咲かでしもさてやまじと思へば

「ふぁ……」
 明るい陽射しと、麗らかな陽気に誘われたのだろうか。
 息を吐くべく、口を開いた瞬間だった。漏れ出た呼気が色を持ち、眠たげな音を紡ぎだした。
 そんなつもりはなかったのに、唇が上下に大きく別たれた。望んでもないのに瞼が降りて、視界が一瞬闇に染まった。
 肺の中にあった空気を、意図せず全部吐き出した。姿勢は若干仰け反り気味になって、口を綴じると同時に元に戻った。
 目尻に涙が、頼んでもないのに浮き上がった。乾いていた眼球が潤いを取り戻し、見える景色が微かにぼやけた。
 欠伸だった。
「ふあ、あ……んぁ、ぅ」
 しかも一度きりではなく、続けて二度目の声が漏れた。
 涙の量が一気に増えて、睫毛を越えて流れ出そうになった。慌てて拭って誤魔化すが、その間に三度目の欠伸が現身を襲った。
 淡い吐息を連続させて、開き過ぎた唇の端を指で労わる。普段ここまで開くことがないから、慣れない皮膚が切れそうだった。
 ぱっくり裂けていないかを撫でて確かめて、小夜左文字はついに堰を切った涙を袖に吸わせた。
 襷で縛って固定しているところに、首を倒して押し付けた。乱暴にぐりぐり擦りつけ、頬が赤くなるのも厭わなかった。
 摩擦に負けて色味を強めた肌だが、暫くすれば落ち着くだろう。欠伸の方もひと段落ついて、少年は安堵の息を吐いた。
「珍しいね。小夜が、欠伸なんて」
「……べつに」
 そこに、近くから声が掛かった。顔を上げて首を捻って、短刀は笑っている打刀を睨みつけた。
 彼らは、刀剣の付喪神。歴史改変の目論見を阻止する為、時の政府の指示を受けた審神者によって見出された存在だった。
 審神者に喚び出された付喪神は、人を真似た現身を等しく与えられた。本丸と呼ばれる広大な敷地に建つ屋敷で暮らし、生活も人のそれに準じていた。
 即ち、日に何度か食事を摂り、夜間は眠りに就く。斬られれば傷が生じ、血が流れ、度合いが酷ければ最悪折れることとなる。
 ただ人間と違うところもあって、特に決定的なのが、傷が癒えるのが異様に速いこと。手入れ部屋と呼ばれる場所に行き、特殊な札を用いさえすれば、どんな大怪我でさえ一晩のうちに平癒した。
 基本構造が違う為か、病気もしない。手入れが終わった直後は怠さが残り、何をする気も起こらない事ならあるが、熱を出して寝込むというのは、今のところ誰の身にも起きていなかった。
 刀なのだから、痛みを覚えることも、食事を必要とすることもないだろうに。
 しれにも拘わらず審神者は、およそ不必要と思われる種々の機能を、刀剣男士に付与していた。
 眠気も、そのひとつだった。
「良く眠れなかったのかい?」
 重ねて問いかけられて、返事をするのは正直億劫だった。
 けれど答えなければ、答えるまでずっと構い倒される。それが分かるから、小夜左文字は仕方なく口を開いた。
「出陣してたから」
「ああ。そういえば、戻りが遅かったね」
 欠伸の代わりに言葉を連ね、重い腕を持ち上げる。普段より身体が動かし辛いのも、睡眠時間が足りていない所為だった。
 幕末期の一大事変への介入は、夜の街を駆け抜ける必要があった。次々襲い掛かってくる遡行軍を蹴散らして、息つく暇もなかった。
 狭い場所での戦闘が多く、身体の大きい者たちには不利な戦場だ。だから短刀や脇差といった、小柄で身軽な刀が編成の中心だった。身を隠す場所も多いので、背後を衝かれての急襲も警戒しなければならなかった。
 常に緊張状態で、終わった後の疲弊感は凄まじい。
 しかも命のやり取りをやっていたわけだから、身体は疲れているのに、興奮状態からなかなか脱せなかった。
 当然すぐには寝付けず、目が冴えたまま朝を迎えた。
 一方でこの打刀は、短刀の苦労も知らず、暢気に寝こけていた。
 小夜左文字が手入れを終えて部屋に戻った時、歌仙兼定は眠っていた。布団に忍び込もうとした時にちょっとだけ目を覚ましたが、夢うつつで、会話は成立しなかった。
 夜戦に出たのは昨日が始めてではないし、これまでも戻りが遅い日はあった。神経が高ぶり、なかなか眠れなかったとしても、ちょっとは休めていたというのに。
 今回に限って、上手くいかなかった。
 熱を処理し切れなかったと臍を噛んで、小夜左文字は溜息を吐いた。
「今からでも、横になってくるかい?」
 一番鶏の声はかなり前で、既に陽が昇って、空は明るかった。冬場ならまだ真っ暗だという時間帯で、季節の移り変わりが肌で感じられた。
 彼らが向かっているのは、台所だ。これから本丸で暮らす刀たちの朝食を、大急ぎで用意しなければならなかった。
 刀剣男士は五十振り近くいるから、かなりの大仕事だ。まずは竈の神に拝礼して、そこから後は休みなしだ。
 そんな重労働に、眠そうにしている短刀を連れていけない。
 火や包丁を扱う場所でもあるので、注意力散漫なのは危険だった。
「問題ない」
「いいや、小夜。休める時に、休まないと」
 強がりを言われて、打刀は瞬時に反発した。良く見れば小夜左文字の足取りは乱れ、左右にふらついていた。
 語気を強め、歌仙兼定が右手を振った。これ以上先に進ませないと道を塞いで、高い位置から短刀をねめつけた。
 険しい顔をされて、行く手を遮られた。その傲慢ぶりにむっとして、小夜左文字は口を尖らせた。
 どうせひとりで居ても、眠れないのだ。悪夢にうなされる回数は減っていたが、完全に消えたわけではなかった。
 未だに転寝をしていて、跳び起きることがある。全身は汗でぐっしょり濡れて、眠る前より憔悴していた。
 ゆっくり休むなど、無理だ。
 分かっているくせに無責任なことを言った男を睨み返して、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。
 怒って拗ねてみせるが、体格が幼いのもあり、あまり迫力がなかった。むしろ愛らしさが倍増して、打刀から怒る気を失わせた。
「小夜」
 困り果て、歌仙兼定が肩を落とす。小夜左文字はそっぽを向いて、右足を振り回した。
「そもそも、歌仙が悪い」
「待ってくれ。どうしてそうなるんだ」
 脛を蹴られ、男は眉を顰めた。呆れ混じりに呟いて、廊下の真ん中に立つ少年に目を眇めた。
 本丸の中核施設である屋敷は、いくつかの区画に分かれていた。刀剣男士が寝起きする居住区に、手入れ部屋。または書物や、特定の季節にしか使わない物などを収めた倉庫などで構成されていた。
 台所は東の端にあり、何個所かに散らばる居住区の、どこからも遠い。まだ寝ている刀たちの鼾は聞こえず、静かだった。
 鳥の囀りすら響かず、互いの声や、呼吸音ばかりが耳についた。壁に設けられた明かり取りの窓からは、早朝とは思えない明るい光が注がれていた。
 八つ当たりを受け、打刀は口をヘの字に曲げた。上唇を突き出す形で不満を露わにし、少し間を置いて胸元で腕を組んだ。
 彼は襷を結んでおらず、白の胴衣の袖が揺らめいていた。前髪は後ろに梳き流されており、狭い額が剥き出しだった。
 小夜左文字は兄ふた振りが揃った後も、昔馴染みであるこの打刀の部屋で寝起きしていた。
 血濡れた逸話を持つ短刀は、姿無き影に怯え、幻聴に苦しめられていた。自責の念に押し潰されそうになり、仇討を求めることで己を保っていた。
 眠れば夢を見た。黒く染まった怨讐に襲われ、平静でいられなかった。
 それが何故か、歌仙兼定の傍では楽になった。三十六人殺しを悪びれもせず自慢して、名の由来を誇っている男には、短刀を苦しめる怨嗟も近づけないらしかった。
 もっとも今では、彼の助力なしでも、小夜左文字は眠れた。魘されることはままあるけれど、前ほど夜を怖れなくなった。
「小夜。僕は君を心配して、言っているんだ」
 意地悪のつもりで忠告しているのではなく、単に身を案じているだけ。
 何故聞き入れてもらえないのかと抗議して、歌仙兼定は声を荒らげた。利き手を上下に揺らして、強情を張る短刀に一歩踏み込んだ。
 二尺ほどあった距離を一気に詰めた彼から、小夜左文字は反射的に後退した。壁に寄って肩を預け、ふいっと顔を背けて頬を膨らませた。
 眠れなかった責任を押し付けて、その後はだんまりを決め込んだ。上目遣いに睨みつけて、意地でも理由を言わないつもりだった。
 欠伸を繰り返すのも珍しければ、ここまで我が儘なのも珍しい。
 粟田口の短刀たちに比べて聞き分けが良い方なのに、今日は異様に頑固だった。
「小夜」
 歌仙兼定の所為で寝付けなかったと言うが、そもそも彼は何もしていない。いつも通り布団を敷いて、愛し子の無事を祈りつつ、帰りを待てずに眠ってしまった。
 襖が開いた時、気配で目を覚ましはした。
 だけれど完全な覚醒には至らず、小夜左文字が布団に入ったのを確認して、気がつけば朝だった。
 それとも覚えていないだけで、実は彼に無礼を働いていたのか。
 眠っている時の記憶は、流石に残っていない。
 身体が無意識に動いていた可能性は、否定出来なかった。
「まさか僕は、なにか……した?」
 拗ねている短刀を前に、嫌な予感がした。
 初めてそこに思い至って、打刀は声を震わせた。
「してない」
 けれど、懸念は瞬時に払拭された。
 間髪入れず否定されて、歌仙兼定はホッと安堵の息を吐いた。
「そ、そうか」
 寝ている時に妙な真似をしたのではないかと勘繰ったが、杞憂だった。変態じみた行動を取ったのではないと判明して、彼は胸を撫で下ろした。
 全身の力を抜き、頬を緩めた。疑念が晴れて嬉しそうな顔をして、それからはて、と首を捻った。
 ならばなぜ、小夜左文字は怒っているのだろう。
 変な悪戯もせず、大人しく寝ていたのであれば、歌仙兼定にはなんら否がない筈なのに。
「あいたっ」
 出発地点に戻されて、訳が分からなかった。
 思い当たる節に行き当たらなくて困っていたら、またしても脛を、力いっぱい蹴飛ばされた。
 弁慶の泣き所に一撃を食らい、打刀は聞き苦しい悲鳴を上げた。その場でぴょん、と飛び跳ねて、半尺ほど後ろに着地した。
 短刀から距離を取り、不意打ちの痛みに耐えた。歯を食いしばって涙を堪え、予想外に鋭かった攻撃に目を白黒させた。
「酷いじゃないか、小夜」
 どうして蹴られなければならないのか、それも分からない。
 不条理な暴力に抗議して、男は小鼻を膨らませた。
 下唇を突き出して、憤懣やるかたなしの表情で短刀を見下ろす。そこから二尺程度下がったところで、小夜左文字は鈍感極まりない男に拳を作った。
「小夜?」
 唇を真一文字に引き結び、元から険のある眼差しを一層強めた。
 打刀を仇のように睨みつけて、踵で思い切り床を踏み抜いた。
 ダンッ、と凄まじい音がした。
 この場に他に誰かいたならば、確実に振り返るくらいの勢いだった。
「だから!」
 牙を剥いて吼え、直後に息を詰まらせた。
 雑に結い上げた髪を尻尾のように振り回して、彼は奥歯を噛み、顎を軋ませた。
 悔しさと腹立たしさが同居して、どうにもならない表情だった。
 苛立ちと憤りがない交ぜになり、どう吐き出せば良いのか分からない様子だった。
 細い肩を小刻みに震わせ、握り拳は固かった。内側に巻き込んだ親指は力み過ぎて色を悪くし、噛み締めた唇は赤紫だった。
 目尻に、欠伸が原因ではない涙が滲んだ。
 制御できない感情に操られ、小夜左文字は大きくしゃくりあげた。
「さよ……」
「歌仙の、せいでっ」
「だったら、僕が何をしたのか教えてくれないか」
 見るからに痛々しく、胸に迫る姿だった。
 哀れに涙を堪える少年に寄り添おうとして、打刀は声を潜め、身を屈めた。
 膝を折り、片方を床に据えた。視線を低くして、短刀を見上げる形に作り替えた。
 距離が狭まった分、相手の顔が良く見えた。また蹴られないよう注意して、歌仙兼定は首を右に倒した。
 屋敷の短刀たちを相手にする時の、営業用の笑顔で目尻を下げる。警戒心を抱かせないよう気を配り、気難しい少年の懐に入ろうとした。
 それが分かっているのか、小夜左文字はじり、と後退した。
 壁に背中を張りつかせ、見た目だけは心優しい好青年に口を尖らせた。先ほど言いかけた言葉を唾と一緒に呑み込んで、臼歯を擦り合わせ、カチカチ五月蠅く噛み鳴らした。
「言ってくれないと、なにも分からないよ」
 責任は打刀にあると主張しておいて、それ以外は固く口を閉ざしている。
 これでは話し合いなど不可能で、相互理解も深まらなかった。
 小夜左文字は、歌仙兼定が何もしなかったと言った。だというのに、良く眠れなかったのは彼の所為だと譲らない。
 このふたつの意見は、本来両立し得ないものだ。静かな環境を手に入れた短刀は、安心して眠りに就けただろうに。
 話が支離滅裂すぎて、理解出来なかった。
 至極当然の主張を展開して、細川の打刀は立てた膝に右手を置いた。
 背筋を伸ばし、片膝立ちの状態で昔馴染みを仰ぐ。
 斜め下から覗きこまれて、復讐に囚われた短刀は口をもごもごさせた。
「だか、ら」
 もぞもぞ身じろいで、両手を壁に貼り付けた。背中との間に挟んで、爪先立ちになって距離を稼ごうとした。
 もうこれ以上下がれないのに抵抗して、視線を左右に彷徨わせた。落ち着きなく辺りを見回し、誰も来ないと知って小さく舌打ちした。
「教えてくれないか、小夜」
 足元では歌仙兼定が跪き、懇願を繰り返した。
 あんなに強かった睡魔は、やり取りの最中ですっかり消し飛んでいた。もう眠くもなんともなく、欠伸は遠い彼方だった。
 ふわふわしていた意識は研ぎ澄まされ、怒りよりも羞恥に染まっていた。じっと見つめられて顔が火照って、身体の芯が熱くて堪らなかった。
 そんなに真っ直ぐ見ないで欲しい。
 突き刺さる眼差しに膝をぶつけ合わせ、小夜左文字は弱々しく頭を振った。
「昨日、歌仙が」
「ああ」
「なに、も。しなかった」
「うんうん……うん?」
 小さく口を開き、ぽつぽつと小声で語り始める。
 耳を傾け相槌を打っていた歌仙兼定は、消え入りそうな囁きにはて、と首を傾げた。
 うっかり頷いてから、右に倒した。太めの眉を真ん中に寄せて、真っ赤になっている短刀に瞬きを繰り返した。
 小夜左文字は鼻を愚図らせ、頬を強張らせていた。背中に隠していた両手は、今は着物の裾を握りしめていた。
 尻端折りで折り返した布の、輪になった部分を皺だらけにしていた。白の股袴から覗く足は細く、手入れ部屋でも直し切れない傷でいっぱいだった。
 解けかけの包帯が波打っていた。肉付きの悪さは天下一品で、どれだけ食べても太らない体質だった。
 彼の兄である宗三左文字や、江雪左文字も、かなり華奢な体型をしていた。特に次兄などは、背が高いくせにひょろっとしており、叩けば折れそうな体格だった。
 触っても骨張っており、あまり柔らかくない。ただ見た目の貧相さに反し、打力は短刀でも際立っていた。
 体力もあり、根性が据わっている。守り刀として大事にされてきた他の短刀とは違い、実戦経験豊富だった。
 敵を求め、仇を探し、好戦的で、だからこそ危うい。
 ひとりで良いと強がりながらも、心細さと寂しさを隠そうとしない。ひょんなことでぽっきり折れてしまいそうで、歌仙兼定はそれが不安だった。
 出会ったばかりの頃は、彼の強さと気高さに憧れた。
 本丸で再会を果たした後は、昔は気付けなかった彼の脆さを支えたいと、強く願うようになった。
 誰よりも彼を愛おしく感じていた。
 小夜左文字に関することは、どんな小さな事でも無視できなかった。
 大切に思うからこそ、世話を焼いた。時に鬱陶しがられたりもするけれど、放ってはおけなかった。
 昨晩のことも、彼の安眠を妨害したわけではなかったと分かり、ホッとした。
 しかし小夜左文字は全く眠れないまま朝を迎え、ふらふらして、具合が悪そうだった。
 状況がこんがらがって、頭が上手く働かない。
 何もしなかったのは良いことの筈なのに、非難されて、意味不明だった。
「ええと、小夜。どういうことだい?」
 早くしないと、朝餉に準備が間に合わない。あまり長話をするわけにもいかなくて、気が急き、早口になった。
 両手を広げて問い質した男に、短刀は脇を締め、肩に力を込めた。
 自然と肘が折れ曲がり、跳ね上がった。掴んでいたものも引っ張られ、白くしなやかな脚が露わになった。
 普段は隠れがちの腿が、眩しい。
 本能的にそちらに目をやってしまって、歌仙兼定は大慌てで顔を背けた。
 その横っ面を、甲高い声が引っ叩いた。
「歌仙がなにも、してくれなかったから!」
 羞恥心の限界を超えて、劣情が爆ぜた。
 内股になって膝をぶつけ合わせて、小夜左文字は鈍いにも程がある男に唾を飛ばした。
 屋敷の廊下で大声で吼えて、肩を怒らせ、目を吊り上げた。火を噴きそうなくらいに顔を真っ赤にして、荒い息を吐き、唇を引き絞った。
 冷たいものを浴びせられて、打刀は絶句し、凍り付いた。
 きょとんと目を丸くして、勢いに負けて仰け反り、瞬きを繰り返した。
「――え?」
「昨日、は。道中で、後藤藤四郎が、重傷になって。相手は検非違使だったから、遡行軍はあいつらに任せて。撤退、した」
 茫然としていたら、小夜左文字が舌足らずに捲し立てた。短刀だけでの出撃の顛末を語り、途中でしゃくりあげ、言葉を切った。
 いつもより早めに戦場を脱出したので、最後まで戦うつもりだった者にとっては消化不良だった。敵に敵の討伐を任せるのも、戦術としては間違っていないが、面白くなかった。
 悶々として、すっきりしなかった。
 達成感が得られなくて、中途半端に熱が残った。
 ひと眠りすれば落ち着くと信じて、寝床としている打刀の部屋に戻った。細心の注意を払ったのだけれど、荒々しさを残す気配は隠せず、起こしてしまった。
 期待はしていなかった。
 けれど思いがけない出来事に、胸が高鳴った。
 もしや帰ってくるのを寝ずに待っていてくれたのかと思い、嬉しくなった。処理に困っていた戦場で生じた熱が、一瞬にして別のものに置き換わった。
 敵を斬り伏せる興奮が、色を変えた。
 鼓動は自然と早くなり、身体の奥が疼いて仕方がなかった。
 だというのに、歌仙兼定は何もしてこなかった。短刀が布団にもぐりこむのを見届けるや否や、目を閉じ、すやすや眠りに堕ちてしまった。
「それは。え、と。じゃあ、まさ、か……」
 掛け布団の端を一寸だけ持ち上げて、此処に来るよう招いてくれたから、余計に紛らわしかった。横になったところにとんとん、と頭を撫でられて、次は別の場所に触れられると待ち構えていた。
 だのに、なにも起きなかった。
 歌仙兼定は小夜左文字の肩に腕を預けたまま、すよすよと寝息を立てた。
 絶句した。
 唖然となった。
 信じられなくて、揺り起こそうとしたが、反応は芳しくなかった。
 叩いても、抓っても、起きなかった。こちらの心構えは万全で、受け入れる気満々だったのに、肩透かしを食らった。
「したかった、のに」
「っ――!」
 付喪神の現身を蝕む欲望を、熱を、発散したかった。
 快楽を共有して、ひとつに繋がりたかった。
 しかし結果は、どうだ。望んでいたものはひとつとして得られず、行き場の無い感情が薄れるまで、ひたすら耐えるよう求められた。
 苦行だった。
 寝つけるわけがなかった。
 言っているうちに恥ずかしくなったのか、最初こそ大きかった小夜左文字の声は、尻窄みに小さくなった。もじもじ身を捩りながら、朴念仁の脛を蹴り飛ばした。
 力は入っておらず、殆ど撫でるに等しかった。痛くも痒くもない攻撃に目を白黒させて、打刀は慄き、背筋を粟立てた。
 瞬きを忘れた眼は充血し、真っ赤だった。唇は土気色をして、わなわな震えていた。
 据え膳を食いそびれた。
 久方ぶりに身体を重ねる好機だったのに、そうとは知らず、逃していた。
「いや、あ。いや、えっと、あの。小夜、ちょっと。ちょっと待って」
 支離滅裂に思えた説明が、これでひとつに繋がった。
 歌仙兼定が何もしなかったからこそ、小夜左文字が眠れなかった理由が判明して、騒然となった。
 惜しいことをした。
 勿体ないことをした。
 どうしてそこで眠ってしまったのかと、数刻前の自分を殴り飛ばしたかった。
 動揺を隠し切れず、打刀は頭を抱え込んだ。左手は短刀に向けて伸ばして、触れる寸前で躊躇した。
 長くしなやかな指が、喉の手前を滑り落ちていく。
 それが膝に落ちて転がるまで見送って、小夜左文字はぶすっと頬を膨らませた。
「歌仙など、知るものか」
「いや、待って。待ってくれ、小夜。せめて、ああっと……だから、今夜。そう、今夜なら!」
「もうそんな気になれない」
 吐き捨てられて、天地がひっくり返るような衝撃を受けた。大急ぎで挽回の機会を求めてみるが、取り付く島はなかった。
 雅さの欠片もない慌てぶりは、滑稽だった。
 恥知らずな打刀を見下して、短刀は前を塞ぐ男の額に掌底を叩き付けた。
「うぐ」
「朝餉、間に合わない」
「小夜。待ってくれ」
 避けもせずまともに食らって、歌仙兼定は首を後ろに倒した。不安定な体勢で仰け反って、最終的には尻餅をついた。
 そんな彼を憐みもせず、小夜左文字が冷たく言い放つ。みっともなく追い縋る手も無視して、目と鼻の先にある台所を目指そうとした。
 もう時間がなかった。
 今からだと火を熾し、米を炊くので精一杯。あとは簡単な一品が作れるかどうかの瀬戸際だった。
 朝餉の膳に並ぶのは、玄米と味噌汁と、塩ひと盛に冷たい新香がふた切れだけ。
 そんな膳を提供しようものなら、非難の嵐が吹き荒れるだろう。
 責めを受けるのは、歌仙兼定だ。
 いい気味だと溜飲を下げて、短刀は駆け足で追いかけて来た打刀の手を払い除けた。
「しつこい」
「本当にすまなかった!」
 突っぱねようとしたら、先手を打って頭を下げられた。
 気が付かなかったとはいえ失礼を働き、恥をかかせた件を大声で詫びられた。小夜左文字の期待に応えられず、嫌な思いをさせたのを心から陳謝された。
「かせん」
「許してくれ、小夜」
 放っておいたら、廊下の真ん中で土下座しかねない。
 彼が額を床に擦り付ける姿など、見たくなかった。そんなみっともない真似をさせるくらいなら、選択肢はひとつしかなかった。
「もういいよ」
 結果的に眠気は去り、怠さはあるが、動きに支障はなかった。
 昨晩空振りさせられた恨みは、無事晴れた。恥ずかしい話でもあるので、あまり引きずりたくなかった。
 ため息交じりに囁いて、肩を竦める。
 必死過ぎる打刀に苦笑して、彼は赤くなっている額を撫でてやった。
「さよ」
 触れられて、歌仙兼定は感極まった表情を浮かべた。ホッとして、嬉しそうな顔をして、目尻には涙まで浮かんでいた。
 そこまで喜ぶことかと、大袈裟な反応が可笑しかった。
 つられて頬を緩めて、小夜左文字は憎らしくもあり、愛おしくもある男に肩を竦めた。
「世話のかかる」
 見た目は大きくなったけれど、中身はまだまだだ。
 細川の屋敷では金魚の糞だった打刀に目を細め、少年は軽く膝を折った。
 屈んでいる男との距離を詰め、怪訝な顔にふっ、と笑いかける。
「小夜?」
「今夜、待ってる」
 高めの声で名を呼ぶのを遮って、囁き、寸前で目を閉じた。
 首を伸ばして前傾姿勢を取り、胴衣の衿を鷲掴みにした。強く握って引っ張って、角度を調整し、身を預けた。
 唇を重ね、押し付けた。上下から挟むように動かして、湿り気を分け与え、捏ね回した。
「ん」
 鼻から息を吐き、吸い込むのは我慢した。喉を窄めて上顎に舌を張りつかせ、惚けている男を至近距離から覗き込んだ。
 薄目を開け、顎関節に力を込めた。上目遣いの眼差しを投げて、両側から抱きこもうとした腕は、素早く避けた。
 後ろに逃げて、唇を舐める。
「二度はない」
 赤濡れた色をより鮮やかにさせた彼に、歌仙兼定は音もなく口を開閉させた。
 空を掻いた腕は小刻みに震え、両手の指が蠢いていた。泣いているのか、笑っているかの判別がつかない表情を作り、鼻を啜って、膝で床を打ち鳴らした。
「小夜ぉ!」
 抱きつかれたら、きっと抗えない。一度は立ち消えた筈の熱が燻って、ちょっとした拍子で火が点きそうだった。
 だから、避けた。それなのに分からないという顔をして、打刀は地団太を踏んで訴えた。
 本当に我が儘で、どうしようもない。
 駄々を捏ねられて辟易して、小夜左文字は愚図る男に首を振った。
「夜まで我慢して」
「なら、せめてもう一回」
 犬でも躾が行き届いていれば、もう少し行儀が良い。
 獣にも劣る聞き分けのなさに落胆して、少年は強請られて眉を顰めた。
 ここであまり時間を浪費したくなかった。朝餉の刻限は着実に迫っており、気持ち良く準備に取りかかりたかった。
「一度だけだね」
「勿論だ。約束は守る」
 念押しして、コクコク頷く男にため息を吐く。
 それくらいなら妥協しても良いと判断して、彼は軽率に許可を出した。
 承諾を得て、歌仙兼定は厳かに腕を伸ばした。手を掬い取られて、微熱が素肌に舞い降りた。
 握りしめられて、胸が弾んだ。まだ朝も早い時間だというのに、今宵の戯れを想像して、心が波立った。
「小夜」
 優しく囁かれて、芯が疼いた。
「ああ、歌仙」
 呼びかけに応え、首を傾け、目を閉じた。
 唇は、すぐには降りて来なかった。待ち構える小夜左文字を散々焦らして、手首を抓られてようやく舌で舐められた。
 ぺろりと、表面をなぞられた。生温い感触を後に残して、頬を擽り、勿体ぶらせてから口に吸いついた。
「ん、む……ぅ」
 こちらが息を吸うのに合わせ、邪魔をして食いついた。獣を真似てがぶりと噛み付いて、牙を立てたところを舐めて慰め、塗りつけた唾液を音立てて啜った。
 深く重ねて来たかと思えば力を緩め、けれど決して離れない。強弱つけて捏ね繰り回して、舌も使ってちょろちょろ弄り倒した。
 大量の水分を与えられ、肌が重く、膨らんでいく。潤った媚肉は粘性を発揮し、貼り付く肌が剥がれる度にくちゅり、くちゅりと淫らな音を奏でた。
「かせ、ん。ちょ。っかいだけ、って」
「口は離してないんだ。まだ一回だよ」
 しかもそれが段々酷くなって、頭の中にこだました。男の腕はいつしか短刀の頭を抱え込み、腰を支え、胸に閉じ込めていた。
 このままでは明らかに不味くて、必死に頭を振った。どうにか空間を確保して、下唇は重ねたまま苦情を叩き付ければ、打刀は不敵に笑い、平然と言い放った。
 空色の瞳が妖しく輝き、獣の彩を強めていた。
 自ら歯列を割ってくれたと感謝して、短刀に覆い被さり、熱い舌をくねらせた。
 これ幸いと調子に乗って、一気呵成に攻めて来た。
 後手に回らされて、少年は総毛立った。してやられたと愕然として、咥内を練り歩く高熱に悲鳴を上げた。
「んぅ、んむ、……んんっ」
 必死に逃げるけれど、逃げ切れない。奥に隠れようとするが間に合わず、一瞬にして捕えられた。
 絡みつき、食いつかれた。表面を撫で回され、捏ねられ、飛沫が散った。
 くにゅくにゅと水音が弾け、頭の中にこだまする。疼くばかりだった身体が揺らいで、ぎゅっと閉じた瞼に涙が滲んだ。
 腹の奥底から言い知れぬ感情が湧き起こり、全身へと広がっていく。止められない。焼け焦げそうに熱くて、立っていられなかった。
 力が抜けていく。膝が笑った。視界は涙で歪み、霞んでいた。
「か、せ……」
 息も碌に出来なかった。言葉は露に溶け、音にならなかった。
 気付けば手を伸ばしていた。肩を掴んでいた。首に巻き付け、抱きついていた。
「ひぁ、あ、んっ。んんっ」
「ああ、小夜。僕の、可愛い小夜」
 口を開けば、耳を塞ぎたくなる声が漏れた。淡く色を持ち、妖しく濡れて、恥ずかしいのに我慢出来なかった。
 それを嬉しそうに聞いて、歌仙兼定が微笑んだ。夢見心地に囁いて、鮮やかな紅に染まる唇に吸い付いた。
 夜まで我慢出来ないのは、いったいどちらだっただろう。
 この後確実に起きる騒動は考えないことにして、小夜左文字はうっとり目を閉じた。
 

2016/04/16 脱稿