春の陽気に誘われたのか、ひらひらと蝶が舞っていた。
白い羽を忙しく動かし、蜜を求めて庭を彷徨っている。いったいどの花を選ぶのか、ふと気になって、太郎太刀は目を泳がせた。
蝶の進路にある植物を探し、もっと手近なところにあったものに意識を吸い寄せられた。一瞬のうちに昆虫のことを忘れて、彼は不思議そうに首を傾げた。
「おや、これは」
屋敷の鴨居に頭をぶつけないよう屈み、敷居を跨いで縁側に出た。室内にいるよりも僅かながら圧迫感が薄れて、背高の大太刀は安堵の息を吐いた。
一旦は手前に戻した視線を前方に投げて、先ほど奇妙に感じた集団へと気持ちを切り替える。
「ふぁ、あ~~~」
そこに大きな欠伸が響いて、太郎太刀は咄嗟に自分の口を覆った。
自分が発したものではないと一秒後我に返り、微妙に気まずい気持ちで腕を下ろす。右に視線を投げるがそこには誰もおらず、彼の行動を奇異と見咎める存在はなかった。
目撃者がいなかったのにホッとして、改めて欠伸の主に注意を戻す。
「んん、むにゃ……ふう」
「ん~」
南に面した縁側で、短刀がふた振り、眠たそうな顔で座っていた。
丁度日が当たる時間帯で、この辺りはぽかぽか暖かい。日蔭に入ると肌寒さを覚える季節ながら、今日は風も弱く、過ごし易い一日と言えた。
一段低くなった地面では、真っ白い毛並みの虎が寛いでいた。立ち上がれば太郎太刀に迫りそうな背丈で、鋭い爪と牙を持つ猛獣だった。
もっとも今の姿を見ていると、野獣というよりは、ただの大きな猫だ。主人と定めた短刀の足元に陣取り、背中を丸め、前脚に顔を埋めていた。
毛並みは手入れが行き届き、ふわふわと揺れ動いている。性格も猫そのもので、己の体格を忘れて短刀にじゃれ付き、押し倒しているところを良く見かけた。
こちらは主と違い、眠っていなかった。
ゆったり過ごしているとはいえ、流石は獣、といったところか。太郎太刀が足を進めた瞬間、閉じていた右の瞼がぱっちり見開かれた。
主人に近付く者を警戒し、敵意がないかどうかを探っている。
疑り深く観察されているのを感じて、大太刀は両腕を軽く広げた。
武器は所持していないと教え、相好を崩した。それで納得したかどうかは分からないが、巨大な虎は再び目を閉じ、動かなかった。
「……太郎太刀さん?」
「お二方とも、眠そうですね」
代わりに愛らしい声が聞こえて、彼は顔を上げた。虎から視線を右にずらし、きょとんとしている短刀に小さく頷いた。
五虎退は縁側に腰掛け、足を軒下に向かって垂らしていた。靴は履かず、爪先は空中を泳いでいた。
その向こう側には小夜左文字がいて、頻りに目の下を擦っていた。
「えへへ。恥ずかしい、です」
けれどいくら擦ったところで、眠気は過ぎ去ってくれない。
再び欠伸を零した小夜左文字に代わって、五虎退が照れ臭そうに首を竦めた。
頬を爪の先で掻き、誤魔化しに脚を揺らした。前後に振って空気を蹴って、傍にいた虎に当たりそうになった。
ぎりぎりのところで空振りしたが、間近に迫る凶器に、虎は迷惑そうだった。身を捩り、逃げて、やれやれと言わんばかりに地面に突っ伏した。
抗議の代わりに太い尻尾を躍らせるが、飼い主に伝わったかどうかは甚だ疑問だ。
何気ない彼らのやり取りに目を細めて、太郎太刀は慎重に手を伸ばした。
潰してしまわないよう注意を払い、五虎退の頭を撫でる。
「わわっ、くすぐったいです」
いきなり髪を触られた少年は、けれど嫌がりはしなかった。くすくす笑って受け入れて、大きな手に手を重ねてきた。
「太郎太刀さんの手、おっきいです」
「そればかりが、取り得のようなものです」
「いいなあ。羨ましいです」
指の長さを比較して、短刀が呟く。
それについつい皮肉で応じたが、眠たげな少年には通じなかった。
純粋に感心されて、太郎太刀は己の卑屈さを反省した。嫌味を言われたわけではないのに、斜に構えていたと悔やんで、もう一度、詫びのつもりで五虎退の頭を撫でた。
ふわふわの毛並みを軽く梳いて、最初に感じた疑問を思い出して首を捻る。
「昨晩は、眠れなかったのですか?」
連続する大欠伸は、睡眠不足の証しだ。
麗らかな陽気の中で睡魔に誘われた、という理由だけではなさそうな雰囲気に、大太刀は眉を顰めた。
日向ぼっこするには最適の日であるが、眠いのであれば部屋に戻って、布団を敷いた方が良い。
そんなお節介も心の中にあって、問わずにはいられなかった。
本丸では毎晩のように酒宴が催され、太郎太刀の弟である次郎太刀は、頻繁に参加していた。もしや彼らもその輪に加わっていたかと想像するが、五虎退の兄である一期一振は、その辺りに異様に厳しかった。
短刀は、見た目こそ子供だけれど、実際は数百年を生きる付喪神だ。人間が定めた約定に縛られるものではなく、飲酒は各自の判断に任せられていた。
それなのに、あの太刀は弟たちが宴席に加わるのを快く思っていない。
彼ほど声には出さないものの、小夜左文字の長兄も、似たような感覚を有していた。
弟の見た目が幼いと、なにかと大変だ。その点太郎太刀は、まだ気が楽な方だった。
明け方近くまで続く賑わいを想像し、首を捻る。
だが五虎退は苦笑して、顔の前で手を振った。
「いえ。僕たち、昨日は」
「朝まで、出陣でした……ふあぁ」
どう言おうか迷っている間に、小夜左文字が言葉を継いだ。
腰から上を捻って振り返った五虎退は、すぐに姿勢を戻し、太郎太刀に向かって首肯した。
その通りだと態度で告げて、首の後ろを掻いた。左右で揃えた膝をもぞもぞ動かして、何故か恥ずかしそうだった。
「ああ、それで」
余計な文言を一切含まない説明は、しかしとても分かり易かった。大太刀は成る程、とあっさり納得して、戦場から戻ってすぐの少年らに愁眉を開いた。
そういえば、そうだった。すっかり失念していたと恥じ入って、彼は疲労が抜け切らない短刀に肩を竦めた。
幕末の一大事変は夜の戦闘が主で、出陣に際する編成も、これに準じた刀種が割り振られた。
短刀と脇差の出番が一番多く、続けて打刀がそこに加わった。
太刀や、大太刀といった身体が大きな刀は、屋内戦闘では武器を振り回せない。しかも最悪なことに、彼らは夜目が利かなかった。
馬に乗って野を駆け回る戦場であれば、身体が大きく、一度に複数の敵を薙ぎ払える大太刀や薙刀が有利だ。しかし狭い京の町を駆け回るのに、彼らはとても不向きだった。
お蔭で最近、太郎太刀の出陣は減っていた。それはそれで良いのだけれど、時間を持て余す機会が増えたのには困惑させられた。
次郎太刀のように、昼夜逆転の、酒宴中心の生活は送れないし、送りたくない。
こうやって屋敷内をぶらぶらしていたのだって、手持ち無沙汰だったからだ。
「帰ってきてから、ひと休みしたのですか?」
三条大橋への出陣は、陽が暮れてから、陽が昇るまで。
次々襲ってくる敵を薙ぎ払い、隠密裏に行動せねばならない。実に気忙しく、休まる時の無い戦場は、常に緊張を強いられ、短刀らの気力を削ぎ落とした。
もっとも太郎太刀は、そこに出向いたことがない。持ち合わせた知識はどれも、他者から伝え聞いた話でしかなかった。
彼らがどんな風に戦っていたか、想像が難しくて、言ってやれることは少なかった。
自分がそこに居れば、戦闘は楽になるのだろうか。否、足手纏いにしかならず、却って迷惑になるだけだ。
疲れ果て、眠そうにしている短刀を見るのは、心苦しい。なにか役に立てないかと考えるが、碌な言葉が出てこなかった。
やむを得ず、当たり障りないところを口にした。
短刀らが返答するまでに、少し間があった。
「ええと、僕は……畑の、お手伝いが」
「僕は、馬の世話があるので」
頭が半分眠っているようで、理解に時間が必要だったらしい。
間誤付きながら五虎退が答えて、小夜左文字がため息と共に呟く。それに驚き、目を見張り、大太刀は唖然としながら立ち尽くした。
「それは、大丈夫なのですか」
明け方、一番鶏が鳴く頃に帰還して、そのまま休まず内番業務。
それはあまりにも酷な話で、にわかには信じ難かった。
まさかそんな状況になっているとは夢にも思わず、愕然とさせられた。任務を割り振った審神者に対しても不信感が生まれて、太郎太刀は浅く唇を噛んだ。
子供たちが過酷な状態にあると知っていたら、当番など、自分がいくらでも代わってやったのに。
どうして手助けが必要だと言わないのか。
八つ当たりに近い感情まで芽生えて、大太刀は苦笑している少年に視線を落とした。
「大丈夫、って、言いたいんですけど。いち兄が、休んでなさいって」
「僕も、江雪兄様が、危ないからと」
ただどうやら、そう思ったのは彼だけではなかったらしい。
短刀の兄らが、すでに動いた後だった。見ていて危なっかしい弟らを追い払って、こうしている間も、汗水流して働いていることだろう。
鍬を間違って足に振り下ろしたら、怪我をするどころではすまない。
ぼんやりしていて馬に蹴られでもしたら、それこそ一大事だ。
心配は、杞憂だった。
さすがは一期一振に、江雪左文字。彼らは大太刀が知らぬところで、弟たちの状況を、しっかり把握していた。
「そうですか。ならば、良かったです」
深く安堵して、肩の力を抜いた。胸を撫で下ろし、笑みを浮かべていたら、目が合った五虎退が照れ臭そうにはにかんだ。
「だから、小夜君と、ちょっと休憩して。あとでまた行こうね、って」
「はい。部屋に戻ったら、夕方になってしまうので」
「僕も、お布団で寝ちゃったら、夜まで起きられない気がします」
ふた振りが自室ではなく、縁側にいたのは、そういう理由からだった。
本格的に休んだら、昼を過ぎてもきっと目覚めない。内番仕事を兄任せにするわけにはいかないので、少しでも手伝いたい、という心理が働いていた。
なんと健気なのかと、驚きを隠せない。
次郎太刀も、少しは彼らを見習うべきだ。
そんな、今はどうでもいいことを頭の片隅でちらりと考えて、太郎太刀は口元を緩めた。
「無理は、禁物ですよ」
「ふぁい。分かって、ます……うにゅ……」
頑張る子供たちを応援したいが、無茶をさせたいとは思わない。
そこはきちんと管理するよう言って、彼は舌足らずな返答に目尻を下げた。
喋っている間はそうでなかったが、会話がひと段落した途端、眠気が戻って来たらしい。
途中で大きな欠伸を挟んだ五虎退が、両手で目の下を擦り、頭をぐらつかせた。その足元では白い虎が飼い主の様子を窺い、目を光らせていた。
鋭い眼光ながら、ぱたぱた揺れる尻尾はどこか呑気でもある。
五虎退が倒れそうになったら、受け止めるつもりでいるのだろう。舟を漕ぐ最中に前のめりになって、縁側から滑り落ちる危険性は皆無ではなかった。
こちらも、健気だ。
言葉はなくとも、両者の間には信頼がある。それを微笑ましく思って、太郎太刀は歩き出そうと右足を浮かせた。
「おっと」
直後、大きくふらついた五虎退に、咄嗟に手が伸びていた。
膝を曲げて軽く屈み、ごろん、と縁側に転がりそうだった体躯を支えた。まずは右手で肩を捕まえ、出遅れた左手を背に添えて、一瞬で肝が冷えた男はホッと息を吐いた。
軒下の虎も、ぐん、と身体が伸びあがっていた。前脚が縁側に掛かる寸前で、主人の無事を悟り、程なくして引っ込んでいった。
たった今まで喋っていたのに、もう眠ってしまったのか。
「大丈夫ですか?」
思わぬことに絶句して、問いかけるが、明朗な返事は得られなかった。
「うにゅ、むう……」
鼻から息を吐き、目を瞑った短刀が顰め面を作った。大太刀の手の中で身じろいで、そばかすが残る頬をぴくぴく引き攣らせた。
瞼は降りたままで、開かなかった。くるん、と湾曲した前髪が右目に被さり、長い睫毛を擽っていた。
「これは、参りました」
咄嗟に庇ったはいいものの、この後をどうするか、なにも考えていなかった。
試しに五虎退の肩を押し返してみたが、残念ながら背筋は真っ直ぐ伸びなかった。手を離せば途端にぐらぐら揺れて、安定せず、今度は逆方向へと傾いた。
「む」
「小夜左文字、平気ですか」
「……重い、です」
そちらにいた短刀に寄り掛かり、ずるっ、と頭を下げた。凭れかかられた方は反射的に受け止めたが、表情はとても迷惑そうだった。
彼自身、眠くて仕方がない。それで元々不機嫌だったのに、表情は険しくなる一方だった。
率直な感想を述べて、小夜左文字は言い切ると同時に五虎退を突き返した。仕草は乱暴で、加減が出来ていなかった。
「危ないですよ」
五虎退の身体を、まるで鞠かなにかのように扱っている。仲間なのだからもっと大事にするよう叱って、太郎太刀は本格的に身を屈めた。
片膝を着いて座り、倒れ込んできた短刀を優しく抱きしめた。そっと顔を覗き込めば、相変わらず瞼は閉ざされていた。
こんなにも揺らされて、目覚めないのは凄い。
修行に出て、精神的な成長を遂げた彼らだが、こういうところも図太くなったらしい。
妙なところで密かに感心して、大太刀は牙を剥いて唸る虎に手を振った。
小夜左文字も、悪気があってやったのではない。どうか怒らないで欲しいと代わりに謝って、ぐっすり眠る少年の横に腰を沈めた。
両足を縁側から垂らせば、踵までしっかり地面に着いた。
「参りました。草履を履くべきでしたか」
短刀たちの足が、いずれも宙に浮いていたので油断した。
自らの身長を見誤った大太刀は、白い足袋を一度持ち上げ、諦めて地表に降ろした。
この程度の汚れなら、洗えば問題ないだろう。素足で庭を駆け回り、そのまま屋敷に入ろうとして叱られている短刀よりは良い、と腹を括って、太郎太刀は己の膝に五虎退を転がした。
「少々固いかもしれませんが、許して下さい」
どうせこの後、やることはない。
暇を持て余している身だから、もうしばらく、彼らに付き合うのも悪くなかった。
枕にするには些か高く、弾力にも乏しい太腿だが、他に提供できるものがない。
そこは我慢してもらうことにして、ぐっすり眠っている五虎退の頭を撫でた。
下半身は縁側に、上半身は大太刀の膝に。
腰をやや斜めに捻って寝転がった少年は、最初こそ戸惑った雰囲気だったが、すぐに顔を綻ばせた。
優しく撫でてくる手も気に入ったようで、眠る姿は幸せそうだ。しどけなく笑っており、口元は緩みっぱなしだった。
「……ずるい」
「はい?」
軒下から窺っていた虎も、ようやく安心したらしい。大太刀の一挙手一投足を見守って、大人しく引き下がった。
その代わり、別の存在が機嫌を損ねた。
声に反応して顔を向ければ、目の下に傷を持つ少年が、口を尖らせ、不貞腐れていた。
普段からむすっとした表情が多い小夜左文字だが、それよりも一回りも、二回りも酷い形相だ。河豚を真似てか頬は膨らみ、雑に結われた髪が棘のようだった。
「これは、また」
なんとも珍しいものを見せられて、驚きが否めない。
あまり表情が変わらないと定評がある太郎太刀ながら、こればかりは堪えられなかった。
噴き出しそうになって、必死に耐えた。笑うのはあまりに失礼と我慢して、不満顔の少年に手を差しだした。
「私で良ければ、どうぞ」
五虎退が占領しているのは左足で、右半分は開いていた。多少狭くはあるが、短刀ならば充分枕に出来そうで、その気があるなら使うよう進言した。
ところが、だ。
「べつに、いいです」
小夜左文字はぷいっとそっぽを向き、予想と違うことを言った。一段と拗ねて膨れ面を作り、縁側から垂らした足をぶらぶらさせた。
両手は後ろに添えて、ぐっと胸を反らした。合間に大きな欠伸を二度、三度と続けて、太郎太刀を窺い、即座に顔を背けた。
五虎退ばかりに優しくするので、機嫌を損ねたのかと思ったが、違うのか。
均等に接するべきだったと反省して、自分なりに考えてみたのだけれど、短刀の反応はいまひとつだった。
行き場をなくした手を引っ込め、大太刀は眉を顰めた。小首を傾げ、ひょこひょこ動く藍の髪を見詰めるが、答えは出なかった。
陽だまりの下で、五虎退はすやすや眠っていた。庭先を舞う蝶はいつの間にか二匹に増えて、互いに追い越し、追い抜きながら、飛び回っていた。
馬の嘶きが聞こえた。鳶が餌を探し、甲高く鳴いている。鯉が池で跳んだのか、ぴちゃん、と水の跳ねる音がした。
屋敷の中からは笑い声がどこからともなく響き、けたたましい足音が一瞬で通り過ぎた。道場から勇ましい雄叫びが轟き、昼餉の支度中らしき匂いが鼻腔を擽った。
静かなようで、ここはとても賑やかだ。
神社に奉納されている間も、周囲はなにかと騒々しかった。だが本丸の雰囲気は、それとはまるで異なっていた。
己は人の手に扱える代物ではないと思っていた。よもや再び戦場に立つ日が来るとは、思っていなかった。
誰にも扱えぬのであれば、自らの手で振るえばいい。
審神者に与えられたこの現身は、そう語っているようだった。
だが、なにごとも大きければいい、というものではない。
実際問題、それで彼は夜戦に出られない。屋内で刀を振り回そうものなら、柱や天井に突き刺さり、身動きが取れなくなった。
敵を倒しにいった筈が、的になってどうする。
分かりきった結末を、この手で覆してやる、と息巻けるほど、彼は無謀にはなれなかった。
「小夜左文字」
ぽかぽか陽気は凍てついた心を解きほぐし、安らぎをもたらした。
昨晩はたっぷり眠った太郎太刀でさえ、ここにいたら眠ってしまいそうだった。
夜を通して一睡もせず、闘い抜いた少年なら、どうだろう。こっくり、こっくり舟を漕ぐ短刀に相好を崩して、大太刀は空いている腿をぽんぽん、と叩いた。
「いいです」
誘ったが、断られた。小夜左文字は仏頂面で吐き捨てて、ぶすっと小鼻を膨らませた。
剣呑な目で睨んでくるが、迫力はあまりない。睡魔に負けて眼はとろん、と蕩けており、瞼は頻繁に下がって、視界を塞いでいた。
顎が泳ぎ、大きな頭が不安定に揺れている。
近いうちに、五虎退の二の舞となるだろう。怪我をさせないためにも、早いうちに対策を採りたかった。
けれど、彼のことだ。無理矢理寝かせたところで、突っぱねられるのが関の山だ。
なんとか自発的に、横にさせる術はないものか。
悩み、考え、太郎太刀は強がりな短刀の頬を擽った。
少々距離はあったが、腕が長いお陰で無事届いた。被さっていた癖だらけの髪を払い除けて、傷跡の下をそっと撫でた。
小夜左文字は嫌がったが、本格的に逃げようとはしなかった。迷惑そうに渋面を作っただけで、生意気に噛みついても来なかった。
「ご覧の通り、私は図体ばかりが大きいもので。あなた方のように、俊敏さはありません」
「……はい」
「池田屋での歴史修正主義者の動きを阻止する役目も、みなさんのようには果たせそうにありません」
「そう、ですね」
江戸幕府の滅亡は、この国の歴史でも、五本の指に入る重要事項だ。
その中で起きた一事変は、全体で見れば些末なものかもしれない。だが後の世に大きな影響を及ぼしたのは確かで、見過ごせなかった。
時間遡行軍も、それが分かっているから、改変を目論んだ。重点的に攻めて、刀剣男士の妨害を受けても諦めなかった。
戦いは苛烈を極め、一進一退が続いている。太郎太刀は、そこに加われない。仲間が多数傷つき、血を流して苦しんでいるのに、ただ眺め、見守ることしか許されなかった。
正直言えば、悔しい。
淡々と相槌を打つ小夜左文字は、大太刀が語る内容が事実だからこそ、他になにも言わなかった。
否定するような真似はしない。下手な慰めをしたところで誰も救われないのを、彼はちゃんと知っていた。
しかも眠いから、余計に頭が回らないのだろう。
無駄口を叩かない寡黙さに苦笑して、太郎太刀は改めて手を差しだした。
「ですので、今、私がみなさんに出来ることは、これくらいです」
自嘲の笑みを零し、膝に来るよう促す。
喜んで枕になると進言した男に、本丸一小柄な少年は惚けて目を丸くした。
「太郎太刀さん、は」
目尻を強く擦って、短刀が口を開いた。
深く息を吸い、吐き出して、ぐらぐらしている頭を支え、瞳を伏した。
「役立たず、じゃ。ないです」
「……おや」
声はいつもより高く、掠れていた。
普段は意図して、あの低さを維持ているのだと分かった。他者に見くびられないよう、甘く見られないよう威嚇し、牽制するために、常から緊張しているのが伝わってきた。
今はそれが緩んで、本来の姿が少しだけ顔を出した。
復讐に用いられたとはいえ、もともと彼は守り刀。本丸に集う短刀の多くがそうであるように、小夜左文字の本質も、主君を慕い、想い、守る、そういうものであるらしかった。
今日は、驚かされてばかりだ。
たまの気まぐれも悪くないと密かに感心していたら、短刀が頬骨に親指を突き立てた。
爪で引っ掻き、痛みで眠気に抗おうとしていた。やり過ぎると表面が裂け、傷になる。血が出てからでは遅いと止めさせて、眠っているのか、起きているのか分かり辛い顔を覗き込んだ。
短刀はむすっと顔を顰め、鼻から勢いよく息を吐いた。
「僕は、いつも……前に出過ぎる、ので。はぐれた時。太郎太刀さんは、遠くから、でも。よく見えます」
「はあ」
そうして訥々と語られて、太郎太刀は瞠目した。
後から思えば間抜けすぎる相槌をひとつ打って、まじまじと小夜左文字を見詰め返した。
華奢な少年は不機嫌を隠さず、表情は険しいままだった。自虐的なことを口にした大太刀を眼差しで責めて、立ち上がったかと思えば、反対側へ回り込んだ。
そうしてどすん、と側頭部を高い位置にある肩にぶつけて来た。
寄り掛かられた。押し付けられた体重の分だけ上半身を揺らし、太郎太刀は目を点にした。
ぐりぐりとこめかみを擦りつけてくるのは、甘えているのか、怒っているのか。
顔を伏されてしまったので表情が見えず、彼の感情がどこに位置しているのか分からない。だからと次の行動に躊躇している間に、小夜左文字は自ら離れていった。
膨らんでいた頬を凹ませて、眼光鋭く大太刀を睨んで。
やがて彼は、糸が切れたかのようにぱたり、と倒れ込んできた。
「おや」
咄嗟に腕を掲げて、左膝の上を空にした。短刀の頭は見事そこに収まって、もぞもぞ動いた後は静かになった。
力尽きた、とはこういうことを指すのだろう。
五虎退同様、一瞬のうちに寝入ってしまった少年に肩を竦め、太郎太刀は顎を掻いた。
寸前に言われた内容をよく咀嚼して、目を眇める。
小夜左文字が言いたかった内容は判然としないながら、慰めようとしたのは間違いない。
広い平原が戦場となれば、隊列が乱れ、仲間と分断されることもある。検非違使が出現しての混戦ともなれば、事態は更に悪化した。
短刀は持ち前の俊敏さを生かし、先手を打つべく敵陣を掻き回すのが仕事だ。しかしその役目が行き過ぎると、敵陣で孤立する羽目に陥った。
臆病で慎重な性格ならば起こり得ないことだが、一部の短刀では良くある話だ。小夜左文字も、そう。熱くなると周りが見えなくなりがちだった。
けれど彼は、太郎太刀と出陣した時は、毎回自力で帰ってきた。なかなか見つからず、あちこち探し回ってようやく合流出来た、という話を頻繁に耳にしていたが、ついぞそんな事態は起こらなかった。
あれは、つまり、彼が先ほど語った内容が理由だ。
市街地や屋内戦でなければ、馬に乗っての出陣が基本。ただでさえ背が高い太郎太刀が騎乗すれば、その背丈は屋敷の屋根も迫った。
平地であれば、さぞや遠くからでも目についただろう。
「私は、旗印かなにかですか」
似たようなことは、岩融にも言えた。今剣があの薙刀を見失わないのは、同じ理屈なのかもしれなかった。
奇妙な役立ち方だが、悪い気はしない。
この大きな身体の有用性に気付かされて、目から鱗が落ちた気分だった。
すっかり眠ってしまった短刀は、大太刀の呟きに答えない。すうすうと寝息を立てて、頬を撫でても起きなかった。
太郎太刀が本丸に来たばかりの頃の彼は、復讐に餓え、本丸に集う仲間にさえ牙を剥いていた。目に入るものすべてが敵と言わんばかりの態度で、誰にも懐かず、弱みを見せようとしなかった。
あれからもう、二年近くが過ぎた。
神社に奉納され、神刀として過ごして来た悠久の時と比べれば、ほんの僅かな時間でしかない。けれど己の目で見て、耳で聞き、自身の足で歩んだここでの日々は、数百年分をぎゅっと濃縮したような濃さがあった。
この先決して忘れ得ぬと、確信を持って言えた。
小夜左文字が変わったように、自分自身も変わったのだろうか。
これまで指摘されたこともなく、意識して来なかった。だが気付かなかったうちに、いろいろと変化が生じているのかもしれなかった。
そう思うと、誰かに聞いてみたくなる。
「あ、五虎退。こんなところに」
うずうずして、首を伸ばした。通りかかる者がないかと視線を巡らせていたら、ほぼ真後ろから声が飛んできた。
軽快な声色は、成長期の少年のものだ。高く結った髪を揺らし振り向けば、五虎退と似通った服装の男士が立っていた。
両手を腰に当て、厚藤四郎が苦笑する。その陰に隠れていた乱藤四郎は、縁側に座す太郎太刀ごと弟を眺め、少し不思議そうな顔をした。
「珍しい組み合わせ……」
「そうでしょうか」
思ったことが、ついつい口に出てしまったらしい。
大太刀に問い返されてハッとして、彼は首を竦めて舌を出した。
「わあ、小夜までいる。そっか、こいつら、内番だったもんな」
その一方で厚藤四郎は、太郎太刀の横へ回り込み、歓声を上げた。自分の兄弟だけかと思いきや、もう一振りいたと知って驚いて、慌てて口を塞いで声を潜めた。
眠っている短刀を起こさないよう気を配り、太郎太刀に見つめられて小さく頷いた。幸いどちらもぐっすり寝入っており、この程度では目覚めなかった。
雑音が気に障ったのか、小夜左文字の鼻がぴくぴく動いたものの、瞼は閉ざされ、開かない。
滅多に寝顔を曝さない少年を物珍しげに見つめて、粟田口の短刀らは目を細めた。
「ここ、あったかいね」
「はい。こうして陽に当たっているだけで、神威が高まるようです」
「へええ。じゃあ、ボクも一緒にお昼寝しちゃお」
「ええ~。お前、さっき起きたばっかじゃねえか」
このふた振りも、共に夜戦に出ていたらしい。だが内番任務から外れていたので、今まで部屋で休んでいたようだ。
活動を再開させたばかりなのに、また日なたでひと眠りしようとしている。
言うが早いか大太刀の背中に寄り掛かった乱藤四郎に、厚藤四郎は呆れ顔だった。
けれど肝心の少年は、楽しそうに呵々と笑った。庭に背を向けて腰を下ろし、了解を得るより早く太郎太刀の右肩に頭を預けた。
「ごめんな、太郎太刀。うちの連中が」
「いいえ。今日は特に仕事もありませんし、構いません」
勝手極まる兄弟の非礼に、年長組としての責任からか、厚藤四郎が謝罪した。しかし大太刀は不要だと首を振り、預けられた体重に目を細めた。
それほど重くないので、苦とは思わない。むしろこうしている方が、背筋がぴんと伸びるようだった。
お墨付きを与えられ、乱藤四郎はしたり顔でほくそ笑んだ。床に広がっていた長い黒髪を掬い取り、布団の代わりか、己の膝に垂らした。
後ろ髪が弄られていても、太郎太刀には分からない。なにかやっているな、程度に受け止めて、意に介さなかった。
「ったく。だったら俺も!」
それを見ているうちに、段々羨ましくなってきたらしい。
最初は苦々しい表情だった厚藤四郎も、最後は嬉しそうに破顔一笑し、大太刀の背中に凭れかかった。
乱藤四郎の反対側に陣取り、座敷の敷居目掛けて足を伸ばした。踵を畳に押し付けて、爪先をゆらゆらさせながら楽な姿勢を探した。
帰還後に仮眠を取ったとはいえ、それは普段の睡眠時間の半分ほど。
日中も活発な彼らには不十分で、目を閉じた途端、短刀らはすう……と短く息を吐いた。
片方は俯き加減に、片方は天井を仰いで。
位置的に表情が見えないのを惜しみながら、太郎太刀は寄せられる心地良い重みに頬を緩めた。
気が付けば、五虎退の虎までもが、彼の足元に移動していた。
柔らかな毛並みが足首を擽り、陽だまり以外の熱が肌を通して伝わってきた。沢山の寝息に、鼓動が連なって、これが命の重みなのだと実感した。
「暖かい、ですね」
ただ座っているだけの時間は、退屈だった。
宝物庫で過ごした日々は、嫌いでないが、満たされず、空虚だった。
けれど。
「ん~、なんだい、兄貴。随分楽しそうじゃないか」
「やっと起きて来たのですか、あなたは」
「いいじゃん。細かいことは、気にしない、気にしな~い」
昨晩も遅くまで飲み騒いでいた次郎太刀が、酒の臭いをぷんぷんさせながら現れた。
昼餉を目前とした時間まで寝こけていた大太刀は、少しは短刀たちを見習うべきだ。だが始めようとした説教は早々にはぐらかされ、最後まで言えなかった。
仕方のない弟に深々とため息を吐き、彼はすっと目を細めた。抑えきれない感情を口元に浮かべて、すやすや眠る五虎退の頭を撫でた。
「ええ、そうですね。とても、ええ。楽しいです」
稲妻の光に行かむ天の原 はるかに渡せ雲のかけはし
物語二百番歌合 198
(源氏物語)