乱れそめにし われならなくに

 その日命じられた遠征任務は、滞りなく完了した。
 無事に役目を果たし、手土産もたっぷりだった。通常より多い資源を獲得出来て、鼻高々だった。
 報告の際、近侍を務めていたへし切長谷部が、悔しそうにしていたのも楽しかった。
 日頃からなにかと主命、主命と五月蠅く、近侍でない時も場を取り仕切ろうとする男なので、痛快だった。
 これでしばらくは、何をやっても文句を言われることはない。快適な生活環境を勝ち取って、頬は緩みっぱなしだった。
 方々を歩かされて疲れていたが、一気に吹き飛んだ。帰還の道中に見かけた素晴らしい景観も手伝って、廊下を行く足取りは非常に軽かった。
「ふふふ」
 思い出すだけで目元が綻び、笑いがこみあげて来た。
 口元に手をやって声を堪えて、歌仙兼定はほんの少し歩幅を広くした。
 刀を手に歴史修正主義者と戦う出陣とは違い、遠征の多くは裏方任務だ。偵察や見回り、時間遡行軍の動向調査と、やることは実に幅広い。
 どれも重要な任務で、堅実さが求められた。とはいえ目立たず、地味な分、派手な大立ち回りを好む刀からは不評だ。特に同田貫正国といった実戦刀や、血に餓えた刀たちには、面白くない仕事だろう。
 だが歌仙兼定は違った。様々な時代を巡り、色々な場所へ出向くのは楽しい。これまで目にする機会がなかった景色を眺め、話に聞くだけだった花々を愛でるのは、なんとも言えない喜びだった。
 今日も、新たな発見があった。
 これほど心躍るものはなく、嬉しいことはない。
「ああ、見せてあげたいねえ」
 次の遠征では、あの子を連れて行こう。
 きっと気に入ってくれるに違いなくて、心が疼いてならなかった。
 今すぐにでも引っ張って行きたいところだが、審神者からは暫く休むよう言われていた。
 別時代への遠征に出ている刀剣男士が帰還したら、編成を変更し、再度の遠征に出発だ。玄関に張り出されていた予定表を見れば、それまであと一刻半近い猶予があった。
 この空いた時間で何をするかは、各自の自由だ。
 幸いにも畑仕事や、馬当番は言い渡されていない。演練場は空いているようだが、折角快い気分でいるのだ、汗臭さで上書きしたくなかった。
 放っておくと勝手に弛む顔を叩き、歌仙兼定は辿り着いた部屋の前で深呼吸を二度繰り返した。逸る気持ちを抑え、それでも堪え切れない興奮に頬を紅潮させ、閉め切られた襖の向こうに声を掛けた。
「お小夜。お小夜は、いるかい?」
 遠い昔に共に暮らし、不幸な別れ方をして、ここ本丸で再会を果たした。
 数奇な運命に彩られ、時代に翻弄され続けた短刀の名前を、愛おしげに声に出した。
 他の刀たちに向けるものより、遥かに甘い声色なのは自覚している。だがそれも仕方がないことだ。無骨者が多いこの屋敷で、小夜左文字は数少ない、雅に通じた刀だった。
 勿論、中には非常に品位ある刀も存在している。だが彼らはあまりにも高貴過ぎて、話しかけるに遠慮が勝った。
 その点、以前から付き合いがある短刀が相手なら、気が楽だ。しかもあの子は、嫌がらずに最後まで話を聞いてくれた。適度に相槌を打って、時には間違いを指摘し、正してくれた。
 戦場では鬼神の如き荒々しさを見せながら、平素の振る舞いは優雅で、且つ慎み深い。
 だのに周囲は、小夜左文字の良さを分かろうとしなかった。
 それが歌仙兼定には腹立たしく、理解出来なかった。
 今日の遠征中も、あの子が怖い、といった話を盗み聞いた。
 本日唯一の嫌な記憶を蘇らせて、細川の打刀はむすっと口を尖らせた。
「お小夜?」
 膨れ面を作り、首を捻る。
 呼びかけたのに返事がなく、襖の向こうは静まり返っていた。
 物音ひとつせず、動くものの気配はない。もしや不在かと勘繰って、彼は丸い引手に指を掛けた。
「失礼するよ」
 断りを入れ、思い切って左に開けた。襖は敷居の上をすっと滑り、ほの暗い室内へと導いた。
 瞬きを三度繰り返して、歌仙兼定は力なく肩を落とした。
「いないのか」
 戦支度も解かずに訪ねて来たが、空振りだった。そう広くもないが、狭くもない部屋は綺麗に片付けられ、猫の子一匹いなかった。
 小さめの文机に飾り気のない硯箱が置かれ、他には衣服類を入れた柳行李がひとつだけ。布団は三つに折り畳まれて隅に寄せられ、丸い枕だけが打刀を見詰めていた。
 空気は乾いており、ほんの少し澱んでいた。朝から一度も戻っていない雰囲気が感じられて、歌仙兼定は眉を顰めた。
「今日のお小夜は、確か」
 藍色の袈裟は畳まれて、行李の上に置かれていた。刀は小さめの刀掛台に、鞘に収めた状態で控えていた。
 戯れにその柄を撫でて、染みついている汗や血の気配に身を竦ませる。まるで触れられるのを拒むかのように、鋭い意識を向けられて、内臓がぶるりと沸き立った。
 本丸は現世と切り離された場所――時空の狭間に、結界に囲われた形で存在しているという。季節の変化も自在らしいが、審神者の方針で、暦通りに時が過ぎるよう設定されていると聞いていた。
 ここは本当に不思議なところだ。だが一番不可思議なのは、刀剣の付喪神が現身を得て、こうして自在に動き回っていることだろう。
 審神者に喚び出されるまで、彼らは器物に宿る概念でしかなかった。姿はあるけれど、形は無い。波長が合う人間ならば稀に視認も可能だったが、そうでなければ付喪神など、存在しないも同然だった。
 触れるのは叶わず、声も届かない。命運は全て他人任せで、自ら何かをどうこうするなど、夢のまた夢。
 それが数奇な巡り合わせにより、人に似た身体を得た。己の足で歩き、己の手で触れ、己の舌で味わい、己の意志で行動を決定付けられるようになった。
 勿論、最終的な判断は審神者によって下される。望みが全て叶うわけではない。
 それでも、日常生活における判断の多くは、自らの心に委ねられた。
 これほどの驚きと、喜びは、刀剣として造られてから二度目、いや、三度目だった。
 一度目は、細川忠興に見出された時。
 二度目は、小夜左文字と最初の邂逅を果たした時。
 鶴丸国永ではないが、驚きというものがなければ、本当に世界は退屈だ。
 だから歌仙兼定は、遠征であろうと手を抜かない。常に旅先の景色を愛で、肌を撫でる空気の変化、季節の移ろいを探して、歌にしたためるのは楽しかった。
 ちょっとした違いを見つけ出して、時の流れを実感する。木の葉ひとつにしても、どれも同じようで一枚ずつ異なると教えてくれたのは、僧衣の少年だった。
 今日新たに見つけた驚きを、一秒でも早く伝えたい。
「どこに居るのかな」
 無人の部屋を後にして、歌仙兼定は左右を見渡した。
 平和呆けしそうな本丸でも、小夜左文字は戦いを忘れない。
 刀としての本義を保ち続けているところも、審神者の下に集う他のどの刀剣男士とも異なっていた。
 屋敷のどこかにいるだろうが、心当たりが思い浮かばなかった。内番任務からは外れていたはずで、出撃部隊にも名前がなかった。
 戦に出られないとがっかりしていたので、それは間違いない。朝餉の席には顔を出していたが、以後の行方は不明だ。
「お小夜?」
 試しにその場で名前を呼んでみたが、返事はなかった。
「あれ、歌仙さんだ」
 代わりに、別の声がした。短刀たちの部屋が集中する区画で、現れたのは鯰尾藤四郎だった。
 頭の天辺で跳ねた髪ひと房を揺らし、悪戯者の脇差が廊下の真ん中で手を振った。
 彼には前に、馬糞で酷い目に遭わされている。だが今のところ、両手は空だった。
 少し前までは戦装束だったが、自室で着替えて来たらしい。黒を主体とする服装は変わらないが、装飾は控えめで、動き易い格好だった。
「どうかしたんですか?」
 彼は大家族、とも言うべき粟田口派のひと振りで、元々は薙刀だ。弟を大勢従えており、短刀達は大部屋で共同生活を送っていた。
 長兄である一期一振を筆頭に、粟田口の多くは昼夜を問わず、その部屋で過ごしている。そこがこの少し先にあるので、向かう途中なのだろう。
「ああ、いや。ちょっとね」
 訝しげに訊ねられて、歌仙兼定は口籠った。
 落ち着きなく視線を泳がせ、何気なく背を向けていた襖を見る。
 この部屋の短刀に用があったと言えば良いのに、心構えが出来ていなかったので、咄嗟に言葉が出なかった。
 落ち着きなく身を捩り、口元を右手で覆って、親指で顎を掻く。
 そんな挙動不審ぶりに首を捻って、ややしてから鯰尾藤四郎が手を叩いた。
「ああ、なんだ。小夜君に用ですか?」
 朗らかに目を細め、納得した様子で首を縦に振られた。そこに思わず食いついて、歌仙兼定は声を高くした。
「お小夜を知っているのか」
「そりゃあ、知ってますよ。部屋、いないんですか?」
 行き先を問うたつもりが、言葉が少々足りなかった。
 志同じくする仲間なのだから当然、と鷹揚に頷いて、粟田口の脇差は閉まっている襖に目を細めた。
 実に頓珍漢なやり取りに、若干の気まずさが生じた。歌仙兼定は恥ずかしさに唇を噛み、沈黙を返事にした。
 頭上から聞こえた大きなため息に、鯰尾藤四郎は苦笑して姿勢を正した。半歩下がって踵を浮かせ、爪先でぐるぐる円を描いた。
「小夜君だったら、確か」
「知っているのか」
「遠征、第四部隊とかじゃ、なかったです?」
「え?」
「あれ?」
 右手の人差し指で小ぶりの鼻を撫で、言葉の最後でぴん、と弾く。続けて天井に向けてくるくる回して、あっけらかんと言い放つ。
 その答えに、歌仙兼定は目を丸くした。
 素っ頓狂な声を上げられて、鯰尾藤四郎も唖然となった。
 数秒間、見詰め合ったまま沈黙する。
 必死に記憶を掘り返して、細川の打刀は頭を抱え込んだ。
「いや、そんなはずは。だが変更になった、ということも」
 今朝、彼が遠征に出た時点で、第四部隊に小夜左文字の名はなかった。だが第二部隊の出発は、そちらよりも先だった。
 出かけた後で編成が組み替えられた可能性を探り、眉間に皺を作る。
「あのー……歌仙さん?」
「すまない、鯰尾。ありがとう」
「ああ、はい。どういたしまして」
 真剣に悩み出した彼に、黒髪の脇差が不安そうに眉を顰めた。そこに打刀が声を弾ませ、勢いよく頭を下げた。
 憶測が大部分を占める発言を、真に受けられてしまった。他意はないが、まさか本気で信じるとも思っていなかったので驚いて、鯰尾藤四郎は反射的に御辞儀で返した。
 今更違うかも、とは言い出せなかった少年に見送られ、歌仙兼定は荒々しく床を蹴った。急ぎ足で玄関に向かって、本丸に暮らす刀剣男士の名簿を兼ねた予定表を仰ぎ見た。
 彼の名札は、まだ二番隊の先頭にあった。
 そして小夜左文字の札は、左文字兄弟三振り分の最後尾に置かれていた。
 四番隊にあったのは、宗三左文字の名前だった。
「ああ……」
 どうやら鯰尾藤四郎は、これを見間違えたらしい。
 当てずっぽうで言っただけと判明して、歌仙兼定はがっくり肩を落とした。
 とはいえ、脇差の少年を責めるわけにはいかない。
 先走ったのは自分だと反省して、彼は前髪を掻き上げた。
 気を取り直して、改めて一覧表を見る。
 畑当番は江雪左文字と一期一振で、馬当番は岩融と今剣だった。
 第三部隊はまだ遠征から戻らず、玄関の戸は開かれたまま。大勢が暮らす屋敷ではあるが、出払っている者が多いのか、屋内は静けさに包まれていた。
 任務から外れた刀たちは、どこに行ったのだろう。
「台所かな」
 八つ時が近いのを思い出して、打刀は膝を打った。
 歌仙兼定は前の主の影響で、料理をするのが好きだ。食器に華やかに飾りつけ、見目鮮やかな一品を作るのが得意だった。
 そういう理由で、本丸の食事当番が良く回ってくる。皆が美味しい、と褒めながら残さず食べてくれるのは、なんとも言えない喜びだった。
 だが流石に、彼だけで刀剣男士全員分の食事を供するのは無理だ。そこで小夜左文字が、頻繁に手助けを買って出てくれていた。
 歌仙兼定がいない時も、たまに誰かを手伝っているのは知っている。今日もその小さな手でお玉を握り、灰汁取りに励んでいるものと思われた。
 ところが、だ。
「……お小夜は?」
「やあ、歌仙君。遠征お疲れ様」
 訪ねて行った台所に、目当ての刀はいなかった。
 代わりに燭台切光忠が、振り返って隻眼を細めた。黒の衣装に白の割烹着を着て、茹でた豆を潰していた。
 すり鉢を支えるのは、大倶利伽羅だ。寡黙な一匹狼を気取ってはいるが、緑色の餡が気になるのか、目つきは真剣だった。
 太い擂粉木を手に、大柄の太刀が朗らかに笑う。そんな男の左右、どこを見ても、小夜左文字の姿は影も形も見つからなかった。
 少し前までいた、という様子もない。現に燭台切光忠は、歌仙兼定の呟きに反応しなかった。
 色黒の打刀は瞳だけを動かし、一瞥を加えただけ。頑なに口を開こうとはせず、愛想は皆無だった。
「すまない。お小夜は、こちらに」
「ええ? ああ、小夜君なら、今日は来てないね」
 無視された苛立ちを呑み込み、あまり相性が良いとは言えない刀から意識を引き剥がした。懸命に堪えて本題を述べれば、擂粉木を動かしつつ、太刀が大きな声を響かせた。
 手元でゴリゴリやっているから、自然とそうなったのだろう。だが歌仙兼定には不快でならず、気付けば後退を図っていた。
「そうか。邪魔をした」
 探し人、ならぬ短刀がいないのなら、台所にはもう用がない。落胆は否めず、返す足取りは重かった。
 まだ何か言いたそうな燭台切光忠に背を向けて、玄関へと戻る。たった数分しか経っていないので、当然ながら第三部隊は戻っていなかった。
 しかしこのままでは、小夜左文字に会えないうちに、次の遠征に出なければならなくなる。
 そうなれば、戻りは日が暮れてからだ。夕餉はきっと一緒にとれないし、下手をすれば帰還の途に就くのは、彼が寝床に入った後だ。
 朝にちょっと顔を合わせ、言葉を交わしただけで、一日が終わってしまう。
 それはあまりに寂し過ぎて、嫌だった。
「どこに行ってしまったんだ」
 こんなにも会いたいのに、姿が見当たらない。誰かに訊ねようにも、誰ともすれ違わなかった。
 皆、外に出ているのだろうか。
 天気が良いし、暖かいので、屋内で過ごすのでなく、外で遊び回っている可能性は高かった。
「行ってみるか」
 小夜左文字は復讐に取り付かれ、それ以外にはあまり関心を示さない。粟田口の短刀たちのように、無邪気に日々を過ごすことはなかった。
 それでも誘われれば、無碍に断ったりはしない。これまでにも何度か、かくれんぼや球蹴りに付き合っているところを目にして来た。
 その子供たちのはしゃぐ声も、今日は珍しく遠い。
「かくれんぼ中かな」
 屋敷が静かな時点で予想は大方外れているのだが、この目で確かめない限り納得出来ない。小さな希望に縋って、打刀は隅に寄せていた沓に爪先を押し込んだ。
 上り框に腰かけて、脱げないようしっかり足を覆った。ぴかぴかに磨かれ、汚れひとつないのに満足げ頷いて、日差しが眩しい庭に出た。
 遠くに、外界に通じる門が聳えているのが見えた。
 今日の門番は、蜻蛉切だ。今もきっと、侵入者がないかどうか、鋭い眼光で睨みを利かせていることだろう。
 あの男なら安心と頬を緩め、本物と見紛う太陽にかぶりを振る。足元に伸びる影は短く、じっとしていても汗が滲んだ。
「水でも飲んでくれば良かった」
 折角台所に寄ったのだから、喉の渇きを癒しておけばよかった。思い起こしてみれば、遠征先で昼食を簡単に済ませて、それ以降なにも口にしていなかった。
 意識すると急に空腹が襲ってきて、反射的に腹を押さえた。帯の上から軽く撫でて、なかなか見つからない人影に眉目を寄せた。
「お小夜、どこだ」
 こんなにも会いたいのに、会えない。
 まるであの時のようだ。寒気を覚え、歌仙兼定は青くなった。
 居なくなった短刀を探し、城中を駆け回った記憶が蘇った。餓える領民を救う為に止むを得なかったとはいえ、当時は納得がいかず、あちこちに当り散らして過ごした。
 本丸で邂逅を果たした時は、だから本当に、心の底から嬉しかった。
「どこにいる!」
 声を荒らげ、吼えた。辺りを見回し、強く地を蹴った。
 小石を弾き飛ばし、息を切らして駆けた。抜け切らない疲労がどっと押し寄せて、膝がガクガク震えたが、構わなかった。
 馬小屋の傍まで来て、獣特有の臭いにようやく足が止まった。ぷわん、と漂って来た悪臭は、否応なしに鯰尾藤四郎を連想させた。
「ここ、は。違うな」
 馬には嫌な思い出しかない。当番は交替で回ってくるが、格別の理由がない限りは遠慮したかった。
 近付くのも嫌で躊躇して、大股で距離を取る。だが歌仙兼定の足は、三歩目で停止した。
「あれれ、かせんさん。どーしたんですかー?」
 簡素な東屋から、小柄な少年が出て来た為だ。重そうな桶を両手で運んで、地面に置いたところで打刀に気付き、声を上げた。
 刀派は三条の短刀、今剣だ。源義経の愛刀で、その散り際に際し、介錯を手助けしたと伝えられている。
 彼の姿は、その前の主の若き日を踏襲していた。一本足の下駄を履いて、器用に体重を移動させていた。
「やあ、今剣。お小夜を、知らないかな」
 厩の中を覗く勇気はなかったので、向こうから出て来てくれたのは大助かりだ。これで情報が得られると安堵して、距離を保った上で質問を投げた。
 どこか余所余所しい態度だったが、自称烏天狗は気に留めず、緩慢に頷いた。左右で色合いが微妙に異なる瞳を眇め、寂しそうに呟いた。
「さよくん、さそいましたけど。おうまさん、こわがるから、いやだって」
「ああ……」
 今剣と小夜左文字は、仲が良い。
 同じ刀派に短刀が居ない者同士で、顕現した時期も近かった。順調に数を増やしていく粟田口と違い、ひとりぼっちの期間が長かったのもあって、一緒に居る機会が必然的に多かった。
 それが巡り巡って、今に繋がっている。
 ただ山賊が殺した人々の怨讐を一身に受ける小夜左文字は、殺気に敏感な動物たちからは嫌われていた。
 馬が怯えるからと、手入れを頼まれてもやりたがらない。家畜の世話を毛嫌いする刀は多いが、大抵は面倒だ、汚い、という理由からで、彼が抱える理屈は異質だった。
 だから小夜左文字と一緒の時に限り、歌仙兼定は馬当番を拒まなかった。
「今剣よ、これはどこに片付ければ良いのだ?」
「いわとーし。それは、えっと。あっちです」
 厩の掃除は終わったのか、道具一式を抱えた岩融も外に出て来た。
 本丸で最も大柄な薙刀には一礼するだけで済ませて、打刀はもう一度、短刀に目を向けた。
 指示を終えた少年は、視線を気取り、首を横に振った。
 馬当番の手伝いを断った後、小夜左文字が何処に行ったかは知らない。
 仕草で伝えられて、歌仙兼定は渋面を作った。
「邪魔をしてすまなかった」
「なんだ、もう行ってしまうのか」
「さよくん、みつかるといいですね」
 表に出てきたばかりの岩融は、歌仙兼定が何故ここに居るのかが分からない。不思議そうに見つめる彼の前で、今剣が気を利かせて声を張り上げた。
 ぶんぶん手を振られて、これには苦笑が漏れた。今一度軽く礼をして、歌仙兼定は踵を返した。
 舞い戻った庭先には、依然誰の姿もなかった。
 池では鯉が悠然と泳ぎ、どこかで風鈴が鳴っている。日当たりのよい縁側では五虎退の虎が昼寝中だが、飼い主は近くに見当たらなかった。
 これが鳴狐の連れている狐であれば、言葉が通じ合ったものを。
 残念だと肩を落として、打刀は藤色の髪を掻き毟った。
 こんなに探しているのに、見付からない。
「そんな、まさか」
 もしや本当に売られてしまったかと怖くなり、彼は愕然と目を見開いた。
 嫌な予感に青くなって、無意識に刀を握りしめた。
 短刀の本体とも言えるものが部屋にあったのだから、それはあり得ない話だ。だが少し前の記憶は、頭からすっぽり抜け落ちていた。
 騒然となり、ぶるりと身震いした。全身の毛を逆立てて、歌仙兼定は血走った目を天に向けた。
「お小夜!」
 誰に聞いても、あの子の行方を知らないと言う。
 早く見つけ出してやりたい一心で、打刀は声の限り叫んだ。
 と同時に、全力で駆け出した。広い敷地を隅々まで探し回る覚悟で、疲れも忘れて走った。
 緑濃い木々の根本、井戸の底、池の中、果ては庭に転がる小石の下まで。
 おおよそ現実的ではない場所をも、手当たり次第確かめた。右に左に動き回る打刀を、遠くから蜻蛉切が怪訝に見守る中、息せき切らし、汗を流して、カチカチ奥歯を噛み鳴らした。
「お小夜……お小夜、どこに――そうだ!」
 そしてひと通り庭を荒らし回って、ふと、思い出した。
 無駄に広い本丸の中で、まだ訪ねていない場所がある。
 その事実に愕然として、彼は思い切り両手を叩き合わせた。
 ばちぃん、と良い音がして、それに見合う痛みが掌から手首を駆け抜けた。ジンジン来る痺れに熱が生じたが、お蔭で目が覚めたと意に介さなかった。
 どうして今の今まで、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。
 焦って周りが見えていなかったと自省を促し、打刀は続けて頬を叩いた。
 顔を赤く染めて、ひりひりするのを堪えて道を急いだ。畑は屋敷の裏手に広がっており、その面積は屋敷の数倍あった。
 畑当番は日替わりでふた振りが担当するが、それだけでは手が足りない。土作りに作付け、間引きに収穫と、やることは大量だった。
 そんな事情もあり、暇をしている刀は頻繁に畑に連れ出された。万が一この重大任務を放棄しようものなら、罰として、食事当番による超絶辛いお仕置きが下された。
 夕餉抜きは基本中の基本で、相手によっては三日間肉抜きや、嫌いな食材のみで膳を埋める、といったものもあった。塩さえ使わない味付けや、酢飯の代わりに山葵を使った寿司、という罰も一度だけあった。
 本丸の食卓を彩り、刀剣男士の胃袋を支えているのは、広大な畑だ。
 一日手入れを怠れば、その分野菜や米の質が落ちる。食べ物の恨みは恐ろしいと、教え込むのは大事だった。
 そういう懲罰的な食事を、いかに雅に飾り付けるか。
 普段やらない事に頭を使って、あれはなかなか楽しかった。
 その時も小夜左文字が隣にいて、一緒になって真剣に案を練ってくれた。
 食に対する思いは、彼の方がずっと強い。
 あの短刀が二度と餓えと関わる日が来ないよう、切に願わずにはいられなかった。
「はっ、あ……は、はっ」
 そうしてようやく辿り着いた先。
 地平線まで続きそうな広大な畑の入り口に立って、歌仙兼定は膝に手を置き、汗を流した。
 ずっと動いていたので、そろそろ体力が尽きそうだ。ゆっくり休みたい誘惑に駆られて、願望はぶんぶん首を振って追い払った。
 目的を達成していないのに、のんびりなどしていられない。
 この後再度の遠征任務が待っているのも忘れて、力を振り絞り、背筋を伸ばした。
 目を凝らし、遠くを見る。黙々と働く刀たちの数は多く、ざっと見ただけでも十振りを越えていた。
 内訳としては短刀が主で、たまに背丈がある刀が混じっていた。中心に居るのは目に鮮やかな空色の髪の男で、歯が三本に別れた万能鍬を振るっていた。
 本日畑当番を言い付かった、一期一振だ。周囲に散らばっているのは彼の弟たちで、ふた振りか、三振りずつに分かれ、それぞれ異なる作業に勤しんでいた。
 粟田口は数が揃っている分、こういう時に有利だ。中には鯰尾藤四郎のような例もあるが、概ね皆礼儀正しく、躾が行き届き、兄に従順だった。
 信濃藤四郎も、嫌々ながら参加していた。虫でも見つけたか、乱藤四郎が悲鳴を上げて、駆けつけた厚藤四郎となにやら騒いでいた。
 長閑で、ほのぼのとした光景が広がっていた。
 これが刀たちの暮らす世界かと、夢でも見ている気分で惚けていた。
「おや、そこに……」
 我に返ったのは、掠れ気味の声が聞こえたからだ。
 思わず、といった風情で呟かれた低音にハッとして、歌仙兼定は四肢を粟立てた。
 棒立ち状態だったところに、電流が走った。ビリッ、と指先を痙攣させて、限界まで目を見開いた。
「お小夜!」
 発作的に叫んで、振り返った。
 心拍数を跳ね上げて、充血して真っ赤な瞳を後方に投げた。
 但しそこに佇んでいたのは、小夜左文字ではなかった。
 声で違うのは分かっていたのに、言わずにはいられなかった。必死の形相で弟の名を吼えられて、瑞々しい野菜を手にした太刀は黙って目を眇めた。
 本当は驚いているのだが、顔に出ない所為で分かり辛い。必死の形相の打刀をしばらく見詰めた後、江雪左文字は数珠のない左手を掲げ、人差し指を彼方に向けた。
「お小夜っ」
 直後に半泣きで声を響かせ、歌仙兼定は首を傾げる短刀に向かって駆け出した。
 一直線に猛進して、勢いは完全に猪だ。恰幅の良い男に突如突っ込んで来られて、当然ながら、華奢な少年は竦み上がった。
「か、歌仙?」
「お小夜、やっと見つけた。何処に行っていたんだい、探してしまったじゃないか!」
 ぎょっとして、動けなかった。あまりの勢いに圧倒されて、逃げるという選択肢が完全に抜け落ちていた。
 そうしている間に打刀は捲し立て、両手を広げて短刀に抱きついた。大きな子供が小さな大人に全力で甘えて、歓喜の雄叫びを上げた。
 遠くにいた粟田口の面々が、騒ぎに気付いて手を止めた。江雪左文字はゆっくり腕を下ろして、口元には淡い笑みを浮かべた。
 屋敷の中、庭と、どこを探しても見つからなかった短刀は、此処にいた。
「何処に、って。僕はずっと、畑に」
「お小夜、ああ、良かった。良かった。本当に、よかった」
 急にやって来たかと思えば大声で喚かれ、挙句力任せに抱きしめられた。
 膝を折って地面に屈み、肩口に額を埋めて喘がれた。途中で嗚咽のような声が混じって、唖然としていた短刀は目を瞬いた。
 歌仙兼定は顔を伏しており、表情は見えない。だが首に回された両手は、か細く震えていた。
 暖かな陽気の中、鳥肌が立っていた。表面に浮き上がった凹凸を確かめて、細川の短刀は困った顔で半眼した。
「どうしたんです、歌仙」
 いったい何に怯え、何に急き立てられたというのだろう。
 おおよその想像はつくが、敢えて訊ねて、少年は縋りつく打刀の髪に鼻先を押し付けた。
 すっかり身に馴染んだ匂いを嗅いで、懐かしさに目を細める。
 穏やかに問いかけられて、歌仙兼定は咳き込むように息を吐いた。
 唾で濡れた唇を舐め、恐る恐る顔を上げた。
 すぐ目の前に見慣れた姿を見つけて、息を呑み、そして恥ずかしそうに耳を赤くした。
「あ、いや……ええと」
「歌仙?」
 辺りを探れば、一期一振たちが遠巻きにこちらを窺っていた。収穫物を抱いた江雪左文字も、少し離れたところで弟を待っていた。
 畑に居る刀剣男士の視線が、全て彼らに注がれていた。
 認識した途端羞恥に駆られ、打刀は右手で顔を覆い隠した。
「いや、あの。すまない、お小夜。君に、話したいことがあったのに」
 農作業中だったのに、押しかけてしまった。邪魔をした。失礼を働くなど、雅ではない振る舞いだった。
 こんなのはおおよそ自分らしくないのに、制御出来なかった。我を忘れて駆けずり回り、たったひと振りの刀を追い求めた。
 その最中で、小夜左文字にどんな用件があったのか、すっかり忘れてしまった。
 いつの間にか目的が、彼に会うことにすり替わっていた。
 しどろもどろに捲し立て、歌仙兼定は必死に思い出そうとした。これまでの自らの行動を振り返り、逆再生して掴み取ろうとした。
 だが焦れば焦るほど、何事も上手くいかない。
「ええと、だから、その。僕は、お小夜に」
 口をパクパクさせ、まるで餌を欲しがる鯉だ。空気が足りず、頭は真っ白で、言いたいことがあるのに言葉が出なかった。
 意味もなく両手を振り回し、必死に説明を試みるが無理だった。空回りし続ける打刀は顔を青くしたり、赤くしたりと忙しく、冷静さは皆無だった。
 碌に会話にならず、何がしたいのかも良く分からない。
 困った顔で目を細め、小夜左文字は悲壮感丸出しの男に肩を竦めた。
「ゆっくり、思い出せば良いです」
「……お小夜」
「時間は、いくらでもあるんですから」
 慌てることはない。
 焦る必要はない。
 この本丸に居る限り、彼らは二度と別たれることはない。
 風に乗せて囁いて、短刀は頷いた。赤子をあやすように優しく告げて、蹲る打刀の額に額を押し当てた。
 間に挟まれた前髪が緩衝材となり、骨同士がぶつかる衝撃は弱い。
 コツン、と脳内に直接響いた音に瞠目して、歌仙兼定は唇を戦慄かせ、細く、長い息を吐いた。
「ああ。ああ、そうだ。そうだったね」
 急がなくても、大丈夫。
 怖がらなくても、平気。
 万感の思いを込めて呟き、肩の力を抜いた。
「お小夜。君が、君で……良かった」
 改めて抱きしめた身体は細く、酷く痩せて、小さい。だがどんなに広い海にも、空にも敵わないと笑えば、短刀は虚を衝かれて目を丸くして、困った風に頬を緩めた。
「また、そんなことを言って」
 呆れ混じりのため息は、心なしか嬉しげだった。