思ひのみこそしるべなりけれ

 屋根の上でちゅん、と雀が鳴いた。
 間もなく翼を広げて飛び立って、地面に落ちる影がすいっと流れていった。
 一瞬の出来事に、目を奪われた。お、と思う間もなく影は遠ざかり、追いかけようとしても追い付けなかった。
 縁側から身を乗り出し、庭先に落ちそうになって慌てて姿勢を戻す。
「あぶない、あぶない」
 軒を支える柱に右腕を絡め、ソハヤノツルキはホッとした顔で額を拭った。
 汗など出ていないのに、無意識にそこを撫でていた。他の刀たちがそうやっているのを何度も見かけるうちに、どうにも癖が移ってしまったらしかった。
 安堵の息を吐き、唇を舐める。ほんのり甘く感じたのは、つい先ほど、汁粉を一杯味わったからだ。
「人の身というものは、面白いな」
 午前中からかかりきりだった雪かきが、つい先ほど終わった。それからひと休みを経て、今は部屋へ帰る最中だった。
 一夜のうちに降り積もったそれは、小柄な短刀らの背丈を軽く上回っていた。
 屋根に積み上げたままでは、その重みで屋敷が潰れかねない。そうならないように何振りかが登って、ひたすら削って落とす繰り返しだった。
 それが毎日続くのだから、足腰が辛い。けれど大柄な大太刀や薙刀に任せると、それだけで屋根が割れそうだった。
 だからこれは、太刀と打刀の仕事だ。短刀や脇差も手伝うと言っているが、滑って転んで落ちられても困るからと、断っていた。
 小豆を甘く煮た中に餅を入れた汁粉は、その肉体労働の報酬だ。この程度で、と懐柔されるのは悔しいが、汗水垂らして働いた後の甘味は、非情に美味だった。
 腹がいっぱいになり、しかも内側からぽかぽか温かい。
 満足感に頬を緩め、ソハヤノツルキは伸ばしていた袖を捲った。
 外に出ている間は、寒いからと手首まで覆っていた。けれど普段は肘まで捲り上げており、伸ばしている状態はなかなか馴染まなかった。
「んお?」
 まずは右腕をいつも通りにして、続けて左腕の分を、と指を引っ掻けた。
 そして布を手前側にひっくり返そうとして、何故か布地ではなく、己の手首を擦った指先に、彼は目を丸くした。
 良く見れば、穴が開いている。
 どうやらそこに、中指が知らずに入り込んだらしかった。
「うあっちゃ~」
 どこかで引っ掻けたらしく、綺麗に裂けていた。長さは一寸に届くかどうか、という程度で、幅は狭かった。
 今まで気付かなかったのは、間抜けとしか言いようがない。繊維が弱まっていたところに、自ら止めを刺したようなものだった。
 あまり弄っては、裂け目が広がってしまう。それは避けたくて指を抜いて、ソハヤノツルキは困った顔で頭を掻いた。
「参ったな」
 冬場は曇りの日が多く、洗濯物があまり乾かない。毎日の雪下ろしで汗だくになるのに、着替えの確保は難しかった。
 手持ちがあまり多くないので、これが着られなくなると、明日以降は上着なしで過ごさなければいけなくなる。
 この程度の穴なら見た目にそう影響を与えないが、外での作業には支障が出そうだった。
 隙間風が忍び込んで、寒さに震えなければならないのは、嫌だ。
「どうすっかなあ」
 けれどこの穴を繕おうにも、彼は縫物など、やったことは一度もなかった。
 刀剣男士は、刀の付喪神だ。そしてソハヤノツルキは、霊力の加護を期待し、神社に奉納された刀だった。
 つまるところ、針仕事とは無縁の日々を送っていた。訪れた人々が熱心に祈りを捧げる姿は多々見て来たが、お針子の仕事ぶりを見物する機会は、ついぞ得られなかった。
 勿論、彼自身も針と糸で破れを繕う、という経験は皆無。
 道具すら持ち合わせておらず、誰かに頼むより他になかった。
 では誰に依頼するかといえば、それも心当たりがない。兄弟刀の大典太光世には短刀の知り合いが多いので、そちら経由で申し込むか、と思い悩んでいた矢先だ。
「あれ。どうしたんですか、こんなところで」
 後ろから不意に話しかけられて、ソハヤノツルキは首から上だけで振り返った。
 仰け反るように背を撓らせ、僅かに見えた髪色に目を瞬かせる。
「物吉貞宗」
「はい。すみません、そこに立たれると通れないです」
「おっと、すまん」
 毛先が四方を向いて跳ねる髪は空気を含んでふかふかで、瞳は黄金を思わせる色艶をしていた。背は高くないが低くもなく、脇差らしい小柄な体躯をして、申し訳なさそうに見上げてくる双眸は困った風に歪んでいた。
 僅かに首を竦めて告げられて、それで太刀は我に返った。言われてみればその通りと、母屋から続く渡り廊の真ん中から慌てて退いた。
 ふた振りが並んで通るのが精一杯の道の、真ん中に堂々と陣取っていた。
 思いがけず、通行の邪魔をしていた。気が付かなかったと素直に詫びて、彼は破れた上着を背中に隠した。
 左腕だけ不自然に肘を曲げ、取り繕う笑顔を通りかかった顔馴染みに向ける。
「ソハヤさん?」
 それが奇妙に思えたのか、物吉貞宗は眉を顰めた。
 なにか隠し事をしている雰囲気に、温和な少年の顔が険しくなった。
「なにかあったんですか?」
「ああ、いや」
 別段隠す必要はなかったのに、咄嗟にそうしてしまった。この少年なら縫物でも出来るだろうに、なかなか言い出せなくて、ソハヤノツルキは目を泳がせた。
 物吉貞宗とは前の主が同じで、以前から交友があった。本丸で初対面だった刀剣男士よりは、ずっと話し易かった。
 それなのに変に遠慮してしまって、気まずい。
 脇差の方もそれを訝しんで、道を譲られたのに動かなかった。
「んん?」
 真ん丸い目を物憂げに眇め、小柄な体躯を左右に揺らした。渡り廊の隅に逃げていた太刀を横から覗き込んで、度々上を窺いつつ、ソハヤノツルキの周囲を探った。
 やがてその瞳が、袖に空いた小さな穴を捉えた。
「袖、どうしたんですか」
「まあ、ちょっと」
 指で弄った所為で、裂け目が立体的になっていた。真っ直ぐ一本走った傷が開いて、本来隠れているべき肌が見え隠れしていた。
 右腕だけ袖を捲っていたのも、変に思われた要因だった。
「雪下ろしの時に、たぶん。引っ掻けた」
 屋根の上に登る以外にも、庭に積もった分を退かせて道を造る作業もあった。
 こちらもなかなか重労働で、埋もれた庭木に気付かず、身体のあちこちをぶつけて痛い目を見た。
 その時に、作った傷だろう。
 そういえば細い枝に袖を引っ張られ、力任せに振り払ったのだった。
 軍手をしていたので怪我はなかったが、今思うと他に考えられない。
 もうちょっと慎重に行動すべきだったと反省するが、全て後の祭りだった。
「放っておいたら、どんどん大きくなりそうですね」
「ああ。けど、どうすりゃいいんだか」
 最初に気付いた時に比べて、穴はごく僅かだが広がっていた。この先無意識に弄り倒して、肘の辺りまで裂けていくのは簡単に想像出来た。
 そうなる前に、なんとかしたい。
 しかし対処方法が思いつかなくて困っていたら、物吉貞宗は楽しそうに顔を綻ばせた。
「じゃあ、僕が縫いましょうか」
「有り難い。頼めるか」
「勿論です。今からでも、お時間はありますか?」
「問題ない」
 こちらから頼むべきところを、向こうから申し出てくれた。
 まさに願ったり叶ったりだと二つ返事で頷いて、ソハヤノツルキは心の中で握り拳を作った。
 時間的余裕も、問題ない。力仕事をひとつ終えたところで、あとは夕餉まで予定がなかった。
 部屋で寛ぐか、兄弟刀のところへ遊びに行くか、特に決めていなかった。むしろ物吉貞宗の方は大丈夫なのかと心配になるが、にっこり微笑まれて、質問する機を見失ってしまった。
「では、決まりですね。僕の部屋で良いでしょうか」
「構わない。感謝する」
 ぱん、と両手を叩き合わせた脇差に、ソハヤノツルキは頬を掻いた。小さく頭を下げて礼をして、先に立って歩き出した背中を追いかけた。
 この本丸の屋敷は南北で棟が分かれ、両者を長い渡り廊が繋いでいた。
 南側が母屋に当たり、台所や食堂代わりの大広間などがある。対して北側は居住区画で、本丸に集う刀剣男士の私室がずらりと並んでいた。
 刀たちは基本的に、ひと振り一部屋与えられているが、中には粟田口の短刀らのように、大部屋を共有する刀派もあった。部屋自体は刀種ごとに分けられて、打刀は打刀ばかりで集められていた。
 ソハヤノツルキは太刀なので、脇差部屋区画にはあまり縁がない。
 もしや初めて入るのでは、と過去の記憶を振り返って、通された部屋の敷居を跨いだ。
 襖を開けば、中は広々としていた。生活道具は壁際に集められ、寝具は綺麗に折り畳まれていた。
 万年床状態の自室とは、天と地ほどの差があった。整理整頓が行き届き、定期的に掃除しているのか、埃ひとつ落ちていなかった。
「へええ」
「やだな。あんまりじろじろ見ないでください」
 大典太光世も片付けが下手で、頻繁に前田藤四郎の訪問を受けていた。そのついでで、一緒に布団を干してもらうこともあったが、頻度は高くなかった。
 どうやればこんなに綺麗に使えるのだろう。出したものを元の場所に戻す、という単純なことさえうっかり忘れてしまう男は、物珍しげに室内を眺め、怒られて首を竦めた。
「上着、貸してください」
「おう。悪いな」
 一方で物吉貞宗はすぐに気を取り直し、棚の抽斗から箱を取り出した。表面に漆を塗っただけの簡素なもので、蓋を外せば中から糸や端切れが顔を出した。
 その中から待ち針や、縫い針が刺さった針山を探し当て、箱の外に置いた。座卓の前にあった座布団を引き寄せ、座ると同時に腕を伸ばした。
 ソハヤノツルキは部屋の真ん中で羽織っていたものを脱ぐと、手渡すついでに膝を折った。
「敷物が一枚しかなくて。使いますか?」
「いや、良い。お前のものだろう」
 畳に直接腰を下ろした太刀に遠慮して、失礼したかと物吉貞宗が腰を浮かせた。それを手で遮り、座り直すよう促して、胡坐をかいた男は興味深げに箱の中身を観察した。
 糸切り用の黒い鋏に、布を裁断する大きめの鋏。糸は細い棒状のものに巻き付けられて、端が解けないよう固定されていた。
 糸自体も色が沢山あって、白に黒、赤や緑と賑やかだった。
「よくやるのか」
「そんなに多くはないですけれど。太鼓鐘が、たまに外で破いてくるので」
 縫う布に合わせて糸を選ばないと、そこだけ不自然になってしまう。
 衣装にこだわりがある伊達の短刀は、その辺が五月蠅かった。
 慣れた調子で上着に近しい色を選び、物吉貞宗が肩を竦めた。空色の髪に金の瞳が目映い彼の弟は、いつも元気いっぱいで、粟田口の短刀と混じってやんちゃ三昧だった。
 ただ彼の昔馴染みには、料理上手ならいるけれど、裁縫に長けた刀はいない。
 一度見かねて直してやって以降、当たり前のように持ってくるようになった。
 謝礼のつもりか山で摘んだ花や、木の実を一緒に差し出すのだと言われて、ソハヤノツルキはつられて笑った。
「良い弟じゃねえか」
「怪我するような真似は、しないで欲しいんですけどね」
 褒めてやれば、心配なのだと囁かれた。
 無茶をしたがる性格なのを承知して、傷ついて血を流すのを憂いでいた。
「こっちも、良い兄貴だな」
「なにか?」
「い~や、なんでもない」
 独り言を聞き取れず、脇差が首を捻った。それを誤魔化し、手を伸ばして、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
「これ、なんだ?」
「ああ、それはですね。折角だし、使いますか?」
 話題を変えて、裁縫道具に埋もれていたものを引き抜いた。いずれも掌に収まる程度の大きさで、色々な布や、糸を使って作られていた。
 花柄や、猪目型に、葵の紋を模したものまであった。丁寧に端を処理し、表面には細かく刺繍が施されていた。
 それが五つも、六つも飛び出してきて、驚いた。
 いったい何に使うものなのかと惚けていたら、葵紋を手に取った物吉貞宗が、薄縹色の上着にそれを重ねた。
 破れ目を覆う形で置いて、出来上がり図を太刀に示す。
 にっこり満面の笑みを浮かべられて、ソハヤノツルキは頬を引き攣らせた。
「まさか、それって」
「釘隠し、ならぬ傷隠しですね。粟田口のみんなには、好評なんですよ」
 建物の外壁に釘の頭が出ては無粋だからと、これを隠す専用の金具がある。
 それと役目は同じと言って、脇差は無地の袖に模様を付けたがった。
 半袖一枚で過ごしているから、という理由以外で寒気がして、金髪の太刀は竦み上がった。愛らしい猪目模様で飾った上着を羽織る己を想像して、全身に鳥肌が立った。
 ぞぞぞっ、と来て、歯の根が合わない。カチカチ音を鳴らして首を振れば、物吉貞宗はあからさまにがっかりした顔をした。
「可愛いと思うんですけど」
「いやいやいや。そういうのは良いから、普通で頼む」
 第一、汚れ易い袖近くに紋をつけること自体、どうかと思う。
 そんなところに使わないでくれ、と切実に頼み込んで、ソハヤノツルキは冷や汗を流した。
 脇差はそれでも粘ったが、最後は渋々同意してくれた。無事諦めてくれたのに胸を撫で下ろして、太刀は取り出した飾り布を膝先に並べた。
 自分が使うには遠慮願うが、短刀たちがこれを服に付けていたら、確かに可愛かろう。
 破れた痕だと、傍目には分からなくなるので、まさに一石二鳥だった。
 モコモコした肌触りに頬を緩め、試しに裏を返せば、様々な色が飛び交っていた。表からだと可愛らしい文様が、反対側からだと影も形もなかった。
 優雅に池を泳いでいるように見える鴨だって、水中では必死に足ひれを動かしている。
 そういうものかと連想して、彼は葵の紋を小突いた。
「すげえな。自分で作ったのか」
「万屋には置いてなかったので。当て布をするにしても、こういう方が楽しいでしょう?」
 手が込んだ刺繍は、一朝一夕で完成するものではない。気が遠くなりそうな作業工程に眩暈を起こして、ソハヤノツルキは恐縮する脇差に視線を投げた。
 細い糸を針穴に通し、てきぱきと袖の破れを繕っていく。
 指の動きには一切迷いがなくて、縫い目も正確だった。
「ほへぇ……」
「じろじろ見られるのは、ちょっと」
「おっと。悪いな」
 針先が布に沈んだかと思えば、瞬時にぴょこ、と首を出した。縫い目を扱きながらひと針ずつ進めて、出来上がるまでものの五分とかからなかった。
 途中、まじまじ眺められるのを嫌がったが、背を向けたりはしなかった。集中出来ないと言ったくせに、最後まで動きに乱れはなかった。
 終着点に到達して、布の裏側に針を通し、糸を結んで、口に咥えて噛み千切る。
 そこに鋏があるのに敢えてそうした意味を考え、すぐに放棄し、ソハヤノツルキは返却された上着に相好を崩した。
「おお、ちゃんと塞がってる」
 穴のあった場所は綺麗に縫われ、指が潜り込む隙間は失われていた。布に比べてやや濃い糸が横一列に並んでおり、その幅や、間隔は見事に揃っていた。
「着てみて違和感があったら、言ってください」
 色味の違いはさほど目立たず、遠くからだと全く分からない。
 丁寧過ぎる職人仕事に感嘆の息を吐き、太刀は脇差の気遣いに拍手した。
「お前に頼んで良かった。助かったぜ」
「どういたしまして」
「今度、なんか礼をする。なにがいい。言ってくれ」
 こんなに良くしてもらって、対価を支払わないわけにはいかない。
 好意に甘えるような不義理は果たせなくて、ソハヤノツルキは袖を通しつつ言った。
「いえ、そんな。そういうつもりじゃ」
「いや、このままじゃ俺の気が済まない。なにが欲しい?」
 違和感など、どこにあると言うのだろう。縫い糸の処理も完璧で、素肌を擦られても少しも痛まなかった。
 次からはこういう事があったら、真っ先に物吉貞宗を頼ろう。そう決めて、早口になって、太刀は遠慮する脇差に言葉を重ねた。
 感激のままに両手を取って握りしめ、答えるまで離さない、と眼差しで告げた。
 恩を受けたのに、返せないような男にはなりたくない。そういう意思は痛いほど分かるが、欲しいものなど、咄嗟になにも思い浮かばなかった。
 あまりにも情熱的な懇願に、普段は抑えられている霊力が噴出する。恐らくは無自覚だろうソハヤノツルキに圧倒されて、物吉貞宗は口をぱくぱくさせた。
 困り果てて目を泳がせ、半端に浮かせた尻を戻した。仰け反り気味だった背中も伸ばして、爛々と輝く双眸に首を竦めた。
「あの……」
「なんだ!」
 恐る恐る声を響かせれば、ものすごい勢いで食いついて来た。
 がっしり握られた手を一瞥し、危ないからと針山を膝で遠ざけ、物吉貞宗は小さく溜息を吐いた。
 なにかを強請らなければ、ずっとチクチク言われそうだ。しかもこの雰囲気では、安物を頼んでも納得してくれそうになかった。
 まがりなりにも、天下を取った男の刀だ。写しとはいえ、山姥切国広よりは己に自信を持っている。誇り高く、気高い霊刀は、こういう状況下では非常に強欲で、傲慢だった。
「ええと、では。えっと」
 太刀らしい分厚く大きな掌から、少し高めの体温が伝わってきた。
 振り払うのが難しい力の強さを発揮されて、骨が軋んだ。折れやしないか冷や冷やしながら、物吉貞宗は必死に言葉を選びとろうとした。
 書物か、筆か、或いは反物か。
 菓子を注文したら、食べきれないくらい大量に寄越して来そうだ。それはそれで困ると悩み、迷い、出ない結論に唇を戦慄かせた。
 必死に息を吸い、吐いて、情熱的な眼差しに怯まず立ち向かう。
 だが眼力に圧倒されて、見詰め合おうにも、そう長続きしなかった。
 緊張に心臓が圧迫されて、どくどく言う鼓動が耳元でこだました。なにもしていないのに身体が妙に熱くて、冬場なのに腋がしっとり湿り始めた。
 鼻の奥がむず痒く、だのにくしゃみが出そうで出ない。
 結論を出すのに時間が欲しいのに、ソハヤノツルキは猶予をくれなかった。言えば即座に踵を返し、万屋へ走っていくつもりでいるらしかった。
 善は急げという言葉を、自ら体現しようとしている。
 そこまでせっかちにならずとも良いのに、気忙しいことこの上なかった。
 辛抱が足りない男を一瞥して、それとなく部屋を見回す。
 火急を要さないものの、いずれは買おうと思っているものなら、いくつかあった。その中から文句を言われずに済みそうなものを探して、物吉貞宗は目を閉じた。
 視界を闇に染め、心を鎮めようとした。焦ると失敗すると肝に銘じて、なんとか冷静になろうとした。
 だのに瞼を下ろした途端、聴覚が感度を増した。肌を通して流れ込む熱にも敏感になって、太刀の荒い呼気が気になって仕方がなかった。
 鼓動は速まり、ドンドンドン、と銅鑼を叩いているようだ。鼻から息を吸いこめば、雪下ろしで汗を流した後だと分かる匂いが嗅覚に突き刺さった。
 臭い。
 が、決して不快ではない。
「……なんなんですか、これ」
 訳が分からない状況にずるずる沈んでいく感覚に襲われて、物吉貞宗は心の中で呻き、奥歯を噛み締めた。
 顔を伏し、返事を躊躇して背筋を粟立てた。
 あんなに急かして来た男が静かになったのを不思議と思わず、疑問すら抱かなかったのは、不覚だった。
「怪しい奴。そこにいるのは誰だ!」
「うあっ」
 突如、握っていた手を解かれた。体重の一部をそこに預けていた脇差はハッとして、直後に肩を抱く圧力に目を白黒させた。
 ソハヤノツルキは大声で吼えて、右膝を起こし、上半身を前方に傾けた。いつでも立ち上がれるよう身構えて、裁縫箱から裁ち鋏を引き抜いた。
 ほんのわずかな時間のうちに、彼は物吉貞宗を半身で庇い、守るべく己の胸に抱え込んだ。反対の手で武器を探し、鋭利な刃を持つ鋏を装備した。
 一緒に詰め込まれていたものを撒き散らさず、見事な早業だった。
 全く周りを見ていなかった脇差は唐突な展開に混乱して、険しい表情で襖を睨む太刀に総毛立った。
「そ、ソハ……さっ」
「出て来い。そこにいるのは分かっているぞ」
 いったい何が起きたのか、さっぱり分からない。だがソハヤノツルキの口ぶりから推測は可能で、動揺から抜け出せないまま、物吉貞宗は部屋の出入り口を見た。
 本丸は審神者、ならびに神刀である大太刀が創り上げた結界により、敵の侵入を防いでいた。
 もしやそれが、破られたとでもいうのだろうか。
 しかし警戒を促す声や、敵襲に備える動きは一切感じられない。屋敷自体は非常に静かで、五月蠅いのは物吉貞宗の鼓動だけだった。
 無意識の行動なのか、ソハヤノツルキが肩を抱く力は強い。押し退けようにも敵わなくて、逆に逃げられないよう圧迫された。
 右耳が太刀の胸板に当たり、その分厚さや固さが否応なしに感じられた。着ているものが薄いだけに、筋肉の鳴動まではっきり伝わって、体格差を否応なく意識させられた。
「ソハヤさん、苦しい」
 身動ぎ、束縛から抜け出そうと足掻くが果たせない。
 大きな掌は脇差の細い肩をすっぽり覆って、爪先は関節の継ぎ目に食い込んでいた。
 下から覗き込んだ表情は真剣で、気迫に満ちていた。未知の存在に立ち向かい、血気盛んに勇んでいた。
 戦場で刃を振り翳し、敵に挑みかかる時と全く同じ表情だ。
 これまで共に出撃しても、槍や打刀との連携が中心であった脇差にとって、太刀である彼のこんな姿を間近で見るのは、実はこれが初めてだった。
「……っ!」
 普段のどこか惚けた、そして明るくやんちゃな雰囲気とはまるで違う。
 獲物を欲する餓えた獣の横顔を目の当たりにして、物吉貞宗はドッ、と胸を貫くような衝撃に騒然となった。
 息を飲み、瞬きも忘れて男らしい輪郭に見入る。
 奥歯を噛み締めて前方を睨み続けるソハヤノツルキは、なかなか出て来ない不審者に痺れを切らし、裁ち鋏を上下に揺らした。
 丸く穴が開いた握り部分を、指を通すのでなく握りしめ、二枚ある刃を一列に揃えた状態で牽制した。
 それでようやく観念したのか、廊下側から室内を窺っていた存在が、ゆっくり、ゆっくり襖を開いた。
 すう、と隙間が出来て、小さな指先が顔を出した。親指以外の四本が縦に並んで、僅かに遅れて麦の穂色の頭が現れた。
 前髪を横に流し、落ちて来ないよう留め具で固定していた。襟足は大きく跳ねており、首を竦める姿は必要以上に幼かった。
「包丁……藤四郎?」
 口はヘの字に曲げられて、物吉貞宗らに向けられる眼差しは剣呑だ。不機嫌を露わに、隠そうともせず、ぶすっと膨らませた頬を一瞬で凹ませた。
「人妻の気配を感じたのに」
「は?」
「人妻っぽい気配があったのに。なんだよ、全然違うじゃないか!」
 口を尖らせ文句を言われたが、その内容は全くもって意味不明だった。
 握り拳を上下に振り回して、包丁藤四郎が地団太を踏みながら文句を垂れ流した。その訳が分からない抗議にぽかんとなって、ソハヤノツルキは胸元に抱き庇った脇差に助けを求めた。
 鋏を構えた腕を下ろして、呆然としている物吉貞宗と見詰め合う。
 その間も彼の腕は肩に回され、華奢な少年を引き寄せ続けた。
「なんなんだよ、もう。人妻、どこに行っちゃったのさ」
「おい、待て。そんなもの、最初からどこにもいなかったぞ」
「嘘だ。隠したんでしょ。ねえねえ、人妻どこ~。出ておいで~?」
 ふた振り揃って包丁藤四郎に向き直り、太刀が代表して答えたが、話が通じない。
 粟田口の短刀は駄々を捏ねて身を捩り、本気で家探しするつもりなのか、敷居を跨いで入ってきた。
 そうして箪笥の抽斗を引っ張り出し、奥の空洞を覗きこんだり、呼びかけたり。
 おおよそ常識外れとしか言いようがないことを連発して、部屋の主らを呆れさせた。
「おいおい」
 包丁藤四郎とは、ふた振りともに、過去に少なからず縁がある。
 彼は甘えん坊で、甘え上手で、案外口達者で、要領が良かった。
「人妻や~い」
「あの、包丁君。僕の部屋に、そんなのは」
 屑籠に向かって声を張り上げた短刀が見ていられなくて、物吉貞宗は止めさせようと手を伸ばした。ソハヤノツルキの束縛は緩んでおり、脱出は容易だった。
 太刀から離れ、短刀らしい幼い肩を捕まえた。中身の少ない屑入れから引き剥がし、説得すべく目と目を合わせた直後だ。
「いや待て。そういや、ああ。それっぽいのは居たなあ」
「本当?」
「ソハヤさん?」
 鋏を元の位置に戻したその手で顎を撫でた太刀のひと言に、落ち込んでいた少年はパッと目を輝かせ、脇差は信じられないと声を高くした。
 大急ぎで振り返って、物吉貞宗は瞬きを繰り返した。見つめる先で太刀は不遜な顔をして、口角を持ち上げて意地悪く笑った。
 そもそもこの本丸に、女人はひとりも存在しなかった。五虎退が引き連れる虎に雌が含まれている可能性ならあるが、それは別の話だ。
 いったい、何を言い出すのか。
 稚い子供をからかい、振り回すのは止めて欲しい。馬鹿にするのも大概にするよう眼力を強めれば、右目だけを器用に閉ざし、ソハヤノツルキが膝を打った。
「さっきの、物吉が裁縫してるとこ。ありゃ、確かに人妻っぽかったぜ」
 睨まれても飄々として、胡坐を組んで座り直し、呵々と笑いながら大きな声で言い放つ。
 唐突な発言に絶句して、脇差は凍り付いた。
「ぼ、く……?」
「え~。なんだよ、物吉だったの? ちぇ、がっかり」
「ちょっと。違いますよ」
 唖然としていたら、横で包丁藤四郎がつまらなそうに空を蹴った。両手を頭の後ろで組んで、ぶすっとした顔で口を尖らせた。
 露骨に拗ねられて、物吉貞宗は慌てて否定した。言い出しっぺのソハヤノツルキを改めて睨んで、撤回するよう訴えた。
 人妻とは、伴侶を持つ人間の女性のことだ。
 間違っても、刀剣男士を指して言う台詞ではない。
「だから、人妻っぽい、て言ったろ?」
「それでも!」
 対するソハヤノツルキは不敵な笑みで対抗し、揚げ足を取って言い返した。
 近しい雰囲気がしただけで、正確には違うものだ、と言葉尻に含ませたけれど、脇差に言わせればどちらも大差ない。そもそも、そういう存在に揶揄されたこと自体が屈辱だった。
 確かに屋敷に集う刀らの中では小柄な部類に入るけれど、彼だって立派な男だ。戦場で数多の敵を屠る、血の餓えた獣の一匹だった。
「ひどいです。まさか僕のこと、そんな風に思ってたんですか?」
「んな怒るなって。ちょっとした冗談だろ?」
「冗談でも、言っていいことと、悪いことがあります!」
 ところが正反対も良いところの評価を下されて、面白くない。
 到底認められないと抗議して、物吉貞宗は声高に吠えた。
 火が点いたように真っ赤になって、ソハヤノツルキに殴りかかる。ぽかすかと打たれるのを嫌って後退した太刀の向こう側では、包丁藤四郎が退屈そうに欠伸をしていた。
「ちぇ。人妻に頭撫でてもらえると思ったのにな~」
 望みが叶わないと知り、とぼとぼと部屋を出ていった。しょぼくれながら襖を閉めて、戻ってこなかった。
 騒ぐだけ騒いで立ち去った短刀に見向きもせず、脇差は利き腕を大きく振りかぶった。渾身の力を込めて殴りつけて、敢え無く避けられて癇癪を爆発させた。
「ソハヤさんってば、ひどい!」
「こら、やめろ。物吉。痛い。殴るな。悪かった、俺が悪かった。すまん」
「心が籠ってません」
「許せ。このとーりだ」
 尚も拳を振り翳す少年に、壁際へ追い込まれた太刀は白旗を振った。こめかみ近くに一撃を喰らって観念して、両手を合わせ、頭を垂れた。
 肘を水平に広げて首を竦め、土下座とまではいかないが、誠心誠意謝罪する。
 次の一撃を狙って身構えていた脇差は、両目をぎゅっと瞑った男を前に、荒い息を吐いた。
 肩を上下させ、呼吸を整えた。構えは解かないままじっと睨みつければ、恐る恐る様子を窺う太刀と目が合った。
「へ、ヘヘ」
 完全には許して貰えていないと察して、ソハヤノツルキが引き攣り笑いを浮かべた。
「そんなに怒るなって。可愛い顔が台無しだぜ?」
「――っ!」
 彼としては褒めたつもりだったのだが、この場で言うべき言葉ではなかった。
 人妻扱いされた直後に告げられた台詞に、物吉貞宗は怒髪天を突く勢いで拳を振り下ろした。
「いだ!」
「くうっ」
 ソハヤノツルキの脳天を痛打して、跳ね返った衝撃に、脇差も身じろいだ。利き腕を胸に庇って膝を折り、体勢を崩して置きっ放しの針山へと倒れ込んだ。
 危ない、と思ったけれど、避けられない。
 目の前に迫る細く尖った金属棒に、最悪を想像して凍り付いた。
「……!」
 まさか戦場ではなく、安全であるべき屋敷の中で終わりを迎えるなど、誰が想像出来ようか。
 しかし逃れようがない現実に竦み上がって、せめてもの抵抗と両目を硬く閉じた直後だ。
「あっぶねえな」
 次に聞こえてきたのは、肉を貫く針の音でなければ、潰された眼球が四散する音でもなかった。
 ガクン、と上半身が大きく揺れて、直後に抱き起こされた。畳の上に尻から降ろされて、彼は呆然としながら肩を上下させた。
 目の前にソハヤノツルキの顔があった。上腕、並びに背には頼もしい手が添えられて、強かった圧迫感は次第に薄れていった。
 衝突寸前で助けられたのだと、理解するのには時間が必要だった。目まぐるしく変わる状況に頭が追い付かなくて、物吉貞宗は惚けたまま男を見詰め続けた。
「大丈夫か? 気を付けろよ」
 言葉もなく硬直している脇差を案じ、太刀が声を潜めて問いかけた。右手でふわふわの前髪を掻き上げ、額に触れて、真ん丸い瞳を覗き込んだ。
 吐息が掠める距離まで迫って、試しに頬をむにむに抓る。
「はっ」
 それでやっと我に返って、物吉貞宗は奪い返した頬を両手で庇った。
 軽く触られただけなのに、異様に熱かった。じんじん疼いて、撫でた程度では収まらなかった。
 鏡がないので確認しようがないが、きっと耳まで赤かろう。自分で分かるくらいに身体中が熱を蓄え、耳から湯気が出そうだった。
「そ、そもそも。誰の、せいですか」
「まだ言うのかよ。結構根に持つんだな」
「あんな風に言われたら、誰だって怒るに決まってます」
 誤魔化して声を荒らげれば、悪びれもせずに言われた。
 蒸し返されるのを嫌ったソハヤノツルキをねめつけて、物吉貞宗は当分引きそうにない熱を瞼の裏に閉じ込めた。
「だいたい、だったら。僕は、誰の妻なんですか」
「ん?」
「なんでもありません!」
 自分にしか聞こえない音量で囁き、小首を傾げた太刀には怒鳴りつけた。
 一緒に振り翳した拳は、今までにないくらい、力が籠っていなかった。

知る知らぬなにかあやなくわきて言はむ 思ひのみこそしるべなりけれ
古今和歌集 恋一 477
詠み人知らず

2017/01/29 脱稿