思ふ心よ 道しるべせよ

 その花は緑の草に覆われて、埋もれるように咲いていた。
 注意深く探さないと、確実に見落としていた。それくらい密やかに、しおらしく咲く花だった。
 緑色の茎に絡まり、花が無数に連なっていた。螺旋を描いて茎を取り囲み、渦を巻く形で花をつけていた。
 綺麗だったと、兄弟に教えられた。興味を惹かれて、具体的な場所を聞き出し、探し始めて数分と経っていなかった。
「うわあ……」
 緑や茶色ばかりの中に、薄紅色の花が背筋を伸ばしていた。
 右を見ても、左を見ても、そこかしこに咲いていた。これまで何度も傍を通った場所なのに、まるで気付かなくて、己の注意力の無さには呆れざるを得なかった。
「秋田に、礼を言わないと」
 かくれんぼが得意な短刀は、こういう隠れたものを見つけるのも得意だ。
 彼はいつも、どんな時でも好奇心旺盛で、目をキラキラさせてあちこちを観察していた。
 情報をもたらしてくれた兄弟に感謝して、前田藤四郎は緩んでいた頬を引き締めた。真顔になって呼吸を整え、軽く一礼した後、淡い紅色の花を一輪だけ手折った。
 長い茎の中ほど、やや根元よりの場所に指を添え、抓み、右へと捻る。一度では千切れてくれなくて、二度、三度と繰り返して、ようやく花は大地に別れを告げた。
「すみません」
 これでもう、この花は種を遺せない。
 小さくも儚い命を摘んでしまったのを詫びて、少年は青臭くなった指ごと花を掲げ持った。
 顔の近くまで寄せても、特に甘い匂いはしない。茎を捩じ切る際に溢れた緑色の汁の方が、よっぽど香りが強かった。
 だが、それもじきに消えるだろう。
「本当に、面白いです」
 どういう進化の過程を辿れば、こんな不思議な形になるのか。
 縄状になって茎に寄り添う花々に目を細めて、粟田口の短刀は顔を綻ばせた。
 花のひとつひとつは小さいけれど、どれも鮮やかな色合いだった。中心部は白く、外側に向かうに連れて赤みが強まっている。茎はそれなりに太くて、無数に咲く花を一心に支えていた。
 手折る時に、低い位置に咲いていた分を何輪か散らしてしまった。鋏を持ってくるべきだったと後悔して、前田藤四郎は天頂部の蕾を撫でた。
 花瓶に活けて、どれくらい持つだろう。
 そもそも一輪挿しなど、持っていない。
「しまった」
 話を聞いて先走った行動に出たのを自覚して、彼は小さく舌打ちした。
 けれど、この花の存在を知って、じっとしていられなかった。
 この目で見てみたい、見せてやりたいと、強い欲求に駆られた。普段ならもう少し慎重に判断を下すのに、今回は後先考えずに突き進んでいた。
「……後で、考えましょう」
 花瓶なら、誰かが持っているに違いない。
 手持ちのものでどうにかするのは諦めて、前田藤四郎は後ろを振り返った。
 緑豊かな木立の向こうに、瓦屋根の家屋が見えた。横に幅広く、奥行きもかなりのものがある。この位置からでもその広大さが、手に取るように分かった。
 歴史改変を目論む者たちに対抗すべく、時の政府の命を受け、審神者なる者が刀剣男士を集めるようになってから、もうじき二年になろうとしていた。
 時を遡れるのは、刀剣のみ。その付喪神たる前田藤四郎たちは、己が本体たる刀を握り、朝に夕に、戦いに明け暮れていた。
 当初は静かで、寂しかった本丸も、今ではすっかり大所帯だ。毎日が賑やかで、騒々しく、どこかで誰かしらが問題を引き起こしていた。
 遠い昔に過ごした大名屋敷での日々が、二重写しになって甦る。
 あの時は人の営みに直接介入することが出来ず、ただ眺めるだけだった。だがこの本丸では、現身を与えられ、人と同じような生活が送れた。
 こうして花を摘むのだって、造作もない。
「気に入っていただけるでしょうか」
 あまり見る機会のない不思議な花を愛でて、前田藤四郎は照れ臭そうに囁いた。
 後先考えずに庭に来たのには、理由がある。つい最近、この本丸に、新たにふた振りの刀が加わった。
 そのうちの片方と、前田藤四郎は、同じ屋敷で暮らしたことがあった。
 いや、共に暮らしていた、というのには語弊があろう。前田藤四郎は守り刀として主君の傍に仕えたが、あちらはそうではない。用いられる時以外は厳重に封印が施され、蔵の中に祀られていたのだから。
 だから彼とは、本丸で初めて顔を合わせたようなものだ。暗く冷たい蔵の中に閉じ込められていた刀とは、言葉を交わしたことはあれども、面と向かって相対する機会は殆ど得られなかった。
 現在の主君たる審神者は、彼を蔵に閉じ込めたりしない。自由に過ごしてくれて構わないと言っている。
 だのに不信感が拭えないのか、大典太光世は本丸内でも部屋に籠りがちだった。
 なんとか外に連れ出して、世界の美しさ、素晴らしさを知ってもらいたい。
 暗い場所に引き籠っているから、考え方も薄暗くなってしまうのだ。どうしても悪い方、悪い方へ思考を巡らせたがる太刀を思い浮かべて、前田藤四郎は踵を返した。
 駆け足で屋敷へと戻り、玄関で脱いだ靴を揃えた。花を傷つけないよう大事に抱え持って、足早に廊下を進んだ。
 短い外套を風にはためかせ、左手で根元を握り、右手は盾代わりに翳した。萎れてしまう前に見せてやるべく居場所を探し、あちこちうろうろして、廊下を曲がったところで脇差とぶつかりかけた。
「うあっ」
「すみません!」
 洗濯物を抱えた物吉貞宗と、危うくぶつかるところだった。
 折り畳んだ衣服を抱えていた少年は、驚いてたたらを踏み、後続の短刀に支えられて事なきを得た。
「どーしたんだ、そんなに急いで」
 兄である脇差の影からひょこっと顔を出し、太鼓鐘貞宗が怪訝にしながら声を出した。頭髪に結いつけた鳥の羽を左右に躍らせ、咄嗟に花を隠した短刀仲間に眉を顰めた。
「あの、大典太さんを、知りませんか?」
「大典太? 天下五剣の?」
 彼もまた、最近本丸にやって来た刀だ。日頃から過去に所縁ある刀たちと一緒にいる事が多いが、今日はその伊達の刀たちが出陣中の為か、兄弟刀である物吉貞宗と行動を共にしていた。
 丁度良い、と話を振り、質問を投げ返す。
 訊かれた少年は目を丸くして、隣に並んだ兄と顔を見合わせた。
「僕たちは、ちょっと」
「見てねえな。どうせ部屋で、ぐずぐずしてんだろ」
「こら」
 天下五剣に数えられながら、大典太光世は根暗で、性格は後ろ向きだ。それが一部の刀には不評で、悪く言われる事も多かった。
 けれど大典太光世だって、好きで蔵に閉じこもっていたわけではない。悪気があっての発言ではないだろうか、ムッとした前田藤四郎より先に、物吉貞宗が拳を上げた。
「いて」
 たいして力は入っていなかったが、ぽかりとやられた少年は首を竦めた。逃げるように身体を外向きに倒して、口を尖らせ、ぶすっと頬を膨らませた。
 露骨に拗ねた弟に、物吉貞宗は小さく溜息を吐いた。やれやれ、と首を振って肩を竦めて、惚けて立つ前田藤四郎に頭を下げた。
「あとでちゃんと、叱っておきます」
「えええ~~~?」
「い、いいえ。そのようなこと」
「大典太さんにも、良いところはあります。ですよね?」
「は、はい!」
 失礼な事を言った弟に代わって詫びて、そそくさと後退を図った太鼓鐘貞宗の腕をしっかり捕まえる。
 温厚な外見に似合わない握力で短刀を拘束して、脇差はにこやかに微笑んだ。
 協調性がないように見える刀でも、胸に熱いものを秘めているかもしれない。まだ本丸に来てから一ヶ月と経っていないのだ、大典太光世について判断を下すのは早計だ。
 前田藤四郎だけが知っている良いところを、これからどんどん広めて欲しい。
 そう囁いた脇差に力強く頷いて、粟田口の少年は顔を綻ばせた。
 嬉しそうに目を細め、前方不注意で危ない目に遭わせかけたのを謝って、駆け出す。
 トタトタと足音を響かせて、彼が向かったのは大広間だった。
 ここは本丸で最も日当たりがよく、景色も良い場所だ。昼間でも、夜遅くでも常に誰かいて、雑談をしたり、碁を打ったり、一番賑やかな部屋だった。
 食事の際には左右を仕切る襖を取り払い、大部屋にして、膳を並べる。座る場所は特に決められていないが、最近の前田藤四郎は、大典太光世の隣が定番だった。
 だが今回は、横に並ぶことは出来なかった。
「どうかした?」
「あの。大典太さんは、こちらには」
 急ぎ足で飛び込んできた弟を振り返り、乱藤四郎が真っ先に声を上げた。首を傾げ、鮮やかな柑子色の髪を揺らし、空色の瞳を怪訝に眇めた。
 中に居たのは粟田口の短刀たちが数振りに、にっかり青江と数珠丸恒次。愛染国俊と蛍丸が折り紙で遊んでおり、近くで寝転がる明石国行が欠伸をしていた。
 他にも何振りかいたが、探し人、ならぬ刀の姿はない。
 息を切らした短刀は肩を何度か上下させ、質問に答えてくれる相手を欲して室内を見回した。
 だが目が合ったほぼ全員が顔を顰め、首を振り、傍に居た者と顔を見合わせた。
「あの……」
「あのお方とは、朝から会うてんなあ」
 誰も答えてくれず、前田藤四郎が焦りを強めて顔を曇らせる。息苦しさに喘いで小さくなった彼を憐れんだか、直後に明石国行が寝返りを打ち、京訛りで呟いた。
 独り言じみた台詞に、俯いていた短刀はハッとなった。その斜め前方では洗濯物の整理中だった太刀が、同じく何かを閃いた顔で背筋を伸ばした。
「なるほど。大典太、だけに」
「いやあ、それはさすがに厳しいと思うよ?」
 駄洒落だったのかと深読みした数珠丸恒次に、同じ青江派の脇差が苦笑しながら答える。顔の前で手を振って、彼は惚けて立つ少年に目尻を下げた。
「ここには来ていないね。部屋じゃないかな」
 人見知りが激しく、親しくない者との会話に不便する刀は、他にもいる。
 そういう刀は得てして部屋に引きこもりがちで、大勢が一堂に会する広間にはあまり顔を出さない。
 歌仙兼定がその典型だと笑う大脇差に首肯して、前田藤四郎は背中に隠した花を握り直した。
 話に出た打刀は、概ね私室か台所のどちらかにいる。だが大典太光世には、逃げ場となる場所がひとつしかなかった。
 本丸にも蔵はあるが、食糧庫を兼ねているので意外に出入りが激しかった。畑で収穫した野菜の匂いで溢れており、静かで落ち着ける空間とは言い難かった。
「そうですね。ありがとうございます」
 助言を素直に受け入れて、前田藤四郎は頭を下げた。丁寧にお辞儀をして、瞬時に来た道を戻り始めた。
「おおでんた……おうてんな……」
「ねえ、君。まだそれ言ってるの?」
 後方で続く青江派同士の会話も気になったが、大典太光世に花を届けるのが先だ。長兄に見付かると叱られるのは分かっているが、駆け足で、刀たちの居住区画へと急いだ。
 屋敷は幾度か増築を繰り返した結果、刀剣男士が寝起きする棟と、食事や軍議を開く公的な空間を集めた棟とに大別されるようになっていた。
 そこに台所や湯屋といった火を使う棟が加わり、玄関を起点に繋がっていた。勿論他にも道はあるのだが、どれも中庭を経由しなければならず、素足で地面に降りるのに抵抗がある前田藤四郎は使ったことがなかった。
 わざわざ遠回りになる経路を使い、最も手前にある短刀部屋へ続く通路を素通りする。あまり立ち入る機会のない太刀らの生活空間へと進めば、廊下に満ちる空気がほんの少し色を変えた。
「なんだか、……いえ」
 具体的に言うなら、匂いが変わった。
 汗臭さや男臭さといった、短刀たちからはあまり感じられないものが空気中に漂っていた。
 決して不快ではないけれど、相応しくない場所に足を踏み入れた気分になって、落ち着かない。自分の存在があまりに場違いすぎて、大人しく立ち去れ、と言われているような錯覚さえ抱いた。
 兄である一期一振からは、あまり体臭がしない。ごくたまに線香の香りを漂わせているが、特定の香を好んでいるわけではなかった。
 共に暮らす弟たちが嗅覚に敏感なので、遠慮しているのだろう。毎日欠かさず風呂に入っているのだって、数居る弟らの面倒を見るついでだった。
 思えばあの太刀には、あれこれ面倒を掛けてばかりだ。
 今後は、あまり甘えすぎないように気を付けよう。そんな事を頭の隅で考えて、前田藤四郎はごくりと唾を飲みこんだ。
 覚悟を決し、えいや、と境界線を踏み越えた。摘んだ直後より些か元気がなくなった花を胸に、沢山並ぶ襖を眺め、目的の名前が記された札を探した。
 刀剣男士には、基本的に個室が与えられていた。望めば複数で生活出来るが、粟田口や堀川を除き、兄弟刀でも共同で暮らすのは稀だった。
 三池の太刀も、個々で過ごすのを選択した。大典太光世と時期同じくして本丸にやって来たソハヤノツルキの部屋は、空室が残る太刀区画の、手前側にあった。
 入り口である襖は閉まっており、物音はしない。大典太光世と違って明るく、元気に溢れるあの刀は、本丸での生活に馴染むのも早かった。
 きっと今日もどこかで、誰かと楽しく過ごしているに違いない。
「大典太さん、いらっしゃいますか。前田です」
 兄弟刀でここまで違うとは、驚きだ。粟田口の統一性の無さを棚に上げて苦笑して、前田藤四郎は真新しい札が下がる部屋の前で立ち止まった。
 ここだけは、身に馴染む匂いが漂っていた。安堵の息を吐いて、強張り気味だった表情を緩めた。
 呼びかけの声は高らかと弾み、ようやく会えるという嬉しさで溢れていた。
 勝手に綻ぶ頬を懸命に引き絞り、花は背中に隠した。いつでも襖を開けられるよう右手を引き手に添えて、返事を待ってそわそわ身を捩った。
「どうぞ~?」
 その彼の耳に飛び込んできたのは。
 予想していた低く掠れた声ではなかった。
「っ!」
 明るく晴れやかな少年声に、前田藤四郎はビクッと肩を跳ね上げた。全く想定していなかった返事に騒然となって、咄嗟に引っ込めた指が引手の角に当たった。
 金具に引っ掛けて、赤い筋が走った。だが痛みを感じている余裕はない。鼓動は急激に速まり、耳鳴りがガンガン響き渡った。
 どくん、どくんと激しく脈打ち、心臓が頭の中に引っ越してきたようだ。眩暈がしてくらりと来て、膝はガクガク震えて今にも崩れ落ちそうだった。
「……え?」
 絶句し、呆然と襖に見入る。
 薄い壁越しに聞こえたのは、良く知る刀の声だった。
「前田? どうしたの、入っておいでよ」
 返事がないのを訝しみ、同じ粟田口の短刀が襖の向こうから彼を呼んだ。慌てた前田藤四郎は顔を上げ、壁に吊るされた札の名前を二度も、三度も確認した。
 大典太光世と、太文字でしっかり書き記されていた。
 だのに部屋から、太刀以外の声がする。
 この不一致に思考が停止して、暫く身動きが取れなかった。
「まえだ~?」
 沈黙に痺れを切らし、短刀の声が不機嫌に沈んだ。
「は、はいっ」
 それで我に返り、前田藤四郎は改めて引手に指を掛けた。
 右に滑らせ、道を開く。新しい畳の匂いが鼻腔に襲い掛かり、明るい光が網膜を焼いた。
 反射的に目を眇めて顰め面を作って、瞬きを繰り返した。唇を咥内に巻き込んで引き結び、少しずつ明らかになっていく景色にはぞっ、と来る悪寒を覚えた。
 胸の奥が焦げ付いたようにチリチリ痛み、泥のような汚いものが喉の奥から迫り上がってきた。吐き気とは異なる感覚に背筋を粟立てて、前田家に縁深い短刀は敷居を跨いだ。
 左手とその中のものは背中に隠したまま、軽く会釈して後ろ手に襖を閉める。
「やっほ。どうかした?」
 出迎えてくれたのは部屋の主ではなく、その膝に腰かけた短刀だった。
 燃え盛る炎の如き赤髪に、好奇心旺盛な真ん丸い眼。人好きのする笑顔を浮かべており、実際彼はかなりの甘え上手だった。
「前田」
 信濃藤四郎を膝に置いて、猫背な太刀が困った顔で目を泳がせる。
 量の多い前髪を後ろに押し流して、大典太光世は訪ねて来た少年の名を小さく口遊んだ。
 行き場のない手を宙に彷徨わせるものの、懐深くに座られている所為で立ち上がれない。長く節くれ立った指は結局畳に落ちて、目地に逆らい爪を立てた。
 身を起こそうとし、途中で諦めた動作の所為で、上にいた信濃藤四郎の身体は前後に揺れた。だが短刀はそれを面白がって、ケラケラ笑い、自ら達磨となって左右に身を躍らせた。
「信濃、動くんじゃない」
 膝でごろごろ動かれるのは、落ち着かない。座るのならじっとしているように言って、太刀は短刀の肩を抱え込んだ。
 束縛されては、さすがの信濃藤四郎も大人しくするしかなかった。それでもどこか嬉しそうに笑って、訪ね来た弟には首を傾げた。
「それで? なに、前田も大典太さんの懐、入りに来たの?」
「あの、いえ。そういうわけでは」
 話を振られて、前田藤四郎は口籠った。どう言えば良いか分からなくて咄嗟に否定して、僅かに遅れて首を振った。
 信濃藤四郎も、大典太光世と少なからず縁を結んだ刀だった。
 というよりは、一緒にいたことがある。平野藤四郎や、愛染国俊らとも顔見知りだった。
 蔵の中に引き籠っている太刀を気にして、顔を拝んでやろうと四振りであれこれ試したこともあった。その際陣頭指揮を執ったのが、そこで笑っている短刀だった。
 前田藤四郎はいつも後ろをついて回るだけで、率先して行動したことはなかった。お蔭で兄には色々振り回されて、若干の苦手意識があった。
 今もそれは残っており、尻込みして、無意識に後退を図っていた。折角お目当ての刀に会えたのに、今すぐ取って帰ってしまいたかった。
 指先に力が籠り、持っていた花の茎が潰されて拉げたのが分かる。ただでさえ摘み取られて弱っていたところに、駄目押しされて、不可思議な形をした花は力を失ってよろめいた。
 手首に軽いものが倒れ込む感触に、悔しさが膨らんだ。どうして、と先に部屋にいた短刀に対して苛立ちが生まれて、心が膿んでいくのが肌で感じられた。
「あれ? そうなの?」
「俺になにか、用か。前田」
 摺り足でじわじわ距離を作る短刀に、信濃藤四郎が首を捻った。不思議そうに目を丸くして、座椅子にしている太刀に一瞥を加えた。
 真下からの視線を受けて、大典太光世も眉を顰めた。いつも通りの低い声で囁いて、来訪の目的を問うた。
 用があったから、わざわざここまで足を運んだのではないのか。
 真っ直ぐ投げかけられる眼差しに臆して、前田藤四郎は不意に泣きたくなった。
 目頭がじんわり熱を持ち、鼻が詰まって息がし辛い。慌てて奥歯を噛んで呼吸を止めて、少年は苦くて堪らない唾を飲みこんだ。
 ぐっと腹に力を込めて、口を開き、空気を吐き出す。
「い、いえ。たいしたことでは」
「ふ~ん? な~んだ。てっきり、懐探してうろうろしてたんだとばっかり」
「信濃兄さんと一緒にしないでください」
「あれれ~? そういう事言っちゃう?」
 そこまで深刻な用件があったのではないと、言い訳が口先から飛び出した。意識していなかったのに勝手に音が零れ落ちて、真実を包み込み、覆い隠した。
 僅かに上擦ったその声を信じたのか、太刀の膝で寛ぐ短刀が緩慢に頷く。
 常に誰かの懐を狙い、潜り込む隙を探している刀に言われたくない。そう非難すれば、それこそが短刀の本義だと主張する少年は口を尖らせた。
 同じ短刀ならば分かるだろう、と決めつけられて、反発したら怒られた。
 確かに懐に抱かれるのは安心するし、気持ちが良いものだけれど、誰彼かまわず、というのではない。
 その辺はもっと分別を弁えるべきと、前田藤四郎は思っていた。
「だってさ、しょうがないじゃん? いち兄の膝は秋田とか、五虎退が優先だし、日本号さんは博多のだろ? 宗三さんの膝に座ったら薬研が怒るし、歌仙さんのは小夜のだって言われたし。鶯丸さんは平野が独占してて、燭台切さんは太鼓鐘優先だって言うしさ。江雪さんの膝は、なんでかいち兄が駄目って言うんだよ?」
 それを言えば、信濃藤四郎はムッと頬を膨らませた。
 これまで拒まれてきた刀の名前を、指折り数えて目を吊り上げた。不機嫌を隠しもせずに拗ねて、駄目だと言われたのに身を揺らした。
 左右にぐらぐら頭を振って、椅子代わりにされている大典太光世を呆れさせる。
「俺なんかの、どこがいいんだ」
「駄目?」
「いや。そういう訳じゃないが、つまらんだろう」
「別に、俺、気にしないし。大典太さんの懐って、広くて、あったかいよ。前田もそう思うでしょ?」
 蔵住まいが長く、気の利いたひと言も言えない。知識が豊潤というわけでもなくて、話し相手としては失格だ。
 一緒に居て楽しい筈がないと言い切った彼に、そういうのは二の次だと信濃藤四郎が言い返す。そして弟に水を向け、同意を求めて目を輝かせた。
「ええ?」
 訊かれた方はぎょっとして、ぴん、と背筋を伸ばした。
 これには賛同してもらえるだろうと、兄の眼差しは希望に満ちていた。その上から注がれる眼差しも、不安と期待が入り混じった様相を呈していた。
 自分には暗く湿気た蔵がお似合いだ、と常々口にする太刀は、要するに自分に自信がない。刀として正しい用途に使われた記憶に乏しく、外に持ち出されるとすれば病の平癒を求められてか、見世物扱いのどちらかで。
 勇猛果敢な武士の腰を飾り、戦場を駆け回るなど、夢のまた夢だった。
 だからそれ以外で、自分が求められる機会があるのかと疑っている。
 短刀の座椅子程度の役目だとしても、大典太光世にとって、必要とされるのは喜びだった。
「前田?」
 暗く澱んだ眼が光を帯び、立ち竦む短刀を映していた。
 雨上がりの若葉のような眼差しを一心に浴びて、前田藤四郎は総毛立った。
「僕、には。……分かりません!」
 衝動的に、吼えていた。
 注がれる視線に、羞恥とも憤怒とも取り難い感情が溢れた。一秒と長くこの場に留まりたくなくて、逃げ出したくて、実際その通りに身体は動いていた。
 どうしてこんなに哀しいのか、さっぱり見当がつかなかった。自分のことなのに自分でも分からなくて、鼻をぐじ、と愚図らせると、前田藤四郎はその場で身体を反転させた。
 間近に迫っていた襖を力任せに開き、廊下へと身を躍らせた。閉めもせずに放置して、足音五月蠅く駆け出した。
「前田?」
「ちょ、えええ?」
 慌てたのは部屋の中にいたふた振りで、突然のことに絶句し、声をひっくり返した。
 立ち上がった大典太光世の膝から転がり落ちて、信濃藤四郎は目をぱちくりさせた。だがそれ以上に驚いたのは、何事にも受け身な太刀が、血相を変えて走り出したことだった。
「前田!」
 ドスドスドス、とこちらは低くて重い音を轟かせ、出て行った短刀を全速力で追いかけて行った。悲鳴めいた上擦った声で名を呼んで、気配はあっという間に遠ざかった。
 見事に置いて行かれて、内股に座り直した短刀は唖然とし、静かになった空間を見回した。
 そして。
「ちぇ~っ」
 お気に入りの場所がまたひとつ減ったと喚き、面白くないと大の字になった。

 大典太光世の部屋で信濃藤四郎が不貞腐れていた頃。
 前田藤四郎は腕を前後に振り、必死になって廊下を駆けていた。
 とはいっても、ここは屋内だ。誰かと衝突する危険があり、あまり速度は出せない。注意深く進路を探って、歩く者が居れば無意識のうちに足を緩めていた。
 それもこれも、長兄の厳しい躾の賜物だ。こんな状況でも癖が抜けないくらいに、深い場所に染みついてしまっていた。
「ああ、もう」
 前方から髭切と膝丸の兄弟がやってくるのが見えて、やきもきした。どうしてこんな時に会うのかと地団太を踏んで、談笑しながら去っていく太刀らに小さく頭を下げた。
 焦っているのに、焦れない。
 バクバク言い続ける心臓を服の上から撫でて、前田藤四郎はにこやかに手を振った髭切にぎこちない笑みを返した。
 これからどこかへ出かけるのか、膝丸が頻りに注意点を話しかけている。だが髭切はあまり興味がないようで、まるで聞いていなかった。
 関係ないことを口にして、弟を怒らせては、楽しそうに声を立てて笑った。いつだって真剣な太刀をわざとからかい、遊んでいるようで、どこかの誰かに通じるところがあった。
 信濃藤四郎に悪気があったわけではなく、彼はいつだってあんな感じだ。頼めば場所を譲ってくれただろうし、用があるとちゃんと言えていたら、空気を読んでくれたに違いない。
 それなのに、出来なかった。
 巧く立ち回れなくて、ひとり相撲に興じた挙句、失礼な態度を取ってしまった。
「どうして、こうなるのでしょう」
 ただ単に、話をしたかっただけなのに。
 綺麗に咲いた花を眺めながら、外にはもっと綺麗なものが溢れていると、大典太光世に教えてやりたかっただけなのに。
 その場に信濃藤四郎がいても構わなかったのだ。なのに、どうしても許せなかった。待ち望んでいた時間を邪魔された、という感情ばかりが胸に渦巻き、制御出来なかった。
「……あれ?」
 また溢れそうになった涙を堪え、左手で目元を擦る。
 握った拳の背を二往復させて、そこで彼はきょとんとなった。
 奇妙に思って、手を広げた。何度か握って、開いてを繰り返して、零れ落ちるものがなにもない状況に騒然となった。
「あれ。あれ。あれあれあれ?」
 右手も開き、続けて足元を見た。踏んでいないかと交互に持ち上げて、腰を捻って背後を覗き込みもした。
 だがどこを探しても、何もなかった。
 庭で摘んできた花が、忽然と姿を消していた。
 あの華やかな赤色が、近くに見当たらなかった。爪の間に緑色の汁が滲むだけで、花そのものは行方をくらましていた。
 理由は、分かり切っている。大典太光世の部屋を飛びだした後、どこかで落としたのだ。
「そんな」
 他の者が見れば、芥に見えるかもしれない。床を汚していると、屑籠に放り込まれておしまいだ。
 庭に行けば、まだ咲いている。数えきれないくらい沢山で、より取り見取りだ。
 しかし、そういう問題ではないのだ。前田藤四郎はあの花を、太刀に見せたかった。一等綺麗な咲き方をしているものを選んで、喜んでもらいたいと願いながら摘んできたのだ。
 空っぽになった両手に愕然として、彼は背筋を震わせた。内臓がぎゅっと一ヶ所に集まって、窄まり、圧迫された肺が苦しかった。
「前田」
 荒い息遣いが聞こえた。ぜいぜいと音を響かせ、囁かれた声はいつも以上に低かった。
 太刀は身体が大きくて攻撃力が高い分、足は短刀より遅い。あのまま走り続けていたら、並ばれることはまずなかった。
 だが、追い付かれてしまった。
 花を失った衝撃に、自分の置かれた状況を忘れていた。信濃藤四郎が一緒の可能性を勘繰って警戒して、びくびくしながら男を振り返った。
「すまん」
 直後だ。
 突然大典太光世が深く頭を下げ、短刀に向かって謝罪した。
「大典太さん?」
 前置きもなにもなく、唐突だった。いったい何に対して謝っているのか分からなくて、前田藤四郎は絶句した。
「ど、どうしたんですか。急に。なにを謝るんですか」
「お前が、あんな顔をして、出て行ったのは。俺がなにか、お前の気に障ることをしたからだろう?」
「それは――」
 混乱して両手を振り回せば、頭を垂れたままの太刀が床に向かって言った。質問の形式を取ってはいたが、彼の中で結論が出ているらしく、言葉には力があった。
 具体的な内容は不明ながら、自分の行動、或いは存在が、前田藤四郎を傷つけた。でなければ部屋を飛び出して行ったりしないと、説明は理路整然としていた。
 非は己にあると断じた男の顔には、苦悶と後悔が滲んでいた。眉間の皺が深くなり、瞳は輝きを失い、唇は横一文字に引き結ばれた。
 詫びても詫びきれないと、見ている方が辛くなる表情で見つめられた。
 その通りだと肯定など出来なくて、けれど軽々しく否定も出来なくて。
 前田藤四郎は口籠り、目を泳がせた。
 そもそも、正直な話。
 どうして大典太光世の部屋を飛び出したのか、彼自身も未だ理由が掴めていなかった。
 兄に先を越されたのが不満で、嫌悪感が募ったのは確かだ。けれど大典太光世は、誰のものでもない。その膝を独占する権利は、前田藤四郎だって有していなかった。
 膝を貸す太刀が許したのだとしたら、信濃藤四郎に腹を立てるのは、筋違いも良いところ。
 それでも納得がいかず、面白くなくて、見ていたくなかった。
 「大典太さんが、悪いんじゃありません」
 あれは前田藤四郎がひとり臍を曲げて、一方的に気分を損ねただけのこと。
 大典太光世に罪はない。むしろ謝罪すべきは、身勝手極まりない短刀の方だった。
 折角の寛ぎの時間に水を差し、嫌な思いをさせてしまった。信濃藤四郎にも後できちんと頭を下げて、許しを請わなければいけなかった。
 首を横に振り、前田藤四郎は膝の前で両手を揃えた。行儀よく腰を九十度に曲げて、心配して追いかけて来てくれた太刀に感謝の気持ちを伝えた。
 嬉しかった。
 そう思うのはいけない事と分かっているが、昂ぶる想いを止められなかった。
「前田……」
「大典太さんの御膝は、僕だけのものではないのに」
 甘え上手の兄ではなく、自分を優先させてくれたのが、堪らなく気持ちよかった。
 こんなにも醜く、嫌らしい部分があったのだと思い知らされた。醜悪な独占欲が胸に溢れ、充足感が全身に満ちた。
 なんと罪深く、汚らわしいのだろう。
 自分自身でも知らなかった賤しい一面を垣間見て、前田藤四郎は自嘲気味に微笑んだ。
 大典太光世だって、こんな風に思われて、さぞや迷惑だろう。詰られる覚悟は出来ており、責めを受けるのは当然だった。
 ただ、嫌われるのだけはいやだった。
 我が儘が過ぎる感情に表情を曇らせ、瞼を伏す。
「分かった」
 ため息交じりのひと言が降って来て、短刀はそっと口角を持ち上げた。
 滲み出る涙を堪えて息を止め、奥歯を噛んだ。全ては自業自得と己を嘲って、溜息を吐くべく唇を窄めた矢先だ。
「お前以外を、座らせなければ良いんだな」
「――え?」
 きっぱり、はっきり、朗々と響く声で告げられた。
 何の迷いもなく、逡巡もなく、躊躇もせずに言い切られた。
 聞き間違いを疑って、前田藤四郎は目を点にした。呆気に取られてぽかんとして、惚けた口をぱくぱくさせた。
 金魚が餌を欲しがるような動きで見上げられて、大典太光世がふっ、と気の抜けた笑みを零した。
「あいつは、動き回るからな。じっとしていない。正直言って、少し迷惑していた」
「大典太さん」
「お前がそんな顔をするくらいなら、これくらい、容易いことだ」
 目元を綻ばせ、手を伸ばしてきた。避ける間もなく頬を擽られて、前田藤四郎は信じ難い気持ちで立ち尽くした。
 夢でも見ているのではないかと疑って、緑に染まった爪で腿を抓る。
「いっ」
「前田?」
 遠慮なく、容赦なく力を込めたら、少しやり過ぎた。
 ザクッと刺さった痛みに呻けば、竦み上がった原因を勘違いした男が慌てた様子で手を引っ込めた。
「すまん、出過ぎた真似をした。俺のような刀に言われても、お前は迷惑だろうに」
 焦っているのか早口に言って、陰鬱な表情を浮かべて下を向く。
「違います。今のは、そうじゃなくて」
 そんな男に身を乗り出して、前田藤四郎は声高に捲し立てた。
 今度こそ、本心から否定した。照れ臭さを笑いで誤魔化して、頬を緩め、目を細めた。
「嬉しい、です」
 胸の中に蟠っていた、黒くもやもやしたものが晴れていく。
 最後に顔を出した感情を素直に言葉にすれば、大典太光世は一瞬固まって、困った風にこめかみを掻いた。
「そうだ。お前に」
「はい?」
「これを」
 目を泳がせて囁いて、腰の辺りをごそごそさせる。
 ちょっとしたものを入れておくのに便利な衣嚢から出て来たのは、前田藤四郎がなくしたあの花だった。
「さっき、廊下に落ちているのを拾ってな。踏むのは哀れだと思って」
 紅色の花弁が緑の茎に絡みつき、螺旋を描いていた。所々で散ってしまい、歯抜けになっていたが、まだ充分愛らしかった。
 それを潰さないよう指先で抓み持ち、男は短刀に一歩近づいた。距離を詰め、茎の先端を少し弄って、惚けて立つ少年の左耳のすぐ上に挿した。
 甘茶色の髪を押し退け、落ちないよう固定された。左右に軽く捻って安定させて、太い指は離れていった。
 そして半歩下がり、惚ける短刀を上から下まで眺めて。
「ああ、思った通りだ。お前によく似合う。愛らしいな」
 満足そうに頷き、笑いかけられた。
 真顔で朗らかに告げられて、前田藤四郎はボッ、と顔から火を噴いた。

まだ知らぬ人をはじめて恋ふるかな 思ふ心よ道しるべせよ
千載和歌集 恋一 642

2016/10/06 脱稿