垣根の梅の 匂ひなりけり

 午後、時間があれば話がしたい。
 歌仙兼定にそう言われたのは、昼餉が始まる少し前のことだった。
 大勢がごった返す広間で突然話しかけられて、要旨などなにも訊けなかった。こちらの都合など一切聞かず、言うだけ言って立ち去られて、訳が分からず、少々腹立たしかった。
 もし小夜左文字が多忙を極め、暇を作れなかったらどうするつもりだったのか。
「まったく」
 勝手極まりない男に憤慨しつつ、短刀の付喪神は足早に廊下を進んだ。
 長閑な日差しに包まれて、本丸内はどこも暢気極まりなかった。歴史修正主義者の猛攻が続いているというのに、ここにいれば安全と高を括って、警戒心は皆無だった。
 縁側の陽だまりで、獅子王が鵺を枕に昼寝を楽しんでいた。傍では五虎退の虎が丸くなり、眠そうに欠伸をしていた。
 飼い主はどこへ行ったのか、姿が見えない。碁盤を挟んで膝丸と鶴丸国永が向かい合い、少し離れたところで髭切と鶯丸が茶を飲んでいた。
 威勢がいい雄叫びは、大包平のものだ。どういう組み合わせなのか、後藤藤四郎と一緒になって竹刀を振り回しており、聞こえる数字は軽く三桁に到達していた。
 反対側に耳を向ければ、道場からと思われる勇ましい声がした。誰と誰が打ち合っているかまでは判然としないが、昼食の饂飩を早食いしていたのは和泉守兼定たちだ。
 急がないと、場所を取られてしまう。そういう雰囲気があったので、きっと彼らが使っているのだろう。
 推測に首肯し、小夜左文字は廊下の角を曲がった。壁に阻まれ、外の景色が見えなくなって、昼間でも屋内は薄暗かった。
 二階へ続く急こう配の階段を避け、左に進路を取った。増築されたのではなく、最初からこの本丸にあった床板を踏みしめて、通い慣れた道を黙々と辿った。
 最早目を閉じたままでも、着いてしまえるのではないか。
 それくらい何往復もした経路を使って、彼は目当ての部屋の前で足を止めた。
「歌仙。来ました」
 なにか仕事がないかと探してみたが、畑仕事も、台所も、手が足りていると言われてしまった。
 結局ここに来るしかなかった自分に小鼻を膨らませて、小夜左文字は閉ざされた襖の向こうに呼びかけた。
「歌仙。歌仙?」
 どうせあの打刀のことだから、たいした用事ではないだろう。新しい茶器を買ったか、詠んだ歌が増えて来たので品評を兼ねて聴いて欲しいと、その辺だと思っていた。
 けれど何度声を上げても、返事はなかった。
 襖はぴくりとも動かず、小夜左文字の前を塞ぎ続けた。
「なんだ。どうかしたか」
「ああ、いえ」
 あまりにしつこく呼ぶものだから、ふたつ隣の部屋の主が、何事かと廊下に顔を出した。
 へし切長谷部に話しかけられ、彼は慌てて首を横に振った。若干の気まずさを覚え、恥をかかされた苛立ちを胸に、思い切って襖を左に滑らせた。
 入室の許可は得られなかったが、それもこれも全て、さっさと返事をしない男が悪いのだ。
 責任は歌仙兼定にあると八つ当たりして、ドン、と響いた音に溜飲を下げる。
「……あれ?」
 反対側の壁に当たり、跳ね返された襖が少しだけ戻って来た。
 それとほぼ同時に、怒らせていた肩を下ろして、小夜左文字は眉を顰めた。
 何度か瞬きを繰り返し、しんと静まり返った室内に息を飲んだ。はっと我に返って急ぎ内部を見回すが、視線の先で動くものは見つけられなかった。
 どれだけ名前を呼んでも返事がないのは、道理だ。
 歌仙兼定は、部屋の中にいなかった。
 見事に蛻の殻で、直前まで誰かがいた気配すらなかった。障子は閉められ、光はどこかぼんやりしていた。
 畳んだ布団が隅に寄せられ、その隣に立派な文机があった。座布団は濃い紫色で、四隅を飾る房は金色だった。
 飴色の棚が壁を埋め、所狭しと茶器に花器、丸められた掛け軸などが並べられていた。中には箱のままのものも含まれて、整理が行き届いているとはとても言えなかった。
 床の上は綺麗に片付いているが、それだけだ。文机も普段は見るに堪えない有様で、屑入れは丸められた紙でいっぱいだった。
「ひとを呼びつけておいて」
 ところが今日は、文机だけは綺麗だった。
 呼びつけておいて席を外す不届き者にぷんすかしつつ、興味惹かれて横幅が広い机へと近づく。
「なんだろう」
 覗き込んだ天板には薄手の紙が一枚、文鎮を重石にして置かれていた。
 珍しいこともある、といつもの部屋の光景と比較しなければ、気付かずに引き返していた。
 それほど大きくない紙面に記された短い言葉に半眼して、小夜左文字は深く溜め息を吐いた。
「東風吹かば」
 念のためと花を模した愛らしい文鎮を外し、簡単に破れてしまいそうな紙を引き抜く。
 手に取って光に透かせば、それは真っ白ではなく、ほんのりと紅が入っていた。
「また、手の込んだことを」
 すっかり乾いている墨を指でなぞり、短刀は苦々しい表情で呟いた。
 文字にして五文字、音にしても五音。
 書き置きとして残されたことばを繰り返し諳んじて、彼は後に続く句を自然とくちずさんだ。
「匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
 残念ながら、紙を嗅いでも匂いはしなかった。
 さすがにそこまで凝った真似は出来ないと苦笑して、彼は薄紅色の紙を四つに折り畳んだ。
 折角なのでもらっておくことにして、懐に入れると同時に踵を返した。乱暴に扱ってしまったのを詫びつつ襖を閉めて、へし切長谷部の部屋の前を通り過ぎた。
 階段を下りていた千子村正に会釈だけして、来た道を戻った。獅子王はまだ昼寝中で、囲碁の観戦者に三日月宗近が加わっていた。
 相変わらず緊張感に欠けた光景を視界の隅に置き、跳ねるように廊下を進んだ。長い渡り廊を抜けて居住棟から母屋へ戻り、寄り道せずに玄関で草履を引っ掻けた。
「おや、おでかけですか。お小夜」
「はい。東風になってきます」
「そうですか。気を付けるのですよ」
「はい。いってきます」
 敷居を跨いだところで、遠征帰りの一団と遭遇した。戦嫌いで知られる太刀、江雪左文字がその中にいて、すれ違いざまに話しかけられた。
 おおよそ会話になっているとは言い難いやり取りに、聞いていた一期一振が怪訝な顔をする。けれど当の左文字兄弟はさほど気にする様子もなく、互いに一礼して別れた。
 片方は屋敷の中へ。
 もう片方は、外へ。
 双方一度も振り返らず、詳細の追及もなかった。大家族の長兄だけが不思議そうに首を捻る中、小夜左文字は東を目指して身を躍らせた。
 本丸の敷地は広く、最果てがどこにあるかは未だに分からない。
 刀剣男士が日々生活を送る屋敷は居住区である北棟と、母屋に当たる南棟に大きく分かれている。そこから南に向かえば広大な庭園が広がり、池があり、茶室があった。
 西に行けば道場があって、北側に田畑が広がった。屋敷の北側から東に向かって雑木林が幅を利かせ、それを越えた先に小高い丘がある。新たな刀が産み出される鍛冶場があるのは、その丘の頂だ。
 また、鍛冶場の近くには小さいながら、神社があった。最初はぼろぼろだったが、大太刀らが苦労しつつ改修し、今や立派な拝殿を持つようになっていた。
 石切丸や太郎太刀は、日中、主にそちらで活動している。蛍丸も時々顔を出しているようだが、次郎太刀は居心地が悪そうだった。
 そしてその社の裏手に、小規模ながら、梅林があった。
 屋敷の庭は桜に楓が中心で、春と秋は色鮮やかだ。季節になれば大勢の刀が茣蓙を敷き、車座になり、毎日のように宴が繰り広げられた。
 もっとも歌仙兼定は、そういう馬鹿騒ぎが嫌いだ。あんなのは風流ではないと言って、誘われても断固参加を断っていた。
 人見知りな性格なのもあるが、花より団子な側面が強い飲み会は、彼の感性に合わないのだろう。
 なにかにつけて風流だ、雅だ、と口にする男を思い出して、小夜左文字はクッ、と笑った。
 喉の奥で音を押し潰し、急ぎ表情を引き締めた。
 昼間でも暗い雑木林の小路を抜けて、若草が芽吹く丘の斜面へと飛び出した。
「ここは、涼しい」
 不思議なことに、この一帯はいつ来ても空気がひんやりしていた。
 冬場はもちろんのこと、夏場でもだ。太陽が眩しく照っている中でも、畑と違い、眩暈を起こして倒れることはなかった。
 神社があるので、不可思議な力が作用しているのかもしれないが、詳しいことは分からない。小夜左文字がそう感じているだけ、という可能性も捨てきれず、調べたいとは思わなかった。
 走って来たので、肌がほんのり汗ばんでいる。
 表面を覆う熱を吹き抜ける風に託して、彼は深呼吸を二度、三度と繰り返した。
「はあ……」
 肺の中を一旦空にして、新鮮な空気で満たす。
 最後に唇をひと舐めして、短刀の付喪神は遠くを見渡した。
 鍛冶場は休憩中だろうか、槌を打つ音は聞こえなかった。
「神社も、静かだね」
 一見粗末に思える家屋の向かいに丹塗りの鳥居が聳え、石垣で囲われた社が鎮座していた。だがこちらからも、毎日のように聞こえてくる加持祈祷の声がしなかった。
「そういえば、さっき、兄様と一緒だった」
 珍しいことが続く日だと思っていたら、思い出した光景があった。
 先ほど江雪左文字と会った時、石切丸と太郎太刀も、景色の中に佇んでいた。
 遠征に出ていたのであれば、神社が空っぽなのは当たり前だ。なにも不思議なところはなかったと自分自身に苦笑して、小夜左文字は緑の中に走る細道を駆け登った。
 往来が激しい一帯なので、ここだけ草が生えていない。地面が剥き出しになって、角が丸くなった石がちらほら顔を出していた。
 山の中にある、獣道と同じだ。
 そこを途中から抜け出して、日増しに丈を伸ばす若草の中に飛び込んだ。草履越しに感じる地面の感触が明確に変わって、一歩進むたびに足元でカサカサと乾いた音が響いた。
 風が吹けば、草が一斉に同じ方角を向いた。ざああ、と緑が大きく波打ち、まるで海原の真ん中に立っている感じだった。
「気持ちいい」
 短刀である少年は、あまりこちらに用がない。刀装を作るよう審神者に命じられた時くらいだが、近侍に任命される機会は稀だった。
 久しぶりの光景は、少し懐かしくもある。
 たかだか数ヶ月単位で郷愁に浸れる自分に呆れて、小夜左文字はふわりと鼻腔を掠めた香りに相好を崩した。
 前にここへ来たのは、いつだっただろう。
 修行に旅立つ前、無事の帰還を祈りに来た時以来ではなかろうか。
 あの頃と比べると、季節が巡っている分、景色は随分違って見えた。
「それにしても、歌仙は。呼び出し方が、なっていない」
 出立の計画を立てたのは、ちょうど野分の時期だった。週ごとに嵐が押し寄せて、屋敷の屋根瓦が吹き飛ばされ、あちこちで雨漏りが発生した。
 その影響で、小夜左文字の出発は延期させられた。今は行くべきでない、と周りから止められて、渋々承諾するしかなかった。
 足を進める度に、当時の記憶がまざまざと蘇った。その時抱いていた感情までもが復活して、現在進行形の感情と重なり、混じり合った。
「まったく!」
 鬱憤を大声と共に吐き出し、緩やかな傾斜を登った。前方に整備が行き届いていない垣根が現れて、その向こうに、丸裸の木々が姿を見せた。
 いや、丸裸とは失礼だろう。
 緑の葉こそないけれど、そこに根を下ろす樹木は皆堂々として、立派に枝を伸ばしていた。
 裸に感じたのは、それが白梅だったからだ。近付いて、間違いを訂正して、小夜左文字は鼻腔を優しく擽る香りにほう、と息を吐いた。
「……もう、こんなに」
 木々の間に道はなく、幹と幹との間隔は一定でなかった。
 白梅と紅梅の区別なく植えられて、白の中に紅が巧みに紛れ込んでいた。
 まだ蕾のものもあるけれど、多くは既に花を開いていた。中には満開を迎えている木もあるものの、全体的に八分咲きといったところだ。
 薄紅色のしだれ梅は、蕾の方が若干多い。高い位置から垂れ下がる細い枝には無数の花が絡みつき、正月飾りを連想させた。
「お小夜」
 梅林の入り口で、すでに圧倒されていた。
 桜ほどの派手さはないけれど、この慎ましやかな美しさが好ましい。
 忘れたころにスッと花を抜けていく香りも爽やかで、時の経過を忘れそうだった。
 だから聞こえた声も、右から左へと流れた。心に響かず、留まらない。聞こえているのに無視して、小夜左文字はうっとりと咲き誇る梅の花に見入った。
「お小夜。お小夜~?」
 じっくり堪能し、心行くまで観賞したかった。
 だのに男はその辺を理解せず、無粋に声を荒らげた。
「お、さ、よ!」
「……うるさいです、歌仙」
 耳元で怒鳴られて、さすがにカチンと来た。
 一音ずつ細切れにして吼えられて、血濡れた復讐譚を持つ短刀はむっと口を尖らせた。
 不機嫌を露わにし、木陰から現れた男を睨みつける。だが打刀は少しも心挫けることなく、振り向いてもらえたと嬉しそうな顔をした。
 この図々しさは、見習うべきかもしれない。
 どこまでも自分本位な歌仙兼定に肩を竦めて、小夜左文字は愁眉を開いた。
 怒り続ける気力が失せて、微笑んだ。口角をほんの僅かに持ち上げた彼に、藤色の髪の打刀は感心した様子で呟いた。
「よくここが分かったね」
 赤に白、そして少なくはあるが黄色に色づく梅を眺め、目尻を下げる。
「分からないわけがないでしょう」
 間髪入れずに言い返して、短刀は懐に入れていた紙を取り出した。
 男の前で広げ、太陽がある方角を指差した。地面に落ちる影は北東を向き、ここが屋敷から見てどの方角に当たるかを教えてくれた。
「まどろっこしい真似を」
 紙に残されていたのは、菅原道真の歌だ。
 東風吹かば、で始まる一首は、あまりにも有名だ。小夜左文字が知らないわけがない。この紙を押さえていた文鎮もまた、梅の花を模して形作られていた。
「単純に誘うだけでは、面白みに欠けるだろう?」
 あらゆる準備を整え、短刀に居場所を探させた。本丸の東側に位置する梅林は、東風が吹かずとも、芳しい香りに満ちていた。
「歌仙は、いつから、僕の主になったんですか」
「嬉しいね。僕を追って、海を渡って来てくれたのかい?」
 梅にまつわる菅原道真の逸話になぞらえ、皮肉を言ったつもりだった。
 それを好意的に解釈してみせた男にため息を零し、少年は畳んだ紙を懐へ戻した。
 落とさないよう帯に挟んで、改めて歌仙兼定に視線を向けた。
「それで、わざわざ謎かけしてまで僕を呼び出した理由は、なんです」
 答えは分かり切っているが、他にもあるかもしれない。
 確認の意味で訊ねた彼に、打刀は花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「お小夜に、教えてあげたくてね」
「……ご厚意、痛み入ります」
 結果は、予想通りだった。
 梅の花が満開に近いと、小夜左文字は全く知らなかった。日々の生活、出陣に追われて、季節の変化に心を向かわせる余裕がすっかりなくなっていた。
 訪ねた打刀の部屋に残されていた問題を解いた時も、場所しか思い浮かばなかった。雑木林を抜けるまで、大地の匂い、草木の青臭さすら、記憶の彼方だった。
 ここに呼ばれなければ、気付かなかった。
 一切見向きもしないまま、初春を飾る花の盛りを通り過ぎるところだった。
 だがそれを得意げに語られるのは、少々どころか、かなり腹が立つ。
 言われなくても自力で思い出せた可能性は、限りなく低いものの、皆無ではないのだから。
「どうしたんだい、そんな顔をして。お小夜は暗いなあ」
 さすがは風流を解する男、と褒めてやればいいのか。心優しく、気遣いが出来る素晴らしい刀だと、拍手喝采を贈るべきか。
 そんなことを悶々と考えていたのが顔に出たらしく、膨れ面を指差された。
 頬をちょんちょん、と小突かれて、瞬時に跳ね返した。人差し指どころか右手全体を打たれた男は素早く利き腕を回収すると、呵々と笑って顔を綻ばせた。
「すぐ暴力に訴える。お小夜の悪い癖だ」
「歌仙に言われると、とても、……傷つきます」
 本心ではなかろうが言われて、些かグサッと来た。
 家臣を三十六人手打ちにした男の刀にだけは言われたくなくて、小夜左文字は痛む頭を抱え込んだ。
 眩暈を堪え、意識を目の前の打刀から引き剥がした。首を巡らせ、視界に入る世界を入れ替えて、鮮やかに咲き乱れる花々に心を寄せた。
「良い匂いです」
 神社に近い方は白梅が多かったが、奥に行くにつれて紅梅が増えていく。蝋梅は盛りを過ぎており、散った花弁が樹下に集まっていた。
 鶯の声がして、顔を上げるが姿は見えない。仕方なく枝に留まって華麗に歌う姿を想像してみるが、脳裏に浮かんだのは鶯丸だった。
 小さくなった太刀が、懸命に囀ろうと頑張っていた。姿はあのままなのに、嘴が生えていて、それがパクパク動くのが滑稽で仕方がなかった。
「うくっ」
 堪らず噴き出しそうになって、大慌てで口を押さえた。両手を重ねて呼気を堰き止め、行き場を失った空気で頬を膨らませた。
「お小夜?」
 突如前のめりになった短刀に、打刀が怪訝な顔をする。
 しかしすぐには答えられず、小夜左文字はふるふる首を振った。
 横隔膜が痙攣し、全力疾走したわけでもないのに脇腹が痛んだ。口の中にある息を飲みこもうにも簡単にはいかず、指の隙間からゆっくり吐き出すしか術がなかった。
「いったい、どうしたんだい」
「いえ……なんでも」
 この場で歯を見せて笑ったら、後でなにを言われるか、分かったものではない。
 時間を掛けてどうにか取り繕って、冷や汗を拭い、短刀は荒ぶる鼓動を撫でて宥めた。
 歌仙兼定は訝しげに首を傾げ、やがて深く肩を落とした。胸に累積する様々な感情を吐息に委ね、気持ちを切り替えて背筋を伸ばした。
「ご覧、お小夜。とても華やかだろう?」
 話題を入れ替え、というよりはやや強引に戻し、左手を広げて梅林を示した。彼が手入れをして、育てたものでもないのに、鼻を高くして自慢げに語った。
 恍惚とした表情は、甘く香る梅に対してか、それともこれを小夜左文字に紹介した自分にか。
 常に居丈高で、誰に対しても高慢な振る舞いが目立つ打刀に愛想笑いで返し、短刀は木々の根を避けて梅林を進んだ。
 無秩序に生えているので、まっすぐ進めないのが難点だ。妙なところから枝が飛び出して、歌仙兼定は度々袖や髪を引っ掻けていた。
 但し小夜左文字は、そうはならない。凛と胸を張ったままでも、問題なく奥へ進めた。
「……」
 己の低身長ぶりに感謝すべきか、否か。
 難しい問題に直面して、少年はぶすっと頬を膨らませた。
「お小夜。さっきから、どうしたんだい?」
「いいえ、なんにもありません」
 そこに、またもや失礼極まりない男が話しかけて来た。
 歌仙兼定としては心配しているつもりでも、余計な御世話だ。変なところで矜持を傷つけられて、本丸でも際立って小柄な短刀は言うが早いか、突然地面を蹴って駆け出した。
「えええ?」
 前触れもなく飛び出したので、置いて行かれた男は勿論驚いた。素っ頓狂な声が背後から聞こえて、少しだけ胸がスッとした。
 右に、左に幹を避け、梅の香りを楽しんだ。自ら風を起こして枝を揺らし、花々の下を潜り抜けた。
 上を見れば細い枝が複雑に絡まり、隣の木と繋がろうとしていた。風を受けて傾いたらしい木が、他の木に支えられる形で枝を伸ばしていた。
「お小夜、本当に……なんなんだ」
 ふと目に入った光景に魅了され、足が釘付けになった。
 背後からは息せき切らせた男が追いかけて来て、ぜいぜい言いながら胸を押さえた。
 ただでさえ障害物が多い中、見失わないよう必死に走って来たようだ。準備運動も、心構えもなかったので、戦場に出る時以上の疲弊ぶりだった。
 最近出陣していないから、鈍ったのではないか。
 明日にでも道場に引っ張り込もうと密かに決めて、小夜左文字は黙って視線で頭上を示した。
 大きな木洩れ日が顔に落ち、眩しかった。今は良くても、いずれ完全に倒れてしまいそうな梅の木に思いを馳せて、彼は地表近くで咲く花に顔を寄せた。
「……しない」
 苦難に追い遣られても健気に咲く紅梅は、しかし短刀を歓迎してくれなかった。
 満開の一輪に鼻が張り付くくらい近付いたのに、何度息を吸っても、少しも匂わなかった。
 他の花に変えてみても、同じだ。ここに来た直後、そして打刀を捨て置いて走り回っている間、絶えず彼の周りにあったあの匂いが、どうしたことか全く嗅ぎ取れなかった。
 位置取りが悪いのかと、幾度か角度を変えてみた。上から、下から、後ろからと、うろうろ動き回る様は不審極まりなかった。
 犬のようにくんくん鼻を鳴らし、表情は次第に険しくなる。
 眉間の皺を深めた短刀に、歌仙兼定は深々とため息を吐いた。
「雅じゃないな、お小夜」
「放っておいてください」
 乱れていた呼吸が、ようやく元通りになったようだ。汗で湿った前髪を掻き上げて、見苦しい真似をする少年を叱った。
 最早決め台詞めいているひと言に、素直に応じるつもりはない。どうしようが自分の勝手とムッとして、言い返そうと梅から離れた直後だった。
「……あ」
 ふわ、と風が薫った。
 あれだけ必死になっても感じ取れなかった、仄かに甘く、透き通るような匂いが目の前を通り過ぎた。
 急ぎ振り返るけれど、当然匂いは見えない。右往左往しながら追い求めても、手に掴めるものではなかった。
「今――」
「言っただろう? 雅じゃない、と」
 あんなにも焦がれていたのに、望む時に得られなかった。惜しくてならず、改めて垂れ下がる枝に歩み寄ろうとして、肩を掴んで制された。
 首だけを後ろに捻って睨みつけても、打刀は全く悪びれない。
 同じ台詞を繰り返して、短刀を木の足元から遠ざけた。
「近づきすぎるのも、よくない。土は、彼らの布団だからね。寝ているところを上から踏みつけられるのは、お小夜だって嫌だろう?」
「ああ、はい。そうですね……」
 脇から手を入れて、ひょい、と軽く担ぎ上げられた。爪先だけが地面に残り、ずるずる引きずられた跡はそこに残らなかった。
 こうも簡単にあしらわれ、扱われたのにも腹が立つ。しばらく会わないうちにすっかり大人びた風貌になり、それに見合う体格を得た打刀が実に恨めしかった。
 だからと、仕返し代わりに全身から力を抜いた。折角だし支えてもらおうと企んで、自力で立つのを止めた。
「うわ」
 ふっと息を吐き、全体重を歌仙兼定に預けた。腕を掴んでいた短刀が急に重くなったのを受けて、男は短い悲鳴を上げ、がくんと落ちた膝を奮い立たせた。
 中腰で小刻みに震えて、数回の深呼吸の後に困惑を顔に出す。
「お小夜。今日は随分、ご機嫌斜めだね」
 今のが偶然ではなく、わざとだと見抜いての発言だ。
 尻を一寸ほど宙に浮かべた状態で吊り上げられていた少年は、嘆息混じりの質問に一瞬目を丸くして、直後に項垂れて小さくなった。
 白く細いうなじを間近から見つめて、歌仙兼定は眉間の皺を深めた。無理矢理立たせるのも、はたまた地面に直接座らせるのもどうかと悩んで、決めきれずに苦しい姿勢を維持し続けた。
 腹筋に力を込め、落ちそうで落ち切らない短刀を抱え続ける。
 小夜左文字が動くのが先か、打刀の体力が尽きるのが先か。
 我慢比べのような時間が十数秒、過ぎた頃だった。
「いいえ。歌仙のせいじゃありません」
 短気なくせに辛抱強く待つ男に白旗を振り、小夜左文字は足の裏を大地に押し付けた。
 二本足で立ち、歌仙兼定を解放した。身動ぎ、今となっては拘束でしかない腕を払い退けようとした。
 しかし打刀は、これを拒んだ。折角重くはないが、軽くもない短刀が自ら立ち上がったというのに、肩に腕を絡めたまま、離れようとしなかった。
「歌仙?」
「君を不愉快にさせたのなら、謝る」
「……ですから、僕が勝手に、腹を立てていただけです」
 遠い昔、彼らが同じ時を過ごしていた頃。
 歌を残し、居場所を探させる遊びを出題するのは、小夜左文字の方だった。
 なかなか正解に行きつけず、愚図る付喪神を諭し、宥めた。日が暮れようとしているのに帰りたがらない時は、力技で捻じ伏せた。
 当時は辛うじて、短刀の方が背が高かった。産まれたての未熟な付喪神は、無知で、無邪気で、純粋で、けらけらとよく笑った。
 復讐を遂げた研ぎ師の手を離れ、各地を転々とすることになる短刀にとって、あの時期が一番騒々しく、忙しかった。
 過去を懐かしみ、目を開けて現実を再確認する。あれほどに愛らしかった幼子は立派に成長を遂げ、いい意味でも、悪い意味でも、元の主の気質を過分に受け継いでいた。
「どうせなら、もっと難しい問題にしてください」
「善処しよう」
「わわっ」
 出題が簡単過ぎたのが悪い、と、憤慨の理由を全く別のところに据えて、呟く。
 それが嘘なのを承知の上で返事して、歌仙兼定は背後から抱きかかえていた小夜左文字をひょい、と持ち上げた。
 爪先が地面に別れを告げ、空中でくるりと反転させられた。見える景色が一瞬のうちに変化して、最後はぽすん、と男の胸に落ち着いた。
 行き場のなかった両手を幅広の肩に置いて、こういうのが悔しいのだと、短刀は小鼻を膨らませた。
「さて。では、お小夜の機嫌を直しにいくとしようか」
 そんな膨れ面を知らず、歌仙兼定が呑気に言い放つ。
 天に向かって跳ねている藍色の髪を軽く撫でて、彼は悠然と背筋を伸ばした。
 軽く揺らされて、ふわっと甘い香りが広がった。歩き出した男の動きに合わせ、先ほどまでよりずっと強く、頻繁に、咲き乱れる花の香が乱舞した。
「歌仙、いつからここにいたんですか」
「うん? さあ、どうだっただろう」
 男の髪に、衣に、梅の匂いが移っていた。木々から漂うだけではない、もっと近い場所から、鼻が疼く匂いがした。
 すうっと空気に紛れ、溶けていく。胸の奥まで沁み込んで、広がって、ゆっくり身体に馴染んでいく。
 答えをはぐらかされて、小夜左文字は眼を真ん中に寄せた。顰め面になって、直後にふーっ、と息を吐いた。
 昼餉の前に誘われたのに、短刀が打刀の部屋に出向くまで、相当な間があった。手伝いを欲する刀を探してうろうろして、あちこち寄り道してから赴いた。
 いくら暖かくなってきているとはいえ、まだまだ肌寒い。特にここは丘の上で、屋敷の庭よりも風通しが良かった。
 変な意地を張るのではなかった。
 後悔し、反省し、黙り込んで、小夜左文字は身体全体に及んだ振動にハッと我に返った。
「歌仙?」
「花見の供に、と思ったんだけど。好きだろう?」
 どうやら先ほど言っていた、短刀の機嫌を直す算段がついたらしい。
 梅林の中を移動した男は、枝に引っ掛けていた袋を広げ、中に入っていたものを取り出した。
 竹の葉に包まれて、開かないよう麻紐で縛られていた。横からちらりと覗いたのは、白に桃、緑の球体。それが三つ並んで、真ん中には串が刺さっていた。
 見た瞬間、正体が分かった。と同時に咥内がいっぱいになるまで涎が溢れ、口の端から滲み出そうになった。
「この場合、桜餅ではないのですか?」
 それを急ぎ飲み干して、嬉しさを押し殺した。波打つ感情を必死に隠して、小夜左文字は必要以上に無表情になった。
 淡々と告げて、打刀を鋭く睨む。
「桜の葉の塩漬けが、手に入らなかったんだよ」
 菅原道真に引っ掛けた嫌味に、歌仙兼定は弱り切った表情を浮かべた。一応探してはみたが入手できなかったと白状して、代わりの品を短刀に差し出した。
 邪魔なら降ろせばいいのに、彼はずっと小夜左文字を抱きかかえている。三色団子を袋から出す時は片腕で支えて、包みごと持たせた後は両腕で抱え直した。
「僕ひとりで、これを?」
 梅の香が、広い梅林を彷徨っていた。
 ほうっと安心できる匂いに舌鼓を打って、少年は少々意地悪な質問を投げた。
 麻紐を解き、出て来た団子は全部で二本。
 万屋で買ってきたものと分かる色艶を眺める彼に、打刀は困ったような、なんとも言いがたい変な笑みを浮かべた。
「できれば、食べさせてくれると嬉しいかな」
 正直に白状して、承諾を求める。
 赤子をあやすかのように左右に揺らされて、小夜左文字は団子の串を抓み持った。
「いいんですか?」
 普段から雅だ、なんだとうるさい男は、この食べ方を許せるのか。
 ふと浮かんだ疑問に首を捻り、目を細める。
 咲き誇る梅の花を眺めていた打刀は、視線に応じて頷いて、朗らかに微笑んだ。
「風流、だろう?」

ひとりぬる草の枕のうつり香は 垣根の梅の匂ひなりけり
山家集 春 43