たぎつ心を せきぞかねつる

 本丸での暮らしは丸一年を過ぎて、二年目へと突入していた。
 季節も一巡し、最初の頃のドタバタぶりが嘘のようでもある。当初は何をするにも困惑が先に立ち、これでいいのかと手探り状態だったが、今ではある程度慣れて、昔ほど失敗しなくなった。
 とはいっても、それは本丸での生活に馴染んだ刀たちの話。
 最近戦列に加わった者は、その限りではなかった。
 顕現した直後は、とにかく色々と大変だ。人に似せたこの身体に馴染むのには、相応の時間がかかる。食事や、睡眠といった諸々を理解するのにも、ある程度の猶予が必要だった。
 誰もが戸惑い、通る道だ。
 新たに仲間になった者たちの困惑は、皆が一度は経験した覚えのあるものだった。
 だから一定の時間が過ぎ、この地での生活にある程度順応した後。
 彼らが次に目を向けるのがどこか、想像するのは簡単だった。
「外が、気になりますか?」
 暫く黙って見ていたが、猫背気味の背中はまるで動かなかった。縁側にどっかり腰を下ろしたまま、微動だにしなかった。
 脚を肩幅より少し広めに開き、腿の上に肘を立てていた。胸の前で組まれた指は長く、骨張り、体格に見合う男らしい外見だった。
 思い切って話しかけてみれば、その広い肩がピクリ、と持ち上がる。反応は瞬時に返されて、眠っていたわけではないのが分かった。
 まず先に背筋を伸ばし、左右で結んでいた指を解いた。そうして腰を捻って振り返った男は、色白というより些か青白い、不健康そうな肌色をしていた。
 長く陽の当たらない場所で生活していたのが、こんなところに影響を及ぼしたらしい。不揃いの黒髪は癖が強いのか、毛先が四方に向かって跳ねて、悩ましげな眼差しを隠していた。
 眉間の皺は深く、簡単には消えない。
 睨むような眼は生来のもので、あちらに悪気があるわけではなかった。
「前田」
「先ほどから、ずっと。眺めておいでですね」
 初めのうちは怯えることもあったが、この頃はすっかり免疫がついた。鋭い眼光にも臆することなく微笑み返して、前田藤四郎は数歩の距離を一気に詰めた。
 隣に行っても良いか許可は求めず、当たり前のように近付いて、困っている雰囲気の太刀に目尻を下げる。大典太光世は瞳を左右に彷徨わせると、場所を譲ろうとして、遠慮がちに右にずれた。
 彼がいたのは、賑やかな大広間から少し離れた場所だった。
 耳を澄ませば、大勢の騒ぐ声が聞こえた。しかしこの先は行き止まりなので、共に暮らす仲間たちはあまりやって来ない。
 静かではないが、騒々しくはない。ひとりで過ごすのにはもってこいの、そういう場所だった。
 屋根が日陰を作り、太陽を隠していた。もっとも庭を照らす陽射しは穏やかで、夏場の険しさはすっかり遠くなっていた。
 暦は秋へと進み、冬へ向かおうとしていた。庭を彩る木々が真っ赤に色付くのも、もう間もなくと思われた。
「この前と、少し。景色が違う気がする」
 あの燃えるような赤は、鮮烈だった。
 あれから一年が過ぎたのかと思うと、驚きが隠せない。今でも鮮明に思い出せる景色に胸を高鳴らせ、前田藤四郎は深く頷いた。
 こんなところでなにをしているのかと思ったが、ただ眺めていただけらしい。
 ひと振りだけでぽつんと座っている姿が寂しげに見えて心配だったが、杞憂だったようだ。
「そうですね。少しずつ、変わって行っています」
 この場に歌仙兼定がいたら、風流が分かるのか、と大喜びしそうだ。情景を想像して目元を綻ばせて、粟田口の短刀は膝を揃えた。
 大典太光世の左隣に正座して、外を眺める。大広間から見えるものとは角度が異なる為か、池の奥に茶室があるように映った。
 手前の桜は緑濃く、まだまだ色を変える気配がない。もみじの葉も青々として、夏の名残を楽しんでいた。
 それでも着実に、季節は移ろおうとしていた。
 咲き誇っていた花々が散り、次の世代へ種を残そうと動き始めているのだと、どう説明すれば伝わるだろう。
 簡潔にまとめるのは難しくて、前田藤四郎は人差し指で顎を掻いた。
 髭など生えるはずのない場所を撫で、横からの視線を感じて瞳だけを上向ける。目が合った男は一瞬ビクッとした後、何も言わずに顔を背けた。
「大典太さん?」
「いや。前田は、・‥‥‥変わらないな、と。思っただけだ」
 挙動不審に目を逸らされて、少し気になった。
 首を傾げていたらしどろもどろに返されて、栗色の髪の少年は目を瞬いた。
 時が過ぎれば、景色は変わる。木々は葉を落とし、虫は卵を遺し、獣は子を産み、育てる。
 だが、彼らは。
「僕は、刀ですから」
 何を当たり前のことを、と笑って、前田藤四郎は笑窪を作った。目を細めて白い歯を見せれば、振り返った大典太光世がなんとも評し難い表情を作った。
 困っているような、憐れんでいるような。
 惑っているような、納得しているような。
「大典太さん?」
「ああ。そうだな」
 何故そんな顔をするのか分からなくて、短刀が僅かに身を乗り出す。
 それを掌で押し留めて、大柄の太刀は立ち上がった。
 ずっと座っていた所為で凝り固まった関節や筋肉を解し、腕を伸ばして軽く揺すった。腰に手を当ててぐーっと背を反らして、天を仰ぎ、草履の裏で地面を叩いた。
 屋敷の床は、地面より一尺ほど高い位置にあった。だが前田藤四郎がたとえ立ち上がったとしても、地上に佇む大典太光世の背丈を越えられなかった。
 短刀と太刀なのだから、当然といえば当然だ。それはどう足掻いても覆しようがないのだけれど、ほんの少し悔しかった。
 広い肩幅も、逞しい二の腕も。
 彼らの兄にあたる一期一振はどちらかと言えば華奢で、身長も太刀としては控えめだ。以前はその背中ばかり見上げていたので、大典太光世が顕現した時には、あまりの違いに驚かされた。
「前田。あちらには、何がある」
「では、ご案内しますね」
 大典太光世とは過去にも縁があり、言葉を交わした事ならあった。だが彼は常に鍵の掛かった蔵の中に置かれ、声こそ聞こえども、姿を見るのは叶わなかった。
 前から知っている相手なのに、本丸で初めて顔を合わせた。紹介を受けたのにお互いきょとんとして、「はじめまして」と頭を下げ合ったのは、笑うに笑えない冗談だ。
 ともあれ、昔は望むだけだったあれこれが、今は好きなだけ出来る。
 庭の奥を指差した太刀に目を眇め、前田藤四郎も立ち上がった。
 床板に圧迫されて凹んだ膝を撫で、靴を取ってくると玄関の方角を指差した。大典太光世は緩慢に頷いて、歩き出した短刀に歩調を合わせようとした。
「すぐに戻りますので。ここで、待っていてください」
「……分かった」
 このまま一緒に、玄関まで行くつもりらしい。だが屋敷の廊下は、そこまで一直線ではなかった。
 そういうところが、彼はまだ理解出来ていない。屋敷の構造を把握し切れていない太刀にクスリと笑みを漏らして、前田藤四郎は自分の足元を指し示した。
 天下五剣に数えられる男は素直に応じて、一度下を見て、首肯した。脇に垂らした両手がきゅっと握られて、表情は捨てられた子犬のようだった。
 ちょっとしたことで不安を覚え、悪い方に考えようとするのは、彼の悪い癖だ。
「すぐですから」
 心配しなくても大丈夫だと繰り返して、前田藤四郎は一歩の幅を広くした。
 小走りに駆けて玄関へ向かって、似たような形や大きさが並ぶ靴の中から、自分のものを探し出す。爪先で引っ掛け、踵まで押し込んで、転がるように外へと出る。
 軒下を抜けると、空の明るさに一瞬目が眩んだ。
 真夏の昼間ほどではないにせよ、陽光は鋭い。
 たまらず右腕を庇代わりにして、頭の中で本丸の地図を広げた。
 本丸は皆が暮らす屋敷を中心に、いくつかの区画に分かれていた。
 広大な面積を持つ畑は雑木林を抜けた北東側に存在し、馬小屋は南東側にあった。刀剣男士たちが鍛練に使う道場は西側で、南側には座敷から望むような光景が広がっていた。
 太鼓橋が架かる池の畔に、茅葺の茶室。遠方には山が連なり、ただでさえ華やかな景色に色を添えていた。
 大典太光世が興味を抱いたのは、その池の先だった。
 この数日で屋敷内をある程度歩き回り、重要な拠点は把握したようだ。となれば次に関心が向かうのは、屋敷の外側だ。
 前田藤四郎も、そうだった。彼が顕現したばかりの頃は仲間も少なく、毎日が失敗と発見の連続だった。
 延々と広がる庭の探索も、幾度となく繰り返した。その結果甘い実をつける木を見つけたり、顔ほどの大きさがある葉を茂らせる植物に驚いたりと、冒険気分で楽しかった。
 近頃はとんと足が遠ざかり、珍発見に胸をときめかせる機会は減った。
 久しく忘れていた興奮を蘇らせて、前田藤四郎は道を急いだ。
「お待たせしました」
 約束通り駆け足で戻れば、大典太光世は軒先で立ち尽くしていた。
 座って待っていても良かったのに、そこまで頭が回らなかったのだろう。声を掛ければあからさまにホッとした様子で、険しかった表情を少しだけ緩めた。
 それにつられて、前田藤四郎も顔を綻ばせた。
「では、参りましょう」
「頼む」
 太刀の手前で足を揃えて止まり、左手を掲げて庭の方を示す。
 大典太光世はそちらをちらりとも見ようとせず、短刀に焦点を定めたまま小さく頭を下げた。
 庭を気にして眺めていたのに、そこまで関心がないのだろうか。もしや無理強いたかと不安になったが、様子を窺う限り、そうとも言い切れない雰囲気だった。
「ここは、色々な音がする」
 感嘆の息を漏らし、大典太光世が呟く。
 歩き出した彼の歩幅はさほど大きくなくて、小柄な短刀に合わせているのは明白だった。
「大勢が、一緒に暮らしていますから」
 屋敷の前を離れて、下草が生い茂る中に出来た細い道を進んだ。ここも昔は一面緑だったのだが、何度も、何振りもが往復するうちに、自然と草が生えなくなって出来た道だった。
 そういう場所が、他にも沢山あった。まるで自分たちの生きざまを大地に刻み付けているようで、ここを通る時、前田藤四郎は少し自分を誇らしく思った。
 両手を広げ、左右に身体を揺らしながら、大典太光世の前を行く。
 振り返った先には俯き加減な太刀と、瓦屋根の大きな屋敷が見えた。
「そうだな。だが、それだけじゃない」
「え?」
 広間では兄弟たちが賑やかに、わいわい過ごしている筈だ。どれだけ語らい合っても話題は尽きず、毎日がとても充実していた。
 思いを巡らせ、遠くなった喧騒に耳を傾けた。すると大典太光世は足を止めて、短刀の前でゆるゆる首を振った。
 きょとんとなった前田藤四郎に目を細め、彼はやおら上を見た。背の高い木々が四方に枝を伸ばし、数えきれないほどの緑がその間を埋め尽くしていた。
 木漏れ日は柔らかで、ゆらゆら揺れるのが美しかった。どこかで鳥が囀って、鹿らしき鳴き声が彼方からこだました。
「……ああ」
 そうか、と納得して、前田藤四郎は肩の力を抜いた。息を整え、瞼を閉ざし、己を取り巻く数多の息遣いに耳を澄ませた。
 地面を這う虫たち、木の実を集める小動物。餌を求めてさまよう獣に、塒へと急ぐ鳥の羽ばたき。
 それらはいずれも、この本丸ではなんら不思議ではない、当たり前に存在するものだ。
 けれどここにいる太刀は、それが得られないでない場所で、長い時を孤独に過ごしていた。
 烏さえ停まらぬ蔵に、押し込められて。
 有り難い霊力と持て囃しておきながら、用済みとなれば封印して、腫物扱いで。
 敬うと同時に畏れられ、遠ざけられた。大典太光世にとって、命の営みというものは、あらゆる面で最も縁遠いものだった。
 死に向かっていた者を救いはしても、その行く末を見届けるのは許されなかった。
 武器でありながら、人を生かす為に使われた。彼の内側にはいくつもの矛盾が、複雑に絡み合って存在した。
「ここは、主君の御力に守られていますから。鳥が落ちることはありません」
「前田」
「あそこに、栗鼠がいますね」
 守り刀として常に主の傍にあった短刀には、その複雑な胸中を紐解く術がない。
 だがせめて、彼が抱える哀しみを減らせたら。そう願って、前田藤四郎は樹上を指差した。
 小鳥を死なせてしまったと、心優しき太刀が二度と悔やむことのないように。
 祈りを込めて、彼が知らないだろう生き物を教えてやろうと声を高くした時だ。
 カサッ、と低い位置で音がした。
 なにかが野の草に触れて、動く。そういう音が響いた。
「――っ!」
 反応は、大典太光世の方が早かった。
「うわ、あ」
 突如脇腹を抱えられて、前田藤四郎は悲鳴を上げた。後ろからぐっと力を込められ、引っ張られて、軽い身体は呆気なく宙に浮き、地表に別れを告げた。
 足の裏が空を蹴り、斜めに傾いた身体が海老のように反った。咄嗟に掴めるものを探して手をばたつかせて、握り締めたものは太く、固く、それでいて暖かだった。
 爪を立てればガリッと刺さる感触があり、耳元で「うっ」と呻く声がした。頑強な牢に閉じ込められて、ジタバタ暴れても枷は外れなかった。
 捕まった。逃げられない。その上背中にぴったり何かが張りついて、首筋を細い糸の束が掠めた。
 荒い息遣いが聞こえた。背後から圧し掛かるようにして、大典太光世が前田藤四郎を抱きかかえていた。
「お、おおっ、おおでん、た、さん?」
 急に抱きしめられて、他者の体温が全身を包み込んだ。今まで嗅いだことのない匂いがして、触れ合った場所から鼓動が流れてくるようで、いきなりの荒々しい仕草に頭が破裂しそうだった。
 いったい、何が起きているのか。
 困惑して、動揺して、目の前がぐるぐる回って見えた。心の準備もなにも出来ていないと、訳が分からないことを考えて混乱の境地に達していた、直後。
 空を切り裂くような、鋭い声が放たれた。
「誰だ!」
 それでハッとして、前田藤四郎は大典太光世の腕の中でかあぁっ、と顔を赤くした。
 蔵入りとはいえ、彼は天下五剣に数えられる美麗、且つ勇猛果敢な太刀。性格は根暗で、悪い方向にばかり物事を受け止めたがる傾向にあるが、戦場では凛と胸を張り、堂々とした佇まいで挑んでいた。
 その男が、眼光鋭く前方を睨んでいた。
 武器を持たず、無防備な短刀を胸に庇って。接近する不審な存在に対し、牙を剥き出しにしていた。
 触れれば斬れる刃の如き鋭さで、全身全霊をかけて前田藤四郎を守ろうとしていた。
「……っ」
 彼もまた丸腰だったが、日頃の癖か、利き腕は腰に伸びていた。掴むものがないと悟った指は固く握られ、拳を形成し、不意打ちに備えて警戒を強めていた。
 見えない敵を射る眼差しは、まるで獰猛な肉食獣だ。奥歯を噛み、腹に力を溜めて、いつでも応戦出来る構えを作っていた。
 練度で言えば、前田藤四郎の方が圧倒的に彼より上だ。新参者の大典太光世より、よほど実戦慣れしていると言えた。
 だのにこの男は、迷わず短刀の守る体勢を取った。条件反射とでも言うのか、後先考えない行動だった。
「大典太さん」
 真剣な眼差しを間近で見せられて、前田藤四郎は息を呑んだ。
 野獣めいた表情は日頃の彼とはまるで別人で、あまりの落差に目が離せなかった。
 背筋がぞわりと震えた。抱きしめてくる力強さに四肢が粟立ち、短刀として懐に抱かれる快感もあわさって、今まで経験したことのない高揚感に襲われた。
 心の臓がどくりと脈打ち、頼んでもいないのに顔が火照った。じわじわ熱が広がって、内側から焼かれているようだった。
「出て来い!」
 大典太光世は声を荒らげ、藪の奥に向かって凄味を利かせた。前田藤四郎を抱えたまま身を乗り出し、大きな拳を横薙ぎに払った。
 ぶうん、と空気が震えた。周囲の草花が一斉に波打って、斜めに倒されて道を作った。
 圧倒される程の怒気が渦を巻き、守られている側の筈の短刀までもが息を呑んだ。背筋にぞぞぞ、と悪寒が走り、萎縮した内臓が胸の中心を圧迫した。
 きゅぅぅ、と締め付けられる衝動に、声のひとつも出せなかった。
 本丸は審神者の結界に囲われ、外部からの侵入を拒んでいる。歴史修正主義者でさえ手出し出来ないと、そんな風に聞かされていた。
 しかし今、大典太光世は敵意を察知し、警戒していた。索敵能力に勝る前田藤四郎がなにも感じなかったのに、だ。
「大典太さん」
 もしや、と想像を巡らせて、彼は掠れる小声で訴えた。己を抱え込む男に向かって手を伸ばし、喉元まで覆う丸衿を掴んで引っ張った。
 精一杯力を込めて、前方を凝視する男の注意を引き寄せた。
 そして。
「……?」
 彼らの三歩先では、緑の藪が左右に踊り、隙間からぴょこっと白い塊が顔を出した。赤くつぶらな瞳で彼らを見詰め、首を傾げるかのように、長い耳を横に倒した。
 全身毛で覆われて、手足は短い。爪は見えず、牙の類も見当たらなかった。
 小振りの鼻をヒクヒクさせて、不思議そうに刀剣男士を窺っていた。言葉は通じず、意思疎通を果たすのは難しかったが、害意がないのだけは間違いなかった。
「え?」
 そんな無害の草食動物に見上げられて、予想を違えた男は絶句した。
 初めて目にする生き物に唖然とし、惚けた顔で瞬きを繰り返す。言葉を失い、凍り付いて、戸惑った様子で目を泳がせた。
 助けを求める眼差しを受けて、前田藤四郎は嗚呼、と小さく頷いた。矢張り、という気持ちが一気に膨らんで、呆れとも感嘆とも取れない、なんとも言い表し難い気分になった。
「兎、です。ね」
「うさ、ぎ」
 その正体を口にして、頬を緩める。
 太刀は鸚鵡返しに呟いて、ぽかんとしながら白兎に見入った。
 一尺に満たない体調に、丸々とした体型で、毛並みはとても柔らかそうだ。細い髭が鼻の動きに合わせて上下に振れて、真紅の瞳がこちらを注意深く窺っていた。
 好奇心たっぷりに見つめられて、刀剣男士を怖がらない。もしや近付いてくるか、と短刀は期待したが、残念ながらそうはならなかった。
 カサカサ、と草が揺れたかと思えば、兎の耳が途端にピンッ、と跳ね上がった。同時に後ろ足でぴょん、と立ち上がって、慌ただしく左右を見回したかと思えば、高く飛び跳ね、茂みの中へと姿を消した。
「ああっ」
 一瞬の早業に、息を殺して見守っていた少年は悲鳴を上げた。
 抱き上げればさぞ暖かく、触り心地もよかろうと期待しただけに、残念でならなかった。
 藪はその後しばらくガサガサ言っていたが、さほどしないうちに静かになった。風で揺れることもなくなって、互いの呼吸ばかりが耳についた。
 吐息が襟足を掠める。
「大丈夫、です。大典太さん。あれは、無害です」
「……そのようだな」
「はい」
 肌を擽る微熱にかぶりを振って、前田藤四郎は硬直したままの太刀の胸を叩いた。
 惚けている男の意識を呼び冷まし、囁く。大典太光世はひと呼吸挟んでから首肯して、遠くを見て、それから胸元の短刀に視線を落とした。
 彼はまだ顕現したばかりで、命あるものの気配を察知出来ても、こちらに害意があるかどうかまでは区別がつかないらしい。戦場であれば現れるのはすべて敵だが、本丸はその限りではなかった。
 猪や狼、野犬の類は危険だから排除しなければいけないが、穏やかな性格の草食動物は、放っておいても問題ない。
 勿論畑を荒らすような輩には、厳しい罰を与えなければいけないが。
 前田藤四郎はここでの暮らしが長いから、兎の接近を悟っても、それが襲って来るとは考えなかった。
「俺はやはり、この程度なのか」
 新参者なら、今はまだ、分からなくても仕方がない。
 だが大典太光世はそうは受け止めず、落ち込んで、声をくぐもらせた。
 とんだ恥を掻いたと赤くなり、奥歯を噛んで鼻を愚図らせた。
「いえ、いいえ。そんなことはありません」
 しょんぼりしながら小声で呟かれ、前田藤四郎は慌てて声を上げた。両手を振って、首も振り、早口に捲し立てた。
 確かに今回は失敗したが、それは誰もが通る道。かくいう前田藤四郎も、最初のうちは蟻一匹にも悲鳴を上げていた。
「今はまだ、分からなくても良いんです。ちょっとずつ、覚えていきましょう。僕も、お手伝いしますから」
 拳を作り、朗らかに笑いかける。「ね?」と同意を求めて小首を傾げてやれば、大典太光世は目を丸くして、遠慮がちに口元を綻ばせた。
「そう、……だな。ありがとう、前田」
 いつもは物憂げに顰められている顔が、ほんの少し和らいだ。
 眉間の皺が薄くなり、陰鬱な雰囲気が遠くなった。
 淡く微笑み、前田藤四郎を見詰めていた。力の抜けた表情で、囁く声は軽やかだった。
 今まで殆ど耳にしたことのない、穏やかな声だった。
 一瞬耳を疑って、短刀はハッと息を呑んだ。至近距離からの微風に背筋が粟立って、遅れて心臓がどくん、と大きく戦慄いた。
 しゃっくりのような音が喉から漏れて、慌てて飲みこもうとするが間に合わない。抱きかかえられたままの体躯が勝手に反応して、びくっ、と大きく跳ね上がった。
「そっ、そうですよ。それにさっきの大典太さん、すごく、あの。格好良かったですし」
「俺が?」
「え?」
 真下から正体不明のものに突き上げられる錯覚に、目が回りそうになった。
 己の挙動不審ぶりを怪しまれたくなくて、咄嗟に口を開いた。深く考えもせずに喚き散らして、その内容に後から騒然となった。
 目の前に大典太光世の顔があった。
 ぽかんとして、無防備にこちらを見ていた。
 太い腕は短刀の背に回り、細い肩を抱いていた。すっぽりと全身を覆うように包み込まれて、体温も、鼓動も、息遣いもはっきりと感じられる距離だった。
 唇の動きも、瞬きに合わせて睫毛が躍る様も。剃り残しの髭の黒点や、髪の生え際までもがはっきりと見て確認出来た。
 息を吸えば、汗を含んだ匂いがした。数いる兄弟たちの誰とも違う、癖のある、けれど不快ではない匂いだった。
 窄められた口が開き、吐息が漏れる。
「前田?」
 低く掠れた声は、聞き慣れた兄のものとはまるで異なる次元にあった。
 心配そうに見つめて来る眼差しも、物言いたげに開閉を繰り返す唇も。
 背を抱く腕も。
 布越しに感じる肉の厚みも。
 温かさも。
 なにもかもが。
「――っ!」
 ボンッ、と破裂したような音が頭の中に轟いた。
 顔から火が出るくらいに真っ赤になって、前田藤四郎は発作的に大典太光世の胸を押し返した。
「どうした、前田」
「ああ、あっ、あ。ああ、あの。あの、あぁぁのっ」
 突き飛ばし、離れる。尻餅をついてそのまま地面を後退して、彼はしどろもどろに喚き散らした。
 なにか言わなければいけないのに言葉が出ず、頭が全く働かない。同じ音ばかりを繰り返して、短刀は両手を無茶苦茶に振り回した。
 自分が口にした台詞に、動揺した。
 意図しなかったひと言に動転して、世界が三百六十度ひっくり返った。
 大典太光世を格好いいと思ったのは、まぎれもない事実だ。しかしそれを、あろうことか本人を前にして、面と向かって言ったことが恥ずかしかった。
 聞き流してくれれば良かったのに、素で訊き返されたのも羞恥心を増大させていた。無意識の発言に否定も出来ず、かといって肯定も不可能で、にっちもさっちもいかなかった。
 胸元を空にした大典太光世が、林檎のように顔を赤くする短刀に戸惑い、眉を顰めた。
「顔が、赤い。虫にでも刺されたか」
「違います!」
 その余りにも的外れな発言の後に手を伸ばされて、衝動的に吠え、前田藤四郎は仰け反って逃げた。
「あ、あの。ぼ、僕……そう、用が。用事を、頼まれていたのでした。早く終わらせないと、なので。先に戻ります!」
「前田?」
「大典太さんは、どうぞごゆっくり!」
 この場を離れる理由を探し、適当にでっち上げて叫んだ。若干詰まりながらもひと息に告げて、大典太光世が怪訝にする中、踵を返して駆け出した。
 服に残る泥を落としもせず、緑溢れる庭に太刀ひと振りを残して、全力で。何度も転びそうになりながら、息苦しさを堪え、脇腹が引き千切れそうな痛みにも耐えて。
 足の筋が攣り、鼻水が垂れそうになった。ぐじ、と擦れば何故か涙で視界が滲んで、彼は道場の裏手で立ち止まり、胸を押さえた。
 バクバク言っているのは、きっと全力で走ったから。
 奥の方が締め付けられるように苦しいのも、全身が火照って熱いのも。
「こんなの、変、です。おかしいです」
 別れ際に見た大典太光世の、寂しそうな眼差しが瞼に焼き付いて離れない。
 今すぐ戻って抱きしめてやりたくて、けれど足が動かなくて。
 数百年の時の中で、ただの一度も経験したことのない感情に襲われて、前田藤四郎は膝を抱えて蹲った。

2016/09/25脱稿

あしひきの山下水のこがくれて たぎつ心をせきぞかねつる
古今和歌集 恋一 491