惜しき心を何にたとへん

 しとしと降る雨は、陽が暮れた後も本丸の周囲に居座り、立ち去る気配は感じられなかった。
 屋根を打つ音は間断なく続き、一定の拍動を刻んだかと思えば、風が吹いたのか横やりが入って、急速に乱れた。
 これでは鼓を合わせるのは難しく、舞の相手は務まらない。これで舞台に立とうものなら、なんと下手糞なのか、と酒杯を投げつけられかねなかった。
 雨音を背景に踊るのは風雅なようで、なかなかの難易度だ。
 自分に出来るかどうかを考えて、小夜左文字は寝床の中で首を振った。
「花はもう、終わりだね」
 瞼を開けても、見えるのは一面の闇。
 いつも以上に闇が濃く感じられるのは、障子の向こうで雨が降り続けているからだ。
 空は雨雲の支配下にあり、月も星も遠い彼方。地表を照らすのは常夜灯の細い光のみで、風が吹けば瞬く間に消える儚さだった。
 今日は夕方を待たずして、厚い雲が上空を覆った。洗濯物の回収は間に合ったが、僅かに花を残す桜に笠を被せるのは叶わなかった。
 染井吉野の後は遅咲きの八重桜が目を楽しませてくれていたが、それももう終わりだ。
 冷たい雨に打たれて散っていく花弁はなんとも憐れで、惜しくてならなかった。
 天候さえ良かったなら、あと二日か三日は、楽しめただろうに。
 屋敷に住まう刀剣男士の多くも急な天気の変わりようにため息を零し、残念がっていた。
 毎夜のように繰り返されていた花見の宴も、ついに終わりを迎える。これで酒飲みたちに絡まれずに済むと、ホッとしていたのは料理上手の刀たちだ。
 各々の立場や性格で、花の終わりについても考え方は違った。名残惜しむ刀もあれば、清々したと笑う刀もいた。散り際が哀しいから桜は嫌いだ、という刀も中にはいて、驚きだった。
 新たな仲間を複数迎え、三度目の春がやってきた。
 もうそんなにもなるのか、と愕然とした。反面、まだそれだけなのかとも思って、妙に胸の奥がむずむずした。
「季節の移ろいなど、気にしたこと、なかったのに」
 トン、トトン、タン、と軽やかに踊る雨音は止まず、眠れずにいる短刀の耳を楽しませた。
 薄い枕に左頬を埋めて、彼は肩まで被った布団ごと、軽く身を捩った。
 緩く曲げていた膝を投げだし、背筋を反らした。ぐ~っと伸びている間は息を止め、胎児の形に戻った後、時間をかけて吐き出した。
 何度か瞬きを繰り返し、暗闇の中に浮かぶ微かな影を目で追いかける。動くものはなく、雨音以外は静かだった。
 両隣の部屋を使っている短刀は、夜間は仲間のところへいく。今剣も、愛染国俊も、同派の刀の部屋が寝室だった。
 大勢で大部屋を使っている粟田口も、随分前から静かだ。耳を澄ませてみるが、話し声ひとつ聞こえない。少し前まで騒いでいたが、長兄が様子を見に来た後は、大人しく眠ったようだ。
 中庭を挟んで向かいにある打刀部屋からも、物音はしなかった。
 六十振りを越える刀がいる中で、眠っていないのは自分だけではないか。
 そんな気分になって、小夜左文字は四肢の力を抜いた。
「寝よう」
 近侍が寝ずの番を務めているのだから、この妄想はあり得ない。
 役目を与えられてもないのに、睡眠時間を削って疲労を翌日に持ち越すのは愚の骨頂だ。言い聞かせ、彼は冴えている頭を休めようとした。
 この地に顕現したばかりの頃は、桜を愛でようとも思わなかった。そこに美を見い出すことが出来ず、連日連夜、はしゃぎ回る刀たちが理解できなかった。
 だが今は、桜流しの雨が少し憎らしい。
「どうかしている」
 時期が来れば花は咲き、散る。次の年も、そのまた次の年も。
 自然の摂理なのだから当然で、不思議でもなんでもない。そうなるよう仕向けられた花を見上げ、あれやこれやと騒ぎ立てる方が、ずっと意味不明だった。
 それがいつしか、変わっていた。
 馬鹿騒ぎに興じる刀たちを、怪訝に見つめることもなくなった。
 この変化を、上手く受け止めきれない。自分の中でどう消化していけばいいか分からず、戸惑うばかりだった。
 そこに加えて雨音が重なり、なかなか眠れない。
 心がかき乱されて、落ち着かなかった。
「……眠らないと、いけないのに」
 明日は出陣を言い渡されている。中途半端な体調で出向けるほど、江戸城下に潜む敵は甘くなかった。
 共に戦う仲間に迷惑をかけないよう、万全で挑まなければいけない。だがそうやって自分を追い込めば追い込むほど、睡魔は遠ざかっていくようだった。
 眠りに集中したいのに、目を閉じれば余計なことばかり考えてしまう。
 止まない雨に嘲笑われている気分で、反発心は膨らむ一方だった。
「夜もすがら 涙も雨も ふりにけり 多くの夢の 昔語りに」
 気持ちを切り替えようと、掠れる小声で囁く。
 喉の奥から細く息を吐き出して、屋根打つ音に調子を合わせた。
 その数を数え、呼吸を鎮めた。
 酷く不安定に感じられたものを、穏やかな音色だと誤認識させて、苛立つ必要はないと自身を説き伏せた。
 目を閉じ、薄い布団に身を預ける。
 次の瞬間、違和感を覚えた彼はガバッと身体を起こした。
「あ、れ」
 途切れた意識が絡みあい、なかなか一本に繋がらなかった。記憶にあるより暗さが抜けた外に目を瞬いて、小夜左文字は惚けた顔で凍り付いた。
 いつ眠ったのか、まるで覚えがない。
 気が付けば数刻が過ぎていたようで、障子の向こうは僅かに白み始めていた。
 季節が巡り、日の出は徐々に早まっている。一番鶏が鳴いたかどうかを気にして、彼は寝癖が酷い頭を掻き混ぜた。
 あの後すぐ、眠れたようだ。怠さは感じず、身体は軽かった。
「まだ早いというのに」
 夜明けが近いとはいえ、早朝も良いところ。
 きっと朝餉当番も、まだ布団の中で寝返りを打っているはずだ。
 程よく眠れたのは嬉しいが、早く起き過ぎた。そんなつもりは毛頭なかったので、今一度眠るかどうか、数秒迷って欠伸を噛み殺した。
「ふあ、ん」
 口から息を吸い、鼻から吐く。
 あまり乱れていない寝間着の衿を整えて、短刀の付喪神は目の下を擦った。
 眠っていた時間は短いが、その分深かったらしい。睡魔はさほど残っておらず、布団でごろごろ過ごしたい欲も起こらなかった。
「どうしよう」
 そもそも何故、こんな変な時間に目が覚めたのか。
 髪を結う紐を探して枕元に手を伸ばし、彼は障子の向こうに目を眇めた。
 早起きの誰かが騒いでいる、というわけではなさそうだ。爺を自称する三日月宗近が、早朝の散歩で中庭を通った、というのも違う。
 石切丸が朝の行水に向かう道中、足を滑らせて転んだ、とは思えない。夜のうちに厠に出た兄が戻らないのを心配した膝丸が、あちこちを探し回っている風でもなかった。
 これまで実際にあった出来事を順に振り返り、短刀は起き上がった。布団に膝を折って座り直し、鏡も見ずに、手櫛だけで髪を結った。
 肩より長い毛束をひとまとめにして、根本に紐を三重にも、四重にも巻きつけ、輪を作る。
「よし」
 右側を無駄に大きく仕上げて、彼は何気なく天井を見た。
「そうか」
 寝入り端にあったのに、今は感じられないものがある。
 それが違和感の正体だと気が付いて、小夜左文字は右手を支えに立ち上がった。
 前傾姿勢から背筋を伸ばし、視線を高くすると同時に足を踏み出した。たった数歩で端まで行ける狭い部屋を横断して、中庭に面する障子を勢いよく右に滑らせた。
 本丸の建物は大きくふたつに分かれており、南側が公的設備を備えた母屋、北側が刀剣男士の私室が集う居住区になっていた。
 つい最近、一部が二階建てになった建物は複数の庭を持ち、どの部屋にも明かりが入るよう設計されていた。小夜左文字が暮らす短刀区画もそうで、中庭を挟んだ向かい側が打刀区画だった。
 見た限り、そちらになんら動きはない。
 変わったのは、空だ。
「止んでる」
 あれだけ遅くまで降り続いていた雨が、今は跡形もなかった。
 地面は濡れており、あちこちに水たまりが出来ていた。しかし空中を踊る雨粒は姿を消して、仄かに匂いを残すのみだった。
 吸い込んだ空気は湿気を含み、ねっとりと粘つくようだ。全体的に重く感じられて、まとわりついてくる感覚が不快だ。
 色も形もないものに目を凝らし、張り付いてくる生温かさに身震いする。ゾワッと来た悪寒に耐えて頭を振り、彼は灰色に濁る天を仰いだ。
 雨が止んだとはいえ、すぐに晴れ渡るわけではない。地上同様、上空も風が弱いらしく、雲を追い払うには時間がかかりそうだった。
 軒先の雫が大きく育ち、耐えきれずに地面に落ちた。
 音もなく砕け散ったそれに目を眇めて、小夜左文字は薄布一枚で出て来た自分を思い出した。
「暖かい、ような。寒いような」
 全身を覆う空気は生暖かいが、それが上着代わりになるわけではない。肌に吸い付いた水分が蒸発する際、体温を奪っているようで、最初は良かったが、段々肌寒くなってきた。
 胸の前で腕を交差させ、上腕を撫でて温めるが間に合わない。
 足踏みも追加して身を捩って、短刀は部屋に戻ろうと踵を返した。
 しかし、振り向く瞬間に見えた景色に目を奪われ、半回転で良かったのが、一回転になった。
 その場で三百六十度回って、小夜左文字は中庭に根を下ろす木に焦点を定めた。
 それは何の変哲もない、特に面白みもない楓だった。一本だけで枝を伸ばしており、仲間はおらず、孤独だった。
 中庭という場所柄、あまり沢山植物を植えられないのだ。大きく育ちすぎると日差しを遮り、各部屋に行くはずの光を奪ってしまう。かといって何も植えないと味気なく、寂しかった。
 そういう事情で、一本だけ楓が育っていた。この場所に本丸が設けられてから植樹されたので、幹はまだ細く、枝振りも大人しかった。
 それでも健気に、すくすく育っていた。秋になれば葉は一斉に赤く染まり、部屋に居ながら紅葉狩りが楽しめた。
 そして冬の間は葉が落ちて、素っ裸同然の寒々しさだった。
 それが知らぬ間に、薄緑色の葉を沢山茂らせていた。
 しかもどの葉も、先端が幾分丸まっている。まるで綻んだ蕾で、色こそ違えど、花が咲いているようだった。
「気が付かなかった」
 この季節は誰もが浮き足立ち、やれ梅だ、桜だ、と大騒ぎ。
 注目を集めるのも自然とこの二種類に絞られて、小夜左文字もそちらにばかり目が向いていた。
 初めての春は、あまり関心を示さなかった。だが周りが許してくれず、花見団子につられて樹下で過ごす時間を持った。
 二度目の春は、一年前よりも仲間が増えた分、賑やかだった。飲めや歌えの大騒ぎで、料理を運ぶのを手伝っているうちに、頻繁に酒杯に巻き込まれた。
 三度目のこの春、喧しいだけの宴会からは距離を置いた。花そのものを楽しみたくて、敢えて庭を避け、山桜を巡って過ごした。
 傍らにはいつも、同じ刀がいた。
 歌比べは、今年も引き分けに終わった。そもそも優劣を決めてくれる刀がいないので、争うというよりは、気ままに詠みあっているだけなのだが。
 振り返れば、随分な変化だ。それを普段は意識せず、受け流して来たのも驚きだった。
 青紅葉は露に濡れ、淡く輝いていた。他に類を見ない特異な形状の先端から、大粒の雫を滴らせていた。
 思えばこの木も、なかなか可哀想だ。
 季節によって様々な姿を見せてくれるのに、人の目を集めるのは決まって秋に限られる。それも赤く色づいた時だけで、散り切ってしまった後は見向きもされなかった。
 桜も似たようなものだが、気分が違う。
 これから暖かさを増していくのと、寒さが険しくなっていくのとでは、見る側の感じ方に相当な差があった。
「きれいだ」
 朝日はまだ昇り切らず、空は白んでいるものの、明るいとは言い難い。
 太陽は雲に隠れて見えず、辺りを照らす光はぼやけていた。
 それでも、楓の葉は懸命に背伸びをしていた。限りある光を集めようと、雨露の中で気勢を吐いていた。
 細い枝に密集して、隙間は殆どない。色は小夜左文字の記憶にあるものより淡く、厚みもさほどではなかった。
 枝や幹自体が細いのもあって、どことなく頼りなく見えるのは、気のせいだろうか。
 風が吹けば簡単に折れそうな姿に、短刀は一抹の不安を覚えた。
「しっかり育っているとは思うけど」
 二年前は、もっと貧相だった。
 それを思えば、順調に枝を伸ばしている。だが母屋の南に広がる庭には、これの数倍太い楓が、多数植えられていた。
 あれらと比較すると、やはり少々心許ない。
 肥料を追加してやるべきか悩んで、彼は庭造りを得意とする兄の顔を思い浮かべた。
「江雪兄様に、相談してみよう」
 食事の後、出陣までには少し時間がある。その間に捕まえて、質問すればいい。
 江雪左文字なら、きっと真摯に耳を傾けてくれるだろう。そして事態を良い方向に導いてくれるはずだ。
 戦嫌いの太刀が、最初は少し苦手だった。復讐に溺れる自分を、あちらがどう見ているかが気になって、こんな短刀が弟では嫌だろうと、勝手に決めつけ、距離を置いた。
 それが今では、席を隣にして食事をするまでになった。
 食事中は無駄口を叩かない方針なので、会話はないけれど、肩を並べられるだけで充分だった。
「ほかの木は、どうだろう」
 ざっと今日までの日々を振り返れば、思い出すことは多かった。
 今年に入ってからもなにかと慌ただしく、庭の景色をじっくり眺める機会は少なかった。毎日前を通っているのに、中庭の楓の変化に気付かなかったくらいだから、相当視野が狭くなっていた。
 やれ出陣だ、やれ遠征だと、毎日どこかに出かけている気がする。
 改めて薄日に照らされた庭を眺めて、小夜左文字は何気なく右に一歩を踏み出した。
 屋根瓦を伝い、大きな雫が落ちて来た。軒下に浅く掘られた水路に落ちて、底に集まっていた枯れ葉の山に呑み込まれて行った。
 近いうちに掃除をしないと、詰まってしまい、水の流れが悪くなる。畑にばかり気を取られて、自分たちの足元が疎かになっていると知り、短刀は頭を垂れて反省した。
 誰かがやってくれるのを期待していたら、いつまで経っても誰も手を付けない。
「出陣が早く片付いたら、掃除しよう」
 そう簡単に事が運ばないのは分かっているが、今日の予定に組み込んだ。なるべく怪我をしないよう気を付けることにして、彼は丹田の辺りを撫でた。
 気合いを入れ直し、若葉が瑞々しい光景に見入る。
 角度が変わるだけで、同じ庭がまるで別物だ。部屋の前では見えなかったものが目に入って、短刀の少年は濡れ縁の端までにじり出た。
 若い紅葉が、懸命に枝を伸ばしていた。
 一方向からでは頼りなく映ったのに、横からだと立派に成長しているのが分かる。幹に厚みが出て、根は力強く大地に食らいついていた。
 雲の隙間から光が零れ、天女が羽衣を翻したかのようだ。
 きらきらと輝くその中で、露に濡れる青紅葉が凛々しく背筋を伸ばしている。
 つられて衿を正して、小夜左文字は深く息を吐いた。
「おや?」
「あ」
 胸に手を添えて深呼吸して、朝の一瞬の奇跡を瞼に焼き付けていた。
 そこに不意打ちで声が響いて、彼は瞬時に振り返った。
「ああ、なんだ。お小夜か。どうしたんだい、こんな早くに」
「歌仙」
 廊下の窓から顔を出していたのは、昔からよく知る打刀だった。さほど大きくない明かり取り窓から首を伸ばして、歌仙兼定は朗らかに笑った。
 藤色の髪を後ろに梳き流し、落ちて来ないよう赤い紐で結んでいた。白の胴衣に紅白の襷を結んで、どうやら朝餉の支度に向かう途中らしかった。
 思わぬ相手と遭遇して、内心驚いた。だがそれを一切表に出さず、淡々と対応して、小夜左文字は直後に消えた姿を壁越しに追いかけた。
 程なくして、濡れ縁に続く木戸が開いた。
 案の定満開の笑顔が現れて、短刀は小さく肩を竦めた。
 歌仙兼定の尻に、ぶんぶん揺れる尻尾が見えた。大型犬に懐かれた気分で苦笑を漏らし、足早に近付いて来た昔馴染みに頬を緩めた。
「いいんですか?」
「少しくらい、構わないさ。それよりお小夜、珍しい。なにを見ていたんだい?」
 寄り道をしている暇はあるのか問うて、無責任とも取れる返答に目を眇める。そのまま視線を反対側に移した彼に、打刀は背筋を伸ばした。
 短刀の視界を再現しようとして、高い位置から中庭に望んだ。特にこれといった特徴のない、普段と変わらない景色に眉を顰め、不思議そうに半眼した。
 これが、正しい反応だろう。
 小夜左文字がふとした変化を感じたのは、偶然だ。
 いくら風流を好む刀とはいえ、毎日何気なく眺めるだけの庭の、ごく僅かな違いを見分けるのは、難しかろう。
「……ああ」
「歌仙」
「そうか。紅葉が、葉を広げてきているね」
 ところが、予想は覆された。
 しばらく黙り込んだ後、歌仙兼定は感嘆の息を吐き、嫣然と微笑んだ。
 顎にやっていた指を外して、傍らに佇む短刀に目尻を下げる。うんうんと何度も頷いて、次第に明るさを増していく空と、悠然と枝を広げる紅葉の図に相好を崩した。
「分かるんですか?」
「お小夜が教えてくれなければ、見過ごしていたよ。ありがとう」
 ほかにも、冬場は白く掠れていた地表に、青々とした草が生い茂っていた。
 躑躅の葉は瑞々しさを増して、一晩降り続いた雨に感謝の歌を奏でていた。
 昨日となにも変わっていないのに、昨日とはまるで違う。植物の配置は一切弄られていないのに、彼らは日々移り変わり、新たな姿を見せてくれた。
 あそこで立ち止まらなければ、見逃すところだった。
「何気ない、ふとした瞬間に季節を感じるのが、風流というものさ」
 口癖のように語られる台詞に、偽りはなかった。
 まさか言葉を介さず、視線ひとつで伝わるとは予想していなかっただけに、小夜左文字は唖然と打刀を見上げた。
「なんだい、その顔は。失礼だね」
 目を真ん丸にしていたら、不愉快だと怒られた。
 ぷんすかと煙を噴いて、歌仙兼定はその場で地団太を踏んだ。
 身体に厚みがあり、重量があるだけに、響く足音は大きかった。そのうち濡れ縁を踏み抜くのでは、と懸念して、短刀は小さく頭を下げた。
「すみません、歌仙」
「まったく。お小夜なら、分かってくれると思ったんだが」
「僕は、季節の変化に気を向けられるほど、余裕があったわけではないので」
「なにを言っているんだ。今まさに、僕に教えてくれたじゃないか」
 非礼を詫びて、緩く首を振る。その流れで中庭に視線を戻した彼に、歌仙兼定は声を大きくした。
 まだ眠っている刀もいるのに、近所迷惑も良いところだ。ぎょっとした短刀は、すぐそこが誰の部屋だったかと考えて、直後に嗚呼、と胸を撫で下ろした。
 太鼓鐘貞宗は、過去に所縁を持つ刀たちの部屋を巡って、その寝床に忍び込んで朝を迎えるのが習慣だ。部屋でひとり眠るのは稀であり、今日もきっと不在にしている。
 そして不動行光は甘酒に酔い、昼近くにならないと起きて来ない。
 杞憂に終わったと安堵して、視界から外れた打刀を探し、目を泳がせる。
「歌仙?」
 今まで立っていた場所に、男はいなかった。
 歌仙兼定は共用の草履を引っ掻け、中庭に降りていた。雨ざらしでかなり傷んでいる鼻緒を指で挟んで、新緑が眩しい楓へと近づいた。
 五方向に尖る特徴的な形状の葉だが、多くはまだ開き切っていなかった。花の蕾のように、細くなった先端が一箇所に集まっていた。
 大事なものを、包み込んでいるようにも見えた。或いは寒く厳しかった冬への恨み言を、春の空へ解き放とうとしているのか。
 両極端な想像をして、小夜左文字は覚悟を決めてぬかるんだ地面に飛び降りた。
 草履は一足しかなく、短刀の分はない。泥に汚れるのを嫌って躊躇していたが、開く一方の距離に焦って、思い切った。
「うわ」
「やれやれ。泥だらけじゃないか」
 だが、濡れた青草は想定外に滑り易かった。
 つるんと行って、尻餅を着いた。雨を含んで柔らかくなった地面が短刀を出迎えて、飛び散った泥水が白い寝間着に染みを作った。
 悲鳴を受けて振り返った打刀が、一瞬でみすぼらしくなった小夜左文字を呵々と笑った。起き上がる手助けはせず、そのまま楓に腕を伸ばし、ほんのり湿っている幹に掌を添えた。
「おっと。冷たい」
「歌仙も、滑って転べばいいんです」
「それは遠慮願うよ。着替えに戻らないといけなくなる」
 その途中で袖に枝が引っかかり、青葉に残る水滴が零れた。
 全く無関係の枝からも雫が落ちて、頭の天辺に浴びた男は思わぬ攻撃に目を細めた。
 攻撃的な嫌味を易々と受け流し、衣が汚れていないか素早く確認する。一方で小夜左文字は自力で立ちあがり、下穿きにまで染み込んだ泥水に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「つめたい……」
「着替えさせてあげようか?」
「遠慮します」
 湯屋は一日中解放されているので、朝餉前にひと風呂浴びて来よう。
 打刀と違って食事当番には命じられていないので、時間的に余裕はある。身を清め、さっぱりしてから出陣するのも、悪くなかった。
 なにやら裏がありそうな誘いをすげなくあしらって、小夜左文字は汚れたまま足を進めた。歌仙兼定の綺麗な袴に手形を付けたい気持ちを堪え、その左隣に並んだ。
「立派に育ったものだ」
「最初は、ひょろひょろでした」
「ああ、良く覚えている」
 打刀に触れたい気持ちを堪え、両手を背中で結んだ。泥で黒く染まった指先を絡めて、背筋を反らし、胸を張った。
 歌仙兼定は成長途上の楓を見上げるばかりで、短刀に目もくれない。落ちて来た露を掌で受け止めて、嬉しそうに破顔一笑した。
 本丸は仲間が増える度に増改築を繰り返し、元の姿を留める場所は少ない。だがこの楓は、早いうちからこの場所にあった。
 最初に顕現した歌仙兼定や、その次に喚ばれた小夜左文字に並ぶくらい、本丸の古株だ。様々な騒動や、事件や、数えきれない出来事を記憶する、彼らの仲間だった。
「お小夜も、これくらい順調に育ってくれればいいんだけれど」
「歌仙は、最初に比べて少し太りました?」
「失敬な。筋肉量が増えた、と言ってくれないか」
 痩せた子供の姿をとる短刀は、どれだけ食べても太らない。打刀も同様で、この二年で外見に変化はなかった。
 刀剣男士は刀の付喪神であり、現身はその刀が辿った歴史や、かつての持ち主の性格、思考などが強く反映されている。要は彼らの根源ともいうべきものであり、たかが数年で変わってしまうほど、軽いものではなかった。
 だが内面に関しては、いくらか変化があったのは否めない。
 僅かずつでも、着実に太さを増していく木の幹を小突いて、歌仙兼定は失礼千万な短刀に肩を竦めた。
「僕らは、歳月を経るほどに擦り減っていく刀だけれど」
「はい」
「研がれ、磨かれ、薄く、短くなっていく分、増えていくものもあると思うんだ」
 一瞬だけ小夜左文字を見て、すぐに視線を正面へ戻す。
 彼は若々しい色を放つ青葉を抓み、匂いでも嗅ぐつもりか、顔の前へと枝を寄せた。
 そこに居座っていた雨粒をわっと集め、地面へ落とし、爪先が濡れるのも厭わなかった。
「……ありますか?」
「あるさ」
 雨上がりの土が放つ、泥臭さが鼻腔を刺す。
 食欲をそそるとは、お世辞にも言い難い香りを意識から切り離して、小夜左文字は即答した打刀に目を眇めた。
 刀は、刀工が打ち、研ぎ師が磨き終えた時が最高点だ。使えば使うほど切れ味は鈍り、研げばその分薄くなる。
 年輪を重ねる樹木とは、正反対。ところが歌仙兼定は、積み上がっていくものがある、と断言した。
 胡乱げな眼差しに微笑んで、彼は濡れた手で藍色の毛並みを撫でた。
「かせん」
 雑に結んだ髪を梳かれ、小夜左文字は瞳を浮かせた。高い位置にある男の顔を覗き込んで、存外優しい表情に眉を顰めた。
「記憶、記録。ものがたり」
 今は頼りなく見える若葉も、本格的な夏を迎える頃には色味を強め、厚みも増しているだろう。陽光をたっぷり浴びて雄々しく成長を遂げ、いずれは朱色に染まって、ひらひら踊りながら散っていく。
 だがそれは、決して終わりではない。
 次の春を迎えるための準備であり、一年分の成長の証しだった。
 散った葉には、意義がある。
 過ぎた時間には、意味がある。
 長く、しなやかな指が青葉を弾いた。しゃんとするよう促して、一年前よりは太くなっている枝の付け根を掻いた。
「お小夜はここに来て、どんな物語を歩いてきたんだい?」
 振り返り、男が言う。
 問われ、小夜左文字はハッとなった。
 雲の塊が割れて、隙間から青空が覗き始めていた。穢れを知らない無垢な光が無数に溢れて、夜の終わりを高らかに宣言した。
 餌を探しているのか、鳥の囀りが聞こえた。朝食前に軽く身体を動かそうと、早起きの刀が廊下を走る音がした。
 雨の匂いは色濃く残るのに、それはもう過去の話だ。だが喧しく屋根を打った雨の記憶は、いつまでも短刀の胸に留まった。
 それはこの先、引き潮のように遠ざかるだろう。けれどふとした瞬間に、波打ち際へと押し寄せてくる。
 そうやって、積もっていく。
 重なっていく。
 削り取られた以上のものが、増えていく。
 呪われた復讐譚もまた、小夜左文字の歴史だ。黒い澱みに囚われた、忌まわしき記憶もまた、彼の辿って来た物語の一部だった。
 そしてさらに、その上に。
「歌仙と、……だいたい、同じ、……です」
 惚けたまま打刀を見上げ、短刀は呟いた。
 次第に掠れる語尾に合わせて視線を逸らし、頼もしく成長している楓を仰いだ。
 真下から見上げれば、目に映る景色はまた違っていた。無作為に伸びていると思われた枝には、実際には一定の法則があり、下の枝に被らないよう広がっていた。
 若緑色の葉が頭上を覆い、大きな傘の下に入ったようだ。隙間から漏れ落ちる光は、ひとつひとつがキラキラして、宝石箱の中に飛び込んだ気分だった。
「おや。それはそれは、至極恐悦」
 言葉に窮した末の、場当たり的な回答だったのだが、打刀は素直に喜んだ。
 そんな訳がないと知りつつ、深くは追及せず、花が綻ぶ笑顔でクスクス声を漏らした。
 口元を手で覆い隠し、肩を揺らしながら優しい表情で見つめられた。それがどうにも居心地悪くて、小夜左文字はぶすっと頬を膨らませた。
「やっぱり、訂正します。歌仙とは全然違います」
 そっぽを向いたまま言い放ち、握っていた左右の手を広げた。そして爪先に残る乾きかけの泥ごと、笑い続ける生意気な男の背中に叩きつけた。
「いっ――!」
 べちん、とそれなりに痛い音がした。
 自身の身長より高い位置目掛け、渾身の力を込めた。前に踏み込む勢いを利用して、打刀の腰の窪みを突き飛ばした。
 茶色く染まっていた掌が、引き剥がした時には少々綺麗になっていた。
 その代わり、真っ白い胴衣に紅葉の手形が表れた。たたらを踏んだ男は一瞬で青くなり、行き場のない両手を蠢かせた。
「お小夜!」
 触れて確かめたいが、それで汚れが広がっては困る。
 咄嗟に後ろへ回ろうとした両手を引き留めて、歌仙兼定は腹から声を絞り出した。
 その気迫から逃げて、短刀はひょい、と水たまりを飛び越えた。十分な距離を取って首を竦め、小さく舌を出した。
「早くしないと、怒られますよ」
 泥まみれの足で濡れ縁に上がって、袖を抜いた寝間着で足の裏を拭う。
 素早い動きと、露わになった白く華奢な上半身に見惚れていた打刀は、告げられた台詞を三秒かけて理解した。
「しまった!」
 今日の彼は、料理当番だ。
 本丸全振り分の食事の用意は大変で、朝早くからてんやわんやの大騒ぎ。少しでも支度が遅れようものなら、仲間内から非難囂々だった。
 一日中針の筵に座らされ、ねちねち文句を言われるのは、誰だって嬉しくない。
 のんびり青紅葉を鑑賞している場合ではなかった。寄り道し過ぎたと悟って冷や汗を流して、歌仙兼定はくっきり残る背中の手形に臍を噛んだ。
「あとで、いいね。お小夜!」
「僕は出陣があるので、夜になります」
「ならば夜、僕の部屋だ。約束したからね!」
「あ、歌仙」
 怒り心頭で怒鳴って、人差し指を突き付ける。
 距離があるので余裕綽々と切り替えした短刀は、直後に踵を返した打刀に慌てて身を乗り出した。
 一方的に言うだけ言って、返事を聞かずに行ってしまった。荒々しい足取りで木戸を潜った背中は、あっという間に見えなくなった。
 約束、と言われても、小夜左文字はまだ承諾していない。
 これは反故にしても許されるか考えて、彼はしっとり湿っている下穿きを、寝間着の上から撫でた。
「歌仙、拗ねると面倒臭いから」
 あの男の欠点は、個人的な感情を戦場へ持ち込むことだ。
 相容れない仲間と出陣となった時は、こちらが不利になると分かっていても、連携を無視する。
 意に沿わない出来事があった時は、敵を斬り伏せて怒りを発散させる。
 どんな時でも冷静に対処という鉄則が、守れていない。激情に駆られて突進し、刀装兵すら置き去りにすることもあった。
 そんなところまで、前の主の気性を引き継がなくても良いだろうに。
「しょうがない歌仙」
 心底呆れて、苦笑する。
 風呂の準備を進めながら、彼は首を竦めた。自然とほころぶ頬を押さえて、脱いだ寝間着をくしゃくしゃに丸めた。
 白衣の上から直綴を羽織り、身なりを整え、目を閉じた。
 今日は、どんな物語が紡がれるのだろう。
 決して誰とも同じにならない巡り合わせに思いを馳せて、彼は一歩を踏み出した。

梢打つ雨にしをれて散る花の 惜しき心を何にたとへん
山家集 春 141

2017/04/16 脱稿