みーんみーん、と遠くの方で蝉の鳴く声がした。
「おや」
たまたま通りかかった廊下でそれを聞いて、歌仙兼定は足を止めた。前方に送るつもりでいた爪先を庭先に向け直して、背筋を伸ばし、姿の見えない蝉を探して視線を泳がせた。
静まり返った空間で、鳴いているのはその一匹だけだ。どれだけ待っても、耳を澄ませても、呼応するかのように鳴く声は響かない。
少し前なら大量の蝉が、連鎖反応で一斉に鳴き喚いていた。それが実に五月蠅くて、会話にも困るほどだった。
だのに今日は、妙に物悲しく聞こえてしまう。
それはきっと、この蝉がもう居ない仲間を捜し求め、必死に声をあげているからだろう。
季節は過ぎ、夏の盛りは昔の話だ。あの姦しかった鳴き声も、遠ざかってしまえば妙に懐かしい。
哀愁漂う声に思いを巡らせ、打刀は緩く首を振った。口元に淡い笑みを浮かべて目を眇め、庭へ降りる場所を探して左右を確かめた。
広い庭園を出歩くのに、いちいち玄関まで回っていたら面倒だ。だから縁側には、一定間隔で沓脱石が置かれ、そこに共用の下駄や、草履が用意されていた。
短刀や脇差が履くには少々大きすぎる履き物ばかりだが、打刀なら問題ない。そう行かないうちに無事発見して、彼は袴の裾をひょいっ、と持ち上げた。
膝が布に引っかからないよう注意しつつ、段差を降りて下駄を履く。
長く日向に出ていたのもあって、それはほんのり熱を含んでいた。
足袋越しに感じる温もりは、火傷しそうな程強いものではない。最初は吃驚したけれど、慣れればさほど気にならなかった。
これも、少し前までは本当に熱くてたまらなかった。どうして日陰に隠しておかなかったのかと、前に履いた者に対して怒りが沸いたものだ。
憤慨すればその分身体も熱を発して、余計に暑くなったのは笑えない冗談だ。
そんな他愛ない出来事を振り返って、歌仙兼定はゆっくり庭を進んだ。
隆盛を誇っていた雑草は今も健在だが、一時期よりは勢いが衰えていた。緑の木々はほんの少し元気を失い、細い枝が下を向いていた。
丹塗りの太鼓橋の上では短刀が数振り集まり、水面を覗き込んでいた。鯉に餌でもやっているのか、わいわい言い合って、楽しそうだった。
その光景は、いつもと変わらない。
だが確実に変わりゆくものが存在して、それを探して、打刀は深く息を吸い込んだ。
土と水の匂いがした。
蝉の声は相変わらずで、聞いていて無性に哀しくなった。
「おっと」
二本歯の下駄を巧みに操り、足下に落ちていた石を避けた。だがそれは、よくよく注意して見れば、寿命を終えた蝉の亡骸だった。
腹を上にして転がり、足がその上に重なっていた。まるで天に祈る仕草であり、懸命に鳴く仲間を置いて、先に逝くのを詫びているようだった。
周囲には黒い点が群がり、行儀良く列を成していた。徒党を組んだ蟻が大きな蝉の死骸に集って、巣へ運ぶ算段をつけているところだった。
諸行無常、とは数珠丸恒次が日頃から口にしている言葉だが、まさにこれが、そうだろう。
たった数日の命を散らした蝉は、屍となった後は小さな生き物たちの命を繋ぐ糧となるのだ。
「それにしても」
乾いた地面を下駄で叩いて、彼は爪先に上ろうとした蟻を追い払った。踏まないよう注意して足を運び、木漏れ日が眩しい日陰に身を潜ませた。
ほんの十日ほど前まで大合唱を奏でていた蝉が、今は探してもなかなか見つからない。
出遅れてしまった一匹は、先に旅立った仲間たちを、どう思っているのだろう。
そう考えると、この鳴き声は弔いの歌にも聞こえた。
「夏が、終わる……か」
あれだけ暑かった日中も、幾ばくか落ち着き始めていた。焼け焦げそうな熱を放っていた太陽は、このところ随分と大人しかった。
明け方や日暮れ後も、前ほど辛くない。寝苦しかった夜は過去の話となって、ここ最近は寝坊組が続出していた。
安眠を邪魔してくれた蚊も、減ってきている気がする。
これはあくまで体感でしかないけれど、寝入りそうになった瞬間に訪れるあの不愉快な羽音を、ここしばらく聞いていなかった。
「秋、だね」
暦は立秋を過ぎて、次の季節を予兆させた。真っ昼間はまだまだ十二分に暑いけれど、最盛期に比べれば可愛いものだった。
夏の盛りは本当に暑くて、早く冬が来ればいいのに、と心から願った。
だのにいざ夏が終わろうとしていると知って、急に惜しくなった。
心変わりの早さには、自分でも呆れてしまう。
「参ったな」
鼻の下を擦って苦笑して、歌仙兼定は木々の隙間から覗く青空を仰いだ。
注意深く辺りを観察すれば、いろいろなものが少しずつ、前とは違っているのが確認出来た。
木の幹は色を濃くし、葉の厚みが増した。瑞々しかった若葉の頃を過ぎて、どっしりとした風格を持ち始めていた。
艶やかに咲いていた花は散って、種を残すべく行動を開始していた。まだまだ固い木の実を探して目を凝らし、彼はごつごつした幹を撫でた。
秋が深まれば、実りの季節がやってくる。子供たちは団栗拾いに夢中になり、大人たちは臭気に耐えつつ銀杏を集めるだろう。
一年前のことを振り返り、顔を綻ばせる。
楽しい出来事ばかりではなかったが、なかなか充実した一年だった。
これから巡ってくる季節もそうであればいいと願って、彼は森の奥深くに行こうとした身体を引き留めた。
「いけない、いけない」
あまり遠くへ行きすぎると、戻れなくなる。
本丸の庭は敷地が広く、どこまでが範囲なのかは誰にも分からなかった。
方向を見失えば、簡単に迷ってしまえる。森の中は似たような景色がどこまでも続くので、出歩く際は覚悟と準備が必要だった。
今日は遠出をする気はない。
蝉の声に誘われて出て来ただけと思い出して、彼は左胸を数回叩いた。
「さて、帰るか」
季節の巡りを感じ、ちょっとした変化を堪能できた。
次は是非とも、風流を分かりあえる存在と一緒に訪ねたいものだ。
「雅を解さぬ者たちの、なんと哀れなことよ」
この楽しさが理解できない連中が、本丸には多い。
それが腹立たしくてならないと肩を怒らせて、彼は直後に深呼吸で心を鎮めた。
折角、夏の終わりを肌で感じ取れたのだ。
それをつまらない怒りで吹き飛ばしてしまうのは、あまりにも勿体なかった。
気持ちを落ち着かせ、来た道を戻る。
だが途中で思いついて、屋敷の外周をぐるりと回ることにした。
「そういえば、ここも」
家屋の周囲には、短刀たちが春に植えた花々が見事な彩りを奏でていた。
だがそれも、少し前までの話。
太陽に向かって咲いていた背高の花は、黄色の花弁を悉く地面に落とし、禿坊主になって俯いていた。
肩を落とし、項垂れている風にも見える。なまじ背丈が高いだけに、居並ぶ花々が一斉に首を垂れる姿は異様だった。
十も、二十も、似たような風体で連なっている光景は不気味で、おぞましくもある。それが肌で感じられるからか、少し前まで賑やかだった場所も、今は静謐に包まれていた。
盛りを過ぎてしまえばこんなものと、他に近付く者がない花畑を眺めて、打刀は両手を腰に当てた。
下を向く向日葵の軍勢は、遠くから見ても、近くから見上げても、薄気味悪かった。
そのうち勝手に動き出しそうで、震えが来た。ちょうど風が吹き、枯れた葉が擦れあって、さざ波のようなざわめきが生まれたのも影響していた。
「うわ」
驚いて、思わず声が出た。身体が勝手に仰け反って、二秒後我に返った打刀はひとり赤くなった。
周りに誰もいなくて良かったと安堵し、唇を舐める。ほっと胸を撫で下ろして呼吸を整え、次に向かうべく足を動かした。
道中見つけたのは、空の桶に突っ込まれた水鉄砲だった。
細い竹筒を使って、子供たちが手作りしたものだ。最初は飛距離を争うだけだったが、次第に互いを撃ち合うようになった、暑い時期定番の遊び道具だった。
真っ黒に日焼けした短刀たちがはしゃぐ声も、近頃はすっかりご無沙汰だ。見向きもされず、軒先で放置されているそれを戯れに小突いて、歌仙兼定は軒から垂れ下がる細い縄に目を向けた。
それもまた、夏を鮮やかに彩ったひとつだった。
ただこちらも、すっかり干からびていた。目の粗い網状の縄に絡みつく蔓は茶色く変色し、一部は乾いて、折れ曲がっていた。
ぽっきり折れてしまったものもあれば、辛うじて形を残しているものもある。河童の手のような形をした葉は悉く地面に顔を向けて、緑色をしたものは皆無に等しかった。
朝顔だ。
夏の始まりを高らかに告げた花だが、今では見る影もなかった。毎朝、数え切れないくらい咲いていた花は萎み、縮み、朽ち果てていた。
「ああ、ここも」
時の流れは残酷だ。その無常さに思いを馳せて、彼はかさかさしている蔓に手を伸ばした。
そんな男の視界に。
「う、わあっ」
黒々とした塊が、突如飛び込んできた。
いや、単に歌仙兼定が気づいていなかっただけだ。思わぬところに思いがけないものを見つけてしまって、驚き方は大袈裟だった。
右足を高く掲げて飛び跳ねた彼に、地面に蹲っていた方は胡乱げな顔をした。こちらは早いうちから男の存在に気づいていたようで、突然の大声に迷惑そうな顔をして、口を尖らせた。
大振りの笠を日除けに被り、枯れた朝顔の前にしゃがみ込んでいた。いつもの藍色の内番着姿で、側には底の浅い笊が置かれていた。
黒っぽいもので埋まっているそれにも目をやって、右手を胸元、左手は顔の前という珍妙な体勢を取っていた男は慌てて背筋を伸ばした。まるで何事もなかったかのように装って、咳払いし、無駄に畏まった姿勢で短刀に向き直った。
「や、やあ。お小夜」
まさか居るとは思っていなかった。
妙なところで遭遇したと焦りを隠し、打刀は些か上擦った声で呟いた。
引き攣り気味の笑顔で挨拶して、小さく手を振ってみせる。
だが小夜左文字の反応は、期待したほどではなかった。
「はい、歌仙」
冷淡に挨拶を返されて、その後が続かない。
彼の手は忙しく動いており、仕事の邪魔をするな、という雰囲気で溢れていた。
蝉の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
鳴き疲れたのか、それとも場所を変えたのか。生き残っているかもしれない仲間を捜し、旅に出たのかもしれなかった。
あれこれ想像して、取り残された側の気持ちに寄り添う。
「え、ええと」
胸に生じた寂しさを蹴り飛ばして、歌仙兼定はせっせと動き回る少年に目尻を下げた。
「お小夜は、なにをしているんだい?」
どうか邪険にしないでくれと願って、勇気を振り絞った。
左手を胸に添えて問いかけて、彼は蹴りそうになった笊を覗き込んだ。
黒い、小さな粒だった。
それが山盛り、笊に集められていた。
「これは?」
腰を折って屈み、指さす。
短刀は笠を少しだけ持ち上げると、居座ってしまった打刀に困った顔をした。
「朝顔の、種です」
やや言い辛そうにしながら、淡々と告げた。そこに特定の感情は含まれず、事実のみを口にした感じだった。
それが却って、彼が何かを隠そうとしている風に感じられた。
「種」
「はい」
言われてみれば、そんな風に見える。取り立てて驚くことではなくて、嘘を言われている、と疑いを抱く理由も見つからなかった。
頷かれて、歌仙兼定は笊に手を伸ばした。爪の先ほどもない大きさのそれをひとつ摘んでみれば、球形とも、角形ともいえない、不思議な形をしていた。
円錐状と言ってしまうのは些か乱暴で、形状を詳細に説明する方法が見つからない。
自然界には不思議な形が溢れているのだと感心して、彼はそれを笊に戻した。
一方で小夜左文字は渋面を作った後、視線が合う前にぱっと切り替えて能面を被った。右手で枯れ色の朝顔を摘んで、玉葱の超小型版のような球体を捻じ切った。
黄土色をした薄皮に覆われており、その残骸は短刀の足下に沢山散らばっていた。
「それは?」
「中に、種が」
次々飛んでくる疑問に、小夜左文字は面倒くさそうに答えた。簡潔に言って、打刀の前で乾いた薄皮ごと、球体を指で押し潰した。
ペキペキと音が聞こえてきそうだが、実際には、そんなことはない。代わりに皮の表面に罅が入って、隙間から黒い塊が顔を出した。
小さな手のひらに転がり落ちた種は、全部で四つ。
どれも同じ形をしているようで、少しずつ大きさが違っていた。
それが、四つに分かれた小部屋の中に入っていた。
「……へえ」
「綺麗に、咲いていたので。来年も、咲くように」
小夜左文字が種を集める理由は、至極単純なものだった。
だがその気持ちはよく分かると首肯して、打刀は改めて小さな掌に見入った。
朝顔の種など、初めて見た。
素直に感心して、彼は栄華を誇って咲き乱れた花の姿を、瞼の裏に蘇らせた。
目を瞑れば、瞬時に思い出せた。朝顔は縁側の日除けにも使われており、一定間隔で色が変わっていた。
赤、青、紫、白。
微妙に風合いが異なる花が多数並んで、眺めているだけで楽しかった。
ではここには、どの色が咲いていただろう。
そこまで注意深く観察していなかったので、すぐには思い出せない。腕組みをして、懸命に記憶を手繰り寄せて、彼はやがてぽん、と柏手を打った。
「ああ。そういえば、ここの朝顔は。綺麗な紫色と、藍色だったね」
「……」
「お小夜?」
二色が混じり合った花もあって、見つけた時は驚いた。こんな風にも咲くのかと驚いて、面白がって、萎んでしまうまで、毎日眺めに来た。
それがちょうど、この辺りだったはずだ。
慌ただしい日々が続いて、すっかり忘れていた。
そんなこともあったな、程度に呟いて、歌仙兼定は相好を崩した。
けれど短刀は、「そうですね」と返してくれなかった。
何故か顔を赤くして、唇を真一文字に引き結んでいた。
耳の先まで紅色に染めて、こめかみには汗が滲んでいた。朝顔の蔓に向かって睨みを利かせ、瞬きの回数は極端に減っていた。
呼吸さえ止めているのか、顔色は徐々に悪くなり、青ざめていく。
「お小夜? どうしたんだ、具合でも悪いのか」
急変した彼に驚き、歌仙兼定は悲鳴を上げた。急ぎ手を伸ばし、華奢な肩を掴んで揺さぶれば、はっとなった短刀が大慌てで振り払った。
突き飛ばされて、打刀は数歩後退した。たたらを踏んで、目を丸くして、笠を後ろに落とした少年に見入った。
「おさよ……?」
急にどうしてしまったのかと懸念して、声を潜める。
短刀は肩を上下させて深呼吸して、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべていた。
再び赤みを取り戻した頬を擦り、利き腕で顔の下半分を覆い隠す。
「いけ、ま……せん、か」
彼が種を集めていたのは、この一帯だけ。
朝顔はあちこちに植えられているけれど、ここ以外はどこも手付かずで、枯れるに任せて放置されていた。
立ち尽くす向日葵の群れと同様の扱いだ。それなのに小夜左文字は、藍色と、紫色の花が咲いたこの場所だけ、せっせと種を集めて回っていた。
掠れ声で訊かれて、歌仙兼定は眉を顰めた。首を傾げ、なんら不都合ないと言おうとして、開けた口を直後に閉じた。
そういえば前に、紫と藍が混ざった朝顔を見つけた時。
寝ていた小夜左文字を叩き起こし、外に連れ出して、一緒に見上げた朝があった。
綺麗だ、珍しい、風流だ、とあれこれ感想を述べた後。
僕たちのようだね、と何気なく呟いた。
髪の色が、似ていると。
深い意図も、意味もなく、口にした。
「え……と。あ、れ?」
あの時、小夜左文字はなんと返事しただろう。
同意は得られず、しかし反論もなく。ただ黙って、花を見つめ続けていたのではなかったか。
彼方へと忘れ去られていた記憶が、芋蔓式に復活した。次々溢れて止まらなくて、打刀は右手で拳を作り、口元へと叩き付けた。
勝手に頬が緩み、鼻の下がだらしなく伸びていく。
押し殺しきれない嬉しさに胸を高鳴らせ、歌仙兼定は短刀を見た。
小夜左文字は居心地悪そうに身を捩って、手の中の種を笊に投げ入れた。
「綺麗、だった……から。来年もまた、咲けば良いな、と。それだけです」
深い意図はなく、意味だってない。
そう声を荒立てて、彼はその場で地面を踏み鳴らした。
肩を跳ね上げ、小さな身体で懸命に威嚇した。変な想像をするなと息巻いて、声高に叫んだ。
だが彼が必死になればなるほど、歌仙兼定の中で疑念が確信に変わっていく。
「お小夜は、まったく」
「違います!」
可愛いところを見せつけられて、笑いがこみ上げて来た。止められず、満面の笑みを浮かべて、打刀は愛しい短刀の頭を撫でた。
それを跳ね除け、小夜左文字が吼える。
通りかかる者たちが何事かと怪訝にする中、答えの出ない問答は、当分終わりそうになかった。
2016/8/20 脱稿