恋ぞ積もりて淵となりぬる

 昼から台所を使いたい、と言われたのは、朝餉の片付けをしている最中だった。
 頼んできた面子は主に粟田口の短刀たちで、後方には堀川国広や浦島虎徹、それに物吉貞宗の顔もあった。最後尾には加州清光が控えており、どうやら言いだしっぺは彼のようだった。
 昼餉に使った食器を洗い終えてからで良いのなら、という条件は、それもやっておくから、というものに取り替えられた。一秒でも早く、長く占有していたい、という強い思いが窺えて、押し切られた格好だ。
 皿を割りはしないかと心配だったが、堀川国広たちがいるので、恐らくは大丈夫だろう。物吉貞宗も頻繁に台所に出入りしており、どこに何を片付けるか、承知している筈だった。
 そういうわけで、思いがけず手が空いた。
 八つ時の菓子も必要ないと言われているので、夕餉まで、本当にやることが何もなかった。
 第一部隊は大太刀や太刀を中心に編成され、昼になる前に出立していた。第二から第四部隊も長時間の遠征に出ており、日が暮れるまで帰ってこない。
 馬当番には任じられていないし、雪深い今の季節、畑仕事は休止中だ。だからと言って演練場に顔を出すは、あまり気が進まなかった。
 歌の題材を探して庭を散策するか、それとも部屋に籠って本を読むか。
 どちらにしても寒さは避けて通れない。どうしたものかと肩を落として、歌仙兼定は藤色の髪を掻き上げた。
 こんな時間から暇を持て余すなど、いつ以来だろう。
「参ったね」
 予期していなかった休暇が有り難い、と言い切れないところが、哀しい。格別急ぐ用件がない状況では、逆に何をしていいか分からなかった。
 鶴丸国永ではないが、退屈で死んでしまう。
 首の後ろを掻きながら呟いて、打刀はのろのろ廊下を進んだ。
 洗濯は朝のうちに済ませて、あとは乾くのを待つのみ。茶器の整理でもしようか考えるが、やり始めたら止まらなくなるので、半日で終わるとは思えなかった。
 これ以上部屋を物で埋めたら、寝具を敷く場所すらなくなってしまう。
 寝返りも碌に出来ない現状を思い出して、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
「いや、でも。少しくらいは、しておかないと」
 それほど広くない部屋には、同居人がいた。本丸で最も小柄な短刀で、目つきは鋭く、なかなかに毒舌家だった。
 数日前、その少年に説教されたばかりだ。もっと考えて選別し、収納場所を用意した上で購入するように、と。
 気晴らしに万屋に出向いた際に、気に入ったものをつい買ってしまうのが良くなかった。後のことなど顧みず、一目惚れした茶器や花器を集めて回った結果が、今の状況だった。
 足の踏み場にも困る有様で、高く積み上げた木箱はいずれ崩壊しそうだ。眠っている間に倒れられたら一大事で、早急な改善が求められた。
 だがひとりで片付けるとなると、これがどうして、巧くいかない。
 捨てるにしても勿体なく思ってしまうし、どれも箱から出して飾っておきたい、と願ってしまう。珍品の美しさに見惚れているうちに時間が過ぎて、片付けを始めたつもりが、散らかして終わった過去は数えきれなかった。
 その度に、同居人に冷たい目で見られた。
 整理出来ないのであれば出て行く、と言われてしまって、涙ながらに引き留めもした。
「小夜に、手伝ってもらうしか、ないか」
 思い出すだけで恥ずかしくなるし、己の性分を呪いたくなった。
 凝り性も度を越せば病気だと詰られては、反論出来ない。情けないとがっくり肩を落として、打刀は溜息を零し、首を振った。
 今一度前髪を掻き上げ、偶々近くを通りかかった部屋を覗き込む。
 大広間は昼夜解放されており、火鉢の他に櫓炬燵も設置されていて、他の部屋より暖かかった。
 熱を含んだ空気が逃げないよう、開けた戸はすぐに閉じた。入室の挨拶も何もなかったが、ここは刀剣男士共有の空間であり、堅苦しいしきたりを度外視した場所だった。
「おや、歌仙殿」
「おう。珍しいな、お前がこっちに来るなんて」
 中に居たのはふた振りの太刀と、打刀が三振り。いつも炬燵を取り合っている短刀たちは皆無で、それこそ珍しかった。
 どうりで静なわけだと首肯して、軽く会釈して返礼の代わりにした。火鉢の傍では鶴丸国永と一期一振が碁を打っており、隅の方では鳴狐が供の狐の毛並みを整えていた。
 なにより驚いたのは、騒がしいのを苦手とする蜂須賀虎徹が、櫓炬燵に入って蜜柑を食べていたことだ。反対側では長曽祢虎徹が、自らの腕を枕に寝そべっていた。
 顔を合わせれば口論ばかりの犬猿の仲の刀が、何故か一緒に居る。これには度肝を抜かされたが、下手に触れて火傷をするのは御免だった。
「どうかしたか」
「いや。ええと、そう。小夜を、知らないかな」
「小夜左文字?」
 ただあまりにも奇抜過ぎて、じろじろ見ていたら、気付かれた。不機嫌そうに睨まれて、歌仙兼定は慌てて首を振った。
 取ってつけたような言い訳だったが、探していたのは嘘ではない。所在の知れない短刀の名前を口に出せば、蜂須賀虎徹は細い眉を真ん中に寄せた。
 渋面を作り、考え込まれた。それもその筈で、歌仙兼定自身、彼を昼餉以降全く見ていなかった。
 どこへ雲隠れしてしまったのか。外は雪で、気温はかなり低い。
「小夜殿でしたら、恐らくは、台所ではないかと」
 怪訝に首を捻り合う打刀に、見かねた太刀が言葉を挟んだ。黒石を盤面に打ち付けて、表情はにこやかだった。
「ぐ、……ちょ、ちょっと待った」
「待ちませぬ」
「頼む。駄目だ。その石は、その石だけはあああああ」
 但し盤上の攻撃は、容赦ないものだったらしい。鶴丸国永はみるみる青くなり、頭を抱えて悲鳴を上げた。
 調子よく攻めていたつもりが、上手く誘導されていたようだ。一期一振の術中に見事に嵌って、白装束の太刀は悔しそうに唇を噛んだ。
 そちらの勝負は、正直言ってどうでも良い。
 歌仙兼定は訳知り顔の太刀に向き直り、膝を折って畳に座った。
「台所、ですか」
「おや、なかなかに良い手ですな。鶴丸殿、援軍獲得おめでとうございます」
 試合を放棄した太刀に替わって白石を取り、窮地を脱するかどうかは微妙ながら、最善と思える場所に置いた。それで一期一振は一層笑顔を花開かせて、こくりと頷き、櫓炬燵の反対側に視線を投げた。
 双六に、歌留多に、落書き道具一式。いずれもが短刀や脇差が退屈しのぎに持ち込んだ、子供たちの遊具だった。
 今は使う者がなく、箱の中に仕舞われている。その大半が、粟田口の所有物だった。
「昼から使わせてくれと、乱藤四郎殿に頼まれました」
「そのようですね。弟たちが、ご迷惑を」
「昼餉の片付けを手伝っていただけたので、こちらとしては大助かりですが」
 鶴丸国永は大の字になって、勝負を投げ出したまま動かない。仕方なく会話の合間に碁石を繰って、歌仙兼定は涼やかな太刀を盗み見た。
 台所で、いったい何が行われているのか。急に興味が沸いて来て、是非とも知りたかった。
 獲物を見定める目で盤上を射抜き、劣勢をどうにか挽回しようと足掻く。
 強気な攻めに上機嫌になって、一期一振は呵々と笑った。
「なんでも、今日は、愛しい相手に菓子を送る日なのだそうで」
「……ほう?」
「弟たちが、朝から張り切っておりました」
 蕩けるような笑顔は、幸せの絶頂にあると告げていた。やり取りを思い出してか口元を覆って、太刀は肩を震わせた。
 押し隠し切れておらず、溢れ出て止まらない。
 思いがけない情報に打刀も目を見開き、合いの手を挟む声は上擦った。
 どくり、と跳ねた鼓動に、とある短刀の姿が重なった。遅れてやって来た興奮に息を呑んで、歌仙兼定は先ほど通った襖を振り返った。
 膝が浮いて、咄嗟に立ち上がろうとした。大袈裟に反応してしまい、頬は紅潮して、全身に熱が迸った。
 唾を飲む音が大きく響いて、見開いた眼はここではない場所を捉えた。他の短刀たちと一緒に菓子作りに精を出す小夜左文字を想像して、魂と呼ぶべきものが震えたのが分かった。
 自然と顔が緩み、鼻の下が伸びていく。
 どうして教えてくれなかったという気持ちと、あの子ならば教えたがらないだろう、という気持ちがぶつかった。身体は勝手にぐらぐら揺れて、落ち着きを失い、挙動不審も良いところだった。
「浦島は、俺のために作ってくれているんだ」
「やめろ、蜂須賀。蹴るんじゃない」
 向こう側では話題に乗り遅れまいと、蜂須賀虎徹が声を荒らげた。弟手作りの菓子は自分のものだと言い張って、寝そべっていた長曽祢虎徹を炬燵から追い出した。
 分別を弁えている打刀も、真贋の話になると向きになる。贋作にくれてやる分はないと言い張って、実に大人げなかった。
「愛染国俊と、蛍丸の奴も、明石国行に作ると言っていたな」
 勝負を引き継いだ歌仙兼定の猛攻により、盤面の状況は一方的なものではなくなっていた。鶴丸国永は関心を示して身を起こし、聞き齧った話を口にした。
「そうですね。堀川国広殿も、御兄弟に贈るのだとか」
 それに一期一振が同意して、黒石を碁笥の中から取り出した。白石を取り囲むように陣地を広げて、牽制し、小気味よい音を響かせた。
 話に出た脇差の少年は、兼定の名を持つもう一振りの打刀と親しい。いつも一緒に居るようなもので、てっきりそちらに贈るものと思っていた。
 だが、話を聞く限り、違うらしい。
 薔薇色の想像が急に翳り、雲行きが怪しくなった。二度続けて瞬きをして、歌仙兼定は間抜け面で口を開いた。
 ぽかんとして、石を打つ音に慌てて盤面に視線を落とす。
「うぐ」
 少しは盛り返せたと思っていたが、またしても窮地に立たされた。
 なかなかの策士だと歯軋りして、打刀は口惜しさに顔を顰めた。
「今剣は、三条の皆に配るって言っていたな」
「あそこは皆、家族同然のようなものだしな」
「加州殿は、主殿に差し上げると仰っておりました」
「それで大和守の奴が拗ねていたぞ。揉めた挙げ句、自分の分は自分で作る、と言っていたが」
 周囲から聞こえてくる話が、どんどん歌仙兼定を追い込んでいく。
 そうとは知らない者たちは会話に花を咲かせ、次の白石は、鶴丸国永が打った。
 ぱちん、と音だけは良い。それでハッとして、打刀は青褪めながら身じろいだ。
「さ、小夜、は……。あの、なにか、言って」
「ああ。あいつも、粟田口の連中に誘われた時に、兄貴たちに渡すとか、なんとか」
「――――」
 目の前が真っ暗になった。
 鶴丸国永の軽妙な語り口調は一気に遠くなり、泡を噴いて気絶してしまいたかった。
 蟹になった気分で、頭を抱え込んだ。碁盤を囲む太刀が苦笑して、または腹を押さえてひーひー言っているとも知らず、歌仙兼定は絶望の淵に佇んで、真っ白だった。
 風が吹けば、砂のようにさらさらと崩れていくだろう。
 黙って聞いていた鳴狐の、その供の狐だけが何か言いたげな顔をしたが、頭を押さえつけられ、仕方なく言葉を呑み込んだ。
「部屋に、……戻る」
「そうか。助太刀、感謝だ」
「そうだね。負け戦、頑張りたまえ」
 一方で打刀はよろよろと立ち上がり、ふらつく足取りで歩き始めた。下を向いたまま前を見ず、両腕はだらりと垂れ下がり、まるで動く屍だった。
 鶴丸国永に珍妙な応援を送って、襖に激突してから、半歩後退して左に滑らせた。廊下に出た後は閉めもせず、そのままにして去って行った。
 哀愁漂う背中だった。間もなく広間は大きな笑い声に包まれたが、歌仙兼定の耳には届かなかった。
 右に、左によろめいて、何度も転びそうになりながら辿り着いた自室で、ついに力尽きて倒れ込む。
 衝撃で最近買ったばかりの茶碗がひっくり返ったが、幸いにも割れはしなかった。
 いつもなら飛び起きて傷の有無を確認するのに、そんな気力も沸いてこない。
「そうか。そうだね。小夜は、家族思いの良い子だからね」
 布団は敷いておらず、畳は冷たかった。その目地に爪を立てて、打刀は消え入りそうな声で呟いた。
 小夜左文字には、兄がいた。太刀の江雪左文字と、打刀の宗三左文字だ。
 両者ともなかなか癖がある刀だが、一年以上を本丸で過ごし、当初に比べれば態度は軟化していた。末弟との距離も随分縮まって、三振りで出かけることもしばしばだった。
 今日は愛しく思う相手に、菓子を贈る日だという。
 当然兄弟を優先させると分かっていても、哀しくて仕方がなかった。
「いいんだ。僕は、小夜が居てくれるだけで」
 菓子が食べたいのではない。
 物が欲しいのではない。
 一緒に居られるだけでいい。
 贅沢は言わない。
 それなのに、こんなにも寂しい。胸が苦しく、切なくて仕方が無い。涙が溢れそうで、吸い込んだ息は異様に熱かった。
 上唇を噛んで嗚咽を堪え、膝を抱えて丸くなる。胎児の姿勢で小さくなって、歌仙兼定は親指の爪を噛んだ。
 何もする気が起きなかった。
 部屋を整理すべきと頭では分かっているが、億劫で、動きたくなかった。
 落ち込んで、拗ねて、そんな自分が嫌になって。
 心に吹く隙間風に身を震わせて、打刀は鼻を啜り、目を閉じた。
 じっとしていたら、眠くはないのに睡魔が来る。次に気が付いた時にはもう日が暮れて、外は薄暗かった。
 障子越しに感じる光は僅かで、太陽の輝きとは趣が異なった。軒先の吊り灯篭の火は、風に煽られゆらゆら踊っていた。
「しまった」
 夕餉の支度があるというのに、午睡で済む時間をとっくに通り越していた。
 なんという失態だろう。慌てて飛び起き、急ぎ向かうべく立ち上がろうとして、彼は肩からずり落ちた掛布団に目を見開いた。
 綿が入って分厚い布が、ずるりと滑った。間に挟まれていた温かな空気が一度に逃げ出して、身震いし、歌仙兼定は唇を戦慄かせた。
「起きたの」
 いつの間に、誰が。
 その答えは即座に判明し、内臓が竦み上がるのが分かった。
 部屋の隅で影が動き、大きく膨らんだ。聞き覚えがあり過ぎる声にも四肢を戦慄かせて、打刀は知らぬうちに掛けられていた布団を握りしめた。
 これがあったから、凍えずに済んだ。胸に痛い心遣いに感謝して、己の迂闊さをひたすら呪った。
「歌仙」
「ああ、いや。すまない、ありがとう」
「珍しいね。歌仙が、寝過ごすなんて」
 動揺を内に隠し、取り繕おうと足掻くが巧く行かない。ため息交じりの呟きがぐさりと来て、歌仙兼定は苦い顔で俯いた。
 勝手に期待して、勝手に気落ちして、不貞寝して、寝坊した。
 言い訳の余地もない見事な空回りぶりに、言葉が出ない。否定も肯定もせずにいたら、静かに歩み寄った短刀が手を伸ばして来た。
 薄明かりの中、探るように頬に触れられた。恐る恐る指を添えて、乾いた皮膚を撫で、掌を押し当てられた。
 柔らかな熱に包まれて、それだけなのに涙が出そうだった。己の惨めさを思い知らされ、反面、嬉しかった。
「すまない、小夜。すぐに」
「夕餉なら、堀川国広と燭台切光忠がいる。心配はいらないよ」
「そう。……後で礼を言わないと」
「明日は任せると、言付かった。でも掃除が終わっていないから、朝だけは、堀川国広たちがやってくれる」
「掃除? なにか、あったのか」
「爆発するなんて、聞いてなかった」
「……そう、か」
 昼間から台所を占拠していた短刀たちは、果たして何をしてくれたのか。
 詳しく聞かない方が己の為な気がして、歌仙兼定は言葉を濁した。目を泳がせて心を鎮め、棚の食器の無事を祈った。
 左頬を包む熱に相好を崩し、ほんの少し体重を預ける。寄り掛かられた少年は労わるように打刀を撫で、額にかかっていた前髪を脇へ払った。
「兄君達には渡せたのかい?」
 言葉は、殊の外すんなり零れ落ちた。
 もっと卑屈になるかと思いきや、口調は穏やかだった。
 復讐の怨嗟に囚われていた少年に、愛おしく思う相手が出来たのだ。最初こそ不慣れで、ぎこちなかったけれど、兄弟間で仲良くしているのは、喜ばしいことだった。
 疎外感を押し殺し、目尻を下げた。不自然にならないよう努めて笑いかければ、小夜左文字は目を丸くして硬直し、気恥ずかしげに頷いた。
「……ああ」
「そう。それは、良かった」
 コクン、と首を振った少年を、心から祝福出来た。言葉を噛み締めながら呟いて、歌仙兼定も手を伸ばした。
 耳に被っていた藍の髪を払い、子供をあやす仕草で頭を撫でてやる。短刀は途端に首を竦め、上目遣いに睨んできた。
「歌仙」
「喜んでもらえたかい?」
 その視線を無視し、饒舌に問いかける。本当に訊きたいことは胸の奥に隠して、いつにも増して早口なのにも気付かない。
 小夜左文字が喋る機会を与えなかった。質問ばかりして、目を逸らさず、相手に主導権を握らせなかった。
 それに歯軋りして、少年は逡巡し、添えるだけだった利き手をきゅっ、と窄めた。
「いっ」
 もれなく野太い悲鳴が、鼓膜のみならず、指先を通して聞こえて来た。頬を抓られた打刀は反射的に仰け反って、悪戯な手を振り払った。
 それほど力を込めたわけではないが、不意打ちだったので、驚きが勝ったらしい。畳にへたり込んで目を白黒させる姿に溜飲を下げて、小夜左文字は指に残る感触を膝に擦り付けた。
「歌仙」
「なっ、なんだい」
「歌仙の分も」
「――え」
「作る、予定だった」
「……予定……」
「材料が、爆発さえしなければ」
「ねえ、小夜。君たちは、本当に、何を作っていたんだい?」
 挙動不審極まりなく、感情を押し殺しているのが窺えた。無理をしているのがはっきり顔に出て、心苦しいのに、なかなか切り出す機会が掴めない。
 抱いていた申し訳なさは、会話の途中で苛立ちに変わった。大人数で台所を占拠した時間を振り返って、少年は声をひっくり返した男から目を逸らした。
 小麦を碾いた粉と、卵を混ぜて、牛の乳がないので山羊の乳で代用し、捏ねて、固めて、窯で焼いた。
 たったそれだけなのに、何故か爆発した。
 真っ黒い煙が出て、音が凄まじかった。一瞬何が起きたか分からなくて、全員がぽかんと間抜け顔を晒した。
 後で聞いた話、もっと美味しくなるようにと、木の実やなにやら、好物をこっそり混ぜた短刀がいたようだ。それがまさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかった、と。
 吃驚したのと、自分の所為で材料が台無しになったのとで、大泣きしていた少年を思い出す。彼は良かれと思ってやったわけだから、誰も責めはしなかったが、お蔭で完成品が減ってしまったのは事実だ。
 もっとも苦心の末に出来上がった量と、日頃世話になっている者たちに配って回った数は、決して合致しないわけだが。
 歌仙兼定に渡す分がなくなったのには、もうひとつ、理由がある。
「すまない」
 重ねて詫びて、小夜左文字は居住まいを正した。
「小夜?」
 畏まられて、打刀は首を捻った。怪訝な顔をして、薄明かりの下で短刀の様子を窺う。しかし視野が限られており、表情を探り切れなかった。
 太めの眉が顰められているのを想像して、短刀は首を竦めた。ひとり自嘲気味に笑って、肩の力を抜き、照れたような、困った顔で男を仰ぎ見た。
 此処に来る前、鶴丸国永たちに会った。落ち込んでいるだろうから慰めてやれ、と言われて、何のことだか最初は分からなかった。
 本当はちゃんと準備するつもりだったのに、こんな結果になったのは想定外も良いところ。粟田口の面々がこぞって一期一振に渡す横で、兄たちを蔑ろには出来なかった。
 顔に出さないよう頑張っていたけれど、宗三左文字も、江雪左文字も、そわそわしていた。ちらちら横目で盗み見られて、素通りするのは難しかった。
 天秤にかけてしまった。
 どちらを選ぶか迫られて、妥協した。
 そこは心底、申し訳ないと思う。焼き上がった菓子の、あまりに甘くて香ばしい匂いに誘われて、味見と称するつまみ食い大会になったのも、当初の予定になかったことだ。
 食べ過ぎた。反省している。誘惑に弱い自分を戒めて、左文字の末弟は愛しい男に身を乗り出した。
 尻を浮かせて膝立ちになり、両手は畳に添えて、首を伸ばす。
「小夜?」
 目の前の影が濃くなった打刀は驚き、咄嗟に後ずさろうとした。
 それよりも早く、小夜左文字は目を閉じた。恥ずかしさを押し殺して、口を窄め、隙間からふっ、と息を吐いた。
 甘い香りが溢れた。鼻孔を擽る匂いに気を取られ、歌仙兼定の動きが止まった。
「ん」
 ふわりと、食欲をそそる香りが強くなった。
 鼻から抜ける吐息の後に、柔らかくて甘いものを唇に感じた。
 微熱が弾けた。軽く押し付けられて、捏ねるように擽られた。
 挙げ句にちろりと舐められて、匂いが一層強くなった。温かな粘膜の感触が、いつまでもそこに留まり続けた。
 首を上下に揺らし、小夜左文字が離れていく。
 残された打刀は惚けた顔で凍り付き、今しがた触れたものを確かめようと、左中指で唇を擦った。
 右から左へ動かして、呆然と前を見た。
 少年は行儀よく座り直し、羞恥を誤魔化そうとそっぽを向いた。
「その。せめて、匂い、だけ……なら」
 ぼそりと呟かれた声は上擦り、掠れ、殆ど音になっていなかった。膝に戻った両手はもぞもぞ動き、無愛想で不器用な短刀の胸中を伝えていた。
 落ち着きなく這い回って、重ねたり、結んだり。
 早く何か言えとばかりに横目で睨まれて、歌仙兼定は随分遅れて赤くなった。唇に触れたものの正体を今になって悟って、噎せそうなくらいの甘い香りに背筋を粟立てた。
 幾らか薄くなりはしたが、匂いはまだ残っていた。慌てて重なり合った部分を舐めれば、小夜左文字の唾液が残っていたのか、こちらも微かに甘かった。
「……っ!」
 ぞわっと内臓が沸き立った。顔面から火が噴き出そうで、思いもよらぬ贈り物に四肢が戦慄いた。
「さ、小夜」
「いらない、なら。もういい」
 声が裏返った。にじり寄ろうとしたら、仏頂面で吐き捨てられた。
 分かり易い照れ隠しに、心が躍った。興奮に頬は紅潮し、顔の筋肉は緩み、胸はきゅぅ、と窄まった。
「へえ。なら、頼めばもっとくれるのかい?」
 落ち込んでいたのが嘘のように、声は高く響いた。短刀の膝元に右腕を突き立てて、打刀は下から覗き込む形で問いかけた。
 暗がりの中、空色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 少年は困り果てて目を泳がせて、躊躇の末に瞼を伏した。
 一緒に、こくりと頷かれた。膝から滑り落ちた手は、歌仙兼定の太い指に添えられた。
 骨の隆起を辿り、握り締められた。それに嬉しそうに笑って、男は遠慮なく甘い香りを吸い込み、いくらでも食べられそうな甘味に舌なめずりした。
「かせ……んっ」
「今度、作り方を教えてくれ。一緒に作ろう」
 柔らかな粘膜に唾液を擦り付け、音を響かせながら囁く。
 かぶりつかれ、圧力に負けた首が後ろに倒れそうだった。それに抗い、懸命に支えて、少年はがっつく打刀に呆れつつ、嬉しそうに頷いた。

2016/2/9 脱稿