深き流れと ならんとすらん

 からっと晴れた、気持ちのいい天気だった。
 空は青く、とても高い。羊の群れのような雲が北側に広がって、太陽は眩しく地表を照らしていた。
 ほどほどの暖かさで、日向でじっとしていると眠くなる。動けば汗ばむ陽気ながら、だらだら流れ続けることはなかった。
 ほんの数ヶ月で、驚くほどの変化だ。ぼんやりしていたら季節に置いて行かれると、前田藤四郎は額を拭って微笑んだ。
 左手には、竹箒が握られていた。足元には集めた枯葉や松ぼっくりが山を成し、塵取りで回収されるのを待っていた。
 誰が捨てたのか、破れた布きれらしきものに、汚れが酷い紐が絡まっていた。
 これは洗っても使えないし、使い道がない。元がどういう形をしていたのかも、全く想像出来なかった。
 残念だが、捨てるしかない。畑の片隅に設けられた焼却炉を思い浮かべて、屑入れとして使用している背負い籠を振り返る。
「前田?」
 塵取りを取りに行こうとして、一歩踏み出そうとした時だ。
 左後方から声がかかって、彼は慌てて首をそちらに向けた。
「大典太さん」
 聞き慣れた声色に相好を崩し、右足の踵を地面に戻した。そのまま身体ごと向き直って、前田藤四郎は近付いてくる人影に目を細めた。
 ザリ、と砂利を踏む音がして、乾いた地面に濃い影が落ちた。爪先が出ている草履を履いた男を下から上へと眺めて、粟田口の短刀は箒を両手で握り直した。
 大典太光世は漆黒の髪をひとつにまとめ、額を大胆に曝していた。
 衿のない、動き易い服装をして、上着は邪魔なのか、腰に巻きつけている。袖を肘の辺りまで捲っており、肉厚で骨太な腕が露出していた。
 衣装は黒を基調に統一されており、反面肌は蝋のように白い。青みがかり、不健康そうに見えるのは、長く蔵に封印されていた影響だろう。
 但し実際の彼は、そこまで柔ではない。武に秀でて、本丸でも力自慢の部類に入った。
 先日も隊を率い、見事時間遡行軍を討ち取ったという。
 武勲を上げ、審神者から誉を与えられたのが、前田藤四郎も誇らしかった。
 そんな天下五剣のひと振り、大典太光世は、目下馬当番の真っ最中だった。
 腕まくりも、その一環だ。動物に忌避される性分故に、馬の世話は兄弟刀のソハヤノツルキに任せて、厩の掃除に明け暮れているようだった。
 右手にぶら下げた手桶には、綺麗な水が波を打っていた。近場の水路から汲んできたばかりらしく、地面には点々と水の痕が散っていた。
「順調ですか?」
 縁ぎりぎりまで汲んであるので、多少零れても問題ない。太刀らしい豪快さを垣間見て、前田藤四郎は微笑んだ。
「ああ。お前も、……掃除か」
「はい」
 にこやかな笑顔を向ければ、一見無愛想な男は頬を緩めた。低く、重量のある声で囁いて、厩と屋敷を繋ぐ一帯を見回した。
 屋外なので、どうせ明日になればまた木の葉が積もるのは分かっている。かといって放置していたら、歩くのに邪魔だった。
 ある程度往来がある場所なので、綺麗にしておくに越したことはない。決して無駄ではないのだと胸を張り、短刀は竹箒で地面を打った。
「お屋敷も、馬小屋も。ピカピカなのが一番ですから」
 烏さえ停まらぬ蔵の主は、強すぎる霊力により獣に畏れられている。だが彼自身は、動物を毛嫌いしているわけではなかった。
 毛並みを梳いて整えてはやれないけれど、馬が多くの時を過ごす厩の手入れには熱心だ。床を磨き、飼葉を新しくして、飲み水も冷たく澄んだものに入れ替えている。
 他の刀ならどこかで手を抜くのに、この男は誠心誠意をもって励んでいた。
 だから自分も、負けていられない。
 鼻息荒くして宣言した前田藤四郎を見下ろして、大典太光世は数秒挟んで破顔一笑した。
「そうだな」
 微妙な間が気になったが、同意を得られたのは素直に嬉しい。
 胸の辺りがくすぐったくて、粟田口の短刀は気恥ずかしさに頬を緩めた。
 この後、きっと大きな手で頭を撫でられる。
 彼との会話の後は、それが半ば約束事だった。
「……大典太さん?」
 ところが今日は、いつまで待っても撫でて貰えない。太くごつごつした指で髪を掻き回されるのを期待したのに、大柄な太刀はなかなか動かなかった。
 怪訝に思い、首を捻った。落胆を隠さぬ眼差しで見つめれば、男は困った顔で手を開いた。
「今は、汚いからな」
 彼自身も、途中までそのつもりでいたらしい。中空に漂う手は行き場を失い、半端に握りしめられていた。
 直接触れてはいないけれど、馬糞も扱った。肥料に使うからと桶に集めて、小屋の外に運んであった。
 水汲みの際に軽く洗ったけれど、ごしごし擦ったわけではないので、清潔とは言い難い。そんな不浄の手で短刀に触れるべきではないと、表情が物語っていた。
 躊躇して、ふたつの瞳が辺りを彷徨う。
 結局太刀は胸元に手を戻し、前田藤四郎に触れるのを諦めてしまった。
「そんな。僕は、気にしません」
「いや、そういうわけにはいかない」
 さっと背中に隠されて、短刀は悲鳴のような声をあげた。一歩踏み出して距離を詰め、強情な太刀に唇を噛んだ。
 ここでこうして掃除をしていたのだって、彼と話が出来るのを期待してのことだ。願いはひとつ叶ったけれど、満足出来るものではなくて、悔しいし、腹立たしかった。
 蔵の中と外という環境ではなく、好きな時に好きなだけ会いに行けるようになった。それだけでも充分贅沢なのに、いつの間にかこの状況に慣れてしまった。
 際限なく欲しがっていると自覚しながらも、抑えきれない。箍が外れ、制御が利かなくて、前田藤四郎は苛立つ自分にも腹を立てた。
 冷たい竹箒をぎゅっと握って、細い穂先を地面へと押し付ける。
 乾いた地面に無数の筋が走ったが、箒が揺れた途端、それはあっさり掻き消えた。
 埃が舞い上がり、すぐに沈んだ。ざっ、ざっ、と硬い音が何度か繰り返されて、大典太光世は眉間の皺を深くした。
「少し、待ってくれ」
「大典太さん?」
 苦悩を顔に出し、唇を真一文字に引き結んでいた。控えめな音量で囁いた彼は手桶を下ろし、荒波を打つ水面に向かって、やおら両手を突き刺した。
 掌を重ねて、じゃぶじゃぶと水を掻き回した。冷たい飛沫を大量に散らして、足が濡れるのも厭わなかった。
 突然の行動に驚き、前田藤四郎は目を丸くした。吃驚して身を乗り出して、丹念に手を洗う男に騒然となった。
「いえ、そんな」
 確かに触れて欲しいと願いはしたが、それは単なる我が儘だ。折角汲んできた水を、自分の為に使われるのは不本意だった。
 大人しく引き下がるべきだったのに、傲慢になっていた。己の狭量さが哀しくて、慌てて止めに走るが、無駄だった。
「これで、良い」
 指の股や爪の間も念入りに磨いて、大典太光世は両手を水から引き抜いた。何度か振り回して水滴を払い、残った分は腰に巻いた上着に擦り付けた。
 皺の間に残る水気さえ取り除き、満足そうに頷いてから、改めて腕を伸ばす。
「大典田さん……」
 そこまで気にしなくても良いのに、徹底している。強情な男に少し呆れて、前田藤四郎は自分から近付いて行った。
 残っていた距離を詰め、首を伸ばし、頬を差し出した。意図を汲み取り、男は親指以外の四本を揃えると、洗い立ての掌で柔らかな頬を包み込んだ。
「っ!」
 ただ、触れられた瞬間は、びくっとなった。
 氷とまではいかないけれど、首を竦めるに足る冷たさに、前田藤四郎は顔を引き攣らせた。
「すまない。冷たかったか」
 大典太光世にもそれが伝わったようで、太刀は急ぎ手を引こうとした。しかしそれより早く、短刀としての俊敏さを発揮して、彼は長兄よりも大きな手を押さえ付けた。
 甲の上に掌を重ね、逃げられないよう圧迫した。勿論力技で来られたら防ぎ切れないが、突如落ちて来た微熱に驚き、大典太光世は動きを止めて凍り付いた。
 下手に動けば、前田藤四郎を傷つける。それを恐れてもいたのだろう。
 二度、三度と深呼吸を積み重ねて、三池の刀はコクリと喉を上下させた。
 短い間隔で息を吐き、吸って、短刀の真意を探って唇を引き結んだ。若干怯えている風にも映って、多くの兄弟刀を持つ少年は目を眇めた。
「こうすれば、ほら」
 汚さないよう、傷つけないよう、冷たい水に耐えて洗ってくれた気遣いが嬉しかった。
 そんなもの必要ない、と言うのは簡単だ。けれど肝心の大典太光世がそれを許し、受け入れるには時間がかかるだろう。
 ならばそれまで待つと決めて、相好を崩した。
 自分の為に手間を惜しまなかった男への感謝を、違う形で伝えたかった。頬と掌で挟んで温めてやりながら、前田藤四郎は竹箒を肩に寄り掛からせた。
 埋まっていたもう片手も解放して、惚けている男へと差し出す。
「前田は、あたたかいな」
 思いを察した太刀は小さくはにかみ、残る手も柔らかな頬に寄り添わせた。
 押し潰さないよう力は込めず、そっと重ねるだけに済ませた。前田藤四郎の手は小さくて、とても大典太光世の甲全体を覆えないけれど、温もりはじんわり広がっていった。
「僕は、懐に入るのが仕事ですので」
 率直で、飾り気のない感想に、当たり前だと笑って返す。
 主君の腹を冷やさないのも守り刀の務めだと冗談を言えば、そういうものに疎い刀は真顔で目を丸くした。
「そうなのか?」
「あはは」
 真剣な表情で問い返されて、笑うより他にない。
 いくら吉光の刀でも、懐炉代わりは無理だ。きちんと訂正し、戯れを言ったのを詫びて、前田藤四郎は水仕事で荒れ気味の肌を撫でた。
 後で軟膏を差し入れた方が良いだろうか。何事も真に受けて、疑わずに信じてしまう点も、問題がある。
 長い間蔵に引き籠っていた影響で、大典太光世は世事に疎い。本丸には冗談ばかり言い、皆を煙に巻く刀がそれなりに存在するので、うっかり騙されないか心配だった。
 鶴丸国永や鶯丸、髭切辺りが、特に危ない。
 三日月宗近も浮世離れしたところがあるし、数珠丸恒次などは更に何を考えているか分からなかった。
 同じ天下五剣に括りに入るから、大典太光世はその辺りと行動を共にする機会が多かった。不要な知識を与えられ、純粋無垢に信じ込んでしまわないか、想像すると胃の辺りがキリキリした。
 ならば自分が、しっかり彼を支え、導いてやらなければ。
 心の中で誓いを新たにして、前田藤四郎は頬を緩めた。掃除が終わった後も、会いに行く用事が出来たのを喜んで、分厚い手をきゅっと握りしめた。
「お仕事、頑張ってください」
 名残惜しいが、こうしていてはいつまで経っても掃除が片付かない。
 大典太光世にだって都合はあると戒めて、寂しさを押し殺した。
 昔のように蔵の壁に隔てられているわけではなく、いつでも顔を見に行ける。その幸福を噛み締めて、すっかり温かくなった手を引き剥がした。
 内番に励むよう言われては、流石の太刀も抵抗出来ない。渋々ながら応じて、微笑む短刀にひとつ頷いた。
「また、後で」
「はい」
 代わりに自ら約束を取り付けて、細く繊細な指を撫でた。左の小指をきゅっと抓まれて、前田藤四郎は照れ臭さに首を竦めた。
 これが片付いたら兄である薬研藤四郎に頼み、軟膏を調合してもらおう。平野藤四郎が煎れてくれた茶を飲んで、縁側でのんびり過ごそう。
 昔は思いつきもしなかった楽しみが、ここ最近は次々に溢れていた。こんな日が来るとは思わなくて、一緒に居られるだけで幸せだった。
 この頃お前は大典太光世に付きっ切りだと、長兄に笑われた。鯰尾藤四郎たちは良いのではないのか、と言ってくれたが、信濃藤四郎からは独り占めして狡い、と文句を言われていた。
 そんなつもりはないのだけれど、言われてみれば確かにべったりかもしれない。
 なにせ大典太光世は色々と手のかかる男で、どうしても放っておけなかった。
 ひと振りだけにすればすぐ蔵に戻ろうとするし、一度落ち込むと復活するまでが長い。慰めて、励ましても素直に聞いてくれなかった。
 藤四郎兄弟の中にも厄介な刀はいるが、彼ほどではなかった。時折腹立たしくなって、鬱陶しい奴と匙を投げ、見捨ててしまいたくなる衝動に駆られることもあった。
 けれど、結局手を伸ばしてしまうのだ。
 長く孤独に耐えて来た男の哀しみが分かるから、せめて自分だけでも傍に居てやりたい。
 世界はもっと明るく、美しいのだと、蔵の中しか知らない彼に教えたい。
 自分が、その役を務めたい。
 肩に預けていた竹箒を取り、固い節を爪で掻く。
 大典太光世は遠慮がちに頷くと、地面に置いていた手桶を持ち上げた。
 中身は半分近くまで減り、周囲は水に濡れて湿っていた。そこだけ色が濃くなって、桶があった痕跡をくっきり描き出していた。
 太刀が此処にいた証拠だ。どうせすぐに乾いて、分からなくなってしまうとしても、彼が作り上げたものがそこに在る事実が、不思議と心地良かった。
 これは箒で掃けそうにない。
「困りましたね」
 消してしまうのが勿体なくて、前田藤四郎は自分に苦笑した。可笑しなものだと顔を綻ばせて、長く放置していた木の葉の山に向き直った。
 厩へ向かう男を見守っていたら、仕事に戻れない。自分を奮い立たせて、彼は足元をサッと掃いた。
 気が付けば、いつも大典太光世を探していた。
 ちょっとしたことで気落ちして、暗く沈んでしまう男だから、目が離せない。誰かに冗談を言われ、茶化されて、笑われたのを誤解して泣いていないか、常にはらはらだった。
 あちらも良い大人なのだから、捨て置いても大丈夫だと良く言われる。
 違うのだ。
 そうではないのだ。
 大典太光世がたとえ大丈夫だとしても、前田藤四郎が大丈夫ではないのだ。
 病気のようなものだ、と笑ったのは薬研藤四郎だ。視界に入れていないと落ち着かない気持ちは良く分かると、心当たりがあるのか、言っていた。
 特効薬はない。ただ受け入れ、慣れるしかない。
 一生治らないから覚悟するように、とも言われた。あの時は意味が良く分からなかったが、冷静に己の行動を振り返ると、こういうことか、と納得出来た。
 だがたとえ病気だとしても、悲観することはない。なにせ前田藤四郎は、毎日が楽しくて仕方がないのだから。
「ふふふ」
 掃除が終わる頃には、八つ時を迎えているだろう。
 菓子は短刀一振りにつき一個と決まっているが、大典太光世と分け合うのも悪くなかった。
 喜んでくれるのを期待して、想像して首を竦めた。急に照れ臭くなって身を捩って、竹箒でぐりぐりと地面に穴を掘った。
「――うっ」
 そこに、突然だった。
 これまで終始穏やかだった秋の空に、気まぐれな突風が吹き抜けた。
 ザザザッ、と低い位置を駆け、地表を抉った。周辺に枝を伸ばす木々を一斉に揺らめかせ、藪を震わせて、それは足元から前田藤四郎に襲い掛かった。
 折角集めた木の葉や塵芥を蹴散らし、障害物にぶつかって気流を乱した。ぐうっと仰け反った風はその場で旋回して、巻き上げた細かな粒子と共に渦を描いた。
 逃げる暇もなく、旋風の直撃を受けた。反射的に身を固くし、構えを作って口を閉じたが、状況を把握しようと足掻いた瞳を庇うのだけが一歩遅れてしまった。
「前田?」
 悲鳴は甲高く、遠くまで響いた。
 勢いを弱めた風は、最後の力を振り絞って厩へと一直線に駆けた。背中にぶつかって来た突風に後ろ髪を煽られて、大典太光世は聞こえた声に急ぎ振り返った。
 水桶ごと反転した彼の目に映ったのは、箒を手放し、両手で顔を覆う短刀の姿だった。
 今の風で、目に細かい塵が入った。表層に張り付いて剥がれず、チクチク刺さって痛みが生じていた。
「どうした、前田」
 もっとも大典太光世には、細かい状況が分からない。
 だから桶を捨てて駆け戻り、俯く短刀に問いかけた。
 心配そうに声を高くし、細い肩を掴んだ。軽く前後に揺すって、膝を折って下から覗き込んだ。
 姿勢を低くし、繰り返し名前を呼んだ。だが前田藤四郎は答えず、指の背で頻りに目元を擦るばかりだった。
 瞼を下ろし、その上から睫毛ごと捏ねていた。直接眼球に触れることはないけれど、圧迫し、押し潰さんとしていた。
「やめるんだ、前田」
 軽く曲げた指の関節を使い、素早く何往復もさせていた。このままでは目玉が破裂してしまうと、恐ろしい想像をした太刀は背筋を粟立てた。
 赤らんだ頬は自然と溢れた涙に濡れて、次の雫が目頭に珠を作っていた。何故泣くのか、その理由にもすぐには行き当たらなくて、自分が原因かと大典太光世は青くなった。
「お、俺が。俺の――」
「ちが、い……ます。これは、その。目に、塵が」
 狼狽えて、顔が引き攣った。掴んでいた肩を大急ぎで解放して、しゃがんだまま後ろに下がろうとした。
 それを遮り、前田藤四郎が鼻を愚図らせた。ずび、と音を立てて唾を飲みこんで、真っ赤になった目を瞼から覗かせた。
 風に煽られた塵と、それを追い出そうとする本能がぶつかり合い、戦っていた。結果乱暴にされた眼球の血管が切れたらしく、こうしている間も緋色はじわじわ範囲を広げていた。
 両目ともだが、特に右目が酷い。このままでは失明に、と懸念して、心配性の太刀は両手を戦慄かせた。
「大丈夫なのか。真っ赤だぞ」
 刀傷を受けたわけでもないのに、手で拭えない場所が血で染まっていく。
 こんな事例は今までなくて、恐怖心が膨らんだ。
 内部で出血しているということが、大典太光世には理解出来ていなかった。
 審神者の求めに応じて顕現し、現身を得てから相応の時が過ぎたが、こういう経験は一度もなかった。故に前田藤四郎に何が起きているのか、どう対処して良いのかも分からなかった。
 狼狽激しくおろおろする太刀に、短刀はどうにか落ち着かせようとした。けれど涙ぐんだままの笑顔には、説得力が皆無だった。
「心配、いりません。これくらい」
「しかし」
 涙は痛みからではなく、眼球への侵入者を追い出す為に溢れたものだ。表面を洗い流し、駆逐せんとして、自然と滲み出ただけだ。
 けれど大典太光世は、そういう防衛本能が肉体に宿っていることも、把握していなかった。
 問題ないと繰り返しても、彼は聞いてくれない。地面に片膝を預けて屈んで、短刀の前から離れようとしなかった。
「平気、です。じき……痛みも、引くので」
 瞬きを何十回と連続させて、流す涙の量を増やした。頬に伝うそれを袖に吸わせてごしごし擦って、前田藤四郎は心配無用と白い歯を見せた。
 相変わらず無理のある笑い方だったけれど、他に方法がなかった。視力に支障が出るほど深刻なものではないと伝えて、自分に触れようとしながら、最後まで伸びて来ない男の手を掴み取った。
 こんな時でも躊躇してしまう彼に呆れて、この程度では傷つかないと教えてやる。
「……痛むか」
 触れ合った熱にホッとしながらも、疑念が拭いきれない男は小声で問い、眉を顰めた。
 片手の自由が失われて、目を擦るのも憚られた。出来るものなら目玉を引き抜き、水洗いしてしまいたい衝動を堪えて、短刀は逡巡を経て頷いた。
 本当は、掻き毟りたかった。赤くなろうと構わない。充血したところで、視野が狭くなるわけではなかった。
 ただ自分に実害がなかろうと、周囲の刀たちはぎょっとするだろう。現に大典太光世が、大袈裟に怯えていた。
 だったら、我慢するしかなかった。本能を理性で制御し、蓋をして閉じ込めて、彼は乾きつつある眼球を瞼で隠した。
 涙の膜を保護し、じっと耐えるつもりだった。
 視界を黒く塗り潰して、息を殺し、疼くような痛みをやり過ごした。
 前田藤四郎が遮断した光の下で、大典太光世が苦悩に顔を歪め、自分に出来ることを懸命に探しているとも知らずに。
「前田」
 この子を、どうにかして救いたい。
 痛みのない、安らかな場所へと送り届けたい。
 平気だと無理をして笑うところは見たくなかった。心からの笑顔を得るまでは、この場を離れられなかった。
 けれどいったい、何が出来るというのだろう。大典太光世が抱く霊力は病人を癒しはしても、怪我を治す力は秘めていなかった。
 現身を得た直後、共に出陣したソハヤノツルキ相手に試してみたが、効果はなかった。
 そもそも刀剣は、病に侵されることはない。錆びて朽ちた場合は分からないが、審神者がこまめに手入れをしている現状では、確かめようがなかった。
 病人の居ない本丸で、大典太光世に出番は望めない。今の彼は獣の世話すらままならない、能無しのでくの坊だった。
「すまない。俺に、力がないばかりに」
 霊力がもっと高く、万能だったら、結果は違っていた。
 後悔と自責に駆られる男の声に驚いて、前田藤四郎は彼の手を握りしめた。
「どうして、大典太さんが謝るんですか」
 塵が舞ったのは、風の悪戯だ。防ぎ切れなかったのは、前田藤四郎の落ち度だ。
 離れた場所にいた太刀が責任を感じる必要はない。それは道理に合わない。声高に叫んで、指先の力を強めた。
 目を開けたいが、もう暫くは無理そうだった。涙で濡れる睫毛を揺らして、短刀は痛みを堪えて唇を噛んだ。
 彼に余計な心配をかけてしまったのを悔いて、軽率な真似をしたと恥じた。大典太光世を励ましたいと願っているのに、正反対の結果を産み出してしまった現実に、別の理由で涙が出た。
 目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと来た。
 情けない自分に腹を立てて、前に出した足が倒れた竹箒を蹴った。
 爪先にカツン、と来た衝撃に気を取られた。
 良く知っている手に頬を撫でられて、前田藤四郎はハッとなった。
 吐息を傍に感じた。乾いた肌を擽って、瞼に熱が触れ、通り過ぎていった。
 一瞬だけ、柔らかく湿ったものが目尻に当たった。ねっとりとした感触には馴染みがなくて、いつまでも残る微熱の正体がすぐには分からなかった。
「大典太、さん?」
 己の身に起きたことが、目を閉じていた所為で把握出来ない。
 誰の仕業なのかだけは明白ながら、なにひとつ思いつかなかった。
 指ではない。彼の手は、片方は前田藤四郎が捕まえたままで、もう片方は頬にあった。先ほどから全く動いておらず、親指だけが余所に移動した、というのとも違っていた。
 足や、肩といった別の部位でないのも確かだ。となれば残るものは限られてくる。あれこれ浮かんでは消えていく可能性に眉を顰めて、前田藤四郎はこめかみに触れた微風に四肢を粟立たせた。
 ぞわりとくる熱量は、生温く、湿気ていた。
 それが先に肌を掠めて、直後に。
「……」
 嗅ぎ慣れた匂いが強まり、ちゅ、と微かな音がこだました。
 頬を包む手がやわやわと肉を揉み、唇の脇を掠めた。先ほどよりもずっと長い時間触れた熱は、色々なものを前田藤四郎に伝え、教えてくれた。
 新しい涙がひとつ、つい、と流れ落ちた。
 大典太光世はそれを指の腹で受け止めて、押し潰した。
「まだ、痛むか」
 密やかに問われ、短刀は止めていた呼吸を再開させた。先に吐き、吸って、どくん、と高鳴った鼓動に身を竦ませた。
「今、あの」
「前田?」
 口を開くが、言葉は途中で途切れた。喉に引っかかって上手く発音出来ず、乾いた空気が唇から抜け落ちていった。
 大典太光世の顔は本当に、目を開けたすぐ先にあった。身を乗り出し、前屈みになって、不安そうな眼差しで短刀を見詰めていた。
 二つ並ぶ眼に、前田藤四郎だけが映っていた。他のものが紛れ込む余地などないくらいに、一面を埋め尽くしていた。
「今」
 それが急に、恥ずかしくなった。
 彼が真っ直ぐな視線を投げてくるのはいつものことなのに、突然怖くなった。
 声が上ずり、ひっくり返った。内股になって膝をぶつけ合わせて、短刀は最後に残った可能性に総毛立った。
「大典太さん」
「怪我をした時は。舐めれば良いと、聞いた」
 どうか違っていてくれるよう祈って、縋った縄はあまりにも細かった。
 蜘蛛の糸は敢え無く途切れ、前田藤四郎は咄嗟に濡れている場所を手で叩いた。
 ぱしん、と良い音が響いた。同時に竦み上がり、ボボボッ、と赤くなる顔を必死に隠した。
「前田?」
「ど、ど……どなたに、そのような。嘘を!」
「嘘?」
 それがいかに挙動不審な行為かは、承知していた。けれど止めることなど出来ず、声は震えて呂律が回らなかった。
 それでも必死になって叫び、頭を振った。大典太光世の手を振り払って、短刀はハッとして目を見開いた。
 太刀は絶句し、凍り付いていた。中途半端な場所に利き手を彷徨わせて、惚けた顔で瞬きを繰り返した。
「嘘、なのか?」
 唇は青褪め、色を失っていた。声は今にも消え入りそうなくらい小さく、表情は泣き出す寸前だった。
 愕然として、呆然としていた。口をぽかんと間抜けに開き、瞬きを忘れた双眸は瞳孔がぱっくり開いていた。
 大きな体を小さく丸め、か細く震えていた。受けた衝撃の大きさに耐えきれず、今にも潰れてしまいそうな雰囲気だった。
 雨の日に捨てられた子犬の姿が、何故か前田藤四郎の目に浮かんだ。実際には抱えることも出来ない大柄な男なのに、同列に並べそうになって、粟田口の短刀はヒクリと頬を引き攣らせた。
「いえ、あの。迷信……俗信です、が。確かに言います。聞いたことがあります」
 良かれと思ってやったことを、全力で否定されたのだ。大典太光世の落ち込み具合は凄まじく、必死の弁解もなかなか届かなかった。
 いったい誰が、彼にこんな世迷い言を教えたのか。根拠のない俗説のあまりの無責任ぶりに、前田藤四郎は眩暈を覚えた。
 唾液に鎮痛作用はなく、殺菌効果も期待できない。逆に黴菌が入って傷を悪化させるので、薬研藤四郎から真に受けないよう通達が出されていた。
 だがそれも、随分前のこと。大典太光世がやってくる、ずっと昔の話だ。
 ならば彼が騙され、信じてしまったのも仕方がないことだ。教えた方も、よもや実践するとは思っていなかったに違いない。
「ソハヤノツルキが、前に肘を擦り剥いた時に」
「それはきっと、手当てするまでもない軽い怪我だ、という意味だと思います」
「そうだったのか」
 大典太光世の兄弟刀は彼と違って明るく剛毅で、太刀でありながら子供のように無邪気だ。馬の世話が好きで、馬も彼に懐いている。交友関係は幅広く、脇差の物吉貞宗とは特に親しい。
 あの男なら言いそうだ、と、説明を受けた前田藤四郎は頷いた。
 心配不要との意味を、額面通りに解釈した太刀の純朴さには、呆れを通り越して感動するしかない。そういう彼だから目が離せないし、放っておけなかった。
 いつの間にか涙は止まり、痛みも消えていた。吃驚し過ぎて、どこかへ吹き飛んでしまったらしかった。
「はい。ですので、その……このような真似は、あまり、なされませんように。要らぬ誤解を、与えてしまいます」
「誤解?」
「ええ」
 後には照れ臭さと、気恥ずかしさだけが残った。
 まだ火照って赤い肌を擦り、涙の痕跡を拭って、前田藤四郎は深く息を吸い、首を縦に振った。
 戸惑っている男を低い位置から仰ぎ見て、兎のように赤くなった目で睨みつけた。細い眉を吊り上げ、眼力を強めて、大柄な太刀を威圧した。
 短刀の迫力に臆し、大典太光世が半歩後退した。摺り足で砂埃を巻き上げ、突き刺さる眼差しに唇を戦慄かせた。
「前田」
「あのような、ことは。本来、番である者たちがすべきことで」
 短刀として主を守ってきた前田藤四郎だから、勿論人間たちの夜の営みも、それなりに見聞きしてきた。中には双方合意の上でなかったことや、片方が他に想い人を持っている場合もあったが、概ね相思相愛――夫婦となった者たちのそれだった。
 だからあれは、慈しみあい、愛おしんでいる相手にこそすべきこと。
 たとえ傷を癒すつもりであったとしても、誰彼構わず振り撒いて良いものではなかった。
 仲睦まじく過ごす過去の主とその夫人の記憶を掘り返し、その傍らに佇む自分を想像した。あのような生き方を心のどこかで羨みながら、彼らの営みを守ることが自分の役目と割り切って来た。
「軽率に、あのような。僕に、されては」
「駄目なのか」
「駄目に決まっています」
 それが今、足元でぐらついていた。
 低い声での問いかけに大声で応じて、前田藤四郎は両手をぎゅっと握りしめた。
 彼らは、刀だ。主君に仕え、これを支える為にある。
 刀は武器だ。敵を斬り伏せ、主の平穏を守るために存在する。
 そこに余分な感情は要らない。彼らは主のために働き、主だけを思って行動すればいい。
 それなのに、欲が芽生えた。
 今の主に与えられた心が、作り物の器の中で悲鳴を上げていた。
「俺は、前田」
「お願いします、言わないでください」
「お前が、とても」
 両手を伸ばし、大典太光世が前田藤四郎の肩を掴んだ。力を込めれば砕けてしまいそうな細い体躯を揺らして、耳を塞ぎたがる短刀に目を吊り上げた。
 牙を剥き、吼えた。
 それを。
「――!」
 べちん、と力任せに遮られた。
 前田藤四郎の手が、太刀の口を文字通り塞いでいた。
 左右で重ねて、乱暴に押し付けていた。
 下になった右掌に生温かな熱が触れ、太刀の呼気で肌が少しずつ湿っていく。
 唇を閉じる暇すらなかった男は目を点にして、真っ赤になっている短刀を呆然と見つめ続けた。
「……僕も、同じです」
 やがて小さな手は外れ、力なく落ちていった。
 同時に紡がれた言葉は酷く頼りなげで、哀しみに満ちていた。
「前田」
「でも、これは。駄目なんです、きっと」
 大典太光世のことは、とても愛おしい。大切な仲間であり、このままずっと、共に在りたいと願う存在だった。
 人間は、すぐに死ぬ。せいぜい百年にも満たない命は儚い。どれだけ長寿を祝ったところで、あっという間に耄碌し、床に伏し、動かなくなった。
 一生を賭けて尽くすと、どれだけの回数、誓っただろう。あと何度繰り返せば良いのかと、憂鬱になりもした。
 その点、刀は違う。錆びず、朽ちなければ永遠に輝き続ける。磨り上げられて姿形が変化することはあっても、其処に宿る付喪神が入れ替わることはない。
 けれどこんな風に思うのは、主君への裏切りだ。
「あんなこと、僕にも、誰にも……もう、しないでください」
 懇願し、前田藤四郎は唇を戦慄かせた。血が出るまで噛み締めて、頭を振り、溢れて止まらない涙を頬に流した。
 赤く充血した目を瞼に隠し、頬を擦った。ひっく、としゃくりあげ、痛くて堪らない左胸を服ごと鷲掴みにした。
「泣かないでくれ、前田。お前に泣かれると、どうして良いか分からない」
 主君への忠義は捨てられない。
 大典太光世が他の誰かを慈しみ、愛おしむところも見たくない。
 酷い我が儘だと、自分でも思う。分かっている。真っ直ぐな想いを向けられておきながら、真摯に応えられないのは臆病だからだ。
 本当は前田藤四郎の方がずっと弱虫で、怖がりだ。嬉しく思う反面、踏み出せなくて、中途半端なところを行ったり来たりしてばかり。
「頼む、前田。お前の涙を止める術があるのなら、俺に教えてくれ」
 大典太光世が縋る声で訴えて、短刀の身体を乱暴に揺すった。力強く握られて、骨に食い込む指が心に迫るようだった。
 なにかを言わなければいけない。だけれど、いったい何を言えば良い。
 必死に口を開き、息を吐いてみせても、声は音にならず、言葉は形を持たなかった。
 喘ぐように息継ぎを重ね、涙で霞む視界で大典太光世の姿を探す。
 狂おしい想いに四肢が震え、ばらばらに千切れてしまいそうだった。
「前田」
 低く掠れる彼の声がお気に入りだった。
 その声で名前を呼ばれるのがくすぐったくて、堪らなく嬉しかった。
「大典太さん、が。……好きです」
 はらはらと零れ落ちる涙が、頬を、唇さえも濡らしていく。
 擦っても、拭ってもちっとも追い付かないそれを掬い取って、大典太光世の指が前田藤四郎の顎を掻いた。
 親指の腹を押し当てて、俯きたがる短刀の顔を上げさせた。弱い抵抗を封じ込め、力でねじ伏せて、潤む眼に己の姿を叩きつけた。
「泣かなくて良い」
 前田藤四郎が一等好きな声で囁いて、男が目を細めた。口角を僅かに持ち上げ、頬を緩め、眉間の皺を解き、小さく頷いた。
 触れた熱は一瞬で、けれど永遠に続くようだった。
 刀としての矜持や、義務と、主への後ろめたさがぐちゃぐちゃに混じり合う。
 もう暫く、涙は止まりそうになかった。

恋ひ死なむ涙のはてや渡り川 深き流れとならんとすらん
千載和歌集 恋二 759 源光行

2016/11/06 脱稿