花見し人の心をぞ知る

 木漏れ日が眩しく、日向はじんわり熱を帯びていた。
 蝉の声こそ聞こえないけれど、目を瞑ると情景が瞼に浮かんだ。強すぎる陽射しに辟易させられる季節がまた廻ってくると、小夜左文字はげんなりした表情で肩を竦めた。
 軒下には誰の仕業か、既に風鈴が準備されていた。風が吹く度に細い短冊が揺れて、青銅製の鈴がちりりん、と愛らしい音を響かせた。
 こんなものがあるから、真夏を思い出してしまう。
 急ぎ目を逸らして視界から追い出し、短刀は足早に縁側を進んだ。
 まだ初夏に届くかどうかの暦であるが、太陽は既に夏の様相を呈している。気温は夜明けを待たずに上昇を続けており、動いていると汗ばむ陽気だった。
 畑仕事に出ている面々は、さぞ辛かろう。
 この時期から帽子と手拭い必須となれば、夏の盛りはいかばかりか。
「暑いのは、嫌いだ」
 もっと暑くなると、想像するだけでうんざりした。冬の寒さも厳しいが、夏に比べれば数倍楽だった。
 げんなりしながら呟いて、小夜左文字は右手に持った棒を揺らした。竹を薄く削って造られたそれは、形だけなら扇の中骨に似ていた。
 しなやかで、頑丈に出来ており、ちょっとやそっとでは折れない。その竹で出来た棒の先には、乳白色をした円筒状の物体が突き刺さっていた。
 長さは二寸に届くかどうかで、真上から見れば瓢箪のような形状をしていた。竹の棒も二本あって、どうやら作成時に失敗し、くっついてしまったらしかった。
 水分を過分に含み、表面は露に濡れ、集まって雫になった分がぽとり、ぽとりと床に落ちる。
 試作品だから皆には内緒、と渡された氷菓は、日光を集めて徐々に溶け始めていた。
 燭台切光忠に呼び止められたのは、台所の裏手だった。
 今日の収穫品らしき野菜が軒先に放置されており、見かねて軽く洗って泥を落とし、届けに行った帰りだ。頑張っている子にご褒美と、隻眼を細めて手渡された。
 氷室から出したばかりだったらしく、竹棒を持っただけでも冷たかった。白い湯気のようなものが全体から立ち上っており、手を翳せばひんやりした。
 蜜を混ぜた水を凍らせたのだと、小声で耳打ちされた。後で味の感想を聞かせてくれれば進呈すると言われたら、一も二もなく頷くのは自然の摂理だ。
 本来二本であるべきものを、まとめて譲られた。
 誰にも見つからないよう、こっそり食べようか悩んだのは一瞬だった。
「どこに行ったの」
 秘密の菓子なのだから、手にしたまま屋敷内をうろうろするのは、本当は良くない。けれどひとりで食べるには少々大き過ぎて、どうせなら分け合って食べたかった。
 味に五月蠅いあの刀なら、きっと短刀よりも的確な助言が出来るだろう。
 冷たい菓子がもっと美味しくなるのは、大歓迎だ。本格的な夏が来る前に、是非とも試作を重ね、完成させてもらいたい。
 垂れ落ちる雫の量を気にし、前歯をカチカチ噛み鳴らす。気ぜわしく足踏みをして、小夜左文字は左右を見回した。
 真っ先に訪ねた部屋は無人で、時間を無駄にした。他に思いつく行き先は茶室くらいだが、そちらは別の者が使用中だった。
 となれば残るは書庫くらいだが、あそこは少々遠過ぎる。
 気付けば汗だくになっている氷菓を一瞥して、彼は姿が見えない打刀に臍を噛んだ。
「歌仙」
 用がない時は簡単に見つけられるのに、用がある時に限って行方をくらましてくれる。
 なんと間の悪い男なのかと腹を立てて、小夜左文字は地団太を踏んだ。
 当初考えたように、ひとりで全部食べてやろうか。
 此処に居ない打刀相手に小鼻を膨らませて、まだまだひんやり冷たい菓子を顔の前に掲げ持った。
「――あ」
 欲望に駆られて大きく口を開こうとした矢先。
 白い氷菓のその向こう側を、薄ぼんやりした影が通り過ぎて行った。
 庭木の緑に紛れて、一瞬のうちに遠ざかっていく。焦点を間近に合わせていた所為で見過ごしかけたが、あの艶やかな髪色は間違いなかった。
 似たような髪の色をした打刀は他にも居るが、長さがまるで異なる。二度瞬きして視野を広げて、確信を抱き、小夜左文字は縁側から飛び降りた。
 素足のまま、気にすることなく地面を蹴った。伸び放題の雑草を踏み潰し、小石を散らして、緑濃い庭を一心不乱に駆けた。
「歌仙!」
 普段は感情を押し殺し、声を荒らげる真似はあまりしない。
 けれど今は抑えきれず、呼びかけは絶叫に近かった。
 当然、前を行く背中は聞き逃さない。調子よく進めていた足を止めて、歌仙兼定はゆっくりと振り返った。
「お小夜?」
「やっと、見つけました」
 小走りに駆け寄って来る子供を見つけ、風雅な衣装に身を包んだ刀が首を傾げた。不思議そうに眉を顰めて、弾む声に目を眇めた。
 怪訝に見つめられ、小夜左文字は肩で息を整えた。汚れた爪先で地面を捏ねて、落とさぬようしっかり握っていた竹の棒を持ち上げた。
 水滴が散り、手首に落ちた。
 あまり冷たくないのに不安を覚えたが、蜜たっぷりの氷菓はまだまだ形を保っていた。
「それは?」
 空気が震え、氷菓の周辺だけ気温が下がった。
 暖かな日差しの中できらきら光るそれは、ぱっと見ただけでは正体が掴めなかった。
 案の定の問いかけに、小夜左文字は唇を舐めた。燭台切光忠から聞いた情報を頭の中で整理して、胸を弾ませ、二本並ぶ棒を左右の手で握りしめた。
 それぞれ一本ずつ掴んで。
「っせ」
 威勢のいい掛け声と共に、外向きに力を込めた。
 瞬間、柔らかくなっていた氷菓子が真ん中でふたつに分かれた。瓢箪のくびれ部分が特に脆くなっており、半分に折り畳もうとする動きに耐えられなかった。
 ポキッ、と小さいが音がした。
 氷の礫が飛び散って、手首に落ちた瞬間、融けてなくなった。
「お小夜、それはいったい」
「燭台切さんから、差し入れです」
「僕にも?」
「試食した感想を、後で聞きたいと」
 突然目の前で氷菓子を真っ二つにされて、歌仙兼定が声を高くする。
 それに構わず片方をずいっと差し出して、小夜左文字は戸惑う男に捲し立てた。
 早口に述べて、早速ひと口齧り付く。
 ひんやり冷たい菓子は存外に柔らかく、歯を立てた瞬間、しゃり、と内側まで滑り込んだ。
 唇に触れたところから水になり、甘い蜜が溢れ出した。口の中で洪水が起きて、慌てて棒を引き抜いた。
「ふぐ」
 鼻から息を吐けば、変な音が付随した。冷たいのになぜか熱く感じられて、はふはふ言わなければならなかった。
 細かな氷が雪崩を起こし、咥内をあっという間に埋め尽くす。呑み込めばほんのり甘く、後味は弱く、唇を舐めれば皮膚は氷のようだった。
 唾液が意図せず分泌され、口腔を漱いでくれた。美味しいのに一瞬で消えられて、なにがなんだか、分からなかった。
「ひべ、ちゃ」
「ああ。夏向けの菓子か」
 口の粘膜がひりひりするのは、急激に冷やされたからだろう。
 舌を伸ばしながらの感想は上手く発音出来なくて、それでようやく、歌仙兼定は合点が行ったようだった。
 渡されたものを、食べるより先に日に透かしたのは、彼なりの美学だろう。味よりも見た目を気にするところがいかにもこの男らしくて、小夜左文字はふたくち目を齧りつつ、笑いを堪え切れなかった。
「溶けます」
「それもまた、風流というものさ」
 口元に垂れた汁を拭い、手短に叱りつける。
 だが歌仙兼定は意に介さず、呵々と笑って棒をくるりと回転させた。
 光の当たり具合によって、氷の内側の棒が見えたり、見えなかったり。
 垂れ落ちる雫が反射する輝きも美しく、眺めているだけでも充分楽しかった。
「歌仙」
 だがこれは、あくまで菓子だ。
 食べないのであれば返すよう促せば、打刀は空の手に慌てて首を振った。
「いただくよ」
 日の当たる場所にいると、じっとり汗が滲む季節になった。
 庭を散策するだけでも喉が渇いて、身体は水分を欲していた。
 溶けかけの氷による見事な光の演出も、食い気の前には形無しだ。花より団子の言葉を噛み砕き、歌仙兼定は良く冷えた蜜に舌鼓を打った。
「うん。冷たくて、……これは、なかなか」
 口に入れた傍から溶けて、跡形もなく消えてしまう。火照った身体を内側から冷やし、程よい甘さは疲労回復にもってこいだった。
 これを畑当番の連中に差し入れたら、諸手を挙げて喜ぶだろう。
 情景を想像して含み笑いを零し、打刀は親指で唇を拭った。
 棒を挿して固めたことで、手を汚さずに食べられるのも利点だ。持ち運びに便利だし、片付けも面倒ではない。難点は、作る際に傾くと、簡単に隣とくっついてしまうところだろうか。
 棒を中心部に、真っ直ぐ立てて固定する必要があった。だが凍らせる前は当然液体なので、言うほど簡単ではなかった。
「もう少し、甘くしてくれても」
「それは好き好きだろうね」
 棒を支える方法は、要検討というしかない。工作が得意な刀に頼むことにして、問題は氷菓子の味付けだ。
 短刀らしい子供舌な感想に、打刀が大人風を吹かせて熟考を促す。
 便利な言葉で即答を避けた男を上目遣いにねめつけて、小夜左文字は残っていた氷をがりがりと削り取った。
 棒を横に倒して、回転させながら、残さず頬張る。
 まるで鮎の塩焼きでも食べているかのようなやり方に、歌仙兼定は小さく肩を竦めた。
「行儀が悪いよ」
 とても雅とは言えない食べ方に呆れるが、彼とて垂れた蜜で指が濡れていた。
「歌仙」
「おっと。いけない」
 話に集中していて、食べるのが疎かになった。
 指摘を受けて肘を引き、男は左手を懐へと差し込んだ。恐らくは手拭いを探しているのだろう。身を揺すりながらガサゴソする彼に、小夜左文字は苦笑交じりの吐息を零した。
 そうやっている間にも、氷はどんどん融けていく。
 陽射しは容赦なく照り付け、風に煽られた木漏れ日が賑やかだ。新緑は目に眩しく、どこからか鳥の囀りが聞こえて来た。
 元気に伸び続ける雑草が地表を埋め、湿気が足元に集まっていた。小さな虫が其処此処で這いずり回り、それを餌とする更に大きな虫や、獣の動きが活発だった。
 蔓植物が木々に絡みつき、一日中日が当たらない場所では苔が隆盛を誇っていた。羊歯植物が水辺で存在感を放ち、池では鯉が悠然と泳ぎ回った。
 戦とは無縁と言わざるを得ない場所で、戦道具である刀が呑気に戯れていた。
「どこにやった……どこだ」
「歌仙」
 着物の衿を大きく広げ、右に、左に漁るのはみっともない。おおよそ打刀が好む雅とはかけ離れた仕草に呆れるが、本人は気付いていないようだった。
 言葉が耳に届いていないと悟り、小夜左文字は肩を竦めた。役目を終えた棒をどうするかで一瞬迷い、足元で蠢く様々な生き物の気配に頬を緩めた。
 植物は放置すればいずれ腐り、分解され、次の命の養分となる。
 豊かな自然はそうやって、巡り巡って回っていた。
 指先の力を抜けば、細く削られた竹がするりと滑り落ちた。生い茂る草の上に転がって、緑の中に吸い込まれた。
 瞬き一度のうちに、もう見失った。空になった両手を緩く握りしめて、短刀はまだ探し物中の打刀に苦笑した。
「舐めれば良いでしょう」
「何を言うんだ、お小夜。そんな真似、雅じゃない」
「……どの口が」
 手拭いは、依然見つからない。もしや持ち合わせていないのでは、という疑念は声に出さずに飲み込んだ少年に、男は語気を荒らげ、力説した。
 懐を派手に乱した格好で、言えた台詞ではない。
 呆れを通り越して若干腹を立てて、小夜左文字は渋面を作り、前髪を掻き上げた。
「全部、溶けますよ」
「え? あああ、しまった」
 思うにこの男は、こういた形状の菓子を食べるのに向いていない。
 器に山なりに盛ってあれば、問題なかっただろう。そう言えば串に刺した団子も、ひとつずつ丁寧に外してから食べていた。
 単純に、苦手なのだ。
 濡れ方が酷くなっている利き手に慌てふためく姿は滑稽で、普段の偉ぶった態度からは想像もつかなかった。
 見方を変えれば、随分と愛らしく思えてくる。
 悲壮感たっぷりに顔を顰めている打刀が可愛くてならず、年嵩の短刀はやれやれと肩を竦めた。
「之定」
「どうしよう、お小夜。どんどん崩れていく」
 このまま放っておいたら、折角凍らせた蜜が全て溶け、流れてしまう。
 為す術なく狼狽して、歌仙兼定は昔馴染みに縋りついた。
 和歌や茶道が得意でも、こういう事柄には対応出来ない。初めての事態に動揺する刀に目尻を下げて、小夜左文字は両手を伸ばした。
 氷菓を持つ彼の手ごと包み込んで、弱い力で引き寄せる。
 打刀は逆らうことなく従って、軽く膝を折り、身を屈めた。
「お小夜?」
 そうして首を伸ばし、爪先立ちになった少年に目を細めた。怪訝な顔をして状況を見守り、途中からは息を止めて顔を強張らせた。
 小夜左文字は背伸びをして、白い氷菓に顔を寄せた。触れる寸前で愉悦を瞼の裏に隠し、蛸を真似て口を前方へ突き出した。
 歯列を薄く開き、歌仙兼定の手を手前へ引っ張った。吸い付き易い角度を作って、雫を滴らせる氷菓子にちゅく、と唇を張りつかせた。
 目を閉じ、細長い棒の側面にくちづけて。
「……!」
 突然のことに打刀が顔を赤くする中、短刀は口腔に力を込めた。
「ん、っ」
 鼻から息を吐き、咥内に残っていた空気を、一斉に喉の奥へと押し流した。舌を前歯の裏に貼り付かせ、唇の隙間からひんやり冷えた外気を集めた。
 その場所だけ気流が乱れ、旋風が起こった。溶けた氷の蜜が巻き込まれ、細かな粒子が塊となって一点へと集められる――
 最後にコクリと喉を鳴らして、小夜左文字は晴れやかな表情で顎を引いた。
「御馳走様」
 ちろりと覗かせた舌で唇を一周させ、短く告げて後ろへ下がる。
 前に傾いていた重心を整えた彼に、歌仙兼定は顔面を真っ赤に染め上げた。
 茹蛸一歩手前で、湯気を噴いていた。唇は変な形に歪んで、漏れる呼気は音にならなかった。
「さ、あ……さ、さっ」
「また溶けてしまう」
「だ、あっ、ええ?」
 突然氷菓に吸い付いたかと思えば、数秒としないうちに離れた。垣間見た表情は妙に艶っぽく、淫靡な色気に満ちていた。
 一瞬の出来事だったが、瞼の裏にしっかり焼き付いている。これに動揺せずに、いったい何に慌てろというのか。
 だが小夜左文字は淡々として、焦る打刀の右手を指差した。握りしめられた氷菓は、今にも崩れそうだったのが嘘のように――少々小さくなっていたが――氷室から出した直後の固さを取り戻していた。
 水気を含んで弛んでいたのが、凛と引き締められていた。表面こそ濡れてはいるけれど、内側に潜り込んでいた分は根こそぎ失われていた。
 いったいどこへ消えたのか。
 ようやく合点がいって、歌仙兼定は瞬きを連発させた。
「なんですか?」
 まじまじ見つめられて、小夜左文字が不満げに口を尖らせる。
「そういうことは、先に言ってくれ」
「どうにかしろ、と言ったのはそっちです」
 頭を抱えながら愚痴られて、短刀は憤然としながら言い返した。
 あのまま放っておいたら、氷は形を保てなくなり、全部地面に落ちただろう。そうなる前に手を打ってやったのに、文句を言われるのは筋違いも良いところだ。
 納得がいかなくて膨れ面を作り、咥内に残っていた蜜を唾液で薄めて飲み込む。前方では物言いたげな打刀が氷菓を齧り、表面を伝う水滴を舐め取っていた。
 赤みを帯びた肉厚の舌を動かし、れろ、と下から上へ走らせた。同じ仕草を二度、三度と繰り返して、細く、短くなった棒の先端に歯を立てた。
 カリ、と一部を削り取り、零れた分は下唇で素早く掬い上げる。ちゅ、と吸い付いて溶けた蜜を啜り、形を崩さないよう注意しつつ、残り少なくなった菓子を横から咥えこんだ。
 小夜左文字がそうしていたように。
 棒を回転させ、扱くように動かして。
 残り少なくなった氷を、余すところなく呑み込んだ。
「……ふぅ」
 悪足掻きで残っていたひと欠片も舌で削ぎ落とし、裸になった棒を最後にひと舐めする。
 深く長い息と共に緊張を吐き出して、打刀は俯いている短刀に目を細めた。
「お小夜?」
 両手は背中に回して結び、内股気味に膝をぶつけ合わせていた。落ち着きない仕草でもじもじ身じろいで、時折視線を浮かせ、瞬時に落とした。
 気のせいか、耳の先が赤い。
 露わになった項もほんのり紅に染まっており、呼びかけても顔を上げようとしなかった。
 爪先で地面に穴を掘り、踵で蹴って、土踏まずで均す。それを三度も繰り返した彼に、歌仙兼定は眉を顰めた。
 丸みを帯びた棒の先で唇を叩き、思う所があって地面に投げ捨てた。蜜を浴びてべたついている手を軽く振って、試しに人差し指を差し向けた。
 下向いている少年の、顎を掠めるように動かす。
 小突かれそうになった短刀はビクリとした後、探るような眼差しを投げかけた。
「どうかしたかい?」
 空色の瞳は羞恥に潤み、熱を帯びていた。引き結ばれた唇はもごもご蠢き、左右に身を捩る動きは徐々に大きくなっていった。
 尻込みし、後退を図ろうとするのを妨げ、歌仙兼定が問いかける。
「う」
 小夜左文字は小さく呻いて、恨めし気に打刀を睨みつけた。
 敵を射抜く眼力は、しかしこの場では至極弱い。威嚇しようにも迫力が伴わず、却って愛らしさが増しただけだった。
 外見相応な態度に、幼い見た目にそぐわない艶っぽさが見え隠れしていた。短い股袴から覗く足まで緋に染まって、各部を覆う包帯さえもが卑猥だった。
 無自覚に唾を飲んで、歌仙兼定は喉を鳴らした。
「お小夜?」
「ほ、放って、おいて。ください」
「顔が赤い。冷たいものを食べたから、腹を冷やしたのかな?」
「ちがいます」
 引き戻した指を舐め、打刀がクツクツ笑った。意地の悪い質問を投げて反発を受けたが、全く意に介する様子がなかった。
 むしろ楽しくて仕方がない雰囲気だ。生意気に言い返されるのを喜んで、嬉しがっていた。
「変態」
 怒られても反省せず、笑っている男が変態でなくてどうする。
 悔し紛れにぼそっと吐き捨てた台詞は、小声だったのに、しっかり相手に届いていた。
「なんだって?」
「なんでもありません」
 耳聡く音を拾った男が、右の眉を持ち上げた。身を乗り出して睥睨されて、小夜左文字も負けるものかと顎に力を込めた。
 奥歯を軋ませ、小鼻を膨らませて否定の言葉を繰り返す。
 だがその間も身体は火照り、内側から生じる熱を排出する術はなかった。
 脇腹を抱え込んで身を捩り、もぞもぞ動きながら上唇を突き出す。
「聞き捨てならないね、お小夜。僕の、この僕のいったいどこが――」
「之定」
 一方で打刀は文系としての矜持が傷ついたと、撤回するよう訴えた。厚みのある胸を叩いて声を張り上げ、尚も言い募ろうとしたところで言葉を遮られた。
 外見に似合わぬ低音を響かせ、短刀が打刀に凄む。
 吐き出す筈だった空気を呑み込んで、歌仙兼定は緊張に頬を引き攣らせた。
 三白眼で睨まれて、まるで蛇を前にした蛙だ。
 本気で怒らせたかと冷や汗を流し、気圧されて後退を試みた。だがそれより先に、本丸で最も小柄な刀が深々とため息を吐いた。
 肩を落として力を抜いて、息を吸い込む際には唇に人差し指を添えた。
 折り曲げた第二関節を喰むように押し当てて、上目遣いに、腰をくねらせた。
「……熱いんです」
 呟きは掠れ、色を帯びていた。
 艶を含んで、嗅げば甘い匂いがした。
「お小夜?」
「熱くてたまらないんです」
 思わずゴクリと唾を呑み込み、歌仙兼定は声を潜めた。音量を絞って唇を震わせて、繰り返された言葉に内臓を戦慄かせた。
 ぞわりと、悪寒が走った。
 足が竦みそうになって、言おうとしていた台詞を忘れてしまった。
 発作的に右手で顔を覆い、指の隙間から眼前の子供を盗み見た。それを知ってか知らずか、彼は爪の先を軽く噛み、見せつけるように舌を絡ませた。
 瞬間、四肢が痙攣を起こした。立っていられずふらついて、歌仙兼定は乾きつつある唇を開閉させた。
 氷菓子を食べたばかりだというのに、熱を訴えられた。
 冷えたのではなく、その逆だと告げられて、目の前に薄く靄がかかった気分だった。
 息継ぎの合間に舐めた唇は仄かに甘く、それでいて僅かながら冷たさを残していた。
 行方の知れない竹棒を探して地面を蹴り、生い茂る緑の草を踏み潰す。小夜左文字は逃げもせず、それどころか自らも一歩を踏み出した。
「冷ませば良いのかい?」
 長く圧迫されていた下草が跳ね起き、隣の下草が横倒しになった。列からはぐれた蟻が慌てて逃げ出して、短刀の足の甲を駆けあがった。
 それを払い除けてやって、歌仙兼定は膝を折った。
 質問は厳かに、静かに。
 返答は小さな首肯、ひとつだけだった。
「はい」
 ごく僅かな動きだったが、言葉よりも雄弁に語ってくれた。赤らむ頬は確かに熱を帯びており、触れればぺたりと貼り付き、剥がれなかった。
 もっともそれは、歌仙兼定の指が蜜に汚れたままなのも一因だ。
 皮膚を引っ張られた少年の仏頂面を笑って、詫びて、打刀は頭を垂れ、目を閉じた。
 薄く唇を開き、息を吸い、止める。
 緊張で力んでいる頬を優しく包み、撫でて、ほんの少し首を前に出す。
 見て確認しなくても、どこを狙えば良いかが分かった。
 か細い呼気を探り当てて、触れるのに躊躇はなかった。
「ん――」
 押し付けられて、小夜左文字が首を仰け反らせる。
「お小夜、んっ」
 追いかけて、囁いて。
 甘く湿った唇を捏ね合わせて吸い付けば、くちゅりと濡れた感触が両者の間を駆け抜けた。
 氷菓の面影すらない熱をねっとり絡ませ、白く濁った糸の橋を架ける。
「は、ぁ……」
 程なく千切れたその飛沫は冷たくて、吐き出す息はどれも荒かった。
 酸欠手前まで追いやられた少年は一層顔を赤くして、不遜に笑う男を睨み返した。
「少しは冷えたかい?」
 だけれど打刀は何処吹く風で、冷静に切り替えし、目を眇めた。
 悪戯な微笑は無邪気で、悪気が一切感じられない。
 そういうところが卑怯だと内心詰って、小夜左文字は濡れて重くなった唇を噛んだ。
「……いいえ」
 低い声で唸り、かぶりを振る代わりに打刀の乱れた襟を掴んだ。
 力任せに引っ張られた男は苦笑して、甘え下手な短刀の背に腕を回した。
 引き寄せ、閉じ込め、壊さぬように抱きしめて。
「責任は」
「勿論、最後まで取らせてもらうよ」
 こうなったのは、誰の所為。
 言外に不条理を押し付けて来た少年に頷き、呵々と笑った。擦り寄って来る小さな体躯を撫でさすり、氷菓よりも甘美な蜜に喉を鳴らした。
 

草茂る道刈りあけて山里は 花見し人の心をぞ知る
山家集 夏 175

2016/05/22 脱稿