嘆かば人や 思知るとて

遠くから声がして、足を止めたのは気まぐれだった。
 名前を呼ばれたわけではなく、だから誰に話しかけているのかまでは分からない。自分が目当てとは限らず、無視して通り過ぎようかとも考えたが、あまりにしつこく続くので、振り返らずにはいられなかった。
 これで他の誰かを呼んでいたのであれば、かなり恥ずかしい。
 自意識過剰と笑われるのを覚悟で腰を捻って、小夜左文字は見えた姿に目を瞬いた。
「お~い」
「鯰尾藤四郎さん?」
 左手をぶんぶん振り回し、駆けて来たのは粟田口の脇差だった。長い黒髪を左右に躍らせて、悪戯好きの少年は残っていた距離を一気に詰めた。
 息を切らして、全力疾走だった。小夜左文字の手前で速度を緩め、衝突を回避し、胸に手を当ててぜいぜいと苦しそうに咳き込んだ。
「ああ、よかった。止まってくれた」
「僕になにか、用ですか」
 彼の目的は、自分で間違いなかった。
 恥をかかずに済んだのにまずホッとして、左文字の短刀は怪訝に眉を顰めた。
 小首を傾げ、前屈みで呼吸を整えている脇差に見入る。視線を気取った少年はすぐに顔を上げ、顎を拭って唇を舐めた。
 咥内の唾液を飲み干して、深呼吸して、背筋を伸ばした。よくよく見れば彼の右手には、風呂敷包みがぶら下がっていた。
 紺色で、柄はない。四隅を集めて結びあわせているが、その結び目は大いに雑だった。
 小夜左文字も髪や襷を結ぶのに、片方の輪が大きくなる癖がある。毎日直そうと努力するのだけれど、どうしても利き腕に力が入ってしまって、左右均等にするのは難しかった。
 この風呂敷も、そういった感じだ。不慣れな者が結んだというのが、ひと目で分かる出来栄えだった。
「はい、どうぞ」
「え?」
 その風呂敷包みを、やおら突き出された。
 思わず受け取ってしまって、小夜左文字は目を丸く、ぱちくりと見開いた。
 鯰尾藤四郎は楽しそうに目を細め、驚いている短刀にしてやったりと口角を持ち上げた。不遜な笑みで得意げに胸を張り、長い髪で空気を掻き回した。
「小夜君のおどろき顔、いっただっき~」
 珍しいものを見たと歯を見せて、大声で言い放つ。
 親指を立て、良い表情だったと褒められても、さっぱり意味が分からなかった。
 さては鶴丸国永の企みか、と疑惑が生じて、小夜左文字は大慌てで左右を見回した。
 念のためと頭上も確認して、足元も念入りに調査した。穴を掘り、潜り込める構造になっていないのを確かめて、短刀はようやく脇差に向き直った。
 その頃には鯰尾藤四郎も、真顔に戻っていた。何を警戒されているのかを予想して、顔の前で手を振り、そういう類ではないと苦笑交じりに告げた。
「いや、さあ。うち、兄弟多いじゃない?」
「……はあ」
「それで、遠征ついでによくお土産を買ってくるんだけど。間違えて、多く買ってきちゃってさ」
「はあ」
 三個入りの箱詰めのものを、四つ買ったつもりでいた。
 ところがいざ蓋を開けてみれば、中には四個ずつ、入っていた。
 実際は三箱で良かったのに、ひと箱余ってしまった。これでは弟たちと、脇差の兄弟でぴったりだった土産が、余分を取り合い、争奪戦になってしまう。
 喧嘩にならないよう、毎回数を調整していた。だのに今回は、得をした形だけれど、計算を誤った。
 一期一振や鳴狐を頭数に加えても、何個か残ってしまう。
 そんな説明を先にされて、小夜左文字は風呂敷に収められた箱を見詰めた。
 大きさの割に、ずっしりと重い。饅頭の類と想像して、彼は期待混じりの眼差しに半眼した。
「お代は、いくらですか」
 要するに彼は、これを引き取れ、と言っているのだ。
 弟たちに知られる前に、処分したいとの考えだろう。ついでに使い過ぎた分の回収も目論んでいると悟り、先回りして訊ねた。
 けれど。
「え? 要らないよ?」
 頭の上から素っ頓狂な声が降って来て、用心深い短刀はきょとんとなった。
 鯰尾藤四郎も、ぽかんとした表情をしていた。間抜け顔を晒して、絶句していた。
 お互い惚けたまま見詰め合って、しばらくの間沈黙する。
 先に我に返ったのは、粟田口の脇差だった。
「別に、そういうのは良いよ。小夜ちゃんには、美味しいごはん、作ってもらってるしね」
「僕が作っているわけでは」
「同じだって。そうそう、風呂敷は、骨喰に返してくれたらいいから。じゃあね~」
 くれてやるから金を寄越せ、という気は、さらさらなかったらしい。あっけらかんと言って、鯰尾藤四郎はひらりと手を振った。
 本丸に暮らす大勢の刀の胃を満たす食事は、刀剣男士たちが交代で作ることになっている。だが一振りでは到底手が足りるものではなくて、見るに見かねて手伝いを買って出る刀もいた。
 小夜左文字は、その貴重な一振りだ。暇だから、なんだのと理由をつけて、週の半分くらいは台所に立っていた。
 包丁を主に握る役ではないけれど、彼がいなければ手順が滞る。協力し合って作っているのだから、短刀の存在は重要だった。
 言いたいことだけを言って、鯰尾藤四郎は踵を返した。来た時同様駆け足で、パタパタ足音立てて去って行った。
 この後用事でもあるのか、随分と急いでいる。置いて行かれた少年は小さくなる背中を呆然と眺め、手元に残された風呂敷を撫でた。
 縮緬素材で、触り心地は滑らかで、柔らかかった。
 立ったままで失礼と思いつつ、結び目を解いた。広げた風呂敷は、実際は無地ではなく、折り返されて隠れる場所に小さな紋が入っていた。
 それであの台詞だったようだ。骨喰藤四郎の紋を指でなぞって、小夜左文字は呆れて嘆息した。
 箱の中身は、予想通りずんぐり丸い饅頭だった。
 中身は餡か、或いは栗か。外側の皮は濃い茶色で、下半分にだけ芥子の実が塗されていた。
 一個辺りの大きさは、かなりのものだ。短刀の拳よりやや小さいくらいで、とてもひと口では食べられなかった。
 岩融や、石切丸たちなら可能かもしれないが、小夜左文字ではまず難しい。一個食べきるだけで、相当腹が膨れてしまいそうだ。
 これは、夕餉前に食べてはいけないものだ。日暮れまでの残り時間を考えると、今すぐどうにかしないと、後で困ることになる。
「どうしよう」
 受け取ったはいいけれど、自力で処理するには数が多すぎだ。
 ひと振りでこれを食べきるのは、どう考えても不可能だった。
 となれば、誰かに引き取ってもらうしかない。幸い、鯰尾藤四郎は代価を請求して来なかった。彼としても、まさか小夜左文字一振りで食べ尽くせるとは思っていないはずだ。
 遠慮なく、皆で分け合って食べることにしよう。
「そうなると、だ」
 悩みがひとつ解決した途端、次の悩みが生じてくる。
 なかなか心休まる時が来ないと肩を落として、小夜左文字は風呂敷を包み直した。
 箱が水平になるよう抱え持ち、遠くを見る。庭先に話し声はなく、鳥の囀りもしなかった。
 実りの秋に至り、畑では毎日収穫で大わらわだ。屋敷に居残っている刀の大半は、目下そちらに駆り出されていた。
 小夜左文字は今朝も台所を手伝って、そういう事情で畑仕事が免除されていた。別に手伝っても良かったのだけれど、小さい子ばかり働かせるのは良くないと、追い返されてしまった。
 手持ち無沙汰になってしまい、当て所なく歩き回っていたところで、鯰尾藤四郎に捕まった。
 ずっしり重い菓子箱を小突いて、彼は数奇な巡り合わせに目を細めた。
「四個、か」
 貰った菓子は、全部で四個。鯰尾藤四郎の説明通り、箱にぎっしり、隙間なく詰められていた。
 普通に考えて、四振りで分け合えば丁度良い。だが粟田口の短刀たちには、脇差から一個ずつ配られているはずだ。
 厚藤四郎や後藤藤四郎は食いしん坊だけれど、いくら彼らでも、一度に二個は厳しかろう。そうすると必然的に、粟田口の面々は除外せざるを得なかった。
「兄様たち、食べるだろうか」
 そうすると、持って行く先は限られてくる。
 一番妥当なところを口にして、左文字の末弟は眉を顰めた。
 口を尖らせ難しい表情を作ったのには、理由がある。手持ちの菓子が、合計四個、という点だ。
 小夜左文字には、兄がふた振り在った。太刀の江雪左文字と、打刀の宗三左文字だ。
 彼らはどちらも、大食漢とは言い難い。むしろ食が細くて、お代わりも殆どしなかった。下手をすれば小夜左文字が、兄弟の中で一番の大食いかもしれなかった。
 持って行けば引き受けてくれるだろうけれど、全部食べつくせるとは思えない。余った一個を三振りで分けるのは、現実的ではなかった。
 かといって残して、腐らせるのは、作った人に申し訳が立たない。食べ物を無駄にするのも、絶対に許せなかった。
「誰か、一個、引き受けてくれれば」
 唇を爪で掻き、呻く。
 思案して、パッと脳裏に浮かび上がったのは、古くから付き合いのある一本の刀だった。
「……ああ」
 そういえば、あの男がいた。
 もっと早く思い出すべきだったと首肯して、小夜左文字は心の中で手を叩き合わせた。
 現実の手は、菓子箱を持っているので動かせない。代わりに鼻息を荒くして、短刀は目的地が定まったと口角を持ち上げた。
 菓子を食べるにも、この大きさだ、切り分けておいた方が食べ易かろう。楊枝も必要になる。箱に入れたままでは不便だから、皿に移し替えてしまいたい。
 茶もあった方が良い。饅頭は美味いが、口の中が乾くのが欠点だ。咥内を潤す飲み物があれば、飲みこむ際に苦しめられることもない。
 そうなれば、行く先はひとつ。
 兄たちの部屋を訪ねる前に、寄り道は必須だった。
「歌仙」
 それにあそこなら、脳裏に浮かんだ三振り目がいるに違いない。
 今日の食事当番の名を口ずさんで、短刀は駆け足で屋敷へ急いだ。
 畑に顔を出す前、小夜左文字は台所にいた。昼餉の片付けを手伝って、ひと段落ついたから場を離れたのだ。
 歌仙兼定は、このまま夕餉の下拵えに入ると言っていた。なにせ大量に作らなければならないので、野菜の皮を剥くのさえ大仕事だった。
 その合間に糠床を掻き混ぜ、冬に向けての保存食作りの準備をする。残っている食材を計算して、不足分を補充する作業も必須だ。
 やることが多すぎて、腕が三本あっても足りなかった。
 そんな彼を置いて、小夜左文字は炊事場を離れた。軽く後悔を覚えて、短刀は鈍足に鞭打った。
「歌仙、いますか」
「お小夜?」
 息せき切らして駆け、勝手口から台所へと入った。開けっ放しの戸を潜り抜け、開口一番問いかければ、思いがけず近い場所から声が飛んできた。
 正面に広がる景色の中に、その姿はない。慌てて左に腰を捻って、驚いた顔をそこに見付けた。
 歌仙兼定は竈の前で膝を折り、内部を掃除しているところだった。
 白い胴衣を黒く汚し、鼻の頭にも、擦ったのだろう、筋が走っていた。太く逞しい腕は灰色に染まって、手には火掻き棒が握られていた。
 灰を受ける塵取りが脇に立てかけられ、集めた分を入れる壺も用意されていた。中を覗けば半分近く埋まっており、数ある竈も大半が綺麗になっていた。
「良く、頑張りましたね」
 この灰は、後で畑へと持って行く。捨てるのではなく、肥料として撒く為だ。
「……たまには、ね」
 小夜左文字が呆気に取られたのは、必要なこととはいえ、歌仙兼定が自ら掃除をしていたことだ。誰かに命じられたわけではなく、率先して煤だらけになったのが信じられなかった。
 風流を好み、雅さを第一とする男からすれば、薄汚れる行為はその反対側にある。畑に出るのも、着物が汚れるからと毎回嫌がっていた。
 それが、どういう風の吹き回しだろう。
 愕然となり、後から歓喜が湧き起こって、小夜左文字は興奮に頬を紅潮させた。
 その表情の変化をつぶさに見て取り、藤色の髪の打刀は少々気まずげな顔で頬を掻いた。
「僕だって、これくらいは」
「そうですか。歌仙には、では、ご褒美をあげないといけませんね」
 なにをきっかけに、竈の手入れをしようと思い立ったかは分からない。だが近いうちに、誰かがやらなければいけなかったことであり、率先して手を上げた行為は褒めて然るべきだ。
 感心して、見直した。
 我が儘で短気なだけではないと自ら証明した男に相好を崩して、短刀は鯰尾藤四郎から譲り受けた菓子箱を撫でた。
 元から歌仙兼定に渡すつもりでいたが、正当な理由が出来た。
 どうやって食べさせるかが悩みの種だっただけに、問題がひとつ解決したのが喜ばしかった。
「褒美?」
 一方の歌仙兼定は、小夜左文字が何を持っているのか知らない。
 訝しげに首を捻った打刀に目尻を下げて、短刀は草履を脱ぎ、台所へと上がり込んだ。
 土間から一段高くなっている床に足を移し、作業台も兼ねている机に菓子箱を置いた。風呂敷は四つに折り畳み、更に半分にして懐に収めた。
 後で骨喰藤四郎に返しに行くのを、忘れてはいけない。衿の上から薄い膨らみを叩いて、彼は土間で背伸びをしている男に向き直った。
「手と、顔と。酷いことになってます」
「ええっ」
 自由になった手で己の顔を指差し、汚れている場所を教えてやる。
 打刀は気付いていなかったらしく、素っ頓狂な声を上げ、灰まみれの掌を覗き込んで目を丸くした。
「なんてことだ」
 鏡がないと、自分の顔が見えない。
 憤慨して踵を返した男に肩を竦めて、小夜左文字は行ってらっしゃい、と手を振った。
 台所のすぐ裏手には、井戸がある。そこで水を汲んで、顔を洗うつもりなのだろう。
 その間にと、小夜左文字は包丁を棚から出した。専用のもので、歌仙兼定や燭台切光忠たちが使うものより、ひと回り小さかった。
 あまり重すぎると、刃物に振り回されかねない。
 危険な目に遭わない為には、身の丈にあうものを使うのが一番の近道だった。
「よし」
 他に、菓子を載せる皿を並べ、半月型の盆の準備も整った。黒文字を合計四本用意して皿に置き、とっておきの茶葉も引っ張り出した。
 七輪に置かれていた薬缶に、湯はたっぷりあった。湯呑みを温め、急須に茶葉を適量注ぎ入れ、いつでも香り立つ薄茶を入れられるよう準備を整えた。
 机の上をいっぱいに散らかして、満足げに頬を緩める。
 次は饅頭を、食べやすい大きさに切り分ける作業だった。
「お小夜、すまない。拭くものを貰えるだろうか」
 俎板の用意も出来ている。いざ、このずっしり重い菓子の中身を暴いてやろう、という時だった。
 勝手口から舞い戻った打刀に叫ばれて、小夜左文字はビクッと肩を震わせた。
「っ、ぶな……」
 包丁を、取り出した饅頭に押し付けんとしていた。
 咄嗟に身を竦ませて、切っ先が上を向いた。更にはそのまま下向きに傾き、饅頭の隣にあったもの――小夜左文字の指に振り下ろされそうになった。
 寸前で回避したが、危なかった。
 心臓が口から飛び出そうなくらい驚いて、短刀は冷や汗を流した。
 息を呑み、両手を振り回しながらやってくる男を呆然と見やる。怒りは後から追いかけて来て、小夜左文字はむすっと頬を膨らませた。
「歌仙」
 向こうは知らなかったのだから、止むを得ないことなのは分かっている。
 けれど気持ちが収まらなくて、押し留められなかった。
「お小夜?」
 手拭いを求めたが、なかなか差し出して貰えない。
 顔や前髪までも濡らしたまま、歌仙兼定はきょとんとした顔で立ち尽くした。
 幽霊画を真似て胸の前に両手を垂らし、雫を落としながら首を傾げた。惚けた表情は間抜けで、睨みつける気力は続かなかった。
「ええと、あれ。お小夜?」
「ちょっと待ってください」
 ぽかんとしたまま連呼されて、作業は中断せざるを得ない。
 仕方がないと嘆息して、彼はそこにあった手拭いを掴み、放り投げた。
 細長い布は空中でパッと花を咲かせ、不安定に揺れながら落ちて行った。それをなんとか無事捕まえて、打刀は乾いている部分で顔を拭いた。
 念入りにごしごし擦って、鼻の頭を赤くした。もう汚れていないのに、繰り返し触れて、痛みを覚えたところで布を剥がした。
「ふう」
 指の股まで綺麗に拭き終えてから、人心地付いたと息を吐く。
 暢気極まりないと肩を竦め、小夜左文字は包丁を握り直した。
「それが、ご褒美かい?」
「はい」
 草履を脱いで板敷きの間に上がり、打刀が後ろから覗き込んで呟く。
 短刀は間を置かずに頷いて、今度こそ饅頭に刃を入れた。
「くっ」
 しかし思った以上に固く、なかなか通ってくれなかった。
 奥歯を噛んで唸って、小夜左文字は包丁の背に左手を添えた。
 上から押さえつけ、圧を加えた。ぐっと腹に力を込めて、見た目よりも強情な菓子を睨みつけた。
 饅頭を仇として、一気に切り伏せた。勢い余って俎板にも刃を突き立て、ガッ、と痛い音を響かせた。
 真ん中で真っ二つになった饅頭が、衝撃で左右に踊った。ただ中心部が重い所為か、傾きこそすれ、倒れはしなかった。
 しばらく不安定に揺れて、数秒してから落ち着いた。削り落とされた滓が辺りに散らばって、最後まで抵抗していた元凶が姿を現した。
「栗か」
「やっぱり」
 中に詰められていたのは、栗の渋皮煮だった。
 大振りのものが丸々一個、詰められていた。それが固くて、なかなか包丁が入らなかったのだ。
 そうと知らず、塊のまま齧っていたら、前歯が欠けていたかもしれない。
 爪楊枝程度では間違いなく切れなかったと、断言出来た。
 肩で息をして、小夜左文字は唇を舐めた。鼻筋を伝う汗は塩辛く、すぐに唾液に混ぜて飲みこんだ。
「大きいね。どうしたんだい?」
「鯰尾藤四郎さんに、貰いました」
「そう。これは食べごたえがありそうだ。しかし、……四つも?」
 外見もそこはかとなく栗に似せた饅頭が、全部で四つ。
 小夜左文字が用意した菓子皿も、四つ。
 果てには湯飲み茶わんも四つと、数は全て揃えられていた。
 褒美と聞いて喜んでいた歌仙兼定の表情が、何を想像してか、急速に曇って行く。
 口元に手を当て、反対の手で濡れた手拭いを握りしめた彼に、小夜左文字もまた渋い表情を作った。
「歌仙」
「僕は、ここでいただくよ。掃除がまだ終わっていないしね」
「かせん」
 先手を打とうとしたが、それより早く捲し立てられた。ご立派な理由を盾にして構え、逃げの口上を並べて目を泳がせた。
 視線は絡まず、すり抜ける。
 不満げに頬を膨らませて、左文字の末弟は右足で床を蹴った。
「また、そんなことを言って」
「いや、しかし」
 憤然としながら吐き捨てられて、打刀はびくりと肩を跳ね上げた。緊張に頬を強張らせて、胸の前で両手を擦り合わせた。
 薄い布を皺くちゃにして抱き込み、首を竦めて小さくなる。その姿はまるで子供で、見た目にそぐわなかった。
 打刀として立派な体格を持ち、大人びた風貌をしているくせに、完全に萎縮していた。
「そんなに、兄様たちのこと、嫌いですか」
「嫌い、ではないよ。尊敬している」
「では、良いじゃないですか」
 落ち着きなく身を捩る歌仙兼定に嘆息して、小夜左文字は包丁を置いた。半分に切った饅頭を元の形に揃え、下の俎板ごと九十度回転させた。
 ひと口で頬張るには、四等分にしないと厳しい。小食で、口が小さい兄たちのことを思い浮かべた短刀は、憤りのままに包丁を振り下ろした。
「……お小夜」
 ドゴン、と先ほどよりもよっぽど荒っぽい音が、台所内に轟いた。
 思わず首を竦めた男に、本丸で最も小柄な少年はぶすっと口を尖らせた。
「いくじなし」
 怒りを抑え込もうともせず、露わにして吐き捨てる。
 その凄まじい気配に臆して、歌仙兼定は弱り果てた表情で頭を抱え込んだ。
「苦手、なんだよ。なんていうか、その」
 小夜左文字の兄ふた振りは、個性的な刀が多い本丸の中でも、一段と異彩を放つ存在だった。
 長兄の江雪左文字は、刀の身でありながら戦嫌い。次兄の宗三左文字は籠の鳥を自称し、人を食ったような態度ばかり取った。
 他にも刀派を同じくする刀は大勢いるけれど、左文字ほど三者三様の方向を向いているのは他にない。
 そんな、普段はあまり交友を持とうとしない兄弟だが、ただ一点でのみ、火花を散らすほどに争い合っていることがあった。
 曰く。
 自分の方が末弟である小夜左文字に慕われている、と。
 外から眺める分には、この骨肉の争いは非常に滑稽で、愉快だった。自分こそが小夜左文字に、兄として好かれていると主張し合い、この時ばかりは江雪左文字も声を荒らげた。
 肝心の短刀は興味がないのか、毎回激しい口論を無視して過ごしていた。
 つまるところ、彼らは無関心を装っておきながら、末の弟を溺愛している。
 その可愛くて、可愛くて仕方がない弟と情を交える刀がいると知った時の大騒ぎぶりといえば、とても言葉では言い表せなかった。
「針の筵に座らされているようで」
「いい加減、慣れたらどうですか」
「だったら、お小夜から言っておくれよ」
「言って聞くと思いますか」
「……思わない」
 度重なる歌仙兼定の手入れ部屋行きにより、審神者からいい加減認めるよう通達が出されて、事態は収束した。
 しかしそれであの刀たちが納得するわけがなく、今でも歌仙兼定には厳しい目が注がれていた。
 審神者の命令だから手を出さないだけで、許したわけではない。そういう態度を堅持する彼らが、歌仙兼定はとても苦手だった。
 小夜左文字は、もう諦めていた。こればかりは、何度注意したところで、改まることはないだろう。
 最初のうちは抵抗していたが、最早どうにもならないと腹を括った。一度こう、と決めてしまえば後は楽で、兄たちが言い争う光景に心を痛めることもなくなった。
 しかし歌仙兼定は、未だその境地まで至れずにいた。
 うじうじして、ぐずぐずして、みっともなかった。
「歌仙?」
「うぐ」
 そろそろ覚悟を決めるよう、短刀が真顔で迫る。
 尻込みして、打刀はパッと顔を背けた。
 奥歯を噛み鳴らし、鼻を愚図らせて、血の巡りが悪いのか肌色を青くして。
「僕、のことは。気にしなくていいから。お小夜は、兄君達と。楽しんでおいで」
「僕は、歌仙とも一緒に食べたい、と言っているんです」
 その為に茶も用意した。湯はとっくに沸いており、薬缶からは白い湯気がひっきりなしに噴き出ていた。
 早くしないと、中身が全て蒸発してしまう。
 二つ目の栗饅頭を切り分けて、俎板から皿へと移し替えた短刀に、歌仙兼定は益々困り果てた顔で天を仰いだ。
 偏屈で口下手な小夜左文字が、ここまで言ってくれたことが過去にあっただろうか。こんなにも強く求められ、主張された経験は、恐らく生まれて初めてだった。
 嬉しくて、涙が出そうだ。けれど誘いに乗ればどうなるか、結果は目に見えており、とても楽しめなかった。
 歓喜と恐怖が入り混じり、ぐちゃぐちゃになっていた。江雪左文字の難解な禅問答に、宗三左文字が放つ嫌味混じりの皮肉の嵐の前では、小夜左文字からの誘惑も霞んだ。
「……いくじなし」
「言わないでおくれ、お小夜」
「いやです」
 決断出来ずにいる男を詰り、泣きつかれても受け入れない。
 間髪入れずに拒絶して、短刀は小鼻を膨らませた。
 むすっと顰め面を作り、恐縮している男に包丁の切っ先を向ける。刺される予感にぴくりとして、歌仙兼定は冷や汗を流した。
「お、お小夜っ」
 両手を挙げて降参の仕草を作り、本気なのかと瞬きを繰り返す。
 刀剣男士は斬ったり、斬られたりが日常茶飯事なのに、盛大に怯えた男に、小夜左文字は失笑を堪えられなかった。
「そんなにも、嫌、ですか」
「違うんだ。ただ、ちょっと、今はまだ心の準備が」
「僕は、歌仙。復讐の刀です」
「お小夜?」
 江雪左文字も、宗三左文字も、本丸に至って初めて顔を合わせた刀だ。兄弟と言われてもピンと来ず、どう接すれば良いか分からなかった。
 そんなふた振りから惜しみない愛情を注がれて、照れ臭いやら、気恥ずかしいやら、余計にどうすればいいか分からなかった。
 戸惑い、困っていたら、難しく考えなくて良いと教えられた。思っていることを正直に伝えれば、きっと分かりあえると、背中を押された。
 そう言った本人が、臆病風に吹かれて本音を言えずにいる。
 今や兄たちは、小夜左文字にとって大切な存在だ。此処にいる、遠い昔から傍で支えてくれていた刀と、同じくらいに。
 だから彼らが、仲良く、とまでは言わないけれど、せめていがみ合うことなく、共に暮らしていけたらと願っている。
「でも、世界は復讐だけじゃないって」
 山賊の掌中にあった時、左文字の短刀は多くの命を屠り、赤い血を啜った。
 研ぎ師となったかつての主が復讐を遂げた際も、一時の主であった山賊の血を浴びた。
 その後細川幽斎の元へと至り、西行法師の和歌から『小夜』の号を与えられた。復讐を遂げる、鈍く輝く刃を見ているだけでその身に宿る恨み、つらみ、怨讐といったものが見えるようだ、と言いながら。
 そう。小夜左文字は復讐の刀。
 誰かに復讐を遂げさせる為に存在する、復讐しか成し遂げられない刀。
 それを小夜左文字は、過去に出向き、思い出した。
 忘れていたのだ、ずっと。この身に染みついた黒い感情の正体が何であるのかも、本当は知っていたのに。
 この澱みこそが己の本質であると、気付いていながら、長く記憶に封じ込めてきた。
「教えてくれたのは、歌仙です」
 どうしてそんなことになったのか。
 理由を探れば、答えはひとつしか見つからなかった。
 小夜左文字がそう名付けられた後から、長い時が流れた。人の寿命は短く、刀のそれとは比べ物にならない。幾度となく主が変わり、方々を彷徨う事にもなった。
 しかし彼の基幹部分にあったのは、矢張り細川幽斎との日々であり、そこから始まる出会いと別れだった。
「僕、が?」
 名付け親が世を去り、その息子の手に渡った小夜左文字を待っていたのは、ひと振りの産まれたての刀だった。
 付喪神として未熟だったそれに、あろうことか懐かれた。血腥い逸話を持つ刀だというのに、嫌悪することもなく近付いて来た。
 思えば、そのころから兆候はあったのだろう。よもやその打刀が、後に三十六人殺しの逸話を付与されるなど、当時は思いもしなかった。
 好奇心旺盛な付喪神にあれこれ訊ねられ、連れ回されている間に様々なものを見たし、知った。これまで視界に入って来なかったあらゆるものに目を向けて、世界に色が溢れていると気が付いた。
 小夜左文字の根底にあるのは、復讐。
 けれど復讐だけが、彼という存在を創りあげたわけではない。
 唖然としながら己を指差した男に、小夜左文字は鷹揚に頷いた。ふっ、と頬を緩めて口角を持ち上げ、半月型の菓子盆を問答無用で押し付けた。
「行きますよ、歌仙」
 乱暴に渡されて、歌仙兼定は慌てて肘を引っ込めた。無理矢理持たされたものを惚けた顔で見つめて、慌ただしく準備を始めた短刀を振り返った。
「お小夜」
「僕の選択に、なにか、不満がありますか」
 茶瓶に湯を注ぎ、底に沈んでいた茶葉を水中で花開かせた。湯飲み茶わんは丸盆に置いて、左手一本で持ち上げて、囁くように問いかけた。
 柔らかな口調に反し、打刀を見詰める眼差しは険しい。
 有無を言わせぬ迫力を受けて、歌仙兼定はぐっと息を呑んだ。
 小夜左文字は、選んだ。自分の道を。復讐の道具として歩むことを。
 だが審神者を今の主と認め、その先鋒になると決めたからといって、全てを委ねたわけではない。
 戦う場を用意してくれたのは、感謝する。けれど戦う以外の、数百年の時を重ねて積み上げてきたあらゆる感情まで、奪わせはしない。
 選んだのは、審神者の道具となるだけではない。
 小夜左文字を『小夜左文字』たらしめる、すべてを抱えていくと決めたのだ。
 それと同時に、共に歩んでいく相手も、定めた。
 この決定に異論があるのであれば、今ここで、腹を割いてぶちまければいい。
「歌仙」
 不満があるなら、聞いてやる。
 そう胸を張った短刀に、打刀は暫く沈黙し、凍り付いた。
 惚けて開いていた唇を震わせ、きゅっと一文字に引き結んで。
「分かった。行こうか、お小夜」
「はい」
 彷徨っていた瞳を瞬きひとつで固定して、まっすぐ前だけを見詰めて、告げる。
 覚悟を決めた男の言葉に、小夜左文字は満足そうに頷いた。

今はただ忍ぶ心ぞ包まれぬ 嘆かば人や思知るとて
山家集 雑 1254

2017/02/26 脱稿