まどふ心ぞ わびしかりける

「前田の様子がおかしい?」
 戦支度を解く間もなくそう言われたのは、十日近く続いた遠征任務がひと段落した日のことだった。
「うん。ボーっとしてるっていうか、落ち着かないっていうか。とにかく、変なんだよね」
「はあ……」
 帰ってくるなり信濃藤四郎に捕まって、平野藤四郎は緩慢に頷いた。具体性を伴わない説明に眉を顰めつつ、被っていた帽子を取り、それで顔を扇いだ。
 昨日までは遠征に出て、戻って、少しの休憩を挟んでまた遠征に出発、の繰り返しだった。任務自体はさほど難しくないのだけれど、とにかく手間ばかりが必要とされて、慣れていないと時間切れで失敗する可能性が高かった。
 遠征先で食事と睡眠を取っていたとはいえ、疲れはある。
 布団でゆっくりひと眠りしたかった身としては、後にして欲しいという気持ちが強かった。
 ただ振られた話に気になる点が多くて、無碍にあしらうのも出来なかった。
「変ですか」
「そう。何もないところで躓くし、目の前の柱にぶつかりに行くし。手もみ洗い中の洗濯物は破くし」
「それは、……困りますね……」
 仕方なく相槌を打ち、脇を通り過ぎていった太刀には軽く頭を下げた。帰還早々兄弟に捕まった短刀を労って、鶯丸は気遣い不要とでも言うつもりか、ひらひらと手を振った。
 審神者への報告は、部隊長だった蜻蛉切に一任していた。お役御免となった第四部隊は一旦解散となり、半刻もすれば別編成が組まれるに違いなかった。
 のんびり歩いて行く背中を見送って、平野藤四郎は信濃藤四郎に視線を戻した。彼もまた飄々とした太刀を眺めており、視線に気付いて背筋を伸ばした。
 両手を腰に当て、頬を丸く膨らませる。
「まあ、なんでそうなったかってのは、大体分かってるんだけど」
「はあ……ん?」
 憤然とした面持ちで吐き捨てられて、疲労感が拭えない短刀は愛想に欠ける相槌で応じた。
 理由を知っているのなら、彼の方でさっさと対処すればいいだけの話ではないのか。それを何故わざわざ自分に報告するのか、兄の真意が分からなかった。
 確かに平野藤四郎は、兄弟間でも前田藤四郎とは殊に縁が深い。外見も似通っており、間違って名前を呼ばれるのは日常茶飯事だった。
 だからといって、なにも彼の世話係を務めているわけではない。
 調子が悪い時は、誰にだってある。前田藤四郎にも不調の日くらいあるだろう。
「どうせ大典太さんと、喧嘩でもしたのでしょう」
「え、すごい。なんで分かるの」
 あのしっかり者で、几帳面な短刀がぼんやりするとしたら、原因はひとつしか思いつかない。
 ため息混じりに呟けば、信濃藤四郎は目を丸くして仰け反った。
 その表情も、大概失礼だ。
 分からない方がどうかしている、と言いかけたのをぐっと我慢して、平野藤四郎は右手に持った帽子を被り直した。
 静かに歩き出せば、赤髪の短刀は慌てて追いかけて来た。左斜め後ろにつき、時々横に並んで、語りたくて仕方がない表情で目を輝かせた。
「放っておけば、そのうち仲直りするでしょう」
 それがあまりにも無粋に思えて、平野藤四郎はちょっとだけ語気を荒くした。
 強めの眼差しで兄を仰ぎ見れば、圧倒されたのか、信濃藤四郎は半歩下がって頬を引き攣らせた。
「いや、それがさ~。俺だってさ、最初はそう思ってたんだよ。でも、よく見てたら、ちょ~っと喧嘩とは違うみたいなんだよね」
「違うんですか」
「勘だけど」
「勘……」
 前田藤四郎は粟田口の短刀の中でも小柄な部類に入るが、理知的で、落ち着いた性格をしていた。
 真面目で、心優しく、時に手厳しい。曲がったことが嫌いで、律儀で、鳥が好きだった。
 その号が示す通し、前田家に伝来し、天下五剣の大典太光世と長く一緒だった。但しあちらは蔵の中に封印されていたので、厳密には、共に過ごしたとは言い難いが。
 有り余る霊力を重宝がられながらも、それ故に忌避されて来た太刀は、その影響で人付き合いが苦手だ。後ろ向きの思考の持ち主であり、名刀と謳われながら己に自信がない、という有様だった。
 本丸に顕現した当初は、特にその傾向が顕著だった。だが所縁を持つ短刀らが盛大に構い倒した結果、少しずつではあるが、ここでの生活に馴染み始めていた。
 その中でも前田藤四郎が、特に彼を世話していた。
 面倒見がよく、少々お節介なところもある刀なだけに、丁度良い配役だったと言えるだろう。
 だのにこの数日、前田藤四郎は大典太光世を相手に、妙に余所余所しい態度を取っているという。
 大典太光世の方も、前田藤四郎に話しかけようとしては諦めて、お互い目を合わせようとしないのだそうだ。
 他人行儀で、遠慮が目立つ。以前は仲が良過ぎる、というくらいになにかと一緒だったのに、近頃では共に命じられた馬当番でも、別個に行動していた。
「それは確かに、変ですね」
「でしょう?」
 喧嘩をして、謝るに謝れない状況が続いている可能性は無きにしも非ずながら、そもそもあのふた振りに喧嘩が成立すること自体、疑問だ。
 前田藤四郎はあれで意外に短気な一面があり、頑固だが、大典太光世は違う。もし短刀に癇癪をぶつけられたら、自分は悪くなくても勝手に謝りそうな雰囲気だった。
 どんな不条理をぶつけられても、耐え忍び、飲みこんでしまうだろう。
 そういう懐の深さ、広さが彼の良い面であるが、何ひとつ言い返そうとしないところは、明らかに欠点だった。
「分かりました。後で様子を見てきます」
「うん、お願いするね。平野にだったら、なにがあったか、教えてくれるだろうし」
 兄弟間でも特に仲が良い相手になら、だんまりを決め込んでいた短刀でも、心を開くに違いない。
 既に何度か挑戦し、その度に失敗して来た信濃藤四郎は、平野藤四郎の返事を受け、嬉しそうに両手を叩き合わせた。
 眼差しは好奇心に彩られ、結果を教えるよう、言外に告げていた。下世話な話に興味津々であり、あまり褒められたものではなかった。
 だが彼だって、一応は弟を心配している。
 でなければ玄関先で、遠征部隊の帰還を待ち構えたりなどしないはずだ。
 編成解除の旨が通知される前から話しかけられて、面食らった。どんな重大事案が発生したのかと、身構えざるを得なかった。
 一瞬脳裏を過ぎった想像が、杞憂に済んで良かった。兄弟の誰かが折れた、など言われたらどうしようと思い悩んで、予想以上に気楽な悩みをぶつけられたのにホッとした。
 けれど、これはこれで厄介かもしれない。
 部屋に戻って、平野藤四郎は己の本体ともいえる刀を刀掛けに預けた。帽子を脱ぎ、装具を解き、箪笥に収納されていた内番着に着替えた。
 柔らかな木綿素材で身を包み、深呼吸を二度、三度。
 そうすることで任務による緊張感が完全に抜け落ちて、本丸に帰ってきた実感がむくむくと湧き起こった
「それで、信濃兄様。前田は、今、どちらに?」
 粟田口の短刀は、個室ではなく、大部屋を共同で使っていた。鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎、鳴狐に一期一振は個室を与えられているが、時々こちらに顔を出し、布団を敷いて一緒に寝起きすることもあった。
 だが現時点で部屋にいるのは、平野藤四郎と信濃藤四郎だけ。
 がらんどうの空間を見渡しての質問に、赤髪の少年はやおら障子の向こうを指差した。
 そちらはには中庭があり、部屋から直接出入り出来た。背の低い灌木が連なり、小さな池があり、その向こうに母屋の壁がそそり立っていた。
 本丸の屋敷は大きくふたつの棟に分かれ、北側が刀剣男士の居住区、南側が座敷や台所といった施設が集まる母屋になっていた。
 両者は屋根つきの渡り廊で繋がって、他に迂回路は用意されていない。中庭を縦断する手段もあるにはあるが、一旦地面に降りなければならず、手間であるのに変わりなかった。
 広間の障子は半分開かれ、穏やかな日差しが注ぎ込まれていた。畳に落ちる影はやや斜めに傾き、台形になっていた。
 聞こえるのは鳥の囀りと、練武場からと思われる勇ましい雄叫びばかり。
 他の兄弟たちは、母屋にいるのだろうか。
 そんな事を考えながら注意深く窺っていたら、軒を支える柱と同化した影に気が付いた。
「え」
 微動だにせず、まるで置物のよう。
 それが良く見知った相手であると理解するのに、平野藤四郎は数秒の時が必要だった。
「今朝からず~っと、ああなんだけど」
「これは、随分と……重傷ですね……」
 陶器で出来た狸の調度品ではあるまいに、外を眺め、身動ぎすらしなかった。ふた振りの会話は筒抜けであろうに、全く反応せず、振り返る素振りも一切なかった。
 平野藤四郎が出陣から帰ってきた時、いの一番に出迎えてくれた前田藤四郎は、どこへ行ってしまったのか。
 まるで別存在だと愕然として、言葉を続けることが出来なかった。
 ここまで酷いとは思っておらず、頭が痛くなった。いったい大典太光世との間になにがあったのか気になって、ふと、思い当たる節がある気がした彼は目を瞬かせた。
 自身も以前に、似たような境遇に身を置いたことがなかったか。
 百年単位で昔の話ではない。本丸に来て一年を過ぎた辺りの、丁度花が盛りの季節だった。
「前田」
「んじゃ、よろしく」
「うわあっ」
 もしや、と胸が騒ぎ、身体が前に出かかった。そこに信濃藤四郎の、何気ない一撃が肩を見舞って、平野藤四郎は呆気なくつんのめった。
 倒れこそしなかったけれど、心臓が口から飛び出るかと思った。
 肝を冷やし、呵々と笑って出ていく兄弟を軽く睨んで、彼は額の汗を拭って呼吸を整えた。
 胸に手を添えて鼓動を数え、唇を舐めた。
 遠征での疲れをこの一時は忘れて、慎重に、よく似た兄弟刀との距離を詰めた。
「前田、平野です。ただいま戻りました」
「……っ」
 驚かせないよう充分注意したつもりだが、それでも駄目だった。
 横から覗き込むように話しかけられて、前田藤四郎はビクッと肩を跳ね上げた。
 今になって初めて存在を知った、と言わんばかりの表情を向けられて、苦笑を禁じ得ない。口角を持ち上げて目を細め、平野藤四郎は縁側に腰を下ろした。
 爪先を軒下へと垂らしても、地面との間には隙間が残った。太刀や打刀らならば楽に足が着く高さでも、短刀の彼らには巨大な障壁同然だった。
 靴下に覆われた指を当て所なく揺らし、返事を待つ。
 穏やかに微笑んで見つめ続ける彼に、内番着にも外套を愛用する少年は、ハッと息を呑んで姿勢を正した。
「あ。ああ、はい。ごくろうさまです」
「やっと終わりました。これにて、お役御免です」
「それは、よかったです」
 かなりの時間を費やし、現状を理解したようだ。前田藤四郎の双眸に光が宿って、どこか力なかった口調も、普段通りに戻った。
 心から安堵した様子で言われて、平野藤四郎は頬を緩めた。目尻を下げて頷いて、疲弊している太腿を軽く捏ねた。
 あまり厚くない筋肉を揉みほぐし、滞っていた血の巡りを活性化させた。膝を越えて脹ら脛まで手を伸ばして、前屈みに腰を折った。
 ついでに背中の筋肉も伸ばして、最後に両腕を肩より高く掲げ、伸ばした。空中に創り上げた仮想敵を殴り飛ばして、深呼吸でひと段落つけた。
 横で見守っていた前田藤四郎は、最初のうちこそ笑顔で見守っていた。けれど沈黙が長くなるにつれ、目線は沈み、猫背になった。
「はあ……」
 ため息を隠そうとしない、物憂げな表情が切ない。
 膝に転がした指を弄り回すのも、恐らく意識してのものではないはずだ。
「どうかしたんですか、前田」
「えっ。あ、……いえ。べつに」
 信濃藤四郎の言葉が蘇り、目の前の光景に重なった。
 明らかになにかあったと分かる素振りなのに、理由を語ろうとしない。乱藤四郎や薬研藤四郎も心配しているのに、当の刀は問題無く振る舞えていると信じきっていた。
 壁にぶつかる、ちょっとした段差で転ぶ。料理当番になれば、塩と砂糖を間違える。挙げ句大典太光世と馬当番になった日には、言葉足らずで意思疎通が果たせず、馬を庭に解き放ってしまった。
 ソハヤノツルキが頑張って捕まえてくれたが、立ち入った場所によっては、馬の脚が折れていた。
 事の次第を知ったへし切長谷部はかんかんで、集中力が欠如していると両者を叱った。
 こってり絞られて、これで元の鞘に収まってくれれば良かったのだが、状況は改善するどころか、悪化の一途だった。
 ついには大典太光世が、蔵に引き籠もって出て来なくなった。
 信濃藤四郎や愛染国俊らがなんとか引っ張り出そうと試みたが、自分は駄目な刀だと言って、説得に耳を貸さなかった。
 このことを、前田藤四郎はまだ知らない。
 教えるかどうかは任せると、一切の責任を押し付けられた。正直荷が重いが仕方ないと諦めて、平野藤四郎は正面に向き直った。
 空は青く、雲は白い。囀っている鳥の姿は見えず、気まぐれに吹く風が樹木を揺らしていた。
 長閑で、穏やかな風景に、物々しい怒号が混じり合う。
 同田貫正国を相手にしているのは、大和守安定か、和泉守兼定か。
 さぞや暑苦しい光景だろうと肩を震わせ、少年は腿の上で両手を結びあわせた。
 前田藤四郎は俯いて動かず、自ら喋り出す気配もない。
「大典太さんと、なにか。ありましたか?」
 待っていても埒が明かないと覚悟を決めて、平野藤四郎は静かに問いかけた。
 返事はなかった。
 先ほどのような反応すら見受けられず、粟田口のひと振りは怪訝に眉を顰めた。
「前田?」
「ありません、なにも。みなが心配するようなことは、なにも」
「前田……」
 促せば、前田藤四郎は緩く首を振った。沈痛な面持ちで呟いて、自嘲的な笑みを浮かべた。
 口角は片方しか持ち上がらず、顔の筋肉は引き攣っている。無理に笑おうとして失敗した、実に不細工で滑稽な姿だった。
 あまりにも哀れな表情に、返す言葉が見つからない。平野藤四郎は絶句して、紺色の股袴を掻き毟った。
 腿の上に複数の皺を作り出し、掌で押し潰した。布の表面をぐしゃぐしゃにして、伸ばして、を三度か四度繰り返して、胸を反らして深く息を吸いこんだ。
 言い知れぬ焦燥感に、不安から怯みたがる心を宥めた。慌てず、冷静であるよう努めて、左右を窺い、声を潜めた。
 近くで聞き耳を立てている者がないか調べて、相変わらず静かな室内に胸を撫で下ろした。さりげなさを装って距離を詰め、良く似た背格好ふた振り、肩を寄せ合って座り直した。
「では、前田は今、何を憂いでいるのでしょう」
 顔は見ず、前を向いたまま問いかける。
 平野藤四郎がいない間、彼は兄弟や仲間から、沢山言葉をかけられたのだろう。
 優しく、時に手厳しい質問を投げかけられて、都度大丈夫だ、と返してきたに違いない。
 実際、彼は隠し事をしている風ではない。大典太光世となにかあったのは確かだが、それが今回のことの、直接の原因ではなさそうだった。
 訊き方を変えた少年に、前田藤四郎はピクリ、と身を揺らした。彼もまた正面を向いたまま、膝に並べた手を握り、引き結んでいた唇を何度か開閉させた。
 言おうか、言うまいかで躊躇して、伸びあがったり、縮んだり。
 余計な茶々を入れずに辛抱強く待つ兄弟を窺って、その瞳を大きく歪めた。
「刀、とは。僕たちは、いったい、なんなんでしょう」
 顔をくしゃくしゃにして、鼻から大きく息を吸って。
 絞り出すように呻かれて、平野藤四郎はぽかんとなった。
「……それは、また。随分と壮大な話ですね」
「平野、僕は真剣に悩んでいるんです!」
「すみません、すみません。殴らないでください、前田。痛いです」
 失礼な話、冗談かと思った。突然宇宙とはなにか、と訊かれたに等しくて、拍子抜けして声が高くなった。
 それが気に食わなくて、前田藤四郎は右手を高く掲げると、一気に振り下ろした。左手も同じように動かして、交互にぽかぽか、平野藤四郎を殴り付けた。
 癇癪を爆発させて怒鳴られて、急いで謝罪するが、声の調子が戻らない。聞きようによっては笑っている風に感じられたようで、打撃はなかなか止まなかった。
 打開策として距離を広げ、後ろへ逃げた。一撃ずつは軽かったが、なにせ手数が多くて、ところどころ薄ら赤くなっていた。
 痛みはないに等しいものの、殴られた、という意識自体が厄介だ。しばらく警戒せざるを得ず、荒くなった呼吸を整えて、平野藤四郎は咥内の唾を一気に飲み干した。
「落ち着いてください、前田。僕たちは、ええと……刀剣男士、です。刀の付喪神であり、主君の命に従い、歴史修正主義者の目的を挫くために、在ります」
 心を鎮め、ひと息に捲し立てた。
 それはこの本丸に顕現する時、現身と共に与えられた、使命とでも言うべきものだった。
 刀剣男士は審神者に従い、敵を討つ。
 敵とは時間遡行軍であり、時の政府に仇なす者のことだ。
 彼らは数百年の時を巡った、付喪神。数多の人間の手を経て、その意志を引き継ぐ存在でもあった。
「はい。そうです。その通りです」
「前田、急にどうしたのです」
「平野、では、僕たちは。主君にとって、いかなる存在なのでしょう」
 ただこれは、誰もが認識していることであり、今更確認を要するものではなかった。
 前田藤四郎も承知しており、当たり前のように頷いた。認め、確固たるものとして受け止めて、その上で重ねて平野藤四郎に訊ねた。
 いったい、彼は何を気に病んでいるというのか。内容は哲学的な方向へ傾いており、即答するのは憚られた。
「それは、勿論。歴史修正主義者に対抗するための、武器であり……」
 言いかけて、違う気がして口籠もる。
 顔を背け、視線を泳がせた短刀に、前田藤四郎は浅く唇を噛んだ。
「ならば、僕たちにとって。主君とは」
 呻くような悲痛な声に、聞いている方まで胸が締め付けられた。
 己らの身のあり方は、常に意識の片隅にありながら、なるべく目を逸らしてきた問題だ。
 審神者がいなければこの本丸は成り立たず、刀剣男士がいなければ本丸は成り立たない。男士にとって審神者とは絶対の存在であり、常に傍らにあり、守り抜くと誓った相手だった。
 しかし人は、いずれ死ぬ。
 その命は、百年と満たない。しかもこれは、この世に誕生した瞬間から数えての年数だ。
 彼らが顕現した時、審神者は既に一人前の存在だった。ならばあの者には、あとどれだけの寿命が残されているのだろう。
 そんなこと、誰にも分からない。ただ分かるのは、あと百年も残っていない、ということだけだ。
 数多の主の下を渡り歩いてきた彼らにとって、今の主が最後のひとりになる可能性は高い。
 つかず離れず、そばに居続けたいと願っても、それは決して叶わない。
 だからこそ、刀剣男士は審神者に尽くす。残り僅かかもしれない時を、一秒たりとも無駄にしないために。
 それなのに。
「僕たちは、主君を……主君だけを。お慕い、せねば。ならないのに」
 喉を掻き毟り、前田藤四郎が喘いだ。懸命に息を吸い、吐き出して、頬につう、と雫を零した。
 爪を立てて皮膚を抉るのを止めさせて、平野藤四郎はそっと瞼を閉じた。視界を一瞬だけ闇に染めて、苦悶する兄弟の頭を撫でた。
 乱暴になり過ぎない程度に力を込め、栗色の髪を掻き回した。綺麗に切り揃えられたものをぐしゃぐしゃにして、寝癖よりも酷い有様に仕上げた。
「なにを、するんですか!」
 当然のように、前田藤四郎は反発した。
 声を荒らげ、勇ましく吠えた。不躾な手を跳ね除けて、目を吊り上げて牙を剥いた。
 直前までの陰鬱な雰囲気は四散して、跡形もなかった。憤慨し、煙を噴き、ぽかぽか殴りつけて来た時のように元気だった。
「あは、あはは。いいではありませんか。とても素敵だと思いますよ」
「冗談はやめてください」
 腹を抱えて笑われて、恥ずかしいやら、悔しいやら。
 勢い余って平野藤四郎の肩を突き飛ばした少年は、二秒後にハッとして、気まずげに顔を背けた。
 頬を赤くして口を噤んだ兄弟に相好を崩し、後ろ髪を短く刈り上げた短刀が、詫びの代わりに栗色の髪を梳いた。
 手櫛で整える間、お互い無言だった。前田藤四郎の後ろに回り込んで、平野藤四郎は心細く見える肩をぎゅっと抱きしめた。
「平野」
 布越しでも伝わって来る体温は心地よく、気持ちを和らげてくれた。
 相談に乗る、と近付いて来た刀は何振りかいたけれど、優しく包み込んでくれたものはなかった。
 この微熱が、心地良い。
 温もりに深く安堵して、前田藤四郎は頬を緩めた。
「良いのではないでしょうか、それで」
「……え?」
 そこに静かに囁かれて、彼は目を真ん丸に見開いた。
 驚き、反射的に伸びあがった。結果的に平野藤四郎を押し返す形となり、意図を誤解した少年はそのまま離れていった。
 違うと言いたかったのに言葉が出ず、惚けた顔のまま見つめ返すしかない。
 唖然と口を開いて凍り付いた前田藤四郎に、良く似た顔の短刀は首を竦めて苦笑した。
「大典太さんのことが、好きなのでしょう?」
 さらりと告げて、平野藤四郎が目を細める。
「……え。え、ええと……ってええええええええ!?」
 一瞬意味が理解出来なくて、前田藤四郎はぽかんとなった。思考が停止して、直後に急加速して、響き渡る大声は見事に裏返っていた。
 気が動転して、縁側に腰掛けたままじたばた暴れ、逃げようとして失敗した。寄り掛かっていた柱に後頭部を激突させて、その状態のまま尚も足を交互に動かした。
 頭が状況を把握せず、身体が勝手に動いていた。茹であがった蛸のような顔をして、最終的に仰向けに倒れ込んだ。
「ぎゃっ」」
 脚が空回りし続けて、腰が下がっていった結果だ。挙げ句の果てには縁側の下に滑り落ち、ごちん、と痛い音を響かせた。
「大丈夫ですか、前田」
 刀剣男子は皆丈夫だが、頭を打っていたら大変だ。
 心配した平野藤四郎に真上から覗きこまれ、前田藤四郎は林檎よりも鮮やかに色付いた頬を痙攣させた。
 目元は潤み、鼻から息を吸えば途中で詰まった。それでもずびずび、音立てて啜って、彼は唇を戦慄かせた。
「ちが、ちがい、ちが……あああ」
 懸命に否定しようとするものの、呂律が回らず、最後まで言えない。
 それは助け起こされた後も同じで、頬の赤みは一向に引かなかった。
 縁側に這い上がり、熱を持った肌を両手で覆い隠して、ぶすぶすと焦げた煙を立て続けに宙へ放つ。
 なんともいじらしい態度に口元を綻ばせ、平野藤四郎は今一度、勝手に乱れた栗色の髪を整えてやった。
「良いんです、隠さなくて。みんな知ってますから」
「みっ……!」
「でも前田が、今、大典太さんに向けている気持ちは。きっと、みんなが思っている『好き』とは少し違う。そうでしょう?」
 淡々と言われて、前田藤四郎の声がまたもやひっくり返った。挙動不審に身を捩って、激しく狼狽しながら動き回るのを、平野藤四郎は穏やかに宥めた。
 畳みかけるように問うて、真正面から瞳を覗き込んだ。
 視界いっぱいに広がった兄弟の顔に惹きこまれて、竦み上がっていた少年は跳ね上がっていた肩を降ろした。
 二、三度の瞬きの後、落ち着いて、ゆっくり首を縦に振った。
 そのまま俯いてしまったので、首肯したかどうかは微妙な線だ。けれど否定しなかったのだけは確実で、平野藤四郎は慰めるように細い肩を叩いた。
 とんとん、と一定の拍子で続けて、腕が怠くなる前に引っ込める。
 その頃になってようやく、前田藤四郎は顔を上げた。
「どうして、平野には。分かるんですか」
 こんな風に言ってくれた刀は、ひと振りもいない。
 何故彼だけが心に寄り添い、導けるのか。
 不思議に思って投げかけた問いに、彼は控えめに、照れ臭そうに、それでいてどこか誇らしげに微笑んだ。
「僕にも、覚えがありますから」
「え?」
「主君に仕え、その願いに準ずるのが、僕の使命です。無論、主君はとても大切です。けれど僕には、主君とは別の意味で、とても愛おしいと思える方がいます」
 左手を胸に添え、平野藤四郎は一言一句噛み締めるように囁いた。途中からは目を瞑り、祈りを捧げるかのように頭を垂れた。
 刀剣の付喪神である彼らにとって、主君に向けて抱く感情は、忠義に根差したものだ。けれど前田藤四郎が大典太光世に注ぐ眼差しは、それとは趣を異にしていた。
 この感情の名前を、知識としてなら知っている。
 だけれど、よもやそれが己に芽生えるとは思ってこなかった。
「鶯丸さん、ですか?」
「ええ」
 心当たりに行き着いて、前田藤四郎は恐る恐る訊ねた。
 返事は明朗で、健やかだった。一瞬の迷いすらない、見事なまでの即答ぶりだった。
 大きく頷いた表情は爽やかで、自信に満ちている。ほんのり気恥ずかしそうにしているものの、それ以上に誇っている雰囲気だった。
 平野藤四郎が輝いて見えて、変な感じだった。あまりの眩しさに、長時間見つめ続けるのが難しいくらいだった。
「それ、は。僕や、いち兄や」
「いち兄のことも、勿論大好きです。前田も、信濃も、兄弟みんな、大事です。でも、鶯丸様は、やっぱり違います。特別なんです。巧く説明出来ないのがもどかしいですが、簡単に言うと、そうですね。……どきどき、します」
 確かめるのが恐ろしいのに、重ねて訊かずにはいられない。
 びくびくしながらの質問に、平野藤四郎は臆面もなく言い放った。
 胸に添えた手を握って、最後のひと言だけ、声を潜める。
 俯き加減で囁かれたその言葉は、普段耳にする彼の声と、ほんの少し趣が違っていた。
「っ」
 自分までドキッとしてしまって、前田藤四郎は知れず赤くなった。訳もなく羞恥心が湧き起こって、同時に彼が羨ましくなった。
 鶯丸と居る時の平野藤四郎は、兄弟らと一緒にいる時と、確かに少し違っていた。
 雰囲気が丸くなる、とでもいうのだろうか。空気がいつになく穏やかだった。互いを慈しみあい、尊重し合っているのが感じられて、こちらまで嬉しくなったものだ。
 縁側で並んで茶を飲んでいる彼らを幾度となく見てきたが、短刀が挙動不審になっている瞬間に遭遇した試しはない。
 本当にどきどきしているのか疑っていたら、気取った短刀が首を竦めた。
「余裕ぶって見えるかもしれませんが、これでも結構、必死なんですよ」
「とても、信じられません」
「鶯丸様は、だって。いつも突拍子無いですから」
「あ、ああ……」
 古備前の太刀は、爺を自称する三日月宗近と並んで、独特の雰囲気があった。常に自分の調子を崩さず、他と歩調を合わせもせず、我が道を真っ直ぐ突き進んでした。
 常識外れな面が多々あって、博学かと思えば、基本的なことを知らなかったり。その度に短刀は驚かされ、新鮮な気持ちになり、不思議と心が騒いだ。
 前触れもなく、唐突に思いつきで行動するので、ついていくだけでも大変だ。思考を先回りするのが難しく、だからこそ一緒にいて、楽しかった。
 粟田口の兄弟間では決して出ない発想が連発して、少しも飽きない。
 日々新しい発見に溢れており、退屈している暇がなかった。
「それは、とても。楽しそうです」
 指折り数えて説明する平野藤四郎の顔は緩み、心の襞が綻んでいるのが伝わってきた。
 聞いているだけでほっこり温かな気持ちになって、羨ましさが膨らんでいく。
 感嘆の息とともに感想を述べた前田藤四郎に、彼を良く知る短刀は目を眇めた。
「前田は、どうですか。大典太さんと一緒の時、僕には、前田がとても眩しく見えます」
「ええ、そんなことは」
 水を向けられて、おかっぱ頭の少年は悲鳴のような声を上げた。首を横に振って髪を膨らませて、心当たりを探して眉を顰めた。
 大典太光世は、とにかく世話がかかる男だ。鶯丸もそうだが、あれとは少々意味合いが異なった。
 根暗で、物事をなんでも悪い方向に考えたがる。すべて自分が悪いのだと言わんばかりに卑屈に構え、他者と距離を取りたがった。
 誰も気にしないような些細なことを、いつまでも引きずる。明石国行とは別の理由で、色々とやる気がない。
 真面目なのだが、その真面目さ故に、己の置かれた状況を正しく理解していた。求められておきながら、蔵の隅に追いやられていた過去を引きずって、いつか見放されるのではないかと、常に怯えている節がある。
 本丸にいる仲間たちに――前田藤四郎にも、そのうち愛想を尽かされてしまうのでは、と。
 前田藤四郎は、それが哀しい。
 だから信じて欲しくて、躍起になった。あれこれ構い倒して、蔵の外はとても素晴らしいのだと、懸命に伝えようとした。
 必死だった。
 たとえ少しずつでも、太刀の心が解れていくのが感じられて、嬉しかった。
 楽しかった。
 彼を笑顔に出来た、自分が誇らしかった。
「……そう、なんでしょうか」
 そんな自分が、周囲からどういう風に映っていたか、考えたことなどなかった。
 客観的な感想を述べられて、照れ臭い。しかし決して不快ではないし、そう言ってもらえて心強かった。
「前田、思うのです。なぜ主君は、僕たちに、なにかを『愛しい』と思う心をお与えになったのか」
「いとしい、ですか?」
「ええ。これは、とても不思議な感情です。先も言いましたが、主君に尽くす為だけに僕らが在るのであれば、忠義の心さえあれば、それで良かったはずなんです」
 刀剣男士は、刀の付喪神。
 その性格は、歴々の持ち主に依存する。ほかにも置かれた環境や、目的や、刀を取り巻いていた様々な願いや祈りが、主の願いを叶えたい、という根幹部分に絡みついていた。
 そう、それだけなら、なにも問題は起きなかった。
 だのにどういう不具合なのか、刀剣男子には不要な感情が付与されていた。忠節に基づく情報だけが付随していたなら、彼らが迷い、悩み、煩悶としながら日々を過ごすことはなかったはずだ。
 特定の刀相手に手を伸ばすのを躊躇し、肩と肩が触れ合うだけでも喜ばしく感じるのは、審神者への忠義心と別のものだ。歴史修正主義者を屠るためだけに彼らが存在するなら、本来必要たりえないものだった。
 しかし現に、この感情は存在する。
 それは彼らそれぞれの胸に宿り、彼らを動かす原動力のひとつとなっていた。
「いち兄を尊敬する気持ちも、です。僕たちはいち兄を、僕たちを率いるひと振りの刀、として見ていない。違いますか」
「言われてみれば」
 一期一振が傷を負えば哀しいし、心配になる。だから怪我をして欲しくないし、無事出陣から帰ってきたら嬉しかった。
 彼に沢山構って欲しくて、気に掛けて欲しい。反面、叱られると辛い。時に反発したくなり、落ち込んでいるのを見ると、元気付けたくなった。
 単に彼を長兄として敬うだけなら、説教に反論せず、どんな不条理だって黙って受け入れていた。けれど現実は、そうではない。彼が好きだからこそ、間違った考え方をして欲しくなくて、嫌われる覚悟で意見したことだってあった。
 そんなこと、深く考えたことがなかった。当たり前として受け止めており、一度も疑わなかった。
 平野藤四郎に言われなければ、この先も気に留めずに過ごしていただろう。
 目から鱗が落ちて、驚嘆が隠せない。
「平野は、すごいですね」
「いいえ。これは、鶯丸様の受け売りなんです」
「鶯丸さんの?」
「僕たちは、不要なものを持ちすぎている、と」
 陽の当たる縁側で、いつものように茶を飲みながら寛いでいた時の会話だろうか。
 当時を思い出しながら、湯飲みを持つ仕草をした平野藤四郎を眺めて、前田藤四郎は緩慢に頷いた。
 不要なものとはなにか、を考えて、真っ先に思い浮かんだのはこの身体だった。
 刀を握り、敵と戦う為には器がいる。概念でしかない付喪神を宿すのは、時の政府と審神者が用意した、人に似せて作った現身だった。
 各刀の特性に合わせて設計されており、外見には個性が顕著に表れた。だがそれは必要な部分であり、特に問題視しなかった。
 気になったのは、その再現性だ。
 人に似せるのは構わないが、似せ過ぎなのだ。一日最低三食必要で、一日の三分の一近い睡眠時間が欠かせない。傷を負えば血が流れ、痛みが生じ、身動きが取れなくなった。
 刀をただの武器として扱うには、あまりにも効率が悪すぎる。だのに審神者は、これを改めようとしない。
 なぜなのか。
「鶯丸さんは、なんと?」
「不要と思うから、不要に感じる。必要とされたから与えられたのだと、そう思えば良い、だそうです」
「は、あ」
 興味を惹かれ、前田藤四郎は前のめりになった。だが得られた回答は、禅問答か、と言いたくなるものだった。
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、ぽかんと目を丸くする。
 そんな間抜け顔を笑って、平野藤四郎は空中に円を描いた。
「僕は、繋がりを作るためなのだと、思います」
「繋がり」
「ええ。僕たちは、ひと振りずつでは弱いです。けれど隊を組み、仲間を信頼することで、本来持ち得る以上の強さを発揮します。それは、前田も、覚えがあるでしょう」
「はい」
 最初に描かれた円の隣に、もうひとつ円が描かれた。
 一部が重なり、交わった部分がある。そこを指し示し、平野藤四郎は言葉を続けた。
「もし僕たちが、主君への忠義心ひとつで行動していたら。勿論、必要とあれば共闘しますが、仲間内へ向ける視線は、疎かになりがちです」
「……はい」
 彼を真似て、前田藤四郎も縁側の床板に指を走らせた。いくつも、いくつもの円を並べて、思い出したのは顕現した直後での戦闘だった。
 勝手が分からず、目の前の敵を相手にするだけで精いっぱいだった。周囲を気にする余裕がなくて、同じく初陣だった秋田藤四郎が深手を負ったのに気付いてやれなかった。
 あの時は、人の身で活動するのに慣れていなかった。
 だが果たして、それだけが理由だろうか。
 本丸で邂逅した短刀と、兄弟だと言われても、すぐにはぴんと来なかった。意思疎通が果たせていたとは、とても言えなかった。
 今は違う。
 きっと前より上手く立ち回れるに違いない。
「不要だけれど、必要な、もの」
 ここで暮らしていくうちに、芽生えたもの。もしかしたら最初からあったのかもしれないが、気付かずに見過ごしていたもの。
 少し分かった気がして、前田藤四郎は顔を上げた。
 目が合った平野藤四郎と頷きあって、湧き起こる興奮に頬を紅潮させた。
「いち兄は、僕たち兄弟を、平等に慈しんでくれています。贔屓せず、不公平にならないように。でも時々、それでは満足できないことが、あるでしょう?」
「あります。でも、それはいけないことだと思って、ずっと我慢してきました」
「僕もです。そして、いち兄では、頑張れば我慢出来てしまうんです」
「では、鶯丸さんでは?」
 思い当たる節がぼろぼろ出て来て、堰が切れたように早口になった。お互い距離を詰め、額を小突き合わせ、うんうん頷き合って興奮を高めた。
 そうして話が盛り上がり、最高潮に達しようかというところで。
 質問を受けた平野藤四郎が、不意に黙り込んだ。
 勢いのまま問いかけた前田藤四郎は、訊ねた瞬間凍り付いた短刀に首を捻った。
 てっきり即答されると思っていただけに、意外だ。
 怪訝に思って返事を待っていたら、黙り込んだ少年の顔が、下からじわじわ赤らみ始めた。
 耳の先まで真っ赤に染めて、両手で額から目元を覆い隠した。鼻と口元は外し、気道だけは確保して、俯き、背中を丸めて小さくなった。
「それは、訊かないでください」
 猫の子のように身体を捩った短刀が、蚊の鳴く小声で訴えた。
 羞恥に襲われて、今すぐにでも消えてしまいたい衝動に駆られている。いったい彼が何を思い浮かべているのか、前田藤四郎には皆目見当がつかなかった。
「平野。平野?」
「嫌です。思い出させないでください。あんな、あんな、情けない……」
 心配になって呼びかければ、地の底から響くような呻き声が聞こえた。
 両耳を塞いで嫌々と首を振る姿は異様で、過去に類を見ない光景だった。
 彼と鶯丸の間に、どのような事が起きたのだろう。非常に気になるものの、追及するのも可哀想に思えて、好奇心と良心の天秤はぐるぐると回り続けた。
 最終的に、辛うじて良心が勝った。
 いつか平野藤四郎の方から語り聞かせてくれるのを期待して、胸の中の宝箱にそっと仕舞い込む。
「と、とにかく。僕たちは、いち兄の前では良き弟であろうと振る舞っていますが」
 そのまま黙って彼の復活を待っていたら、気を取り直すかのように、咳払いが聞こえた。
 実に強引な話題の転換に、苦笑しつつも頷いて、前田藤四郎は己の気持ちを噛み締めた。
「分かります。とても……とても、よく」
 俯き、己の指先をじっと見る。五つ並んだ小さな爪は、どれも綺麗な卵形をしていた。
 大典太光世の爪は、これと随分違っていた。横に幅が広く、短い。指先の大部分を占めており、厚みも短刀の倍近くあった。
 深爪気味で、指自体も肉厚だ。掌はごつごつしており、肌触りは決して良くない。
 だのにあの手が、心地よかった。伝わって来る少し低めの熱が嬉しくて、ずっと触れていたかった。
 一期一振には、そんな風に思わない。褒められ、頭を撫でられるのは好きだけれど、一刻以上そうされたいかと訊かれたら、微妙な顔をしなければならなかった。
 大典太光世相手だと、前田藤四郎は我が儘になった。
 聞き分けが良い素振りを見せながら、一方で頑なだった。
 彼が、好きだ。
 けれど審神者への忠義が邪魔をして、彼をそう思うのがいけないことだと感じ、距離を取った。
 一時の気の迷いと断じ、離れていればいずれ冷めると信じた。
 試みは、上手く行かなかった。
 向こうから近付いて来ようとするから、逃げるような素振りになってしまった。それで太刀が落ち込む姿が目に入って、苦しくてならなかった。
 ここで折れてはいけないと、心を鬼にして頑張った。なるべく目に入れないようにして、顔を合わさずに済むよう行動した。
 そうしたら今度は、信濃藤四郎や愛染国俊たちが、喧嘩でもしたのかと話しかけて来た。
 違うのに、事情を説明出来なくて、だんまりを決め込むしかなかった。逃げ回り、ひとりになろうとして、ここにはそんな場所がどこにもないと思い知った。
 取るもの手につかず、ぼんやりする時間が増えた。その間も胸を過ぎるのは、大典太光世の顔と、審神者への罪の意識だった。
 時間遡行軍を滅するという使命を全う出来ていないのに、余所事にうつつを抜かして良いはずがない。
 自分がこんな状態であると知れば、審神者もきっと幻滅するに決まっている。
「いい、ので……しょうか」
「前田」
「こんな、中途半端な気持ちでいて」
 平野藤四郎と喋ったことで、幾分気が楽になった。
 間違っていないと背中を押されて、ほっとした。
 だが心が完全に晴れたとは言い難い。審神者への裏切りではないか、との思いが未だ燻り、身動きが取れなくなっていた。
「では、中途半端でなくなれば良いのです」
 自縄自縛に陥っている前田藤四郎に、平野藤四郎は至極あっさり言い切った。
 妙案だと言わんばかりに、血色の良い顔で囁かれた。両手を胸の前で叩き合わせて、他に方法はない、とにっこり微笑んだ。
 それが出来ないから悩んでいるのに、予想の斜め上の返答を受け、返す言葉が見つからない。
 変なところで鶯丸に似て来たのではないか。内心毒づいていたら、彼は重ねた両手を解き、人差し指を突き付けて来た。
「いいですか、前田。僕は、主君に忠誠を誓いました。その命に従い、必ずや敵を討ち果たしてみせると。そして鶯丸様とも、約束しました。何があっても、必ず帰ってくると」
 途中で引いた手を胸に当て、勇ましく宣言する。
 圧倒されてぽかんとしている兄弟を見下ろして、平野藤四郎はやがて、気の抜けた笑みを浮かべた。
「鶯丸様も、僕に。約束、してくださいました」
 照れ臭そうにはにかむ表情は、どこかぎこちない。
 これまで数多い兄弟に向けて来たものとは異なる笑顔を浮かべて、彼は白い歯を輝かせた。
 眩しい、と前田藤四郎は思った。
 彼はこんな風にも笑う刀だったのだと教えられて、驚き、同時に心強く思った。
「平野は、鶯丸さんが、本当に好きなんですね」
「改めて言われると、恥ずかしいです」
 自分は彼のように胸を張り、大典太光世が好きだと宣言出来るだろうか。
 口では照れると言いながら、平野藤四郎は前を向いたままだ。笑顔を崩さず、堂々としていた。
 己が抱く感情を、誇りに思っているのが伝わってきた。
 こんな風になりたいと思った。
 彼のようにならねば、と思った。
 きらきらと、光が溢れていた。日差しは弱いのに、平野藤四郎の周辺だけが不思議と明るく見えた。
「誰かを好きになるのが、悪いこととは思いません。だって、大切な人が増えれば増えるほど、力が湧いてくるのです」
 刀剣男士は、何故武器を手に戦うのか。
 それが使命だから、と言えば簡単だ。けれどそれだけなら、心などいらない。命じられたまま動く人形を用意すれば良いだけで、付喪神に現身を与えるような手間は省けたはずだ。
 だのに審神者は、そうしなかった。刀剣男士に、自身で考える力を与えた。戦う理由、意味、それらを自分で探し、答えを導き出すよう促した。
 平野藤四郎が出した結論は、至極明快だ。
 戦うのは、守りたいと思うものがあるから。
 自らを見い出してくれた審神者、自らが辿って来た歴史。信念を持って戦い、生き抜いたかつての主たちの歩み。そして、背中を預けられる仲間たち。
 守りたいものがあるから、奮起する。強敵と相対しても怯まず、果敢に挑んでいける。
 誇りに思う相手がいるから、自分を保っていられる。情けない姿を見せないために、己を鼓舞して闘える。
 笑って欲しいから、哀しい気持ちもぐっと堪えられる。
 でも泣きたい時だってたまにはあるから、その時は一緒に涙するか、背中を優しく撫でて欲しい。
 真っ直ぐ自分を見て欲しい。
 気取らず、飾らず。ありのままの自分を見て、そしてごく稀に格好つけたくなった時は、笑わずに頷いて欲しい。
「……素敵です」
「いいえ。僕など、まだまだです」
 思いの丈をぶつけて、平野藤四郎がはにかむ。
 ほんのり頬を朱に染めて、彼は自分に良く似た短刀の額に、己の額を重ねた。
 コツン、と骨をぶつけ、吐息が掠れる距離から眼を覗きこんだ。
「前田、手を離してはいけません。僕たちの存在は、とてもあやふやで、明日どうなるかは誰にも分かりません。失いたくないと願うなら、絶対に、掴み続けてください」
 今日と同じように、明日も東から陽が昇ると、どうして言い切れるだろう。
 昨日まで当たり前のように隣にいた相手が、明日も隣にいてくれると、誰が保証できるだろう。
「平野」
 声を潜め、けれど一言一句噛み締めるように囁く。
 そのすべてを心に刻んで、前田藤四郎は無意識に拳を作った。
 急に変わった声色に、嫌な予感が背筋を伝った。緊迫した空気に心が震えて、口を開こうとした矢先だった。
「大典太様が、今朝から。蔵に籠もられているそうです」
 平野藤四郎がひと息で告げた。
 信濃藤四郎から託された願いを、瞠目する少年に伝えた。
「え……?」
 予想だにしていなかった情報に、前田藤四郎が言葉を失い凍り付く。
 やはり知らなかったか、と内心毒づいて、重責を全うした短刀は力なく肩を落とした。
 自分自身のことに必死で、周りが見えていなかったのだろう。視野が狭くなり、大典太光世の姿さえ、彼の目に映っていなかった。
 伝え聞いた話でしかないけれど、この数日、前田藤四郎はあの太刀を避けていた。向こうから話しかけられても余所余所しく接し、会話を途中で切り上げて逃げる真似を繰り返した。
 そんな態度を見せられて、大典太光世がなにも感じないとでも思ったか。
 天下五剣の中でも際立って繊細な男が、傷つかないとでも思っていたのか。
 前田藤四郎の軽率さに腹が立ったし、肝心の時に傍にいてやれなかった自分にも腹が立った。審神者の命令なのだから止むを得なかったとはいえ、もっと注意を払っておくべきだったと、平野藤四郎は浅く唇を噛んだ。
 太腿に爪を突き立て、悔しさを堪える。
 衝動的に怒鳴りたくなったのを必死に抑えて、平野藤四郎は深呼吸を繰り返した。
「それは、本当ですか」
「ええ。先ほど、信濃兄さんから」
 ここで感情を剥き出しにしても、良いことはひとつもない。
 努めて冷静を保ち、淡々と答え、彼は青褪めた兄弟の手を握った。
 手の甲に掌を重ね、緩く力を込めた。一番衝撃を受けているのはこの短刀なのだ、と自身に言い聞かせて、決断を促した。
「朝から、一切、食事を口にしていないそうです。いいえ、信濃兄さんが確認出来ていないだけで、もっと前からなのかもしれません。蔵に入られた時間は分かりませんが、朝餉の時間には既に」
 愛染国俊や、ソハヤノツルキも注意を払っていたようだが、防げなかった。
 もとから自己評価が低く、自虐的な傾向が強い刀だ。その上心を寄せた短刀にすら冷たく扱われたら、いったいどうなるか。
 最悪の展開にさえなりかねないと、言葉尻に含ませた。
 長く蔵に封じられ、鳥の歌を聞くことすらままならなかった太刀は、今、屋敷の食糧貯蔵庫の奥にいる。白壁の、泥臭い空間に閉じこもり、内側から閂を掛けて他者との接触を拒んでいた。
 扉を力技で破壊するわけにもいかず、手が付けられない。
 蔵の中には米や麦、酒といったものが備蓄されており、天岩戸の解放は急務だった。
「そんな……」
「前田のせいではありません。ですが、前田がひとりで思い悩んでいた間、大典太様も同様に悩んでいたのだと、分かってください」
 大典太光世が蔵に入ったのは、彼自身の判断だ。決して誰かにそそのかされたわけではない。
 だがそうしなければならない事態に至らせたのは、前田藤四郎だ。
 きちんと彼と向き合っていれば、こうはならなかった。悶々とした時間を過ごすことなく、正面切って話をしていれば、もっと早く解決方法が見いだせていたかもしれない。
 言い出せばきりがなく、過ぎた話を今更どうこう言ったところで意味はない。
「大典太さんが」
「しっかりなさい、前田。落ち込んでいる場合ですか」
 衝撃を受けて唇を戦慄かせた短刀を叱って、平野藤四郎は握りしめた手を振り回した。
 薄暗く、深い場所へ沈みゆこうとする彼の意識を強引に浮上させ、吼えた。ハッとなった兄弟を睨みつけて、腑抜けた表情に活を入れた。
「いっ……!」
 ぱしん、と頬を左右から叩かれた。
 痛みよりも、打たれたこと自体に驚いて、前田藤四郎は色が抜けかけていた瞳をぱちくりさせた。
 見開いた双眸に、悔しげな兄弟の顔が大きく映った。下唇を咥内に巻き込んで、溢れ出る感情を懸命に堰き止めていた。
 平野藤四郎だって、大典太光世と少なからず縁がある。同じ屋敷で世話になり、壁越しだったとはいえ、幾度となく言葉を交わしてきた。
 出来るものなら、自分が彼を蔵から引きずり出したいと思っている。今すぐにでも駆けつけて、扉を叩き、早く出てくるよう訴えたかった。
 けれどそれをすべき存在は、他にいる。
 だから自らは引き下がり、譲ろうとしていた。
 口ほどにものを言う眼差しが、鋭く胸に突き刺さった。見詰め合ったまま頷かれて、前田藤四郎は惚けて開きっ放しだった口を閉じた。
 奥歯を噛み、頷き返した。
「行ってきます!」
 そうだ、落ち込んでいる暇などない。
 一秒でも早く、大典太光世に伝えなければ。
 立ち上がり、駆け出した。靴下のまま中庭に飛び降りて、外套を翻して風を切った。
 あれだけグタグタ悩んでいたのが嘘のように、目の前がすっきり晴れて見えた。光あふれる世界がそこに広がって、自分たちを出迎えていた。
 一介の付喪神でしかなかった頃、前田藤四郎は蔵の中に入れなかった。厳重に封印が施されていたし、それでもなお滲み出る大典太光世の霊力が、短刀の存在そのものを消し去ってしまう危険があったからだ。
 だが今は、違う。
 大典太光世の霊力の大半は、刀身の方に残された。現身が宿す霊力もまた、内側に厳重に封じられていた。
 本丸の蔵には結界など存在せず、誰もが自由に出入りできた。正面の入り口が閂で閉ざされていようとも、天井高い位置に設けられた明かり取りの窓は、どうだろう。
 小柄な短刀の身体ならば、潜り抜けるのは容易だ。
「大典太さん……大典太さん!」
 早くも心は太刀の元へ向かい、彼の瞳には大典太光世しか映らない。
 一目散に突き進む背中を見送って、平野藤四郎は安堵の息を吐いた。
 尻から縁側にへたり込み、どさくさに紛れて随分恥ずかしいことを口にした、と赤みを残す頬を捏ねた。
「いやあ、素晴らしい名演説だったな」
「ひっ」
 と、そこで急な拍手が響き渡り、彼は顔を引き攣らせて竦み上がった。
 ビクッとなって背筋を伸ばし、仰々しく振り返る。
 奥歯をカタカタ言わせながら瞠目した少年に、赤地に黒を織り交ぜた衣装の男が笑いかけた。両手をぱちぱち叩き合わせ、朗らかに目を細めた。
「さすがは平野、俺が見込んだだけのことはある。実に良いことを言う」
 額に垂れ下がった前髪ひと房を揺らし、愕然としている平野藤四郎を褒め称える。
 だが短刀は、合いの手を返すのも忘れて喉を引き攣らせた。驚愕に硬直し、瞬きを繰り返した。
「い、い、……いつから!」
「ん?」
「いつから、そこに。いらっしゃったんですか、鶯丸様!」
 ここは短刀の私室が集められた区画で、粟田口派が集団生活を送る大部屋だ。夜になれば布団で埋め尽くされ、足の踏み場もないくらいだった。
 但し今は、がらんどうに近い。一部が出陣し、一部は遠征に出て、一部は畑仕事を手伝い、一部は母屋でのんびり過ごしていた。
 そんな広々とした座敷の真ん中近くに、男がひと振り、立っていた。古備前の太刀で、その姿は天下五剣に劣らない美しさだった。
 性格は飄々として、掴みどころがない。どんな時でも自分というものを崩さず、危機的状況であっても焦らない、図太い神経の持ち主でもあった。
「いつからと言われても、困るな。そうか、俺はそんなに突拍子ないか」
「っ!」
 顔面から火が噴き出そうな短刀を笑い飛ばし、鶯丸が両手を腰に当てた。
 からからと声を響かせる太刀の台詞に跳び上がって、平野藤四郎は右往左往しながら目を潤ませた。
「い、いえ。あの。あの。鶯丸様、あの――」
 足元から震えが来て、カーッと熱が広がっていく。過去類を見ない羞恥心に支配されて、生真面目で知られる少年は狼狽し、のた打ち回った。
 現在地を忘れて後退を図り、縁側の端から見事に滑り落ちた。
 必死の弁解が途切れ、最後まで言えなかった。急に視界が変化して、青い空が見えたと思ったら腰と背中に衝撃が走った。
「平野!」
 昼間なのに星が見えて、目の前が真っ暗になった。一瞬遠ざかった聴覚を引き裂き、鶯丸の甲高い悲鳴が聞こえた。
 大抵のことは受け流し、動揺すらしない男が、どうして。
 不思議に思って目を開ければ、縁側から身を乗り出した太刀の顔が見えた。緊張で強張っていたのが瞬時に緩んで、案外大きくて逞しい手が差し出された。
「平野は、俺を驚かせる天才だな。心臓が止まったかと思ったぞ」
「鶯丸様、僕は」
 大きな怪我がないのを確認して、引っ張り上げられた。途中から左腕も使って掬い上げられて、平野藤四郎は間近に来た男の顔をまじまじと見つめ返した。
「なに、長期間の遠征の褒美だと、主からかすていらなるものを貰った。茶を煎れてはくれないか、平野」
 そんな彼に相好を崩し、鶯丸が言った。背中や肩を軽く叩き、土汚れを払い落として、最後に栗色の髪を撫でた。
 切りそろえられた前髪をわざとくしゃくしゃにして、嫌がって身を捩った短刀を追いかけなかった。
 中途半端なところで話題が途切れたが、自分から蒸し返すのも恥ずかしい。都合よく向こうが別の話を振って来たのに乗じて、平野藤四郎は肩を竦めた。
 しばらくゆっくりする間がなかったので、この台詞を聞くのは久しぶりだった。
「そのかすていらですが、どれくらいの量、ありますか」
「腹いっぱいになるくらいだ」
「でしたら、前田と大典太様にも、よろしいでしょうか」
「俺は構わないぞ。平野が煎れる茶は美味いからな。楽しみだ」
「お褒め頂き、光栄です」
 茶の支度が調う頃には、蔵の扉も開いているに違いない。
 少し先の未来が見えた。嬉しさから破顔一笑して、平野藤四郎は台所を目指して歩き始めた。

わが恋は知らぬ山路にあらなくに まどふ心ぞわびしかりける
古今和歌集 恋2 597

2017/06/03 脱稿