あやなくけふや ながめくらさむ

 短く息を吸い、吐く。
 頬杖ついたまま天井を眺め、同じことを繰り返す。
 意識は拡散し、その場に留まらない。かといって遠くへ思いを馳せる真似もせず、ぼんやりしたまま、呼吸だけを繰り返す。
 四角い座卓に凭れかかり、座布団の上で崩れた足は斜めを向いていた。少しでも重心が傾けば仰向けに転びそうで、ぎりぎりのところで姿勢を維持していた。
 どこを見ている、というわけでもなく、なにかを凝視しているわけでもない。
 物思いに耽っているのとも違って、起きているのに半ば眠っているような状態だった。
「どうしたの、あれ」
「さあ。さっきから、ずっとだね」
 近くから聞こえてきた話し声も、あまり耳に入らない。明らかに自分を話題にしていると分かるのに、相槌を打つ気になれなかった。
「昨日も、あんな感じだった」
「ええ、それ本当?」
「うんうん。彼になにかあったのかな」
 部屋に入ってきた鯰尾藤四郎に、にっかり青江と骨喰藤四郎が口々に言い合う。それを頭の片隅で聞き流して、物吉貞宗は小さく溜め息を吐いた。
 このままだと本当に倒れそうで、時間経過と共に強くなっていた身体の傾きを修整した。身動ぎ、居住まいを正せば、座卓の左右に陣取っていた他の脇差たちが一斉に身構えたのが分かった。
 唯一空いていた正面に座った鯰尾藤四郎まで、神妙な顔でこちらを見た。
「……なんでしょうか」
 それがどうにも居心地悪くて、彼は控えめに、気恥ずかしげに問いかけた。
 そもそも彼らはいつ、ここに来たのだろう。にっかり青江が障子を開けたのは辛うじて記憶にあるが、骨喰藤四郎については皆無だった。
 ここは、脇差部屋区画の中にある空き室だ。刀種ごとに大別されている本丸の部屋割りにおいて、脇差は所属数が少ない、という事情があり、こういった未使用の部屋をいくつか抱えていた。
 打刀や太刀部屋区画が過密状態にあるのと比べると、雲泥の差でもある。初期に比べるといくらか埋まったとはいえ、ここのような空き部屋が、他にも二、三残っていた。
 そして使わないまま放置するのも勿体ない、ということから、彼らはそのうちの一ヶ所を、皆で集まって暇を潰す場所として使っていた。
 居住区の南側にある母屋にも、居残り組がだらだら過ごせる座敷があった。
 しかし南北で棟が分かれており、移動するのは手間だ。その点、こちらなら、部屋に忘れ物があっても、すぐ取りに戻れた。
 今後脇差仲間が増えるなら、喜んで譲り渡そう。だからそれまでの間、ここは皆が気まぐれに集う場所だ。
 そんな部屋の真ん中に置かれた座卓の前で畏まり、物吉貞宗がもぞもぞと身を捩る。
 煎餅が入った菓子盆に手を伸ばして、鯰尾藤四郎は尾のように長い髪を揺らした。
「んーん、別に?」
 表面に海苔が張り付いた一枚を抓んで、齧り付きながら答える。直後にバリッ、と小気味いい音が響いて、何故かにっかり青江が噴き出した。
 口元に手をやって、やや前屈みになって目を細めた。その向かい側では骨喰藤四郎が、机に零れた欠片を指で拾い集めた。
 屑入れを引き寄せて、そちらにまとめて落とした。間違って床に散らそうものなら、蟻や虫が寄ってくる原因になりかねないためだ。
 共同で使っている部屋なだけに、その辺は手厳しい。この先、新たな仲間が加わった時、黒い虫が出る部屋を与えられるのも嫌だろう。
「ああ、ごめん。あんがと」
「問題ない」
 知らず汚していたと気付かされ、鯰尾藤四郎が軽い調子で謝罪した。骨喰藤四郎は淡々と返事して、屑入れを元あった場所に戻した。
 しばらくの間、煎餅を噛み砕く音だけが静まり返った空間に響き渡る。
 他の三振りは特になにをするでもなく座って、各々好きな方角を見ていた。
 左右を泳いだ物吉貞宗の視線も、やがて手元へ落ち、沈んだ。膝に転がした両手を意味なく弄って、その真ん中に向かって溜め息を零した。
「はあ……」
 一旦途切れた会話はなかなか再開せず、これもまた普段より大きめに響いた。
「四十二回目」
「え?」
「今日の、物吉君の溜め息の回数」
 そんな時ににっかり青江が言い出して、驚く皆の前で人差し指を立てた。不敵な笑みを浮かべて口角を持ち上げ、一番惚けている少年を指し示した。
 爪先を向けられて、物吉貞宗は唖然と目を丸くした。
「俺が来てからだと、これで三十一回目だ」
「えええ?」
「なにそれ。じゃあ俺も、今から数えよっかな」
「そん、な。なにやってるんですか。止めてください」
 更に骨喰藤四郎まで指を折り、煎餅を食べ終えた鯰尾藤四郎は両手を叩き合わせた。
 よもや彼らが、そんなくだらない遊びに興じていたとは思わなかった。やり玉に挙げられた脇差は悲鳴を上げて、勢いよく座卓の板面を叩いた。
 衝撃で菓子盆が揺れたが、中身がひっくり返ることはない。ただ三振りを怯ませるには充分で、物吉貞宗は彼らの惚けた表情に、慌てて浮かせた尻を沈めた。
 座布団で行儀よく正座して、大声を出したのを恥じた。首を竦めて小さくなって、にっかり青江の計測では四十三回目となる溜め息を吐いた。
「はあ」
 ただ今回は、これまでの、心此処に在らず、という雰囲気とは微妙に異なる。数に足すかどうか悩んで、大脇差は眉を顰めた。
 机の下で嬉々として中指を伸ばした友人には苦笑して、結んだ両手の上に顎を置いた。両肘を立てて頬杖を付き、視線を左に戻した。
 片方だけ露出している眼を眇めて、幽霊斬りの刀は物憂げにしている少年に相好を崩した。
「なにか御悩み事かい?」
 この数日、物吉貞宗の様子は明らかにおかしかった。
 出陣や遠征では特に問題ないのに、本丸に戻ってくると途端抜け殻になっていた。
 宙を彷徨う視線は安定せず、と思えば突然一点に固定されて動かない。屋敷仕事には定評があったはずなのに、小さな失敗が連続して、不注意からの怪我が増えていた。
 台所で調理中に切ったという指には、薬研藤四郎特製の薬が塗られ、包帯が何重にも巻きつけられていた。
 廊下を歩いていても何もないところで躓き、転び、見えている筈の柱に自分から突っ込んでいく。
 こんなこと、今までなかった。
 集中出来ていないのは、傍目からも明らかだ。しかし原因が分からないことには、周囲も対応の余地がなかった。
 昨日からじっくり観察して来た結果をもとに分析して、にっかり青江は菓子盆ごと煎餅を引き寄せた。
 物吉貞宗にも食べるか問うて断られ、一枚だけ抜いて、机の中央へ戻した。そこから鯰尾藤四郎がもう一枚取って、骨喰藤四郎がなにも起きないうちから屑入れを抱え込んだ。
 失礼にも程がある兄弟の態度に、粟田口の脇差が渋い顔をする。
 それを笑いもせず受け流して、にっかり青江は首を捻った。
 優しいが鋭い眼差しに、物吉貞宗は膝の間に両手を押し込んだ。落ち着きなく肩を揺らして、上目遣いに質問相手を窺った。
「いえ。悩みとか、そういうのは特に」
「おやおや、そうなのかい」
 口を開き、喉から絞り出そうとしたのとは異なる内容を音に出す。
 にっかり青江は意外そうに目を丸くして、緩慢に相槌を打った。
 間繋ぎに煎餅を割って、小さい方の欠片を口に含んだ。もう一度左隣に勧めて、再度断られて呵々と笑い、屑籠を手にうずうずしている正面には小さく頷いた。
「君は物好きだねえ。掃除のことだよ?」
 固い煎餅を割った際に零れた細かな屑を、骨喰藤四郎がせっせと掻き集める。
 次に万屋に行った時にでも、卓上を掃除する小さな箒を探そう。密かに決めて、物吉貞宗はまたひとつ、意識しないまま吐息を零した。
 万屋、という単語と共に浮き上がって来た映像に首を振り、頭から追い払った。両目をぎゅっと瞑って視界を闇に染め、眩い金色が紛れ込む余地を残さなかった。
 それが他の三振りには、挙動不審に映った。
 いきなりぶんぶん頭を振った彼に、鯰尾藤四郎などはぽかんと口を開いた。
 悩みはない、と彼は言ったが、とてもそうは思えない。
「具合でも悪い?」
 ならば、とほかに考えられる可能性を声に出せば、物吉貞宗は二度の瞬きの後、なんとも評し難い曖昧な笑みを浮かべた。
「い、いいえ。全然、そのようなことは」
 必死に取り繕うとするけれど、表情は不格好だった。声も若干上擦って、動揺が隠し切れていなかった。
 あからさまな態度を見せられて、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎兄弟が顔を見合わせた。にっかり青江はスッと目を細め、残っていた煎餅の欠片を縦に構えた。
「ふうん? それじゃあ」
 半月の下半分をやや欠いたような形状で、動かしても破片は落ちない。それを仮面の如く顔の右半分に被せて、彼は不遜に微笑んだ。
 含みのある眼差しに、物吉貞宗が警戒して唇を引き結んだ。座布団の上で身じろいで、訝しげに男を見た。
 粟田口の脇差らも、なにやら不穏な気配に口を噤んだ。息を殺し、動きを止めて、次に放たれるだろう言葉を待った。
 またもや訪れた沈黙に、煎餅を咥えたままの鯰尾藤四郎が醤油味の表面を舐めた。
「あの……」
 注がれる視線の気まずさに耐えかねて、物吉貞宗が切り出そうとした直後だった。
「恋煩い、かな?」
 それを遮り、にっかり青江が言った。
 鼻から息を吐いて妖しく笑った彼の斜向かいで、耐えきれなくなった鯰尾藤四郎が煎餅を噛み砕いた。
「鯉が患ったのか?」
「ぐぇっほ、げへ、っほ!」
 屑入れを手に、唯一立っていた骨喰藤四郎が首を捻る。
 あまりにも的外れも良いところの発言に、その兄弟が途端に噎せて丸くなった。
 煎餅の破片が気管にでも入ったか、なんとも苦しそうな咳を連発させた。まさか自分がその元凶だとも知らず、慌てた骨喰藤四郎は屈んで背中を撫でてやった。
「やれやれ。そんなに激しくしなくても……咳のことだよ」
「いや、あの。ええと」
 わざわざまどろっこしい喋り方をするにっかり青江に、物吉貞宗は困った顔で頬を引き攣らせた。
 言われた台詞がいまいち理解出来なくて、何故そんな発想になったのかを逆に問うた。依然苦しそうにしている鯰尾藤四郎を気にしつつ、僅かに前へ身を乗り出した。
 戸惑い、困惑している彼の姿に、にっかり青江の表情がそこで初めて曇った。
 煎餅を食べようとしていたのを止め、半眼し、胡乱げに眉を顰める。
「おや、違うのかい?」
 再び欠片を縦に持ち、大脇差は口角を持ち上げた。
「違いますよ。なんだって、僕が。ソハヤさんに」
「おやあ?」
 それに真っ向から言い返して、物吉貞宗はひと際大きくなった相槌にハッとなった。
 背をさすられていた鯰尾藤四郎も、骨喰藤四郎と並んで顔を上げた。
 三振り分、合計六つの眼が一斉に向けられて、幸運を運ぶ脇差は真っ青になった。
「い、今のは、あの。その」
「おやおやおや、僕は恋煩いと言っただけで、誰に、とは言っていないんだけどねえ」
「へええ。ソハヤさんですか。へええ」
 懸命に否定しようとするが、発言の撤回は最早不可能。時間を巻き戻す行為は歴史修正主義者のそれであり、刀剣男士にとっては絶対許容できないことだった。
 うっかり口を滑らせた少年は、右往左往しながら身を捩り、両手を意味なく振り回した。
 鯰尾藤四郎にまで興味津々見つめられて、一時は青かった肌色がみるみるうちに赤く染まった。頭の天辺からは湯気が出て、風呂場でもないのに逆上せて倒れそうだった。
「ちが、ちっ、ちが、ああああぁ」
 言質を取られ、身動きが取れない。
 反論しようにも碌に言葉が出てこなくて、最後は諦めて顔を覆った。机に額から突っ込んで、ごちん、とぶつけた後は動かなかった。
 かなり痛かっただろうに、ぴくりともしない。
 目元から顎までを両手で隙間なく埋めて、物吉貞宗はじわじわ正座を崩し、ぺたんと尻を着いた。
「そういうんじゃ、ありませんよぉ」
 結構な時間が過ぎてから、呻くように呟く。
 大人しく見守っていた三振りは、半泣きで鼻を愚図らせた彼を笑わなかった。
 額の一部を一層赤くして、喘ぎ、物吉貞宗は唇を噛んだ。墓穴を掘って自滅した己を恥じて、頭を振ったと同時に竦み上がった。
 ドスドスと、荒っぽい足音が聞こえた。廊下を曲がって、こちらへ近付いていた。
「誰だろ」
 こんな激しい足音、脇差は誰も響かせない。短刀よりは背丈があるにしても、彼らは皆、どちらかといえば小柄だった。
 これは明らかに、大柄な打刀か、太刀のものだ。
 障子は閉まっており、振り返っても姿は見えない。興味を惹かれた鯰尾藤四郎が首を傾げる中、物吉貞宗は突如身を屈め、四角い机の下へと潜り込んだ。
「なにをしている、物吉貞宗」
「おーい、物吉。いるかー?」
 座卓の脚は短く、入り込めることは入れるが、かなり窮屈だ。
 突如かくれんぼを開始した彼に骨喰藤四郎が眉を顰め、その後方を黒い影が流れた。
 障子に映った影はあっという間に通り過ぎ、ふたつ隣の部屋の主を呼んだ。障子を開ける音も聞こえて、空き部屋に集まっていた面々は互いに顔を見合わせた。
 視線を下に移しても、分厚い天板が邪魔で、隠れている少年は見えない。勿論屈んで覗き込めば話は別だが、ぱっと見た感じ、そこに誰かが潜んでいるとは分からなかった。
 物吉貞宗も、それを狙っての行動だろう。
「なあ、すまん。物吉の奴、どこに行ったか知らないか?」
 目当ての脇差が不在だと知って、荒っぽい足取りが戻って来た。そして障子を開けて、ソハヤノツルキが顔を出した。
 金色の髪を綺麗に固め、額を曝した太刀が中にいた三振りにまとめて訊ねた。身体半分ほどの隙間から身を乗り出して、障子の框を引っ掻いた。
「ええ、っと。物吉だったら、こ……いでっ」
「大丈夫か、兄弟」
 問いかけられて、一番入り口近くにいた鯰尾藤四郎は目を泳がせた。ごにょごにょと口籠もりつつ言いかけて、途中で急に悲鳴を上げた。
 座ったまま飛び跳ねて、骨喰藤四郎に心配されながら机に倒れ込んだ。右の太腿を抱え込んで、必死に痛みに耐えていた。
 それが、隠れていた物吉貞宗に思い切り抓られた所為であると、にっかり青江は直感的に悟った。
「彼だったら、さっき、用があるって出ていったよ。急ぎでないのなら、言伝を預かるけれど」
 防衛本能が働いて、言葉はすらすら溢れ出た。膝を閉じて防御を固め、ソハヤノツルキに代表して答えた。
 未だ悶絶している鯰尾藤四郎を怪しみつつ、新参者の部類に入る太刀は嗚呼、と頷いた。教えられた内容を素直に信じたようで、背筋を伸ばし、首の後ろを掻いた。
「あ~、んじゃいいや。邪魔したな」
 少しだけ悩んで、天を仰いで告げる。
 ひらりと手を振って踵を返した男は、自分で開けた障子を閉めなかった。
 冷たい風が流れ込んで、やむを得ず骨喰藤四郎が前に出た。外の様子を窺って、例の太刀が居なくなったのを確認し、振り返って頷いた。
 それでようやく、物吉貞宗が机の下から這い出してきた。凶器にした爪で畳の目地を引っ掻いて、服の表面に出来た皺を叩いて伸ばした。
 最後に髪の毛を掻き回して、潰れていたところに空気を送り込んだ。
 ふわふわの感触を取り戻して、疲れた様子で肩を落とす。
 今回の溜め息は数えないことにして、にっかり青江はずっと食べ損ねていた煎餅を口に含んだ。
 噛まずに舐めて、湿らせた。柔らかくなったところで奥歯で割って、非常に気まずそうな少年に相好を崩した。
「あれで良かったのかい?」
「……すみませんでした」
 意地悪く訊ねられて、物吉貞宗は小声で謝罪した。鯰尾藤四郎にも頭を下げて、恐縮して小さくなった。
 尻に敷いた座布団の端を弄り、俯いたまま顔を上げようとしない。服の裾を抓んで引っ張ったり、捩ったりと、手は落ち着きなく動くのに、口は重かった。
「喧嘩したのか」
 ソハヤノツルキは、先ほどから話に出ていた刀だ。
 それが直接訪ねて来たのに、物吉貞宗は居留守を使った。
 なにか会いたくない事情があると察した骨喰藤四郎の質問に、彼は間を置かず首を横に振った。
「じゃあ、なんで?」
 喧嘩ではないと教えられ、鯰尾藤四郎がそこに噛み付いた。下世話な好奇心からではなく、単純に不思議だったから問うただけの少年に、貞宗派の次男は言い辛そうに口を噤んだ。
 胸の前で両手指を捏ね回し、言葉を探して視線を彷徨わせる。
 その途中でにっかり青江と目が合って、にっこり微笑まれて渋面を作った。
「なるほどね。会いたくなかったんだ」
「…………」
 訳知り顔で囁かれて、物吉貞宗の表情はより険しくなった。
 しかし反論は聞こえて来ず、これ幸いと大脇差は目尻を下げた。
「ああ、いいねえ。この甘酸っぱい感じ」
「え、おせんべい、酸っぱかったですか?」
「ははは。そうじゃなくて、彼がソハヤノツルキ君に恋しててる、って話だよ」
「にっかりさん!」
 感極まった様子で楽しげに言って、疑問符を頭上に生やした鯰尾藤四郎にも大真面目に答えた。そこへ痺れを切らした物吉貞宗が割り込んで、声を荒らげ、机を叩いた。
 軽くなった菓子盆が揺れて、カタカタと音を立てる。
 腿を抓られたのを思い出したのか、黒髪の脇差は咄嗟に内股になった。
 痛みは引いたが、服を脱いだら痣になっているかもしれない。風呂場で弟たちに見付かり、からかわれないよう気を付けることにして、鯰尾藤四郎はそそくさと骨喰藤四郎の後ろに隠れた。
 盾にされた方は淡々とした表情を崩さず、目の前で繰り広げられる会話を黙って聞いていた、が。
「鯉ではなかったのか」
 ずっと思い込んでいた内容が漢字違いだったと知って、地味に衝撃を受けていた。
 そんなふた振りを余所に、物吉貞宗は荒く肩を上下させ、意識して深呼吸を繰り返した。心を落ち着かせようと躍起になって、笑いを堪えている脇差仲間を睨んだ。
 けれど眼差しに迫力はなく、僅かに潤んでいる所為で威圧感もない。
 随分愛らしいと顔を綻ばせ、にっかり青江は真っ赤になっている少年に手を叩いた。
「いいんじゃない? 僕は、応援するよ」
「にっかりさん」
「嫌いじゃないからね、そういうの」
 拍手と声援を送り、呆然と見つめ返されて、頷く。
 人差し指を顎に添えての発言に、物吉貞宗はホッとしたような、違うような、どちらともつかない顔をした。
「でも。良いんでしょうか」
 先ほどよりは幾分はっきりとした発音は、迷いと躊躇が明確に表れていた。
 その原因を推測して、大脇差は嗚呼、と重ねたままの手を左右に捻った。
「大丈夫なんじゃないかな。主は、真面目に戦ってさえいれば、あんまりそういうの、気にしないと思うよ」
 刀剣男士は、刀の付喪神だ。過去改変を企む歴史修正主義者の目論見を挫き、これを討伐すべく集められた武器であり、兵力だった。
 審神者なる者の力によって顕現し、現身を与えられた彼らは、『本丸』と呼ばれる場所で日々を過ごしていた。
 広大な敷地の中には屋敷のほかに厩や、鍛冶場、畑といった施設が点在した。神社もあり、大太刀らはそこで一日の大半を過ごしている。裏手には山が広がって、短刀らの格好の遊び場になっていた。
 ここに集う刀らは、審神者を新たな主と定めた。その命に従うのは、彼らがここに存在し続けるための絶対条件だった。
 彼らが慕うべきは、審神者ただひとりのみ。
 ところが物吉貞宗の心は、あるべき形から外れようとしていた。
「分かるんですか?」
「そりゃあ、君よりはちょっとだけ長く、ここにいるしね」
 この感情は、許されるべきではない。認められるべきものではない。
 だのに気が付けば、主以外の存在を想っていた。瞼の裏に、姿を思い浮かべていた。
 取るもの手につかず、集中力が続かない。声が聞こえれば過剰に反応し、話しかけられたら頭が真っ白になった。
 少し前まで出来ていたことが、今は出来ない。
 どんな顔をして彼と一緒にいたか、全く思い出せなかった。
「第一、ねえ。僕の知る限り、歌仙が叱られた、って話は聞いたことがないよ」
 これが審神者に知れたら、どうなるか。確かめる勇気などなくて足踏みしていた彼は、苦笑交じりに言われて目を丸くした。
 突然出て来た刀剣名にもあんぐりして、金魚のように口をパクパクさせた。
 助けを求めて横を見れば、鯰尾藤四郎は嗚呼、と柏手を打って目尻を下げた。
「小夜ちゃんと、歌仙さん。随分前にありましたねえ、そういえば」
「え?」
「君のところの平野君と、鶯丸の時は、お兄さんの方が大変だったねえ」
「ええ?」
「最近だと、大典太さんと前田かなー。一回経験しておくと、いち兄の説得が早くていいよね」
「えええ?」
「薬研は、進展が感じられない」
「あー、あいつねえ。まだ宗三さんに言ってないんでしょ。バレバレなのに。これからどうする気なんだろ」
 途中から骨喰藤四郎も混じって、指折り数えながら次々名前を出していく。
 聞いていて軽く眩暈がして、物吉貞宗は受け入れ難い現実に卒倒した。
「なんだ、知らなかったんだ?」
 机のひんやりした感触が、頬に心地いい。
 現実逃避していたところでにっかり青江に言われ、彼はくらくらする頭を抱え込んだ。
 この本丸に来て結構な時間が過ぎていたが、仲間内でそんな事態になっていたとは知らなかった。
 全く興味がなくて、関心を持とうともしなかった。よく一緒にいる、仲が良い刀たちだ、程度としか認識しておらず、水面下であれこれ起きていたなど、露とも思わなかった。
 そして今度は自分が、そこに立たされる。
「……」
 いや、きっと立つことはない。
 現時点での自分の状況を冷静に顧みて、物吉貞宗は哀しげに瞼を閉じた。
「物吉君?」
「ソハヤさんは、僕のこと。なんとも、思ってないんです」
 胸に抱くこの感情がなんであるか、もう否定出来ない。互いに慈しみあい、愛おしんでいる仲間がいると知って勇気づけられて、それと同時に辛くなった。
 仲睦まじくしている彼らと、自分とソハヤノツルキとでは、決定的に異なるところがある。
 それを認めたくなくて、訪ねて来た太刀から逃げた。見苦しく畳に這い蹲り、机の下に隠れた。
「物吉」
「僕だけ、どきどきして。不公平ですよね。狡いです」
 ほんの五日ほど前、ソハヤノツルキの服を繕ってやった。破いて出来た穴を縫って、塞いでやった。
 それで彼はいたく感激し、礼をしたいと言い出した。万屋で好きなものを選ぶよう促し、翌日、強引に物吉貞宗を連れ出した。
 手を繋がれた。強く、強く握りしめ、些か乱暴に引っ張られた。
 その時の感触が、まだ微かに残っている。遠慮を知らない指はゴツゴツして、爪は短く、全体的に温かかった。
 結局万屋では何も買わず、また今度、となった。そうしたら翌日も、朝早くから誘いに来て、遠征があると言ってもなかなか引き下がってくれなかった。
 物吉貞宗が選び、ソハヤノツルキが気に入ったものが見つかるまで、延々とこれが繰り返される予感がした。
 彼と一緒に出掛けられるのは嬉しいのに、寂しかった。
 ふた振りだけで過ごす時間は楽しいのに、胸が苦しかった。
 ソハヤノツルキが物吉貞宗に構うのは、下心のない善意からだ。
 受けた恩を返すのが主目的であり、そこに脇差の意思は介在しない。彼が欲しいのは、恩義に報いたという確かな証拠だけだ。
「それで、会いたくないのか」
「……はい」
 あの太刀は兄弟刀の天下五剣と違い、性格は明るく、活発だ。声が大きく、何事にも熱心で、色々と豪快だった。
 心を開いた相手には遠慮がなくなり、距離を一気に詰めて来た。会話が盛り上がると腕や背中をバシバシ叩き、強引に肩を組んできた。
 その豪快さが、物吉貞宗には辛い。
 自分ばかりが意識させられる状況が息苦しくて、耐えられなかった。
 骨喰藤四郎の問いに素直に答え、彼は爪の白い部分を擦った。カチカチと硬い音を響かせて、最後にぎゅっと握りしめた。
 好きなのに、一緒にいたくない。
 想いは膨らむ一方なのに、それをぶつける先がなくて、行き場のない感情が破裂寸前だった。
「へ~え。つまり君は、彼に意識してもらいたいわけだ」
「え、と……?」
 赤くなり、青くなり、いつになく表情豊かな物吉貞宗に向かって、にっかり青江が言う。
 頬杖ついて聞いていた男は最後の煎餅を手に取って、顔の横に掲げた。戸惑う少年の前で円盤を揺らし、中心に向かって人差し指を突き立てた。
「突いたり、突かれたり。そういう関係になりたい、ってことだろう?」
「つっ!?」
 固い煎餅を小突き、押しつけ、爪でカリカリ引っ掻く。
 骨喰藤四郎の耳は鯰尾藤四郎が咄嗟に塞いだが、物吉貞宗は残念ながら間に合わなかった。
「まっ、待ってください。僕はなにも、そんな。そ、そこまで、言ってません。誤解です!」
 思わせぶりな台詞と、意味深な微笑に、気が動転して声がひっくり返った。
 動揺し過ぎて仰け反って、そのまま身体も仰向けになった。
 尻餅ついて倒れ込んだ少年に、大脇差はカラコロと喉を鳴らした。
「ううん? 僕が言っているのは、ほっぺたのことなんだけどね?」
 仲良く相手の頬を突き、やられた方がやり返す。なんと朗らかで、和やかな光景だろう。
 そう平然と言い放って、彼は別の意味で解釈した脇差をからかった。
 見事罠にはめられて、物吉貞宗の顔が真っ赤になる。
 熟れ過ぎた林檎と化した彼に破顔一笑して、にっかり青江は唇をなぞった。
 悔しがって地団太を踏んでいる少年に目を眇め、考え込むように表情を引き締めた。視線を浮かせて天井の隅を見詰め、初めての感情に揺れ動く仲間へ視線を戻した。
 ちょっとしたことに一喜一憂して、とても微笑ましい。
 だからこそ応援してやりたくて、彼は短い爪を噛んだ。
「要するに、あちらにも、君を意識させればいいんだろうけれど」
「見込み、あるんですかね」
「僕の見立てじゃ、皆無ではないと思うけどねえ」
 策を練りつつ、鯰尾藤四郎の呟きに答える。
 物吉貞宗は座布団に座り直し、膝を揃えて苦笑した。
「にっかりさん、あの。良いんです、僕は別に」
「駄目だ」
「骨喰さん……」
 真剣に考え込んでいる大脇差に遠慮して、自分の問題だからと断ろうとした。
 それを骨喰藤四郎に制されて、予期せぬところから伸びた手に躊躇した。
 大阪城と共に焼け落ちた影響からか、この脇差は過去の記憶があまりない。遠い昔に出会った刀との思い出も、かつての主たちと過ごした日々も、彼の中には残っていなかった。
 その影響か、表情にあまり変化が現れない。何を考えているのか分からない時が多々あって、鯰尾藤四郎がいないと話が通じない場合もあった。
 そんな脇差に、鋭く睨まれた。険しい口調で一蹴されて、物吉貞宗は二の句が継げずに黙り込んだ。
「俺は、昔のことははっきり覚えていない。だが、一緒にいた誰かが笑っていたのは、ぼんやり覚えている。俺は、この先、お前が笑えずにいるのを見るのは、嫌だ」
 珍しく多弁になって、骨喰藤四郎が捲し立てた。
 真っ直ぐ相手を見ながら告げた兄弟刀に相好を崩して、鯰尾藤四郎は元気よく右腕を掲げた。
「俺も、骨喰に一票」
「決まりだね」
 白い歯を見せながら言った彼に、にっかり青江が頷いた。多数決は物吉貞宗のひとり負けとなり、反論は封じられた。

 その日の夜。
 明日の準備を済ませ、眠る準備に入っていたソハヤノツルキは、ふとした感覚に襲われて顔を上げた。
「誰だ?」
 日はとっぷり暮れて、室内を照らすのは行燈の柔らかな光ひとつ。その小さな灯では全体を照らすのには足りず、廊下との間を仕切る襖は闇に濡れていた。
 その向こうに、誰かがいる。
 辛うじて掴んだ微かな気配に、寸前まで眠そうだった眼が鋭く尖った。
 夕餉を終え、風呂にも入り、浄めた身体は白い湯帷子で覆われていた。
 薄手の布一枚を羽織った状態で警戒し、得物を探して両手を床に這わせる。けれど指が畳以外を探り当てる前に、向こうの方から声がかかった。
「僕です」
「物吉?」
 静まり返った夜の空気に、音は凛と響いた。
 反響せずに消えていく音色に瞠目して、ソハヤノツルキは急ぎ立ち上がった。
 気の早い刀はもう床に入り、高いびきの最中だ。中には遅くまで宴会に明け暮れる者もあるが、彼は今日、誘いを受けていなかった。
 隣室では兄弟刀の大典太光世が、短刀を抱き枕に夢の中だ。寒い時期だと羨ましくてならないが、貸してくれ、とはとても言えなかった。
 外の様子を窺いながら、襖を開く。
「すみません、こんな遅くに」
 立っていたのは案の定物吉貞宗で、格好はソハヤノツルキとほぼ同等だった。
 脹ら脛までしかない湯帷子を、腰に巻いた帯一本で固定していた。何故か蕎麦殻の枕を抱いており、湯上がりなのか、肌は火照って赤かった。
 身長差があるので、立ったままだと視線が合わない。仕方なく軽く膝を折って屈めば、小柄な脇差は顔の下半分を枕で隠した。
 唯一露出している眼を上向かせ、金色の中に太刀の姿を閉じ込める。
「どうした?」
 訪ねて来た理由を率直に問うて、ソハヤノツルキは首を捻った。
 廊下は薄暗く、灯りは見えない。だが夜目が利かない太刀と違い、脇差は闇に強かった。
 夜戦では短刀と並んで頼りになり、池田屋へも頻繁に出撃している。昔からよく知る仲間が活躍するのは頼もしく、誇らしかった。
 中腰で長時間いるのは疲れるので、右腕を襖に預けた。左腕は腰に当ててじっと見つめれば、物吉貞宗はもぞもぞ身じろいだ後、恐る恐る口を開いた。
「あの。えっと」
「ん?」
「ええと、えと、その。実は、お、お願い、が」
「俺に?」
 遠慮がちに告げられて、一瞬聞き間違いを疑った。
 思わず左人差し指で己を指差せば、脇差は間髪入れずに頷いた。
 鼻筋を枕に埋めながら、ふわふわの頭を上下させた。大袈裟な動きで肯定して、膝同士をぶつけ合わせた。
 腕に力が籠もり、ぎゅうぎゅうに絞められた枕が真ん中が潰れていた。まるで瓢箪だと、中身が空洞の植物を連想して、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
 こんな時間に、頼みごととは。
 いったいどんな用件かと、迷惑がるより先に、好奇心が首を擡げた。
 今日こそは恩に報いようと張り切っていたのに、結局捕まえられなかった。あちこち探したが見つからず、ようやく姿を見かけた時は、もう夕方になっていた。
 夕餉の時間が迫っていて、万屋に誘えなかった。
 いっそ自分が気に入ったものを選び、押し付けてやろうかと思い始めていたところだった。
 ようやく欲しいものが決まったかと、嬉しくなった。内心わくわくしながら目を輝かせて、続きを待って息を殺した。
 だが物吉貞宗は枕を抱き潰したまま、言い難そうに口籠もった。目を合わせては逸らし、を何度も繰り返して、寒いのか大きく身震いした。
「入るか?」
「あの!」
 廊下と室内では、気温差はほとんどない。だが風がたまに吹くので、部屋の方が幾分暖かかった。
 気を遣い、訊ねた。それを遮って、物吉貞宗が突然声を張り上げた。
 踵を浮かせて背伸びして、身を乗り出してきた。距離を詰めて、枕から顔を上げて、驚くソハヤノツルキに迫った。
「き、きょ、……今日。その。一緒に、あの。ねね、ね、寝て、も。いい、で、しょう、か」
「は?」
 そうして舌足らずに捲し立て、ごくりと唾を飲んだ。
 息継ぎを大量に挟んだ訴えは聞き取り辛く、滑舌の悪さから咄嗟に意味が掴めない。太刀は一瞬きょとんとなり、興奮に鼻息荒い脇差に眉を顰めた。
 途端に物吉貞宗の顔が、火が点いたように真っ赤になった。
「いえ、あのっ。め、めめ、迷惑、でした、ね。ですよね。ねっ」
 益々強く枕を抱きしめ、裏返った声を響かせた。
 彼は元から声が高めなのに、更にその上をいっていた。両隣に迷惑がられやしないか懸念して、ソハヤノツルキは首を掻いた。
 こんな態度は、見たことがない。ここまでいっぱいいっぱいになるなど、余程のことと思われた。
 朗らかに笑っている姿が脳裏を過ぎり、目の前にいる刀との落差に興味を惹かれた。なにが彼を追い詰めているのか知りたくなって、力になれるなら協力したかった。
「どうしたんだ?」
 頼ってきた相手を、話も聞かずに追い出したりはしない。
 意識して語調を柔らかくして、太刀は右にずれ、中に入るよう促した。
 だが物吉貞宗は棒立ちのままで、動こうとしなかった。枕の締め付けを少し緩めるに留め、荒い息を吐き、鼻から大きく息を吸った。
 口を開けて唇を舐め、何度も唾を飲みこんだ。その度に細い肩が上下に揺れて、過度な緊張ぶりが伝わってきた。
「物吉」
「こわい、夢を。……見たんです」
 暗がりの中に佇む彼は、身にまとう湯帷子の色の影響もあり、ぼうっと闇に浮かんで見えた。
 華奢な体躯が強調されて、風が吹けば飛ばされそうでもある。儚げで、おぼろげで、存在自体が酷く心許なかった。
 声は掠れ、震えていた。
「夢?」
「はい」
 先ほどから一転して、蚊の鳴くような訴えに、ソハヤノツルキは鸚鵡返しに問いかけた。
 予期せぬ単語に目を瞬かせ、間髪入れずに首肯されて渋面を作った。風呂に入った時に洗って、崩したままの前髪を弄って、首を僅かに傾けた。
 告げられた言葉をどう解釈するか、即座に判断出来なかった。
 夢とは、眠っている間に見るものだ。内容は千差万別だが、過去の記憶から派生した内容が多い、と聞き及んでいた。
 ソハヤノツルキ自身は、あまり経験がない。もしかしたら見ているのかもしれないが、朝起きた時には綺麗さっぱり忘れていた。
 隣の大典太光世はたまに魘されており、それで夜中に起こされたことがある。膝丸は、兄である髭切に名前を呼んでもらえない悪夢ばかり見る、と愚痴っていたが、それは夢でなく現実では、とは流石に言えなかった。
 ともあれ、物吉貞宗もそれに近い内容の夢を、恐らくは昨晩、見てしまったのだろう。
「いやまあ、別に、お前が良いなら俺は構わないんだけど」
「ソハヤさん」
「けど、なんでまた、俺だ? 脇差連中と、たまに集まって一緒に寝てるとか、前に言ってなかったか?」
 助けになるのであれば、協力してやりたかった。力になれるのであれば、手を貸してやりたいとも思った。
 けれど疑問が先に出て、言わずにいられなかった。
 頼られるのは、素直に嬉しい。だが普段から仲良くしている刀たちではなく、自分のところへ来た意味が上手く理解出来なかった。
 脇差は数が少ないので、太刀や打刀に比べ、横の繋がりが強い。刀派を越えて親しくしており、物吉貞宗も例外ではなかった。
 貞宗の兄弟刀より、鯰尾藤四郎や堀川国広たちと一緒にいる時間の方がよっぽど長い。
 そんな印象が強かっただけに、自力で疑問が解けなかった。
「あ……」
 質問を受けて、脇差の表情が翳った。一定だった呼吸が乱れ、唇の色が抜け落ちた。
 瞠目したまま凍り付き、琥珀色の瞳が宙を彷徨った。なにかを探しているようにも見えて、全く違うようにも感じられた。
「物吉?」
「内府様、の……夢、だったんです」
「家康公の?」
 怪訝に思い、名を呼んだ。それに反応してぽつりと呟かれて、ソハヤノツルキはぎょっとなった。
 たったそれだけで、背筋が寒くなった。かつての主と、たとえ夢でも相見えるのは嬉しいことなのに、先ほど『こわい夢』と表現されたのが引っかかり、喜べなかった。
 ひやりとした空気を感じて、三池の太刀はごくりと息を飲んだ。不意に押し寄せて来た嫌な感覚に四肢を粟立たせ、俯いて小さくなる脇差を食い入るように見た。
 物吉貞宗は小さく首肯すると、枕の表面に爪を立てた。
「家康公、が。僕を手に。……腹を」
「――っ!」
 絞り出すような呻き声に、ぞぞぞ、と悪寒が駆け抜ける。
 発作的に手を伸ばして、ソハヤノツルキは細い手首を握りしめた。
 力任せに引き寄せ、胸に閉じ込めた。小さくて丸い後頭部を押さえつけ、それ以上喋らないよう、彼の顔面を胸板に叩き込んだ。
 蕎麦殻の枕は緩衝材にすらならず、支えを失って畳に落ちた。爪先を踏まれたが意に介さず、太刀は顎を軋ませ、歯を食い縛った。
「すまん」
 何故あんな心無い質問をしたのかと、数分前の自分を呪った。
 心細さに負けて頼ってきた相手の、弱くなっている部分を抉った己の浅慮ぶりに腹が立った。
 どうして『分かった』と、たったひと言告げるだけに済ませなかったのか。詮索するような真似をせず、受け入れてやらなかったのか。
「すまん、物吉」
 彼は今日一日、どんなにか不安だっただろう。部屋におらず、どこにも姿が見当たらなかったのだって、夜に怯えていたからではないのか。
 気付いてやれなかったのを悔やみ、ソハヤノツルキは細い背を撫でた。慰めになるかは分からないが、柔らかな毛足を擽って、身じろがれて締め付けを緩めた。
「ぷは」
「心配するな。俺の霊力が、お前を悪夢から守ってみせる」
 ようやく息が出来ると安堵して、物吉貞宗がホッと胸を撫で下ろした。
 そんな酸欠で真っ赤になっている顔を見下ろして、徳川の宝剣は自信満々に言い切った。
 彼とて、それを期待して訪ねてきたはずだ。叶う保証はどこにもないが、何事も信じることから始まると、ソハヤノツルキは胸を叩いた。
「あ、ありがとう、ございます」
 得意満面に告げて、枕を拾って脇差に持たせる。
 先に寝床に入るよう告げて、自分は襖を閉めるべく半歩前に出た。
 ところが物吉貞宗は、またしても場から動かなかった。
「ごめんなさい」
「どうして謝る」
 湯帷子の袖を抓んで、軽く引っ張られた。
 顔を背けたまま謝罪されて、意味が分からなかった。
「だって。ソハヤさんに、その。……ご迷惑を」
「なに言ってんだ。そんなこと、これっぽっちも思っちゃいないさ」
 口をもごもごさせながら言い足された内容には、呆れるしかない。気にしなくて良いのだと笑って返して、彼は細い指を解かせると、ふわふわの頭をわしゃわしゃ掻き混ぜた。
 遠慮など不要と繰り返し、襖を閉めた。それでも動かない脇差を押して部屋の真ん中へ誘導して、いつから敷きっ放しか覚えていない布団の端を捲った。
 先に自分が入って、右隣の空いている場所を示す。
「ほら。来いよ」
 手招いて繰り返し誘って、物吉貞宗はようやく重い一歩を踏み出した。
 まさか一連のやり取りが、にっかり青江を中心とした脇差たちの策略だとも知らず、ソハヤノツルキは人好きのする笑みを浮かべた。
 行燈の火を吹き消して、室内を一気に暗くした。完全なる善意から腕を広げて、膝を折った少年に綿入りの布団を被せた。
「狭くないか? あと、臭いかもしれん。すまん」
「いえ。大丈夫です」
 肩までしっかり覆ってやり、自分の背中が少しはみ出しているのは、上手に隠した。いくら脇差が小柄だとはいえ、ふた振り並ぶと窮屈だった。
 もう少し距離を詰めれば、楽になる。けれど寝床の中でそれをするのは、変な誤解を受けそうで出来なかった。
「ソハヤさん、そっち、行っても良いですか」
「え」
「近くにいる方が。安心、出来ると思うので」
「あ、ああ。そうか。それもそうだな」
 ところが向こうから切り出して来て、心配は杞憂に終わった。
 川の字ならぬ二の字だったのを、太めの一の字に作り変える。ソハヤノツルキは恐る恐る、擦り寄って来た脇差の肩に腕を回した。
 眠っている間に突き飛ばしてしまわぬよう、引き寄せた。抵抗されるかと思いきや、物吉貞宗はホッとした様子で身じろいで、脇から差し入れた手を背に垂らした。
 抱きしめ返されて、変な気分だった。
「物吉、苦しくはないか」
「いいえ。とっても、……はい。暖かいです」
 いつもは加減などしたことがないのに、状況が状況だけに、遠慮が勝った。
 恐る恐る問えばクスクス笑われて、楽しそうな囁きがくすぐったかった。
 彼は腕の付け根辺りに頬を押し当て、目を眇め、瞳だけをこちらに向けた。
 太刀は闇に不慣れながら、これだけ近ければ、辛うじて見えた。障子越しに差し込む月明かりは明るく冴えて、物吉貞宗の柔らかな髪色を照らしていた。
「そうか」
「はい」
 真っ直ぐ見つめてくる眼差しは、脇差特有の淡い光を発していた。夜闇に紛れて敵を狩る特性がここでも発揮されて、ソハヤノツルキはどきりとなった。
 今、自分は、彼に狩られる立場にあると自覚した。
 無論そんなことにはならないだろうが、一瞬でも恐怖した。昼間見るのとは明らかに違う姿を垣間見て、足元から震えが来た。
「……俺の霊力が、お前を守る。家康公も、それを信じた。だから安心して、眠れ」
「ありがとうございます」
「礼には及ばん。お前には、世話になってばかりだ。これくらいは、役に立たないとだな」
「ふふ、そうでした」
 それを振り払おうと、敢えて声を大きくした。萎縮した心を奮い立たせ、髪を梳き、背を撫でてやった。
 物吉貞宗はその度に、クスクス声を漏らした。控えめながら艶のある笑みを浮かべ、お返しだとばかりにソハヤノツルキの胸を叩いた。
 掌を広げ、押し当てた。湯帷子の上から肌を探って、左胸に陣取った。
 どくん、と鼓動が大きく跳ねた。
 投げかけられる眼差しは、普段通りの彼でありながら、初めて見る彩を放っていた。
「ものよし」
 彼はこんな貌だっただろうか。
 全くの別人を寝床に招き入れた錯覚を抱いて、身動きが取れなかった。
「はい。おやすみなさい」
 目を眇め、脇差が淑やかに告げた。
「ああ、……おやすみ」
 軽く触れているだけなのに、心臓を鷲掴みにされた錯覚に陥った。就寝間際だというのに拍動の乱れを自覚して、ソハヤノツルキは声が上擦るのを必死に抑えた。
 間にひと呼吸挟んで告げて、目を閉じた少年をじっと見据えた。
 こてん、と頭が沈んだかと思えば、そこからもう動かなかった。耳を澄ませばか細い息が聞こえて、途切れることはなかった。
 なんと寝つきが良いのだろう。感心し、呆れつつ、ソハヤノツルキは過去類を見ない現状に頭をくらくらさせた。
 自身の睡魔はといえば、ちっとも訪れる気配がない。
「やばい。眠れねえかも」
 理由は分からないが、妙にどきどきして落ち着かない。
 大見得を切った手前、物吉貞宗を置いて部屋を出るわけにもいかず、彼はいやに冴える眼で闇を凝視し続けた。
「……う、あ、あ~~~」
 そうはいっても、いつの間にかしっかり眠りに就いていたらしい。
 いつだったかはまるで覚えていないが、ぷつりと記憶の糸が途絶えていた。次に気が付いた時には、障子の向こうは明るい陽射しに溢れていた。
 大きく欠伸をして、ソハヤノツルキは閉じた瞼を痙攣させた。まだ目を開ける気になれなくて、寒さから逃げるように布団にもぞもぞ潜り込もうとした。
 しかし、途中で邪魔された。
 温かなものに肘が当たって、衝撃でつい、瞼を持ち上げてしまった。
 最初はぼやけていた視界が、瞬きを経る毎にはっきり輪郭を持ち始める。
「え?」
 真っ先に見えた肌色にきょとんとなって、彼は呆然と目を見開いた。
 光に照らされた部屋は、間違いなく己の私室だ。少々黴臭い布団も自分のものであり、余所から持って来たものではなかった。
 だのにどうして、自分以外の刀がここにいる。
 すやすやと寝息を吐いて、気持ちよさそうに眠っているのか。
「あ、ああ。そうか」
 昨晩の出来事が咄嗟に思い出せず、記憶はぶつ切り状態だった。
 全てが繋がるまでに数秒の時を要して、その間、ソハヤノツルキは身動きひとつ取れなかった。
 布団に横になったまま、あどけない寝顔を見詰め続けた。右腕はいつからか、脇差の枕に使われており、長く圧迫された影響で痺れ、指の感覚は失われていた。
 左手は華奢な背を抱いて、力なく垂れ下がっていた。しかもなぜなのか、触れ合うのは寝間着代わりの湯帷子ではなく、素の肌だった。
 どんな寝相をすれば、ここまで肌蹴られるのだろう。
 寝間着は肩からずり下がり、肘のところで塊になっていた。しかもそれは脇差だけに限らず、太刀自身も同様だった。
 確かに自分は、寝相の悪さに定評があった。眠る前にきちんと着付けたはずなのに、朝になるとほぼ脱げていた、というのは一度や二度ではない。
 無防備に曝された白い肌は艶やかで、ふっくらとして、柔らかそうだった。触れた場所はとても温かく、吸い付くような滑らかさが心地よかった。
 さらりとして、いくらでも触れていられる。
「よく寝ている」
 好奇心が擽られて、ソハヤノツルキは溜め息に混ぜて囁いた。
 音量を絞り、慎重に手を動かした。枕になっている腕はそのままに、左手のみを操って、警戒心皆無のあどけない寝顔をつん、と小突いた。
 頬の柔らかさを確かめて、掌で包み、撫でた。
「んむ、……う」
 鼻の脇を親指で擦っていると、嫌がった物吉貞宗が首を振った。
 しかし瞼は閉じたままで、鮮やかなあの瞳の色は現れない。それを惜しく思いつつ、別のところではホッとして、彼は指の位置をゆっくり下へ滑らせた。
 夜中に魘されていた様子はなく、呼吸は落ち着いていた。肌色は良く、体調の悪化は感じられなかった。
「よかった」
 ひと先ず役目は果たせたと、ソハヤノツルキは相好を崩した。
 誰かと床を共にするなど、これまで考えたこともなかった。
「意外と、……悪くないな」
 だがこうして抱きしめ合うと、互いの体温が心地いい。冬場は特に、暖を取り合えるので一石二鳥だった。
 なにより目覚めた時、物吉貞宗の可愛らしい寝顔が拝める。
 幸運を運ぶ脇差というだけでご利益がありそうで、得をした気分だった。
「ああ。良いな」
 言い直して、もっちりした肌触りの頬を戯れに小突いた。
「んう、……んっ」
 物吉貞宗は眠ったまま不機嫌に唸り、顔を背け、寝返りを打った。右腕の上から退いて、背中を向けて丸くなった。
 白いうなじが露わになって、くるん、と湾曲した後ろ髪が布団に落ちた。肉の薄い体躯は骨張っているが、その凹凸さえもが妙に艶っぽかった。
 中心を走る脊椎の上に、興味本位で指を走らせる。
「っ、あ」
「……!」
 直後にぴくん、と脇差の肩が跳ね上がり、漏れ出た声は甲高かった。
 日頃の健康で活発な少年らしさから一線を画した、腹の低い位置に突き剌さる声だった。
 反射的に肘を引いて、ソハヤノツルキは瞠目した。なにも付着していない人差し指を先に見て、続けてもぞもぞ動く脇差の後ろ姿に凍り付いた。
 脱げかけの湯帷子から覗く素肌の上に、琥珀色の輝きが現れた。
「あ、――」
 夢うつつの表情で振り返る脇差は、両手を床に添え、腰を緩く捻っていた。
 両足は布団の下に隠れ、細い帯が境界線になっていた。半端に着乱れた状態で、太刀を映す眼差しは儚かった。
「ぁれ。そはや、さん……?」
 完全に覚醒しきらず、舌足らずな呟きは掠れていた。とろん、と蕩けた双眸は眠そうで、昨晩のことを覚えているかどうかも疑問だった。
 先ほど、自分が陥ったと同じ状態ではなかろうか。
 小さく欠伸をして、目尻を擦った少年に緩慢に頷いて、ソハヤノツルキは布団の上を後退した。
 身を起こせば、引っかかっているだけだった湯帷子が背中に落ちた。袖が手首に絡まって、だらしなく弛んだ布が尻の下に巻き込まれた。
「お、おお。おはよう、物吉」
 未だ感覚が鈍い右腕を揉みほぐし、血液を末端へ送りながら告げる。
 朝の挨拶に、ここまで緊張した日があっただろうか。
 男であると分かっているのに艶っぽい姿勢で見つめられて、不思議なことに胸が高鳴り、変なところから汗が出た。
 このまま物吉貞宗が起き上がったら、湯帷子が全部脱げてしまう。
 とても直視できないと、何故だかそんな風に思った。理由は分からないが、ともかく見てはいけない気になって、いそいそと布団から出るべく活動を開始した矢先だった。
「ソハヤ、起きているか。朝餉に間に合わなくなるぞ」
 隣室で寝起きする兄弟刀が、様子を気にしてやって来た。襖越しに話しかけられ、ソハヤノツルキは竦み上がった。
「おおお、おおおおき、起き、起きてる。起きているぞ、兄弟!」
「そうか? どうかしたのか」
 ハッとして隣を見れば、物吉貞宗がうつ伏せに突っ伏していた。両手は敷き布団に添えられ、肘が鋭角に曲がっており、これから起き上がろう、という雰囲気がありありだった。
 慌てて前方に向き直れば、動揺し過ぎの返答を訝しみ、大典太光世が様子を確かめるべく襖に手をかけていた。
 彼との間には、入室の許可を取り合う決まりはない。
 それで困ったことは、過去に一度もなかった。だが今は、そのなぁなぁぶりが恨めしく、悔やまれてならなかった。
「待て。ま、待ってくれ、兄弟」
 今、部屋に入られるのは非常に不味い。
 事情をきちんと説明すれば、やましいことはなにもなかったと分かる。だがそれをこの場で、巧く出来る自信がなくて、咄嗟にそれしか言えなかった。
 両手を振り回し、懸命に懇願するが届かない。
 既に一尺近く開いていた襖の隙間に、背高な太刀の顔が見えた。
 目が合って、ソハヤノツルキはひくり、と頬を引き攣らせた。
「……邪魔をした」
 スッと開いた襖が、直後にパタン、と閉じられた。
「大典多さん、ソハヤさんは、よろしいのですか?」
「ああ。お楽しみだったようだ」
「誰、ですかあ?」
 一瞬で兄弟刀の姿が見えなくなり、その場にいたもうひと振りとの会話が遠くなった。
 入れ替わりに身を起こして、物吉貞宗は脱げた湯帷子を膝に広げた。拳で目元を擦り、呂律が回らない口調は甘えているようだった。
 もろ肌を晒し、首を捻る。
 大典太光世の視界に、その姿は当然入っていただろう。
 半裸の男ふた振りが、ひと組の布団を共有していた。それが何を意味しているか、真っ先に思いつく答えはひとつだ。
「違う。違うんだ、兄弟。聞いてくれ。誤解だ!」
 必死になって弁解を試みるが、返事はなかった。もう立ち去ってしまったのか、うんともすんとも言わなくて、伸ばした腕が虚空を掴んだ。
 力なく床に落とし、深々とため息をついて座り直す。
「あ、あの」
「あぁ?」
 起きて早々災難に見舞われて、機嫌は一気に下降した。呼び声にも仏頂面で挑んでしまい、返事は無愛想で、目つきは剣呑だった。
 そんな不愉快ぶりを悟って、物吉貞宗が湯帷子の前だけを持ち上げた状態で身を竦ませた。
 肩は露出したまま、胸元だけを布で覆った脇差が視界に入って、ソハヤノツルキは一転して目を点にした。
 数秒間まじまじと見つめた後、ハッと我に返り、顔を背ける。
「あの。なんだか、えっと。……すみません、でした」
「いや」
 ようやくしっかり目が覚めて、状況が理解出来たのだろう。恐縮しながら謝られて、太刀は鼻の頭を爪で掻いた。
 赤く染まった頬を、泳ぐ視線を、そうやって誤魔化して。
「意外と、……よかった……」
「え?」
 当分の間、今見た光景は忘れられない。
 欲望に正直な返答は、幸か不幸か、物吉貞宗には届かなかった。

見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは あやなくけふやながめくらさむ
古今和歌集 恋一 476 
在原業平朝臣