問はず語りの せまほしきかな

 鳶らしき鳥が、遥か頭上を旋回しているのが見える。それは先ほどからずっと、同じ場所を往復していた。
 羽ばたきを止め、降下して来る様子はない。青空の中に黒い塊が右往左往して、行くべきか否かと迷っている風だった。
「ふ……」
 その理由を推し量って、大典太光世はふっ、と頬を緩めた。
 ただ傍目からは、微笑んでいるようには見えない。険のある目を眇めて、大柄の太刀は小さく肩を疎めた。
 彼の両脇には青々と茂る緑があり、地表を余すところなく埋めていた。見渡す限り一面に広がって、終わりがなかった。
 収穫はもう暫く先と聞いている。地表に出ている蔓や葉ではなく、地中で太る根の部分を食べるのだと、世話好きの短刀が言っていた。
 いったいどういう風に埋もれているのか、まるで想像がつかない。
 地面の中で食べ物が育つのが不思議でならず、奇妙に思えて仕方がなかった。
 いや、短刀たちが丹精込めて育てている芋だけではない。
 球状に葉を茂らせる野菜も、房の中に種を残す植物も、どれもこれも奇怪に感じられた
 刀剣男士は、鉄より産まれし付喪神。彼らの産み主は数多在る刀匠だが、元を辿れば地中深くに眠っていた鉱物に行き当たった。
 砂鉄が精製され、玉鋼となり、更に鍛錬を重ねてようやく刀となる。であればこ地表を埋める土もまた、彼らの同朋というべき存在だった。
「おかしなものだ」
 だが大地に向かって問いかけても、言葉は返ってこない。
 刀などより余程人々の強い意志を浴び、受け継がれてきたものなのに、そこに付喪神は宿らないらしかった。
 なにがどう違うのか、大典太光世には分からない。固い靴底で沈黙する大地を叩いて、彼は今一度、澄み渡る空を仰いだ。
 鳶は諦め、どこかへ去った後だった。見えるのは白い雲の群ればかりで、姦しく鳴いていた鳥の姿は、どこにも発見出来なかった。
 代わりに、別の声が響いた。
「ああ、いた。こんなところに」
 幼い少年の、可愛らしい高めの声だ。息を弾ませ、些か調子外れの音色を奏でて、駆けて来たのは良く知った顔だった。
「前田」
 丈の短い股袴に、黒を基調とした上着を身につけ、背には扇状に広がる外套を羽織っていた。帽子は胸に抱いて、落とさないよう左手でしっかり抱きしめていた。
 残る右腕を前後に振って、走る手助けとして畦を飛び越える。田畑の間を流れる水路を一足飛びに抜けて、立ち尽くす男の元へと急いだ。
 風を受け、短い外套が優雅にはためいていた。額には大粒の汗が浮かんで、屋敷からここまで、休むことなく駆けて来たのが分かった。
 その甲斐あってか、彼は大典太光世の前を行き過ぎそうになった。大慌てで速度を緩め、踵で溝を掘り、二尺ばかりの距離を一歩のうちに詰めた。
 ぴょん、と飛び跳ねて、両足揃えて着地する。その仕草ひとつさえもが愛くるしく、庇護を受けるべき短刀としての正しい姿を見せつけた。
「どうかしたか」
 前田藤四郎はまず息を整え、胸を押さえて深呼吸の後、一旦頭を下げてから帽子を被った。落ちないよう位置を調整して、巻き込まれて余所を向いている毛先を手櫛で梳き、改まって仰々しく腰を折った。
 丁寧な挨拶を経て、ようやく大典太光世を見る。機を誤り、早く問い過ぎた太刀は幾分気まずげな顔をして、まだ息が荒い短刀に眉を顰めた。
 ただでさえ良くない目つきが余計に悪化して、猫背な体格も手伝い、悪い意味での凄味が増加する。
 けれど前田藤四郎は気にする様子もなく、もうひとつ胸を打った後、にこりと微笑んだ。
「このような場所で。大典太さんは、今日は畑仕事ではなかったはずでは」
 探してしまった、と告げて、広々とした畑を見回す。
 今日の当番は現在遠征中で、大所帯の本丸を支える耕作地はほぼ無人だった。
 見回りをする者はおらず、前田藤四郎が来る前は、大典太光世一振りだけ。その彼も鍬や鋤を手にするわけではなく、ぼんやり空を眺めて佇むばかりだった。
 こめかみから頬を伝い、顎へ落ちようとした汗を拭った短刀に、天下五剣に数えられる太刀は鳴呼、と緩慢に領いた。鋭い眼光を天に投げて、屋敷に比べて圧倒的に静かな空間に視線を移した。
「俺のような奴は、烏除けの案山子にしかならんからな」
 病を癒す霊力を重宝がられた名刀も、病に倒れる者がいなければ置物と同じ。否、置物で済んでいた方が、まだいくらか良かったかもしれなかった。
 その強すぎる霊力は、目的を持って処されない限り、周囲に悪影響しかもたらさない。病人がいない時期は厄介者扱いで、蔵の奥に押し込められ、日の目を見る機会はなかなか訪れなかった。
 必要になれば持て囃すのに、そうでなくなれば邪険にして、見向きもしない。
 歴史修正主義者討伐の為に審神者なる者に喚び出されはしたが、未だ練度が低い彼は、本丸の中でも浮いた存在だった。
 求めに応じて訪ねはしたが、戦に出る機会は未だ多くない。
 このままでは蔵に戻されてしまうと考えて、気が滅入ってならなかった。
「それで、畑に、ですか」
 なんとか役に立とうと考えても、出来ることは限られている。
 そうやって悩んだ末に出した答えに耳を傾け、前田藤四郎はぽかんと間抜けに口を開き、間を置いて目尻を下げた。
「大典太さんが見ていなくても、大丈夫ですよ。鳥が寄り付かないよう、陸奥守さんが一日に何度か、空砲を天に向かって撃って、音で脅していますし。新芽や、収穫目前のものには網を架けて、猪用の罠もあちこちに」
「……そう、なのか」
「はい。ああ、でも、大典太さんの御心遣いは、とても有り難いです」
 クスクスと笑みを零し、短刀はこの一年あまりでようやく定まった害獣避けの方法を簡単に説明した。当初はあれこれ試しては失敗の連続で、大変だったが、最近は被害も減り、収穫量は格段に増えていた。
 だがそれは、大典太光世にとっては些か衝撃だった。
 良かれと思ってやったことが無意味だったと愕然としていたら、気付いた前田藤四郎が慌てて礼を言い、頭を下げた。
 どれだけ精巧な罠を仕掛けようとも、獣だって馬鹿ではない。いずれは空砲の音に驚かない鳥が現れても、なんら不思議ではなかった。
 早口で慰められて、太刀は一段低くなりかけた姿勢を伸ばした。猫背を改め、手入れが行き届いている畑を振り返り、前田藤四郎が作った浅い溝を靴底で均した。
「それでお前は、どうして此処に」
「ああ、そうです。早くしないと、冷めてしまう」
 それから抑揚の乏しい声で訊ね、首を捻った。
 途端に短刀はぴょん、と飛び跳ね、胸の前で両手を叩き合わせた。
 言われて思い出した、と顔を赤くし、何に興奮しているのか鼻息を荒くした。独り言を大声で喚いて腕を上下に振り回し、怪訝にしている太刀に向かって手を伸ばした。
「大典太さん、参りましょう」
「前田?」
「危うく忘れるところでした。急がないと」
 言うが早いか、彼は許可を得る前に大典太光世の手を握った。太く、節くれだって長い指を横から攫うようにして掴み、反対側からも包み込んで、大柄な男を引っ張った。
 力では敵わないと知りつつ、引きずってでも連れて行こうという意志が垣間見えた。短刀でありながら実に男らしい判断に、左肩を低くした太刀は目を見張った。
「前田」
 とはいえ、少年の腕力だけでは一歩たりとも動かせない。
 どこへ連れて行くつもりなのかと困惑して、大典太光世は躊躇し、立ち竦んだ。
 それでも粟田口の短刀は、諦めずに踏ん張った。顎を反らし、奥歯を噛んで、必死の形相で戸惑う太刀に抗った。
「大典太さん」
「分かった」
 最終的には、怒られた。
 振り返った短刀に鋭い目つきで睨まれて、男は多々ある疑問は一旦脇に置き、小さく領いた。
 左腕を前田藤四郎に預け、息巻いている少年に従って畦道を進み始める。細い水路をいくつか越えて、雑木林の間の道を抜け、屋敷の裏手へと出て、左へ曲がった。
 台所の勝手口は閉められていたが、誰かが使用中らしく、話し声が聞こえた。八つ時の菓子を準備中なのか、甘い匂いが漂って、香りだけで胸焼けが起こりそうだった。
「今日は、かりんとう饅頭だそうです」
「……そうか」
 餡を詰めた団子を、油で揚げて表面をカリッと香ばしく仕上げた菓子が、前田藤四郎の脳裏に浮かんだ。
 しかし顕現したばかりの大典太光世は、それを見たことがない。当然食べた事もなくて、どう反応すれば良いか分からなかった。
 前田藤四郎が嬉しそうにしているので、きっと良いものなのだろう。その程度の解釈で済ませて、彼は導かれるまま勝手口の前を通り過ぎた。
 総勢五十振りを越える刀が一緒に暮らす屋敷は、とてつもなく広い。特に北側にある居住棟は、度々拡張を繰り返しており、次からは二階建てになるそうだ。
 どうやっても敷地が足りないと、へし切長谷部が頭を悩ませていた。膝丸は兄である髭切と離れ離れになるのは嫌だと五月蝿く、一期一振は弟たちとの共同部屋は譲らないと言って聞かない。
 食事時に交わされる様々な会話を盗み聞いているうちに、屋敷内の状況はある程度把握出来た。知りたくなかった情報まであれこれ得てしまって、時々頭が痛くなるのはご愛敬と言うしかない。
「何処まで行くんだ」
「こちらです」
 格別仲が良い刀たちと、それを良しとしない刀たちとの間で、火花が散っているだとか。
 誰が一手料理上手なのかと競い合い、対立している刀がいるだとか、なんだとか。
 共に暮らす刀が多ければ、問題も多々出てくるだろう。そんな中にいきなり放り込まれた大典太光世は、親しくしている、と呼べる刀が少なかった。
 時期を前後して顕現したソハヤノツルキを除けば、以前に縁があった何振りかの短刀たちくらい。
 その中でも際立って世話を焼いてくれたのが、この前田藤四郎だった。
 蔵の中に閉じ込められている大典太光世を気にかけ、壁越しに沢山話しかけてくれた。溢れ出て止まない霊力が彼に悪影響を及ぼさないかと懸念して、遠ざけようとしたこともあったが、結果的にそれは叶わなかった。
 この地に来て、初めてまともに顔を合わせた。その刀に手を引かれて歩いている、それ自体が不思議で、大柄の太刀は不意に泣きそうになった。
 鼻を啜り、きつく目を閉じる。前田藤四郎は屋敷の入り口に当たる玄関を通り過ぎて、広大な庭園へと足を踏み込ませた。
「前田」
「ああ、いた。良かった。平野、鶯丸さん。お待たせしました」
 大きく弧を描く形で曲がられて、慌てて目を開き、前を見る。
 大広間に近い縁側に座す刀たちに手を振って、粟田口の少年は顔を綻ばせた。
 丹塗りの太鼓橋を持つ池の傍らには、茅葺きの茶室があった。それを眺める格好で大座敷が用意され、その手前にある縁側に、大小の刀が並んでいた。
 濃緑色の髪を持つ太刀に、前田藤四郎とどこか似た雰囲気のある短刀だ。彼らの手にはそれぞれ湯呑みが握られて、傍らには大振りの茶瓶が置かれていた。
 盆の上にはもう二組、湯呑みが用意されていた。それを間に挟む格好で、前田藤四郎は平野藤四郎の隣に陣取った。
「ちょうど、飲み頃です」
「それは、良かったです」
 大典太光世の手を離し、地面から一尺半程の高さにある縁側によじ登り、座る。
 微熱を残す掌を見詰めて、天下五剣のひと振りは困惑に身を揺らした。
「大典太さんも、こちらにどうぞ」
「美味しいお茶が手に入ったので、ご一緒に、いかがでしょうか」
 その戸惑いを察知して、居住まいを正した前田藤四郎が空いている左側を指差した。平野藤四郎も領いて、両手に抱く湯呑みを左右に揺らした。
 円を描くように動かして、零れない程度に中身を見せた。水面は薄緑がかっており、底の方に茶殻が沈んでいた。
 鶯丸が飲んでいるのも、同じものだろう。姿は頻繁に見かけるが、話した回数は片手で足りるほどしか覚えがない相手に躊躇して、大典太光世は渋面を作った。
「大典太さん?」
「いい、のか。俺が」
「はい、勿論です」
 折角の午後のひと時、寛いでいた彼らの邪魔にはならないだろうか。
 朗らかな光景に混じって、場の空気を悪くする恐怖に足が竦んだ。けれど遠慮がちの問いかけに、前田藤四郎は間髪入れず首肯した。
 満面の笑みで返事して、早く座るよう、もう一度傍らの床を叩く。ぽんぽん、と何もない空間で上下する小さな手を見詰めて、大柄の太刀は子犬のような目を遠くへ投げた。
 鶯丸は我関せずの様相で、薄茶を楽しんでいた。
 大典太光世など最初から目に入っていない様子で、のんびりと、且つ泰然としていた。
 それがどうにも拒絶されているように思えてしまい、並んで座る勇気が出ない。
 自分から話しかけることも出来ず、黙って立ち尽くす。すると平野藤四郎が、気を利かせて身を乗り出した。
「鶯丸さんも、良いですよね」
「ん? ああ。俺に遠慮などせず、好きにすると良い。平野、おかわりを貰えるか」
「分かりました。さあ、大典太さんも、冷めないうちにどうぞ」
 右隣に座る男に話しかけ、湯呑みを差し出されて右手で受け取った。自分が持っていた分と共に盆に置いて、四つ並んだ器にそれぞれ茶を注ぎ入れた。
 芳しい香りがほのかに漂い、薄い湯気が微風に煽られながら天へ昇って行く。
 引き寄せられるように半歩にじり寄って、大典太光世は逡巡の末、縁側に腰を下ろした。
 短刀たちのように、よじ登ってから身体の向きを変える必要はない。大柄な身体を窮屈に縮めて、彼は揃えた膝に両手を添えた。
 茶は平野藤四郎の手から前田藤四郎を経て、太刀の元へとやって来た。白色の、底部が窄まって飲み口が広い器を受け取って、居並ぶ三振りを順に眺めてから、恐る恐る唇に近付けた。
 湯気を鼻息で吹き飛ばし、熱さに怯えつつ、音立てずに啜る。
「……ん」
 顕現したばかりの頃、熱々の味噌汁をそうと知らずに飲んで、舌を火傷した。
 驚いて椀を放り投げて、隣にいたソハヤノツルキにぶちまけてしまった記憶は、まだ生々しかった。
 その所為で、熱い物が苦手だ。慎重に舌の先で温度を測り、程よい温さなのを確認してからコクリと喉を鳴らして、続けて二口目、三口目と、豊潤な香りを放つ茶で喉を潤した。
 次第に勢いを増していく飲み方に、緊張の面持ちで見守っていた藤四郎たちの表情も和らいでいく。
 最後の一滴まで飲み干して、大典太光世は驚嘆の表情で息を吐いた。
「美味い」
 食事の際に出てくるのは、白湯ばかり。たまに茶が出てくるが、かなり薄められており、味も香りも殆どしなかった。
 それに慣れていたものだから、素直に驚いた。
 口の中に入れた瞬間、爽やかな香りが弾けて広がり、渋みは全く感じなかった。
 ほんのりと甘く、飲みこんだ後も苦みは残らない。優しい温もりが唾内いっぱいに染み渡り、幸せな気分が胸に満ちた。
 ほう、と息を吐き、無意識に呟く。
 すっかり空になった湯呑みを呆然と見つめていたら、隣からふーっ、とやけに長い吐息が聞こえてきた。
「良かったあ……」
 見れば前田藤四郎が、胸に手を当てて俯いていた。
 緊張の糸が切れ、脱力していた。不安が払しょくされて、安堵しているのが肌で感じられた。
「良かったですね、前田」
「はい。平野が選ぶのを手伝ってくれたおかげです」
 その目尻には光るものがあって、彼は慌てて指で拭い取った。平野藤四郎の言葉に大きく領いて、嬉しそうにはにかみ、花が綻ぶ笑顔を浮かべた。
 それがなんとも眩しくて、大典太光世は騒然となった。危うく落とすところだった湯呑みを握り直して、喜ぶ短刀たちに愕然と見入った。
「わざわざ、……俺なんかの為に?」
 大典太光世は天下五剣に数えられるが、華々しく活躍したわけではなく、蔵で封印されていた期間の方が圧倒的に長い刀だ。本来の用途で用いられることはなく、必要でなくなれば厄介払いで暗がりに追い遣られた。
 だから戦うことでしか己の必要性を証明出来ないのに、練度の低さの所為で戦に出られない。
 本丸で暇を持て余すだけの、役立たずの能無し刀が、こんなにも尽くされる謂れはなかった。
 夢でも見ている気分で、信じ難かった。からかわれているのではと危惧して、目の前の少年たちに疑念を抱いた。
 それが、顔に出たらしい。
 花咲く笑顔が忽然と消えた。己を卑下した男の発言に、前田藤四郎は表情を曇らせ、悔しそうに唇を噛んだ。
「違います。そんな。僕は、大典太さん、だから。僕は――」
 鼻を愚図らせ、顔をくしゃくしゃに歪めて、呻く。
 言葉は中途半端なところで途切れ、そこから先が出て来ない。湯呑みを抱き漬す覚悟で握りしめて、細い肩を震わせて、彼は上目遣いに太刀を睨んだ。
 大きすぎる感情を必死に制御せんとして、顎を軋ませ、耐えていた。爆発寸前の想いを引き留めて、けれど全ては封じ切れず、眼差しから溢れていた。
 今にも泣き出しそうで、見ていて辛い。彼にこんな表情をさせたのは自分と、分かっているのに、大典太光世はかける言葉が見つからず、戸惑うばかりだった。
「前田……」
 平野藤四郎が心配そうに声を潜め、双子のように似通った兄弟の肩を叩く。
 前田藤四郎は大きく頭を振って、拳を作り、それで膝を殴ろうとした。
「甘いものが欲しいな」
「――っ!」
 そこに、場違いとしか言いようがない呟きが紛れ込んだ。
 のんびり、おっとりして、それでいて自分本位な発言だった。雰囲気に流されず、一切空気を読まず、他者に遠慮しない。
 鶯丸のひと言にハッとなって、平野藤四郎は大慌てで領いた。
「え、ええ。ええ。そうですね。今すぐご用意します。行きましょう、前田」
 惚けていた表情を引き締め、何度も領いたかと思えば、前田藤四郎の肩を揺らした。手伝うよう囁き、促し、背中を押して、台所に向かって早足に歩き出した。
 今日はかりんとう饅頭だと言っていた。
 それを貰いに行くのだと想像して、大典太光世はふた振りの背を目で追い、見えなくなったところで姿勢を正した。
 正直なところ、助かった。
 前田藤四郎がどうしてあんな顔をするのかは未だ分からず、どう対応すべきだったのかも見えなかった。
 ホッとして、肩の力が抜けた。短刀の手には大きいが、太刀の手には些か小さい湯呑みの縁をなぞって、彼は暢気に座す男をそうっと窺った。
「……すまん」
 鶯丸のお陰で、窮地を脱した。問題を先延ばしにしただけだが、あのまま重苦しい空気の中にいるよりは、ずっと良かった。
 礼を言い、謝罪の意味で頭を下げた。消え入りそうな小さな声で告げれば、鶯丸は一瞬だけ大典太光世を見て、直ぐに正面に向き直った。
「なんのことか、分からんな」
「鶯丸」
「俺は、菓子が食べたかった。だからそう言った。それだけだ」
 感謝される謂れもなければ、謝罪される理由もない。
 誰かを慮ったわけではなく、気を利かせたつもりもない。自分が思ったから、声に出しただけ。そうはっきり述べて、古備前の太刀は残り少ない茶を啜った。
「ああ、美味い」
 万感の思いを込めて呟いて、天を仰ぐ。
 燦々と照る太陽を軒先に見付けて目を眇め、彼は呆然とする男を振り返った。
 口元に笑みを浮かべ、態度は不遜だった。含みのある眼差しで天下五剣を見詰め、ほぼ空の湯呑みを左右に振った。
「美味いだろう?」
「あ、ああ」
 問われて、大典太光世は急ぎ領いた。茶殻が僅かに残る器の底を一瞥して、短刀たちが残して行った分にも視線を走らせた。
 茶瓶に、あとどれくらい残っているのだろう。
 嬉しそうにしていた前田藤四郎の顔が思い浮かんで、後悔が胸に渦巻いた。
 苦悶を滲ませ、下唇を噛む。険しい横顔に呆れた様子で溜息を吐いて、鶯丸は湯呑みを頭より高く掲げた。
 底に描かれた落款を眺め、横目で盆に並ぶ茶瓶や湯呑みを見る。それらは絵柄が共通しており、最初からひと揃いとして売られていたものだった。
「あんたが来るかもしれないって聞いて、平野たちが万屋に足繁く通って見つけて来た茶だ」
 三池派ふた振りに顕現の兆候があるとの報せが入った日から、本丸はてんやわんやの大騒ぎだった。
 足りない資源の調達に大勢が駆り出され、いつも以上に屋敷内は賑やかだった。短刀たちも例外ではなく、そんな忙しい間を縫って、彼らは頻繁に万屋へと通い詰めた。
 屋敷に戻れば紙を広げ、昔馴染みの刀との再会に備え、共にやりたいことを書き出した。
 この茶会も、そのひとつ。
 縁側に並んで過ごしたいと言ったのは、前田藤四郎だった。
 念入りに準備して、最高の品でもてなそうと考えた。揃いの茶器を用意して、楽しんでもらえるよう、あれこれ策を練った。
 寝る間も惜しみ、ああでもない、こうでもないと検討を重ねた。その結果、ごく少量だけ入荷していた良質の茶葉が手に入り、今日の日を無事迎えることが出来た。
「俺は、そのご相伴にあずかった。いうなれば、お前が来てくれたおかげだな。感謝する」
「あ、……ああ」
 美味な茶を味わい、寛ぎの時を得た。
 特に何もしていないのに、棚から牡丹餅、もしくは瓢箪から駒。幸運が舞い込んだと逆に礼を述べて、鶯丸は唖然とする太刀に目を眇めた。
 思いがけない発言に、大典太光世は緩慢に領き、左手で首の後ろを掻いた。
「そうか」
 自分にはそんな資格がないと思っていた。
 ここ本丸でも歓迎されていないような気がして、卑屈になっていた。
「……そうか」
 病を癒すしか能がない刀だが、鶯丸には感謝された。
 前田藤四郎と平野藤四郎は、一生懸命考えてくれていた。
 胸の奥にぽう、と炎が灯ったようだった。闇の中に一輪の花が咲き、淡い光を放ち、じんわり温かな熱を産み出した。
 ほかほかして、ホワホワした。その癖どうにもむず痒くてならず、鼻の奥がツンと来て、目頭が熱くなった。
「鳴呼」
 これが、嬉しいということなのだろうか。
 勝手に滲む涙を堪え、頭を振って、大典太光世は可愛らしい足音に顔を上げた。
「あ……」
 目が合った。
 長方形の盆を手にした少年が、一瞬怯み、上げていた右足を降ろした。
「どうぞ、鶯丸さん」
「礼を言う、平野。こいつは美味そうだ」
「お茶、すぐに用意しますね」
 その脇を通り抜け、平野藤四郎が膝を折って盆を差し出した。鶯丸は早速並べられていた菓子をひとつ抓み取り、高く掲げて物珍しげに眺めた。
 黒に近い茶色の塊は、指二本で作った輸ほどの大きさで、表面は艶々していた。光を受けて鈍く照り、鼻を近づければ些か焦げ臭い、油で揚げた匂いがした。
 先ほど注ぎ足したばかりの湯飲みが、もう空になっている。気付いた短刀が茶瓶の蓋を開けて、湯を足してくると席を立った。
 動きはてきばきしており、日頃からの慣れが感じられた。
 急に慌ただしくなって、惚けて立っていた前田藤四郎はハッとなった。開いていた口を閉ざして背を戦慄かせて、急ぎ足で来た道を戻る平野藤四郎に助けを求めた。
「待ってください、僕も――」
「前田」
 この場にひとり残していかないで欲しい。
 そういう切羽詰まった感情を露わにした少年に、大典太光世は発作的に声を上げた。
 低い、けれど普段より幾ばくか大きな声だった。
 ボソボソと喋る、いつもの聞き取り辛い口調ではない。それは朗々と響いて、短刀の足を凍り付かせた。
「っ」
 思わずビクッとなった彼に、呼び止めた方も慄然となった。
 後先考えずに行動して、この後どうするか、何も考えていなかった。前田藤四郎は先ほどの件をまだ引きずっており、振り返る姿は心細げだった。
 不安そうで、怖がっている雰囲気が溢れていた。
 彼をそうさせたのは、紛れもなく大典太光世だ。今更遅い後悔に苛まれ、男は力なく項垂れて、唇を噛んだ。
「ああ、美味い茶が飲みたいな」
 そこに再び、空気を読まない独り言が流れて来た。
 かりんとう饅頭を手にしたまま、早く平野藤四郎が戻って来ないかと、鶯丸はそれだけで頭がいっぱいだった。
 他人がどう思おうが、なんと言おうが、気にしない。
 自分がどうしたいか。
 それこそが大事だと、古備前の太刀は婿然と微笑んだ。
 飄々として、掴みどころがない。だが彼の場違い極まる発言のお陰で、緊張が解れた。
「前田」
「はっ、はい」
 長らく喉につっかえていた言葉が、するりと零れ落ちた。滑らかな呼び声に、前田藤四郎ははっとして、反射的に背筋を伸ばした。
 表情は強張ったままで、何を言われるか戦々恐々としていた。その臆して萎縮した表情が哀しくて、大典太光世はしばし迷い、言いかけた言葉を飲んだ。
 嫌な思いをさせてすまなかったと、侘びようと考えていた。
 けれど鶯丸の言葉が脳裏を過ぎって、臆病な天下五剣の背中を押した。後ろから無言で支え、顔を上げさせた。
「あの、……大典太さん?」
 真っ直ぐ、じっと見詰められた前田藤四郎ははっとして、盆に食い込むほどに力ませていた指を緩めた。
「ありがとう」
「え?」
「俺の、為に。いろいろと、……その。嬉しかった」
 そこに、低い声が紡がれた。
 掠れるほどに小さな、けれどはっきりと相手に伝わる声で、朗々と。
 大典太光世は躊躇を踏み倒し、蹴飛ばし、言った。後半は照れが混じり、蚊の鳴くような音量になってしまったけれど、思いはしっかり伝わったはずだ。
 それを証拠に、前田藤四郎は唖然としたまま凍り付いていた。
 目を丸くし、頬を紅潮させて。
 自然と緩む口元を懸命に押さえつけ、肩を跳ね上げ、菓子盆を持つ手は細かく震えていた。
「大典太、さん」
「くっ」
 辛うじてそれだけを口ずさんだ彼の向こうで、聞いていた鶯丸が小さく噴き出す。
 それを横目で軽く睨んで、蔵住まいが長かった太刀は身を乗り出した。
「それで、前田。……その、万屋というのは、どういったところだ」
「え?」
「俺は、まだ。一度も行ったことがない」
 台所に行っている間、ここでどのような会話が交わされていたか、見目幼い少年は当然、知る由もない。
 突然の話題転換に、前田藤四郎は怪訝にしながら首を捻った。黒髪の太刀は間を置くのを嫌い、深く息を吸うとひと息に捲し立てた。
 矢継ぎ早に告げて、廊下に佇む短刀に向かって声を高くする。
 彼が本丸に来た後も、屋敷は相変わらず騒がしかった。直後に新たな刀の顕現が観測されて、これを調査すべく、様々な刀がその時代に送り込まれては、強敵に打ちのめされて帰還していた。
 審神者はそちらに構いきりで、新入りを連れ回す余裕がない。
 未知の空間に強い興味を示した男に、前田藤四郎はぽかんと間抜け顔を作り、直後にぶわっと四肢を震わせた。
 手にした菓子盆を抱きしめて、唇を引き結んだ。柔らかな頼をぷるぷるさせて、双眸を煌めかせた。
 興奮に、顔全体が赤く染まる。
「……駄目、か」
 一方でなかなか返事がもらえないのを不安がり、太刀の表情が僅かに曇った。
 身を引き、猫背になろうとした男に、慌てて畏まって。
「いえ。いいえ。駄目なんかじゃありません」
 少年は大声で叫んで、にかっと白い歯を見せた。
 息を乱し、肩を大きく上下させ。
「喜んで、お供します」
 百点満点の笑顔を浮かべて、前田藤四郎は泣きそうな顔で頷いた。

包めどもたへぬ思ひになりぬれば 問はず語りのせまほしきかな
千載和歌集 恋一 649

2016/09/12 脱稿