分ゆく水のこほらざるら

 日没前に降り始めた雪は、日の出を待たずして止んだようだ。
 外の様子を確かめ、ほう、と白く濁る息を吐く。一瞬霞んだ視界に目を瞑り、小夜左文字は赤らむ頬を撫でた。
 空気は冷えて、氷のようだ。そして庭先は見事に白一色に染まって、どこかで塊が落ちる音がした。
 屋根にも相当積もっているらしく、柱がミシミシ言っている。そのうち重みに耐えかねて、屋敷が潰れないか心配になった。
 陽が昇れば、雪下ろしの開始だ。作業は主に太刀と打刀の仕事で、中心になっているのは獅子王と陸奥守だった。
 大太刀や薙刀の怪力に頼りたいところではあるが、彼らはそもそも身体が大きすぎた。
 背が高いということは、体重も相当ある、ということだ。ただでさえ重くなっている場所に登らせるのは、本末転倒と言わざるを得ない。
 そんな彼らだけれど、仕事はちゃんとある。庭に落とした雪は、その場に放置出来ない。集めて水路へ捨てに行く作業も、とても重要だった。
 毎日、この繰り返しだ。春が来るまで、終わることはない。
 軒先には氷柱がぶら下がり、水滴が月夜に輝いていた。染み入る寒さに震えて、小夜左文字はひたり、冷えた床板に爪先を置いた。
 一番鶏はまだ鳴かない。屋敷は静まり返り、誰も居ない錯覚を抱かされた。
 寝息や寝言、鼾の類は聞こえなかった。住居区画を離れたのだから当然で、聞こえる方がむしろ恐怖だった。
「冷えるな」
 当然のことを口にして、寝間着の上に羽織った褞袍の袖を握りしめる。肩を怒らせ、首を竦め、少年は身を縮こませた。
 行き先は、厠だ。但し急を要するものではなかった。
 藍色に濡れた夜空は薄ぼんやりした月の支配下にあり、星は控えめに、周囲で瞬いていた。
 太陽はまだ地平線の下にあり、頭を出す気配はなかった。温かな日差しは望むべくもなく、冴えた輝きが短刀を照らした。
「へぷちっ」
 瞬間、震えが来た。
 突如足元から這い上がった悪寒に身震いして、堪える間もなく、くしゃみが出た。
 咄嗟に止めようとして、失敗した。唾が散ったと顎を拭って、小夜左文字は褞袍の中の身体をもぞもぞ動かした。
 立ち止まっているから、冷えるのだ。休めていた足を床板から引き剥がし、小柄な少年は時間をかけて息を吐いた。
「歌仙め、こんな時間に」
 夜明けまで、あと半刻弱はありそうだ。月の位置と空の具合を今一度確かめて、彼は恨めし気に軒を睨んだ。
 寒気に負けて目が覚めた時、布団にその姿がなかった。幅広い空間が右側に出来ていて、隙間から漏れ入る冷気が胸に突き刺さった。
 早起きするとは、聞いていない。朝餉の当番ではあるが、こんな時間から用意しなければいけないとは、知らされていなかった。
 触れた布団はまだ暖かくて、熱が残っていた。一度目が覚めた以上二度寝は出来なくて、眠い目を擦り、小夜左文字はふた振りで使っている寝床を出た。
 着替えはひとまず脇に置いて、探しに行くことにした。厠かと想像してその道を辿っているけれど、すれ違う刀の影はなかった。
 あと少しで着いてしまう。
 歩みを緩め、少年は小さく頭を振った。
 底冷えの夜は、寝付くのも一苦労だ。そうでなくとも小夜左文字は、眠りが浅い方だというのに。
 抱き枕兼湯たんぽ代わりの打刀がいないと、安眠出来ない。不本意甚だしいが、あの熱に、身体はすっかり馴染んでいた。
 慣れない環境下では、嫌な夢を見た。一時期よりは随分薄くなったけれど、身に絡みつく黒く汚れた手の幻は、今でも時折現れた。
 考えていたら、また出て来そうだ。慌てて首を振って打ち消して、少年は冷えた指先に息を吹きかけた。
 首を竦めたまま丸くなって、見え始めた厠の扉に目を凝らした。
 灯りは見えず、動くものの影もない。
 見当違いの場所に来たかと勘繰って、小夜左文字は半眼した。
「いないのか……?」
 念のため扉を叩き、開けて確認してみたが、どれもこれも、空だった。汲み取り式の厠は饐えた臭いがして、空気が冷えている分、臭いも研ぎ澄まされていた。
 容赦なく嗅覚を攻撃され、涙が出そうだった。
 急いで息を止め、口を塞ぎ、少年は逃げるように踵を返した。
「ああ、もう」
 この道を選択したのは他ならぬ自分だが、今はそれが恨めしくてならない。どうして台所を先に探さなかったのかと後悔して、苛立ちが胸に渦巻いた。
 痛烈な悪臭により、僅かに残っていた眠気も吹っ飛んだ。一緒に寒気も飛んで行って、逆に熱いくらいだった。
 ひとり腹を立て、興奮し、煙を噴いた。無駄足を踏まされたと、早朝から行方知れずとなった打刀にも憤慨して、帰りの足取りはかなり荒っぽかった。
 ドスドスと音を響かせ、眠る仲間の迷惑も顧みない。そんな事をしたところで気が晴れるわけでもないのに、大股になって、短刀は庭に面する廊下を突き進んだ。
 出発地点でもあった部屋の前を素通りしようとして、戻り、少しだけ残してあった戸の隙間から中を覗き込む。だが室内は静まり返り、誰かが居る気配はなかった。
 部屋の主はまだ戻らず、有明行燈の細い炎だけが闇を見詰めていた。
「……どこへ」
 厠でなければ、台所しか思いつかない。
 ひっそりため息を零し、小夜左文字は戸を閉めた。
 悴んで感覚が遠い足を擦り合わせ、雪が降り積もった庭を振り返る。
 月明かりが白く輝き、全体的に銀を帯びて美しかった。
 神秘的な光景だった。
 幻想的で、自然が生み出す造形美に驚嘆し、感銘を受けた。もしこれで、身も凍るような寒さがなければ、いつまでも眺めていたいと思えたのだが。
「どうしよう」
 このまま部屋に引き籠るか、それとも台所まで足を伸ばすか。
 決めかねて躊躇して、小夜左文字はその場でもじもじ身じろいだ。
「ふぁ、はっ、は……へっく、ち。は、ぷしゃっ」
 直後にまた寒気に襲われて、くしゃみが連発した。鼻から吸い込んだ空気は冷たくて、鼻孔が焼かれるように痛んだ。
 両手で顔の下半分を覆い隠し、口から吐いた呼気を即席の囲いに充満させた。体温を含んだ空気はほんのり温かくて、凍りかけていた指をも溶かしてくれた。
 眠れないのは分かっているが、布団の中に逃げ込むべきだ。
 台所に行くにしても、せめてもう一枚くらい、何か羽織るべきと考えて、少年は鼻を大きく啜り上げた。
 ずずず、と音を立て、その場で足踏みを繰り返す。迷いを抱えてうんうん唸り、昼とは違う寒さに身を震わせる。
 気配を感じたのは、そんな時だった。
「……ん、ぬ?」
 振り返り見た庭は静謐に包まれ、荘厳で、怖いくらいだった。不用意に踏み込めば白に惑わされ、抜け出せなくなりそうな雰囲気があった。
 そこに、不自然なものが見えた。
 月明かりが落ちて来たのか、ぼうっと、白く輝くものが見えた。
「炎?」
 淡く辺りを照らし、揺れ動いていた。少し前までそこにはなにもなかったのに、突然現れ、光を放った。
 それは蝋燭の火にも似て、鏡に映り込んだ影のようでもあった。
 雪の上で焚き火をする馬鹿はいない筈で、そもそも炎は赤くあるべきだ。ではあれはなにかと問われたら、咄嗟に答えが出せなかった。
「あ、消え……」
 そうこうしている間に、白く翳った炎は見えなくなった。掌で溶ける雪のように、ふっと消えて、残らなかった。
 いったい今のは、何だったのだろう。
 夢でも見ていた心持ちで、小夜左文字は惚けて立ち尽くした。
 鳥の形に、似ていた。
 細い脚でスッと立つ、白い羽の鳥が脳裏を過ぎった。
 幽霊でも見た気分だ。にっかり青江を呼んでくるべきか悩んで、短刀は冷えた指で顎を撫でた。
「鶴……? いや、あれは」
「呼んだか?」
「うわ!」
 瞳を伏し、ぽつり呟く。直後に悲鳴を上げて、少年は竦み上がった。
 完全に独白だったのに、いきなり合いの手が返された。不意打ちを正面から食らって、目玉が飛び出そうなくらい驚いた。
 予期せぬことに心臓が跳ね上がり、肋骨を突き抜けそうになった。慌てて褞袍ごと抱きしめて、小夜左文字は軒先に現れた影に瞠目した。
 真っ白い衣装は綿入りで、被った頭巾は暖かそうだ。金色の鎖がシャラシャラ踊って、笑顔は茶目っ気たっぷりだった。
 右手をひらりと振って、戦く短刀にご満悦だ。それが誰であるかを認識し、日頃から彼が口にしている台詞を思い出して、凍り付いていた少年はがっくり肩を落とした。
 額を手で覆い、項垂れて膝を折る。
 廊下に座り込んだ彼に、頭巾の雪を払った男が首を傾げた。
「おいおい、どうした。俺を呼んだんじゃなかったのか?」
「そんなわけ、ない」
 白い鳥を想像して、偶々口にしただけだ。それでまさか本当に、鶴の名を持つ刀が出てこようとは、夢にも思わなかった。
 しかも昼間ではなく、こんな暗い、夜も明けやらぬ時間帯だ。他の刀たち同様、この太刀だって高鼾中と疑わなかった。
 吐き出すところだった心臓を飲み込んで、小夜左文字は首筋を拭った。唇を舐めて幾度か開閉させて、心を鎮めてから白装束の太刀に向き直った。
「鶴丸国永」
「そういう君は、小夜左文字に相違ないな?」
 ぼそっと名を呟けば、おどけるように訊き返された。ついでに右目だけを閉ざされて、お茶目なところを見せつけた。
 この態度、この口ぶり。
 間違っても幽霊や、妖といった類などではない。
 本丸で暮らす鶴丸国永その刀だと確信を抱いて、小柄な短刀は力なく首を振った。
「なんなの、あなた」
 寝間着姿ではなく、戦装束だった。腰に刀こそ佩いていないものの、いつ呼び出されても問題ない格好だった。
 厚底の下駄は雪を被り、脚絆にも沢山こびりついていた。少し前までどこに居たのかが窺えて、先ほど見た庭先の光が瞬時に結び付いた。
 白は、光を反射する。
 月明かりと、雪明りを浴びて、炎のように見えたのだ。
 謎は解けた。握った拳でこめかみを叩き、小夜左文字は冷え切った廊下で身を捩った。
 立ち上がり、褞袍を整える。踵を擦り合わせて熱を呼んで、縁側によじ登った太刀に眉を顰める。
「なあに。ちょっと退屈だったからな。散歩に出ていただけだ」
 鶴丸国永は足を蹴り上げ、付着していた雪を落とした。頭巾を背中に落として白い頭を曝け出し、悪戯っ子の顔で歯を覗かせた。
 笑い方が、短刀たちのそれだ。思わず厚藤四郎を思い浮かべて、小夜左文字は肩を竦めた。
 そういえば彼は、今宵の寝ずの番に任ぜられていたのだった。
 なにかあった時の為に、本丸では刀がひと振り、夜間も休まず過ごすのが決まりだ。当番は交代制だが、短刀は免除されており、担うのは打刀以上が多かった。
 誰かを驚かせ、自らも驚きを所望する太刀にとって、ひとりで過ごす夜程退屈なものはない。だから雪が止んだのを見計らい、庭に出たのだろう。
 何のための寝ずの番だか、分かったものではない。へし切長谷部に知られたら、大目玉を食らうのは確実だ。
「寒く、ないの」
 呆れてしまい、説教する気力も沸かなかった。代わりに質問を投げかければ、太刀は目を見開き、嗚呼、と頷いた。
 鶴丸国永はこんな格好をしているが、本丸で群を抜いて寒がりだった。
 昼間は火鉢の傍を離れず、雪下ろしの仕事もあれこれ屁理屈を捏ねて断っていた。無理矢理連れ出せば丸くなって動かず、鶴というより、蓑虫だ。
 そんな男が、自ら雪の中に飛び込んで行った。
 にわかには信じ難いと勘繰っていたら、楽しいことでも思いついたのか、鶴丸国永が口角を持ち上げた。
 にやりと笑い、不敵な表情で小夜左文字を見る。
「なに」
 嫌な予感を覚えて背筋を粟立て、少年は本能的に後ずさった。
 一方で太刀はぴょん、と縁側から飛び降りて、庭先に着地し、身を包んでいる白の上着を抓み持った。
 視線は小夜左文字に固定され、動かなかった。眼差しに掴まった少年は竦み上がり、障子に背中を擦り付けた。
 行き場がない状況で足掻いて、桟を引っ掻く。
「ははは。そうら、見ろ!」
 前方では鶴丸国永が得意げに吠え、分厚い上着をガバッ、と左右に開いた。
 肩幅以上に足を広げ、膝を外向きに軽く折り、腰は若干落とし気味に。
 その状態でじっとしていろ、と言われたら数秒で倒れそうな体勢を決めた太刀は、実に楽しげで、誇らしげな顔をしていた。
 対する小夜左文字は、といえば、目に飛び込んできた光景に絶句し、唖然として、天を仰ぎ、頭を抱え込んだ。
「重く、……ないの……」
「いやあ、実は肩が凝る」
 鈍痛を堪え、懸命に息を吐く。時間をかけてそれだけを呟けば、頭巾付きの外套を閉じ、鶴丸国永は楽しげに笑った。
 白い息が煙となり、連なって、弾けた。呵々と声を響かせて、呆れる短刀に舌を出した。
 彼の上着の内側には、多数の温石が吊り下げられていた。
 拳大の石を、火鉢に入れて温めたのだろう。それを綿で包んで、防寒着に潜ませていた。
 見えなかったが、背面にも吊るしているに違いない。ひとつずつなら大した重さではないが、流石に十個を越えると、相当な重量になるだろう。
 そこまでして、庭に出る意味がどこにある。
 聡いのか、愚かなのか分からなくて、小夜左文字は溜息を吐いた。
 大量の温石で身体を温める方法は、あまり実用的ではない。戦場でも、邪魔になるだけだ。
「良い案だと思ったんだがな」
「僕は、鷺かと思った」
「ほう?」
 目に見えてがっかりしている太刀に首を振り、白くぼうっと光っていた彼を思い出す。その時感じたことを声に出せば、興味惹かれた鶴丸国永が首を伸ばした。
 彼は常々、衣装は白が良いと言い張っていた。血の赤が戦場で映えて、本物の鶴らしくなると嘯いていた。
 だが雪に埋もれた庭では、彼は白一色のままだ。これでは鶴とは言えず、どちらかと言えば、それより少し小柄な鷺に近い。
「青鷺火かと」
 しかも、月明かりを集めて光っていた。
 それが吾妻鏡にも語られる妖の類に似ていて、ぎょっとなった。
「そいつはいいな。驚いたか?」
「当たり前」
 語って聞かせてやれば、案の定、鶴丸国永は食いついた。嬉しそうに目を輝かせ、興奮して鼻息を荒くした。
 妖怪と勘違いされたのに、喜んでいる。意図せずして短刀を驚かせていたこと、その事実に自分が驚いたことが、楽しくて仕方がない様子だった。
 彼らしいと言えばそれまでだが、小夜左文字には理解しがたい。幾つかある怪奇譚を脳裏に並べ、少年は肩を竦めた。
「弓で射られないよう、気を付けるんだね」
「おっと。そいつは遠慮願おう」
 あんな風に夜更けの庭で光られたら、何かいると疑われて然るべきだ。そしてこの本丸には、幽霊斬りの逸話持ちだっている。短気で、瞬時に刀を抜きそうな刀も少なくない。
 今回は事なきを得たが、次はどうなるか。
 人を驚かすのも程ほどに、と釘を刺して、小夜左文字は垂れそうになった鼻を啜った。
「使うか?」
「……べつに、いい」
 指先も、足先も冷え切って、感覚がなかった。息を吹きかけても焼け石に水で、擦り合わせると痒くなった。
 赤黒く濁った皮膚を見かねて、鶴丸国永が外套を捲った。吊るした温石を指差した彼に、断るが、視線は釘づけだった。
 言動不一致の短刀を笑い、太刀は手頃な石をひとつ外した。綿が剥がれないよう注意しつつ、差し出し、縁側によじ登った。
 下駄を脱ぎ、渋々受け取った小夜左文字の頭を撫でる。その手は氷のように冷たくて、鉄のように固かった。
 あれだけ温石を抱え込んでいながら、彼も充分冷えていた。
「土の中より冷たい場所など、他にはなかろうて」
「鶴丸国永?」
「さあて、台所へでも行くとするか。外から灯りが見えた。歌仙兼定を探していたんだろう?」
「ぐ……」
 首を竦め、少年は独白に眉を顰めた。慌てて顔を上げるが太刀はいつも通りで、気配の変化を探らせなかった。
 挙句嫌なところを指摘され、反論を封じられた。なにも言えなくなった短刀は口を噤み、渡された温石を鼻先に押し当てた。
「ぬるい」
 いったいどれだけの時間、彼は外に居たのだろう。
 綿がなくても火傷の心配がないくらいに、石は熱を失い、ただ重いだけの代物と化していた。
「しょうが湯でも作ってもらうとするか」
「蜂蜜入りが、いい」
「贅沢だな。そんな話、聞いたことがないぞ」
 雪に閉ざされた庭で、獣さえ眠りに就く夜に、ひとりで。
 そんな時に考える内容には、思い当たる節がある。だからと軽口で応じた少年は、当然のように食いついて来た男に、知れず安堵の息を吐いた。
「僕が頼めば、歌仙なら」
「なるほどな。小夜左文字様さまだ。ご相伴にあずかろう」
 台所を預かる打刀は、とある短刀にだけ異様に甘い。本丸に暮らす刀なら誰もが知る常識に首肯して、鶴丸国永が歩き出す。
 冷えた温石を温めるように抱いて、小夜左文字も台所へと急いだ。

2016/01/16 脱稿

いかなれば雪しく野辺の笹の下を 分ゆく水のこほらざるらん
松屋本山歌集 36