木ごとに花の盛りなるかな

 西の空が朱色に染まり、東からは薄墨を広げたような闇が迫りつつあった。烏が群れを成して山の方へと飛び去り、野犬らしき遠吠えが哀愁を感じさせた。風は昼間に比べて幾ばくか冷たくなり、地面に落ちる影は長い。
「そろそろ上がるか」
「そうですね」
 傍らで汗を拭う男がぽつりと言って、小夜左文字は間髪入れずに同意した。首に巻き付けた手拭いを広げて、顔を覆い、漂う土臭さにホッと安堵の息を吐いた。
 養分をたっぷり含んだ、良質の土の匂いだ。肥料を多めにして、時間をかけて丁寧に耕したので、きっと質の良い作物が育つに違いない。
 雨が降る気配はないけれど、日差しが厳し過ぎることもなかった。突然の嵐に見舞われさえしなければ、数日のうちに若芽が次々顔を出すだろう。
 種まきをした後は、それが一番の楽しみだ。
 本日の苦労の結果を振り返り見て、藍の髪の短刀は気の抜けた笑みを浮かべた。
「あとは、天候次第かな」
「これだけ汚れていれば、誰も俺の事なんて、気にも留めないだろう」
 逞しく、立派に成長してくれれば嬉しい。
 そんな気持ちでぽつりと呟けば、独り言だろう、横から全く関係ないひと言が聞こえた。
 最初の頃は驚かされ、逐一ギョッとなった。しかしずっとこの調子の為、近頃は流石に慣れて来た。
 この卑屈さも、ここまで続けば一種の才能だ。彼は名刀の写しという境遇を卑下しており、全てに対して態度が否定的だった。
 小豆色の上下を身に着け、頭には縁が擦り切れた襤褸布を被って。
 顔を隠し、他者の視線を嫌い、本歌と比較されるのを徹底的に拒む。だが誰よりも彼自身が、元となった存在を強く意識していた。
 小夜左文字に言わせれば、写しであろうとなんであろうと、割とどうでも良かった。
 その本歌たる刀が身近に居れば話は別だが、本丸の屋敷で共に暮らしているは、山姥切国広だ。会ったこともない相手に親近感を抱くのは、なかなか難しい話だった。
「戻りましょう」
「ああ」
 畑仕事ですっかり泥まみれの打刀に合図して、短刀は先に歩き出した。使った農具を手に進んで、古びた小屋に全て押し込んだ。
 立てつけの悪い戸を閉めて、これで今日の内番作業は終わり、と言いたいところ。しかし残念ながら、仕事はまだ残っていた。
「風呂に入りたいな」
「汚れている方が、いいんでしょう」
「……」
 上着の衿を引っ張り、山姥切国広が西日を受けながら呟く。
 思わず入れてしまった合いの手は、冷静に考えればかなりの嫌味だった。
 黙り込まれて、小夜左文字は遅れて「あっ」となった。意地悪を言うつもりは皆無であり、率直に感じたことを口にしただけだった。
 気が緩んでいたとしか思えない。
 後悔先に立たずとはよく言ったもので、短刀は困り果てて右往左往した。
「あんたの言う通りだな」
「山姥切さん」
「汚れて、臭くて、みすぼらしい。俺にお似合いだ」
 弁解も出来ず、狼狽えていた。そこに矢継ぎ早に捲し立てられて、小夜左文字は呆然としながら天を仰いだ。
 山姥切国広の言葉は彼自身に向けられており、完全な自虐だった。短刀を責める素振りは一切なく、むしろ言われて当然という雰囲気を醸し出していた。
 口角を歪めて自嘲気味に笑い、薄汚れた布で赤く照る日の光を遮る。
「ああ……」
 それが見ようによっては拗ねている風に映って、左文字の末弟はがっくり肩を落とした。
 あれは、完全に失言だった。
 言わなくて良いことなのに、うっかり口が滑ってしまった。
 もとより口下手で、洒落のひとつも上手く言えない。不貞腐れてしまった打刀を慰め、元気付ける言葉も、残念ながら持ち合わせていなかった。
 もう少し多弁で、気遣いが出来る刀であれば、こうはならなかっただろうに。
 国広の名を持つ脇差の顔が思い浮かんで、小夜左文字は溜息を吐きつつ、前を行く背中を盗み見た。
 自分も風呂場で汗を流したいと、そんな風に言えばよかったのだ。彼の意見に同調しておけば、少なくともここまで気まずくなることはなかった。
 この後は、畑当番の最後の仕事が待っている。
 それが片付かない限り、短刀はこの打刀から離れるわけにはいかなかった。
「日誌、俺の部屋でもいいか」
「え?」
 だけれど、どうやって切り出そう。
 雰囲気の悪さにあれこれ悩んでいたら、思いがけず向こうから声が掛かった。
 唐突に切り出され、面食らった。吃驚していたら、布に隠れがちの打刀の顔が曇った。
 見つめられるのを嫌がってサッと背け、乱暴に土を蹴ってザクザク進んでいく。慌てて追いかけて横に並べば、訊いておいて返事を待たなかった青年が、不満げに睨んできた。
「俺とは、一緒に居たくないだろう」
「それは、あなたの方じゃ」
 小夜左文字は復讐を求める、血に汚れた刀だ。たとえ写しとはいえ、国広随一の作と讃えられる美しい刀の傍にいては、穢れが伝染ってしまいかねない。
 意趣返しのつもりではなく、真剣に問うた。
 真顔で告げられた打刀は一瞬ぽかんとして、布の上から赤に染まりゆく頬を撫でた。
「……俺の部屋で、良いか」
「構いません」
 遠くを見ながら改めて訊ねられて、小夜左文字は小さく頷いた。お互い人嫌いな偏屈ぶりが、妙なところで噛みあった形だった。
 烏の鳴き声に見送られて屋敷へ戻り、夕餉の美味しそうな匂いに腹を空かせつつ、汚れた格好のまま廊下を行く。合間に何振りかとすれ違って、口々に畑仕事を労われた。
 土臭さを拡散させながら進んで、山姥切国広が襖を開けた。打刀部屋と太刀部屋の境界線近くに設けられた部屋は、入った瞬間に男臭さが漂う空間だった。
「日誌は」
「僕の部屋です。取って来ます」
「なら、その間に墨を磨っておこう」
「お願いします」
 衣紋掛けには打刀の衣服の他に、山伏装束が吊り下げられていた。獣の皮を鞣して作った頭陀袋が足元に鎮座して、洗濯前らしき肌着が無造作に捨て置かれていた。
 布団の畳み方は几帳面だが、小物の整理は行き届いていない。片付け方が両極端で、ここに暮らす者の性格の差が如実に表れていた。
 彼はどうやら、山伏国広と共に過ごしているらしい。
 国広は総勢三振り居るけれど、あと一振りは見る限り、此処で寝起きしていない様子だった。
 二客しかない布団を一瞥し、小夜左文字は敷居を跨がず踵を返した。打刀部屋が並ぶ区画まで突き進んで、間借りして長い部屋の襖を開いた。
 こちらもまた、物が雑多に並べられており、整理整頓が出来ているとは言い難かった。
 片付ける前に新しいものが、次々と増えていく。棚をいくら追加しても足りず、一部の木箱は壁際で塔を成していた。
 そのうち倒れやしないかと、見ていて冷や冷やした。間違ってぶつからないよう注意して、短刀は急ぎ足で文机に向かった。
 放置されていた分厚い日誌を取り、中も確かめずに踵を返す。糸で綴じられた書は手垢がべったり張り付いて、角は黒ずみ、表紙は破れかけていた。
 糊で補修した跡を無意識になぞり、来たばかりの道を戻した。開けっ放しの襖を潜れば、山姥切国広が質素な机を前に座っていた。
 置かれていた硯箱には、必要最低限の装飾しか施されていなかった。歌仙兼定が愛用しているような、黒漆に螺鈿細工といった派手な代物とは、天と地ほどの差があった。
 実用性を重視して、余分を削った一品だ。簡素で味気ないけれど、その無骨さは嫌いではなかった。
「山姥切さん」
 中に入って襖を閉め、呼びかける。
 振り返った山姥切国広は、屋内でも頑として布を外そうとしなかった。
 視界が制限されて見え辛いだろうに、構いもしない。風が吹いて煽られる度に被り直して、押さえ付けるのに常に片手を不自由にしていた。
 傍から見れば馬鹿らしい態度だが、本人は至って真面目だ。最初の頃は邪魔だろうと言っていた仲間たちも、諦めたのか、今はあまり口出ししなかった。
 唯一、脇差の堀川国広だけが、汚れて臭う布の洗濯に固執していた。
 彼らの鬼ごっこは、十日に一度程度の割合で繰り返されていた。その際、打刀が隠れるのを手伝ったこともある。山姥切国広から話しかけて来たのは、思えばあれが初めてだった。
 助けてくれ、と必死の顔で懇願された。
 あまりにも悲痛な声で頼んできたので、断り切れなかった。
「なにを書けば良いんだ」
「今日やったことと、作物の生育状況と」
 薄い座布団の上で居住まいを正し、打刀が渡された日誌を広げて呟く。
 今まで書いたことがないらしい彼の問いかけに答えて、小夜左文字は遠くもなければ近くもない尾場所で膝を折った。
 畳の上に直接正座して、脇から机上を覗き込む。墨は充分な量が確保されて、小筆も準備万端だった。
 書いている途中で閉じないよう、山姥切国広は書の折り目を何度か押して、広げた。手始めに右隅に日付と、担当したふた振りの名前を記入して、こめかみを筆の尻で小突いた。
 半眼して、記憶を手繰り寄せる。まだ数刻しか経っていないのに曖昧にしか思い出せなくて、低く唸って、口を尖らせる。
 端正な横顔が不機嫌に歪み、目つきが悪くなった。舌打ちが何度か聞こえて、苛立っているのが手に取るように分かった。
「西から二番目と、三番目の区画の整備を。それと、茄子と胡瓜の作付け、終わりました」
「あ、ああ。そういえば」
「唐黍は、そろそろ間引きした方が良いです」
 待っていても、筆は動き出さない。
 仕方なく口出しすれば、ハッとした打刀は慌てた様子で文字を書き連ねていった。
 畑の様子を振り返りながら、これから種を撒くべきものや、支柱や追肥が必要な作物も数える。折角芽吹いた分を引き抜くのは残酷かもしれないが、養分をひとつに集中させないと、育つ野菜は中途半端なものにしかならなかった。
 水路にも、補修が必要な個所があった。放っておけば土が崩れ、水の流れが滞り、最悪決壊する恐れがあった。
 雨の時期が来る前に、やっておくことは沢山ある。思いつくまま並べ立てて、小夜左文字は最後にふー、と息を吐いた。
「すごいな、あんた」
「なにがですか」
「畑に、詳しいんだな」
 他にないか考えていたら、藪から棒に褒められた。何事かと胡乱げにしていたら、筆を置いた青年が感心しきりに呟いた。
 その言葉は、他の刀からも貰ったことがある。武器でありながら土いじりに長け、知識を有しているなど、普通はあり得ない話だった。
 賞賛は、侮蔑の裏返しにも聞こえた。刀の癖に、という意識が垣間見えて、あまり好きではなかった。
「……飢饉は、避けたいからね」
 ここではない場所を見て、ぼそりと言い返す。
 山姥切国広は深く追求はせず、緩慢に頷いただけだった。
 言葉以上の意味を嗅ぎ取ってはいないようで、それが救いだった。ホッとして、唇を舐め、小夜左文字は左胸を二度ばかり叩いた。
 とんとん、と着衣の上から撫でて、何気なく視線を文机に投げた。金糸の髪の打刀は律儀に全ての文言を拾い上げ、丁寧な字で紙面に書き記していた。
 箇条書きで、字形は整っていた。どの文字も大きさは統一されて、斜めに進むこともなく、非常に読み易かった。
 習字の、手本のような字形だ。江雪左文字も達筆な方だが、あれは角ばり過ぎていて逆に読み辛い。歌仙兼定は癖が強く、しかも一部を崩し、画数を略してくれるので、時々首を捻らされた。
 それらから比較すると、山姥切国広の字はまさに理想を形にしたものだ。
「綺麗だね」
「はああっ?」
 皆がこんな風に書いてくれれば、助かるのに。
 そんな事を思いながら何気なく呟けば、前方から裏返った、素っ頓狂な声が響き渡った。
 直後にドスンバタン、と派手な音が轟いて、小夜左文字は目を点にした。何故かひっくり返っている打刀に絶句して、頭の上に疑問符を乱立させた。
「山姥切さん?」
「き、綺麗だとか。言うな!」
 仰け反り過ぎて、倒れたらしい。右腕を文机に預けた状態で転がって、布を被った青年が悲鳴を上げた。
 こんなに甲高い彼の声を、初めて聞いた。吃驚する小夜左文字の前で、山姥切国広は動揺激しく目を泳がせ、起き上がろうと足掻くが、なかなか上手くいかなかった。
 ジタバタ暴れて、蹴られそうになった。
 寸前で躱して瞬きを繰り返し、左文字の短刀は慌てふためく青年に苦笑した。
 真っ赤に染まる顔を布で隠し、山姥切国広は背中を丸め、小さくなった。写しである己には過ぎた言葉だと嘯いて、短刀の視線から逃げた。
「……ああ」
 彼はどうやら、意味を取り違えてくれたらしい。
 肝心の部分を省略した為に、思いは正しく伝わらなかった。
「あなたの字が、綺麗だと」
 誰かと比べられるのは不本意だし、面白くない。ましてやその相手が、己と瓜二つであれば尚更に。
 本歌と、写し。
 切っても切り離せない両者の関係は、小夜左文字には到底想像のつかないものだった。
「字……?」
 両手を膝に揃え、言い直す。
 山姥切国広は惚けた顔をして、深く頷く短刀をまじまじと見つめ返した。
 起き上がり、座布団を引き寄せた。座り直し、後ろにずれていた布ごと前髪を握り潰した。
「なんだ。そうか。字、か」
 俯き、クク、と喉を鳴らした。自虐的に笑っていると見せかけて、実際には勝手に勘違いしたのを恥じて、照れているようだった。
 穴があったら入りたいだとか、今すぐ消えてしまいたいような気持は、小夜左文字にも覚えがある。深い意図はなかったのに誤解して、誤解されて、失敗談は枚挙に暇がなかった。
「とても、読み易い。貴方の字、僕は好きです」
「字なんか、誰が書いたって同じだろう」
「まさか」
 ただあまり落ち込ませたままでいるのは、宜しくない。
 慰めのつもりで褒めてやり、短刀は机上の日誌を手繰り寄せた。
 墨が乾いているのを確認して、折り癖がついている頁を捲った。何日か分を巻き戻して、眉を顰めたくなる悪筆を見つけて手を止めた。
「はい」
「……なんだ、これは」
 日誌の向きを逆にして、差し出す。渡された打刀は紙面を覗き込み、眉間の皺を三本に増やした。
 表情は見る間に曇り、難しい顔になった。なんとか読もうとして頑張るが、三行と進まないうちにお手上げだと白旗を振った。
「それは、和泉守さんの」
「そう、か」
 最早謎の暗号文と化している文章は、小夜左文字も読めなかった。但し内容については、無事に理解可能だった。
 何故かと言えば、蚯蚓がのた打つような文字の隣に、米粒ほどの丁寧な字が書き記されていたからだ。
「こっちの、小さい字は?」
「堀川さんの、添削の跡です」
「ブフッ――!」
 気付いた山姥切国広の指摘に、しれっと答える。
 瞬間、打刀は盛大に噴き出した。
 防ごうとして手で口を覆ったが、間に合わなかった。指の隙間から猛烈な勢いで空気が漏れて、しばらく噎せて会話にならなかった。
「ゲホッ、ゲホ、ぐぇっほっ」
 煙でも吸い込んだかのような咳き込み方には、苦笑するしかない。お気に召して貰えたのが嬉しくて、小夜左文字は日誌を引き取り、紙面を撫でた。
 あまりにも汚い和泉守兼定の字の隣には、几帳面な細かい字が添えられていた。彼の助手を自認する脇差が気を利かせて、後で解読して、書き足してくれたものだ。
 この難解極まりない文章がすらすら読めるのだから、流石だ。読めたところで何の得にもならないが、賞賛するには値した。
「ぐぇっふ、うぇ……くふっ」
「大丈夫ですか」
「気管に、入った」
 前方では山姥切国広が、まだ苦しそうに悶えていた。
 いい加減心配になって問えば、口元を拭いながら返事があった。拳で胸元を何度も叩いて、息は乱れ、顔は真っ赤だった。
 彼のこういう姿は、滅多にあるものではない。珍しいものを見たと楽しくなって、小夜左文字は日誌をもう何枚か、捲ってみせた。
「はい」
「……こいつは、綺麗な字だな」
 読み易いよう角度を持たせ、打刀に見せてやる。
 幾分呼吸が楽になった青年は身を乗り出し、興味津々に紙面を覗き込んだ。
 書かれている内容は、作物の育ち具合と、手入れの方法。どこに苗を植えただとか、畑に獣の足跡を見つけたので注意、といったありふれたものだった。
 右肩上がりの癖があるものの、和泉守兼定と比べたら格段に読み易い。文章も整理されているので、これなら翌日の畑当番は、引継ぎが楽だっただろう。
 何が終わって、何が済んでいないのか。指示は明朗で、書き手の性格が垣間見えた。
「誰が、こんな……ん?」
 最後まで読み切ってから、山姥切国広は視線を右に戻した。真っ先に日付を確認して、その下に連なる名前に瞬きを繰り返した。
 きょとんとして、見間違いを疑って目を擦る。
 だが墨で記された文字に、修正の痕はなかった。
「嘘だろう」
「陸奥守さんです」
「訛ってないぞ!」
 唖然とし、信じ難い顔をする。
 そこに小夜左文字が追い打ちをかけて、彼は声を張り上げた。
 右腕を横薙ぎに払い、膝で畳を蹴った。座布団の上で中腰になって、愕然としながら頭を抱え込んだ。
「陸奥守が、まともな文章を書いている、だと……?」
 話に出た打刀は、土佐訛りが抜けない刀だ。明るく、弾けた性格をしており、前の主の影響を受けてか、刀でありながら拳銃を愛用していた。
 その彼が、筆を持ったら別人だった。
 文体からはまるで想像がつかなくて、意外な事実に頭痛がした。
「あとは、これとか」
「…………博多か」
「正解です」
 腰を沈めて座り直した彼に、小夜左文字はまたも日誌を捲った。
 見せられた文章は、平仮名が多い。しかも話し言葉が、そっくりそのまま書き記されていた。
 こちらは盛大に、訛っていた。今度は一目見ただけで、書き手の顔が思い浮かんだ。
 眼鏡をかけた小生意気な短刀が、瞼の裏で元気よく跳ねている。彼にはいつだったか、その髪は小判みたいな色だと、褒めているのかどうか良く分からない感想を貰ったことがあった。
 頭痛だけでなく、眩暈までしてきた。鼻梁に指を添えて渋面を作り、山姥切国広は深く溜息を零した。
「俺は、なら。鏡文字でも書くべきなのか」
 山姥切の写しとして、文章にも個性を出した方がいいのだろうか。
 そんな悩みが湧き起こって、呻くように囁いた。
「ふっ」
 真剣に迷い、考えた。
 だのに、笑われた。小さな短刀が小さく噴き出して、慌てた様子で日誌を盾に隠れた。
「おい」
「読み辛いのは、勘弁です」
 気に障って拳を作り、声を荒らげる。すると小夜左文字は左半分だけ顔を出し、首を竦め、早口に告げた。
 確かに鏡文字は読み難い。それ以上に、書くのが大変だった。
「まあ、そうだな」
 思いつきで言ったが、およそ現実的ではない。馬鹿なことを考えたと反省して、山姥切国広はふー、と長い息を吐いた。
 胡坐を作り、背筋を伸ばした。心を落ち着かせて、蘇りかけた和泉守兼定の文字は彼方へと蹴り飛ばした。
 当分、この件で笑って過ごせそうだ。どうしても我慢出来ず、緩む頬を手で隠して、彼は立ち上がった少年を目で追いかけた。
「小夜左文字」
「明日の当番が決まるまで、預かります」
「ああ、そうか。頼む」
 急にどうしたのかと問いかければ、閉じた日誌を揺らされた。内番の担当発表は夕餉の後と決まっており、明日が誰になるかはまだ不明だった。
 やるべきことは、全て終わった。あと少しすれば、食事の準備が整ったのを知らせる鐘が鳴るだろう。
 思い出した途端、腹が減った。ぐぅ、と小さく鳴った場所を押さえて、山姥切国広は小さな背中を見送った。
「あの」
「なんだ」
 それが、出ていく直前、振り返った。
 襖の引き手に指を添えて、小柄な短刀は腰から上だけを打刀に向けた。
「次の時も、あなたが書いてください」
「俺が?」
「あなたは、みんなより綺麗だから」
 淡々と、抑揚なく。
 真っ直ぐ目を見詰めながら、告げられた。
 直後に小夜左文字は襖を開け、廊下に出た。後ろ手に閉めて、足音を立てて走り去った。
 ひとり取り残されて、山姥切国広は呆気に取られて目を丸くした。
「……は?」
 去り際に、意味深な台詞を残された。
 考え方によっては、幾種類もの解釈が出来た。金糸の髪の青年は絶句して、被った布を乱暴に引っ張った。
 顎の先まで被って顔を隠し、本日二度目の転倒を果たした。バタン、と埃を撒き散らし、うつ伏せになって、奥歯を噛み締め、膝を丸めて小さくなった。
 あれはきっと、単に字が綺麗だから、と言いたかったに違いない。
 深い意味もなければ、意図もない。からかわれたとは思いたくないが、真剣にそう思われたとしたら、それはそれで恥ずかしかった。
 泥にまみれ、汗臭く、みすぼらしい格好をしているのに。
「綺麗だとか、言うな」
 大嫌いな言葉なのに、今の一言だけは、心底嫌だと思えない。
 布の奥で悪態をついても迫力はなく、声は微かに震え、掠れていた。

一時の遅れ先立つこともなく 木ごとに花の盛りなるかな
聞書集 133

2016/06/01 脱稿