懸からんものか 花の薄雲

 ひらひらと、風もないのに視界が揺れた。
 それは決して、足元不如意でふらついたからではない。単に視界の中心を、ゆっくりとした速度で流れるものがあったためだ。
 上から下へ、左右に踊りながら。
 実に不安定で、だからこそ儚さを助長させる動きを見せて、桜の花びらが地面へと沈んで行った。
 最後まで見送って、小夜左文字は右足を引いた。草履の先端で地表を擦って、一瞬の夢を見せてくれた相手に敬意を表した。
 会釈するように小さく頭を下げて、すぐに背筋を伸ばした。ぐっと身体の中心に力を込めて、前方に広がる艶やかな景色に見入った。
 桜は今、盛りを迎えていた。
 庭に植えられた木々が一斉に花開き、四季の中でも際だって華やかな色彩を演出していた。枝垂れ桜の枝はどれも重そうで、先端が地面に敷かれた茣蓙に届きそうだった。
 あちこちから笑い声が響き、どこからともなく太鼓の音が聞こえてきた。下手な小唄が披露され、三味線は調子外れも良いところだった。
 そこかしこから酒だ、つまみだ、いや隠し芸だと、喧しいことこの上ない。
 耳を塞ぎたくなる一歩手前の喧騒は、当分終わりそうになかった。
「今年も、騒々しい」
 一番の感想を素直に吐露して、短刀の少年は肩を竦めた。鼻から吸った息を口から吐いて、乾いてかさついている唇を舐めた。
 今年もまた、この時期がやって来た。
 毎日のように宴が繰り広げられ、台所は朝早くから大忙し。昼も夜も関係ない呑兵衛たちに強請られて、調理当番は休む暇さえなかった。
 出陣している面々にも、悪いとは思わないのだろうか。
 どれだけ怒られても懲りない酒飲みらを頭から追い出して、小夜左文字は首を振った。
「僕には、関係ない」
 日本号や次郎太刀が中心となって席を設け、一日中庭先で花見大会。
 去年の夏以降、新たに加わった刀たちがそこに混じって、賑わいは少しも衰えなかった。
 小烏丸や大包平は美しく咲く桜に感嘆の息を漏らし、ソハヤノツルキは大はしゃぎ。大典太光世は最初こそ渋ったものの、過去に所縁を持つ短刀らに引っ張り出され、座椅子代わりを務めていた。
 万屋で購入した菓子や、酒の肴が所狭しと並べられ、巨大な酒樽が周囲を取り囲んでいた。熱燗用に火鉢が持ち込まれ、肌寒さに負けた者がこぞってそこに集まっていた。
 桜が咲いたとはいえ、朝晩の冷え込みはまだまだ厳しい。
 上着を羽織っている者も少なくなくて、小夜左文字もその一振りだった。
 もっとも彼がいるのは、饗宴催されている茣蓙の上ではない。
 騒ぎの中心からかなり離れた、庭の外れだった。
 綿入りの温かな褞袍を身に着け、裾からはみ出る脚は包帯で覆われていた。頬の傷には絆創膏が貼られて、両手の指は皸が治り切っていなかった。
 罅割れた関節部分から、真紅の肉がちらちら顔を出していた。
 毎晩しっかり軟膏を塗り込んでいたけれど、結局防げなかった。冬場恒例となった痛みを拳に閉じ込めて、彼は砂利を踏んで踵を返した。
 胸の奥に生じた不快感をその場に残し、苛立ちを吹く風に預けた。不意に叫びたくなる衝動は、散りゆく桜に託して、大股に賑わいの場を離れようとした。
「小夜君?」
 ところが、願いは叶わなかった。
 不意に呼び止められて、つんのめった。立ち止まろう、という意識と、このまま歩き続けようとする身体とが上手く噛みあわず、たたらを踏んでしまった。
 おっとっと、と転びそうになったのを耐えて、冷や汗を隠して振り返る。
 あちらも、まさか小夜左文字が倒れかけるとは思っていなかったようだ。
 前田藤四郎は中途半端なところで右手を泳がせ、若干申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
 近くには誰もおらず、彼ひとりだ。左手には茶が入っていると思しき土瓶をぶら下げて、重さの為に身体が斜めに傾いでいた。
「大丈夫ですか?」
「問題ありません」
 花見の席には、勿論短刀たちも参加している。但し酒を飲むのは、粟田口の長兄があまり良い顔をしないので、もっぱら菓子を頬張る役柄だった。
 花より団子、色気より食い気。
 なんとも分かりやすい傾向に呆れつつ、小夜左文字は素っ気なく答えた。
 心配してくれなくても、あの程度で転びはしない。
 ちょっと油断して驚いただけで、みっともなく恥を曝すつもりはなかった。
 不遜な態度で胸を張り、ホッと胸を撫で下ろした前田藤四郎を見詰め返す。呼び止めた理由を探って続きを待っていたら、粟田口の少年はきょとんとした後、首を右に傾けた。
「小夜君。お花見は、あっちですよ」
 彼が向かおうとしていたのは、桜の木から離れた場所。
 屋敷の裏手へ回ろうとしていたのだが、それが前田藤四郎には奇異に映ったらしかった。
 連日連夜繰り広げられる宴は、基本的に自由参加だ。いつ加わっても良いし、いつ場を離れても良い。だが小夜左文字は、これまで一度も輪に入ったことがなかった。
 そのことを忘れている少年に、少しいらっとした。
 当たり前に花見に加わると思われていた事実が気に入らず、押し付けがましい善意が鬱陶しかった。
 あちらからすれば、好意からの発言だ。
 けれど小夜左文字は、そんな言葉は欲しくなかった。
「知ってます」
 彼なりに気を遣い、誘ってくれたのだとは思う。心優しい短刀の親切心だというのも、理解出来た。
 しかし、要らぬお節介だった。
 冷たく吐き捨てて、小夜左文字は褞袍の袖を握りしめた。中に詰められた綿を潰して、右に払い除けた。
「え?」
「べつに、どうでもいいです」
 最初から花見に参加する気はなかった。たとえ誘われたとしても、混じりたくなかった。
 抑揚なく告げて、休めていた足を前に繰り出した。前田藤四郎は惚けた顔で瞬きを繰り返し、引き留めようか悩んで、右手で空を掻いた。
 再度呼び止めようとしたものの、何故か上手く言葉が出ない。
 口をパクパクさせる少年を一度だけ振り返って、小夜左文字は足取りを速めた。
 折角話しかけてくれたのに、愛想のない反応をしてしまった。
 その点については、心苦しさが否めない。けれど彼との付き合いは、もう二年を数えている。本丸に来て長いのだから、良い加減、こちらの性格を分かって欲しかった。
「……っ」
 前田藤四郎が、部屋の片隅で不貞腐れているような刀を見捨てられない性分なのは知っていた。
 今回も、その延長線上だ。すぐに蔵に引き籠もりたがる大典太光世を放っておけないのと同じで、賑わいに背を向ける短刀を捨て置けなかったのだろう。
 余計な御世話でしかないが、あの態度はいただけなかった。
 もう少し言葉が上手く扱えていたら、あんな風に寂しそうにさせずに済んだだろうに。
 巧く制御できない自分自身にも腹を立て、小夜左文字は空を蹴った。地面には小石が残され、空回りした少年を嘲笑った。
「死んでよ」
 勿論石に感情はないのだが、ともかくそう見えたのだ。
 抑えきれない激情に振り回されて、短刀は踵で小石を踏みにじった。
 この程度で砕けないのは承知の上で、地面へとめり込ませた。何度も踏んで、押し込んで、肩を上下させて息を整えた。
 少しはスッとしたが、依然心は晴れない。仲間に冷たく接した反省と、もっと気を遣って欲しいという希望がない交ぜになって、いつまでも留まり続けた。
 丁度そこに、後方からドッと笑い声が響いた。
 どこが発生源かは、今更考えるまでもない。ただこの位置からだとほぼ聞こえない喧騒が、この時だけ届いたのは気になった。
 いったいどんな話で盛り上がり、爆笑の渦が湧き起こったのか。
 現場にいなければ知り得ないと承知しながらも、気になって鼻の奥がむずむずした。
「別に。僕には、関係ない」
 きっと夕餉の席でも、多くの刀らが話題にするに違いない。けれど小夜左文字は話について行けず、蚊帳の外へ捨て置かれるのだ。
 切なさと、悔しさが芽生えて、頭がまとまらなかった。
 今から花見の席へ向かうのは負けた気がするし、なにより自分が許せない。
 結局は強がるしかなくて、復讐譚に彩られた短刀は大股で歩みを再開させた。
 但し、行く当てなどない。
「風が、気持ちいい」
 十歩と行かないうちに路頭に迷って、彼は天を仰いでぽつりと呟いた。
 賑わいの中心から距離を置き、且つ咲き誇る桜を堪能できる場所はないだろうか。
 山の辺まで行ければいいのだが、そちらは遠すぎる。山道を登ることになるので道具が必要だし、水や食料といった準備も不可欠だった。
 本丸に咲く桜は南に面した庭に集中しており、他はまばらだ。皆無ではないけれど、単独で咲くのと、密集して咲くのとでは、迫力が違った。
 それに枝垂れ桜以外で姿を見るのは、大体が八重桜だ。こちらは開花が少し遅くて、今の時分だとまだまだ蕾だった。
 選択肢は、あまりない。
 諦めて屋敷の私室に引き籠もろうかとも考えたが、それはそれで癪だった。
「ああ、そうだ」
 背高の木に登って、上から眺めるのも悪くない。
 ただ春になって、花だけでなく、虫の活動も活発化していた。毛虫も多く発生しており、それは桜の木も同じだった。
 暢気に花見を楽しんでいたら、上から毛虫が落ちて来た、という話は枚挙に暇がない。刺されると腫れて痛いので、小夜左文字としても遭遇は避けたかった。
 虫の攻撃を喰らわず、安全で、落ち着いて過ごせる場所。
 更なる難題で候補を絞って、少年は空色の瞳を彼方へ投げた。
「あ」
 瞬間、ぽん、と手を叩いていた。
 これらの条件に適う、ぴったりの場所があった。どうしてすぐに思いつかなかったのかと、自分の愚昧さを笑い飛ばして、彼は進路を変えて駆け出した。
 重かった足取りを軽くして、乾いた地面を蹴り飛ばした。跳ねるように裏庭を進んで、登り易いと評判の勝手口近くへ回り込んだ。
 調理や風呂の湯沸かしで使う薪は、台所の裏手にある軒下に積み上げられていた。
 竈で使うのは斧で割って細くしたものだが、そうなる前のものも大量に用意されている。崩れないよう形を整えられて、横から見ると綺麗な三角形だった。
 上を見れば、雨水を運ぶ樋が横一列に並んでいた。円筒状に焼いた瓦を半分に割ったもので、こちらもそれなりに頑丈だった。
「よし」
 簡単ではないけれど、そこまで難しくはない。
 行けそうだ、と判断して、小夜左文字は力強く頷いた。
 積み上げられた薪の高さと、軒に飛び移る角度を計算し、頭の中で数回試した。
 己の脚力を過信せず、けれど過小評価もしない。確実に成功するように、一番確率が高そうな解を導き出した。
 助走をつけるべく後退して、理想の展開を脳裏に思い描く。
 胸を張り、深呼吸して目を閉じた。精神統一を図り、覚悟を決めて目を見開いた。
「せやっ!」
 気合いを入れて吠え、全速力で駆けた。
 薪の山の手前で高く跳躍し、想定通りの位置に爪先を置いた。ぐっと腹に力を込めて身体を斜め上へと運び、二歩目を更に高くへと運んだ。
 奥歯を噛み締め、踏ん張った。軒先に衝突しない為には次で真上に跳ばねばならず、身体は目論見通り動いていた。
「く、っああ!」
 両腕を伸ばし、雨樋を掴んだ。滑りやすい瓦に爪を立てて、重力に引っ張られる体躯を強引に持ち上げた。
 膂力だけで体重を支え、右足を先に屋根へ登らせた。続けて左足も、と丹田に意識を集中させ、限界ぎりぎりの腕に全力を注ぎこんだ。
 しかし。
「ぶあっ」
 草履のままでは滑るというのを、すっかり失念していた。
 屋根を覆う瓦はつるつるしており、光を反射して美しく輝く。藁で編んだ草履では踏ん張りが利かず、やるなら素足になるべきだったのを、短刀はこの瞬間に思い出した。
 ずるり、と身体全体が後ろに傾いた。折角登ったのに落ちそうになって、小夜左文字は遥か下方にある地面に青くなった。
「くそ、んが!」
 しかも真下には、高く積まれた薪が山を成している。
 落下の衝撃だけならまだしも、薪が崩れたら、その重みにも耐えなければならない。奥深くに埋もれようものなら、自力での脱出が難しくなった。
 ここは屋敷の裏手の、更に奥だ。台所からさほど離れていないとはいえ、一日中日が当たらない場所に好んで来たがる刀は少ない。
 つまり最悪の場合、誰も助けに来てくれない。
 そんな悲惨な末路は、願い下げだ。刀は刀として、折れるとすれば戦場で散りたかった。
 鼻の穴を大きく膨らませて、小夜左文字は懸命に抗った。瓦と瓦の継ぎ目に指を掛け、這いつくばう形で屋根へとよじ登った。
 梯子を使えば良かったのに、手間を惜しんだばかりにこんなことになった。
 冬の間、雪下ろしの為に使われた便利な道具は、見晴らしの良い場所にまだ架けられたままだった。
 誰にも見つかりたくないからという理由で、そちらは避けた。今となっては後の祭りであるが、素直にあれを使っておけばよかったと、後悔が胸に渦巻いた。
「はあ、っ、は……ああ」
 変に意地を張ったばかりに、肝が冷えた。ようやく安全と思われる場所まで登り終えて、安堵から吸い込んだ空気はとても美味しかった。
 一瞬のうちに熱を持った身体を宥め、バクバク言う鼓動は深呼吸で鎮めた。唇を舐め、鼻の下を擦り、慎重に慎重を期して身体を起こした。
 黒と藍の中間色をした瓦は、所々で濡れていた。どこから飛んできたか分からない種子が芽吹き、緑がそこかしこで背を伸ばしていた。
 地上より、ほんの僅かだが風が強い。
 煽られた前髪を押さえつけて、小夜左文字は遥か遠くに広がる景色に見入った。
「広いな」
 屋敷の南には広大な庭が広がり、その先に急峻な山の峰が連なっていた。反対側に視線を転じれば、開拓が進む田畑の先に、果てがないように思える樹海が続いていた。
 西方に伸びる道の先には小高い丘があり、神社の横には鍛冶場があった。その手前にある黒い点は、大太刀の誰かだろう。
 東側には鍛練を積むための道場の屋根があり、その向こうは竹林だ。緑の中に半ば埋もれて見える茅葺きの建物は、審神者が暮らす離れだった。
 中庭の真ん中を縦断する渡り廊を、誰かが歩いていた。宴会の賑わいは大きくなったり、小さくなったり、途絶える気配はなかった。
 台所の真上にある煙出しを避け、一番高い場所まで進み、背筋を伸ばす。
 眼下に、遥か遠方でも、淡い紅色の群生が広がっていた。
「すごい」
 咲き誇る桜は、地面から見上げるのとは大きく異なる風情を醸し出していた。てんでバラバラに花を開いている風に思えたものが、上からだとひとつの塊と化し、大地を覆い尽くしていた。
 樹下で寛ぐ仲間たちの姿が、疎らにしか見えない。辛うじて見つけ出した宗三左文字の後ろ姿などは、桜の色と混ざり、ほぼ一体化していた。
 桜と見間違えた、と言ったら、兄はどんな顔をするだろう。
 こればかりは想像がつかなくて、三兄弟の末っ子は照れ臭そうにはにかんだ。
「登ったの、久しぶりだ」
 改めて視線を遠くへ投げ、言葉にならない眺望に感嘆の息を吐く。
 顕現したばかりの頃は本丸で暮らす刀も少なくて、台所仕事も今よりずっと楽だった。屋敷自体ももっと狭くて、こんなにもごちゃごちゃしていなかった。
 掃除する場所は限られており、時間的に余裕があった。だから暇を見つけては今剣らと屋根に上がり、山の向こうがどうなっているか、想像を語らいあった。
 仲間が増えるのはいいことなのに、どうしてだか、二年前の方が楽しかった気がする。
 こうしてひとり、ぽつんと佇んで桜を眺めている己を意識して、小夜左文字は浅く唇を噛んだ。
 仲が良かった短刀たちは、同派や兄弟刀が現れた途端、そちらに懐くようになった。ならば自分も、と試みたものの、宗三左文字は織田に所縁を持つ刀と居る方が楽なようだし、江雪左文字と一緒にいると、小夜左文字自身が落ち着かなかった。
 復讐を望む短刀と、争いを拒む太刀とで、なにを話せというのだろう。
「……構わない。僕は、ひとりであるべきだ」
 寂しさが広がって、胸の奥がちくちくした。
 けれども大勢の仲間らと談笑し、酒を酌み交わす自分が、どうやっても思い浮かばなかった。
 小夜左文字は、復讐の刀。仇討ちを成し遂げた、血と怨念に汚れた刃の持ち主だ。
 山賊の掌中にあった時には、数多の無辜の民を傷つけ、命を奪ってきた。男の欲望に抗えず、守り刀としての存在意義を自ら放棄した。
 今でも耳元で、怨嗟の声が響いた。痛い、哀しい、悔しい、恨めしいと、殺された人々が澱みの中から腕を伸ばしていた。
 それらが万が一にも兄弟や、仲間にまで影響を及ぼしたら、どうする。
 だから彼は、近付かない。宴会という晴れの舞台に、黒い澱みを抱え込む短刀は不釣り合いなのだ。
「うん?」
 決意を新たにし、遠い賑わいを足元に見た時だ。
 動くものなど何もない筈の場所で、ゴトン、となにかが蠢いた。
 太い角材が前後に跳ねて、何度も屋根にぶつかっていた。軒先に連なる雨樋を破壊しそうな雰囲気で、左右に泳ぐこともあれば、力いっぱい叩きつけられもした。
 黒く変色した材木の角が段差に引っかかり、ようやく止まる。
 何事かと怪訝に行く末を見守っていたら、しばらくして、またしても異なる色が現れた。
 屋根の縁に、有り得ない話だ。藤色の毛先が見えたかと思えば、続けて朱で目尻を彩った顔が出現し、太めの首から続く胴体が一気に押し寄せた。
「か、歌仙?」
「そこにいたんだね、お小夜」
 信じられない出来事に騒然となり、頭が混乱した。彼が出て来た場所は南の庭に面した場所であり、よじ登るのに適した柱は一本もなかった。
 ならばどうやって、と絶句していたら、余裕綽々とした顔で笑いかけられた。右手には少々深めの小鉢が握られ、中身を見せるようにしながら近付いて来た。
 足元は草履でなく、足首まで固定する草鞋だった。普段と異なる履き物に意識を取られて、小夜左文字は反応が一歩も、二歩も遅れてしまった。
「梯子、ですか?」
「まったく。探してしまったじゃないか」
 ようやく彼が屋根に至った手段を思いついたが、問いかけは無視された。白い胴衣の汚れを軽く払って、袴姿の打刀は団子入りの小鉢を短刀に突き付けた。
 灰色に覆い被さる白の釉薬が、まるで菓子のようだ。部分的にぷっくり膨らんだ形状がまた甘そうで、美味しそうだった。
 その影響を受け、中に収まっていた水まんじゅうまでもが、甘さを増幅させていた。半透明の中に漉し餡の黒が滲み出ており、一本だけ突き刺さった爪楊枝がとても偉そうに見えた。
「あ、りがとう、ございます」
 ひとりになりたくて此処を選んだのに、ものの数分としないうちに侵略された。
 土足でずかずか入り込んできた歌仙兼定は、ぎこちない礼の言葉に、満足そうに頷いた。
「どういたしまして、お小夜。座っていいかな?」
「どうぞ」
 聞きようによっては横柄とも受け取れる返事の後、短刀の隣を指差しながら許可を取る。それで尚更拒めなくて、小夜左文字は渋々首肯した。
 もとよりここは、短刀に割り振られた部屋ではない。了解を得る必要は、本来ならば皆無だった。
 それでも訊ねたのは、立ち去らない為の理由作りだ。無意識だろうが、狡賢くて、無性に悔しかった。
「よいしょ、と」
「年寄り臭いです、歌仙」
「うっ。そんなことは、ない……ない」
 掛け声を共に身体の向きを変え、打刀が足を広げて腰を下ろした。滑り落ちないよう注意して、安定する体勢を探して最後に深く息を吐いた。
 仕返しのつもりで放った嫌味は、見事男の胸に食い込んだ。頬を引き攣らせて否定した彼だけれど、口調は自信無さげで、不安げだった。
 自分に言い聞かせるように繰り返して、緩く握った拳で胸を叩く。その一連の仕草が面白くて、短刀は溜飲を下げ、昔馴染みの隣に座った。
 饅頭に刺さった楊枝を取り、思い切って奥まで貫き直した。
「いただきます」
 持ち上げる途中で抜け落ちないのを確認して、大きく口を開き、ひと口で頬張る。
 問題なく咥えられる大きさだったが、もにゅ、とした弾力に阻まれ、奥歯で磨り潰すのに失敗した。にゅるん、と逃げられて仕方なく前歯を突き立てれば、今度は難なく突き刺さり、八対二の割合で分断した。
 中の餡子が少しだけ顔を出して、甘味が舌に広がった。ほじくり出そうと先端を擦りつけ、側面を歯で削って、徐々に細かくしていった。
 複雑な工程であるが、深く考えてのことではない。無意識のうちに勝手に動いて、各々が役目を果たしていた。
「おいひい、れす」
 口の中を埋め尽くしていたものを切り刻んで、小分けにして飲みこんだ。
 奥歯の隙間に餡子が入り込んで、取り除こうとしたら発音が怪しくなった。
 もぐもぐと片方だけ頬を大きく膨らませた少年に、歌仙兼定は上機嫌に目を細めた。
「気に入ってくれたかな?」
「はい。美味しいです」
 見た目が涼しげで、夏の暑い盛りには丁度良い菓子だ。今の季節にはやや早いけれど、今後のことを考え、試作を重ねているといった雰囲気だった。
 満足できるものが出来たから、味見して欲しかった。けれど探しても見つからなくて、訊ね回っていたら、屋根にいる、と教わった。
 小夜左文字が地上を見下ろしていたように、空を見上げていた刀もいたらしい。手を振ったが気付いて貰えなかったと、歌仙兼定に教えたのは陸奥守吉行だ。
「そうですか」
 恐らくは、宗三左文字を探していた時だ。
 屋根から身を乗り出すような格好だったから、下から丸見えだったのだろう。
 そこまで頭が回らなかったと恥じ入って、短刀は次の饅頭を口に含んだ。
 一個目よりじっくり味わい、程よい餡子の甘味に舌鼓を打った。右隣に座る男がにこにこしながら見つめてくるのを意識しないよう、視線は遠くに向けた。
 またひとつ、足元からけたたましい笑い声が生まれた。
 反射的にそちらを見ようとしたけれど、屋根が邪魔をして瞳に映らない。拍手喝さいが湧き起こっているのに、中心にいるのが誰なのか、座っている状態では分からなかった。
 気にしないようにしても、心がざわめく。
 まだ大きかった塊を一気に飲みこんで、彼は最後の水まんじゅうに楊枝で切り付けた。
 半分にしようとして、果たせなかった。苛立ちは消えるどころか倍になり、無意識に歯軋りしていた。
「お小夜は、あちらへは行かないのかい?」
 それを歌仙兼定は、どう受け取ったのだろう。
 目に見えて不機嫌になった短刀を訝しみ、賑わいが止まない一帯を指差した。
 彼の位置からもはっきりとは見えないが、盛り上がっているのは伝わってきた。台所にもひっきりなしに刀が訪れ、酒だ、つまみだなんだのと、催促が喧しかった。
 集中して料理するなど不可能で、全ての注文に応えるのも難しい。
 だのに言ってくる方はそれを分かろうとせず、すぐに作って持ってこい、と我が儘放題だった。
 嫌気がさして、抜け出してきた。出来上がったばかりの水まんじゅうを持って、朝から姿を見ない短刀を探し、あちこちを訪ねて回った。
 次郎太刀と日本号は身体が大きいので、遠くからでも良く目立った。上機嫌に杯を傾ける姿を何気なく眺めて、小夜左文字は返事の代わりに首を振った。
「どうしてだい?」
 苦心の末に半分になった饅頭を、片方だけ口に入れた。
 重ねて問うてきた男には視線すら向けず、柔らかくて甘い菓子を噛み砕いた。けれど歌仙兼定は諦めず、辛抱強く待ち続けた。
 横から注がれる眼差しが、チリチリと胸の奥を焦がした。鬱陶しいのに振り払えなくて、根負けした短刀は深々とため息を吐いた。
 残り半分となった水まんじゅうを楊枝で小突き、小さな穴をぐりぐり広げていく。
「僕のような刀がいては、黒い澱みが、広がって。迷惑でしょう」
 晴れの席は、穢れから遠ざかっていなければならない。だのにその穢れを引き攣れた刀が混じっては、本末転倒も良いところだ。
 だから交わらない。参加しない。
 誘われても断って、距離を保った。
 自嘲を含んだ口調で答え、残る水まんじゅうを口に放り込んだ。荒っぽく咀嚼して、飲みこんで、唇を舐めた。
 気のせいか、味があまりしなかった。ひとつだけ甘くないのが混じっていたか考えるが、その可能性は低いと思われた。
 なんだか勿体ないことをした。折角打刀が丹精込めて作ってくれたのに、堪能出来なかったのが悔しかった。
「お小夜。それは、誰が言ったんだい?」
「はい?」
 空になった小鉢に放り込んだ爪楊枝は、先端が削れて丸くなっていた。
 細長い木の棒に気を取られていた少年は、横から告げられた台詞がすぐに理解出来なかった。
 素っ頓狂な声を上げて振り返り、小夜左文字はきょとんとした顔で歌仙兼定を見た。
 その打刀はといえば、至って真剣な表情で短刀を見詰めていた。
 眼差しは鋭く、一瞬たりとも見逃さない、という意志が感じられた。唇は真一文字に引き結ばれて、迫力は充分だった。
「誰に言われたんだ、お小夜」
「ええ?」
「なんてことだ。そんな心無いことを口にする奴がいるとは、信じられない。今すぐにでもその首、叩き落としてくれる」
 語気も荒くなり、鼻息が凄まじい。
 熱風を間近から浴びせられて、にじり寄って来た男を前に、小夜左文字は目を点にした。
 瞬きを連発させて、こちらこそ信じられない、という顔で見つめ返した。だのに歌仙兼定はまるで気付かず、自分の考えに没頭し、激しく息巻いた。
 こちらの言い分に耳を貸す気配はなく、勝手な解釈と理論を振り翳した。許せない、と持ち前の正義感を奮い立たせて、ぷんすかと煙を噴いた。
 屋根の上で地団太を踏み、両腕を振り回した。危うく打たれるところだった短刀は仰け反って避け、独りよがりの男に肩を竦めた。
「誰かに、言われたとか。そういうんじゃ、ないです」
「お小夜?」
 彼こそ、前田藤四郎以上に小夜左文字を分かっていそうなものなのに。
 遠い昔、一時期ではあるけれど、一緒に過ごした事があった。だからこそ彼なら伝わると信じていたのだが、どうやら過大評価だったようだ。
 ここまで通じ合わないとなると、苦笑するしかない。
 かんかんに怒っている打刀を小声で宥めて、藍色の髪の少年は目を眇めた。
「首を差し出すとしたら、僕しか」
 この本丸に集う刀で、小夜左文字を直接詰った刀剣男士はいない。宴会を忌避するのは、彼自身が決めたことだ。
 参加を嫌がられたのでもなければ、開催を教えてもらえなかったわけでもない。
 むしろ逆で、毎回のように声がかかり、その度に丁寧に断って来た。
 いい加減諦めてくれればいいのに、どうしてだか、みんな誘うのを止めてくれない。今度こそ、次こそは、と何度も粘られた。
「お小夜。それは、……どうしようか。困ったね」
「困りますか」
「ああ、困る。これでは君の首に、縄をかけなければいけないじゃないか」
 歌仙兼定は誘われれば参加するが、自分からはあまり酒宴を催さないので、その辺に疎かった。
 申し訳なさそうに恐縮した短刀に目をぱちくりさせて、彼は真剣な表情で呟いた。
 顎を撫でつつ、本気で戸惑っている雰囲気だ。前言撤回するつもりはないらしく、漏れ聞こえてくる独り言からして、斬首に代わる懲罰を考えているようだった。
「かせん」
 いったい何を告げられるか、戦々恐々だ。彼のことだからおよそ変な真似は強要しないだろうが、歌会や闘茶くらいは、求められるかもしれなかった。
 この本丸には、風流を解する刀が少なすぎる。それが歌仙兼定の口癖であり、積年の悩みだった。
 小夜左文字の前の主は、この打刀の前の持ち主の父親だ。戦国一の文化人と知られ、荒波の世を巧みに生き抜いた人物だった。
「参ったね、お小夜。どうやら僕は、君を連行しなければいけないようだ」
「はい?」
 細川幽斎も、三斎も、和歌の名手として知られていた。茶の道に通じて、後者などは千利休との親交も深かった。
 そんな男を見習って、戦闘狂の一面を秘めつつも、歌仙兼定は雅に振る舞おうと躍起だった。
「連行、ですか」
「ああ」
 やがて結論が出たのか、打刀は前髪を掻き上げる仕草をした。短刀から空になった器を受けとり、頷いて、立ち上がると同時に彼方へと視線を投げた。
 彩り豊かな自然に足を向け、歌を詠みあおう、とで言うつもりだろうか。
 首に縄を掛けられ、屋敷中を引きずり回されるのに比べれば、それは随分と軽い刑罰に思われた。
「どうかな。お小夜」
 しかも同意まで求められて、苦笑を禁じ得ない。
 罰を与える相手に言う台詞ではなくて、小夜左文字は肩を竦めると、お人好しも良いところの男に目を細めた。
「仕方ありません」
 どうせ嫌だと言っても、押し通されるに決まっている。ならば無駄でしかない押し問答に時間を費やすよりも、大人しくお縄を頂戴した方が建設的だった。
 折角屋根の上でのんびり寛げると思ったが、致し方ない。諦めて、少年は男の提案を受け入れた。
 雨でも降らない限り、桜はもうしばらく楽しめる。明日以降も、隙を見て此処へ来ようと密かに決めた。
 首肯して表情を緩めた少年に、歌仙兼定は満足そうに口元を綻ばせた。しどけなく微笑み、爪楊枝入りの小鉢を懐に捻じ込んだ。
 そしてやおら、腕を伸ばして。
「よい、しょ」
「え?」
 小夜左文字の脇から手を入れたかと思えば、ひょい、と軽々持ち上げた。米俵でも担ぐように抱え込んで、驚く短刀の背を優しく撫でた。
「どうどう、落ち着いて」
「ちょ、ちょっと。歌仙、待ってください。いったいなにを」
 そのまま抵抗を封じて押さえつけ、ジタバタ藻掻くのを封じた。嫌な予感しかしなくて蒼白になって、小夜左文字は声を荒らげ、数分前の己の判断を悔いた。
 短刀の身体は胸から上が、男の肩より後ろに回り込んでいて、腰は利き腕でがっちり固定されていた。咄嗟に掴もうとした白の胴衣はつるりと滑り、指を引っ掻ける場所が見当たらなかった。
 視界は反転し、空は全く見えない。薄汚れた屋根瓦と、打刀の下半身が大半を占めて、だらんと垂れ下がった己の腕がその中を彷徨っていた。
 連行、という単語が脳裏を過ぎり、頬が自然と引き攣った。
 てっきり一緒に遠征程度と思い込んでいたが、違うのか。
 腹の中が見えなくて、この後どうなるかの想像がつかない。逆さを向いた短刀の世界から、歌仙兼定の表情は失われていた。
「暴れない方が良い、お小夜。落ちたら危ない」
「歌仙!」
 不安と恐怖が膨らんで、頭の中で警告の鐘が鳴り響いていた。血液が頭部に集中して、こめかみを貫くような痛みが走った。
 大声を上げたら、眩暈がした。一瞬くらっと来て、一歩を踏み出した男の振動で我に返った。
 もしやこのまま、梯子を下りるつもりか。片腕が塞がった状態なのは、登って来た時と同様だが、重量も質量も、水まんじゅうとは段違いだった。
「息を止めて、お小夜。舌を噛む」
「え、え……え。いや。待ってください。待って、歌仙。まさか」
 ところが男は、屋根に掛けられた梯子の前には行かなかった。屋根の縁ぎりぎりまで迫って、眼下を望み、吹き上げてくる風に額を曝した。
 小夜左文字はごくりと唾を飲み、顔を引き攣らせた。緊張で全身を硬直させて、身の丈遥か彼方の大地に総毛立った。
「ああ。そのまさか、だ」
 嘘であって欲しいとの願いは、呆気なく消し炭となった。得意満面に言い切られて、短刀は気を失いたくなった。
 嫌々と首を振っても、逃げられない。この場で拘束を解かれる方が余程危険だと、身体は自ずと理解していた。
 歌仙兼定は梯子を使わず、このまま屋根から飛び降りるつもりでいる。
 それも桜の木の下に集う仲間らの前で、余興のひとつでもあるかのように。
 茣蓙の上に座す刀剣男士の大半は、高い位置にいる彼らに気が付いていた。これから打刀が何をする気か理解して、囃し立て、指笛を鳴らし、拍手喝采は鳴り止まなかった。
 その喧騒に負けない音量で、歌仙兼定が得意げに言い放った。
 自信ありげに口角を持ち上げ、居丈高に胸を張って。
「さあ、お小夜。君が宴に出ても、誰も迷惑をこうむらないと、証明しに行こうじゃないか」

吉野山高嶺の桜咲きそめば 懸からんものか花の薄雲
山家集 下 1454

2017/04/08 脱稿