山肌を覆い隠すように、厚い雲が広がっているという認識はあった。
これから進む方角だというのに、嫌な予感しかしない。けれど今更引き返すわけにもいかなくて、不安を押し殺し、黙々と歩み続けていた。
「ああ、降ってきた」
先に声を上げたのは、同行していた男だ。藤色の髪を掻き上げての呟きに、小夜左文字はつられて視線を持ち上げた。
遠いようで近い場所に、ふわふわと何かが漂っている。数はさほど多くなく、小さな羽虫が集まっているような雰囲気だった。
「雪」
その認識が間違いであると悟るのに、ものの数秒とかからない。
ぽつりと零して、短刀の付喪神は天から落ちて来た欠片に目を瞬いた。
鉛色の雲が頭上に迫り、大地を押し潰そうとしていた。陽の光は一段と弱まり、日暮れ時よりももっと陰鬱な気配が辺りに漂った。
「これは、本降りになりそうだ」
「どうしますか、歌仙」
この先の道に、雨宿り、ならぬ雪止み待ちが出来る場所はなさそうだ。
峠に向かう一本道は芒野原の真ん中にあり、見える範囲に村はなかった。
場所柄、耕作に不向きと捨て置かれた場所だ。人の手は殆ど入っておらず、枯れ色の雑草が地表を埋め尽くしていた。
この道自体、通る者はあまりないらしい。踏み均されてはいるけれど、整備は行き届かず、窪んだ場所には雨水が溜まった跡があった。
道標の類もほとんどない。雪が降って辺り一面真っ白になった途端、道にはぐれて迷子になるのは間違いなかった。
その前に目的地へ辿り着きたいが、降り始めた雪を眺める男の動きは鈍い。
風もないのに左右に踊る白い粒を眺めて、打刀の付喪神は感極まった表情で白い息を吐いた。
気温も瞬く間にぐっと下がって、肌寒さが増した。小夜左文字は一瞬悩んだ末に、胸元を横切る赤い紐を引っ張った。
背負った笠を頭に被せて、結った髪が落ち着くよう角度を調整した。何度か試行錯誤を繰り返して、緩めた紐を顎で結び直した。
「風がないのが、幸いだろうか」
風向き次第では笠が煽られ、飛ばされそうになる。ただでさえ小柄で、華奢な体格を有している短刀は、遠方を仰ぎ、間近に視線を戻した。
歌仙兼定は完全に歩みを止め、降り止まない雪の景色に見入っていた。
「もう、梅も盛りだというのに」
感嘆の声を漏らし、ためしに掌を上にして差し出す。
中空を漂う雪のひとかけらを掴み取るが、指を解いた時にはもう、塊は融解していた。
冷たい雫がほんの一滴、肌の上に残るのみ。それもやがて張力を失い、しなやかで、それでいて無骨な手に吸い込まれていった。
乾いていた肌が、その部分だけ潤った。何本か交差する皺を親指でなぞって、刀でありながら風流を好む男は相好を崩した。
「歌仙、いきましょう」
「もう少し、お小夜」
真上を見れば、穢れを知らぬ白色が、灰色の中から次々と落ちて来た。
そのひとつが目に入りそうになり、慌てて瞼を閉ざし、彼は急かす声に首を振った。
寒さが酷くなり、雪で視界が閉ざされたら、本丸に帰れなくなる。
彼らは遠征任務を終えて、時間を行き来するべく設置された門を目指す途中だった。
歴史修正主義者側に不審な動きが確認されたそうで、時の政府の命令により、偵察を行った帰りだ。近々この一帯で大規模な一揆が起きるのだが、その周辺がどうにも怪しいらしかった。
しかし聞かされていたような変異は、今回は確認できなかった。
もしかしたら巧妙に隠されているのか、それとも見当違いの場所を探していたのか。
自分たちだけでは判断出来ず、一旦戻って報告することにした。証拠集めに無謀な真似をして、自らが歴史に介入する羽目になってはいけないからだ。
木乃伊取りが木乃伊になるなど、あってはならない。
そこの分別だけはしっかりつけて、帰路に就いたつもりだった。
時間を移動する際に目撃者が出てはまずいし、なにより巻き込むのは許されない。そのため、転移先は必ず人気がない場所が選ばれる。
今回も、そう。例外は過去に一度もなかった。
あと少しで本丸に帰れるというのに、足踏みしている暇はない。
小夜左文字は繰り返し急かして、道の真ん中で突っ立っている男の袖を引いた。
「歌仙」
「分かっている」
偵察任務は、大勢でやっては却って目立つ。
だからとふた振りだけで隊が組まれたのだが、こんなところでそれが災いするとは思わなかった。
体格的な差から、小夜左文字ひと振りでは打刀を動かせない。力任せに行えば、相手を傷つけかねなかった。
遠慮がちに、優しく促しても、歌仙兼定の足は重かった。地面にぴったり張り付いて、引き剥がすのは容易ではなかった。
「……知りませんよ」
雪はひらひらと舞い、その数を徐々に増やしていた。
灰色に濁った雲は着実に支配領域を拡大し、遠く、近く、前後左右を埋め尽くそうとしていた。
吐く息は益々白く霞み、小夜左文字の笠にも積もっていく。地面に落ちた瞬間、すうっと消えていくそれらは、場所によって微妙に溶け方が違っていた。
踏み固められた地面では、ひと呼吸置いて。
道端に残る枯れ草の上では、三拍も、四拍も置いてから。
打刀が羽織る外套に、白い点々が散っていた。藤色の髪にも多数絡みついて、まるで繭玉で飾られているようだった。
「久しぶりに見た気がするよ」
熱に触れた瞬間に瓦解する結晶を追い求め、歌仙兼定は両手を広げた。なんとか捕まえようと試みて、その度に溶けて消える儚さに目尻を下げた。
「そうですか?」
興奮気味の感想に、小夜左文字は冷たく言い返した。
雪など珍しくもないと鼻息を荒くして、被った笠の縁で打刀の腰を打った。
「あいた」
背後から一撃を加えて、強引に前へ進めようとする。
反動で首がグキッといった際の悲鳴は、歌仙兼定が代わりに叫んでくれた。
「酷いな、お小夜。なにをするんだ」
「歌仙が、もたもたしているのが悪いんです」
つんのめった男が抗議して来るが、酷い目に遭ったのは小夜左文字の方だ。
胴体と頭がきちんと繋がり、問題なく動くかどうかを確かめて、短刀は苦虫を噛み潰したような顔で鼻を愚図らせた。
口からだけでなく、鼻から吐き出した息まで曇り始めた。
一瞬で消え去る煙の数を増やして、彼は不機嫌に口を尖らせた。
並々ならぬ怒気を感じとり、歌仙兼定もさすがにまずいと思ったらしい。怯えた顔を瞬時に消して、道の前後に誰もいないのを確かめた。
「分かったよ。急ごう」
戻りが遅いようだと、本丸から探索隊が派遣されかねない。
任務以外の理由で遅れたと知れたら、給金を減らされてしまう。それは是が非でも避けたくて、打刀は渋々、根を張っていた足を地面から引き抜いた。
爪先に小石が当たり、音もなく脇に転がった。そのすぐ傍らに雪が落ちて、蹴られたのを嘆く石を慰めていた。
雪は降り止まず、順調に量を増していた。
里の方でも降り始めているのかと気になって、小夜左文字は遥か後方を仰いだ。
一揆が起きるのは、天候不順が続き、思うように作物が育たなかったからだ。だのに権力者は弱者を救済せず、己の利益のためだけに邁進した。
独善的で他者を顧みない為政者に、どうして人は従えるだろう。
積もり積もった不満はやがて大きなうねりとなり、濁流と化す。正義の心で民草を守ろうとした者は、訴えを聞き届けない上層部に失望し、戦うことで自身の正当性を証明しようとした。
だが、信じた者に裏切られた。
ここから約一年後に流される大量の血を憂いで、小夜左文字は一気に鈍った足取りに首を振った。
「お小夜」
今度は彼が、先を急ぐ男に促される番だった。
「はい」
もっとも、打刀ほど粘りはしない。
素直に頷き、従って、飢饉を嫌う短刀は笠を目深に被り直した。
昼食にと持って来た握り飯は、半分食べて、残りを道端の地蔵に供えて来た。
それが歴史改変に繋がる可能性を、考えなかったわけではない。それでも、なにかせずにはいられなかった。
とはいえ餓えた子供が握り飯ひとつ手に入れたところで、変わるものなどない。一時しのぎにはなるだろうが、その後が続かなければ、結局行き着く先は同じだ。
助けたつもりで、逆に惨い仕打ちをしたのかもしれない。
後悔が湧き起こり、胸がざわついた。
今ならまだ取りに戻れるような気がして、再び後ろに顔を向けた矢先だった。
「お小夜、知っているかい」
「……っ」
前を歩く男が、振り返らずに話しかけて来た。
ざ、ざ、と砂利道を行く足音が、薄暗い世界に飲みこまれていく。雪が降る音はほぼ聞こえず、短刀は一瞬空耳を疑った。
慌てて視線を戻せば、歩きながら歌仙兼定が腰を捻った。左肩を後ろに引いて、髪に降り積もる雪を払い落とした。
「雪の結晶は、六角形をしているそうだよ」
「はあ」
唐突過ぎる話題に、小夜左文字は惚けた返事しかできなかった。
緩慢な相槌を打った彼を叱るでもなく、責めるでもなく。打刀はそれだけ言って、あっさり姿勢を戻した。
「え?」
続きはないのかと、虚を衝かれた。
てっきり長々と講釈を垂れるとばかり思っていただけに、拍子抜けで、驚かされた。
うっかり声が漏れて、小夜左文字は目を丸くした。ぱちぱちと瞬きを繰り返して、寡黙に進む男の背中を仰いだ。
「雪が、あんなに」
彼の外套は表が黒いので、積もる雪の白さが他よりもいっそう際立った。柔らかな繊維に絡みついたそれらは、他と比べて簡単には溶けず、いつまでも打刀の傍に寄り添い続けた。
それがなぜだか無性に悔しく思えて、短刀は総毛立った。ぶるっと身震いしたのは寒さだけが原因と思えず、彼は無意識に唇を噛んだ。
「六角形」
感覚が麻痺しかけているのか、力を込めてもあまり痛くない。
簡単に歯型が消えない程度に噛み締めて、少年は視界を埋める雪の行方を追いかけた。
笠があるので、少し遠い。手を差し伸べてみたところで、掴みとれるものでないのは分かり切っていた。
降り始めた直後の打刀を真似てみるものの、やはり触れた途端に溶けてしまった。
ひんやり冷たい感触を掌で受け止めて、彼は霞み出した行き先に一抹の不安を抱いた。
一本道だが、ちゃんと辿り着けるのだろうか。
このまま白い雪に埋もれて、誰にも見つけてもらえぬまま、朽ちていくのではないだろうか。
それならいっそ、売りに出されて金に換えてくれた方が有り難い。
多くの無辜の民を屠った刀とはいえ、逸話が秀逸だからと高値で取り引きされてきた。自分にはそれくらいしか価値がないと自嘲して、小夜左文字は爪先に落ちようとした雪を蹴り飛ばした。
「本当なんですか、それ」
胸に積もる、鬱屈した感情を散らして、声を張り上げた。
笠を少し持ち上げて視野を広げて、開いていた打刀との距離を詰めた。
駆け足で近付き、隣に並んだ。笠の幅だけ隙間を作って、歩調を合わせてちょこちょこ足を動かした。
「さあ。けれど、先日読んだ本に、そうあった」
左横に来た短刀を一瞥して、歌仙兼定は頷いた。途切れた会話を今更繋いだ少年に相好を崩し、人差し指で空中に六角形を描いた。
得たばかりの知識を、披露したかっただけらしい。なぜ六角形なのか、どうすればそれが見えるようになるのかについては、一切言及されなかった。
短刀が気になったところが、まったく出て来ない。
随分と中途半端な情報だと呆れて、小夜左文字は得意げな横顔に肩を落とした。
「亀甲紋、ですか」
「やめたまえ、お小夜」
「なぜです?」
「声に出すと、出てきそうじゃないか」
ため息を吐き、真っ先に浮かんだ単語を口にした。打刀を倣って空中に図を描き、吉祥と知られる生き物を模した絵柄を呟いた。
それが、歌仙兼定には気に入らなかったらしい。
急に声を低くし、険しくされて、理由を問うた少年は遅れて嗚呼、と頷いた。
本丸には、亀甲貞宗という打刀がいる。貞宗派三振りの長兄で、眼鏡を掛け、常に穏やかな笑みを浮かべていた。
これだけなら、彼が好青年に思えるかもしれない。だがこの打刀は、本丸でも際立って特異な存在のひと振りだ。とても短刀たちの目に曝せない奇特な趣味を有しており、千子村正と並んで一部から問題視されていた。
物腰柔らかで、審神者に忠実な刀ではあるけれど、時に暴走して面倒を引き起こす。
前に嫌な思いをしたことでもあるのか、歌仙兼定の顔はとても渋かった。
「自分が言い出したのに」
「僕は、六角形としか言っていない」
そんな問題児を思い出すきっかけは、打刀のひと言だった。
小夜左文字は亀甲紋としか言っておらず、そこから亀甲貞宗を連想したのは、彼の勝手だ。だのに責任を押し付けられ、苦情をぶつけられるのは納得がいかなかった。
怒りをぶつけられ、それが短刀の中に染み込んだ。すっと溶けて、入り込んで、元からあった感情と混じって大きく膨らんだ。
「そんなに嫌なら、追い出せば良いのではないですか」
「あのね、お小夜。確かに苦手にしてはいるけれど、あれだって貴重な戦力だ。軽率な発言は、止めるべきではないかな」
「お行儀が良いですね、歌仙は」
「お褒めいただき、光栄だ」
気に食わない刀剣男士は、審神者に訴えて、排斥すればいい。
その主張をやんわり窘めた男に嫌味を言えば、皮肉を返された。
開き直りとも取れる返答に、小夜左文字はむっと頬を膨らませた。河豚を真似て顔全体をぷっくり丸くして、言い負かされてぷんすか煙を噴いた。
彼の周囲だけ気温が高くなり、肩に降り積もる雪が見る間に溶けていく。
直綴に水が染み込んで、黒色の中にさらに濃い斑模様が出来上がった。
指先が悴み、指の感覚も遠い。血の巡りが悪くなっていると自覚して、五本の指を何度か握り、開きを繰り返した。
「酷くなってきたな」
「歌仙が、もたもたするから」
視界は霞む一方で、遠くに見えていた山の稜線はすっかり覆われてしまった。上空で風が強まったらしく、轟々と獣に似た呻き声が鼓膜を震わせた。
灰色の枯れ草は溶けずに残る雪の重みに頭を垂れ、微かに見えた枯れ木はまるで骸骨のよう。美しかった雪景色は見るも無残に塗り潰されて、地を這う彼らを嘲笑った。
文句を言ったところで始まらないが、言わずにはいられなかった。
あの短い時間でどうこうなったとは思えないものの、ついつい口から出た苛立ちに、歌仙兼定は肩を竦めた。
「ああ、僕のせいだね」
無闇に反論して怒りを買うより、認めて論争を終結させる方を選んだ。
言い争っている場合でないのはお互い承知しており、今回は打刀が折れた格好だった。
「すまなかった、お小夜」
「分かれば、良いです」
払ったところですぐ集まる雪に辟易しつつ、男が小さく頭を下げる。
それで溜飲を下げて、小夜左文字はつっけんどんに言い返した。
あまり根深い問題にしたくなくて、彼の方もここで一区切りつけた。この話題はこれで終わり、とすっぱり断ち切って、勢いを増す一方の雪模様に渋面を作った。
時間を遡り、転送される先は決まって古い神社だ。しかも廃村などの打ち捨てられた場所が大半で、どれも歴史に名を残していなかった。
彼らが向かう先も、その中のひとつ。
権力争いに破れた貴族が落ち延びた先だが、結局逃げ切れず、一族郎党皆殺し。そうやって時代の波に埋もれて消えた、泡沫のような村だった。
もっとも、土いじりなどしたことがない輩が集まったところで、どうせ先は知れている。追っ手が放たれていなくとも、自然界の猛威を受け、自ずとに滅んでいたに違いなかった。
せめて神仏の加護をと望んで建てられた粗末な社は、長年風雨に曝され続け、朽ち果てる寸前だった。
びゅうびゅうと頭上で荒れ狂う風を聞き、小夜左文字はこの時代で最初に見た光景を思い出した。
訪ねる者もなく、放棄されて久しい廃墟の中に佇む鳥居は、時が時であれば丹色に塗られ、それはそれは立派なものになったに違いなかった。
だが見た目がどうであれ、あそこには確かな祈りがあった。
願いがあり、少なくない想いが籠められていた。
崩れかけた鳥居に、付喪神が宿った形跡はなかった。
それが良いことなのか、悪いことなのか分からなくて、彼は再び、通り過ぎた道を振り返った。
「ああ……」
地蔵に捧げた握り飯も、この雪ではどうなっていることか。
冷たく凍ってしまう前に、誰かの胃袋に収まっていればいい。たとえ一時の猶予であろうとも、死を迎える直前に、安らかな気持ちになっていてくれたらいい。
失われて良い命などない。だが覆せない。覆してはならない。どれだけ焦がれようと、求めようと、我欲の為に誰かを不幸にして良い道理はない。
この吹雪は、歴史を捻じ曲げようとした小夜左文字への罰か。
存在してはいけない握り飯をそこに置いた少年の、拭い難い愚行への報いか。
風に煽られ、雪の塊が頬に張り付いた。
それはすぐに溶けて水になり、隆起を辿って顎へと流れていった。
「お小夜、大丈夫かい?」
「平気です。これくらい」
唇に入りそうになったのを、引き結んで防いだ。顎を噛み締め、丹田に力を込めて、彼は心配そうな問いかけを突っぱねた。
勢いを増す一方の雪に翻弄され、方角を見誤りそうだった。踏み固められた道幅は狭く、ここから逸れたらきっともう戻れない。
黒衣を纏った枯れ木は後方へ遠ざかった。目的地まであとどれくらい残っているのか、距離感がまったく掴めなかった。
すでに三歩もはっきり見えず、物の輪郭が辛うじて掴める程度。すれ違う人があったとしても、直前になるまで、お互いに気付けそうになかった。
かといって立ち止まり、嵐が落ち着くのを待つ選択肢はない。
地表には溶け損ねた雪が集まり、一歩踏み出す度にざく、ざく、と霜を踏むような音がした。
歌仙兼定は爪先が覆われた沓だが、小夜左文字は草履だ。
平気だと強がってはみたものの、進めば進むほど指の感覚が失われ、思うように力が入らなかった。
「こんなことなら、脚絆にしておくんだった」
足袋を穿き、足首までを荒縄で結んでおけば、ここまで苦労せずに済んだだろう。
本丸の気候がすっかり春めいていたので、油断した。この季節、場所によってはまだまだ雪が深いのだった。
この国の広さを思い出して、彼は後悔に臍を噛んだ。
「ちょっと、失礼するよ」
「歌仙、なんです……――うわあっ」
そんな短刀の耳に、いささか場違いに思える暢気な声が響いた。
なんだ、と思って顔を上げた瞬間には、ひょい、と持ち上げられた。軽々と扱われて、小夜左文字は急な体勢の変化に素っ頓狂な声を上げた。
いつだって感情を押し殺し、表情を変えない短刀が、だ。甲高く叫んで、驚愕に目を丸くした。
滅多に笑わないと評判の少年の悲鳴に呵々と笑って、悪戯を仕掛けた張本人は軽すぎて心配になる体躯を抱きかかえた。
小夜左文字が被る笠が自身にも重なるように、胸でなく、肩の位置まで高く掲げた。華奢な肢体を身体の中心でなく、やや右に寄せて支え、行軍を邪魔する雪の影響を少しでも排除しようと試みた。
「ああ、もう。急に、びっくりさせないでください」
「ちゃんと断りを入れただろう?」
「あれは、断ったとは言いません」
確かに前置きはあったが、なにをするつもりかは教えられなかった。
あれで驚くな、という方が無理な話だ。本日二度目の煙を噴いて、小夜左文字は雪まみれの打刀の髪を掻き回した。
爪を立てて痛めつけると同時に、降り積もっていた白いものを払い落とした。藤色の毛先はかなり内側まで湿っていて、水分を吸って重くなった分、いつもより膨らみが落ち着いていた。
「しばらく、我慢してくれるかい?」
「待ってください。歌仙、睫毛にも雪が」
「おや」
位置や力加減の調整で何度か揺らされ、その都度小夜左文字の身体が雪の中で踊った。振り落とされないよう左腕を逞しい背に回して、彼は早速歩き出そうとした男を引き留めた。
髪に積もっていた分は退かしたが、それ以外の場所にも沢山雪が張り付いている。黒一色のはずの外套も、今では白い部分の方が多かった。
果ては眉毛、睫毛にまで、ごく少量だが小さな結晶が張り付いていた。
気温が下がったから、溶けずに残っているのだろう。それとも一旦溶けて、また凍ってしまったのか。
その辺りについては、短刀には知識がないので分からない。
無事本丸へ帰り着けたら、詳しい刀を探して聞いてみよう――雪が六角形な理由も、ついでに。
「あ」
「ん?」
真っ白い吐息を零し、小夜左文字は恐る恐る利き手を伸ばした。
睫毛、と言われて素直に目を閉じた打刀は、聞こえた声に首を傾げ、右の瞼だけを持ち上げた。
「六角形」
「お小夜?」
「本当だったんですね」
そこに、興奮した短刀の声が響いた。鼻息を荒くして、胡乱げな男に目を細めた。
頭を左右に揺らし、笠が重くなっている原因を地面に振り落とした。どさどさと小さな塊がいくつも砕け散るのを無視して、彼は歌仙兼定の目元を擽った。
ほんの一瞬だけれど、結晶が見えた。
亀甲紋に花菱を収めたような、そんな形だった。
「お小夜だけ、狡いな」
「綺麗でした、歌仙」
残念なことに、打刀にはそれが見えなかった。自身の睫毛に張り付いていたものなのに、あまりにも近過ぎたのが災いしてか、最後まで焦点が合わなかった。
小さな結晶は、短刀の吐息で形を失った。小指の先ほどもない雫となって、落ちる直前、小夜左文字に掬い取られた。
「お小夜の顔に、雪は……ないね」
折角の好機を逸して、男は悔しそうに言った。
ずい、と首を伸ばして覗きこまれて、苦笑を禁じ得なかった。
「また、機会があります」
「そう願おう」
吹き荒れる雪風の中では、とてものんびり結晶を観察できない。
そしてこれから向かう本丸は、すっかり春の装いとなっているので、こちらも観察対象を得られそうになかった。
望みを叶えるには、数か月後の、次の冬の訪れを待つしかない。
だが彼らにその時が巡ってくるかどうかは、誰にも分からなかった。
だから願う。
遠い先の約束を交わす。
彼らは刀剣男士。時を遡り、歴史改変の目論見を阻止するべく戦うもの。
故に彼らは、数多の時代、道半ばで倒れた命を救うことすら許されない。
散りゆく命に背を向けて、顔も知らぬ誰かが、生きている間に見るのも叶わなかった景色を眺める。そうやって数多の死を悼み、己と、己らが目を背けてきた者たちへの慰めとした。
「そうです、歌仙。六角形で、思い出しました」
雪は止まず、降り積もる。
すぐに重くなる笠を何度も叩いて、小夜左文字は声を弾ませた。
罪悪感と後悔を雪と一緒に地面へ落とし、真っ白い息を吐いて、打刀の赤くなっている耳に顔を寄せた。
風に声が流されぬよう、手で壁を作った。歌仙兼定は小首を傾げ、灰と白が混じり合う世界で瞬きを繰り返した。
「なんだい、お小夜」
足を止めれば、もう動けなくなりそうだった。そうならないためにも、一歩一歩前へ進んで、視線だけを脇へ流した。
「蜜蜂の巣も、六角形、です」
そんな彼と目を合わせ、小柄な短刀が秘め事のように囁く。
最後に首を竦めて目を閉じた少年に、打刀は一瞬ぽかんとして、すぐに破顔一笑した。
「ああ、それはいい。帰ったら葛湯を作ろう」
蜂蜜をたっぷり入れて甘くした葛湯は、冷え切った身体を温めるのにも最適だ。
妙案だと深く頷き、歌仙兼定は小夜左文字を抱き直した。落とさないようしっかり腕を回して、一歩の幅を広くした。
道を覆う雪を蹴散らし、獣のように駆ける。
その首にしがみついて、短刀は頬を緩めた。
己の浅ましさ、罪深さを雪の向こうに投げ捨てて、祈るように頭を垂れた。
雁がねは帰る道にや迷ふらん 越の中山霞隔てて
山家集 春47
2017/03/05 脱稿