豊かなりける わが思ひ哉

 気まぐれで降り立った庭を、特に行き先も定めずに歩いていた。
 本丸の庭は、広い。四季折々の花々が咲き乱れ、色彩に溢れている。春になれば桜が咲き、秋になれば紅葉が景色を飾り立てた。
 しかも目で見て愛でるだけでなく、香りも多種多様だ。雨上がりには土の匂いが際立ち、夏場は急速に成長する青草の瑞々しさが一帯に立ち込めた。
「ああ、これか」
 そして秋になって、薫風が鼻先を漂った。
 誘われるように歩いて来た小夜左文字は、四方に広がる甘い香の源を見つけ、感嘆の息を零した。
 殺気を隠そうともしない敵を見つけるのは簡単だが、樹木はそうではない。匂いを頼りに辿り着くのは、思った以上に困難を極めた。
 歴史修正主義者を相手にした方が、余程楽だ。並べて比べるのは失礼かと思うが、連想せずにはいられなかった。
 血腥い逸話を有する短刀相手でも、植物は怯えることがない。遠慮なく近くへ寄って、見目幼い少年は顔を綻ばせた。
 どこか棘がある目つきを和らげ、胸いっぱいに息を吸いこむ。
 少し酸味がある香りを放っていたのは、樹上に咲いた花だった。一輪ずつはとても小さいけれど、無数に集まり、橙色の塊を成していた。
 鮮やかな緑の葉に埋もれながら、存在を主張していた。近くを通りかかれば強い匂いに惹き寄せられて、足を止めてしまうこと請け合いだった。
 長時間で嗅いでいると酔ってしまいそうだけれど、ふわりと香る分には問題ない。嗚呼、と気の抜けた笑みを浮かべて、小夜左文字は低い位置に伸びている枝を小突いた。
 本丸でも際立って背が小さい彼では、高い場所に手が届かない。触れようとした枝も指先を掠める程度で、揺らすのが精一杯だった。
「良い匂い」
 それでも期待に応え、振動を受けた花が一段と香りを強めた。
 鼻からのみならず、全身で吸い込んで、藍の髪の短刀は目元を綻ばせた。
 ここにこんな木が生えていると、全く知らなかった。屋敷の者たちも、匂いがする、と言っていたが、具体的な場所までは語っていなかった。
 ならばあの男も、きっと知らないに違いない。
「ふふ」
 これは是非、教えてやらなければ。
 妙な義務感が湧き起こり、小夜左文字は無意識に拳を作った。それで口元を覆い隠して、押し殺し切れなかった声を漏らした。
 きっと驚くだろうし、喜ぶだろう。
 風流なものを愛で、雅を好むあの男なら、お手柄だと言って褒めてくれるに違いなかった。
 子供のようにはしゃぐ姿が目に浮かんで、面白くて仕方がない。誰も見ていないのを良いことにクツクツ喉を鳴らして、少年は今一度、芳しい香りをいっぱいに吸い込んだ。
 甘く、爽やかで、心地よい。唇を舐めれば、それすらも甘く感じられた。
「歌仙は、気に入ってくれるだろうか」
 樹上に咲き誇る花を眺めて、真っ先に教えたいと思った刀の名前を口ずさむ。
 期待に胸を高鳴らせて、小夜左文字は踵を返した。
 周囲の景色を記憶に焼き付け、屋敷までの歩数を数えた。大体の距離、方角をしっかり把握して、草履を脱ぎ、目的地へと急いだ。
 廊下は走らぬよう、へし切長谷部から厳しく言われている。だから注意されないぎりぎりの速度を維持して、いくつかの角を曲がり、とある部屋の前で立ち止まった。
 入口である襖の横には、この部屋で暮らす刀の号が記されていた。
「歌仙、居ますか?」
 丁寧な文字で描かれたその名を心の中で諳んじて、室内に向かって呼びかける。
 両手は背中に隠し、軽く首を傾げながらの問いかけに、間を置かず返答があった。
「その声は、お小夜かい?」
 質問に質問で返されて、苦笑を禁じ得ない。なにか作業中だったのか、衣擦れの音が後に続いた。
 ゆっくり立ち上がって、畳の縁を跨ぎながら歩く姿が思い浮かんだ。襖という障壁がありながら、手に取るように分かって、小夜左文字は堪らず顔を綻ばせた。
「はい。小夜左文字です。入っても良いで――」
 小さく首肯して答え、入室の許可を求めた。だが最後まで言い切る前に、襖の方が勝手に右に逃げて行った。
「やあ。丁度良かった」
「歌仙?」
 なんてことはない、中にいた男が開けただけだ。わざわざ出迎えてくれた打刀をきょとんと見上げて、短刀は告げられた台詞の意味を考えた。
 歌仙兼定は戦国大名細川忠興に所縁を持ち、三十六人殺しの逸話を持つ血濡れた刀だ。しかし現れたのは肉付きの良い体格をした偉丈夫で、表情は至って上機嫌だった。
 今にも鼻歌を奏でそうな雰囲気に、思い当たる節はない。
 怪訝にしていたら、心を読み取ったかのように、戦装備を解いた男がスッと右に道を譲った。
 塞がっていた視界が広がり、小夜左文字は目を瞬かせた。背筋を伸ばして室内に見入り、前より増えた茶器の数々に総毛立った。
「歌仙、まさか」
「ああ、そうさ。万屋に頼んでおいたものが、ようやく届いてね」
 嫌な予感を覚え、声が上擦った。
 だのに歌仙兼定は得意げに胸を張り、満足そうに頷いた。
 鼻高々、とはこういうことを言うのだろうか。打刀は満面の笑みを浮かべ、早く、と短刀を手招き、一足先に部屋の中央へ戻った。小夜左文字は僅かに遅れて中に入り、後ろ手に襖を閉めて、がっくり肩を落とした。
「また、無駄遣いをして」
 口を開けば自然とため息が漏れた。痛むこめかみを掌で押さえつけて、整理が行き届いているとは言い難い空間にゆるゆる首を振った。
「なにを言うんだ、お小夜。どれも素晴らしいものばかりだというのに」
 独り言を耳聡く拾い、聞き捨てならないと男が拗ねる。座布団に座った彼の掌中には、渋い色合いの茶碗が抱かれていた。
 上部と下部で色合いが異なり、垂れ落ちる釉薬が景色を描いていた。恐らくは著名な窯で焼かれたもので、附属する箱や紐から類推するに、相当な値がついていたはずだ。
 他にも軸に巻かれた掛物に、書が何冊か。藍色の小さな袋の中身は、香合かなにかだろう。
 総額でどれくらいになるか、計算したくなかった。そしてこの男のことだから、店頭で交渉したりせず、あちらの言い値で引き取ったに違いない。
 太っ腹なのは構わないが、万が一の時の蓄えはどうなっているのか。
 もうこれ以上、こちらにだって貸せる銭はないというのに。
「今度は誰に、借金したんです」
「うっ。……し、失礼だね。していないさ、今回は」
「では、前借りですか」
「お小夜。細かいことをねちねち言うのは、雅ではないよ」
 つい先日、花器の支払いを立て替えてやったばかりだ。
 それなのにこの有り様とは、続ける言葉が見つからなかった。
 下手に甘やかしたりするから、こうなったのか。己の行動を反省して、小夜左文字は開き直った男を睨みつけた。
 言い訳ではなく、話題を逸らそうとした辺りが、怪しい。後ろ暗いことがあり、追及されたくないと思っている証拠だ。
 図星なのだろう、と予想して、短刀は肩を落とした。欲しいものがあれば後先考えずで、財布の紐が常に緩い男を、ひと振りで万屋に行かせてしまった自分の失態でもある。
 歌仙兼定は出入り禁止にしてもらうよう、審神者に進言しなければいけない。
 浪費癖はどんどん酷くなっており、ここらで一度、区切りをつけるべきだった。
「歌仙」
「いっ、良いじゃないか。昨日も今日も、僕は畑仕事を頑張ったんだから」
 冷たい眼差しを投げつければ、胸にちくりと来たらしい。急に声を荒らげて、これらは自分への褒美だと捲し立てた。
 なお、一昨日は馬当番で、その前は厠の掃除だっただろうか。とにかく一週間近く、彼は矜持を傷つけられる仕事ばかり任せられていた。
 それで癇癪を爆発させて、散財した。少しも反省の色が見えない男の言い分に項垂れて、小夜左文字は新入りの茶碗に視点を定めた。
 左右に掌を並べて、優しく抱きしめていた。指を軽く曲げて包み込むように持ち、喋っている間も極力揺らさないよう配慮していた。
 大事に、大事に扱って、歌仙兼定はそれをそうっと、木箱の中へと戻した。言葉はひと言も発さず、目つきは真剣だった。
 無事収納し終えて、安堵の息を吐く。汗など出ていないのに額を拭った打刀に呆れて、短刀は爪先で空を蹴り、埃を撒き散らした。
 衣紋掛けには例の派手な外套がぶら下がり、外した具足がひとまとめに置かれていた。刀は床の間の刀掛に寝かされて、火の点かない行燈が畳んだ布団の傍で出番を待っていた。
 壁際に文机が置かれ、派手な硯箱が幅を利かせている。無記入の短冊が周辺に散らばり、違い棚には桜色の花瓶と、香炉が飾られていた。
 彼は目出度く仲間入りした茶碗の入った箱を、文机に避難させた。続けて手に取ったのは掛け軸で、座ったまま広げ、見え易いよう腕に角度を持たせた。
「ほうら。どうだい、お小夜。この美しい月の夜は」
「っ!」
 訝しげにしていた短刀の前に現れたのは、山水画だった。松が生い茂る山々と、足元に広がる湖水を、白い月が淡く照らしている光景だった。
 訪ねたこともない場所なのに、見た瞬間、風景に己が紛れ込んだ錯覚を覚えた。まだ明るい時間だというのに、暗い峠道から真ん丸い月を眺めている、そんな気分になった。
「そう、ですね」
 だが美しい、とは言いたくなかった。
 一瞬でも見惚れた事実を恥じて、小夜左文字は喜色満面とする男に素っ気ない相槌を打った。
 その反応が、思っていたものと違ったらしい。歌仙兼定は面白くないと小鼻を膨らませ、軸を巻いて隠してしまった。
「歌仙?」
「お小夜なら、分かってくれると思っていたんだが」
 風流を愛で、雅を愛する男には、理解者が少なかった。
 感性豊かに事象を眺め、言葉に表してみても、賛同してくれる刀は存外少ない。大抵は「それがどうした」と取り合わず、相手にもしてくれなかった。
 だから彼は、過去に所縁を持つ小夜左文字に執着した。戦国一の文化人と誉れ高い武将の短刀ならば、対等に会話が出来ると期待した。
 それなのに、芳しい結果が得られなかった。拗ねて、不貞腐れて、しょんぼり落ち込んでしまった。
「……歌仙」
 口を尖らせ、頬はぷっくり膨らんでいた。
 どこの赤子かと愕然として、左文字の短刀は藍色の髪を掻き回した。
「洞庭秋月ですか」
 瀟湘八景図のひとつを口にして、膝を折る。畳に直接正座して、彼は男の手元を指差した。
 本来は八幅あるべきものだが、一度で揃えられなかったらしい。これからの季節に相応しいものだけを選んで来た辺り、一応自制が働いたようだ。
 山に囲まれた湖を、月が照らしている。紙の中に閉じ込められた景観は、古来より人々を魅了してきたものだった。
 ごく短い時間眺めただけだったが、あっさり看破した。正解を告げた少年に瞠目して、打刀は途端に頬を紅潮させた。
「さすがは、お小夜だ。良く分かったね」
「分からない方が、どうかしています」
「ああ、そうだった。そうだった」
 手放しに褒めて、嬉しそうに何度も頷く。興奮に鼻息を荒くして、巻いたばかりの軸をまた広げる。
 これが床の間に飾られていたとして、足を止める刀は少なかろう。江雪左文字辺りは反応するかもしれないが、新選組の刀たちは微妙なところだ。
「これからの季節に、ぴったりだろう?」
「ええ、本当に。良い買い物をしました」
「だろう? お小夜もそう思うだろう?」
 季節、時間、天候といったものを組み合わせた山水画は、じっくり己と向き合うにも適している。墨の濃淡だけで表現された世界は、華やかさこそないけれど、暖かく、柔らかだった。
 この軸の前には、どんな花を飾ろうか。香炉は、鳥を模したものが良い。それも水辺で遊ぶ鳥だ。出来るなら、翡翠か、鷺が良い。香は、凪いだ湖面を思わせる静かなものを選びたかった。
 ひとつ考え出すと、際限がない。そして己が表現したい世界を作り上げるには、どう考えても資金が足りなかった。
 歌仙兼定が茶器を買い集めるのには、理由がある。それは痛いくらい分かる。当てずっぽうでやっているのではないことも、承知していた。
「それでね、お小夜。こっちなんだが」
「これは、とても……雅です……」
「だろう!」
 続けて打刀は小さな袋を広げ、中から香合を取り出した。掌にすっぽり収まる大きさで、表面にはびっしりと彫り物が施されていた。
 蔓草の中で、鳥が遊んでいた。小さすぎて分かり難いが、一羽や二羽ではない。探せばもっと沢山、紛れていると想像出来た。
 職人が丹精込めて、削り出したものだ。どうやればこんな風に作れるのか、とてもではないが真似できない。ただひたすら感心して、感嘆の息を漏らすより他になかった。
 こんなに素晴らしいものを見せられたら、庭で見つけた花の香りなど、取るに足りぬものに思えて来た。
 言い出すきっかけが掴めなくて、小夜左文字は血気盛んな打刀に目を細めた。
「かせん」
 素晴らしい品々を手に入れて、歌仙兼定はすっかり舞い上がっていた。
 彼が笑っているのは喜ばしいことなのに、どうしてだか嬉しくない。こんなに近くにいるのに、存在が遠く思えて、無性に寂しかった。
「茶匙もね、新しく拵えてみたんだ。お小夜に見定めて欲しいな。ちょっと待ってくれ、今準備するから」
 呼び声は届かず、打刀は目の前のことに夢中だ。急に立ち上がったかと思えば、短刀には此処に居るよう言って、棚へ向かう足取りは軽やかだった。
 早く言わないと、夜まで拘束されかねない。
 このままでは延々と、茶器の評論につき合わされてしまう。
 焦りを募らせ、小夜左文字は足指をもぞもぞさせた。膝の間に両手を挟んで、棚を漁っている男の背中を物言いたげに睨みつけた。
 奥歯を噛み、鼻を愚図らせる。だが肝心の打刀に、想いは伝わらなかった。
 代わりに。
「歌仙さーん、いる?」
 襖の向こうから、少女じみた明るい声が響き渡った。
「おや?」
 予想していなかった来訪者に、男が先に手を止めた。小夜左文字も腰を捻って振り返り、意外な刀の登場に眉を顰めた。
「ああ、いるよ。どうぞ」
 色々と散らかしたままだが、居留守を使うわけにもいかない。
 仕方ないと部屋の主が入室を許せば、直後に襖がスッと開いた。
 蝋を塗って滑りをよくしているので、引っかかることはない。楽々道を作った短刀は、敷居を跨ぐ前に足を揃え、頭を下げて一礼した。
 動きに合わせて長い髪が躍り、少女じみた姿が一層華やいだ。橙色がぱっと広がって、庭で見たあの花を思い出させた。
 やって来たのは粟田口派が藤四郎のひと振り、乱藤四郎だった。
「あれ、小夜だ。なんだ、こっちにいたんだ」
「探させてしまいましたか」
「ううん。そうじゃないけど」
 彼は入室早々手を叩き、先客に向かってカラコロと喉を鳴らした。なにが楽しいのか顔を綻ばせ、小夜左文字に用はないと手を振った。
 藤四郎は大勢いるが、それぞれかなり個性的だ。五月蠅いのが居れば、大人しいのもいて、本当に兄弟刀かと疑いたくなるくらいだった。
 その中でも際立って個性が強いと言える乱藤四郎は、怪訝にする歌仙兼定ににっこり微笑み、おもむろに明後日の方角を指差した。
「なんだったかな。あのね、燭台切さんと堀川さんが、これから新しい献立の検討会をやるから、歌仙さんも来てくれ、だって」
 そうしてちょっと迷った後、訪ねて来た用件をすらすらと口にした。
 話に出てきた刀は、歌仙兼定と同じくらい、本丸の台所に立っている刀だ。いずれも料理上手の世話上手で、美味しい食事を皆に提供してくれた。
 だが近頃は、出てくる料理が少々固定化されてきていた。同じものが一定間隔で繰り返されるばかりで、驚きが足りない、と一部の刀から不満の声が上がっていた。
 そういう事情もあり、近々新作に挑戦することが決まっていた。
 小夜左文字も手伝いで台所に立つことがあり、話は小耳に挟んでいた。どうやらこれから試作品を作り、改善点を探して行くつもりらしい。
 その輪の中に歌仙兼定が居ないなど、詐欺だ。
 呼ばれた男は嗚呼、と手を叩いて、深々と頷いた。
「分かった。すぐに向かおう」
 本丸第一の料理人として、参加せざるを得ない。快諾した彼は表情を引き締めると、手に持っていたものを棚に戻した。
 大量にある茶匙を雑に片付け、座したままの小夜左文字をちらりと見る。続けて乱藤四郎を気にする素振りを見せた後、こほん、とわざとらしく咳払いした。
「そういうわけだ、すまない。お小夜」
「はい。茶匙の選定は、またの機会に」
「部屋はこのままにしていってくれて構わないからね。それじゃあ、行ってくる」
 畏まって告げられて、藍の髪の短刀は頬を緩めた。少しだけホッとして、後から沸いて来た黒い感情には蓋をした。
 打刀部屋区画から台所までは、それなりに遠い。屋敷が広すぎるのが原因で、改造し過ぎた結果、一部は二階建てになっていた。
 急ぎ足で去って行った男は、襖を閉めなかった。ドスドスと足音を響かせて、少しも雅ではないけれど、注意する声は届かなかった。
「はあ……」
 ようやく解放された。だが結局、此処に来た目的は達成出来なかった。
 庭で嗅いだ匂いは遠くなり、今は歌仙兼定お気に入りの薫香ばかりが鼻についた。気持ちが落ち着いている時は快く感じられるそれも、苛立っている影響か、臭く感じられた。
 無駄遣いは良くないというのに、叱れなかった。終始あの男の調子に呑まれ、主導権を握れなかった。
 それもこれも、万屋が仕入れて来た茶器の所為。
 器物に罪はないと分かっていても、腹を立てずにいられなかった。
 ひとつか、ふたつ、割ってやろうか。
 そんな誘惑に駆られて、禍々しい気配が短刀から立ち込めた。
 けれどそれは、形を成す前に霧散した。
「歌仙さんと、なにしてたの?」
「……べつに」
 まだ居た乱藤四郎が、興味津々に小夜左文字の膝元を覗き込んできたからだ。
 話しかけられて、即座に顔を背けた。今は誰かと会話したい気分ではなくて、放っておいて欲しかった。
 だが乱藤四郎はお構いなしで、滅多に訪ねることのない刀の部屋を物珍しげに眺めていた。
 出ていく様子はない。ならば小夜左文字も、万が一の時の為に、立ち去るわけにはいかなかった。
「浮気者」
 彼が下手に触れようとして、落として割るようなことがあってはならない。
 頼まれてもないのに番人を引き受けた短刀は、一方的に喋った挙げ句、手前勝手に居なくなってしまった男に向かって呟いた。
「ん?」
「なんでもありません」
 話の腰を折ってでも、庭の花の件を切り出す選択肢だってあった。それを選ばなかった自分を棚上げし、歌仙兼定を非難すれば、乱藤四郎が瞬時に振り返り、目を細めた。
 独白の内容までは聞き取れなかったが、なにか呟いたのは分かったらしい。気にするなと断りを入れれば、柑子色の髪の少年は緩慢に頷いた。
 歌仙兼定が好むのは、風流。雅を感じるものを集めて回り、観賞するのが趣味だった。
 茶器に書画と、愛でるものは多種多様。どれかひとつに意識を傾けるのではなく、あらゆる方向に感心を向けていた。
 小夜左文字だけを見ることなど、あの男には有り得ない。
 分かっている。だのに上手く消化出来なくて、藍の髪の短刀は唇を噛んだ。
「これって、歌仙さんが買ってきたやつ?」
「今日、届いたそうです」
 飲みこみ切れない悔しさを持て余し、声を低くする。
 未だ部屋の中をうろうろしていた乱藤四郎に訊かれても、彼は顔を上げすらしなかった。
 答えてやっただけ有り難く思え、と心の中で唾を吐いた。鬱陶しくて、苛々して、怒鳴り散らしたい衝動に駆られもした。
 ささくれ立った感情が表に出そうになって、懸命に抑え込んだ。
 乱藤四郎はふうん、と小さく相槌を打つと、床に広げられていた掛物を横から覗き込んだ。
「こういう絵だったんだ」
「分かるんですか」
「ううん、全然」
 膝を折って屈み、その天辺に顎を置いて、尻は浮かせて。
 上半身を左右に揺らしながらの呟きに、小夜左文字は一瞬驚き、直後に苦笑した。
 実に明朗な回答に、返す言葉が見つからない。困って、向こうの出方を待っていたら、粟田口の少年は背筋を伸ばし、小夜左文字が持ったままだった香合に目尻を下げた。
「けど、歌仙さん。小夜には見せてくれるんだね」
「はい?」
 にっこり笑って、どうしてだか楽しそうに囁く。
 意味が分からなくてきょとんとして、左文字の末弟は瞬きを繰り返した。
「ぷっ」
 惚けた顔が、余程面白かったのだろう。乱藤四郎は腹を抱えて噴き出すと、尻を畳に落とし、膝を左右に広げて胡坐を組んだ。
 見た目に反して男らしい座り方をして、薬研藤四郎にどこか通じる不遜な笑みで口角を歪めた。
「だって、歌仙さん。ボクたちには、こういうの、全然見せてくれないんだもん」
 最初から趣味が分かってもらえないと、諦めているのか。
 それとも乱暴に扱われ、壊されるのを恐れてなのか。
 ともあれ藤四郎たちは、歌仙兼定の部屋に入る機会が殆どなければ、彼の収集物を観賞することもなかった。
「そうなんですか?」
 一方で小夜左文字は頻繁に呼び出しを食らうし、購入前の見定めを頼まれもした。顔を合わせれば新しいものが手に入った、是非見に来てくれ、と誘われて、今日のような時間を度々過ごした。
 てっきり、他の刀たちにも見せびらかしているとばかり、思っていた。
 自分に対してここまでやるのだから、きっと仲間内にも自慢して回っていると思い込んでいた。
 意外だった。
 素直に驚き、目を丸くする。すると乱藤四郎はまたゲラゲラ笑って、頬杖を付き、呆れ混じりに呟いた。
「それだけ、歌仙さんにとって、小夜が特別ってことじゃないの?」
 世辞や、おべっかを言っている雰囲気ではなかった。
 本心からの感想を口にして、彼はひと呼吸挟み、立ちあがった。
「さーって。用事は終わったし、帰ろっかな」
「どうして、そう思うんですか」
「んん?」
 頼まれごとは片付いたし、此処にいたところで暇が潰れるわけではない。物が多すぎて身動きが取り辛いと文句を言った彼に、小夜左文字は慌てて声を高くした。
 焦り過ぎて、上擦った。
 調子外れの問いかけに片目を閉じ、乱藤四郎は伸ばしていた腕を引っ込めた。
 捻った腰を戻し、肩の関節を回して解しつつ、数秒沈黙してからふっ、と息を吐く。
「ここにあるのって、歌仙さんの大事なものなんでしょ?」
「……恐らくは」
「だったら、小夜も歌仙さんの大事なもののひとつ、なんじゃないの?」
「え――」
 あの男が気軽に入室を許し、宝物を惜し気もなく披露する相手は、限られている。
 どうしてそんな風に限定するのか。ひとつの答えを示されて、小夜左文字は息を呑んだ。
 ぞわっ、と湧き起こった震えに背筋が粟立ち、全身の産毛が逆立った。首筋にピリピリと電流が走り、長く閉ざされていた扉が突然開いた感覚だった。
 バンッ、と大きな音を立て、暴風が駆け抜けた。
 一瞬の衝撃に騒然となって、少年は瞠目したまま凍り付いた。
「あ、ねえ。小夜。台所行こうよ。燭台切さんの新作、食べられるかも」
 その彼の横っ面を叩く形で、乱藤四郎が明るく言った。自身の発言がいかほどの重みを抱えていたかも知らず、あっけらかんとして、明後日の方角を指差した。
 気持ちは既に台所へ向かい、調理当番たちが作り上げる料理に騒いでいた。直前のやり取りなど綺麗さっぱり忘れて、涎を垂らしていた。
「僕は、歌仙の料理を、おすすめします」
「なんだって良いよ。小夜が居れば、味見させてくれるだろうし。行こ。ね?」
「仕方ありませんね……」
 濡れてもない口元を拭った彼に手を取られ、引っ張られた。強く握りしめられて、可愛らしく強請られた。
 これは断ったとしても、しつこく頼んでくるに違いない。ならばさっさと承諾することにして、小夜左文字は頬を緩めた。

日に添へて恨みはいとど大海の 豊かなりけるわが思ひ哉
山家集 恋 683

2016/10/10 脱稿