俯瞰

 窓越しに降り注ぐ日差しは、程よく温められ、とても心地よかった。
 夏場は鋭すぎて痛いくらいなのに、季節が変わると、こうも趣が異なる。四季の巡りを肌で感じ取って、沢田綱吉は両腕を頭上へと伸ばした。
「ん、ん~~」
 両目をぎゅっと閉じて、上半身を後ろへと反らした。背骨に椅子の背もたれが食い込んだが、それさえも今は気持ちが良かった。
 猫背になっていた姿勢を正し、固い椅子で身じろぐ。腕を下ろせば机にぶつかり、軽い痛みが走った。
「ふぁ、あ、あー……んむ、う」
 それと同時に欠伸が出て、眠いやら、痛いやらで、頭が上手く働かない。手首をぶらぶら揺らして口を塞いで、自然と浮き出た涙は指で弾いた。
 俯けば、否応なしに机上のものが目に入った。
 真っ白に近いノートに、放り出されたシャープペンシルなどの筆記具。ペンケースのファスナーは半分だけ閉じられて、オレンジの蛍光ペンがちらりと顔を覗かせた。
 ノートには今日の日付と、日直の名前だけが記されていた。
「困った~~……」
 沢田綱吉と、黒川花だ。但し女子側の日直は、とっくの昔に帰宅していた。
 前回の当番の際、日誌の記入をサボったのがその理由だ。その時の女子は黒川ではなかったけれど、話は聞かされていたらしく、一方的に押し付けられた。
 これを提出しないと、綱吉は帰れない。だが日誌に書き込むべき内容が、まるで思いつかなかった。
 いい天気だった。
 先日の席替えで窓辺に移動した彼は、ぽかぽか陽気に当てられて、大半の時間を眠って過ごした。
 授業の内容など、当然聞いていない。テキストを開いた瞬間記憶を失い、チャイムの音で気が付いた、というのを何度も繰り返した。
 気持ちよく眠っているのを見咎められ、恥をかきもした。クラスのみんなに笑われて、その時は反省したけれど、同じ轍を幾度も繰り返した。
 そんな一日を過ごしたわけだから、勿論授業中の、クラスメイトの発言も聞いていない。昼休みは教室に居なかったので、誰が何をしていたのか把握していなかった。
 特筆すべきことは、己の醜聞のみ。
 そんな内容で紙面を埋めるなど、屈辱以外の何物でもなかった。
「京子ちゃんが、今日も可愛かった……とか書いたら、怒られるよなあ」
 試しに昨日の日直の記入に目を通してみれば、誰々が花瓶の水を交換していただとか、とある男子が荷物運びを率先してやっていただとか、他者を褒める内容ばかり。
 ならばと真っ先に思いついた事柄は、日直とはなんら関係ないものだった。
「山本が、ゴミ箱満載だったの捨てに行くのに付き合ったの……は、今日じゃない。駄目だ」
 拾い上げたシャープペンシルで紙面を叩き、書き出そうとしたが、結局筆は動かなかった。代わりに頭を抱え込んで、綱吉は下唇を突き出した。
 折角良いネタを拾えた気がしたのに、蘇った記憶は日付を跨いでいた。これでは今日の日誌に使えるはずもなく、双六はふりだしへと戻った。
 転がした賽の目を恨めし気に睨み、何かなかったかと、懸命に頭を悩ませた。こめかみをシャープペンシルの尻で小突き、うんうん唸って、せめて一行くらいは書きたいと、知恵を振り絞った。
 左から注がれる陽射しが、本当に暖かくて、快い。
 人が真剣に考えているというのに、一足早く春を感じさせられた。睡魔を振り払うのは難しく、知らぬ間に欠伸が出ていた。
「ふあ、あー……ねむ」
 あれだけ寝たのに、まだ眠いとはさすがだ。
 これで多少夜更かししても大丈夫と苦笑して、綱吉はどこからか聞こえた鳥の囀りに視線を上げた。
 少々汚れが目立つ窓ガラス越しに、西に傾く太陽が見えた。空はまだ夕焼けを知らず、一面明るく、眩しかった。
「日が長くなったなー」
 冬休みの頃は、午後五時を回ればもう真っ暗に近かった。
 時計を確認すると、四時をちょっと過ぎた程度。下校時刻までは、まだまだ余裕があった。
 グラウンドや体育館からは、運動部の喧しい掛け声が絶えず響いていた。野球部が活動中なのか、金属バットが快音を鳴らしている。その中に混じる親友の顔を思い浮かべて、綱吉は愛用のシャープペンシルを転がした。
「鳥になりたーい」
 先ほど聞こえた鳥の声だが、姿は結局、見当たらなかった。どこかの木の枝で羽を休めているのか、出て来てくれなかった。
 彼らは自由気ままに空を駆り、勉強などしなくて済む。餌の確保は大変かもしれないが、都会に暮らすのであれば、さほど困ることはないだろう。
 あんな風に自在に飛び回り、好きなように生きられたら、どれほど幸せか。
 日誌ひとつに悩まされる自分が嫌になって、妄想への逃避は一気に加速した。
「いいよなー、いいなー」
 澄み渡る空、真っ白い雲。高い場所から見下ろす世界はどれもちっぽけで、狭苦しく、息が詰まりそうだった。
 重力の枷を振り払い、気ままに過ごしてみたい。鬱陶しい授業や、家庭教師から、解き放たれたい。
 塒の確保や天敵の存在、荒天下での身の安全を守る大変さには、一切目を向けなかった。良いところ、楽しいところばかりに注目して、極楽のような日々にうっとり顔を綻ばせた。
「羨ましい」
 両頬を手で覆い、垂れそうになった涎は息と一緒に呑み込んだ。
「オレも、ヒバードになりたい」
 ぽつりと零れたひと言は、ほぼ無自覚だった。
 意識せぬまま飛び出した本音に、遅れて気付いて汗が出た。ボッと火がついたかのように真っ赤になって、綱吉は寄り掛かっていた机から慌てて退いた。
「ひえっ!」
 椅子に座ったまま、床を削って数センチ後退した。裏返った悲鳴を上げて、勝手に赤くなる頬に奥歯をカチカチ噛み鳴らした。
 ヒバードは、並盛中学校風紀委員長が飼っている小鳥の名前だ。ずんぐりむっくりした体型で、唇は横に長く、愛嬌のある顔立ちだった。
 簡単な言葉なら、教えれば覚えた。並盛中学校の校歌をよく口ずさんでおり、学校の周囲で頻繁に目撃された。
 あの鳥になれば、眠る場所も、食べるものも、なにも心配はいらない。
 鬼のようだと言われ、恐れられている風紀委員長の傍に居ても、鉄槌を下されることはない。
 可愛がられ、慈しまれ、大事にしてもらえる。
 あの大きな手に擦り寄っても、頭の上に乗っても、怒られることはない。
 なんという、羨ましさ。
「いい、なあ」
 それに対して、自分はどうだろう。
 己のおかれた境遇と比較して、綱吉は途端に声を低くした。
 真っ赤だった顔は一瞬で白くなり、火照っていた身体は一気に冷たくなった。頬を押さえていた腕は脇に垂れ下がって、ぶらぶら揺れて、当て所なかった。
 やる気が失せた。
 元々ないに等しいものがマイナスになって、生きる気力にさえ事欠く状態だった。
「なんでオレ、人間なんだろ」
 倒れ込むようにして机に寄り掛かり、呻く。
 母である奈々が哀しみそうなことを呟いて、綱吉は窓の外に広がる大空を仰いだ。
 死ぬ気になれば、空を飛ぶのは、一応可能だ。
 だけれど鳥になるには、生まれ変わりでもしない限り、不可能なのが実情だ。
 その生まれ変わりだって、本当にあるのかどうかすら、分からない。望んだ通り、鳥になれる保証だって、どこにもない。
 想像すればするだけ、虚しさが増していく。
 涙さえ出そうになって、綱吉は大きく息を吸い、鼻を啜った。
 ずずず、と音を響かせて、口から出るのは溜息ばかり。クラスで共有している日誌を陰鬱に湿らせて、瞼は重くなる一方だった
 並盛中学校の風紀委員長こと雲雀恭弥は、群れるのを嫌う一匹狼だった。
 数奇な運命で、一生交わることがないと思われた縁は、複雑に絡み合った上で、強く結ばれた。マフィアの後継者問題に端を発して、綱吉は大空のリングを、雲雀は雲のリングを与えられた。
 この先ずっと、繋がりが断たれることはない。血よりも濃い絆とは言い過ぎだが、彼は雲の守護者として、綱吉と関わり続ける。
 願ってもないことだった。
 遠くから眺めるだけだった存在が、手を伸ばせば届く距離まで来た。
 とはいえ、簡単に触れられる相手ではない。守護者の一員になったとはいえ、雲雀が真っ先に優先させるのは、並盛中学校のままだ。
 憧れと、恐れが混じり合った感情に、小さな嫉妬が紛れ込んだ。
 臆して二の足を踏む自分を棚上げして、愛らしい小鳥を羨み、嫉んだ。
「最低だ」
 だが分かっていても、抱いてしまう感情はある。
 止められないのなら、せめて外に漏れ出ないように蓋をしよう。強く戒めて、綱吉は力なく息を吐いた。
 認めてしまったからか、ふっと、気持ちが楽になった。肩の力が抜けて、身体が軽くなった気がした。
 鳥に、なった。
 目の前に青空が広がっていた。白い綿雲がぷかぷか泳いで、風が弱く、穏やかだった。
 あまりの高さに足が竦んだが、思い切って翼を広げた。えいっ、と意を決して飛び出せば、上昇気流を捕まえて、ぐんぐん空へ舞い上がった。
 強く羽ばたかずとも、風が勝手に運んでくれた。滑るように進んで、スキーをしている感覚だった。
 方向転換は容易ではなかったけれど、繰り返すうちに段々分かって来た。風を切って進むのは快感で、落下の恐怖も早いうちに消え失せた。
 死ぬ気状態で空を飛びまわった経験が、こんなところで生かされた。身体が大きな鳥相手にスピード勝負を挑み、ぎりぎりのところで勝利するのは気持ちが良かった。
 楽しい。
 地面を這いつくばうように歩く人間たちが、馬鹿らしく見えて仕方がなかった。
 可哀想に、と憐憫の情が湧いた。
 優越感に浸って、得意になっていた。
「ふへ、ぇへへ、えへ」
 口を開けば、だらしない笑みが零れた。頬は緩みっぱなしで、締まりがなかった。
 鳥になれば、どこへでも行ける。
 どこまでも行ける。
 重力に縛られてやる必要はない。
 自由の心地よさに満面の笑みを浮かべ、綱吉はもぞりと身じろいだ。
 もっと飛んでいたい。
 空の広さを満喫していたい。
 だけれど些か、疲れて来た。長時間飛び回るには、小さな身体はあまりにも不向きだった。
 どこかで羽を休め、英気を養わなければいけない。ただ安らげる場所は少なくて、視線は自然、見知った場所を彷徨った。
 並盛中学校の、校舎。
 窓は十センチばかり開けられており、中に忍び込むのは容易だった。
 滑り込む直前に羽根を畳み、するり、と通り抜ける。窓辺には横に広い机が置かれ、沢山の書類が積み上げられていた。
 肘かけのある椅子は無人だったが、直前まで誰か座っていたらしい。背凭れは正面を向かず、斜めに角度を作っていた。
 暖かな日差しが室内を照らし、照明は消されているけれど、充分明るい。鳥の目でもはっきり見て取れる景色は、綺麗に片付けられ、居心地が良かった。
 革張りのソファに、天板が硝子のテーブル。壁際には背の高い棚が設置されて、何かの大会の記念品らしきトロフィーや、楯が飾られていた。
 端に集められたカーテンが風にそよぎ、机上の書類を擽った。ボールペンが転がってくるのを跳んで避けて、小鳥となった綱吉は左右を見回した。
「ひば、り……さ……」
 並盛中学校の、応接室。
 本来は校長が座すべき席を支配しているのは、風紀の二文字を掲げる絶対王者だった。
 ただ彼は、動物にだけは気が優しい。
 頭を撫でてもらえると思っていた。それなのに、肝心のその人がいない。見回りに出ているのか、部屋の中のどこを探しても見つからなかった。
 今のこの姿なら、存分に甘えられると期待した。
 傍に行っても嫌がられず、一緒に居ても、周りから怪しまれることがない。周囲からどういう関係なのかと訝しまれ、変な組み合わせと笑われることもない。
 堂々と触れ合える。
 その艶やかな黒髪を巣の代わりにするのを、とても楽しみにしていたのに。
 こんな真似、人の形をしていたら、絶対に出来なかった。
 だから訪ねて来たのに、まさかの空振りだ。いったいどこへ行ったのか。待っていれば戻ってくるかどうかすら、綱吉に知る術はなかった。
 どんなに喧しく泣き喚いたところで、所詮は小鳥。声量は弱く、外へは届かない。
 ぱたぱた翼を振り回しても、微風が起こるだけで、身体は浮き上がらなかった。
 ぴぃぴぃ鳴いて、駄々を捏ねて、ふて腐れて、拗ねて、落ち込んで。
 これでは鳥になったのを喜べず、空を飛び回る楽しさも、すっかり吹き飛んでしまった。
 雲雀に会いたい。
 鳥の名前を持つあの人に、会いたい。
 いい子だと頭を撫でられたい、喉を擽られたい。
 肩に乗りたい。抱きしめて欲しい。たとえ鳥の餌だろうとも、雲雀の手から食べさせてもらえるのなら、喜んで口にしよう。
 歌に自信はないが、校歌なら覚えている。可愛らしく尻を振って、愛嬌たっぷりに歌ってみせよう。
「ひばり、さん」
 きっと気に入ってくれるはずだ。彼の好みは、弁えている。失敗など、するわけがなかった。
 ただそれも、本人に無事会えれば、の話。
 念願叶って鳥になったところで、これでは意味がない。タイミングの悪さを罵って、綱吉はしょぼくれて、顔を伏した。
「な、で……くだ、さ……」
 ずっと一緒に居られなくても構わない。最早贅沢は言わない。指一本でも構わないから、頭をくしゃり、と撫でて欲しかった。
 動物相手にしか見せてない笑顔を、自分に向けて欲しかった。
「オレ、の。こと……」
 夢うつつに囁き、祈り、突っ伏す。
 頬と机の間に挟まれたノートがずれ動いて、頬骨が押し潰されて鈍い痛みを発した。
 ふわりと風が薫って、癖だらけで四方を向いている毛先が躍った。元気いっぱいに跳ねているそれは、通常では凹むこともなければ、沈むこともなかった。
 それが、急に。
 上から軽く押され、形に沿って折れ曲がった。
 ふわりと、中に含まれていた空気が逃げていく。くしゃっ、と潰されて、その状態で前後左右に動かされて、微かな振動が頭皮全体に広がった。
 誰かが、綱吉に触れていた。
 頭を雑に、少し遠慮勝ちに撫で回していた。
 はっとした。
 気落ちして沈み切っていた心が大きく弾み、跳ねた。胸が高鳴り、興奮に頬は赤みを取り戻した。
 下向かせていた瞳を、一瞬のうちに上向けた。
 身体も自然と伸びあがって、待ち望んだ瞬間の訪れに、溢れんばかりの笑みがこぼれた。
「ヒバリさ――」
「おっと」
 歓喜に胸を躍らせて、夢が叶ったと声高に吠える。ぐん、と上半身を起こして身を乗り出して、綱吉は目を輝かせた。
 耳朶を打つ低音と、視界を覆う黒。
 なにかが可笑しいと気付くには、数秒の時間が必要だった。
 現在地を見失って、今いる場所が何処か分からなかった。鳥になって空を駆け、応接室に潜り込んだ筈なのに、そこにあるのはひとり用の簡素な机だった。
 背凭れが固い椅子に座り、腹這い状態だった。肘で胸から上を支えて、尻は浮き気味だった。
 膝が引き出しの底に当たり、これ以上前に行けない。机の縁に臍がぶつかって、爪先が床板を擦った。
 ガタガタ言う机から、シャープペンシルが転がり落ちた。消しゴムが弾みながら右へ逃げて、開き癖がついた日誌もそちらへとずれ動いた。
 教室だった。
 夕焼け空が鮮やかな、学校の教室だった。
 カシャン、とシャープペンシルが床の上で音を立てた。座ったままでは見えなかったが、一瞬だけ視線を向けて、綱吉は遅れてやって来た悪寒に全身を戦慄かせた。
 ぶるりと大袈裟なくらいに震えあがって、思考は硬直し、脈動さえ停止寸前だった。
 凍り付き、動けない。
 だらだらと冷や汗を流して、彼は眼前の光景に背筋を粟立てた。
 無人だった前方の席に、人が座っていた。
 白いシャツの上に黒の学生服を羽織り、左袖には臙脂色の腕章が。記される文字は風紀の二文字で、小さな安全ピンが夕日を反射していた。
 艶やかな黒髪に、冴えた眼差し。肩の高さにあった右手は膝へと下ろされて、口角は不遜に持ち上がった。
 不敵な笑みに、ゾワッ、とした。
 全身の汗腺が開き、ありとあらゆる穴から汗や、変な汁が出そうになった。
「ひ、ひぇ、ファッ!」
「日本語、喋って」
「ななななん、なん……っ」
「君、いつからインド人になったの」
「カレー大好きれす!」
 呂律が回らず、悲鳴は言葉にならない。驚き過ぎて仰け反って、茶化されて、おどけ返した。
 ただ滑舌が悪くなり、途中で噛んでしまった。最早滑稽を通り越し、みっともないだけで、道化師にもなれなかった少年は両手で顔を覆い隠した。
 穴があったら、是非とも入りたかった。
 いっそ存在自体を、綺麗さっぱり消し去りたかった。
 叶うなら、今の会話をやり直したい。巻き戻しが利かない時の流れに悲壮感を漂わせ、綱吉は猫背を強め、丸くなった。
 恥ずかしい夢を見たばかりなのに、現実はもっと恥辱に満ちていた。会えて嬉しい筈なのに、今すぐ死んでしまいたかった。
 脂汗が止まらず、身体は火照って熱い。放っておけば全身から火が出るのでは、と危惧するレベルで、体温計があれば、確実に四十度近くを記録するだろう。
 ダブルパンチも良いところだ。
 運命の神様は意地悪で、情け容赦ない。
 実在するかどうかも怪しい存在に恨み節を投げて、綱吉は赤く染まる頬を何度も擦った。
 俯いて、視界は掌で塞いでいた。真っ暗闇で、辛うじて見えるのは己の太腿くらいだった。
 そこに、ふわっと。
 後頭部目掛け、なにかが落ちて来た。
「……あ、あの」
「なに」
 まだ記憶に新しい感触に、再度見舞われた。癖だらけの髪の毛をくしゃりと掻き回されて、綱吉は恐る恐る、指の隙間から前を窺った。
 呼びかければ、無愛想な返事があった。
 腹筋に力を込め、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
 前傾姿勢が完全に改まらない状態で見た景色は、白い棒で左右に分断されていた。
 揺れ動く学生服の、赤色の裏地が鮮やかだ。どんなに激しく動いても決して落ちない理由を考えながら、綱吉は限界まで瞳を上向かせた。
 腕があった。
 手首が一瞬だけ見えた。
 感触だけが頼りの、全く見えない後頭部にあるのは、間違いなく目の前の男の手だった。
 撫でられていた。
 乱暴にならない程度に加減して、頭を掻き回されていた。
「なに、を。……ヒバリさん」
 まだ夢の途中かと疑ったが、それにしては色々リアルすぎる。バクバク跳ねる心臓に唇を舐めて、彼は戦々恐々しながら言葉を繰り出した。
 言いたいことの半分も言えなかったけれど、辛うじて趣旨は伝わった。
 上目遣いの視線に嗚呼、と頷いて、雲雀はゆっくり手を引っ込めた。
 指先に絡む髪の毛を払って落とし、膝には戻さず、頬杖をついた。綱吉が使っている机に寄り掛かって、足は左を上にして組み、体勢は斜めだった。
「なにって。君が撫でてくれって、言ったんだろう」
「はい?」
「ああ、そうそう。喉も擽ってくれって」
「――――っ!」
 抑揚ない声で淡々と告げられて、瞬間、目玉が飛び出そうになった。
 続けて教えられた内容には絶句せざるを得ず、止まっていた冷や汗がまた一斉に噴き出した。
「う、……ウソ、です。よね?」
 それは夢の中、応接室の机の上で呟いた独り言だ。
 妄想の世界で鳥になり、主不在の部屋で零した愚痴だった。
 この姿なら雲雀に可愛がってもらえる。頭を撫でてもらえる。喉を擽り、沢山触って貰える、と。
 他にも色々、期待した。
 そんな願望が、よもや駄々漏れだったとは。
「僕が君に嘘吐いて、どうするの」
「うわ、あああ。あああああああああ!」
 否定して欲しかったのに、あっさり却下された。
 綱吉を支えていた薄氷が、容赦なく踏み砕かれた。足場を失った彼は、他に頼るべきものを持たず、奈落の底へ落ちるしかなかった。
 両手で頭を抱え込み、絶叫しながら机へと突っ伏す。
 視界には白紙のノートがどん、と陣取ったが、その一画は涎らしきもので濡れていた。
 シミになって、裏のページが透けて見えた。窓の外では日没が迫り、カラスが鳴いて帰宅を促した。
 ぽかぽか陽気は、罠だった。
 下校時刻まで、もう幾らも残っていない。日誌は相変わらず真っ白だし、雲雀に色々見られ、聞かれた件も、無かったことに出来そうになかった。
 自ら招いたことだからこそ、誰も責められず、余計に辛い。
 恥ずかしさで涙が出て来て、綱吉はぐじ、と鼻を啜った。
「へえ。そういう態度なんだ」
「……う」
 落ち込み、項垂れ、自暴自棄になりかけた。
 踏み止まらせたのは、雲雀の短いひと言だった。
 彼にしてみれば、綱吉が夢で口にした願いを、現実に叶えてやったのだ。叩き起こすのではなく、寝かせてやって、望み通り頭を撫でてやった。
 だというのに、感謝のひと言もない。真っ赤になって右往左往する一方で、ちっとも喜ばない。
 不満を抱くのは、当然だ。怒りを滾らせて然るべきだった。
 嘲笑うかのような表情に、眼光は鋭い。
 蛇に睨まれた蛙と化して、綱吉は恐々と目の前の男を窺った。
「あ、いえ。あの、……あ、あり、が、と……ござい、ます」
「なんだ。言えるんだ」
 声を潜め、途切れ途切れながら礼の言葉を口にした。途端に雲雀はがっかりした様子で呟き、頬杖をついていない方の手を机に戻した。
 その仕草だけで、言わなければどうなっていたか、はっきり分かった。
 トンファーを出すのを諦め、雲雀が姿勢を正した。椅子の上で身体を前後に揺らして、長い足で綱吉の脛を蹴った。
「うあ」
「下校時間、だよ」
「はは、はい。ただいま!」
 もう間もなく、時計の針は五時半を示す。チャイムが鳴れば、学校内に居る生徒は全員帰らなければならない。
 その前に日誌を終わらせるよう、暗に急かされた。綱吉は舌足らずに叫ぶと、落としたシャープペンシルを拾い、椅子に座り直した。
 直後だ。
「あ、あの、ぅ」
 三度、雲雀の手が頭に落ちて来た。今度は額に近い位置に、大きな掌が被せられた。
 尖って天を向いている毛先を潰し、揉みしだくように撫でられた。長毛種の犬を可愛がっている感覚か、指の動きは忙しなかった。
「なに」
「なんで、また……ですか?」
 願いを叶えてくれたことは、嬉しい。有り難い。感謝している。
 だけれど今のこの状況で、撫でてくる意味が分からなかった。
 礼は言った。それは同時に、もう充分、という思いも込められていた。
 しかも今は、ものを書こうとしている。彼の行動は、正直言えば、邪魔だった。
 ただ素直に告げたら、殺されかねない。
 だから遠慮がちに、控えめに質問を投げかければ、雲雀は瞳を眇め、首を傾がせた。
「君の頭って、面白いよね」
「うぐ」
 一瞬だけ考え、笑われた。
 癖毛なのに意外に柔らかい感触が楽しいだけと、単純明快な理由を教えられた。
 つまりは、他の動物と同じ。猫や犬を撫で回す心地良さに通じると、そういうことらしかった。
 曲がりなりにも人間なのに、ヒバードと同列にされてしまった。
 あれだけなりたかった筈なのに、地味にショックで、悔しかった。
「すみません、あの。オレ、これ、書きたいんで……」
「書けばいいじゃない」
「ヒバリさんが撫でてると、なんていうか、書き辛いって、いうか」
「じゃあ、慣れなよ」
「は?」
「なに。嫌なの?」
「いい、いいえ。滅相もございません!」
 不満を覚え、抵抗したが、無駄だった。
 低い声で凄まれては嫌だと言えず、無理を通され、道理は引っ込んだ。
 裏返った声で悲鳴を上げて、大歓迎だと涙ながらに訴えた。とても名誉なことです、と繰り返して、半泣きになりながら嬉しいと呟いた。
 それが、まさか。
「ヒバリさん。その手、いい加減、邪魔なんですけど」
 応接室にあったものより、もっと立派で幅広の机。その前に座ってペンを走らせ、綱吉が横から伸びる手を弾く。
 だが悪戯な手は簡単には諦めず、性懲りもなく跳ね放題の髪の真ん中に陣取った。
「良いじゃない、別に。もう慣れたんじゃないの」
「そりゃあ、慣れましたけど。でも、仕事の邪魔です」
「僕に撫でられるの、好きなんでしょ」
「時と場合によっては、嫌いです」
 ぐりぐり撫でられ、本気で鬱陶しい。追い払っても、追い払っても、しつこく付きまとい、なかなか離れてくれなかった。
 強めの語気で避難しても、のらりくらりと躱されて、暖簾に腕押しも良いところ。
「十年経って、まだ飽きないんですか?」
 夕暮れの教室での判断が、ここまで人生を狂わせることになろうとは。
 夢にも思わなかったと後悔して、綱吉はスーツ姿の恋人に、甘えるように寄り掛かった。
 

2016/06/19 脱稿