬉しさに困惑が混ざり、ひと言では表現できない顔になって、助けを求めて開けっ放しの戸口を見た。
そろそろ腹を空かせた刀が、昼飯を寄越せと訪ねてくる頃合いだ。
運が良ければ、この場を任せられる。大倶利伽羅が一番の外れ籤で、それ以外が訪ねて来るよう切に祈って、打刀は赤かった顔を青くした。
「歌仙、嫌なんですか?」
「嫌、じゃあ……ない、というか。むしろ大歓迎、というか」
「だったら――」
足音は響いてこない。小夜左文字は尚も急かして、袖を引く。
にっちもさっちもいかなくなって、歌仙兼定はしどろもどろに捲し立てた。
素晴らしい幸運と、役目に縛られた不幸が同時に押し寄せて、早く決めるよう声を上げた。鍔迫り合いが始まって、剣戟の音は止まない。天秤は荒々しく揺れて、今にも壊れそうだった。
抑圧された本能が、押しとどめようとする理性に抗った。互いに相手を捻じ伏せんとして、全力を振り絞り、頭から湯気が噴き出した。
このままだと、破裂する。
審神者から与えられた役目も、何もかも投げ出して、欲望のままに突き進みたかった。
ただひと振りの愛しい子の為に尽くしたいと、どうして願わずにいられようか。
「失礼するぞ。すまない、兄者と万屋へ出かけるので、早めに昼をもらいたいんだが」
その時、天が彼に味方した。
早足で敷居を跨いだ太刀が、静まり返った台所を見回しながら気忙しく告げた。ほぼ中央に立っていた歌仙兼定には、言い終えてから気が付いたようで、棒立ち状態の打刀に首を捻り、端整な顔を僅かに歪めた。
黒に白を織り交ぜた衣装に、薄緑色の髪。口を開けば鋭い八重歯が顔を出し、戦場では獣じみた戦い方を披露する。
兄である髭切にべったりの彼の名は、膝丸。肝心の兄になかなか名前を憶えて貰えず、日々涙を飲んでいるが、落ち込んでも立ち直りが早いのが、彼の長所だった。
「どうした?」
頼みごとをしたつもりなのに、食事当番の打刀の反応がない。
彼の位置からだと背後に隠れた短刀は見えないようで、頻りに首を捻り、眉を顰めた。
その彼に、三秒してから鼻息を荒くして。
「ちょうどいいところに!」
「は?」
歌仙兼定は歓声を上げた。
諸手を挙げて喜んで、惚けて立ち尽くす太刀に迫り、両手を力強く握りしめた。
救い主が現れたと涙まで流して、力任せにぶんぶん振り回し、唖然とする膝丸に準備完了間際の昼餉を示した。
「後は任せた」
「ちょっと待て。どういうことだ」
「恩に着る」
「待つんだ、歌仙兼定。なんのつもりだ。おい、待て。俺は、急いでいるんだ。待て、待て!」
言うが早いか、腰を捻った。しがみついて来ていた小夜左文字の手を解き、掴んで、駆け出した。
慌てたのは膝丸で、道理が分からないと声を荒らげた。だが伸ばした手は空を撫で、職場を放棄した男には届かなかった。
土間へ降りる際に草履を履き、勝手口から裏手に出る。左方向には煮炊きで使う薪が山積みにされており、正面には食糧を備蓄する蔵がふた棟、肩を並べていた。
その右側に、畑へ通じる小路がある。
だが歌仙兼定はそちらではなく、真っ直ぐ進路を取った。
「かせん」
小夜左文字は、素足だった。乾いた地面を踏みしめて、後ろで騒ぐ膝丸を気にしつつ、興奮に息を弾ませた。
連れ立って蔵の中へ入り、ひんやりした空気を吸い込んだ。分厚い壁と屋根に阻まれた内部は暗く、天上近くに設けられた明かり取りの窓が唯一の光源だった。
もっとも短刀や打刀にとって、この程度の暗さは敵ではない。
瞬き数回で闇に馴染んで、男は理路整然と整理された空間を指差した。
「さあ、お小夜。なにが食べたい?」
ふたつある蔵のうち、片方は主食である米を中心に、野菜や肉が保管されていた。
一方彼らが足を踏み入れた蔵は、保存食を中心にしていた。だがそれだけだと場所が余ってしまうからと、使用頻度は低いが、ないと困る食材などが集められていた。
団子を作る上新粉に、白玉粉、などなど。果物を甘く煮詰めて瓶詰めしたもの、或いは細かく切り刻んで乾燥させ、水分を飛ばしたものもあった。
砂糖や塩、醤油といった調味料も、こちらに備蓄されていた。味噌の匂いが強く漂い、否応なしに食欲が刺激された。
無条件で溢れた唾液を飲み干して、なんだって作れると、男が宣言する。
その場でくるりと三百六十度回ってみせた歌仙兼定を呆然と見つめて、小夜左文字は嗚呼、と肩を落とした。
「歌仙は、文系、……ですよね」
「うん? そうだが、それがどうかしたかい?」
「いえ」
誰もいない場所へ連れて来られて、膨らんだ期待が一気に萎んだ。
言葉通りの意味としか解釈していなかったのだと教えられて、短刀は落胆を露わにし、苦笑を漏らした。
小さく首を振り、目を細める。明かり取り窓から差し込む光に溜め息を零し、彼はきょとんとしている男に近付き、ぶつかる直前になって顔を伏した。
「お小夜?」
ぽすん、と胸に寄り掛かられて、歌仙兼定は首を傾げた。咄嗟に細い肩を抱きしめて、返事がないのを訝しんだ。
話を振って来たのは彼なのに、この態度はなんだろう。
再びぎゅうぎゅうに抱きつかれて眉を顰め、二つに割れている髪の結び目に視線を集中させた。
「どうしたんだい、お小夜。なにか、食べたいものがあったんじゃないのかい?」
昼餉の饂飩よりも、甘いものが良いと強請られた。
万屋で売られている物ではなく、歌仙兼定手ずからの物が良いと求められた。
だからこうして、台所仕事を膝丸に押し付け、蔵に来た。材料となるものを示して、なにが食べたいか希望を聞いた。
ところが小夜左文字は、なにも言わなかった。要望を出しておきながら、仔細を一切語らなかった。
これでは打刀も、なにを作れば良いか分からない。後で膝丸や、へし切長谷部らから小言を喰らうだけで、良いことなどひとつもなかった。
「お小夜。お小夜?」
「……歌仙、今日。迎えに来ませんでした」
「ううん?」
あんなにも急かして来たのに、急変した態度に戸惑う。繰り返し名前を呼んで、せめて顔だけでも上げてくれるよう願えば、短刀はようやく、くぐもった小声で囁いた。
恨み節を聞かされて、想定していなかった返答にまた困惑する。
頭の上に疑問符を乱立させた男に臍を噛んで、小夜左文字は打刀の腹に額を擦りつけた。
「朝も、見送りに来ませんでした」
「どうしたんだい、いきなり。そりゃあ、悪かったとは思っているけれど」
ぐりぐり押し付けながら、低い声で唸った。八つ当たりめいた行動をとられた方は唖然として、困り顔で目を逸らした。
第一部隊が出発する時も、彼は台所にいた。朝餉の片付けに手間取って、動けなかった。
帰還した時も、そうだ。無人にするわけにはいかなくて、責任感から持ち場を離れなかった。
それが仕方のないことなのは、小夜左文字だって分かっているだろうに。
だのに文句を言われて、納得がいかない。道理に合わないと臍を曲げれば、不機嫌が伝わったのか、短刀の方から距離を取った。
後ろに下がって、睨みつけられた。拗ねた様子で小鼻を膨らませて、渦巻く不満を隠そうとしなかった。
「昨日は、歌仙、遠征でいませんでした」
「それが、どうかしたかい?」
「一昨日は、僕の手入れが終わるのが夜遅くて」
「ああ、そうだったね」
「その前も、理由は忘れましたけど、来ませんでした」
「んんん?」
過去へ遡り、不貞腐れた態度で空を蹴る。
彼が何に対して怒っているのか見当がつかず、目を眇め、歌仙兼定は顎を掻いた。
頭を捻り、首を傾げ、苛立ってぷんすか煙を吐いている少年を凝視した。なにか大きな思い違いをしている可能性に至って、その発言内容を振り返り、秘められた意図を懸命に探った。
文系なのだから、これくらい造作もないこと。
その割に時間をかけて思案して、彼は次の瞬間、凄まじい激痛に悲鳴を上げた。
「いっ!」
「もう良いです」
焦れた小夜左文字が、打刀の臑を思い切り蹴ったのだ。
弁慶の泣き所を的確に攻撃し、上背がある男を床に沈めた。苛立ちを発散し、溜飲を下げ、荒々しく息を吐き、不敵に笑って口角を歪めた。
ひとり癇癪を爆発させて、踵を返した。痛みに身悶え、呻く打刀には一瞥も加えなかった。
だが。
「いっつ、あ……ああ、ぐ、ううう」
一向に途絶えない喘ぎ声に一抹の不安を覚え、蔵を出る直前に恐る恐る振り返った。
歌仙兼定は背を丸め、蹴られた場所を抱え込んでいた。苦悶に表情を歪め、脂汗を流し、呼吸を乱し、激痛に耐えていた。
そんなに強く蹴ったつもりはなかったが、もしや骨に異常が現れたのか。
思い当たる節が全くないわけではない短刀は青くなって、躊躇して足踏みし、三秒悩んで来たばかりの道を戻った。
「歌仙」
もし深手を負っていたなら、一大事だ。
手入れ部屋は埋まっており、薬研藤四郎も修復中だ。自分の怪我ならどうとでも出来るが、他者の分は対処のしようがなくて、小夜左文字は冷たい汗を背中に流した。
最悪の可能性を頭に入れて、蹲る男へと手を伸ばす。
「捕まえた」
「うあっ」
次の瞬間。その手を絡め取られ、咄嗟に身を引いたが間に合わなかった。
寸前まで顰め面だった男が、したり顔でほくそ笑んだ。巧く行ったと口角を持ち上げて、驚き、目を見張る短刀に勝ち誇った笑みを浮かべた。
まんまと騙されたと気付くのに、少し時間が必要だった。
「ひ、卑怯です」
ハッとなり、短刀は喚いた。束縛を振り払おうと腕を振り回して、爪を立てて空を引っ掻いた。
悔しいかな、攻撃はいずれも打刀に届かない。安全圏で安堵の息を吐いて、歌仙兼定は真っ赤になって憤る少年に相好を崩した。
「文系だからね」
勝ち誇った顔で言って、自慢げに胸を張る。
策略を巡らせるのは得意、とでも言いたげな姿に臍を噛み、小夜左文字はまんまと引っかかった自分自身にも悪態をついた。
「こんな、ことで」
「ふふん。さあて、お小夜。君はなにが食べたいんだったかな?」
「知りません!」
悔しげに顔を歪める少年を見下ろし、歌仙兼定が目を眇めた。実に嫌らしい、含みのある眼差しを投げて、怒鳴られても平然と受け流した。
振り返ってみれば、短刀はほぼ答えを口にしていた。
直接的な表現ではなかったが、滅多にない甘え方を加味すれば、正解は自ずと導き出された。
こうやって声を荒らげ、吼えるのも、打刀の出した結論が正しいのを物語っている。
湯気が噴き出るくらい真っ赤になって、小夜左文字は羞恥に喘ぎ、唇を戦慄かせた。
「おや? いいのかい、そんなことを言って。とびきり甘くて、お小夜が大好きなものを用意してあげようと思ったのに」
「う、ぐ」
その美味しそうな色艶に相好を崩し、蕩けんばかりの笑顔で問うた。
低く、甘く、過分に色気を含んだ囁きにぐっと息を呑んで。
短刀は百面相の末に、観念したのか、口を窄ませ、目を閉じた。
吹風に露もたまらぬ葛の葉の 裏返れとは君をこそ思へ
山家集 雑 1335
2017/06/18 脱稿