めぐり逢ひつゝ 影を並べん

 その日は朝から気だるくて、何をするのも億劫だった。
 原因は分かっている。前日の早朝から夜遅くまで、幾度となく遠征任務に駆り出された所為だ。
 最初のうちは良かったけれど、正午を回った辺りで段々と嫌になった。けれど審神者は許してくれず、日がとっぷり暮れるまで、小柄な短刀を方々に走らせた。
 手短に片付く時もあれば、数時間かかる道のりもあった。馬を使う訳にもいかず、終日立ちっぱなしの、歩き通しだった。
 お蔭で全部が終わる頃には足が棒になっており、真っ直ぐ立つことさえ難しかった。まるで産まれたての小鹿かなにかのようで、ぶるぶる震えて、膝が砕けそうだった。
 食事も満足に喉を通らず、夜が明けた後も体力は回復していない。風呂に入るのさえ後回しにして泥のように眠ったが、全快には程遠かった。
 腹は空いているのに、あまり食欲が湧かない。
 いつもは二、三杯は食べる飯も、今日は箸の進みが遅かった。
 なんとか一杯分は食べきったが、胃の辺りが重かった。食べた直後に朝風呂で垢を落として来たので、それも多少は影響しているだろう。
 湿っている髪の毛を掻き回し、小夜左文字は深々とため息を吐いた。
「つかれた」
 流石に今日は、終日休みだ。内番任務も、免除されていた。
 本当は昼まで寝ていても構わなかったのだけれど、自然と目が覚めてしまった。早起きの習慣をこんなに恨んだことはなくて、気が付けば二度目、三度目のため息が漏れていた。
「おやおや」
 しかもそれを、聞かれた。
 廊下の真ん中に突っ立っていたわけだから仕方がないとはいえ、些か軽率だった。愚策だったと己を恥じて、短刀は堂々とした佇まいの男に視線を投げた。
 紫紺色の胴衣に、灰鼠色の袴を着け、腰には立派な拵えの刀を差していた。淡い笑みを浮かべて、藤色の髪を揺らし、やや大股に床板を踏み鳴らした。
 一瞬のうちに距離を詰めて、小夜左文字の前に立つ。
「そんなに溜め息を吐いていては、幸運が逃げてしまうよ」
 優雅な動きで前髪を梳き上げ、咎めるように告げる。
 貴重な忠告に思わずムッとして、短刀はお節介な打刀に頬を膨らませた。
「もうとっくに逃げ出した後なので、大丈夫です」
「ははっ」
 反射的に言い返し、渋面を作る。
 それのどこが面白かったかは分からないが、歌仙兼定は破顔一笑し、口元を手で覆い隠した。
 歯を見せぬよう笑って、即座に拳を作った。肩の力を抜いて脇に垂らして、その上で腰に据えて胸を張った。
「そういう言い方は、雅じゃないな。お小夜」
「みやび……」
 威風堂々と指摘されたが、その判断基準が分からない。
 どの辺が雅でなかったのか、是非とも講釈を垂れていただきたいところだ。だが生憎と、彼に構う元気は残っていなかった。
 これは彼の口癖のようなものだと勝手に判断して、心の中で整理を着けた。相手をするのも面倒くさくて、厄介な男に掴まったと悔やんでいたら、またしても嘆息していた。
 無意識に「はあ」と、息が漏れていた。
 細い肩を力なく落とす、という仕草も一緒だったので、歌仙兼定は見逃してくれなかった。
「お小夜」
 語気が強められ、目つきも剣呑になった。
 高い位置から睨むように見下ろされて、放っておいて欲しい短刀はゆるゆる首を振った。
「僕が、どういう刀なのか。歌仙はよく知っているでしょう」
 小夜左文字は、義の刀。
 しかしどれだけ話を盛り、飾り立てられようとも、実際のところは山賊への仇討ちに使われた、血濡れた刀であることに違いなかった。
 目まぐるしく主が変わり、望まぬ殺生で穢れた短刀だ。守り刀としての役目を果たすどころか、守るべき主を手に掛けて、刀だけがこうしてのうのうと生き長らえている。
 本丸に住まう刀は様々な経歴を有し、不幸な境遇だったものも多い。だが小夜左文字は、その中でも群を抜いていた。
 彼の兄ふた振りも、稀な来歴を経てここにいる。兄弟三振り、幸福だったとは揃って言い難かった。
 勿論歌仙兼定は、そういった事情を熟知していた。殊に末弟の短刀に至っては、四百年の昔より顔見知りだった。
 この本丸で、小夜左文字について最も詳しいのが彼だ。その男が、小夜左文字から幸運が逃げると口にするなど、ちゃんちゃら可笑しな話だった。
 機嫌を損ねて目つきを鋭くした少年に、打刀は眉を顰め、口を尖らせた。隙間からふう、と息を吐いて腕組みして、長い袂を左右に揺らした。
「勿論、知っている。だがね、お小夜。僕が言っているのは、既に過ぎた時のことではない。これから起こり得ることだよ」
「同じです。僕の行く末に待っているのは、黒い澱みだけです」
 淡々と告げられて、小夜左文字は即座に反発した。
 自分には復讐しかなく、それ以外に求めるものは何もない。きっぱりと断言して、腕を横薙ぎに振るい、打刀を牽制した。
 けれど歌仙兼定は怯むことなく距離を詰め、膝を折った。あと一歩分の空間を残して屈み、息巻く少年へと手を伸ばした。
 刀は装備しているけれど、手甲の類は身に着けていない。彼の両手は空っぽで、中指に結ばれる紐も存在しなかった。
 そんな骨張ってごつごつした手の甲で空を撫で、長くしなやかな指で藍色の髪を掬い上げる。
「歌仙」
「顔色が悪い」
 耳朶ごと頭を挟み持たれて、短刀は苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。
 嫌だと言っているのに、聞いてくれない。どこまでも自分本位な打刀に至近距離から囁かれて、小夜左文字は奥歯を噛み、小鼻を膨らませた。
 この男のことだから、短刀が不機嫌なのは体調が悪い所為、くらいにしか思っていないのだろう。
 自分の物言いに原因があるとは、微塵も感じていない。そんなだから伊達の刀と大喧嘩になるし、それ以外の刀からも敬遠されてしまうのだ。
 自信を持つのは良いことだが、限度というものがある。なにもかも自分が正しいと信じて行動していたら、意見が合わない相手と衝突するのは必然だ。
 いったい誰に似たのか、癖があり過ぎる性格に育ってしまった。
 遠い昔、共に日々を過ごしていた頃。もう少し考えて面倒を見ていたら、こんな風にはならなかっただろうに。
「問題ありません」
「そんなはずがない。どこか痛むんじゃないのかい?」
 真正面から見つめられて、穴が開きそうだった。いい加減離れて欲しくて身体を揺らすが、打刀は頑として聞き入れず、逆に距離を詰めて来た。
 前髪が擦れ合い、吐息が肌を掠めた。自然に吹く微風とは異なる熱量にビクッとなって、小夜左文字は話を聞かない男に目を眇めた。
「歌仙」」
 確かに少し怠いけれど、寝込むほどではない。いつもより量が少なかったとはいえ、朝餉だってちゃんと食べた。
 この後は、部屋に戻ってもう一眠りだ。布団は敷いたままにしてあるので、すぐに休める。
 頭は濡れているけれど、放っておいても構わない。起きた時布団がぐしゃぐしゃになっていようとも、髪型がどうなろうと、知ったことではなかった。
 どこかの伊達男のように、鏡の前でうんうん唸ったりしない。そもそも既にみすぼらしい格好をしているのだから、今更髪が跳ねようが、どうでも良かった。
 擦り切れて、所々破れている袈裟は、小夜左文字の心の在り様をも示していた。だから綺麗に身づくろいし、瀟洒に着飾った者たちを前にすると、どうしても引け目のようなものを感じてしまった。
「なにも、問題ありません」
「お小夜、嘘はよくない」
 あまりにも距離が近過ぎて、恐怖めいたものを覚えた。強がって声を荒らげて抵抗するが、歌仙兼定は譲らず、頬を挟む手に力を込めた。
 押し潰されて、息が苦しい。むにゅ、と外側が凹んだ所為で中央部が出っ張って、図らずも短刀の顔は潰れた魚のようになった。
「……ぶっ」
 引き結んでいた唇は上下に開き、口端の窪みが可愛らしい。
 思いがけず愛くるしい表情を目の当たりにして、打刀は堪え切れず噴き出した。
 一方で笑われた方は羞恥に顔を赤くして、本気で男を追い払うべく、爪を立てた。
「いた、た」
「復讐します」
「痛い、痛いよ。お小夜」
 遠慮なく引っ掻かれ、歌仙兼定が情けなく悲鳴を上げた。真っ赤な筋を手首に走らせ、万歳して攻撃から逃げた。
 手の甲にまでざっくり刺さって、半月型の跡がくっきり残った。数分としないうちに消えるだろうが、今は痛くてならず、彼は口を窄めると、ふ~っ、と息を吹きかけて熱を冷ました。
 酷いと睨みつけられても、小夜左文字は何処吹く風だ。そもそも誰が一番悪いのか、と目で問うて、不満げな男を黙らせた。
「まったく。風流じゃない」
「僕はそれで、構いません」
「ああ、でも。さっきよりは、顔色が良くなったかな」
「歌仙?」
 痛めつけられた場所を慰め、愚痴を零したと思えば、不意に声を高くした。
 唐突に話題が入れ替わって、合いの手を返し損ねた短刀は目を丸くした。
 何を言われたのか、一瞬分からなかった。機能を停止した脳細胞に慌てて血液を送り込んで、小夜左文字は瞬きを繰り返した。
 この現身は、本当によく出来ている。手入れ部屋というものがなければ、彼らはそこいらの人間となんら変わりなかった。
 適度な睡眠を必要とし、食事をせねば餓えて干からびる。皮膚が切れれば血が流れて、大なり小なり、痛みが生じた。
 戦闘に特化した存在でありながら、本丸では刀の代わりに鍬を振るい、馬の世話をする。自らの手で野菜を育て、罠にかかった獣がいれば、皮を捌いて肉とした。
 時の政府も、審神者も、何を求めて刀剣男士にこんな無駄なものを与えたのだろう。
 ここで日々を過ごすうちに、復讐への想いが昇華され、薄れていくのを感じる。
 それでは駄目なのに、つい、多忙にかまけて忘れそうになった。
「覚えているかい、お小夜」
 大勢が共に暮らす本丸で、ひとりきりで過ごすのは難しい。
 短刀は粟田口を中心に大勢いるし、三条の今剣はお節介で、我が儘だ。愛染国俊はあれで意外と面倒見がよくて、なにかにつけて輪の中に連れ込もうとした。
 彼らに捕まると、孤独を忘れた。
 それ以外にもあれこれ面倒事を押し付けてくる刀がいて、その筆頭株が、目の前にいる男だった。
「なにを、ですか」
 歌仙兼定は小夜左文字と、本丸に至る前から面識があった。九州の地で、一時期共に過ごしていた。
 当時の彼は未熟な、生まれたばかりの付喪神だった。本体から離れすぎると形を維持できず、大きな霊力の波を受ければ、簡単に消し飛んでしまえるほどにか弱い存在だった。
 それが今や、どうだ。背丈は小夜左文字の遥か頭上を行き、胸板は厚く、肩幅は広い。筋骨隆々として、それでいて動きはしなやかで、水に流れる柳のようだった。
 ちょっと小突いただけで泣きべそをかいていた打刀が、立派な偉丈夫へと成長を遂げた。お蔭で再会した当初は誰か分からず、思い出すのにかなりの時間が必要だった。
 美しく、それでいて少々物騒な号を得て、すっかり自信をつけていた。最早短刀の後ろを追いかけ回す必要はない。
 だのにこの男は、事ある度に小夜左文字の前に現れ、庇護を求めるような真似をした。
「昔、よくこうやってくれただろう」
 幼き頃の彼を、思えば過分に甘やかしすぎた。
 その時の癖が抜け切っていない打刀は囁いて、短刀の丸みを帯びた頬を撫でた。
 先ほどのように抓んだりせず、首を前に傾け、目を閉じた。瞼の縁を長い睫毛で彩って、白くきめ細やかな肌で眼前へと迫った。
 直後にコツン、と骨が当たった。
 軽い感触と、衝撃に脳髄を揺さぶられ、小夜左文字はフッと意識が遠くなった。
 眩暈を覚え、後ろに倒れそうになった。だが、出来ない。揺らいだ身体を支えるように、歌仙兼定の手が肘を掴んでいた。
 引き留められて、逃げられないよう拘束された。力は緩かったが振り解けなくて、短刀は目を見張り、穏やかな微笑を前に凍りついた。
 微熱を含んだ吐息が鼻筋に触れた。ほんのり淡い香りを伴うそれを吸いこんで、彼はカアッと顔を赤くした。
 この微熱も、甘い匂いも、打刀から発せられたものだ。そういったものを体内に取り込んだと認識した途端、何故か急に、居た堪れないような気分に陥った。
「か、かせ」
「熱はないようだね」
 羞恥心が湧き起こり、離れたいと願うのに叶わない。
 肩を揺らして上半身を左右に躍らせたが、歌仙兼定は意に介さず、却って上腕の束縛を強めた。
 逃がさない、と力技で告げて、目を開きもしなかった。表情は落ち着いており、腕に食い込む指先とは違って穏やかだった。
 囁く声は低く掠れ、耳朶に響く。独白めいた言葉は遠くまで響かず、小夜左文字にさえ届けば良いと、そんな雰囲気が滲み出ていた。
 普段の喋り口調とは異なり、安堵にも似た感情が見え隠れした。
「熱、など」
「ああ、そうさ。分かっているよ」
 付喪神である刀剣男士は、現身を得て傷を負うことはあっても、病に倒れることはない。
 風邪を引くことがなければ、熱を出すこともない。食べ過ぎで身体が重くなることはあっても、腹痛で動けなくなるようなことはない。
 これは、戯れ言だ。遠い昔、己らを取り巻く人間たちの真似をして遊んだ、その延長だった。
 赤子が熱を出して寝込んでいる傍で、母親が必死になって看病している。薬を飲ませ、寝かしつけ、額に触れて熱の上がり下がりを確かめる。
 そういうままごとを、強請られるままに繰り返した。何故か小夜左文字が母親役をやる機会が多くて、額を重ね合うこの仕草も、彼らにとっては馴染みあるものだった。
 ところが、だ。
「だったら」
「良いじゃないか。たまには」
 ここの所殺伐とした日々が続いていたから、思い切って童心に返るのも悪くない。
 分かり切ったことを敢えて確かめた男には、いくら苦情を言っても伝わらなかった。
 本当に、いい加減離して欲しいのに、まだ解放されない。熱がないのは既に判明しているのだから、この体勢で居続ける必要も、とっくに失せているというのにだ。
「歌仙」
「ああ、お小夜」
 さっきから妙に頬や、首筋や、喉の辺りが熱かった。
 怪我をしたわけでも、動き回って関節に無理をさせたわけでもないのに、内側からかっかと熱が産まれて、消えなかった。
 背中に汗が滲み、閉じた腋がじっとり湿っていくのが分かる。上腕を掴む手は依然緩まず、それどころか少しずつではあるが、上に向かって移動していた。
 正面を見れば、歌仙兼定の顔があった。
 整った鼻梁、長い睫毛。引き結ばれた唇は薄く、滑らかで、肌は絹のように白い。頬は僅かに朱を帯びて、目尻には筆で緋を入れていた。
 藤色の髪は緩く湾曲し、毛先が軽やかに踊っていた。額を覆う量は少なく、先端に向かって少しずつ色が変化している。それは近くから見ないと気付けないほどの、繊細なものだった。
 髪質は柔らかく、ふわふわで、風が吹けば煽られて逆さを向いた。小夜左文字の針金のような髪とは大違いで、ふっくらしており、触っていると気持ちよかった。
 丁寧に櫛を入れても真っ直ぐにならず、よく枝に引っ掛けては絡ませて、動けなくなって泣いていた。
 そんな無邪気で幼かった付喪神が、時を越えて、すっかり大人びた風貌に変わった。
 昔は、大層可愛らしかった。
 それが今はこんなにも、綺麗で。
 男らしくて。
 凛々しくて。
 艶を帯び、刀にあるまじき色香を匂わせて。
「かせん」
 嗚呼、とため息が漏れた。
 うっとりと見惚れてしまう容姿に、心が蕩けていく。
 力が抜けて、膝が折れ、崩れ落ちてしまいそうな自分自身を意識した。
 そこに。
「――――」
 打刀の唇が、動いた。
 引き結ばれていたものが緩み、小さな隙間が出来た。穴が開いて、暗闇が覗き、引き寄せられるように視線がそこに集まった。
 音は響かなかった。
 窄められた唇が、次に倍の大きさに広がった。白い前歯がちらりと顔を出して、直後に再び、窄められた唇の中に隠された。
 瞬き一回分に等しい、僅かな時間の出来事だった。
「っ!」
 何も聞こえなかった。
 歌仙兼定はなにも語らなかった。
 けれど、分かった。
 音にならない声で、名前を呼ばれた。
 お小夜、と名を紡いだ。
 それを小夜左文字は、鼻先が擦れる距離で見ていた。
 たったそれだけ。
 他愛無い、日常の仕草のひと欠片だった――筈だ。
 しかし、そうはならなかった。
 それで済ませられなかった。
「いやっ!」
「お小夜?」
 衝動的に、短刀は叫んだ。甲高い悲鳴を上げて身を捩り、打刀の手を振り払い、叩き落とした。
 拘束から逃れ、よたよたと後ろへ下がった。摺り足で距離を稼ぎ、荒い息を吐いて、突然の変貌に戸惑う男に喉を引き攣らせた。
 歌仙兼定は呆然として、打たれた手を宙に投げた。届かないと知りながら腕を伸ばして、虚空を掻き、短刀を引き寄せようとした。
 小夜左文字自身、吸い寄せられそうになった。見えない糸に絡め取られ、自分からその胸に飛び込みたい衝動に駆られた。
 だのにそれを、身体が拒んだ。
 心が甲高い声で泣き叫び、溢れる羞恥に爆発しそうだった。
「お小夜、どうしたんだ。急に」
 心臓が爆音を奏で、平素の倍の速度を記録した。
 頭の中で銅鑼が鳴り響き、キーンと五月蠅い耳鳴りに血管が破裂寸前だ。視界が歪み、眩暈がして、地震でもないのに足元が揺れていた。
 内臓が揃って萎縮して、圧迫された肺が苦しい。呼応するかのようにきゅん、と下腹部が窄まって、内股になって膝をぶつけ合わせた。
 奥歯がカタカタ鳴って、息を吸うのと、吐くのがほぼ同時だった。呼吸ひとつまともに出来ず、爪先から駆け上る電流に背筋が粟立ち、産毛が逆立った。
 背筋がゾワゾワして、寒いのに、熱かった。
 相反するものが同時に存在して、鬩ぎあい、火花を散らしていた。
「え、あ……」
「お小夜?」
 前方では男が戸惑いに眉を顰め、渋面を作っていた。頻りに首を捻り、困惑を隠そうとしなかった。
 だが小夜左文字にだって、何が何だか分からない。目の前に佇む男が急にきらきら輝いて見えて、甘い香りが強まり、短刀を包み込んだ。
 無意識に喉を鳴らし、緊張に頬を強張らせる。
 眉を顰める打刀の口元に視線が集中して、逸らしたいのに、出来なかった。
「いったい、どうしたんだ。お小夜。顔が赤い。まさか、本当に熱が」
「いや、です。触らないでください」
「お小夜?」
 これまで不思議とも思わずに眺めて来たものが、突如百八十度入れ替わった。
 歌仙兼定の顔を、どうしてだかまともに見返すことが出来ない。こんなことは初めてで、小夜左文字は狼狽激しく叫び、追い縋る手を振り払った。
 後ろへ逃げて、肩で息をして、呆然と座り込む男に鼻を愚図らせる。
「お小夜……」
「っ!」
 困惑に彩られた男の声色が、四肢をぞわっと波立たせた。
 当惑に揺れる眼差しに、胸の奥がズキリと疼いた。
 身体のどこもかしこも熱くてならず、顔は火照り、倒れそうだった。
 まるで長時間湯に浸かり、逆上せた時のようだ。くらくらして、なにも考えられなくて、頭の中は真っ白だった。
 おかしくなってしまった。
 キリキリ引き絞られるように痛い胸を抱え、短刀は顔を引き攣らせた。ドッと汗が噴き出して、居ても立ってもいられなかった。
 このままここに居続けたら、死んでしまう。
 それくらいの恐怖に襲われて、彼は爪先で床を蹴り飛ばした。
「お小夜、どこに」
「来ないでください!」
 ぴょん、と跳ねて、素足のまま庭に降りた。膝を曲げて着地の衝撃を吸収させて、次の瞬間には脱兎の如く駆け出した。
 後ろから歌仙兼定の怒号が響いたものの、振り切った。甲高い声で喚いて、追いかけようとした男を牽制した。
 茹で蛸のように真っ赤になって、行き先も決めないまま庭を走った。道のりは滅茶苦茶で、右に、左に何度も折り返しては、同じ場所を往復したりもした。
 やがて力尽きて、楠の根本に蹲った後も。
「な、ん……なの」
 溢れる唾液を飲み干して、呻く。
 未だ心臓は爆音を奏で、心は静まらず、荒波に呑まれて彷徨っていた。
 目を瞑れば慣れ親しんだ男の顔が、今朝までとは違う色合いで現れた。なにも変わっていないのに、何もかもが違って見えて、鼓動は少しも休まらなかった。
「僕、は。どうなってしまったの」
 自問自答するが、答えは出ない。
 甘く名を囁かれる幻聴に背を撓らせて、小夜左文字は身体中に渦巻く熱にきつく目を閉じた。

君にいかで月にあらそふ程ばかり めぐり逢ひつゝ影を並べん
山家集 恋 629

2017/05/13 脱稿