清き流れの底汲まれつゝ

 空気が澱み、濁っている感覚だった。
 澄み渡る青空を眺めても、それが美しいと思えない。様々な形を模る白い綿雲を数え、あれはなにで、あれは何に似ている、と語る気力も沸かなかった。
 身体を動かす度に関節がぎしぎし軋むような音を立て、鈍い痛みがそこかしこから生じた。肋骨が圧迫され、締め付けられているようで、息ひとつするのさえ激痛が伴った。
 ただ佇んでいるだけでも脂汗が滲み、平静でいられない。
 床に伏せても治まることはなく、目を閉じればどろりと滑る闇が四方から押し寄せた。
 飲み込まれる恐怖に飛び起きて、とてもではないが眠れない。呪詛の声は四六時中止むことがなく、耳を塞いだところで防ぎようがなかった。
 血走った眼で辺りを見回せば、後ろが薄く透けた人の姿が視界に飛び込んできた。
 ある者は物言わぬ骸を抱きかかえ、ある者は命乞いをして咽び泣き、ある者は怨嗟の言葉を吐いて絶命した。
 貧しいながらも質素に、堅実に生きた人々だ。小さな幸せを噛み締めながら、日々を慈しみ、愛おしんで生きていた人たちだった。
 それを、殺した。
 穏やかな暮らしを、壊した。
 望んだ結果ではない。むしろ逆で、あんな真似はしたくなかった。だというのに己を奪った山賊は容赦なく、長閑な人々の生活を蹂躙し、踏み潰しては嘲笑った。
 何の罪もない子供を殺した。
 無辜の民をこの手に掛けた。
 そこに道理などない。貫き通すべき意志や、理念、哲学といったものは微塵もなかった。
 ただ目に入ったから。偶々そこに居たから。
 幸せそうにしていたから。
 気に食わなかったから。
 到底受け入れられない理屈の下で、山賊は奪い、殺し、その為にこの身を使った。持ち主を守るべき短刀は血に濡れ、穢れ、どんどん黒く染まっていった。
 だからだろう、山賊は短刀を研ぎに出した。そして研ぎ師として働いていた、かつて殺していた女の息子に遭遇し、仇討として滅ぼされたのは、誰もが知る話だ。
 果たしてこれは、美談だろうか。
 仇を討ち滅ぼしはしたけれど、その刀は結局、山賊の血をも吸ったのだ。
 新たな罪を、重ねただけ。命に貴賤がないと言うのなら、山賊の命もまた、彼が殺した人々のそれと同じであるべきだ。
 喩え仇討ちだったとしても、殺した事実に違いはない。それを隠す為にか、血濡れた復讐譚は、いつしか忠義の話へとすり替えられた。
 美しいと褒め称えられたところで、嬉しくなどない。
 どうせならこの穢れた身体を真っ二つにしてくれた方が、余程有り難かった。
 眠れない夜が続き、朝が来る。
 時を追うごとに、己に向けられる眼差しがが哀れみと恐怖に染まっていくのを、ひしひしと感じていた。
「小夜」
「触らないで」
 差し出された手を拒み、跳ね除けて吼える。
 甲を打たれた刀は戸惑いを顔に出し、どこか哀しそうに眉を顰めた。
 長い睫毛を揺らして、物言いたげな口を何度か開閉させた。けれど語る言葉はなく、唇はきゅっ、と引き結ばれた。
 眉間の皺を深めて、歌仙兼定が瞳を伏した。力なく首を振り、吐息を零して、左手で額を覆い隠した。
「せめて、粥のひと口でも良い。食べてはくれないか」
「……必要ない」
 嘆息に言葉を混ぜ込み、掠れる小声で囁く。
 心からの懇願に一瞬躊躇しかけて、小夜左文字は空を蹴って吐き捨てた。
 素っ気なく言い放ち、引き戻した足の勢いを利用して身体を反転させた。困り果てている打刀に背を向けて、振り払うように一歩を踏み出した。
「小夜、待つんだ」
「僕に構わないで」
 追い縋る声と手が肩に触れて、引き留められた。それもまた瞬時に跳ね除けて、小夜左文字は苛立ちを隠さずに叫んだ。
 冷たく言い捨てて、取り付く島を与えない。睨みつければ打刀は尻込みし、目を逸らし、唇を噛んだ。
 苛立ちが腹の奥底で膨らんで、黒い塊と化して暴れていた。悶々としたものが全身に立ち込めて、四肢に絡まり、身も心も縛り付けていた。
 他者の気配りや心遣いが、鬱陶しくてならなかった。遠慮がちに話しかけられるのも、わざとらしい心配も、なにもかも不愉快だった。
 それだったら無視するなり、怖がって逃げ出してくれた方が余程良い。こちらとしても気が楽だと鼻で笑って、小夜左文字は物憂げな打刀に舌打ちした。
 聞こえるように音を響かせれば、歌仙兼定がくっ、と喉を詰まらせた。息を止めて口を尖らせて、袖から覗く手は拳を形作っていた。
 小刻みに震える体躯が、男の感情を伝えてくれた。怒りが迸っているのを、懸命に抑えているのが窺えた。
 我慢せず、爆発させればいい。
 短気で、すぐに癇癪を起していた昔を思い出しながら、短刀は堪え続ける打刀を笑い飛ばした。
 口角を片方だけ持ち上げ、不遜に鼻を鳴らす。
 露骨に見下した態度を取られた男はムッとして、やがて深く肩を落とした。
「小夜、お願いだ。このままでは、君が倒れてしまう」
 太く長い息を吐き、膝を折った。身を屈めて姿勢を低くして、その背丈は半分程になった。
 目線ももれなく沈んで、一際小柄で華奢な短刀と並んだ。いや、彼の方が幾ばくか下にあり、少年は見上げる側から見上げられる側になった。
 太めの眉が真ん中に集まり、見つめてくる双眸は揺らがなかった。本気で身を案じているのが感じられて、足元がぐらつきそうになった。
 歴史の改変を目論む者がいた。
 時を遡り、自らが望む未来を得る為に動く者たちがいた。
 それを阻止せんとして、審神者なる者が現れた。時の政府に従って、遡行軍の目論見を打ち破る為に。
 時間を遡れるのは、刀のみ。
 故に審神者は刀剣に宿る付喪神に、活動しやすいよう人に似せた現身を与えた。更には戦いで傷ついた身体と心を癒し、仲間と交友を育む場を用意した。
 小夜左文字も、歌仙兼定も、そうやって審神者に招かれたひと振りだった。
 だが審神者は、刀剣男士に多くを与えすぎた。戦う道具でしかないものに、分不相応なものを背負わせた。
 一日の三分の一を費やす睡眠や、食欲や、斬られて血を流す肉体や。
 誰かを慈しむ心があれば、その逆もある。妬み、嫉みといったものまでもが、無機物である刀に蔓延るようになった。
 復讐への渇望や、積み重ねた悪行への罪悪感も。
 それらは迷いを起こし、太刀筋を鈍らせる代物でしかない。だというのに審神者は、これを刀剣男士から――小夜左文字から取り上げようとしなかった。
 自分で蒔いた種は、自分で刈り取れとでも言うのか。
 そうやって審神者が放置した結果が、今の彼だった。
 夜眠ろうとせず、食事も摂らない。固形物を口に入れれば瞬時に吐き出し、落ち着いたかと思えば唐突に叫び、喚き、暴れ回った。
 血走った目をして、居ないものに襲い掛かろうとした。幻聴がすると泣き叫び、柱に頭を打ち付け、自傷行為を止めなかった。
 このままでは、本当に壊れてしまう。
 とても出陣できる状態ではないというのに戦場に出向こうとして、連れて行けば行ったで、作戦を無視して敵陣に突っ込んだ。
 深く傷つき、血を流しても、痛みを訴えるどころか、気が狂ったかのように笑ったという。
 当時の様子を聞いた者たちは揃って背筋を寒くして、関わり合いになりたくないと言い、短刀から距離を置いた。矢張りあれは、と陰口を叩き、ひそひそ言い合っては本人を前にばつが悪い顔をした。
「小夜」
「いやだ」
 懇願に応えずにいたら、手を伸ばされた。
 左右から腕を掴まれそうになって、少年は頭を振り、後ずさった。
「さよ」
「だって、全部が……気持ちが悪い。優しくなどするな。僕は、復讐さえ出来れば、それで。それだけで、良い」
 追いかけようとする歌仙兼定を制して、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。鼻を啜って口から息を吐き、顎を引いて、一気に捲し立てた。
 語尾は掠れ、消え入りそうだった。最初は正面を向いていた視線が徐々に沈んで、歌仙兼定の双眸には、藍色の髪だけが映し出された。
 少年の手は空を掻き、己自身を抱きしめた。布に皺を刻んで力を込めて、小さな体をより小さく、丸くした。
 罪深き刀は、審神者に喚ばれて本丸に至り、多くの刀と交友を持った。昔馴染みから全く知らなかった刀まで、様々な経歴を持つ者たちと生活を共にした。
 価値観が違う者と衝突を繰り返し、時として協調し、親睦を深めた。それまで知らなかった世界が眼前に現れ、狭かった視野が一気に広がった。
 美味しいものを食べ、遊び、語らい、笑った。
 温かな寝床は心地よくて、幸福感が胸を満たした。
 忘れそうになった。
 忘れてしまいたくなった。
 己の罪を。
 血で穢れきった、己の過去を。
 それはある日、突然訪れた。
 月のない、新月の夜だった。
 呪詛の声が聞こえた。恨みを込めて睨んでくる、無数の眼の幻を見た。
 赤黒く染まる自身の姿が鏡にあった。沈めば二度と浮き上がれぬ底なし沼に引きずり込もうと、数多の腕が蠢いていた。
 忘れられるわけがなかった。
 消せるものではなかった。
 償いきれるものではなかった。
 罪の重さに溺れて、息が出来なかった。
 何もかもが濁って見えた。それまで美しく輝いていたものが、突如として灰色一色に塗り潰された。
「僕のことなど、放っておいて」
「出来るわけがないだろう。僕にまた、君を失えと言うのか」
 突き放そうとして、縋りつかれた。必死の形相で訴える打刀が哀れで、滑稽だった。
 歌仙兼定は遠い昔、小夜左文字と共に時を過ごした。しかし飢饉により餓える領民を救う為、短刀は請われるまま、その地を離れた。
 以来、一度として顔を合わさなかった。まさか同じ審神者に喚び出され、再び見えることになろうとは、夢にも思わなかった。
 そういう因果で、歌仙兼定はなにかと小夜左文字に構った。積極的に関わろうとして、なにをするのも一緒だった。
 彼の腕の中で眠るのは、快かった。他者の熱など不快と思っていたのに、彼の寝床だけは、どういう訳か安心出来た。
 彼もまた血に濡れた刀だから、なのかもしれない。
 多くの人を斬ったのに罪を覚えず、そういうものだから、という理屈ひとつで全て片付けてしまう。その強さが、小夜左文字は羨ましかった。
「小夜、お願いだ」
 頭を低くし、歌仙兼定が膝を着く。
 屋外だというのにひれ伏そうとする打刀に戦いて、短刀は嫌々と首を振った。
 彼と一緒に居ると、心が和らいだ。
 望みを忘れ、山賊に奪われる前の日々を思い出した。
 耳元で、かつて殺した人々の怨嗟がこだまする。心も、身体までもが引き千切られそうで、可笑しくなりそうだった。
「いや、だ。歌仙」
 眠れない夜を数えて、もう五日。ただでさえ少ない短刀の体力も、気力も、限界が迫っていた。
 刀が餓え死ぬことなど、あるのだろうか。
 その第一例になるのだと哂って、小夜左文字は両手で顔を覆った。
 物理的に視界を塞ぎ、男の姿を隠す。あまりに優し過ぎる打刀から逃げて、少年は鼻を啜りあげた。
「小夜」
「お願い、だ。もう」
 悲壮感漂わせる声にも首を振り、今度は短刀が、打刀に懇願した。
 ぬるま湯に浸る生活は、少年から色々なものを奪い取った。だけれどそれらは、小夜左文字が小夜左文字たらしめるものだった。
 これから得られるだろう幸福と、これまで積み上げてきた不幸との帳尻を、どこで合わせれば良い。奪い取って来た数多の命への償いも済ませぬまま、自分だけが日々を愉しむなど、許されるわけがないというのに。
 笑うことが、苦しかった。
 明日を待ち焦がれていることに気が付いた時、世界は音を立てて崩れていった。
 なにもしていなくても、辛かった。
 戦場で返り血を浴びている時だけが、束の間の安らぎだった。だのに今や、誰の差し金か、出陣の許可が全く下りない。
 壊して欲しい。
 壊れてしまいたい。
 消えてなくなってしまえたら、どんなにか楽だろう。
 顔をくしゃくしゃに歪め、大きく啜り上げた。自分ではどうにもならなくて、出来なくて、泡となって弾けてしまいたかった。
「駄目だ。そんな真似、絶対に許さない」
「だったら、どうしろと言うんだ」
 手首を掴まれ、力任せに引っ張られた。咄嗟に跳ね除けようとしたが叶わず、体格の違いをこんなところで思い知らされた。
 肩を上下に振り回して暴れ、抱きしめようとする男から懸命に逃げた。一度でも捕まれば終わりと戒めて、遠慮なしに爪を立てた。
「いっ……」
 ガリッ、と指先に衝撃が走った。振り下ろした利き腕は距離感を誤り、牽制のつもりが肉を抉っていた。
 手応えがあった。皮膚を削った感触が、確かにその瞬間、小夜左文字の手に生じた。
 現に頬に二本の筋を走らせて、歌仙兼定が低く呻いた。同時に束縛も緩んで、小夜左文字はその隙に腕を取り返した。
 じり、と摺り足で後退して、息を飲んだ。傷は思ったよりも深くて、赤らんだ皮膚からぽつ、ぽつ、と赤い雫が滲み始めていた。
 背筋が震えた。
 内臓が沸き立つようだった。
 ゾッとして、あらゆる汗腺から汗が噴き出した。呼吸は荒くなり、目の奥がちかちかした。
 感触が、爪先にまだ残っている。振り下ろす位置が少しでもずれていたら、この固く尖った凶器は、打刀の眼球を抉り出していた。
 想像して、総毛立った。沸騰していた血液が急激に冷やされ、膨張していた心臓は半分以下に縮んだ。
 息が出来なかった。
 奥歯がカタカタ鳴って、立っていられなかった。
「う、ぁ」
 もう一歩後退しようとして、膝が折れた。重心が崩れて倒れそうになって、両手を振り回してどうにか堪えた。
 歌仙兼定は蹲り、顔をあげない。両手で傷を負った頬を押さえて、瞠目して、動かなかった。
 その瞳だけが、ぎょろりと蠢いた。
 視線を向けられたと本能で悟って、恐怖が少年を包み込んだ。
 傷つけた。
 不慮の事故とはいえ、紛うことなき事実だ。
 呪詛の声が大きくなった。足元から真っ黒い手が伸びて来て、全身に絡みつき、短刀を縛り付けた。
「あ、ぁ……ああああっ!」
 頭の中が真っ白になった。ありもしないものに怯えて、叫び、払い除けて駆け出した。
 腰を捻り、両手を振り回した。目をぎゅっと瞑って、前さえ見ずに走った。
「小夜!」
 後ろで打刀が叫んだ。だが耳を貸さなかった。足を緩めず、行く先も決めず、ただ逃げ出したい一心でその場を離れた。
 右も左もなく、ただ前に向かって突き進んだ。両腕を大きく振って、一歩の幅を広くして、飛び跳ねるように、全速力で駆けた。
 自然と涙が溢れ、止まらなかった。哀しくもないのに勝手に滲み出て、滝のように頬を流れ落ちた。
「ふ、ぅ。……っず」
 しゃくりあげ、喘ぐ。こんな自分は嫌なのに何も出来なくて、粉々に砕けて塵になりたかった。
 本丸での日々が充実したものになるにつれて、置き去りにした心が悲鳴を上げた。
 復讐はどうするのだと囁いて、死者の魂を引き連れ、鏡の向こうから手を伸ばして来た。
 今すぐ代わってやるから、その身体を寄越せと。
 あらゆるものを破壊して、幸せそうに笑う者たちに復讐すると嘯いた。
「あうっ」
 その中には、本丸で親しくしている刀も含まれていた。優しくしてくれた者たちの名が、当然のように列挙されていた。
 聞きたく無くて引き離そうとしても、声はどこまでも追ってくる。首筋に張りついた、冷たい感触が剥がれなかった。
 振り払おうとして、身を捩った。丁度そこに、大きめの石が落ちていた。
 足を取られ、躓いた。下を全く見ていなかった弊害が現れて、小夜左文字は敢え無く顔面から倒れ伏した。
 受け身を取る暇もなかった。涙で濡れてぐずぐずのところに土埃を浴びせられ、泥に汚れ、散々だった。
 口の中に砂が入り、歯を食い縛ればじゃり、と音がした。堪らず唾と一緒に吐き出して、口元を拭って、冷えた地面に腰を落とした。
「けふ、っは、あ……」
 数回噎せて喉を叩き、ぜいぜいと肩で息を整える。最中に後ろを窺い見るが、歌仙兼定の姿はなかった。
 追いかけて来ない。
 その事実に安堵すると共に、幾ばくか落胆している自分に気付く。どちらがより大きいかと問われたら、答えに躊躇するくらい、拮抗していた。
 彼にまで見捨てられて、いよいよ自分は終わりだ。
「は、あは。ははっ」
 一時は止まった涙がぶり返し、小夜左文字は乾いた声を響かせた。
 もう戻れない。
 どこにも行けない。
 戦場で折れることも出来ず、時が過ぎて朽ち果てるのを待つしかない。
 それが罪を犯した者に与えられる罰か。延々と轟き、消えることのない怨嗟の声に押し潰されて、少年は蹲り、石になろうと背を丸めた。
「高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ――」
 声が聞こえたのは、そんな時だった。
 朗々と響かせ、詠っている。澱むことなく、揺らぐことなく、一定の律を保ち、耳に心地よかった。
 風が流れるように、穏やかだった。緩まず、留まらず、静かに曲線を描き、淡々と、音を刻み続けた。
 どこかで聞いたことがある気がして、いつだったかが思い出せない。声の主にも覚えがあるのに、咄嗟に名前が出て来なかった。
 黒いものを抱きかかえ、小夜左文字は身じろいだ。どうにも出来ない想いを背負って、少年は涙に濡れる目を大きく見開いた。
 若草色の衣が見えた。白の袴に足袋を履き、背筋を凛と伸ばしていた。
 かなり、大柄だ。歌仙兼定よりずっと上背があり、衣に隠れた体躯は程よく引き締まっていた。
 その名前を、知っている。
 どんな時でも穏やかに微笑む黒の眼は、今日に限って鋭く尖っていた。
「――罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す」
 粛々と詠い終えて、彼はひとつ息を吐いた。背中に回していた両手を軽く振り、胸の前で向き合わせた。
 そうして小夜左文字が茫然と見守る中。
 勇猛さで知られる大太刀は。
「そうれ!」
 大きな掌を、勢いよくぶつけ合わせた。
 パンっ、と空気が爆ぜた。目の前で旋風が巻き起こって、圧倒された少年は咄嗟に顔を庇い、凍り付いた。
 吹き飛ばされる、そんな予感がした。
 ぞっと竦み上がった内臓に萎縮して、目を開けていられなかった。
 現実には、微風が肌を撫でただけに過ぎない。しかし嵐に飲み込まれた錯覚を抱いた。抱きかかえていたものが根こそぎ攫われて、天へ舞い上がって消える幻を見た。
 本能的に頭を抱え、首を亀のように引っ込めた。手足を中心に集めて丸くなって、数秒を待ち、息を吐いた。
 全身から力が抜けた。
 目の前で猫騙しをされただけなのに、どっと疲れが押し寄せて来た。
「これでもう、心配ないね」
 惚けていたら、大きな手が降ってきた。先ほど勇ましい音を響かせた掌が、ぽすん、と小夜左文字の頭を包んだ。
 子猫をあやすように撫でられて、訳が分からなかった。本人は優しくしたつもりかもしれないが、存外に力は強くて、顔を上げようにも抵抗出来なかった。
 丁寧に編まれた草履の先ばかり見て、大人しく撫でられる。
 文句のひとつでも言いたいところなのに、声は出ず、唇は干からびていた。
「う……」
 いったい、何が起きたのだろう。
 混乱したまま瞬きを繰り返して、短刀は探るように瞳を動かした。
 身動ぎ、かぶりを振る。振動を受けて大判の手は遠ざかり、二度と戻ってこなかった。
 それが妙に名残惜しくて、口惜しかった。かといってもっと撫でて欲しいとも言えず、困り果てて座り込んでいた矢先。
「小夜!」
「っ」
 矢を射るように飛んできた声に戦き、ビクッと全身を震わせる。
 座ったまま飛び跳ねて居竦んでいたら、前方に佇む大男が呵々と笑った。
「やあ。小夜左文字なら、此処にいるよ」
「石切、丸……殿?」
 ひらりと手を振った大太刀に、打刀は遅れて気が付いた。戸惑いの声を発して足を緩め、速度を落とし、ふた振りの手前で立ち止まった。
 歌仙兼定は肩で息をして、全身汗だくだった。顔は火照って赤らみ、髪の毛はぐしゃぐしゃだった。
 長い時間駆けていた形跡が窺えた。誰かを探し、走り回っていたのは一目瞭然だった。
 愕然として、小夜左文字は口をぽかんと開いた。一方で打刀は汗を拭い、庭先に悠然と佇む大太刀を訝しげに見た。
 小夜左文字の顔は泥に汚れ、衣服も砂まみれだった。ぺたんと尻を地面に落とし、大柄な刀の前にへたり込んでいた。
 助け起こしてやろう、という意志は、石切丸から嗅ぎ取れなかった。失礼ながらその逆、即ち小夜左文字を彼が転がした、という風な想像が先に浮かんでしまって、歌仙兼定は目を眇めた。
 剣呑な空気を漂わせ、警戒しながら残る距離を詰める。
 不躾な眼差しに大太刀が気付かない筈もなく、石切丸は正直すぎる打刀に肩を竦めた。
「良くない気が漂っていたからね。大丈夫、祓っておいたよ」
「なにを、言って」
 嘆息し、囁く。
 遠慮がちな微笑を向けられて、小夜左文字は首を傾げた。
 歌仙兼定も戸惑い、答えを探して短刀を見た。けれど訊かれても分かるわけがなく、見目幼い少年は訝しげに大太刀を仰いだ。
 本丸の中に、遡行軍の存在でも感じたのか。
 真っ先にそちらを想像したふた振りに、石切丸は嗚呼、と頷いた。
 口元に手を持って行き、漏れ出た笑いを隠そうと試みる。しかし肩が揺れており、押し殺し切れていなかった。
 深呼吸をして、目を細めて。
 両手を背中に戻し、大太刀は小夜左文字を見た。
 目が合って、少年は短く息を吐いた。横から伸ばされた手を一瞥して、申し出を断り、自力で立ち上がった。
「小夜、危ない」
 しかし、踏ん張りが利かない。
 生まれたての小鹿と化した短刀は、膝から崩れそうになり、打刀の胸へと倒れ込んだ。
 素早く身を屈め、歌仙兼定が自身を壁とした。受け止め、囲い込んで、ぐったりしている少年を覗き込んだ。
「小夜?」
「……もん、だい……な……」
 背後から見下ろされ、逆さ向きで問いかけられるが、上手く答えられなかった。大事ないと言いたかったのに唇が動かず、言葉は音にならなかった。
 あれだけ不快だった他者の熱が、今はあまり気にならない。怨嗟の声も遠くなり、呪詛は殆ど聞こえなかった。
 地上から生えていた黒い腕が消え、絡みつく泥の手は見えなかった。重く圧し掛かって来たものが立ち去って、潰されそうだった身体が、心が、幾らか軽くなった。
 安堵感が胸を満たす。
 一度目を閉じてしまうと、開ける気になれなかった。
「……寝た?」
 すう、と息を吸い、吐いた。
 歌仙兼定の声は届かず、額を掠めて滑り落ちて行った。
 厚みのある胸板に寄り掛かり、少年は眠っていた。黒ずんだ隈が痛々しいが、頬は赤みを取り戻し、一時に比べれば血色は良かった。
 ここ数日、安眠とは無縁だった。
 目を閉じた矢先に絶叫と共に飛び起きる繰り返しで、本人も、同居人も、著しく睡眠不足だった。
 その小夜左文字が、眠っていた。すよすよと呼吸は落ち着き、表情は穏やかだった。
 憑き物が落ちた、まさにそんな顔だ。
 あまりの変化に絶句して、歌仙兼定は突っ立ったまま微動だにしない男に眉を顰めた。
 妙な術でも使ったのかと、疑念を抱く。
 それさえも飄々と受け流して、石切丸は微笑んだ。
「穢れを祓っただけだよ」
 淡々と告げて、首をちょっとだけ左に傾けた。歌仙兼定は短刀を抱えて立ち上がり、聞き慣れない言葉に半眼した。
「小夜が、穢れていたと?」
「ああ、気を悪くしたなら済まない。正しくは、気枯れを起こしていた、だね」
 罪深き短刀は、けれど歌仙兼定にとっては他に比べようがない存在だ。それを悪く言われたと腹を立てた彼に、石切丸は早口で訂正した。
 言い直し、空中に指を走らせる。
 宙に文字を描いて、大太刀はぴんと来ないでいる打刀に肩を揺らした。
「このところ、様子がおかしかったからね。みんな、心配していたよ」
 健やかに眠る短刀に焦点を合わせ、呟く。
 頬を撫でようとした手を拒み、歌仙兼定は急ぎ小夜左文字を抱え上げた。後退して距離を作って、警戒を解かないまま大太刀と向き合った。
 まるで手負いの獣だ。手懐けるのは大変で、骨が折れそうだった。
 罪の意識に苛まれ、壊れそうになっていたのは短刀だが、この打刀は短刀の手を取り、共に地獄へ落ちそうな雰囲気だ。諸共に、という言葉が脳裏を過ぎり、危ういところで成立している関係に、畏怖の念が湧き起った。
 打たれた利き腕を脇に垂らして、石切丸は穏やかな寝顔を眺めるだけに済ませた。
「罪、というのはね」
「……ああ」
「包み込むもの、なんだよ」
 肩の力を抜き、囁く。
 合いの手を返した打刀は続けられた言葉に片眉を持ち上げ、怪訝に首を傾げた。
 何を言いだすのかと、そう思っているのがありありと分かった。感情の起伏が手に取るように読み解けて、なんと分かり易いのかと、少し可笑しかった。
 だが噴き出せば、ただでは済まない。そこは堪えて、大太刀は両手の指を軽く曲げ、何かを包み込む仕草を取った。
 掌を向い合せにして、胸の前に留める。その中心に光が見えたのは錯覚で、瞬きをすれば何も残っていなかった。
「石切丸、殿」
「心というものは、元来、まっさらなものだよ。しかし内から生じたものが発散されることなく留まり続ければ、それは外側にこびりつき、無垢なものを覆い隠してしまう。主に、悪い感情や想い、怖れや嫌悪といったものがね」
 眉を顰めた打刀に向かい、大太刀が滾々と言葉を紡ぐ。合間に手を動かして、目に見えぬものを覆う囲いは少しずつ大きくなっていった。
 妬み、嫉み、苛立ち、不安。
 外に発散出来ずに抱え込みがちになるものが集まって、やがて大きな影が生じた。真っ白であるべきものを包み、覆い隠した。
 たとえば、些細な失態。理不尽に怒鳴ってしまった後悔や、誰にも知られなければ良いという、ちょっとした判断。
 口に出すまでもないこと、出してはいけないこと。吐き出さずに飲み込んで、忘れたつもりでいた小さなことの数々。
 そういうものが積もり積もって、意識せぬまま悪縁を引き寄せた。無垢な心を包み、罪という意識を植え付けた。
 ありもしないものに怯え、聞こえる筈のないものに恐怖を抱く。
 こびりついた罪の念は次々に別の罪を引き寄せて、外からの光を遮り、心を枯らした。
 健やかな空気を与えられることなく、心身に満ちるべき気が枯れていく。
 それが気枯れ。
 穢れだ。
 石切丸の両手が、不意に重なり、強く握りしめられた。石となり、隙間がない。けれど外からの衝撃には弱く、ちょっとしたことで簡単に瓦解した。
 その光景に、歌仙兼定は瞠目した。
 反射的に下を向いて、眠る幼子に安堵の息を吐いた。項垂れて、潰さぬ程度に腕に力を込めた。
 締め付けられて、小夜左文字が眠ったまま呻いた。慌てた打刀が瞬時に腕を緩めたのもあり、瞼は開かなかった。
「理由は、分かっているのかな?」
 全ての物事には、因果がある。あらゆる事象は繋がっており、結果があるなら、原因があって然るべきだった。
「……僕が、迂闊だった。小夜を置いて、丸一日の遠征に出て」
 静かに問うた大太刀に、打刀は一瞬躊躇し、観念して口を開いた。
 訥々と語り、合間に一度だけ石切丸を見る。視線を送られた刀は瞳を浮かせ、記憶を手繰って嗚呼、と頷いた。
 その件なら覚えていると、仕草が語っていた。返答を確かめて、歌仙兼定は寝入る子供の髪を梳いた。
 続ける言葉を悩み、二度、三度と深呼吸する。
 覚悟を決めかねている態度を察して、大太刀は緩慢に笑った。
「そこの彼が、君と同衾しているのは、聞いているよ」
「誤解しないで欲しい」
「されるような事でもあるのかな?」
「…………存外、人が悪い」
「生憎、刀の身なのでね」
 言い難そうにしている理由を先読みし、揶揄すれば、歌仙兼定が苦虫を噛み潰したような顔をする。精一杯の嫌味を軽々と受け流して、石切丸は胸の前で腕を組んだ。
 小夜左文字が兄たちではなく、昔馴染みの打刀の部屋で寝起きしている件は、本丸内では有名な話だ。知らない者はいない、と言っても過言ではない。当然石切丸も、割と早い段階で耳にしていた。
 理由はどうであれ、皆が本丸に至った時からそうだったから、当たり前として受け入れる土壌は出来上がっていた。そういうものだ、程度にしか考えず、両名の関係を訝しんだり、詮索するつもりはなかった。
 勿論下賤な話を好む刀もいるけれど、このふた振りにそういった気配がないのは、誰の目にも明らかだ。しかし依存傾向にあるのは明白で、この先どう転ぶかは、審神者にも分かるまい。
 神刀になれなかった脇差が、いかにも好きそうな話題だ。振れば食いついてくるだろうと想像して、石切丸は目尻を下げた。
「それで? 君が不在の間は、確か……ああ」
「そうだ。その日は、獅子王も夜間の遠征で、不在だった」
 小夜左文字は歌仙兼定と一緒でなければ眠れず、彼が居ない時は別の刀に頼った。悪夢が寄り付かないよう、百花の王が不在な場合は、百獣の王に縋るのが常だった。
 だがその夜は、運悪く両名とも屋敷を離れていた。
 奇しくも、新月の夜。
 深い闇は、怯える子供を呆気なく呑みこんだ。
 元々眠りが浅かった短刀が、この頃は落ち着いて過ごしていた。本丸での生活にも随分慣れて、復讐だなんだのと物騒なことを、皆の前で言わなくなった時期だった。
「なるほどね。そういうことだったのか」
 小夜左文字自身、気が緩んでいたのだろう。過去に囚われず、前を向いて歩きはじめようとした矢先でもあった。
 不意にひとり寝の夜を迎えて、不安が増した。要らぬ緊張を強いられて、恐怖を抱き、抑えこんでいた感情が爆発した。
 罪は、消えない。消せない。一生涯背負っていくしかない。
 忘れるなと発せられた警句に、少年は過剰なまでの反応を示した。
 得心が行ったと頷いて、石切丸は腕を解いた。間を繋ぐために軽く頬を掻いてから、落ち込んでいる打刀にも肩を竦めた。
「罪とは、己の中から生まれ落ちるもの。一度払ったところで、また湧き出てくるだろうね」
 根底を断ったわけではなく、そこから生じた諸々を吹き飛ばしたに過ぎない。時間が過ぎればいずれ、今日と同じことが繰り返されるだろう。
 そして厄介なのは、その根底にあるものが、小夜左文字を小夜左文字たらしめているもの、という点だ。
「君だって、四六時中その子と一緒、というわけにはいかないだろう?」
「では、どうしろと」
 刀剣男士の編隊は、審神者の気分次第だ。小夜左文字を庇護する者が軒並み屋敷を離れる日が来ないとは、到底言い切れなかった。
 ならば審神者に直接、今回の件も含めて訴えるか。
 通るわけがない。あの者の目的はあくまで時間遡行軍の討伐であり、刀剣男士はその道具なのだから。
 大事にされても、結局は傷つくことを強いられる。戦えない刀だと判断されれば、炉で溶かして鉄に戻されよう。
 敵意をむき出しにした歌仙兼定に、石切丸は苦笑した。
「それを私に聞くのかい?」
 主たる審神者に抗ってでも、小夜左文字を守りたいと願う刀だ。他者から与えられた答えに納得し、受け入れるとは思えなかった。
 自分自身で考えろと突き放し、静かに嘲笑う。そこまで親切ではないと冷たくあしらって、唇を噛む打刀を無感情に見下ろす。
 まだまだ若い、と内心笑みが絶えない。
 睨まれて、少々意地悪が過ぎたと反省して、大太刀は無邪気な寝顔に頬を緩めた。
「彼が自分で、向き合うしかないだろうね」
「小夜が」
「言ったように、罪とは己の心が発するものだ。それもまた、彼の一部だからね」
 気を枯らすのも、栄えさせるのも、本人次第。
 消せないものだと分かっているなら、それを受け入れ、抱えたまま進んでいくしかない。
 逃げるから、追いかけてくるのだ。光に照らされて浮かび上がる影のように、もうひとつの自分と認めて、共に歩んでいく覚悟を決めるべきだろう。
 それが叶うかどうかは、別として。
 淡々と告げられて、歌仙兼定は押し黙った。眠る少年に見入り、動かなかった。
「君は、どうかな?」
 彼もまた、覚悟を決める必要がある。
 苦難多き道を行こうとする少年の傍に居続けるか、否か。
「僕を侮辱しないでくれるかな」
「それは失礼」
 問えば、至極嫌そうに吐き捨てられた。嫌悪を露わにして睨み、小夜左文字を隠して後ろを向いた。
 そんなもの、とっくに決まっている。分かり易い態度に舌を巻いて、石切丸はクツクツ喉を鳴らし、顎を掻いた。
 打刀は振り向かず、大股で歩き出した。眠る幼子を揺らさぬよう慎重に、けれど急ぎ気味に突き進んだ。
 迷いのない足取りは、その胸の裡を如実に表している。その歩みが脇道に逸れ、或いは道を踏み外さぬよう、大太刀は目を閉じ、静かに祈りを捧げた。

2016/1/11 脱稿

あはれにぞ深き誓ひの頼もしき 清き流れの底汲まれつゝ
山家集 雑 1187