茫洋

 西日が射しこみ、照明が必要ないくらいに教室内は明るい。
 けれど壁や柱が邪魔をして、影になった部分は薄暗かった。熱も籠らず、暖かい空気と、冷え切った空気とが複雑に混じり合っていた。
「ふんふふ~ん、ふ~ん」
 二本セットになって並ぶ蛍光灯から注ぐ光は、窓から入ってくる分とは違い、冷徹だった。突き剌さるような光線に温かみは感じられず、早く終わらせろ、と急き立てているようだった。
 その点、自然光はとても優しい。焦らなくてもいいのだと言ってくれているようで、なんとも心地よかった。
 そんな一日の最後を飾る陽光を横から浴びて、沢田綱吉は鼻歌を奏でながら手を動かした。
 握るのは鉛筆の類でなければ、チェック用の蛍光ペンでもない。やや灰色がかった薄手の紙で、折り目を付ける指の動きは滑らかだった。
 設計図を頭の中で展開させて、次はどこをどう折るのか、次々に指令を送り出す。その通りに実行して、何度か裏返し、また表に返して、を繰り返すうちに、平らだった一枚の紙はとある形を描き出した。
「ふふふ~ん、で~きた」
 上機嫌に頬を赤らめ、完成となった作品を右手に掲げる。
 手首を捻り、色々な角度から眺める表情は満足げだった。
 出来上がったのは、紙飛行機だ。先端が鋭利に尖り、翼は左右で少々大きさが異なっていた。
 きちんと揃えたつもりでいたが、どこかで間違えたらしい。けれどたいした差ではないと割り切って、綱吉は出来たてほやほやの紙飛行機を前後に揺らした。
 投げる仕草だけをして、実際にはまだ飛ばさない。
 これで一回転して手元に落ちる、というのだけは遠慮したくて、慎重にタイミングを計った。
 心を鎮め、陰影がはっきり表れている教室の黒板から目を逸らす。
「それっ」
 白いチョークで記された文言は見ないよう蓋をして、彼は意を決して飛行機を宙に放った。
 再テストの文字と時間の表記を標的にして、これを薙ぎ払う爆撃機の心づもりで祈りを込めた。
 けれど現実には、飛んでいくのは貧相な紙製品だ。しかも願いも虚しく、ふらふら宙を泳いだそれは、明後日の方向へと進路を変えた。
 自力でなんとかしてみせろと言わんばかりに、空っぽの教室にひとり居残る綱吉に背を向けてしまう。
「あああ……」
 教卓手前で失速したそれはすい、と右に滑って、徐々に高度を下げていった。
 そのまま十数センチ滑って、開けっ放しのドアの手前で停止した。完全に沈黙して、風でも吹かない限りは動かないだろう。
 暖房が入っていない教室は、時の経過とともに冷えていく。今は机の周囲を照らす天然光も、もうじき消えてなくなるはずだ。
 言い表しがたい切なさに襲われて、綱吉は呻きながら机に倒れ込んだ。広げていた教科書やノートを下敷きにして、弾みでシャープペンシルが転がり落ちても構わなかった。
 辛うじて残っていたやる気も、完全に潰えた。
 今日はこのまま、教室で一晩過ごすのだ。絶望感から投げやりになって、彼は投げ出した足で交互に床を蹴った。
「もう、最悪」
 少し考えれば結果は見えていたのに、時間を無駄にした。
 こんなことなら真面目に取り組んでおくべきだったと後悔しても、すべてが後の祭りだった。
「ぜんっぜん、分かんないってば。誰だよ、こんな問題、考えたやつ」
 問題の解き方は教科書に書かれており、真面目にノートを取っていれば誰でも答えられる。それが出来ないのであれば、日頃の行いを反省すべき。
 そう声高に語ってくれた教師の顔を思い浮かべ、前髪をくしゃりと握りしめた。不貞腐れて口を尖らせて、綱吉は真っ白に近いノートを睨みつけた。
 自分が問題を解けないのは、教える側の説明が悪いからだ。そう言いたい気持ちをぐっと堪え、飲みこんで、彼は渋々椅子を引いた。
「ちぇ」
 平均点があまりに悪かったために行われた再テストは、なんとテキスト類持ち込み自由という大盤振る舞いぶりだった。
 再試験を受けさせられた生徒は合計で十人近くいたが、ヒントを調べ放題とあって、あっという間に解き終えて出ていった。少し前まではもうひとりいたのだけれど、その生徒も先に席を立ちあがり、綱吉だけが残された。
 テストの答案を職員室に提出しない限り、帰れない。監督者がいないので脱走は簡単だが、そんなことをしても、後が苦しくなるだけだ。
 家に帰れば鬼家庭教師が待っている。今日の出来事も、当然のように把握しているに違いない。
 あの極悪ヒットマンに説教されるくらいなら、誰もいない教室で、ひとり寂しく問題と向き合う方がまだいくらかマシ。
 最低最悪の二者択一を迫られて、綱吉は鈍い足取りで教卓に向かった。
 今し方紙飛行機にして放り投げたものこそ、彼が解くべき問題用紙。
 あれがないことには、なにも始まらないし、終わらなかった。
「どうせオレは、ダメダメの、ダメツナですよ~、だ」
 潔く降参して、白紙のまま職員室へ向かおうか。
 何度か書いて、消して、努力の跡を残しておけば、教師だって人の子だ。多少は大目に見てくれるに違いなかった。
 希望的観測に己を奮い立たせ、蜘蛛の糸より細い期待に縋る。床に横たわる紙飛行機へと爪先を向け、拾おうと前屈みになる。
 足元ばかりに目を向けて、周囲への警戒は皆無だった。学校の中は安全だと無条件に信じて、マフィアの次期ボスという己の境遇をも、すっかり忘れていた。
「あっ」
 超直感など、あって無いに等しい能力だ。
 戦闘以外で役に立った経験はあったか、と自問自答して、綱吉はすぐそこに迫っていた存在に頬をヒクリ、と引き攣らせた。
「なに、これ」
 教室への出入り口は前後にあり、どちらも扉は全開だった。
 授業中ならまだしも、今は放課後だ。下校時刻が迫っており、帰宅を促す巡回があってもおかしくない頃合いだった。
 その事実を、すっかり失念していた。
 拾おうとしたものがするりと逃げて行って、綱吉はたらりと冷や汗を流した。しまった、と思うが後悔先に立たずで、穏やかだった心拍数は一気に限界値近くまで上昇を遂げた。
「う、うあ、あぁあっ」
「答案用紙?」
 間誤付いて、上手く喋れない。背中を流れる汗の量は増える一方で、目の前がぐるぐる回り、景色は歪んで見えた。
 その真ん中に立って、黒衣の青年が綱吉の紙飛行機を広げた。
 両手を使って折り目を伸ばし、現れた文字に瞬きを繰り返す。
 白のシャツに黒の学生服を羽織り、空の袖には臙脂色の腕章が。そこに記されているのがどんな文字かは、見て確かめるまでもなかった。
 良く知っている――知り過ぎている声に鳥肌が立ち、内臓がきゅっ、と窄まった。圧迫された心臓が悲鳴を上げて、全身から熱がサーッと逃げて行った。
「終わった」
 人生の終着点を予見して、燃え尽きたかのように真っ白になる。
 ぽつりと呟いて立ち尽くした綱吉の前で、並盛中学校風紀委員長こと雲雀恭弥は、折り線だらけのテスト用紙に眉を顰めた。
 紙飛行機など作って、現実逃避している場合ではなかった。風紀委員は他にもいるのに、よりによってそのトップを引き当てた自分の強運ぶりを嘆かずにはいられなかった。
「良い点数だね」
「……ど、どうも」
 問題用紙は最初にテストした時のものを再利用した格好で、当然だが、前回の点数が赤色で記入されていた。
 五つほど並んだ項目、その全てにバツが記されていた。名前の記入欄横には大きな丸がひとつ飾られて、強調するかのように、真下に二重線が引かれていた。
 これを見て、褒めてくれた人はひとりもいない。
 当然皮肉だというのは理解しており、綱吉は恐縮しながら頭を垂れた。
 生きた心地がしなかった。先ほどから心臓はバクバク言い続けており、濡れ雑巾を絞るかのように、冷や汗が止まらなかった。
 このままでは体内の水分が出尽くして、カラカラに干からびてしまう。
 乾物と化して風に飛ばされる自身を想像して、綱吉は恐る恐る両手を差し出した。
「あ、あの。すみません。返して、ください」
「へえ?」
「ひいいい!」
 なんとかこの状況から脱するべく、正面突破を試みた。しかし案の定跳ね返されて、小心者は悲鳴を上げた。
 雲雀は不遜な顔で笑い、輝かしい零点の答案用紙を空中に躍らせた。左右に揺らして口角を歪め、並盛中学校の恥さらしに目を細めた。
「許せないね。こんな点数の生徒が、僕の学校にいるなんて」
「すっ、す、すすす、すび、ずびば、ぜっ」
 淡々と告げられて、綱吉の全身に電流が走った。
 咄嗟に謝罪しようと口を開くが、恐怖に竦んで呂律が回らない。鼻濁音ばかりで言葉にならず、最後まで言えなかった。
 直立不動で半泣きになった少年に、風紀委員長は眉目を顰めた。解答用紙に視線を落として、聞こえ続ける喘ぎ声に溜息を吐いた。
「さっさと終わらせてくれる?」
「ひゃい!」
 えぐえぐ言って、聞くに堪えない。
 呆れ果てて紙飛行機だったものを突き返し、雲雀は外に向かって顎をしゃくった。
 黒板に書かれた文字も、彼の目には見えていた。再テストという一文だけで、この教室でなにが行われていたかを理解して、甲高く吠えた綱吉に肩を落とした。
 横から奪い取るかのように受け取って、ドン・ボンゴレの後継者は駆け足で机へと戻った。教室のほぼ真ん中に位置する席に座って、落ちていたシャープペンシルを屈んで拾った。
 もっとも、姿勢だけ作ったところで、問題がすらすら解けるはずがない。
 案の定三秒としないうちに行き詰った彼に、雲雀は力なく溜息を吐いた。
「小学生からやり直したら?」
「ひっ、ひどいです。ヒバリさん。そりゃ、オレだって時々、そう思いますけど」
「思うんだ」
 漲っていたやる気も四散して、屍だけが残される。
 見ていられないと呆れられて、綱吉は大声で反論を試みた。
 けれど論議には発展せず、会話はそこで途切れた。自ら恥を曝した少年はうっ、と口籠り、体裁だけは整えるべく、シャープペンシルを握りしめた。
 殆ど使った記憶のない教科書を広げ、落書きや涎の痕ばかり残るノートを捲った。どちらも役に立つとは思えなかったが、目を皿にして問題のヒントを探した。
 けれどちょっと長い文章を見るだけで眠くなり、複雑な記号を見ると頭が痛くなる悪癖だけは、どうにもならなかった。
「ううう……」
「君、あの赤ん坊の生徒だよね」
「リボーンのことは、今は言わないでください~~」
 勉強に対する苦手意識は、長年培われてきたものだ。一朝一夕でどうにかなるものでなく、凶悪家庭教師の名前も、症状を悪化させるだけだった。
 何気なく呟いた雲雀に反発して、綱吉は机の底を膝で蹴った。上に並べている文房具ごとガタゴト揺らして、溢れ出そうになる涙を必死に押し戻した。
 鼻の奥がツンとして、息を吸うとその周辺だけが熱い。
 ぶすっと頬を膨らませて拗ねられて、雲雀は対処に苦慮して頭を掻いた。
 こういう手合いは、暴力で脅しても効果が薄い。教室から追い出すのは簡単だが、根本原因をどうにかしない限り、今後も似たようなことが起きるのは目に見えていた。
 沢田綱吉の家庭教師は凄腕の殺し屋であり、あらゆる分野に通じる卓越者だ。
 雲雀が一目置くのも当然で、その教え子たる少年に期待するのも無理ない話だった。
 ところが蓋を開けてみれば、この体たらく。
 あの赤子は、いったい彼に何を教え込んでいるのだろう。一抹の懸念を抱き、不安を覚え、雲雀は綱吉のひとつ前の席に腰を下ろした。
 椅子を引き、斜めにして、身を落ち着かせる。
 綱吉は一瞬ビクッと身構えたが、雲雀の相手をするよりも、目の前の難問を優先させた。答案用紙に集中することで、外部から与えられる恐怖心を追い払おうとしたらしかった。
 賢明な判断だと内心褒めて、雲雀は右を上にして足を組んだ。左腕をそこに絡め、右手は綱吉の机の角に置き、斜め上から問題用紙を覗き込んだ。
 男子中学生としては小柄な部類に入る綱吉と、雲雀との間には、それなりに身長差がある。頭がぶつかる心配はなく、前髪が擦れることもなかった。
 吐息が触れない距離を保ち、ちらちら飛んでくる視線は無視して、天地が逆の問題を読む。
「ねえ。この問題、さっきのページに似たようなの、あったよね」
「え?」
 そうしてつい先ほどの記憶を掘り返して、人差し指で教科書を小突いた。
 突然の指摘に、綱吉は顔を上げて目を丸くした。ぽかんと間抜け顔を曝して三秒後、ハッとなって教科書を捲り直した。
 どこかにヒントが、と思って探していたが、具体的に見つけたい内容を思い描けていなかった。それで見落とし、素通りしていたと教えられて、衝撃を受けた。
「ほんとだ」
「ちゃんと読んでないからだよ」
「すみません……」
 流し読みで情報が頭に入ってくる人間がいれば、そうでない人間もいる。
 綱吉は明らかに後者であり、もっと念入りに調べる癖をつけるべきだった。
 苦手意識を優先させて、逃げ回ってばかりいては前に進めない。授業にしても、テストにしても、もっと真剣に取り組んでおけば、こんな無駄な時間を過ごさずに済んだのだ。
「紙飛行機は、真っ直ぐ飛んだ?」
「……いえ、全然」
「だろうね」
 嫌味を言われ、ちくりと胸に刺さった。
 呆れ混じりに相槌を打たれたのも、自業自得とはいえ、ショックだった。
 けれどあれがなければ、雲雀はここに来なかった。教室に居残っていた綱吉に帰宅を促し、そのまま立ち去っていただろう。
 言い換えれば、彼を引き留める材料になった。あながち悪いことばかりではなかったと前方を盗み見て、綱吉は教えられたページが閉じないよう、教科書の角に筆箱を置いた。
 重石代わりに使い、紙面の例文と、問題文とを見比べる。
「あ、そっか。こういうこと」
 理解出来るまで繰り返し読んで、六度目を数えてようやく、ストン、と答えが落ちて来た。
 どの数字を、計算式のどこに当て込むか。その答えを自力で見つけ出して、綱吉は詰まることなくすらすら流れるシャープペンシルに目を輝かせた。
「汚い字」
「よ、読めれば、良いんです」
 そこに水を差し、雲雀がふっ、と鼻で笑った。
 綱吉は負けるものかと言い返して、導き出した数字を回答欄に落とし込んだ。
「はい、間違い」
「えええ~!?」
「どうして六と、二十三を足して、二十七になるの」
「あ、本当だ」
 直後に冷徹な一撃が下されて、悲鳴を上げた綱吉は直後に目を点にした。単純な計算ミスに唖然となって、大慌てで書き直した。
 自分でも何故そこを間違えたのか、さっぱり分からない。
 折角いい線までいったのに、こんな単純な間違いで棒に振るのは勿体なすぎる。
 過去どれだけの点数を、このケアレスミスで失ってきたか。
 想像もできなくて、綱吉は脱力して天を仰いだ。
「ほら、急いで」
「いてっ」
 一問解き終えただけなのに、とてつもない疲労感だった。
 久しぶりに頭を使ったと、脳みそが糖分不足を訴えている。しかし与えられたのは、甘い菓子ではなかった。
 トンファーでなかっただけ良かった、と言うべきか。軽い拳骨一発で済んだのに安堵して、綱吉は次の問題を前に舌なめずりした。
 そして。
「……ヒバリさん」
 三秒後。
 ひとりでなんとかしよう、という思いを焼却炉へ投げ捨てて、いそいそと雲雀に向けて教科書を差し出した。
「小動物を甘やかすと、すぐ図に乗るね」
「そこをなんとか」
 ちょっと優しくするだけで、簡単に付け上がる。
 調子が良すぎると叱られたが、重ねて強請り、綱吉は両手を合わせて頭を下げた。
 神仏へ祈る仕草で胡麻を磨られ、雲雀は足を解いて椅子に座り直した。背筋を伸ばし、斜めに傾いでいた身体を正面に向けて、受け取った教科書に目を走らせた。
「まあ、いいよ。君に恩を売っておいて、損はないしね」
「リボーンには、言っておきます」
 言い訳めいた台詞を口にして、綱吉から言質を引き出す。
 漆黒に濡れた眼が、直後、怪しげに輝いた。軽率な発言をしたかと勘繰り、ボンゴレ十代目候補筆頭の少年はヒヤッと来た背中に鳥肌を立てた。
 警戒し、口を噤んだ。
 勝手に溢れる脂汗で腋を濡らして、綱吉は不遜な笑みの男に四肢を粟立てた。
 雲雀はとあるページで手を止めて、その角を三角に折った。他人の持ち物を勝手に痛めつけ、結構な厚みと重量がある書籍を閉じた。
「僕クとしては、ここで今すぐ。君自身で返してもらっても、良いんだけどね?」
 そしてそれを丸めて、俳優らが持つ台本のように振り回した。
「え――」
 顎をくい、と持ち上げられて、一瞬何が起きたか分からなかった。
 反射的に持っていたシャープペンシルを手放して、綱吉は唖然と見開いた目で眼前の男を見下ろした。
 琥珀色の瞳が僅かに歪み、下から覗き込む格好になっている雲雀に瞬きを繰り返す。立ち位置が急に逆転した状態だが、見上げてくる彼の方がずっと不遜で、偉そうなのは変わらなかった。
 俯こうにも障害物が邪魔で、顎を引くに引けない。
 仕方なく眼球だけを下向ければ、そこにあったのはメガホン状になった教科書だった。
 あまり目立たない喉仏が、肉厚の教科書に触れる寸前だった。もうちょっと力を込めていたら、間違いなく喉を潰されていた。
 彼のことだからそんな失態はしないだろうが、認識した途端、冷たいものが背筋を伝った。縮んだり、拡張したりと忙しい心臓がまたバクバク言い始めて、綱吉は告げられた内容を理解するのに、相当な時間を費やした。
 雲雀は不敵に笑うだけで、なにも言ってこなかった。
 だが見詰める眼は肉食獣のそれであり、獲物を値踏みし、見定めている顔だった。
 教室の真ん中で、座ったまま伸びあがり、綱吉は瞬きも忘れて雲雀に見入った。
 彼の方も、逃げることなく挑んできた。
 真正面からぶつかりあう眼差しに、自然と身体が火照っていく。
 雲雀恭弥は、綱吉の家庭教師であるリボーンに固執している。その強さに憧れめいたものを感じており、本気でぶつかり合える日を心待ちにしていた。
 強者と強者のぶつかり合いを、綱吉はいつだって外側から眺めていた。突然マフィアの次期ボス候補に祭り上げられたわけだが、今に至ってもなお、なにかの冗談だと心のどこかで思っていた。
 十四年間の人生のうち、十年以上を弱者として過ごして来たのだ。
 いつかは自分も、と思いつつも、自分では無理だと最初から諦めていた。楽な方へ、楽な方へ逃げ回って、直視しないよう心掛けていた。
 強い人たちは、弱い自分に興味などないと決めつけていた。
 無視されることに慣れていた。
 馬鹿にされ、笑われる方にばかり、耐性がついていた。
「え、あ……」
 ところが今、雲雀から向けられる眼差しは、強者に対して投げかけられるもの。
 ダメダメのダメツナを捕まえて、戦いたい相手として定めていた。
「えと、あの」
 果たして自分は、彼になんと返せば良いのだろう。
 突き刺さる眼光は鋭く尖り、そして熱い。戦闘狂の名に恥じぬ興奮を内に秘めて、拭い切れない好奇心に溢れていた。
 綱吉に興味を抱き、関心を寄せ、その実力を推し量ろうとしていた。
 揺らがず、曲がらず、一直線に押し寄せてくる。
 自分から逸らすなど出来ない。口籠り、綱吉は得体の知れないなにかが湧き起こる衝動に竦み上がった。
「――っ!」
 身体の芯とも言える場所が震えていた。
 魂というべきものを、鷲掴みにされた。
 すべてを曝け出し、示してみせろと訴える情熱に。
 対抗心よりも先に、羞恥心が溢れた。
 ぼんっ、と頭が爆発した。小さすぎる容量に対して、向けられた熱量があまりにも大き過ぎた。
 こんなに長い時間、誰かと見詰め合った経験すらなかった。
「小動物?」
「しっ、失礼、します!」
 限界に到達し、もう耐えられなかった。左右の耳から煙を噴いて、綱吉は怪訝にする雲雀を置いて立ち上がった。
 机に引っ掛けていた通学かばんを引っ掴み、ノートや筆記用具を、無秩序に放り込む。中身がぐちゃぐちゃなのも構わずファスナーを閉めて、まだ一問しか解けていない答案用紙を握りしめた。
 紙飛行機を折った時より皺くちゃにして、惚けている雲雀に深々と頭を下げて。
 猛然とダッシュして、彼は教室を飛び出した。
「なんなの、急に」
 取り残された青年は唖然として、あっという間に見えなくなった背中に瞬きを繰り返した。
 直前に目に映った綱吉の姿は、真っ赤に熟した林檎のようであり、熱湯に茹でられた蛸のようでもあった。
 甘そうな色の瞳を潤ませて、小振りの鼻を震わせて。
 頬を上気させ、唇を噛み締めて。
 その辺の愛玩動物よりもよっぽど愛くるしい姿に呆然として、そんな風に思った自分にも愕然となる。
「なんなの、いったい」
 暗さを増す教室の中で、ひとり。
 彼は手元に残された教科書で、誰もいない場所をコツン、と叩いた。

2016/12/24 脱稿