足を前に繰り出す度に。地面がざわつく感じがした。
ついひと月半ほど前まで、一帯は一面雪に覆われていた。それがあっという間に緑に取って代わられて、青臭い空気が辺りに満ち満ちていた。
ここは屋敷からかなり離れた場所であり、往来が不便という理由から休耕地扱いだ。手入れは行き届かず、雑草は生え放題。裏を返せば、自然のままの姿が辺りを埋め尽くしていた。
耕作地は既に鍬が入り、種まきが始まっていた。肥料を追加し、土壌の改良も順調に進んでいた。
今年は、去年にも増して良い野菜が出来そうだ。最初は鋤を握る手も恐る恐るだった刀剣男士は、今やすっかり熟練の耕作者だった。
遠くに、せっせと働く粟田口の短刀の姿があった。
五虎退に、秋田藤四郎、それに薬研藤四郎や平野藤四郎の姿もある。鶯丸は水車小屋の傍で休んでおり、髪色が道端に茂る草と同化していた。
距離があるので、豆粒ほどにしか見えない。けれど案外分かるものだと頷いて、歌仙兼定は視線を戻した。
「お小夜。どこまで行くんだい?」
踏みしめる大地は、すっかり春の装いだった。
瑞々しい色がそこかしこに広がって、隙間から小さな蕾が顔を出していた。明日、明後日にも咲きそうな綻び具合で、既に風に揺られている分もあった。
生える草は一種類ではなく、どれもこれも葉の形が違う。鋸刃のようにぎざぎざしているものもあれば、笹の葉に似た形もあった。
共通するのは、どれもが陽の光を一心に集め、大きく育とうとしているところ。
冬場には目にするのが叶わなかった光景に相好を崩し、打刀は先を行く短刀に問いかけた。
「もうちょっと、です」
小さな身体を左右に揺らし、歩いていた少年が振り返った。重そうな竹細工の籠を両手にぶら下げており、肩の位置はいつになく低かった。
「やはり、僕が持とう」
姿勢は前のめりで、いつ転ぶか分からない。彼はこれまでにも数回、絡み合った草に足を取られて危ない目に遭っていた。
見ていられなくて手伝いを申し出るのだが、その度に断られた。
今回も結果は目に見えていたが、言わずにはいられず、歌仙兼定は伸ばした右手を上下に振った。
荷物を渡すよう促し、低い位置にある眼をじっと見つめる。
「いえ。大丈夫です」
先に逸らしたのは小夜左文字で、同時に告げられた言葉は素っ気なかった。
ある程度覚悟していたとはいえ、まったく傷つかないわけではない。なぜそこまで意地になるのか分からなくて、袴姿の打刀は眉を顰めた。
背に羽織った外套を風に翻し、強まった大地の匂いに荒んだ意識を慰めてもらう。
短刀が抱え持つ籠はかなり大きく、赤ん坊の揺籃ほどもあった。
見目幼いこの少年なら、両手足を折り畳めば入るのでは、と言いたくなる大きさだ。持ち手は一本だけで、楕円形の籠の最も幅が狭くなる場所に通されていた。
肩に担ぐには不便な位置で、だからこそ小夜左文字の足取りは安定しなかった。まるで酒に酔っているようで、右に、左に、千鳥足も良いところだった。
そんなだから真っ直ぐ進めなくて、目的地になかなか辿り着けない。
遥か後方に聳える屋敷の屋根を振り返り、歌仙兼定は強情な少年に肩を竦めた。
「もう、この辺で良いんじゃないのかい?」
あそこを出発してから、もうどれくらい経つただろう。
先導役がこの有様だから、歌仙兼定の足取りも非常に鈍い。牛の歩みでも、もう少し素早い気がしてならなかった。
手持ち無沙汰で、退屈だった。
屋敷を出た直後は、麗らかな日差しに浮き足立っていた。けれど遠出に誘われた嬉しさは、そろそろ枯れ果てそうだった。
かといってひとり戻る気も起きず、仕方なく短刀の後ろをついて回る。
頻繁に躓く少年に肝を冷やして、なんの手助けもしてやれない状況に、鬱憤が溜まる一方だった。
そろそろ目的地と、大きくて重そうな籠の中身を教えて欲しい。
話しかけても、小夜左文字は素っ気ない返事ばかり。会話はまるで繋がらず、大声で独り言を喋っている状況に近かった。
とても、虚しい。
「……お小夜」
青草を踏み潰し、沓の裏で土を蹴った。
思い切って距離を詰めたが、短刀は振り向いてもくれなかった。
元から淡々とした少年だったが、ここ最近は輪を掛けて態度が冷たい。万屋に誘っても頷いてくれず、和歌を贈っても返事が来なかった。
その傍らで、伊達に所縁を持つ刀らとは仲がいい。台所で一緒にいるところを何度も目撃して、表情は楽しそうだった。
自分と一緒の時と比較して、かなり落ち込んだ。歌仙兼定と居る時の小夜左文字は、あんな風に頬を緩めてくれなかった。
悔しいし、哀しいし、切なくて、胸がはち切れそうだ。
鬱屈した感情を足元にぶつけて、彼はぐりぐりと地面に穴を掘った。
潰された青草の表面が削れ、細かな繊維が靴底に張り付いた。つんと来る青臭さが強まって、しばらく残りそうだった。
「しまった」
やり過ぎたと後悔するが、もう遅い。
あまり風流とはいえない臭いにまとわりつかれて、打刀は奥歯をカチカチ言わせた。
鼻を愚図らせて拗ねるものの、どうにもならない。苦し紛れに幅広の草に沓を預けてみたが、拭いきれるものではなかった。
そうやって独り相撲に興じている間に、一時は詰めた短刀との距離が広がった。
「なにをやっているんですか、歌仙」
「待ってくれ、お小夜」
呆れ混じりに呼びかけられて、歌仙兼定は転げるように草原を進んだ。
畑仕事中の仲間の姿が更に小さくなり、どれが誰だか分からなくなった。なにかが動いている、程度しか把握出来ず、それは向こう側も同じだろう。
小夜左文字などは特に背が低いので、背景に同化して、見えているかどうかさえ怪しかった。
手を振ってみたい気持ちを抑えて、打刀は可憐に咲いていた花を避けた。
歩幅を僅かに広くして、足元覚束ない短刀の項を見詰めた。結ぶには長さが足りない髪がゆらゆら踊り、白い肌を擽っていた。
「歌仙、あそこ」
「う、おっと」
短刀は袈裟を脱ぎ、黒の直綴姿だった。首に数珠はなく、腰の刀も屋敷に置いてきていた。
内番の時などに着る衣よりは堅苦しいが、戦場に出る時ほど緊張感に溢れていない。
春の陽気に合わせて身を軽くした少年は、不意に足を止め、左前方を指差した。
下ばかり見ていた打刀は、危うくぶつかるところだったのを急ぎ回避した。あと一秒気付くのが遅れていたら、華奢な少年を後ろから押し潰していた。
慌てて右に避けて事なきを得て、ひっそり流した冷や汗を拭った。首から上だけで振り向いた短刀に愛想笑いで応じて、指し示された方角に視線を投げた。
「おや?」
そこだけ、色が違っていた。
まだ溶け残った雪があったかと驚いたが、よく見れば違う。その一帯だけが白く染まって、風が吹く度に、同じ方角へ一斉にそよいでいた。
精一杯茎を伸ばし、花を咲かせていた。
屋敷の近くでは見る機会のない光景に、歌仙兼定は総毛立った。
「これは……っ」
絶句し、直後に身体をビクッと震わせた。力なく垂らしていた腕を大きく跳ねあげて、拳を作り、襲ってきた寒気に抗った。
開けっ放しだった口を閉じて、前歯の裏を舐めた。溢れ出した唾液を音立てて飲み干して、数秒してから傍らに立つ少年に向き直った。
横に並んだ少年は得意げに胸を張り、どうだ、と言わんばかりに打刀を見詰め返した。
「気に入りましたか?」
不敵な表情で訊ねられて、あれだけ言っても歩みを止めなかった彼の真意を悟った。
余計な前情報を与えないために、必要以上に口数が少なくなっていた理由を理解した。
きっと、驚かせたかったのだろう。
他に考えられず、見事策略にはまった。
積もり積もっていた鬱憤があっという間に薙ぎ払われて、歌仙兼定は清々しい風に胸を満たした。
「ああ、素晴らしいよ。お小夜」
先ほどまで不信感しかなかった短刀に対し、今は尊敬の念が止まらない。
お手軽過ぎる自分を笑い飛ばし、美しい景色に目を見張った。この時期でなければ出会えない景色に歓喜して、連れて来てくれた少年に感謝した。
小夜左文字は照れ臭そうに首を竦めると、白い花で埋め尽くされた場所に踏み出した。
草は多少踏まれようと、へこたれず、すぐに起き上がった。強く、逞しく、したたかで、見習うべき点は多かった。
「なんという花だろう?」
緑の中に浮き上がった白い絨毯は、半径八尺ほどの範囲に収まっていた。それ以外でも花は咲いているものの、ここまで群生していなかった。
そして近くで見て気付いたのだが、真上からだとそこまで真っ白いわけではない。他の場所同様、花は青草の中に埋もれていた。
茎を精一杯伸ばして咲いているから、遠目には白く染まって見えたらしい。
見る角度や、距離によって印象が大幅に変化すると知り、感嘆の息が止まらなかった。
「白詰草、だそうです」
素朴な疑問には、短刀が淡々と答えたてくれた。運んできた籠を直接地面に置いて、中身を取り出すより先に、自身の身体を労っていた。
疲労を訴える筋肉を慰め、肩の関節をぐるぐる回した。背筋を伸ばして骨を鳴らし、大きく仰け反った体勢のままどすん、と尻餅をついた。
「大丈夫かい?」
「心配ありません」
結構な勢いだったので不安になったが、彼は最初から、そうやって座るつもりだったらしい。
白詰草が隆盛を誇る地面は存外柔らかく、一帯を占領する草も緩衝材の役目を果たしてくれた。
花弁は細く、いくつも並んで鞠状に丸まっていた。葉は目に眩しい若緑で、こちらも丸みを帯び、真ん中辺りに白い筋が走っていた。
茎が地面を這い、根は深くまで入り込んでいる。ためしに一本引き抜いてみたら、千切れたところからごく少量の汁が滲んだ。
「うっ」
それがたまらなく青臭くて、歌仙兼定は悲鳴を上げた。腕を払って摘んだ花を放り投げ、靴裏から漂うのよりももっと強烈な青臭さに鼻を抓んだ。
手を洗いたいところだけれど、ここまで水路は伸びていない。川もなく、井戸があるとすれば枯れているだろう。
手拭いで拭くにしても、今度は布自体が臭くなるのは避けられない。我慢するしかなくて、彼は己の軽率さをひたすら悔いた。
「さっきから、どうしたんですか。歌仙」
「いや、なんでも」
野の草を摘んで活けることは良くやるが、その場合は大体鋏を使っていた。
手で千切る機会はあまりなく、しかも冬場は植物の勢いが衰える。最近は梅の枝だとかが中心だったのもあり、野草の青臭さを失念していた。
免疫が薄れていたところに、久々に嗅いだから衝撃が強かった。
涙ぐみ、鼻声で返事して、打刀は投げ捨てた花の行方を捜した。
「お小夜、それは」
「お土産には、早いでしょうか」
草花に埋もれてしまったかと思いきや、放った方角が良かったらしい。
短刀の胸元に小さな花一輪を見つけて、歌仙兼定は愁眉を開いた。
屋敷に持ち帰り、花瓶に飾りたい、と言われた。だが今すぐ帰るわけではないので、それまでに萎れてしまうかもしれなかった。
愛おしげに白詰草を撫でた少年に相好を崩し、大股に近付く。膝を折って屈んで、打刀は自らが摘んだ花を短刀の髪に挿し直した。
「似合いません、僕になど」
「今だけだ。許してはくれないか」
花で飾られるのを、小夜左文字は嫌がった。それを押し通し、願い出て、歌仙兼定は恥ずかしそうに俯いた少年に目を眇めた。
濃い藍色の髪に、白い花はよく目立つ。簪やなにやらで装飾するより、よほど彼に似合っていた。
返事がないのを承諾と解釈し、打刀は満面に笑みを浮かべて頷いた。心地良い日差しと幸せを噛み締めて、外套を尻に敷き、足を崩した。
「毛氈を持ってくるべきだったかな」
「すみません。そこまで、気が回りませんでした」
「いいや、構わないよ。たまには悪くない」
地表は暖かいようで、意外と冷たかった。生い茂る草花に日光を奪われ、下の方まで届いていないようだった。
濡れていないだけまだいいと、前回雨が降ったのがいつだったかを数える。だがしっかり思い出せなくて、指を三本畳んだ辺りで諦めた。
地面が近い分、土の匂いが鼻腔を擽った。植物の青臭さと、遠くから運ばれてくる風の香が混じって、なんとも不思議な心地だった。
屋敷の中にいたら、絶対に嗅ぐ機会は得られない。
出陣以外でこんなに歩いたのも久しぶりで、一度座ってしまうと、しばらく立ち上がれそうになかった。
「それで? まさかこの花を見せるためだけに、僕を連れ出したのかい?」
冬の間に、足腰が鈍ってしまっただろうか。
畑仕事が本格化する前に鍛え直す必要性を感じつつ、打刀は意地が悪い質問を投げかけた。
「いいえ」
それを淡々と打ち返し、短刀は傍らに置いた籠を引っ張った。上に被せていた布を取り払い、中に収まっていたものを男に見せた。
もっとも、正体が即座に判明したものは少ない。
表面に少々傷がある竹筒は、水を入れて運ぶ道具だ。節のところで切って、一箇所だけ穴を開け、細く切った竹で栓がされていた。
他に、こちらも細身の竹を用いて作った器がふたつ。これは湯飲み代わりに使うと予想できた。
分からないのは、竹で編んだ入れ物の中身。これが籠の大部分を占めており、結構な大きさだった。
「少し早いですが、昼餉にしましょう」
「ここで?」
「はい。作ってきたので」
小振りの葛籠のようだが、籠に入っていたことから分かるように、深さはさほどではない。それを慎重に取り出して、短刀は互いの膝の間に置いた。
歌仙兼定の正面に座り直し、ゆっくり、ゆっくりと蓋を真上に持ち上げた。
中身を傾けないよう、じっくり時間を掛けた。歩いている時に散々左右に振り回していたのを忘れ、表情は真剣だった。
つられて固唾を飲んで見守って、打刀は眉を顰めた。隙間からちらりと見えた色は想像していたものと違っており、中身の予想が難しかった。
長閑な陽気に誘われて、ここまで来た。
いったい短刀は、なにを用意してくれたのだろう。
楽しみ半分、不安半分で、胸の高鳴りが止まらない。
沸き上がる興奮に身震いして、歌仙兼定は瞬きも忘れて鶸茶色の葛籠に見入った。
「どうぞ」
やがて、小夜左文字が葛籠の蓋をひっくり返した。
裏側になにも付着していないのを確認した少年の前で、打刀は現れた品々に瞬きを繰り返した。
「これ、は?」
中に収められていたのは、見たこともない代物だった。
白く薄い板状のものに、色々な具材が挟まっていた。どれもひと口大に切り揃えられて、手で抓んで持てるようになっていた。
厚焼き玉子に、鹿肉の燻製。衣をつけて油で揚げた猪肉や、茹でた芋を潰し、卵黄と油を良く混ぜた調味料で絡めたものもあった。
形はどれも不格好で、見た目はあまり宜しくない。様々な匂いが混じり合って、嗅覚だけではどれがなにか分からなかった。
これは本当に食べ物なのか、という疑問が頭を過ぎり、短刀に訊ねる声は微かに震えていた。
「さんどいっち、という食べ物、だそうです」
得体の知れないものを前にして、恐怖を覚えた。
その不安が顔に出ていたらしく、小夜左文字は安心させようとしてか、幾分口調を和らげた。
「三度一致?」
ただ告げられた単語が、耳慣れないものだったせいで、緊張をほぐすところまでいかない。
却って疑念を膨らませて、歌仙兼定は物珍しげに葛籠の中身を眺めた。
彼が知る料理に、このようなものは存在しない。卵焼きなどは頻繁に作るが、大抵は皿で供して、箸で食べた。
小夜左文字が運んできた籠の中に、箸と思しきものは見当たらなかった。いったいどうやって食べるつもりなのかと首を捻っていたら、物は試しとばかりに、短刀が手本を見せた。
ふたつある竹筒の、片方の栓を外し、中身で手拭いを湿らせた。それで掌を拭って汚れを取り除き、素手のまま、葛籠の中身をひとつ抓み取った。
「お小夜、行儀が悪い」
「いいえ、歌仙。これは、こうやって食べるものだそうです」
直接手で持って食べる行為は、褒められたものではない。饅頭などは手掴みで食べることもあるが、打刀はあまり良い顔をしなかった。
だから今回も、露骨に眉を顰めた。渋面を作って声を低くして、言い返されて目を丸くした。
「冗談だろう?」
予期せぬ反論に、声が上擦る。
素っ頓狂な悲鳴を耳にして、短刀は堪らず苦笑を漏らした。
外で食事をするのに、やれ皿だ、箸だ、となると、荷物がとても重くなってしまう。そういう手間を省き、出来ればもっと気軽に、身軽に出来ないかと考えていた。
気候が良くなって、日中の肌寒さは薄れた。屋敷の梅や桜の観賞も良いけれど、大地に根をおろし、ひたむきに咲く野花を眺めるのも楽しいと思った。
堅苦しい、格式ばったものはいらない。たとえば握り飯二、三個を手に出かけるくらいの気安さで、屋外でのんびり過ごしてみたかった。
だけれどやはり、おにぎり程度では味気ない。折角出かけるのだ、どうせなら色々なものを食べたかった。
しかし重い道具を持ち運ぶのは、到着前から疲れてしまう。
この問題をどうやって攻略すれば良いか、妙案が浮かばず、数日悶々し続けた。
そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、洋風かぶれの、隻眼の太刀だった。
「あの男か……」
つたない説明を受け、歌仙兼定は声を絞り出した。誰にでも愛想が良い伊達男を脳内に思い浮かべて、それを握り潰し、くしゃくしゃに丸めた。
「どうして、そんなに嫌うんですか。歌仙」
「嫌ってなどいない。単に気に食わないだけだ」
苦虫を噛み潰したような表情に、小夜左文字が呆れた声で問いかける。
打刀はそっぽを向いて吐き捨てて、鼻息を荒くした。
「それが、嫌いってことじゃないんですか……」
あまりにも正直な返答に、短刀は苦笑を禁じ得ない。頬をひくり、と痙攣させて、彼は溜め息に混ぜてそっと呟いた。
的確な指摘は聞かなかったことにして、歌仙兼定は居住まいを正した。草花の上で胡坐を組み、差し出された手拭いを左手で受け止めた。
小夜左文字が最初に手に取ったのは、鹿肉の燻製を薄く切ったものだった。肉を挟むのは小麦などを水で練り、四角い箱に入れて焼いたものだ。
周囲の焦げた部分を切り取って、真ん中の白い部分だけを使っている。外つ国の食べ物で、ぱん、と言うのだと教えられた。
「これも、そうなのかい?」
また、型に入れず、楕円に捻って焼いたものもあった。
真ん中に切れ目を入れ、そこに細かく刻んだ甘藍と、潰した馬鈴薯や肉を混ぜてを油で揚げたものを挟み、全体に黒い液体が掛けられていた。
「ころっけぱん、だそうです。それは、燭台切光忠さんが、作ってくれました」
「そうか。なら、僕は遠慮し……う、いや。お小夜にあいつが作ったものを食べさせるわけには」
見るからに毒々しいが、美味しそうでもある。
うっかり手を伸ばしかけて、作り手の名前を教えられた。打刀は自身の矜持と好奇心に挟まれて、最後は自尊心を捻じ曲げた。
あの太刀が作ったものを食べた短刀が、目の前で「美味しい」と褒め称えるところだけは見たくない。
食べ物を粗末にする、という選択肢は最初からないので、こうするしか術がなかった。
「く、そっ。うすたあそうすなど、邪道だというのに」
料理とは、素材本来の味を大事にすべきものなのに、これを使うと調味料の味付けが全てに勝ってしまう。
だから絶対に認めたくないのだが、料理下手でも簡単に扱え、挙げ句出来上がるものがそれほど不味くないから尚悔しい。
これまで積み重ねてきた努力を嘲笑われている気がするので、余計に受け入れ難かった。
食べ物を素手で鷲掴みにするのも、気に食わなかった。
けれどこれが正しい食べ方なのだと言われたら、従うしかなかった。
燭台切光忠の高笑いが聞こえるようで、実に腹立たしい。しかし小夜左文字がじっと見守っている手前、後には引けなかった。
長い葛藤の末に覚悟を決めて、敵に勝負を挑む心持ちで口を開く。
「あ~……んむ」
「どう、ですか?」
恐る恐る先端を口に入れ、少しだけ齧った。
ひとくちでは揚げ物のところまでは辿り着かず、酸味のある液体に絡んだ甘藍が精一杯。だというのに短刀は目を輝かせ、興奮気味に訊ねて来た。
それを右目だけで確かめて、歌仙兼定は渋面を作った。もぐもぐと顎を動かし、口の中にあったもの全てを飲みこみ終えてから、口の端に残る汁気を爪で削ぎ落とした。
「まあ、食べられなくは、ない……ね」
美味しいか不味いかの判断など、まだ出来る状況ではない。しかし答えないわけにもいかず、適当な言葉で場を濁した。
ところが短刀には、それが褒め言葉に聞こえたらしい。緊張気味だった表情が緩んで、嬉しそうに口角を持ち上げた。
「そうですか」
ホッと安堵の息を吐き、相好を崩した。ならば自分もと、食べずに待っていた分を頬張って、柔らかな肉を真ん中で噛み千切った。
あちらの方が余程美味しそうだけれど、迷い箸は行儀が悪い。
気に食わない太刀の料理を食べきらないことには、手を出せないのが癪だった。
「しかしね、お小夜。花見弁当が欲しいのなら、僕に言ってくれれば」
「歌仙が作ると、豪勢になり過ぎるから、駄目です」
「ぐっ。いやね、けれど」
彼が朝早くから頑張って作ってくれたのは嬉しいが、燭台切光忠と一緒だったのはやはり納得がいかない。相談する相手として、真っ先に自分を選んで欲しかった。
小夜左文字とは昔から縁があり、繋がりは誰よりも強いと信じていた。
それが独りよがりの勝手な思い込みだったとは、絶対に認めたくなかった。
なんとか反論を試みるけれど、食べながらなので言葉が続かない。
気が付けばむしゃむしゃ頬張っていて、最初の一個はあっという間になくなった。
味付けが濃い気がしたけれど、短刀や脇差は喜びそうだ。獅子王や和泉守兼定も、こちらの方が好みだろう。
逆に三条の刀や、髭切、小烏丸などは嫌がるかもしれない。
袴に散った細かな屑を地面に払い落として、歌仙兼定は難しい顔をして唇を引き結んだ。
「まだ。あります」
「いただくよ」
手が止まって、小夜左文字に心配された。沢山残っている葛籠の中身を示されて、彼は次々、小さめに切り分けられた料理を口に放り込んだ。
胡椒が利いた揚げ物は、食べた瞬間ガツンと来た。甘めに味付けされた厚焼き玉子は柔らかく、舌が麻痺しかけた身には有り難かった。
燭台切光忠が作った中には、他に、香ばしく焼いた麺を挟んだものがあった。
柑橘類を多く使った調味料で味付けした麺を挟み、触感が面白かった。噛み千切り損ねた一本がちゅるん、と口から垂れ下がり、それを見た短刀が思い切り噴き出したのが今日一番の驚きだった。
「そんなに笑わなくても良いだろう」
「すみません……」
歌仙兼定自身、みっともない姿を曝した自覚がある。
八つ当たり気味に咎めてしまったのを後から反省して、彼は竹筒から注がれた水を一気に飲み干した。
「はあ」
口の中で多種多様な味が混じり、粘膜にこびりついていた。水を飲んでもその味が入り込み、どこか歪で、不愉快だった。
どれだけ漱げば、取り除けるのだろう。
水筒の中身には限りがあるので、試せないのが悔しかった。
「歌仙」
「食べられなくは、ない」
葛籠に詰められていた昼食は、三分の二を歌仙兼定が、残りを小夜左文字が平らげた。
腹が膨らんで、身体はすこぶる重い。立ち上がって屋敷に戻るのは、もうしばらく休憩してからになりそうだった。
食べながら、顰め面が酷くなっていった自覚もある。それがとても大人げない行為だというのを、打刀はしっかり認識していた。
それでも止められなかった。不味くはないが、格別美味くもない。腹を満たしたいならこれで充分かもしれないが、歌仙兼定の美意識にはそぐわなかった。
丁寧に出汁を取り、素材の旨味を殺さず、ひとつひとつを宝石のように扱って調理する。
そうやって出来上がった料理は抜群の美味さながら、完成するまでに膨大な手間と時間が必要だった。
以前なら、それでも良かった。
しかし今、本丸に集う刀は六十振りを越えた。その全員の腹を満たすのに、彼のやり方は非常に効率が悪かった。
「駄目ですか?」
身を屈め、短刀が上目遣いに覗き込む。
膝を突き合わせて囁かれて、男は口惜しげに唇を噛んだ。
もしや彼は、これを言う為だけにわざわざこんな手の込んだ真似を仕組んだのか。
歌仙兼定の料理は、手が込んでいる分、確かに美味しい。ほかに比べるものがないくらいに、とても繊細な味付けだった。
しかしその細やかな配慮を喜び、じっくり堪能する刀が少ないのもまた、事実。刀剣男士の多くは、とにかく腹が満たせればそれでいい、という立場だった。
一度にたくさん作れないという理由で、打刀の料理は一皿当たりの量が少ない。それもまた非難の的であり、不評の遠因となっていた。
だが彼は、周りがなんと言おうと、まったく耳を貸さなかった。
これが自分のやり方だと言い張り、断固として曲げなかった。必然的に調理時間が長引いて、朝から晩まで、台所から一歩も外に出られない日が増えて行った。
彼と当番で一緒になった刀らは総じて嫌な顔をして、あれこれ五月蠅く言われると不満を漏らした。ちょっとでも手を抜けば責められて、気に入らないなら出て行け、と怒鳴り散らされた。
料理とは、楽しいものではなかったのか。
美味しいものを食べた時の、皆の顔が綻ぶのが堪らなく嬉しい。だから多少辛かろうと頑張れるのだと言っていたのは、いったいどこの誰なのか。
「お小夜、僕は」
矢継ぎ早に糾弾されて、歌仙兼定は言葉を失った。
言いかけたが途中で息を詰まらせて、鋭い眼光に顔色を悪くした。
「手を抜くことと、手間を省くことは、違うと。僕は、思います。歌仙」
細かく震える指先を隠し、拳を作った。
丹精込めて作って来たものを否定されたのが苦しくて、胸が張り裂けそうだった。
本丸が今のような賑わいを持たなかった頃、包丁を握れる刀は貴重だった。
料理などしたことがない刀剣男士が大多数を占める中、歌仙兼定は嬉々として皆の腹を満たしてくれた。人見知りで気難しいところがある刀でも、台所に立っている限り、仲間内では英雄扱いだった。
しかし今、彼の強すぎる拘りに味方する者は少ない。
最初は芋の皮を剥くのさえ覚束なかった仲間らも、次第に自分たちで食事を作れるようになっていった。そしてあれこれ工夫を重ねていくうちに、打刀の非効率さに気が付いた。
手間を掛けた分だけ美味しくなるのは、理解出来る。
だが工程をいくつか省き、作業を簡略化しても、似たようなものは作れてしまうのだ。
多少味が劣っても、誰もそこまで気にしないし、歌仙兼定を責めたりしない。
一生懸命になるのは良いことだが、周囲にまでそれを押し付けるのは、褒められた行為ではなかった。
「……分かる。分かるよ、お小夜」
裏でこそこそ言われているのは知っていた。一年前なら喜ばれたことが、今では通用しなくなっているのも承知していた。
それでも簡単には切り替えられなかった。
時間を掛けて育て、培ってきた知識や経験を捨て去るのは、容易ではなかった。
他にやり方があると思いつつも、決心がつかなかった。今から新しい手腕を試そうにも、失敗した時のことを考えると、覚悟が定まらなかった。
結局これまで通りをずるずる続け、思い通りにならないと苛立った。周囲に当たり散らし、ただでさえ下がる一方の評価を更に下げて、袋小路から抜け出せない。
「けれど、では、僕はどうすれば良いんだ」
これでも打開策を考え、悩み抜いて来た。
それでどうにもならなかったものを、責められるのはやりきれなかった。
両手を広げ、歌仙兼定は吼えた。にっちもさっちもいかなくて、初めて他者に助けを求めた。
「あんまり、難しく考えなくても良いと思います。最初の頃の歌仙は、だって、今よりずっと、ずぼらでした」
「ええ?」
そんな切羽詰まった男にさらりと言って、小夜左文字は相好を崩した。
目を細め、口角を持ち上げた。抑えきれない感情を掌で隠して、素っ頓狂な声を上げた打刀に肩を震わせた。
「ずぼ、ら……?」
「はい。味噌汁だって今より薄かったですし、人参は、花模様ではなかったです」
「それは、その」
「でも、美味しかった。そういうので、いいんだと思います」
歴史修正主義者との戦いが始まったばかりの頃、本丸でまともに料理が出来るのは歌仙兼定ひと振りだった。
ただ、彼だって知識を有していただけで、実際に料理をしたことはなかった。失敗も多く、米を焦がし、魚を炭にした日もあった。
手の込んだものは作れず、質素だった。
それが我慢ならなくて、努力を重ね、研鑚を積んだ。
もっと美味しいものを、もっと味わい深いものを、と追求した。手を抜かず、妥協せず、ひたすら邁進し続けた。
「前に、誰かが言っていました。歌仙の料理は、食べるのに緊張する、と」
「緊張だなんて、そんな」
「でも、分かる気がします。毎日食べる食事としては、豪華すぎるので」
食材から拘り抜いて、見た目も華やか。盛り付ける器も豪勢で、間違って傷をつけようものなら何を言われるか分からない。
茶碗を傾けて口に掻きこむのが憚られ、隣と雑談しながら食べるのも自然と控えてしまう。
静まり返った空間で黙々と箸を動かして、膳が空になっても満腹になれない。
「お小夜もなのかい?」
問えば目を逸らされて、打刀は背筋を寒くした。沈黙を肯定の意味と受け止めて、竦み上がった。
悪寒が走り、ぞわっと内臓がざわめいた。脈が乱れ、呼吸の間隔が短くなった。
頭がぼうっとして、なにも考えられなかった。陽の高い屋外だというのに辺りが暗く感じられて、奈落の底へ落ちていく錯覚に襲われた。
「祝い膳は、毎日食べないから、特別なんでしょう?」
今までになく落ち込んで、言葉が出ない。
短刀の慰めも耳に入らず、鼻の奥がツンと来て、目尻に涙が溢れた。
「歌仙」
「僕は、ただ。皆に、本当に良いものを、食べさせてやりたいだけで」
泣くつもりなどなかったのに、止まらなかった。ひと粒はらりと零れ落ちて、頬を濡らした。
自分でも驚いて、慌てて拭うが感覚は消えない。吸い込んだ空気が喉に張り付いて、草花の青臭さが目に沁みた。
「あのひとたちも、みんな、本当は、分かってます」
「だったら、どうして」
打刀が手を抜かないのは、己の我が儘を押し通すのが目的ではない。喜んで欲しくて、笑顔になって欲しくて、彼なりに一生懸命になった結果だ。
それを小夜左文字は否定しない。彼だけでなく、屋敷に住まう多くの刀たちも、心の中では認めていた。
ただ状況が、彼の理想を許さなかった。
それに。
「僕は、それで歌仙が倒れるのは、嫌です」
膝を揃え、短刀が言った。
相手の目を見てきっぱり告げて、頬を擦る男の手を下ろさせた。
代わりに背筋を伸ばし、瞼を下ろした。少しだけ赤くなっている場所に、更に赤い唇を寄せて、ほんの一瞬重ねて、離れた。
確かに触れた柔らかな感触に、驚いた打刀の涙がぴたりと止まった。惚けた顔で凍り付いて、ぽかんと口を開けた間抜け顔を曝した。
「お小夜?」
「当番の日は、歌仙。朝からずっと、立ちっぱなしでしょう。夜遅くまで休みなしなのも、感心しません」
どうしてそうなったのかが分からなくて、頭がぐるぐるした。
眩暈を起こして倒れそうになった彼を繋ぎ止めたのは、小夜左文字のひと言だった。
照れているのか顔を赤くして、口を尖らせて一気に捲し立てた。珍しく早口で、怒っているのがはっきり表れていた。
機嫌を損ね、臍を曲げていた。
拗ねて、小鼻を膨らませていた。
「え、ええっと……」
「歌仙の御飯は、美味しいです。とても。でも、それで歌仙の時間がなくなるのは、おかしいです」
合いの手を挟もうとしたけれど、上手く言葉が出て来ない。そうしている間に短刀はぷんすか煙を噴き、苛立ちを露わに空の葛籠を叩いた。
べちん、と軽い容器が浮き上がり、ひっくり返った。
用済みとなった包み紙やらなにやらが散乱して、当の小夜左文字も、しまった、という顔をした。
「と、……とにかく。歌仙はもっと、力を抜くことを、覚えてください」
真剣に取り組むのもいいが、毎回それでは疲れてしまう。張り切るのは晴れの日くらいにして、それ以外は適度に力を抜き、頭をからっぽにして取り組めばいい。
元々技術は高いのだから、少々手を抜いたところで、そこまで酷い出来にはなるまい。
そうして余った時間で、茶を点てたり、縁側で微睡んだり。
庭を散策し、同情で汗を流し、作歌に興じ、書に親しむ。
退屈だと言って、欠伸をしている暇はない。
「……ああ、そうか」
我を貫き通そうとして、近頃の歌仙兼定は屋敷の中で孤立していた。馬鹿にしてくる連中を見返してやりたくて、凝り性が益々酷くなっていた。
朝から晩までそればかりで、周囲に気を配る余裕がなかった。
小夜左文字とも、最近はまったく出かけていなかった。
直近では短刀の方が断っていたのだが、それはそれ。打刀と仲間たちの間にある軋轢をなんとかしようと、彼なりに配慮した結果だから、責めるつもりはなかった。
気が付かないうちに、視野が狭くなっていた。
初心を思い出させてくれた相手に感謝を示し、歌仙兼定は頬を緩めた。
「ありがとう、お小夜」
仲間を喜ばせたいと思っていたはずが、いつの間にか自己満足のための手段になっていた。
皆が反発するのも、当然だ。
憑き物が落ちた顔をして礼を述べて、彼は一瞬惚けた後、嬉しそうに目尻を下げた短刀に見入った。
そして。
「これからは、お小夜と出かける時の弁当にだけ、たっぷり時間をかけるようにしよう」
「え……って、歌仙!」
金輪際、朝昼晩の食事には手間を掛けないと決めた。特別な日の、特別な相手のためだけに時間を費やし、心を砕くと胸を張った。
得意げに言い放ち、破顔一笑する。
小夜左文字はぽかんとした後、顔色を青から赤に入れ替えた。
大声で怒鳴られても、少しも怖くない。逆に楽しくなって、打刀は伸ばした指で小振りの鼻を小突いた。
「お小夜は、どうだい?」
詰め寄って来た少年を制し、意地悪く問いかける。
「う、……う、れしい、……です」
最大級の特別待遇に、短刀は目を泳がせ、顔を伏した。
花ざかり梢をさそふ風なくて のどかに散らす春に逢はばや
山家集 春 135
2017/04/01 脱稿