ふもとにのみも年を積みける

 年の瀬が迫り、本丸はなにかと騒々しかった。
 なにかしら行事があるわけでない時でも、大勢が共同生活を送っているのだから、充分賑やかではある。しかしここ数日は平素の数倍、輪をかけて五月蠅かった。
 新年を迎えるには、色々と準備が必要だ。新たな歳神に訪ねて来てもらうには、相応に礼を尽くし、手筈を整えなければならなかった。
 屋敷中をぴかぴかに磨き上げ、角松を立てて目印とし、注連縄を飾り、鏡餅を用意する。
 だが付喪神として長年眺めて来た人間たちの営みを、いざ現身を得て実践するのは、なかなかに難しかった。
 不慣れなことは、いきなりすべきではない。
 大掃除の号令を発したはいいが、聞こえてくるのは怒号や悲鳴ばかりの状況に、歌仙兼定は早々に匙を投げたくなった。
 今も向こうの方で、重い棚を動かすのに失敗した脇差が、足の指を挟んだとかで騒いでいる。
 尻尾の如き長い髪を振り回して、鯰尾藤四郎は床に転がり、駄々を捏ねていた。
「いたい、いたーい。足が千切れる!」
「落ち着け、兄弟。足はちゃんと繋がっている」
「そういう問題じゃない!」
 淡々と切り返した骨喰藤四郎に、鯰尾藤四郎は涙目で食って掛かった。物の喩えだというのに真面目に応対されて、大声で吼えてがばり、と起き上がった。
 傍から見ていると滑稽なやり取りだが、ずっとこの調子だから疲れる。彼らに任せたのは間違いだったと肩を落として、細川の打刀は溜息を吐いた。
 右手で額を覆って首を振り、少しも進んでいない片付けに眉を顰める。反対側では秋田藤四郎が、はたきを手に噎せていた。
「げほっ、けほっ。埃が、けほっ」
 高い位置にある棚を掃除して、埃が顔に落ちたらしい。思い切り吸い込んだようで、何度も咳き込んでは、鼻の下や目を擦っていた。
 布で口を覆っておけば、被害はある程度軽減出来る。だというのにそういう知識は持ち合わせていないのか、同じことを繰り返しては、その度くしゃみを連発させた。
 しかも、だ。
「あー、ちょっと。秋田ってば、もー。そこ、さっき僕が箒で掃いたばっかりなのに」
 涙目の弟を見つけて、乱藤四郎が駆けて来た。長い髪は頭の後ろでひとつに束ねており、右手には言葉通り、屋内用の箒が握られていた。
 庭で枯れ葉などを集める竹箒とは違い、柄は若干短めだ。細い隙間にも差し込めるよう小振りで、短刀たちが扱うには適した大きさだった。
 それを肩の位置で振り回して、乱藤四郎は目を吊り上げた。鮮やかな桃色の髪の少年は鼻を啜りつつ振り返り、意味が分からないと言いたげに首を傾げた。
「けほっ。乱兄さん、なんですか?」
「だーかーら、そこ、僕がさっき掃除したの。それなのに、こんなに埃まみれにして」
「でも、上の棚も、綺麗にしないと」
「うああ、もう。だったら僕がやる前に、先に終わらせておいてよね」
「えええー」
 自分の不手際から生じた失敗は、正論で封じられた。反論出来なくなった乱藤四郎は自棄を起こして地団太を踏み、八つ当たり気味に捲し立てた。
 あまりにも不条理なひと言に、秋田藤四郎が目を丸くする。いくらなんでも酷いと声を荒らげるが、我が儘放題な短刀は耳を貸さなかった。
 ぷんすか拗ねて、譲らない。見かねた骨喰藤四郎が間に入り、乱藤四郎を叱って、場は一旦収まった。だけれど怒られた方は気が立ったままで、近くにあった赤いだるまを乱暴に蹴り飛ばした。
「こら!」
 さすがに、これは見過ごせなかった。
 片方しか目が入っていない達磨は、必勝祈願のお守りでもある。それをぞんざいに扱うのは度し難く、許せなかった。
 発作的に怒鳴って、歌仙兼定は握り拳を作った。距離があるので届きはしないが、警告にはなって、乱藤四郎は慌てて逃げて行った。
 蹴倒したものをそのままにして、見向きもしない。
 もっとも達磨は自力で起き上がり、何事もなかったかのように畳に鎮座していたのだが。
 くらくら揺れた後、しばらくしてから止まった。七転び八起きを目の当たりにして、秋田藤四郎は何故か笑顔だった。
「すごい。うわあ、おもしろぉい」
「玩具ではないんだけどね」
「はーい。分かってます」
 興味惹かれてか、小さな手が赤い頭を小突いた。達磨はぐらぐらしながらも倒れず、最後は背筋を伸ばして停止した。
 それを何度か繰り返す短刀に、打刀は呆れて肩を竦めた。遊び道具ではないと諭して止めさせて、片付け作業に戻るよう促した。
 ついでに、埃が立つ時は布で口を覆うよう、教えた。手拭いを使うよう指導すれば、秋田藤四郎は成る程、と目を輝かせた。
「やってみます」
 深く頷き、少年が息巻く。手持ちの分を出し、早速実践する彼の手拭いを結んでやって、歌仙兼定は部屋を見回した。
「ここは任せて良いかな」
「は~い」
 大掃除のついでに、粟田口の刀たちは大部屋に引っ越しだ。今の部屋は人数が増えて手狭になって来ており、全員分の布団を敷くと、足の踏み場が無くなった。
 新たに宛がわれたのは、今まで皆が食事をしていた広間だ。そちらを譲って、今後の食事場所は、三間続きの大広間になる。
 荷物を移し替えるだけなのに、大騒動だ。たった数ヶ月の生活で物が溢れ返り、簡単には終わりそうになかった。
 付きっ切りで面倒を見てやりたいところだけれど、歌仙兼定にだって仕事がある。未だ粟田口の長兄たる太刀が本丸に参陣しない中で、仕切り役を任せられるのは、鯰尾藤四郎か、薬研藤四郎くらいしか居なかった。
 若干心許ないが、仕方がない。
 きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせ、細川の打刀は踵を返した。
 大部屋を出て、飴色の廊下を抜け、玄関の前を通り過ぎる。こちらも盛大に賑わっており、耳を塞ぎたくなる騒がしさだった。
「だーかーら、こっちは、こう。んで、これは、こう!」
「だが、それではこちらの棚が使い辛くなる」
「カッカッカ。数多の意見、良いではないか。一度試してみようぞ」
 来派の愛染国俊の大声に、山姥切国広が布の影で嫌そうに顔を歪めた。それを制して山伏国広が自慢の筋肉を披露して、棚の移動を買って出た。
 本丸で暮らす刀が増えて、その分履物の数も増えた。
 出陣時と通常時とで種類を変える刀もおり、収納用の棚はとっくの昔に満杯だった。
 今回、新たな棚を用意したのだけれど、それの置き場所で揉めているらしい。
 見栄えの良さを優先させるか、使い易さを第一とするか。
 放っておいても、道がふさがれるといったような、変なことにはなるまい。こちらは任せて大丈夫と安堵して、歌仙兼定は台所へ向かって足を進めた。
 彼が居住している部屋の片づけは、日々行っているので、そう急がなくても心配はいらない。それよりももっと重要な場所を片付けてしまわないと、安心して年を越せなかった。
 下手をすれば台所の方が、部屋よりも長い時間を過ごしている。最早第二の居室と言っても過言ではない場所は、扉が開け放たれ、冬の冷たい風が吹き荒れていた。
「冷えるなあ」
 竈の灰を全て退かし、釜にこびりついた煤は綺麗に洗い流した。天井に蓄積された埃を落とすのは後回しにして、今は棚に収納していた食器や調理器具を天日干しする真っ最中。
 普段は閉じている窓も全て解放して、空気は冷え切っていた。調理用の机といったものも外に出されており、雑多だった空間は小ざっぱりしていた。
 こんなに広かったかと感心しつつ、歌仙兼定は腕を撫でた。身震いして熱を呼び起こし、一段低くなっている床に爪先を置いた。
「思い出すねえ」
「歌仙」
「やあ、小夜。精が出るね」
 ヒヤッとした感触に頬を緩め、物が殆どない空間を眺める。
 ぼんやり佇んでいれば人の気配がして、勝手口から藍色の頭がひょっこり現れた。
 高い位置で結った髪のその上に、埃避けか、手拭いが巻かれていた。三角に折り畳んだ布で後頭部を覆っており、寒いだろうに尻端折り姿だった。
 帯にするには少々長い紐を襷にして、桶を胸に抱いていた。
 中には何も入っておらず、恐らくはこれから、そこに収めるのだろう。右を向いた歌仙兼定の視界には、中身の残った棚が幾つかあった。
「手伝おう」
「助かる」
 一度に大量に運ぶのは、重いし、危ない。器には陶器製のものが多いので、万が一落として割ったところに倒れたら、手入れ部屋行き確定だ。
 そうならない為には、運べるだけの量を動かし、何往復もするしかない。面倒だがそれが一番確実で、最も効率が良かった。
 文句も言わずにせっせと働く短刀に、歌仙兼定は袖を捲った。
 山伏国広には劣るが、腕力には自信がある。任せろと胸を叩いた打刀に、小夜左文字は無愛想に礼を言った。
 感謝の気持ちが感じられない表情だが、これでも愛想は良くなった方だ。こくりとひとつ頷いて、男は草履を脱いだ少年に先んじ、棚に向かった。
 いつもは調理台が間にある為、迂回させられるのだが、今日だけは別だ。広々とした空間を堪能して、打刀は高い位置に手を伸ばした。
「すまない」
「適材適所と言うからね」
 短刀の中でも際立って小柄な少年では、背伸びをしても届かない位置だ。台を使ってもなかなか難しいところの品々を取ってやれば、小夜左文字は急いで駆け寄り、空の桶を掲げた。
 あまり使う機会がなく、仕舞い込んだままだった椀の埃を払い、桶に並べていく。鮮やかな丹塗りの食器は、晴れの日に用いるものであり、正月には必要不可欠なものだった。
「こんなところにあったのか」
 探さなければ、と思っていたものに、運よく巡り会えた。
 これも大掃除の醍醐味だと笑って、打刀はすぐ満杯になった桶を小突いた。
「洗わないと」
「それは後だ。先に全部出して、棚を動かしたいな」
「移動させるのか」
「いや、裏を掃除したい」
 間近に迫る正月の為に、やることは山積みだ。
 使ったことがない食器は真新しいのに汚れていて、黒ずみを気にする少年に、歌仙兼定は首を振った。
 日々の調理に忙しく、台所の掃除は見える場所が主だった。手が届かないところに潜り込んだ野菜の切れ端や、欠片の回収までは、どうしても手が回らなかった。
 今日こそはそれらを、根こそぎ取り払ってしまいたい。
 目標は本丸が開かれた日の美しさだと宣言すれば、煤けた天井を仰ぎ、小夜左文字が苦笑した。
「出来るものならな」
 一度付着した汚れは、どんなに丹念に磨いたところで、完全には取り払えない。使えば使う分だけ物は傷み、終わりへと近付いていく。永遠に変わらないものなど有りはせず、たとえ見た目を取り繕おうとも、中身までは誤魔化せない。
 小夜左文字がかつての持ち主を殺し、無辜の民を手に掛けた刀である事実が覆らないのと、同じだ。
 台所の煤だって、全て取り払うのは不可能だ。だというのに夢を見て、熱く語る打刀は、まだまだ幼かった。
 無邪気に目を輝かせる昔馴染みに肩を竦め、小夜左文字はずっしり重くなった桶を抱え直した。
 勝手口から出た先には小さな庭があって、今は茣蓙が敷かれていた。その上に台所から避難させた食器類が並べられて、冬の日差しを受けていた。
 鍋や釜といったものも、そちらだ。現在進行形で大倶利伽羅と堀川国広が、井戸端でせっせと洗ってくれていた。
 寒い中、水だって冷たいのに、頑張ってくれている。
 後ろでは歌仙兼定が手で持てるだけの食器を集め、積み重ねて塔にしていた。
「よっと」
「危ないよ」
「なあに。これくらいは平気さ」
 小夜左文字のように、大きめの入れ物に詰めて運ぶのではなく、縦に長くして抱えていくつもりらしい。
 土間との間には結構な段差があるというのに意に介さず、忠告にも耳を貸そうとしない。自分に絶対の自信を持ち、失敗しないと疑わなかった。
 傲慢とも思える態度だが、確かに彼は器用だ。
 案外なんとかなるかもしれないと嘆息して、小夜左文字は桶を担いだ。
 先ほど適材適所と言われたが、まったくもって、その通りだった。
 悔しいけれど、体格差は覆せない。歌仙兼定のような太い腕も、逞しい肩幅も、短刀には夢のまた夢だ。
 羨ましくあり、妬ましい。
 狡い、と思う気持ちを奥底へ封じ込めて、少年は短い脚を交互に動かした。
 先を行く歌仙兼定は、段差の手前で身体を横にし、右足からそろり、土間へ降りた。慎重に、注意深く、時間をかけて、ゆっくりだった。
 そこで手間取るのが分かっていながら、何故盆を使わないのか。
 面倒臭がりなのか、そうでないのか分からないと眉を顰めて、小夜左文字は男の後に続いた。
 草履を引っ掻けて庭に出て、茣蓙へ近づき、桶の中身を移し替える。
 最中に縁が欠けているものがないかを調べて、傷みが酷いものは別にした。
「ああ、歌仙さん。お疲れ様です」
「お疲れ様。寒い中、すまないね」
「いいえ。これくらい、へっちゃらです」
 小豆色の上着を肘まで捲って、堀川国広が声を高くした。煤で汚れた釜の汚れは頑固で、洗うだけなのに、力仕事だった。
 向こうでは大倶利伽羅が、黙々と束子を動かしていた。ごしごし擦っており、手は炭で真っ黒だった。
 堀川国広の頬にも、黒い筋が走っていた。履物は泥水に濡れており、汗だくだった。
 感謝の弁を述べる男はにこやかに笑い、無心に働く少年たちを労った。
 会話はそれで終わりで、打刀は瞬時に勝手口へ戻った。持って来たものを茣蓙に置いて、両手を空にして台所へと急いだ。
 実に忙しなく、見ているだけで疲れてしまう。
 彼は運んでくるばかりで、少しも整理しない。高く積まれた塔は不安定で、風が吹いただけでもぐらぐら揺れた。
 放っておけば、大参事が起きる。仕方なく小夜左文字が整理を引き受けて、種類や大きさ、使用頻度別で並べ替えていった。
 何度も使われ、洗われて来たものは、やはり傷みが激しい。角が欠けた茶碗は、持った際に指を切る危険があった。
「勿体ないが、やむを得ないか」
 今までは騙し騙し使って来たが、そろそろ廃棄した方が良いだろう。まとめて処分する品を集めた笊に移し替えて、小夜左文字は後ろを振り返った。
 井戸端では堀川国広が、手を動かしつつ、口も動かしていた。熱心に大倶利伽羅に話しかけているものの、返事は殆どなく、あっても素っ気ない相槌ばかりだった。
 ただ脇差の少年は、さほど気にしていなかった。一方的に喋る内容は、和泉守兼定のことばかりだった。
 つい最近本丸に来た刀は、今は遠征任務中だ。五虎退と大和守安定に引率されて、現身での活動に慣れて貰っている真っ最中だった。
 同じ兼定とはいえ、歌仙兼定と彼とはかなり時代が隔たっている。刀派が同じであっても会話は噛みあわず、お互い昔馴染みと一緒に居る方が、気が楽でいいらしかった。
 そういう点は、左文字も同様だ。小夜左文字は兄である宗三左文字と、上手く意思疎通が果たせずにいた。
 長兄である江雪左文字は、まだ本丸にやって来ない。いずれ会えると言われているが、粟田口のように親しく出来るとは、到底思えなかった。
「歌仙?」
 憧れはするけれど、そこに自分を当て嵌めて、睦まじく過ごす光景は想像出来ない。
 宗三左文字は大掃除にも参加せず、与えられた部屋でたったひと振り、何をするでもなく過ごしている筈だ。
 いったい彼に、なんと話しかけろと言うのだろう。
 気兼ねなく言葉を投げかけられる相手は限られており、小夜左文字はそのうちのひと振りの名を呼んだ。
 返事はなかった。台所に戻ってもう結構な時間が経つのに、男はなかなか姿を現さなかった。
 外に運ぶ物が、なくなったのか。
 茣蓙に所狭しと並べられた品々を眺めて、少年は首を捻った。
 棚を動かすと言っていたが、単独で出来るものではない。言ってくれれば手伝うのに、声をかけて貰えないのは心外だった。
 そこまで非力だと思われていたのだとしたら、悔しい。
 頬を膨らませ口を尖らせて、短刀は斜めに身体を伸ばし、勝手口から屋内を覗き込んだ。
 灯りがなくとも、外から差し込む光のお陰で、台所は充分明るかった。
「……いないのか?」
 返事はなく、中は静かだ。手が空いている人員を探しに行った可能性が脳裏を過ぎり、小夜左文字は眉を顰めた。
 戸口に歩み寄り、暗がりに目を凝らす。
 漆喰で塗り固められた竈の向こう側に、白い塊が見えた。
 一段高くなった床に、打刀が蹲っていた。その前方には棚が、片側だけ壁から引き離された状態で停止していた。
「かせん」
 想像通り、自力で動かそうとしたらしい。もしや足でも挟んだかと危惧して、短刀は履物を脱ぎ、床へ上がり込んだ。
 両手を使って這うように進んで、一気に距離を詰めた。
 やや上擦り気味の、焦りを含んだ声で呼びかければ、男はハッと息を吐き、背筋を伸ばした。
 猫背を改め、勢いよく振り返った。あと少しで衝突するところだった短刀は慌てて避けて、体勢を崩し、その場に尻餅をついた。
「あぶない、小夜」
「いった」
 どすん、と大きな音がひとつ響いて、ふた振り分の悲鳴が重なった。言うのが遅い、との抗議は唾と一緒に呑み込んで、小夜左文字は臀部を襲った痛みに唇を噛んだ。
 右目だけを吊り上げ、左目は閉じて、小鼻を膨らませた。頬も片側だけ引き攣らせてねめつければ、睨まれた打刀は右往左往し、顔の前で手を横に振った。
「違う、小夜」
「なにがだ、歌仙」
「いや、ちょっと……」
 急ぎ弁解に走るが、話が巧くまとまらない。言葉を濁して目を逸らし、歌仙兼定は憤る少年を前に頭を掻いた。
 視線は地を走り、脇へ流れた。つられてそちらに顔を遣って、小夜左文字は半眼した。
 小さめの箒が、横倒しに転がっていた。
 壁と棚の間が開かれて、細かな埃や、なんだか分からない塊が、絡まりながら散乱している。それに加えて、床には固い物を引きずった跡があった。
 擦って、筋が出来ている。床に塗った漆が削られており、これはずっと残るだろう。
 ひとりでやろうとするから、こうなる。
 自慢の腕力に溺れた結果と呆れていたら、箒を拾い、打刀が苦笑いを浮かべた。
「これがね」
「なんだ?」
 隙間に潜り込んでいたのは、食べものの滓や塵だけではなかった。
 細い柄の先で示されたものに眉を顰め、小夜左文字は怪訝に首を傾げた。
 尻を叩いて起き上がり、蹲る男の背後から覗きこむ。両手を広い肩に添えて背伸びをすれば、体重を掛けられた打刀が首を竦めた。
「小夜」
「破片?」
 重くはないが、軽くもない。
 圧し掛かられた歌仙兼定は、苦虫を噛み潰したような顔を作った。だが年下の打刀には構わず、見た目に反して年嵩の短刀は、床で鋭く光るものに瞬きを繰り返した。
 それは陶器の欠片だった。
 先端は鋭く尖り、一種の凶器だった。
 刃物ほどではないにせよ、不用意に触れるのは危険だ。先ほどの打刀の警告が何に対して発せられたものか、今になってようやく分かった。
 親指ほどの大きさでしかないけれど、刺されば肉が裂ける。気付かず触れていたら、怪我をしていた。
 あそこで尻餅をついたのは、怪我の功名だった。
 臀部の痛みは既に消えており、痣にもなっていない。幸いだったと心の中で呟いて、短刀はそう珍しくもない物に目を眇めた。
 歌仙兼定はこれを眺め、動かなかった。
 なにか特別な理由があるのか考えるが、これといったものは思い浮かばなかった。
 破片ひとつなのでもとが湯呑みだったのか、茶碗だったのかは分からないが、格別高い品ではなさそうだ。誰かが落として割って、一部が棚の奥に逃げ込み、ずっと放置されて来たと思われた。
 あれこれ考えるが、格別注視すべき理由が見当たらない。
 訳が分からず戸惑っていたら、表情を読み取った歌仙兼定がクスリと笑った。
「なんだ」
「いや。そうか、小夜は覚えていないんだね」
「……うん?」
 なんだか嫌な予感がして突っかかれば、打刀は更に笑って目尻を下げた。口元を手で覆い隠して意味ありげに囁き、落ちていた破片を拾い上げた。
 後ろに立つ少年にも見えるよう、男はそれを高く掲げた。表面のつるつるしている部分を抓んで、自身を傷つけないよう配慮しつつ、角度を変えながら全体を光に晒した。
 それでも、小夜左文字に心当たりはない。
 段々不機嫌になって小鼻を膨らませていたら、打刀は呵々と声を響かせ、身体を揺らした。
「なんなんだ、歌仙」
 いい加減、教えて欲しい。
 思わせぶりな台詞は、苛々を助長した。己に関することなのに思い出せないのも、無性に腹立たしかった。
 八つ当たり気味に吠えて、後ろから首にしがみつく。
 腕を絡めて締め上げれば、息苦しさに耐えかねた男は白旗を振った。
「まだ本丸に、君と僕と、数人しかいなかった頃にね」
「ああ」
「……思い出せない?」
「む、う」
 少ししか力を加えていないのに、あっさり降参された。拍子抜けだと愕然としていたら、やり返すかのように、意地悪い聞き方をされた。
 時期を指定されて、小夜左文字の眉が真ん中に寄った。浅い皺が二本、縦に走ったが、瞳は上向きに固定されて動かなかった。
 天井を睨みつけて、ぴくりともしない。
 低く唸った少年に噴き出しそうになって、歌仙兼定は腹に力を込めた。
 ここで笑ったら、頭突きの一発でも食らいかねない。そういう贈り物は遠慮願って、彼は手にしたものを掌に転がした。
 鋭利な欠片は、厚み半寸にも満たない代物だった。
 表面は白く、内側も白い。大部分は失われて、原型を辿らせなかった。
 だが歌仙兼定は、これが元々湯呑みだったのを知っている。薄紅色で桜の花模様が描かれた、可愛らしいものだった。
 これは、底の部分だ。あの日どれだけ探しても、これだけ見つからず、諦めて、いつしか忘れていた。
 まさかこんなところに潜り込んでいようとは、夢にも思わなかった。
「歌仙」
 結局思い出せなかったようだ。藤色の髪を掴んで引っ張られて、毟られそうになった打刀は慌てて首を振った。
 小さな手から逃げて、腰を捻り、振り返る。
 顔と顔を向き合わせれば、予想していなかったのか、小夜左文字は一瞬びくりと身震いした。
 吊り上った目が左右に泳ぎ、やがて一ヶ所に固定された。見つめられた男は淡く微笑み、年上だが幼い、小さな短刀の左手を取った。
「なに」
 手首を緩く掴んで、掌を手繰り、中心部分に親指を宛がう。
 表面を覆う無数の皺を撫でられて、少年は不快感を顔に出した。
 だが打刀は構わず、円を描くように指を繰り、最後に親指の付け根近辺をなぞった。
「綺麗に消えているね」
「だから、さっきから。……あ」
「思い出したかな?」
 感慨深げに囁いて、少し強めに撫でた。途端に小夜左文字は嫌がって肩を突っ張らせ、肘を退こうとして、寸前で凍り付いた。
 ぽかんと開いた唇が、二度ほど引き付けを起こした。三連続瞬きをして、長い躊躇を経て、一度だけ首を縦に振った。
 視線は宙を彷徨い、足元に落ちた。太く幅広の爪越しに己の肉体を見詰め、そこにあった傷跡に思いを馳せた。
「あの時の」
「そう。あの時のだよ」
 ぽつりと言えば、間髪入れず合いの手が返された。歌仙兼定は深く頷き、傷一つない掌に爪先を走らせた。
 白く細い筋が、一瞬のうちに消えた。痛みはなく、なにも残らなかった。
 それは彼らが現身を得て、まだ幾日も経っていなかった頃。
 不慣れな身体を持て余し、上手く扱いきれずにいた時の話だ。
 小夜左文字はここで、湯呑みを割った。棚から取り出そうとして、握り損ね、落としてしまった。
 陶器のそれは粉々に砕け、鋭い破片が床一面に散らばった。少年は慌てて拾おうとして、誤って指を切ってしまった――それも太い血管が走る場所を。
 血が出た、大量に。
 戦場で見慣れている筈なのに、生々しい色に恐怖を抱いた。
 音と悲鳴に駆け付けた歌仙兼定が止血を試みたけれど、彼だって治療行為など初めてだ。傷口を素手で押さえつけるが止まらず、手拭いでぐるぐる巻きにして、お互い血まみれになり、大騒動だった。
 出陣での傷は手入れ部屋へ行けばいいが、この場合どうするか、審神者を交えて相談すらしていなかった時期だ。薬研藤四郎はまだおらず、包帯ひとつ巻くのも一苦労だった。
 五虎退や今剣までやって来て、本当に収集がつかなかった。その後審神者が現れて事なきを得たが、あの時は本当に大変だった。
 今となっては笑い話だけれど、当時は真剣だった。
 小さな切り傷ひとつに四苦八苦して、青くなったり、赤くなったり。
「こんなに、小さかっただろうか」
 あまりに衝撃的な出来事だったから、もっと大きなもので切った印象だった。
 こんな指の先ほどしかない欠片に振り回されていたとは、意外であり、驚きだった。
「危ないよ」
「あんなことにはならない」
 手に取ろうとすれば、歌仙兼定に止められた。それを押し切って奪い取って、小夜左文字は尖った部分を避けて指で挟み持った。
 現身を得た直後は、知識はあっても経験が足りなかった。人の身とはかくも脆く、傷つき易いものだと、失敗を積み重ねて理解していった。
 傷は完治して、跡は残っていない。
 だが痛みの記憶は脳裏にこびりつき、深い部分に根を下ろしていた。
「歌仙、これ、いいか」
「どうするんだい?」
「こうする」
 この欠片ひとつあったところで、割れた器は戻らない。どうせ捨てるのなら欲しいと言って、少年はくるりと身を反転させた。
 打刀を残して小走りに駆け、土間にぴょん、と飛び降りた。両足で綺麗に着地を決めて、向かったのは勝手口だ。
 草履も履かずに外へ出た彼を追い、歌仙兼定も立ち上がった。掃除は一時中断として、庭を覗けば、少年は常緑樹の根本にいた。
 楠はこの時期でも青々と葉を茂らせ、木漏れ日はキラキラ輝いていた。
 そんな光の雫を一身に浴びて、短刀は肩で息を整え、手にしたものを地面に置いた。
「小夜?」
「これくらいで、丁度良いか」
 いったい何をするつもりなのか。洗い物中だった堀川国広たちも手を止めて見守る中、小夜左文字は近くに落ちていた拳大の石を利き手に持った。
 厚みがある、平べったい石だ。短刀の拳くらいの大きさで、表面は斑模様だった。
 彼はそれを、肩の位置まで掲げた。
 大勢が黙って見詰める前で、大きく振りかぶって。
 思い切り。
 陶器の破片目掛けて。
「――はあぁ!」
 気合いの声と共に、一気に振り下ろした。
 ガチャン、と良い音がした。
 石と地面に挟まれて、唯一生き残っていた湯呑みの破片が、木っ端微塵に砕け散った。
 周囲の砂粒が一緒になって飛び散って、小夜左文字に降りかかった。しかし爪先を少し汚した程度にしかならず、細かくなった破片が刺さることはなかった。
 いきなり出て来たかと思えば、石を地面に叩き付けた。
 傍から見ている分には挙動不審でしかない行動にも、短刀は満足げで、底抜けに嬉しそうだった。
「小夜……?」
「復讐」
「え?」
 ある程度事情を知る歌仙兼定でさえ、理解し難かった。困惑して歩み寄れば、短刀は石を手放し、背筋を伸ばして不敵に笑った。
 口角を持ち上げ、得意げだった。ふっ、と鼻を鳴らして、幸せそうだった。
「今年の分は、これで終わりだ」
 低い声で短く言って、早々に歩き出してしまう。
 謎かけのような言葉を残されて、打刀は何度も瞬きを繰り返し、やがてぺちん、と額を打った。
「ああ、そういう」
 数か月前に傷を負わされた湯呑みを見つけたので、粉々にした。それが彼の言葉だと、復讐を遂げた、となるのだ。
 痛いし、血は止まらないしで、散々だったのと、あれしきで慌てふためいた過去の自分が許せなかったのだろう。
 そういう恥ずかしい記憶も含めて、復讐という形式美で粉砕したのだ。
「まったく、小夜、君は」
「歌仙、何をしている。早く済ませないと、夕餉が作れない」
 予想外も良い思考と行動に、笑いが止まらない。
 これだから一緒に居て楽しいのだと肩を揺らしていたら、戸口を潜る直前の少年に叱られた。
 ぼうっと突っ立っているだけでも、時間はどんどん過ぎていく。汗水流して大掃除をした後に、胃袋を癒す食事がないのはあまりにも可哀想だ。
 誰も使っていなかった頃の、綺麗な台所も良いけれど、手垢がついて馴染んだ台所も悪くない。
 少しでも長くここで過ごせるよう願って、打刀は深く頷き、急ぎ足で勝手口を潜った。
 

2015/12/27 脱稿

くやしくも雪の深山へ分け入らで ふもとにのみも年を積みける
山家集 百首 1492