八百万世の しるしなるらむ

 ひんやりした空気に、自然と背筋が伸びた。
 普段の猫背具合を改めて、明石国行は静まり返った廊下に目を細めた。
 どこまでも続きそうな暗がりに首を振り、踵を返した。草木さえもが眠りに就く、丑三つ時に動き回るのは彼だけで、行方を見守るのは点々と灯された灯明くらいだった。
 これがあるお陰で、夜も遅い時間帯でも屋敷の中を歩き回れる。
 短刀や脇差、打刀ほどに夜目が利かない己にため息を零し、彼は無造作に跳ねている後ろ髪を掻き回した。
 風呂でうっかり濡らしてしまったので、根本付近がまだ少し湿っていた。
 洗うつもりはなかったのに、結局洗わなければならなかった。そうして後の手入れを面倒臭がり、自然乾燥に任せていたせいで、この有様だ。
 将来禿げる、と揶揄されたが、強く否定できない。
「参りましたなあ」
 眠気を誘ってわざと欠伸をしてみたが、どこを彷徨っているのか、睡魔は一向に訪れなかった。
 頭が乾き切るのが先か、東の空から太陽が昇るのが先か。
 結局猫背に戻って呟いて、彼はひんやり冷たい床板に足の裏を貼りつかせた。
「……なんや?」
 遥か遠く、廊下の先に小さな光が見えた。
 最初は蝋燭の灯りかと思ったが、すぐに違うと否定した。仄かに緑がかった淡い輝きは、一箇所に留まらず、自在に動き回っていた。
 しかもひとつだけではない。ふたつ、みっつと増えたかと思えば、またひとつへと戻った。
 近くで見ればさぞや眩しかろう黄金色のそれは、時折なにかを呼ぶように明滅し、夜闇に光の筋を残した。
 美しい。
 だがなぜか、見ていて胸が締め付けられる。
「あかん」
 季節外れもいいところの蛍火に総毛立ち、明石国行は早足で廊下を突き抜けた。
 雪の時期が終わり、空は晴れて、月が明るい。雨の心配もないので、縁側に面した雨戸は開けたまま放置されていた。
 お蔭で庭の景色を遮るものはなく、幻想的な光景が見放題だ。こんな神秘的な光の演出は、高い代価を支払わなければお目にかかれないものだった。
 そんな不可思議な世界を目の当たりにして、彼は頬を引き攣らせた。一瞬でも見惚れてしまった自身を恥じて、縁側から飛び出しそうになった身体を懸命に引き留めた。
 軒を支える柱を掴み、噴き出た汗を背中に流した。床から地面までの高さを改めて確認して、ほっと安堵の息を吐いた。
 刀剣男士が暮らす屋敷は、床面が地表より一尺近く高くなっている。誤って落ちた場合、打ち所が悪いと大参事だ。
 不注意から来る負傷を免れ、彼は早鐘を打つ左胸を押さえた。内番着の上から繰り返し撫でて、落ち着くよう促した。
 肩を上下させ、息を整える。
 最後にふー、と長い時間を掛けて肺を空にして、面長な太刀は斜めに傾いていた眼鏡を正した。
 かちゃり、と爪にぶつかった金属が小さく音を立てた。
 日中であれば聞き取れない音も、夜だからか、よく響く。
「蛍。蛍丸」
 ならばこの位置からでも届くはずと、彼は池の畔に立つ少年に向かって呼びかけた。
 明滅を繰り返す光は其処此処を漂い、夜の暗さを打ち消していた。書物を読むには不向きだが、手元くらいははっきり見えた。
 夜戦を得意としない太刀でも、これだけ光源があれば、なんとか動き回れる。
 庭に降りるかどうかで迷い、視線を泳がせて、明石国行は前方からの物音に顔を上げた。
「国行」
 か細い声が聞こえた。
 今にも泣き出しそうな気配を感じて、来派の祖たる国行の太刀は肩を竦めた。
「こないな時間に、危ないやろ。そない寒いところおらんで、こっち来い」
 草履を探すのを諦め、柱の傍らで膝を折った。足の裏全体を床に張り付け、尻は浮かせた状態で、池の前に立つ大太刀を手招いた。
 ゆっくりとした仕草は、向こうにも見えたことだろう。短刀より背が低いくせに、誰よりも大きな刀を振るう少年は、いつもの勇猛さが嘘のように静かで、大人しかった。
 反応は鈍く、動きが悪い。
 やはり迎えに行くべきかと立ち上がろうとした太刀の前で、蛍丸は緩くかぶりを振り、小さな一歩を踏み出した。
 池の端から離れ、母屋へとゆっくり近付いてくる。夜は視野が狭まる彼のために、周囲を泳ぐ虫たちは頻りに羽を動かし、地表を照らした。
 迷いない足取りに、明石国行はほっと安堵の息を吐いた。険しかった表情がほんの少し緩んで、口角が持ち上がったところを、蛍の光が淡く照らした。
「ねえ。なんでそんな顔できるの」
 途端に、蛍丸の足が止まった。
 一瞬嬉しそうにした太刀を見咎めて、見目幼い少年は不満を露わに吐き捨てた。
「なんで。国俊が、あんな風になってるのに!」
 肩を跳ね上げ、時間帯も忘れて怒鳴る。
 ここが母屋の南側に広がる庭でなく、多くの刀剣男士が寝起きする北側の居住棟であったなら、あちこちから抗議の声が聞こえただろう。
 だがそうはならなくて、明石国行は肩を竦めた。寝ずの番を務める近侍には聞こえただろうが、大座敷から出てくる様子はなかった。
 ちらりと後方を振り返り、周囲に変化がないのを確かめた。
 近付く影がないのに首肯して、太刀は額に掛かる髪を掻き上げた。
「そない言うたかてなあ。国俊なら、大丈夫やろ。朝になったら、出てくるって」
「だけど!」
 刀である付喪神は、本来眠りを必要としない。だが審神者の力によって顕現した刀剣男士は、人に似せた現身に宿ることで、人と同じような生活を送っていた。
 一日三食食べて、運動し、夜は眠りに就く。この規則を破ることがあれば、仮初めの身体は途端に機能を低下させた。
 疲労が蓄積した時も、動きが一気に鈍くなった。足が重くなり、腕は上がらない。なにをするのも億劫になって、横になってだらだら過ごすのが一番治りが早かった。
 一方で人間とはまるで異なる面もある。
 彼らが戦場で負った傷を癒やすのに、薬や外科手術は用いられない。使われるのは手入れ部屋で、ここに入ればあっという間に元通りだった。
 どんなにか人に近付こうと試みても、彼らは人にはなれない。
 両者は限りなく近く、果てしなく遠い存在だった。
 こうして春の最中に飛び回る蛍も、人の身では起こし得ない奇跡だ。
 蛍丸に宿る伝承が、この奇妙な現象を引き起こしたようだ。けれど実際に傷を受けたのは、彼でなく、彼が慕う短刀だった。
 愛染国俊は出陣先で重傷を負い、手入れの真っ最中だ。仲間と共に帰還して、かれこれ二刻以上が経過しているのに、未だ出てくる様子がなかった。
 彼は修業の旅を終え、一段と強くなった。同じように修行を終えた短刀だちと隊を組み、時間遡行軍を血気盛んに討伐して回っていた。
 ところが不意を衝かれ、背後から急襲された。決して油断していたわけではないが、囮役だった一団に気を取られて、敵援軍の接近に気付くのが遅れた。
 味方は総崩れとなり、四方を囲まれて逃げ道を封じられた。強行突破しか術がないとの判断で、先陣を切ったのが愛染国俊だった。
 自慢の素早さを発揮して、血路を開いた。
 しかし仲間を庇って余分に攻撃を受けて、無事では済まなかった。
 残る五振り共々帰還したが、彼が一番、負傷の度合いが酷かった。厚藤四郎に背負われて手入れ部屋へ向かう姿は悲惨としか言いようがなく、血まみれで、呼びかけても返事がなかった。
 折れてはいないと言われても、信じられない。
 手入れ部屋から元気に出てくるまで、蛍丸は眠れそうになかった。
「せやから、主はんに任せとけばええねんって。あのお人が、手入れに失敗したことあったか?」
 けれど心配して夜通し起きていたとしても、愛染国俊の修復が速まるわけではない。審神者を信じて、任せて休んだ方が、蛍丸の身の為だ。
 明日だって、彼には彼の仕事がある。寝不足でふらふらな状態では、周囲の迷惑になりかねない。
 言い聞かせて、明石国行は早く屋敷に入るよう、蛍丸を急かした。
 縁側の端でしゃがんだまま、右手だけをぶらり、ぶらりと動かす。
 その指に蛍が一匹吸い寄せられて、爪に被さり、器用に停まった。
 ぼんやりとした光が間近で強まり、ゆっくりと弱まった。そうしてまたすぐに強くなって、明滅の間隔はほぼ一定だった。
 羽を休める場にされて、これでは迂闊に動かせない。なかなかの策士ぶりだと苦笑して、痩せ形の太刀は左腕で頬杖をついた。
 曲げた膝に肘を置き、蛍が停まる右手は動かさずに身体を傾けた。折り曲げた手首に顎を載せ、遠いようで近い場所から睨んでくる大太刀に肩を竦めた。
「国行は、冷たいね」
「酷いなあ。勿論、国俊も心配やけど。今はどっちかと言うたら、蛍丸の方が心配や」
 素っ気なく言い捨てられて、傷つかなかったわけではない。
 ただそれをおくびにも出さず、受け流して、明石国行は怠け者の蛍を宙に放った。
 指先を上下に振れば、地震に襲われたと勘違いした虫が飛び立った。急いで群れに合流して、早すぎる目覚めの元凶にまとわりついた。
 なにもないところから、蛍は産まれない。
 彼らは昨年の初夏、庭で優雅に舞っていたものの末裔だ。当初は季節の変化に合わせ、もっと遅い時期に空を駆る予定が、不安定に揺れる大太刀の霊力に刺激され、このような変異を引き起こした。
 今宵舞う蛍は、本来あるべき姿ではない。気候に適応できず、朝になる前に多くが死に絶えるはずだ。
 手入れを終えて元気に朝を迎える愛染国俊とは、逆だ。
 庭に散らばる虫の死骸を目にした時、彼はどんな顔をするだろう。
 止め処なく溢れ出る霊力が、蛍丸自身に影響を及ぼさないとも言い切れない。
 霊力とは、付喪神の生命力のようなものだ。神社へ奉納され、信仰の対象となった神刀などは特に高い。
 これが外へ流れ続ければ、当然付喪神は弱体化する。また、霊力は様々なものに、なんらかの形で影響を及ぼす。天下五剣の大典太光世などは、その典型だ。
 蛍丸はすでに、眠っていた虫を強引に目覚めさせている。
 この異変が長く続けば、本丸の四季が狂い、おかしな事態になりかねなかった。
「あかんで、蛍丸」
 彼は愛染国俊を案じる余り、己に宿る霊力を解放した。蛍が刃毀れを直したという奇跡の再現を目論み、実行に移した。
 だが肝心の短刀は、手入れ部屋の中。結界に覆われたあそこには、神刀であっても簡単には立ち入れなかった。
 行き場を失った蛍は庭を飛び交い、この美しく、幽玄な世界を彩っている。
 朝日が昇ると同時に消え失せる儚い命を思って、明石国行は今一度、愛しい大太刀を諭した。
「国行には、関係ない」
「関係あるから、言うてんねやろ。あかんもんは、あかん。そういうのは、しまっとき」
 冷静に見えて頭に血が上っている大太刀は、放っておけば単騎で敵陣へと突っ込みかねない。愛染国俊を傷だらけにした時間遡行軍に、鬼の形相で挑んでいきそうだった。
 ただ幸いと言うべきか、出陣は審神者の許可なしでは叶わない。
 今の状況からして、許しが得られるとは思えなかった。
 霊力の放出を止めない少年を窘め、明石国行はゆっくり立ち上がった。冷えて感覚が鈍った足を適当に動かして、両手を腰に当て、背後を振り返った。
 この位置からでは到底見えないけれど、ここから奥へ進んだ先に、手入れ部屋がある。
 他の設備とは違い、自由に出入りできない場所だ。解放されるのは仲間が負傷した時に限られ、入室を許可されるのも負傷者だけだった。
 近くで待っていたいのに、許されない。
 蛍丸の不安や苛立ちは、明石国行にもよく分かっていた。
「なあ、蛍丸」
 頭に停まろうとした蛍を追い払い、庭に佇む少年に呼びかける。
 首を右に傾がせた彼に、小柄な大太刀は眉を顰めた。
 また説教かと警戒する素振りに、自然と苦笑が漏れた。どんなに信用がないのかと自嘲して、怠け者の太刀は肩を竦めた。
「蛍丸も、ちょっと前までは、よう手入れ部屋の世話になっとったなあ」
 右肩を細い柱に預け、爪先で雨戸の溝を踏んだ。ほんの僅かな窪みに親指の腹を捻じ込めば、凹んだ型通りに肌が変形した。
 感覚で分かる滑稽さに横隔膜を引き攣らせ、しみじみしながら呟く。
 最近はとんとご無沙汰になっている事実を思い出してか、蛍丸はなんとも言えない表情を浮かべた。
 短刀たちが修行に出ると言い出す前、この本丸の主戦力は彼だった。一度に多くの敵を攻撃できる上、刀装の装備数も他の大太刀よりひとつ多い利点があり、顕現した直後から主力部隊に組み込まれた。
 それが結果的に、短刀たちが旅に出るきっかけを作った。
 刀装がひとつしか持てず、挙げ句攻撃力は低くて霊力も微弱。どんなに頑張っても戦場では足手纏いにしかならない現実を彼らに叩きつけたのは、体格だけは短刀並みの大太刀だった。
 結果、己を見極めた短刀らは、すこぶる強くなった。
 半年前まで毎日のように出撃していた刀たちはお役御免となり、最近は暇を持て余すようになっていた。
 愛染国俊も、常々口にしていた。自分も明石国行や、蛍丸と一緒に出陣したい。
 肩を並べて戦いたい、と。
 けれどそれが叶わなかったから、彼は修業に出た。そうして自分に自信を持ち、連日連夜、戦いに出向いていた。
 蛍丸を置いて。
「俺が、一緒だったら。あんなことにはならなかった」
 どうして一番隊の面々は、愛染国俊に先鋒を任せたのか。打たれ強い刀は他にもいる。修業から戻って間もない彼に任せるには、荷が重かったのではないか。
 詳しい報告を聞いていないので、戦場で実際どういうやり取りが交わされたのかは分からない。
 仲間を責めるのは酷だと分かっていても、言わずにはいられなかった。
 俯いて拳を作った大太刀に、明石国行は小さく溜め息を吐いた。肩だけでなく、背中まで柱に預けて寄り掛かり、雲の少ない夜空を仰いだ。
 蛍は今もなお、つがいを求めて彷徨っていた。
 あと数刻で潰える命と知ってか知らずか、種を残そうと必死だ。淡い輝きは徐々に弱くなり、数は次第に減っていく。それでも彼らは懸命に生き、抗っていた。
「どうやろな。そればっかりは、誰にも分からん」
「いじわる」
「国俊も、似たようなこと言うとったわ」
 もしかしたら、運よく明日も生き延びる蛍がいるかもしれない。
 今まさに消え果てた光も、本来の季節に羽を広げていれば、違う未来を得ていたかもしれない。
 なにがどうなるかは、分からない。そして分かっている過去を変えることは、誰にも許されない。
「国俊が?」
 遠くを見詰める明石国行に、蛍丸は僅かに身を乗り出した。
 初めて聞く話に興味を惹かれて、無言で続きを催促した。
 若草を踏む音がして、太刀は視線を近くへ戻した。眼鏡の奥の眼を眇めて、近付いてくる大太刀に合わせて膝を折り、屈んだ。
「自分がおったら、どうなってたやろう、ってなあ」
 以前は、蛍丸が手入れ部屋の常連だった。強敵を討ち果たすのに、負傷は避けられない。多かれ少なかれ血を流し、帰還と同時に放り込まれてきた。
 この頃はすっかり縁遠くなった場所を思い浮かべ、昔を懐かしむ太刀の横顔をじっと見る。
 明石国行は突き刺さる視線に苦笑して、軒下まで来た大太刀の頭を撫でた。
「縮むから、やめて」
「おー、おー。縮め、縮め。縮んでくれたら、持ち運び易うなるわ」
「国行!」
 それを嫌がり、蛍丸が駄々を捏ねた。
 身を捩って逃げた彼の周囲で蛍が舞って、この辺りだけが昼のような明るさになった。
 時期外れに無理矢理起こされたというのに、蛍は彼を守ろうとする。それが溢れ出る霊力によるものか、どうなのかの判断は保留して、明石国行は相好を崩した。
「蛍丸が手入れ部屋から出て来た時、国俊のやつ、ようこの辺で待っとったやろ?」
「うん」
 手入れ部屋がある一帯は屋敷の中心に近く、やや奥まった場所にある。迷路のように折れ曲がった通路を抜けて、ようやく辿り着ける位置だ。
 そこから庭に出るのに一番使いやすいのが、明石国行の背後にある廊下だ。台所や、各刀剣男士の私室がある北の棟に行くには別の経路が便利だが、母屋の大座敷へ向かうなら、ここを行くのが最も近道だった。
 だからこそ、蛍丸はここで待っていた。
 かつて愛染国俊が立っていた場所に、今は彼が佇んでいた。
「なあ。そん時、国俊、どんな顔しとった?」
「っ!」
 問われた大太刀はビクッと肩を震わせ、直後に顔を伏した。鼻を啜って音を響かせ、痙攣する唇を強引に引き結んだ。
 艶やかな髪が目の前に迫り、明石国行はそのひと筋を掬った。指の間をサラサラ流れて行く細い糸を擽って、怒られないよう優しく撫でた。
 大太刀の胸に渦巻く感情は、太刀にも覚えがあった。そしてその逆も、度々経験していた。
 待つのも、待たせるのも、どちらも辛い。
 自分の力の無さを嘆いたし、不甲斐なさに唇を噛んだ日は数えきれない。共に出陣しながら守れず、せめて背負ってやりたいと願っても、自力で歩くのさえままならないことだってあった。
「かなんなあ、ほんま」
 俯く蛍丸の眼に溢れる涙を見つけて、愚痴を零す。
 これを止めてやれるのが自分でないのが悔しいし、そこまで仲間を思っていると知れたのが嬉しかった。
 背中をいっそう丸めて小さくなって、明石国行は自然と緩みそうになる頬を手首に押し付けた。
「国俊も、目に涙いっぱい溜めてたなあ」
「うそだ」
「嘘やあらへん。蛍丸が、知らへんだけや」
「国俊、そんなこと、言ってなかった」
「言うわけあらへんやろ。男っちゅうもんは、いつだって、見栄を張りたいもんやで」
 うっかりもらい泣きしそうになって、それだけはと我慢した。熱くなる目頭を袖に押し付けて、つくづく信用がないと苦笑した。
 絶対に誰にも言わない、と約束していたのを破ったから、愛染国俊に知れたら怒られるだろう。そうなると信頼度がまた一段下がるのは確実で、益々憎まれ口を叩かれるようになりそうだった。
 だが、それでいい。
 憎まれ口すら叩かれなくなるよりは。
 憎まれ口さえも聞こえなくなるよりは、ずっと良い。
「……国行も?」
 額に垂れる髪の毛で視界を半分隠していたら、ぽつりと、消え入りそうな声で問われた。
 必死に涙を堪え、愚図る大太刀に虚を衝かれて、明石国行は返事も忘れてぽかんとなった。
 この場合、質問の先にあるのは何か。
 見栄を張っていることか。それとも、手入れ部屋から出てくるのを、涙こらえてじっと待っていたことか。
「せやなあ」
 恐らくは両方だと目を眇め、彼は遠い夜空を見上げた。光が煩わしく感じるくらい飛び交っていた蛍は、いつの間にか半分以下になっていた。
 瞬きひとつで視線を正面に戻せば、蛍丸から溢れ出る霊力は、一時期より遥かに落ち着いていた。
 もうこれで、強制的に蛍を目覚めさせることはない。
 そして霊力により活性化された虫たちは、命の源たる霊力を失い、朽ち果てる。
 願わくば、彼がそれを気に病まぬように。
 静かに瞼を伏して、明石国行は足元で眠る蛍の背をそっと撫でた。
「蛍丸は、どっちがええ?」
「また、すぐそうやって、はぐらかす」
 しんみりしたくなくて、わざとおどけての質問返しは、怒鳴られて終わりだった。
 ぷんすかと煙を噴く少年に呵々と笑って、痩せ型の太刀は口元を綻ばせた。
「どっちなと。好きな方に思ってくれてええよ」
 投げやりとも取れる台詞を吐いて、判断は相手に任せた。
 蛍丸の頬はみるみる丸く膨らんで、口を尖らせる姿は河豚のようだった。
 それが実に可愛らしくて、明石国行は腹を抱え込んだ。愉快だと高く声を響かせて、自然と浮かんだ涙を指の背で削ぎ落とした。
「あ~……やっぱり蛍丸は可愛らしいな」
「うるさい」
 最大限の賛辞を贈ったのに、なぜか怒られた。
 拗ねて殴る振りを見せられ、太刀は後ろに仰け反って避け、ずっと浮かせていた尻を床に降ろした。
 一気に足が楽になり、安堵の息が漏れた。素早く胡坐を組んで頬杖をついて、赤く染まった頬を捏ねている大太刀に目尻を下げた。
「国俊だって、手入れ部屋で、頑張ってるんだ。俺だって」
「そうそう。その意気やで」
「言っておくけど、国行に言われたからじゃないからね。俺が、変な顔してたら、国俊が困るでしょ」
 寒さと、それ以外の理由で固まっていた顔の筋肉を解し、蛍丸は笑顔の練習を開始した。口角に指を置いて無理矢理持ち上げて、ニッ、と白い歯を覗かせた。
 続けて掌で揉んで、解して、最後にバンバン、と素早く二度、叩いて音を響かせた。
 せっかく長時間の手入れを終えて、元気いっぱいになって出てくるのだ。出迎える側も、元気に明るく、笑顔でいたいではないか。
 心配させたことを、愛染国俊は気にしているかもしれない。
 敵の罠を見抜けず、仲間を劣勢に追い込んだ後悔や、反省や、羞恥といった感情だって当然あるだろう。
 もしかすれば、暗い顔をして廊下を歩いてくるかもしれない。祭り好きの陽気な性格が影を潜め、落ち込んで、精神的に疲弊しているかもしれない。
 そんな時に、こちらまでどよんとした顔をしていはいけない。
 無傷で済まなかったとはいえ、折れずに帰ってきたのをまず褒めよう。そしてもっと一緒に強くなろうと、誘おう。
 おかえり、と言って抱きしめよう。
「あ、やべ」
 愛染国俊が出て来たら言いたいこと、やりたいことを並べているうちに、またしても涙腺が緩んだ。
 慌てて目尻を擦った蛍丸に愁眉を開いて、明石国行は微かに感じた気配に腰を捻った。
 胡坐を崩し、ひたひたと迫る足音に耳を澄ませた。音の間隔、床を伝う振動などから相手の大きさを測って、軒下から身を乗り出した大太刀に目配せした。
 ハッと息を吐き、彼らは揃って四肢を粟立てた。
「あー、もうくったくただよ。祭りどころの騒ぎじゃなかったぜ」
 先に声が聞こえた。
 月明かりが照らす中、暗がりからぬっと抜け出して現れた影は、彼らを見るなり疲れた様子で肩を回した。
 大きく欠伸をして、眠たげに目の下を擦った。紅く愛染明王を染め抜きした上着は裾が一部擦り切れて、胸元には横一文字の切り傷が、くっきりと残されていた。
 赤く染まった一帯から覗く肌は平らで、肉が裂け、折れた骨が飛び出てもいない。傷はしっかり塞がって、修復されたばかりの皮膚は他より若干白くなっていた。
 お気に入りの戦闘服がぼろぼろにされて、もっと機嫌が悪いかと思っていた。
 意外とそこにはこだわらない短刀に呆れて、肩を竦め、明石国行は立ち上がると同時に後ろへ下がった。
「国俊!」
 直後、彼がいた場所に小さな塊が飛び込んできた。勢い余って縁側に膝をぶつけたが、痛みを堪え、蛍丸は履物のまま愛染国俊に抱きついた。
「どわ!」
 あと一秒でも避けるのが遅れていたら、踏まれていた。
 蛍丸は小柄なので体重はさほどでないけれど、あの大太刀を自在に振り回せるだけあって、腕力も、脚力も充分だった。
 床が踏み抜けなかっただけ、良かったと言わざるを得ない。
 どてっぱらに穴を開けずに済んでホッとして、明石国行は後頭部を痛打した短刀に憐れみの表情を浮かべた。
 油断があったのだろう。愛染国俊は、避けられなかった。
 正面から蛍丸の突進を受け、突き飛ばされ、受け身もなしに床に転がった。しかもそこに飛びつかれ、ぎゅうぎゅうに締め付けられて、強烈な圧迫感に白目をむいていた。
 塞がったばかりの傷が開かないか、少々心配になった。
 加減を忘れている大太刀にため息を吐いて、彼らの保護者を自認する男はゆったり起き上がった。
「よお生きとったな、自分」
「死に、そう……」
 のんびり歩み寄り、月光を浴びて蠢く影へと話しかけた。返ってきたのは心底苦しそうな呻き声で、暗がりに見える顔色は土気色だった。
 光が弱いからそう見えるとは、断言し辛い。やむなく大太刀の肩を叩いて、短刀から強引に引き剥がした。
「蛍丸、その辺にしとき。国俊がまた手入れ部屋、行かなあかんなる」
 一発か二発、殴られるのを覚悟して言い、強烈な愛情表現は控えるよう諭す。
 先ほどまでのやり取りはなんだったのか、と苦笑していたら、ぶすっと頬を膨らませた大太刀が不満そうに太刀を睨んだ。
「国俊が、俺が手入れ部屋入ってる時。泣いてたって、国行が」
 そうしてやおら人差し指を突き付けて、早口に捲し立てた。
「ちょ、蛍丸。それはあかん」
「はあああ?」
 秘密を暴露した件を告げ口されて、悠然としていた男の顔色がサーッと青くなった。愛染国俊も寝耳に水の情報に騒然となり、痛みも忘れて素っ頓狂な声を上げた。
 目玉が飛び出しそうなくらい真ん丸に見開かれた眼が、冷や汗を流して後退を図った男を捉えた。
「国行、どういうことだよ。内緒だって、約束したろ!」
 握り拳を作って振り回し、鼻の頭に絆創膏を貼った短刀が吠えた。
 途端に明石国行は額を押さえて項垂れて、蛍丸は成る程、と満面の笑みで頷いた。
「ふ~ん。本当だったんだ」
「……あ」
「あほやなあ、国俊は。なんでそこで認めるん」
 ここで否定しておけば、真実は闇に葬られた。だのに口が滑り、墓穴を掘った愛染国俊は、己の失態に気付いてピキッと凍り付いた。
 今なら軽く突くだけで、ぼろぼろに砕けてしまうだろう。
 男としての矜持を自ら投げ捨てた彼を、どう慰めてやろうか。なにを言ってもお前が悪い、のひと言で片付けられそうな予感はするが、ひとまず悩んで、保護者役の太刀は頬を緩めた。
「国俊、腹減ってるやろ。台所に握り飯と、伊達巻き、作っといたから。食べ」
「う、うお、お……まじで?」
 下手に同じ話題に拘るよりは、まったく別のものに振り替えた方が良い。
 夜遅くの台所作業は骨が折れたが、時間を潰すには充分だった。余計なことを考えずに済み、お蔭で少々やり過ぎた。
 怠け者で知られる太刀にあんな特技があると、他の刀が知ったらどう言うだろう。粟田口の短刀たちに強請られるのだけは、勘弁願いたかった。
「国行、俺は。俺のは?」
「はいはい。蛍丸の分も、ちゃあんと用意してあるから。仲良う分けや」
「やった。ねえ、今回はなに? なにがある?」
 直前までの会話は、一瞬で彼方へと忘れ去られた。ほかを差し置いても食い気が勝る弟分に失笑して、明石国行は顔の前で指を折った。
「えー、なんやったやろ。猫と、犬はあったやろ。んで、兎と、虎と、あとなんや」
「俺、犬と虎な」
「えー。じゃあ俺、猫と兎と。国行、今度あれ作って。象っていう鼻が長いのと、麒麟とかいう、首が長いやつ」
「しゃーないな。考えときますわ」
 本丸には動物図鑑なるものがあるから、それを眺めたのだろう。新たな希望を受け付けて、彼は肩を竦めた。
 握り飯を薄焼き卵で覆ったり、海苔で目玉や模様を作ったりして、動物を模す。
 明石国行の意外な特技は、来派のふた振りに大好評だった。
 最近ではだし巻き玉子に色々な具材を混ぜ、断面が顔になる小技まで身につけた。
 だがいずれも、本丸に暮らす刀剣男士は知らぬこと。この事実は、来派三振りだけの秘密だった。
「誰にも見つからんように練習すんの、しんどいねんけどな」
「やったね。国行、愛してる」
「俺もだぜ、国行」
「はいはい。嬉しいわー。むっちゃ嬉しいわー」
 ただそれも、いつまで続けられるのか。
 どんどん数が増えていく仲間のお蔭で、台所はいつでも混雑している。夜更けに早起きするにしても、頻繁過ぎると怪しまれた。
 だが可愛いふた振りが喜んでくれるなら、これくらいの努力は致し方ない。
 とても心からとは思えない告白に、棒読みで返事して、明石国行は台所へ行こうとする大太刀を引き留めた。
 後ろから小さな頭を鷲掴みにして、ぐりん、と捩って強引に短刀の方を向かせて。
「その前に、言うことあるやろ。蛍丸」
「あ」
 笑顔で出迎えるのは失敗したが、ほかにもやりたいことがあったはずだ。
 それを思い出すよう促した太刀に、大太刀ははっとして、短刀は不思議そうに首を傾げた。
 三振りが輪になって、向き合って。
「おかえり、国俊」
「よう頑張ったな。お疲れさん」
 彼らはそれぞれに告げると、揃って愛染国俊の頭を撫でた。

ときはなる三神の山の杉村や 八百万世のしるしなるらむ
藤原季経朝臣 千載和歌集 賀歌 640

2017/04/30 脱稿