心ぼそくも絶えぬなるかな

 それは、突然の出来事だった。
 ドンッ、と大きな音が轟き、床を伝った振動に突き上げられた。耳から、足からも驚かされてびくりとして、小夜左文字は目を丸くして振り返った。
 一緒に食器を拭いていた堀川国広もが、何事かと息を呑んだ。首を竦めて恐々後ろを見て、戸口に佇む打刀に目を白黒させた。
「うわあ」
 思わず、と言った風に声を漏らし、脇差の頬が引き攣った。手にする皿を落とさぬよう握りしめて、黒髪の少年はなんとも言えない笑顔を浮かべた。
 非常にぎこちない表情に、応じる者はいない。
 奥で薪の整理をしていた太刀はといえば、隻眼を見開いて、困った様子で頬を掻いた。
「お、おかえり……なさい。かな?」
 燭台切光忠が、掠れ気味の小声で、言葉を選んで呟いた。合間にひと呼吸挟んで気持ちを整理して、台所の戸に寄り掛かっている打刀を歓迎する素振りを見せた。
 白の軍手を嵌めたまま、両腕を八の字に広げた。遠征で疲れているだろう男を労って、早く中に入るよう、言外に促した。
 しかし藤色の髪の打刀は俯いたまま、なかなか動こうとしなかった。軽く膝を折って姿勢を低くして、猫背気味に項垂れ、口元は真一文字に引き結ばれていた。
 右肘を戸袋の縁に預け、左手は膝の上にあった。先ほどの大きな音は、籠手で壁を叩いた際のものだった。
 戸は開いていたのだから、わざわざ鳴らす必要などない。中に居る者の注意を惹きつけたいのなら、声を掛ければそれで済んだ。
 要するに、あれは八つ当たりだ。
 しなくても良いことを敢えてする、それくらい精神が疲弊している現れだった。
「か、歌仙君?」
「ああ……今、戻った」
 なかなか返事がないのを不安がり、燭台切光忠が伸びあがった。
 心配そうな呼びかけに漸く反応を見せて、歌仙兼定は血の気の引いた顔で呟いた。
 膝に置いていた手で額を覆って、ゆるゆる首を振った。目を閉じて深呼吸して、右手を垂らし、背筋を伸ばした。
 胸元を飾る大振りの花が、朝に比べるとかなり萎びていた。いつもの自信満々、余裕綽々とした様相は失われて、覇気がなく、著しく草臥れた様子だった。
 顔色は悪く、青白い。目元には薄く隈が浮かんで、唇は土気色をしていた。
「大丈夫ですか?」
 歩き出そうとして、すぐにふらついた。右に大きく傾いて、見ていた堀川国広が慌てて声を高くした。
 辛うじて堪えたものの、歌仙兼定の足取りは覚束なかった。一歩を進むのにも時間が必要で、さながら年老いた獣だった。
「歌仙」
 産まれたての小鹿ですら、もっと上手く歩くだろう。それくらい不安定で、見ていて怖くなった。
 いつ倒れるか分からなくて、小夜左文字は持っていたものを机に置いた。拭いている途中だった皿に布巾を被せて、堀川国広の後ろから回り込んだ。
 名を呼んで、手を伸ばす。だけれど寄せられた善意を、歌仙兼定はやんわり断った。
「すまない。水を、一杯」
 彼の体格では、打刀を支えきれない。転倒しようものなら、道連れにしかねなかった。
 気遣いは嬉しいけれど、受け取れなかった。右手で短刀を制し、男は堀川国広に願い出た。
 人差し指を一本立てられて、少年はハッと息を飲んだ。彼も急いで手の中のものを置き、洗い終えた後の濡れている食器ではなく、乾いたものが並ぶ棚へと駆け寄った。
「ええと、歌仙さんの分は……」
「疲れてるみたいだね。遠征、そんなに大変だった?」
 ひとりごちて湯呑みを探す脇差の向こうで、燭台切光忠が履いていた靴を脱いだ。手には薪ではなく、柄杓が握られており、たっぷりの水が波を立てていた。
 溢れてしまいそうで、案外零れない。水平を保ちながら運んでくる太刀に、打刀は嬉しそうに息を吐いた。
「堀川君」
「はーい。うーん、もう、これでいいや」
 今すぐにでも飲みたそうな顔をするが、流石に柄杓から直接は行儀が悪い。太刀に呼ばれた脇差は探すのを諦めて、手近なところにあった湯呑みを掴み取った。
 駆け戻り、手渡すのではなく、底に手を添えて燭台切光忠へと差し出した。直後に瓶から汲み取られた水が、陶器製の器へと注ぎ込まれた。
 透明な雫が滝となり、一部は湯呑みを外れて床へと落ちた。だが雑巾で拭くのは後回しにして、堀川国広は餓えている打刀に顔を向けた。
「すまない」
 礼を言い、歌仙兼定が頭を下げた。仰々しく謝意を表明して、利き手で湯呑みを掴み取った。
 そうして縁に口を着けるや否や、ぐーっと背を後ろへと反らした。
「んぐ、んっ、ん……ぷは、あー」
 立派な喉仏を何度も上下させ、たっぷり注がれた水を一気に飲み干した。ただの井戸水だというのに、最後は美味そうに歓声を上げて、満足げに身を震わせた。
 飲み損ねた分が顎を伝っているのも構わず、濡れた口元を拭いもしない。無言で湯呑みを突き出された脇差は苦笑して、隻眼の太刀に目で合図した。
「もう一杯、ですね」
「頼む」
「お疲れ様、歌仙君」
 言葉は交わさずとも、燭台切光忠は勝手に動いていた。空になった柄杓を肩の高さで揺らして、もう一杯分掬うべく、水瓶を置いた土間の方へ歩いて行った。
 わざわざ井戸まで汲みに行くのは手間だから、朝のうちに桶を使い、複数用意された瓶に溜めておくのだ。料理に使うのは主にこの水で、後は喉が渇いた刀たちが、その都度此処まで飲みに来た。
 歌仙兼定も、そのひと振りだ。遠征から帰還して、余程餓えていたのだろう、二杯目もひと息で飲み干してしまった。
「歌仙、座ると良い」
「ありがとう、小夜。助かるよ」
 左手を腰に当て、湯浴み後の一杯のような飲みっぷりだ。水分を摂取して幾らか回復したらしいが、身体はまだふらついており、膝はガクガク震えていた。
 見かねた小夜左文字が、日頃足台に用いている台座を動かした。簡易の椅子にもなるそれを見せられて、打刀は一も二もなく頷いた。
 実は立っているのも、やっとだったらしい。
 疲労感満載の男は膝を折ると、どっかり腰を下ろし、長い息を吐いた。
 姿勢は猫背で、頭はぐらぐらしていた。眠そうで、怠そうだった。
「疲れてるねえ」
 柄杓を片付けた燭台切光忠が代表して呟くが、他の刀たちも、それ以外言葉が浮かばなかった。戦装束で座り込む打刀は、誰が見ても分かるくらいに疲弊しきっていた。
 吐く息はどれも重く、陰鬱だ。嫌な雰囲気が見ている側にまで伝染りそうで、堀川国広は真っ先に傍を離れた。
 昼餉の片付けに戻り、食器を拭く作業を再開させた。彼を手伝っていた小夜左文字は、躊躇して、視線を泳がせた。
「お腹空いてるでしょう。なにか食べるかい?」
 労いの言葉をかけたいところだが、巧い台詞が思いつかない。そうやってもじもじして、困っていたら、米櫃の蓋を外した燭台切光忠が声を上げた。
 居残り組の昼餉は終わった後だが、出陣や遠征組の為に、食べ物は人数分残してあった。白米はすっかり冷めて表面が固くなっているけれど、茶漬けにするか、粥にすれば充分食べられた。
 握り飯にして、表面に味噌を塗って焼いても良い。
 指折りながら食べ方を提案し、希望を問うた太刀に、聞いていた短刀も力強く頷いた。
「朝からずっと、だろう」
 助けを得て、会話のきっかけが掴めた。
 鼻息荒く告げた小夜左文字に膝を叩かれ、項垂れていた打刀は緩慢に頷いた。
 彼は今朝早くから隊を率い、遠征に出ていた。
 実を言えば既に四度、この男は屋敷への帰還を果たしている。だが屋敷に戻るや否や、編成し直し、仲間を連れて時空を超える旅に出発した。
 つまり彼は、今日だけで遠征を四回終えたことになる。隊の構成は都度組み替えられており、その全てに参加したのは、此処にいる歌仙兼定だけだった。
 ずっと歩き通しの、気の張り通し。
 これで疲れない方が、どうかしていた。
「お昼だって、まだでしょう。作るよ」
 これまでこんなに短時間で、何度も同じ遠征を繰り返されるなど、あまりなかった。どういう風の吹き回しかと、審神者の急な方針転換に、屋敷の誰もが首を傾げていた。
 巻き込まれた打刀は、不運としか言いようがない。
 自分でなくて良かった、とは決して口にせず、燭台切光忠は袖を捲った。
「歌仙、朝も碌に食べてなかっただろう」
 小夜左文字も同意して、打刀の前に回り込んだ。俯く男を下から覗き込んで、強い眼差しで訴えた。
 短刀が目を覚ました時、歌仙兼定は既に身なりを整えていた。昨晩遅くに二番隊を率いるよう命じられていたらしく、食事もそこそこに出て行ってしまった。
 急な話で、驚いた。昨日の夕餉の席で発表された出撃予定では、二番隊を率いるのは小夜左文字だったからだ。
 いつの間に入れ替わったのか、何も聞かされていない。
 話をしようにも歌仙兼定はなかなか戻らず、戻ってもすぐに出発してしまって、すれ違いが続いていた。
 これでようやく、今日の遠征は終了だ。
 疲れ果てている打刀に目を眇めて、小夜左文字は手甲の上から大きな手を撫でた。
 こんなことしか出来ないが、慰めになれば良いと願った。少しでも楽になると言うのなら、背でも、頭でも、満足するまで撫でてやるつもりだった。
「ゆっくり休め」
「ああ。そうしたい、ところだけれど」
「え?」
 腹を満たし、部屋に戻ったら布団を敷いてやろう。そんな事を考えていた矢先、頭上から苦々しい声が降ってきた。
 一瞬、誰の言葉か分からなかった。
 それくらい低くくぐもり、掠れた囁きに、短刀は空色の目を丸くした。
「歌仙ってば、なにしてんのさ。もう出発するよー?」
 そこに外から、けたたましい叫び声が轟いた。
 ドタドタと喧しい足音が発生して、台所に居た全員が一斉に廊下の方を見た。
 現れたのは、加州清光だった。黒を主体とした衣装に身を包んで、左手には彼の本体とも言える刀が握られていた。
 踵の高い靴を履けば、いつでも出発出来る。
 そんな格好で顔を出した打刀に、小夜左文字は唖然となった。
「出発、する……?」
「そういうわけだ。御心遣い、感謝する」
「歌仙!」
 聞き間違いを疑うが、それ以上に信じ難い言葉が間近から聞こえた。堀川国広や燭台切光忠も絶句する中、歌仙兼定は膝に両手を置き、ゆっくりと起き上がった。
 非難めいた叫び声にも、何も言おうとしなかった。黙って小さく首を振って、待ちくたびれている加州清光に右手を振った。
「早くしてよー」
 先に行くよう促され、川の下の子を自称する刀が台所を出ていく。それを驚愕の眼で見送って、小夜左文字は手を伸ばした。
「どういうことだ、歌仙」
 後を追おうとする打刀の、皺の寄った袴を掴んだ。幾重にも連なる襞のひとつを引っ張って、行かせまいと声を荒らげた。
 もう既に、彼は四度も遠征に出ている。次は五度目だった。
 碌に休憩も挟まず、出ずっぱりだった。胃の中は水ばかりで、固形物は残っていない筈だった。
 顔色は依然優れず、瞳には生気が乏しい。今の彼ならば、練度の低い刀相手にも後れを取りかねなかった。
 ふらふらして、まっすぐ立っていられない。そんな状態で、いったい何処へ行くと言うのだろう。
「駄目ですよ、歌仙さん。休んでないと」
「堀川君の言う通りだよ。無茶をしたって、良いことなんか何もないんだから」
 布巾を握りしめて、堀川国広が叫んだ。燭台切光忠も呼応して、小夜左文字に代わって打刀の前を塞いだ。
 両腕を真横に広げ、通せんぼした。その太刀の肩をぐっと押して、歌仙兼定は気丈に声を張り上げた。
「僕がやると決めたんだ。放っておいてくれ」
 苛立ちを含み、早口だった。
 血走った目で怒鳴られて、気迫に圧倒された。希に見る大音声に怯んで、隻眼の太刀はつい道を譲ってしまった。
 小夜左文字は指先に力を込めたが、何の意味もなかった。
 掴んでいた袴は大きく裾を広げたが、それだけで、引き留める役には立たなかった。
 するりと抜けて行った布に瞠目し、追おうとするが間に合わない。
 小さな手は空を掻いて、やがて暗い場所へと沈んで行った。
「歌仙」
 呼びかけても、返事はない。牡丹の絵柄を翻し、打刀はそれまでの不安定さが嘘のように、大股で廊下を歩き去った。
 足取りに迷いはなく、強い決意が窺えた。
 視線は真っ直ぐ前だけを見据え、残された者を顧みようとしなかった。
 腿に爪を立て、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。誰もいない空間を呆然と見詰めて、短い間隔で息継ぎを繰り返した。
「小夜君……あっ」
 状況が上手く理解出来なくて、心の整理が追い付かなかった。
 訳が分からなくて混乱して、心配した堀川国広の声で火が点いた。
 肩に触れられる前に、動いていた。床を蹴って段差を飛び越え、全力で廊下を駆けた。
「なんの、つもりだ」
 腹立たしくて、怒りが治まらなかった。
 あんな状態で遠征に出ても、失敗して帰ってくるのが関の山だ。仲間に迷惑がかかるし、時間の無駄だった。
 疲れているのに認めようとせず、我を張ってなんになる。そこまで遠征が大事だとは、小夜左文字にはどうしても思えなかった。
 わざわざ夜のうちに、編成の変更を申し出た理由も聞いていない。
 本当なら連続での遠征に疲弊させられるのは、小夜左文字の方だった。
 身代わりになったつもりだとしたら、屈辱だ。
 遠征任務のひとつも出来ないと思われるのは、癪でならなかった。
「歌仙!」
 玄関へ出て、吼えた。
 上り框の縁ぎりぎりに立てば、準備を終え、門に向かって進む六振りの背中が見えた。
 声は、届いたはずだ。
 実際、最後尾にいた獅子王が振り返った。不思議そうに目を丸くして、首を傾げたのが何よりの証拠だった。
 しかし、それだけだった。歌仙兼定は立ち止まらず、小夜左文字を見ようともしなかった。手を振って隊の面々に合図を送り、気にしなくて良い旨を伝えたようだった。
 息を切らし、小夜左文字は唇に牙を立てた。いっぱいに空気を吸い込んで、丹田に力を込めた。
「歌仙、待て。遠征なら僕が出る。だから。歌仙!」
 渾身の想いを込めて、戻ってくるよう訴えた。昨晩定められた通りの編成で、自分が隊を率いると胸を叩いた。
 それでも、芳しい反応は得られなかった。
 色よい返事はひとつもなく、それどころか徹底的に無視された。散乱する靴や草履を避けて飛び降りて、素足で追いかけても結果は変わらなかった。
 目の前で門が開き、閉ざされた。頑強で重いそれは短刀の手では決して開かず、無情にも世界はここで切り離された。
 惚けて立ち竦み、暫く動けなかった。
「小夜君、大丈夫?」
 過去に縁を結び、此処本丸でも親しくしていた者に拒絶された。現実味が沸かず、夢を見ている気分で、案ずる声にもすぐに答えられなかった。
 真後ろに堀川国広が立っていた。
 飛び出した短刀を心配し、追いかけて来てくれた。そんな少年の前で固く閉ざされた門を仰いで、小夜左文字はヒクリ、頬を引き攣らせた。
「僕が。復讐さえ果たせない、駄目な刀だからか」
「そんなこと――」
 笑おうとして、失敗した。己を卑下する言葉を吐けば、脇差は否定しようとして、半端なところで言葉を切った。
 地響きがした。
 今しがた閉まったばかりの門が、どういう訳か開かれようとしていた。
「ええ? なんで?」
 第二部隊は出発したばかりで、こんなに早く帰ってくるわけがない。
 何が起きようとしているか分からなくて、堀川国広は武器もないのに身構えた。
 一瞬期待して、小夜左文字は目を見開いた。庇おうと前に出た脇差の影から身を乗り出して、外からやってくる者たちを良く見ようと瞬きを繰り返した。
 風が吹き、砂埃が舞い上がった。
 眼球を襲う細かな塵に臆し、怯んだ隙に、ドォン、と轟音が空を貫いた。
「うっ」
「小夜君!」
 大音響に、鼓膜がびりびり震えた。
 巻き起こった旋風に飛ばされそうになって、小柄な短刀は伸ばされた脇差の手を掴んだ。
 ふた振りで踏ん張って、静かになった空間を揃って見た。
 砂煙は徐々に晴れて行き、程なくして黒っぽい塊が多数、内側から出現した。
「つっかれたぁ~」
「もう、やだ!」
「くったくただー。お腹すいたねえ」
「ははは。こんなにこき使われる日が来ようとは、驚きだぜ」
 それとほぼ時を同じくして、喧々囂々、愚痴が聞こえて来た。口々に言い合って、そこに小夜左文字達が居るとは思っていない様子だった。
 合計六振りの刀が、門の前に座り込んでいた。中には両手両足を投げ出し、大の字になって寝そべっている者もいた。
 各々が喚いている通り、誰も彼も疲れ切っていた。屋敷に行くのさえ億劫だと言って、運んでくれる相手を探し求めていた。
「え、ええ?」
「あ、堀川だ。ねえ、負ぶってー」
「おお、すまん。小夜、申し訳ないんだが大太刀か槍の誰かを呼んできてくれ。俺らは御覧の通り、もう一歩も動けない」
 まさかの事態に、堀川国広が悲鳴を上げた。それでふた振りの存在に気付き、第三部隊の面々が次々に頭を下げた。
 出迎えに来てくれたのだと、勘違いしたらしい。鶴丸国永に手を合わせられて、頼まれた短刀は脇差と顔を見合わせた。
 そういえば彼らも、今日は朝から大忙しだった。
「おんぶー、おんぶー。はーやくー」
「今まで、こんなことなかったのになあ」
 乱藤四郎が強請って我が儘を言い、手で顔を扇いでいた浦島虎徹が、明後日の方角を見ながら呟いた。奥の方ではその兄である蜂須賀虎徹がぐったり座り込んでおり、言葉を発するのも嫌な様子だった。
 一瞥をくれただけで、すぐに俯き、動かなくなった。鶴丸国永の言う通り、此処にいる者全員、自力で歩ける体力は残っていなかった。
 彼らもまた、朝早くから遠征に何度も駆り出されていた。
 第二部隊のように面子を入れ替えたりせず、ずっと固定だったらしい。疲労の度合いは頂点に達しており、もう一度行け、と言われたら全力で拒否しそうだった。
 審神者が相手でも、承諾しない筈だ。彼らの口ぶりから、歌仙兼定の異常ぶりを改めて思い知らされた。
「なんだって、急に張り切っちゃったんだろう」
「近いうちに、大きな戦が起こるんじゃないかって」
「俺が聞いたのは、新たな刀が加わるかもしれない、ってやつだな」
「それで今のうちに~、ってことかあ」
 他に比べてまだ元気が残っている乱藤四郎と浦島虎徹の会話に、鶴丸国永が合いの手を挟んだ。聞きかじった情報を皆に伝えて、真偽は不明と肩を竦めた。
 兎に角、これ以上の遠征は遠慮願う。出陣するなら別の刀に頼むよう、此処に居ない審神者に向かって言って、白装束の太刀は蜂須賀虎徹に寄り掛かった。
「おい、やめろ。貴様、なにをする」
「おお、この椅子、喋るぞ。こいつは驚きだぜ」
「誰が椅子だ。邪魔だ、重い。早く退け」
 背凭れにされて、金色が眩しい打刀が抗議の声を上げた。肩を突っ張らせて必死に抵抗するが、周囲の笑いを誘うばかりで、誰も助けてくれなかった。
 嫌がる彼に調子に乗って、鶴丸国永は一層体重を押し付けた。まるでおしくらまんじゅうで、見ている分には滑稽だった。
「主さん、なにか考えがあってだろうけど」
 一方で堀川国広は難しい顔をして、新たに得た情報に眉を寄せた。小夜左文字も同じ気分で、顰め面で首を傾げた。
 出撃も、遠征も、すべては審神者の指示によるものだ。行き先や編成の選択基準等、詳しい説明はなく、意図あってのものかどうかは、想像するしかなかった。
 ひとつ言えるのは、その審神者の思惑に逆らった刀がいる、ということ。
 歌仙兼定の無謀な行動にも、なにかしら狙いがあると思って間違いなかった。
 小夜左文字に代わって、隊長を引き受けた。
 彼は戦に出るのと、料理は好きだ。茶を嗜み、歌を詠んで、現身を得た生活を満喫していた。
 ただ、嬉々として遠征に出たがる、という話は、あまり聞かなかった。
 珍しい景色に遭遇し、美しいものを堪能出来ると楽しんでいる節はあった。しかしそれだって、帰還後の休息を約束された上でのこと。疲労を蓄積した中での遠征が、彼の本意であるわけがなかった。
 ではどうして、あそこまで強く拘る。
「訳が分からない」
 歌仙兼定のやっていることは論理性に欠け、支離滅裂であり、愚昧としか言いようがなかった。身を粉にして働くような性格ではなかったのに、どういう風の吹き回しか、呆れを通り越して腹が立った。
 低い声で呻き、小夜左文字は拳を作った。尻端折りをした藍色の衣の、丁度折り返されて二重になっている裾を握りしめた。
「あっ、小夜君」
「誰か探してくる」
 疲れ果てている遠征部隊を、このままにしてはおけない。
 力の強くて身体も大きい刀を連れてくると言えば、慌てた堀川国広の後ろで、鶴丸国永が宜しく、と手を振った。
「早くしてね」
 帽子を団扇代わりにしていた乱藤四郎にも催促されて、小柄な短刀は小さく頷いた。玄関に戻ってから素足だったのに気が付いて、追いかけて来た脇差の少年に笑われた。
「雑巾、取ってくるね」
「……すまない」
 気を遣わせてしまったと詫びて、小夜左文字は顔を赤くした。世話好きの少年はクスリと笑って目を細め、靴を脱ぎ、式台へと上り込んだ。
 前方からはドスドスと足音がして、騒々しい。今度は何かと顔を上げた先に見えたのは、背高の男の姿だった。
「国広、んなとこに居やがった。探しちまっただろ」
「ああ、兼さん。そうだ、丁度良かった」
 長い黒髪を左右に躍らせ、大股で近付いて来た。濃い緋色の衣装に浅葱の羽織を合わせて、随所に施された意匠には歌仙兼定と通じるところがあった。
 目は吊り上がり、機嫌が悪そうだった。声は野太く、伸びがあり、低いながら良く響いた。
 やって来た方角からして、台所を覗いた後なのだろう。居ると思っていた存在が居なかったので、拗ねているらしかった。
 そんな打刀に責められても、脇差は慣れているのか意に介さない。それどころか両手を叩き合わせ、門前で座り込む仲間を運ぶ良い人材を得たと喜んだ。
「門のところに、鶴丸さんたちが居るからさ。動けないらしくて、運んであげて」
「はああ?」
 掌を重ねて頬の横に据え、可愛らしい仕草を決めて甘え声で強請った。勿論和泉守兼定が快諾するわけがなく、寝耳に水だと目を丸くした。
 至極嫌そうな顔をして、頬をヒクヒクさせて反論を試みる。
 だがこう見えて堀川国広の方が年上で、且つ経験も積んでいた。
 にっこり微笑みつつも、目は笑っていない。
 有無を言わせぬ眼光に、本丸で最も年若い打刀は気圧され、怯んだ。尻込みして後退して、我に返って首を振った。
「だっ、誰が、ンなこと。俺はなあ、国広。ついさっき、遠征から帰って来たばっかりなんだよ。疲れてんだよ。腹が減ってんだよ」
「遠征?」
 ここで引き下がっては男が廃ると、己を鼓舞して男が吠えた。早口に捲し立てて、右腕を大仰に振り回した。
 浅葱の羽織を膨らませ、喧しく喚いた。その中で飛び出した言葉に反応して、黙って聞いていた小夜左文字が身を乗り出した。
 上り框のすぐ手前まで出て、背高の打刀を仰ぐ。
 それまで存在に気付いていなかったのか、和泉守兼定は一拍置いて頷いた。
「いたのかよ、小夜坊」
「遠征とは、歌仙が率いていた方か」
「んあ? ああ、そうだよ。ったく、胸糞悪り遠征だったぜ」
 堀川国広の眼力から逃れる口実にして、短刀の方へと進み出る。わざわざ膝を折って屈んでから答えて、彼は余所を見ながら吐き捨てた。
 黒髪を雑に掻き回し、心底嫌そうに顔を歪めた。思い出しているのは目を眇めて、表情はいつになく険しかった。
「兼さん、そういう言い方は」
「はあ? だってそうじゃねえか。お前、俺がどこ行ってたか知ってんのか?」
「それは……」
 歌仙兼定が率いる遠征隊に参加して、気分を害して帰って来た。
 端的にまとめると、そういう話だ。聞き咎めた堀川国広を逆に叱り、打刀は不貞腐れて口を尖らせた。
 ちらりと小夜左文字を窺って、脇差は躊躇し、口を噤んだ。そう言えば聞いていないと俯いて、探るように相棒たる刀を窺った。
 藍の髪の短刀も和泉守兼定を注視して、胸に生じたざわめきを手で抑え付けた。
 不穏なものを感じた。
 足元から黒々としたものが広がっていく幻を見た。
「ったくよー、本気で嫌になるぜ。すぐそこに餓えて死にかけてるやつがいるってのに、そいつは歴史上では死ぬ運命にあるからってよ。助けずに、見捨てなきゃならねーってのは」
 頬杖を付き、打刀が吐き捨てた。明後日の方角を向いて、大きな音を立てて舌打ちした。
 正直な感情の吐露に、小夜左文字の身体がびくりと跳ねた。堀川国広もサッと青くなり、立ち竦む短刀を見た。
 視線が交錯した。
 瞼の裏側に、乾き切った大地が映し出された。
 池も川も干上がり、田畑だった場所は罅割れ、雑草一本生えていなかった。獣の死骸がそこかしこに横たわり、死肉を求めて烏が群れを成していた。
 木々に集う黒い鳥は、次に死ぬだろう者を見定め、その時を待っていた。十数羽を数える黒鳥が枯れ枝の上で羽を休める光景は不気味でならず、さながら地獄の一丁目といったところだった。
 僅かな食料を求めて人は奔走し、夥しい命が失われた。産まれたばかりの命が無残に尽きていく様を、為す術なく見守るしかなかった。
 歴史修正主義者はそんな地獄絵図にも、容赦なく介入していた。
 死ぬべきだった命に糧を与え、生きるべき者には飢えを与えた。奴らの目論見は阻まなければならず、刀剣男士はこれを防ぐべく、行動を起こしていた。
 つまりは、遡行軍と逆のことをする。
 生きるべきものを生かし、死ぬべき者の命運は天に任せる。
 歴史を守る為と、どれだけ綺麗な言葉を使ったとしても、なんの慰めにもならない。今にも死にそうな者を前にして、彼らは見て見ぬふりをするよう強いられた。
 それはとても、惨いことだ。
 けれど彼らが歴史を動かすことだけは、絶対にあってはならなかった。
 頭では理解していても、心がそれに追い付かない。正しい行いでありながら、和泉守兼定はこれを胸糞悪い、と言った。
 小夜左文字でも、そう思う。あまり楽しい遠征ではない。精神的に辛く、苦しい旅だ。
「じゃあ、歌仙さんは」
 此処にいる短刀は、餓える領民を救う為に金に換えられた。そんな来歴を持っているから、飢饉に関しては、他の刀よりも思う所は大きかった。
 大っぴらに語るものではない為、本人はこのことをあまり口にしない。だが知る者は知っていた。一時期を共に過ごした打刀ならば、尚のこと。
 堀川国広の声が震えていた。
 握り拳を一度緩め、再びぎゅっと固くして、小夜左文字は玄関先に張り出された名札掛けを見た。本丸に暮らす刀剣男士全員分の名前がそこにあり、一番隊から四番隊まで、六振りずつ札が並べられていた。
 二番隊の先頭に、歌仙兼定の名前があった。今朝からずっと、その位置は変わっていない。
 本当ならそこに、小夜左文字の札があるはずだった。
 なにを思って、何を考え、あの男は無謀極まりない行動に出たのか。
「馬鹿だろう」
 壁を見上げながら、ぽつりと呟く。
「胃に優しいもの、作って待ってようか」
「俺には?」
「兼さんにも、作ってあげるから。その前に門の前のみんな、よろしくね」
「ちぇ。しょうがねえなあ」
 堀川国広は肩を竦め、両手を背に回して目尻を下げた。横では空腹を抱えた打刀が駄々を捏ねて、交換条件を出されて渋々頷いた。
 そんな彼らのやり取りに肩を竦めて、小夜左文字は旅人の無事を祈り、目を閉じた。

「でも、……ありがとう」
 

2016/03/19 脱稿

懸樋にも君がつらゝや結ぶらん 心ぼそくも絶えぬなるかな
山家集 恋 609