鴫立つ沢の秋の夕暮

 ひゅうぅ、と上空で風が鳴いていた。
 巻き上げられた木の葉が数枚、旋回しながら天を駆けた。追いかけるように木々の枝が撓り、僅かに遅れて砂埃が舞い上がった。
「うっ」
 音に釣られて上向かせた顔を、咄嗟に左腕で庇った。しかし惜しくも間に合わず、細かな塵が顔面へと叩きつけられた。
 一部が目に入り、痛い。追い出そうと瞬きをして涙を流せば、呼んでもいないのに鼻水まで垂れそうになった。
「いた、い」
 呻き、仕方なく手の甲で鼻の下を擦る。ずび、と息を吸って音を響かせて、肺に沈殿していた空気を吐く。
 深呼吸を二度繰り返し、小夜左文字は最後に胸を叩いた。開き気味の衿を閉じて形を整えて、上唇を舐めて再度天頂を仰いだ。
「秋も、終わりか」
 澄み渡る空は遥か高く、色は冴えていた。
 夏場と違って細切れになった雲は群れを成しており、魚の鱗のようだった。
 思っていたら、池の方から音がした。ぱしゃん、と水が跳ねて、どうやら鯉が水面に顔を出したらしかった。
 本丸の庭には丹塗りの橋が架けられ、色鮮やかな鯉が何匹か飼われている。食べるためのものではなく、観賞用らしく、毎日餌をもらって丸々と太っていた。
 確かに朱や黒の模様が入って綺麗だが、魚とは本来、食べ物だ。
 冬に入って食うに困ることがあれば、非難を怖れず捌いてやろう。これを防ぐべく鉄串が通されていたとしても、まな板ごと叩き切れば問題なかった。
 右手に構えた箒を握りしめて、密やかに決意する。鼻息荒く誓いを立てれば、呼応するかのように、またもや頭上で風が鳴いた。
「さむっ」
 今度は強く、鋭い風が地表を襲った。折角集めた枯れ葉を蹴散らし、木枯らしが嘲笑いながら駆け抜けていった。
 堪らず身を竦ませて、小夜左文字は唸った。竹箒ごと自身を抱きしめて、内股気味に膝をぶつけ合わせた。
 無意識に爪先立ちになり、浮いた踵が草履から離れた。もれなく足の裏が剥き出しになって、土踏まずの凹みまで露わになった。
 寒いのならば肌が出ている場所を減らすべきなのに、逆の行動を取っていた。奥歯を噛み締めて鼻を啜り、少年は砂粒を避けた瞼を恐る恐る開いた。
 睫毛になにか引っかかっている気がして、手で払った。ついでに前髪も掻き上げて、竹箒の先で地面を擦った。
 細い筋が何本か、乾いた地表に刻まれた。少し前まで山を成していた枯れ葉は消え失せて、方々に散っていた。
 苦労して綺麗にしたのに、一瞬で台無しだ。
 辺りを見回してがっくり肩を落とし、藍の髪の短刀は頬を叩いた。
「最初から、だ」
 徒労に終わってしまったが、ここで諦めるわけにはいかない。枯れ葉に埋もれる庭は美しくなくて、実にみすぼらしく、惨めに見えた。
 訪れる者がない山奥の、寂れた庵ならばともかくとして、ここは大勢の刀剣男士が暮らす屋敷だ。身だしなみを整えるのと同じように、屋敷の顔に当たる庭にも気を配るべきだった。
 ただそれを、何故自分がしなければいけないのか。
 そちらの理由については、説明が出来なかった。
 誰もやらないから、見るに見かねて始めた。そうしたらいつの間にか、勝手に任されるようになってしまった。
「べつに、いいけど」
 庭掃除は小夜左文字がやってくれるから、自分たちはやらなくていい。
 そういう不文律が出来上がりつつあるのに、気付いていないわけではない。けれど何もせずにぼんやりしているよりは、たとえ面倒な仕事であろうと、動いている方がずっと良かった。
 復讐に囚われた短刀は、本丸にいる他の守り刀たちのように笑えない。明るく振る舞い、皆を和ませる術を持ち合わせていなかった。
 いてくれるだけで良いと、周囲に思わせる技量が彼にはなかった。
 だから代わりに、黙々と働いた。朝早くから起き出して、頼まれてもないのにあれこれ駆け回った。
 闘う以外に能がないから。
 守り刀としての務めを、全う出来なかったから。
 役立たずと判定されれば、ここから放り出されてしまう。他を守る為だと売りに出され、金銭に替えられて、知らない場所へ連れていかれてしまう。
 そういう恐怖が、無意識に働いていた。
 居たいと願う場所に居続けられなかった記憶は、思いの外強く、彼の心に根付いていた。
 じっとしていたら、必要ないことまで考えてしまう。
 ひとりで居る方が気楽なのに、ひとりで居たくないと願ってしまうのもまた、ひと言では語りきれない経歴の余波だった。
「は……」
 口を大きく開き、息を吐いた。
 一瞬だけ白く濁った呼気に頬を緩め、彼はゆるゆる首を振った。
「やり直しだ」
 庭を彩る木々は赤、黄、茶、緑と様々な色を羽織り、まるで刺繍が施された打掛のようだった。
 借景としている山も、秋の入りに比べると、かなり様相が変わっていた。あちらは標高が高い所為で紅葉が本丸より早くて、遠くに赤、近くには緑という変化がとても楽しかった。
 一時期庭園を彩りよく飾っていた菊の花は、盛りの頃を過ぎて、殆ど枯れてしまっていた。純白の花弁は赤錆色に変わり、瑞々しかった表面は水分を失って萎び、皺にまみれていた。
「冬来ても 猶時あれや 庭の菊 こと色そむる よもの嵐に」
 ふと思い浮かんだ歌を口ずさみ、枯れ色の竹箒でサッと地面を撫でる。埃が顔まで来ないよう注意しつつ、小夜左文字は木の葉を集め始めた。
 最後は火を点けて、燃やす。但しこれを池の傍でやると、もれなく周囲の部屋に煙が紛れ込み、顰蹙を買った。
 だから集めた分は一度竹で編んだ籠に入れ、畑の方へ持って行く決まりだった。
 そちらなら、多少強い風が吹いたとしても、屋敷まで火の粉が散らない。万が一にも火事が起きないよう注意するのは、とても大事なことだった。
 本丸には、炎に対して拒否反応がある刀だっている。
 彼らの目に入らないようにするのも、一苦労だった。
 特に左文字の次兄に当たる宗三左文字は、一度ならず二度までも、焼身の憂き目に晒されていた。鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎も、大阪城で炎に呑まれている。
 その点を思えば、平然と台所仕事に精を出す燭台切光忠は、かなり図太いと言えるだろう。ただ矢張り、炭に火を熾す作業だけは、苦手意識があるようだった。
 夏の終わりころ、小夜左文字は審神者なる者によって現世へと喚び出された。
 彼は刀剣に宿る、付喪神。それらが人とよく似た現身を得て、人と同じ心を宿し、人の真似事をしながらこの地で暮らしていた。
 あの当時に比べれば、本丸は随分と賑やかになった。手狭になった屋敷は何度か増改築を繰り返して、構造はずっと複雑化していた。
 お陰で時々、迷うことがある。
 長く居着いている小夜左文字でさえこうなのだから、最近やってきたばかりの刀たちにとっては、迷宮にも等しかろう。
 とはいえ、近頃は新入りが減っていた。この先しばらくは面子に変化がないだろうと、いつだったか、どこかで誰かが呟いていた。
 あれは、誰の言葉だっただろう。
 思い出そうとするが出来なくて、小夜左文字は箒を握ったまま首を捻った。
 渋面を作り、冷たい風に顔を背ける。
 露出する肌に空気が突き刺さって、なにもしていないのに表皮は赤らんでいた。
「もっと、寒くなるのか」
 今でさえ朝晩は充分寒いのに、これから先、冬が深まれば、もっと冷えるという。
 彼らは刀なのだから、熱さはともかく、寒さには強くあって然るべきだ。だというのに日増しに厳しくなる冷気に対し、対抗手段がまるで見当たらなかった。
 火鉢を持ち歩くわけにはいかず、湯たんぽを背負うのは重すぎる。温石で懐を温めるのがせいぜいだが、それでは手足が冷えるのを防げなかった。
 後は、なにか上に羽織るくらいしかない。
 だがあまり厚着し過ぎると、今度は動きが制限される。自由に駆け回れないのだとしたら、それはそれで問題だった。
 早朝、布団から出るのが段々苦痛になってきた。
 夜明けは遅くなり、太陽が照る時間は短い。秋の夜長に虫の声を聴くのが楽しみだったが、それもそろそろ終わりだった。
 一日中日が当たらない場所では、霜が降りるようになっていた。庭に根を下ろす木々には菰が巻かれ、冬支度が着々と進んでいた。
 台所がある東側の軒先には、大根を筆頭に、様々な野菜が吊るされていた。
 干して、漬けて、保存食にするのだ。他にも猪や兎を狩って、その肉を燻製にする仕事が忙しかった。
 炊事場隣の納戸には、隙間がないくらいに米俵が積み上げられている。鼠が出ないよう、猫の代わりに虎が放たれて、五虎退が見張り役に忙しかった。
「あ」
 物思いに耽っていたら、またもや風が吹いた。さほど強くはなかったものの、枝に別れを告げた木の葉が一枚、はらりと宙へ舞い上がった。
 踊るようにくるりと回って、名残惜しげに落ちてくる。それを空中で捕まえて、小夜左文字は葉柄を抓んでくるくる回した。
 青みが失われた葉は乾燥して薄く、楕円形をしており、両翼が緩く湾曲していた。葉脈は老齢の男性を思わせる白さで、端が僅かに欠けていた。
 握れば、簡単に粉々になる。だが実践はせずに済ませ、小夜左文字はそれを竹籠に放り投げた。
 古びた背負い紐が弛んで、地面に接していた。籠の中はまだ半分も埋まっておらず、これを満杯にするのは大変だった。
「塵取り、手伝う?」
「あ……」
 簡単に集めた木の葉を前に、残り時間を計算する。太陽の位置を確かめるべく空を見上げた少年は、不意に話しかけられて姿勢を戻した。
 背筋を伸ばし、ゆっくり振り返った。斜めに構えた箒を揺らして、彼は近付く影に目を眇めた。
 ひらひらと右手を振りながら近付いて来たのは、目尻にほくろがある少年だった。
 袴を着けて、胴衣に襷を結んでいた。後ろ髪を結い上げて、首には白い布を巻きつけていた。
 普段は浅葱色の羽織を身に着けているけれど、今は見当たらなかった。畑仕事か、馬小屋の掃除でもしていたのか、足袋の爪先は黒ずんでいた。
「大和守安定」
「やあ」
 あまり接点がなく、会話をした機会はそれほど多くない。
 だが名前くらいなら流石に把握しており、口にすれば、にこやかに微笑まれた。
 口角が持ち上がり、表情は朗らかだった。穏やかそうな外見をしており、本丸内でも概ね、その傾向が強かった。
 但し一度戦場に身を置けば、性格は百八十度ひっくり返った。
 小夜左文字が良く知る打刀と、その辺がどこか似ている。あれもまた戦に出ると、実に楽しそうに刀を操り、敵を屠って回っていた。
 普段から文系だ、なんだのと言っているが、どの口がと笑いたくなる。
 思い出して呆れて肩を竦め、小夜左文字は黒髪の打刀に向き直った。
「いいのか」
 恐る恐る尋ねれば、大和守安定は鷹揚に頷いた。任せろ、と胸を叩いて、にっこり満面の笑みを浮かべた。
「それくらいならね~」
「ああ」
 やや含みのある返事だったが、気付かなかった振りをする。
 小さな声で返事をして、小夜左文字は竹籠に立てかけていた塵取りを差し出した。
 柄は長く、短刀の肩近くまであった。先端には薄く切った木の板が、コの字型に組まれていた。底にはもう一枚、木の板が添えられて、錆びた釘に枯れ葉が一枚絡んでいた。
 大和守安定はその一枚を指で抓み、籠の中に放り投げた。受け取って、枯葉の山の傍へ移動させ、小夜左文字が箒を操ると同時に前に押し出した。
 笊に似た形状の塵取りを動かし、細かな砂ごと木の葉を掬い取る。ザッ、と比較的大きな音がして、細かな塵が辺りに舞い上がった。
「ケホッ」
 それを間違って吸ってしまい、打刀の少年が咳き込んだ。空いた手で口元を覆って何度か噎せて、濡れた口元を拭ってから集めたものを籠に入れた。
「大丈夫か」
「あ、うん。平気。ありがと」
 箒を抱きしめ訊ねれば、間を置いてもう一度咳をした少年が笑った。
 目尻を下げ、笑みは優しい。気遣いに感謝して頬を緩める姿からは、物騒なことを口走る荒々しさが感じられなかった。
 それが対外的な余所行き態度だというのは、先刻承知の通りだった。
 彼は同朋の加州清光や、和泉守兼定に対してだけは異様に手厳しい。毒のある台詞を吐いて、本能を剥き出しにした。
 気遣われているのは、むしろこちら側だ。
 良い刀を演じようとしている彼に嘆息して、小夜左文字は嵩が増した籠の中を覗き込んだ。
 縁ぎりぎりまで入れたいところだけれど、枯れ葉も集まれば重い。持ち上がるかどうか確かめるべく試しに抱えてみれば、予想外の重量がずっしり圧し掛かって来た。
「う、くっ」
 背負えなくはないが、少々厳しい。
 本丸のどの刀よりも華奢で貧弱な体格を憂い、少年は口惜しげに唇を噛んだ。
「持ってくよ」
 短刀の中では力持ちの部類に入ると自負しているが、それでも持ち上げられないものは多い。大太刀と比べると圧倒的に非力なのは、疑う余地がなかった。
 だから大和守安定に手を差し伸べられた時、あまり嬉しくなかった。
 これくらい自分にだって出来ると反発しそうになって、表情は自ずと険しくなった。
 ムッとして、睨みつけていた。軽く膝を折って屈もうとしていた少年は、不機嫌と分かる目つきにきょとんとしてから、嗚呼、と相好を崩した。
「小夜君は、箒で集めててよ。畑だよね。捨ててきたら、すぐ戻ってくるから」
 塵取りを手放した彼の右人差し指が、まだ掃除が終わっていない区画を指し示した。
 これは、小夜左文字に同情し、憐れんでの行動ではない。ただの役割分担だと言葉尻に含ませて、彼は軽々と竹籠を担ぎ上げた。
 両手が空になって、短刀は半歩後退した。草履の裏で地面に横たわる箒を踏んで、厚みにハッとなった後にはもう、打刀は十尺以上離れたところにいた。
 けれど何故か、彼はそこで足を止めた。
 驚いて震えあがったのを、勘違いしたのか。大和守安定は駆け足で戻ってくると、しゅるりと首に巻いた布を解いた。
 襟巻の端が地面に擦れるより早く、立ち竦む小夜左文字の首に緩く巻きつけた。きつくならないよう、けれど簡単には解けないよう一度だけ片端を輪に通して、軽く形を整えた。
「はい、どうぞ」
 一方で大和守安定の首元はすっきりして、細い頸部が露出した。普段表に出していない場所を人目に晒して、顔は嬉しそうだった。
「どうぞ、って」
「小夜君、寒いでしょ。そんな格好じゃ」
 急に襟巻を結ばれて、訳が分からなかった。きょとんとしていたら早口に言い切られて、尚更意味不明だった。
 確かに肌寒さは感じていた。しかしそれと、大和守安定が身に着けているものを譲られることとが、なかなか結びつかなかった。
 頼んだわけではない。
 貸して欲しいと強請ったつもりもなかった。
 物欲しそうに見えたのだとしたら、心外だ。気を遣われたのに不貞腐れた顔をしていたら、見抜いた大和守安定が目を眇めた。
「だって小夜君、見てると寒いんだもん」
 言い方を変えて、凛と胸を張った。楽しげに顔を綻ばせて、竹籠の背負い紐に腕を通した。
 集めた枯れ葉ごと身を揺らし、朗らかに言い切る。
 にこやかに断言された方は呆気にとられ、首に絡みつく襟巻と、その下に続く手足を見下ろした。
 剥き出しの膝小僧は寒さから赤く色を抱き、指先は血の気が引いて白っぽくなっていた。
 生気を失った爪は濁り、関節部は皮膚が裂けていた。眠る前に軟膏を塗り込めてはいるけれど、癒えかけたところでまた裂けてしまって、酷くなる一方だった。
「べつに、僕は。こんなの、平気、だし」
「僕、同じの何本か持ってるから。冬が終わるまで、それ、貸してあげる」
「人の話を」
「じゃあ、行ってくるね」
 それでも無理をして我を張るが、大和守安定は聞かなかった。一方的に言いたいことを口にして、返答も、相槌も待たずに歩き出した。
 ひらりと手を振って、上機嫌に足を進める。一歩、一歩が大きくて、堂々とした佇まいだった。
 後に残され、小夜左文字は複雑な顔で息を吐いた。
 細い煙が、一瞬だけ白く伸びた。周りの木々がガサガサ揺れて、合間を抜けた風が背中からぶつかって来た。
 確かに、寒い。
 鎌鼬の悪戯で、皮膚がぱっくり割れてしまいそうな鋭さだった。
 風さえも、時に凶器となる。ひび割れている指先に呼気を吹きかけて、短刀の少年は竹箒を拾い直した。
「小夜」
 表面の砂埃を払い、言われた通り残りの区画を掃除しようと決めた直後だった。
 屋敷の軒先から声がかかり、顔を向ければ知った顔があった。高い位置から見下ろされて、距離があるのに目が合った。
「……歌仙」
 口の中でその名を呟いて、何か用かと首を傾ぐ。だが待っていても、彼は近くへやってこなかった。
 それもその筈で、歌仙兼定は沓を履いていなかった。傍には沓脱ぎ石もなく、誰もが共有で使える草履の類も置かれていなかった。
 素足で地面に降り立つのに、躊躇しない方がおかしい。ならば止むを得ないと嘆息して、小夜左文字は自ら歩み寄った。
 箒を引きずり、地面に何本もの筋を刻む。放置された塵取りも合わせて眺めて、袴姿の打刀は膝を折った。
 屋敷の床は地面から一尺少々高い位置にあるので、屈んだとしても、彼の方が小夜左文字より背高だった。踵を浮かせて蹲踞の姿勢を作り、伸ばされた手は真っ先に白い襟巻を捕まえた。
 引っ張らず、外向きに伸びている布を揺らすに留める。深い襞を擽って形を整えて、動き回る指は少し落ち着きなかった。
「どうか、したのか」
 その間、彼はなにも語らなかった。人を呼んでおきながら用件を告げないのは、全く以て理解不能だった。
 怪訝にしていたら、ひと通り弄って気が済んだのか、男は手を放した。膝の上に拳を置いて、箒を斜めに構える少年に目を細めた。
「綿入れの用意をしないといけないね」
 足を崩し、右側だけ踵を下ろして膝を起こした。そこに頬杖をついた歌仙兼定に言われて、小夜左文字は訝しげに眉を顰めた。
 綿入れとは、その名の通り綿が入った防寒具のことだ。形や着丈は色々あるけれど、ぱっと頭に浮かんだのは、もこもことした柔らかな羽織りだった。
 前を閉じる為の紐が用意されて、裾は少し長め。膝小僧が隠れるくらいで、袖も手まですっぽり入る大きさだ。
 そういう上着が一枚あれば、たとえ冷たい風が吹いても耐えられる。この先雪が積もる日が出て来ても、きっと大丈夫だ。
 この程度の防寒具なら、さほど動き回る邪魔にならない。皸に薬を塗る日々は続くが、全身霜焼けになるのは、避けられるだろう。
 想像して、短刀はハッと我に返った。思い描くだけで胸の奥が暖かくなる錯覚に陥ったが、妄想は木枯らしによって、呆気なく吹き飛ばされた。
 ぶるりと身震いして、箒を握り締める。
 固い竹の節に指先を押し付ければ、歌仙兼定が露骨に顔を顰めた。
「これは、……大和守安定かい?」
「そう、だが」
「ただいまー。あれ、歌仙さんだ」
 太く節くれだった指が、再度白い襟巻へ伸ばされた。
 尖った気配に圧倒されて思わず後ずされば、間の悪いことに、当の本人が元気よく戻ってきた。
 空の竹籠を右肩に担いで、左手をぶんぶん振り回していた。衿元はすっきりしており、見慣れない所為で変な感じだった。
 明るく朗らかに言って、なんの気負いもなしに駆け寄って来た。一瞬不機嫌だった歌仙兼定は瞬きひとつで切り替えて、力の抜けた笑みを口元に浮かべた。
「すまないね、任せてしまって」
「いえいえ。僕も、さっき来たばっかりなんで。褒めるなら、小夜君に」
「う」
 庭掃除は、簡単なようで大変だ。なにせ範囲が広いし、終わった傍から枯れ葉が落ちてくる。
 堂々巡りで、果てが見えない。だから途中で嫌になって、投げ出してしまう刀剣男士が多かった。
 その点、小夜左文字は働き者だ。文句も言わず、率先して箒に手を伸ばした。
 そこに彼なりの打算が含まれていると、気付いている者と、そうでない者は、半々といった辺りだろう。歌仙兼定は勿論後者だが、大和守安定は推し量り難かった。
 小さめの手で結った髪ごとぽん、と頭を押さえつけられ、短刀は喉を詰まらせた。押された分だけ首を前に倒して、まるで御辞儀をしているようだった。
 それにも拘わらず、大和守安定は笑顔だった。楽しそうに目を細めて、歌仙兼定を呆れさせた。
「放してやってくれるかな」
「ああ、ごめん。小夜君」
 指摘を受けて、ようやく腕を引っ込める。謝罪は即座に成されたが、反省の色は見えなかった。
 心から悪いと思っている雰囲気はないが、それがこの男の特性だった。加州清光相手にしれっと毒のあることを口にするように、彼が放つ言葉は、どうにも重みに欠けていた。
 夭逝した幕末志士の刀は、願い虚しく命断たれてしまう儚さを知っている。いくら言葉にして訴えたところで、どうせ届かないと諦めている節がある。
 誇りに殉じれなかった悔しさが、彼の言動を軽くする。
 戦場での彼と歌仙兼定は、似ているようで、ひとつも似ていない。
「なに?」
 無意識に手が伸びていた。
 胴衣の弛みを掴んでいた事実に、小夜左文字は訊かれて初めて気が付いた。
「あ、いや……」
 目を逸らし、言葉を濁す。
 慌てて指を緩めれば、入れ替わりに大きな手が肩を叩いた。
 ぽん、とちゃんと加減した一打に、空色の瞳が揺らぎ、泳いだ。救いを求めるように振り返って、藍の髪の短刀は冷えた空気で胸を満たした。
「歌仙」
「小夜に、襟巻をありがとう。だが君は、寒くないのかな」
「大丈夫ですよ、ちょっとくらい。それより、小夜君が風邪でも引いたら、そっちの方が可哀想だし」
「刀は、風邪など」
 表面上は穏やかに繰り広げられる会話に、割り込むのは難しかった。
 聞き捨てならないと文句を言うが、相手にしてもらえなかった。抗議の声はさらっと無視されて、両者の間で目に見えない火花が飛び交った。
「っていうか、歌仙さん。小夜君にこんな格好で外を掃除させるなんて、駄目じゃないですか」
「言葉を返すようだが、大和守安定。僕だってなにも準備していないわけじゃない。これからもっと寒くなるんだ。冬物の支度だって、今やっているところだよ」
「今からじゃ、遅くないですか。もうこんなに、空気だって冷えてる。小夜君、毎日朝早いのに」
「そう言うのなら、君も少しは早起きして、手伝う努力をしてくれないかな。君たちが、水が冷たいからと嫌がっている洗濯物だって、この子が率先してやっているんだ」
「だからお礼、じゃないけど。襟巻、貸してあげたんじゃないですか」
「あの、……」
 早口の応酬に、どちらもまるで引こうとしない。冬は寒くて当たり前なのに、ふたりは責任を押し付け合っていた。
 それもこれも、小夜左文字が寒そうな格好で庭を掃除していたから。
 となれば一番悪いのは、この短刀に他ならなかった。
「襟巻程度で、なにを偉そうに」
「じゃあ、歌仙さんはなにがあるんですか」
「僕はね、綿入れを縫っているところさ。小夜に一等似合う、一点ものをね」
 首に布を巻いてやった程度で得意になるなと鼻で笑い、男は両手を腰に当てた。蹲踞の体勢で胸を張って、自慢げに仰け反る姿は滑稽だった。
 もっとも当人は、それに気付いていない。短刀と打刀ふた振りにぽかんと見詰められて、数秒してからはたと我に返った。
 素早く瞬きを繰り返し、呆気にとられる少年をそこに見出す。
 至近距離で目が合って、バチッと音がした。堪らず後ずさった短刀の前で、打刀は藤色の頭を抱え込んだ。
「歌仙?」
「出来上がってから、驚かせようと思っていたのに……」
 迂闊な真似をしたと悔やんで、呻く声は苦しげだった。
 完成まで秘密にしておくつもりでいたのに、道半ばで自ら暴露してしまった。馬鹿だとしか言いようがない失態に大和守安定は呵々と笑って、小夜左文字は力なく肩を落とした。
 実は、そんな予感はしていたのだ。
 ここ数日、寝床を整えた後で、彼がなにやら励んでいるのは知っていた。こちらが布団に入り、眠ったと判断するや否や、小さな行燈の灯りを頼りに細かな作業に勤しんでいた。
 朝起きた後には、道具諸々は全て片付けられていた。だから知られたくないことをやっているのだろうと、敢えて触れないようにしていた。
 針が指に刺さったらしい小さな悲鳴は、時折聞こえていた。そんな状態で眠れるわけがないのに、小夜左文字が何も知らないと甘く見て、得意としていない針子作業を頑張っていた。
 出陣した際に破れてしまった外套の布を再利用して、ちくちく縫っている。色柄が派手なので彼が着るのかと考えたこともあったが、結論が出てしまった。
 ああいう色や、大きな牡丹の絵柄は趣味ではないのだけれど、口が裂けても言えそうにない。
 顔を真っ赤にして項垂れている打刀の肩を、今度は短刀が叩く番だった。
 ぽん、と軽く触れて慰めて、嫌々と首を振る刀に肩を竦める。
「歌仙?」
「聞かなかった、ことに」
「分かった」
 名前を呼べば、弱々しい声で頼まれた。今にも泣きそうな顔で訴えられて、嫌だとは言えなかった。
 真顔で頷けば、ようやく安堵された。もう一度両手で額を覆って、彼は深く、長く、息を吐いた。
「小夜君、お掃除、終わらせちゃお」
「……ああ」
 一方で大和守安定はといえば、我関せずという感覚だった。
 放り出していた庭掃除を再開せんと、塵取りを手に小夜左文字を呼んだ。箒は彼が持つ一本しかこの場にはなくて、用具入れに取りに行く気は皆目なさそうだった。
 邪魔をしたいのか、手伝いたいのか。
 判断が付きかねる打刀に相好を崩して、短刀はまだ落ち込んでいる刀にも苦笑した。
「また後で」
 他にかける言葉が見付からなくて、当たり障りのないことしか言えなかった。それが却ってよかったのか、歌仙兼定は顔を上げると、何かを堪える表情で頷いた。
 唇を引き結び、決意を秘めた眼差しだった。
 今宵は徹夜で、針仕事を終えるつもりなのだろう。あそこまで言われて大人しく引き下がるほど、この打刀は大人ではなかった。
 そういう負けず嫌いなところが、馬鹿馬鹿しくはあるが、愛らしくもある。
 言ったら拗ねられそうな感想を心の中で呟いて、小夜左文字は竹箒で地面を掃いた。
 乾いた砂を巻き上げて、大和守安定が構えている塵取りへと枯れ葉を誘導する。
「小夜君て、歌仙さんには甘いよね」
「そういう貴方は、意地が悪い」
「そうなんだ。知らなかった?」
「……知ってた」
 掃き入れる瞬間、身を屈めた大和守安定が楽しそうに言った。
 短い返答に満足そうな顔をして、空にしたばかりの竹籠目掛け、集めたものを放り込んだ。
「終わったら、焼き芋しようよ。陸奥守には僕が頼んでくるから」
「ああ」
 彼が変に掻き回さなければ、歌仙兼定が口を滑らせることもなかった。羞恥に身悶えて赤くなって、無駄に気負ってやる気を燃え上がらせることだって、なかった。
 本人にそういう意図があったかは、分からない。どの賽子の目が出るか分からないように、転がした結果までは考えていない様子だった。
 こういう手合いは捉えどころがなくて、何をしでかすか先が読めない。ただ今のところ、誰かの計画を引っ掻き回す程度の害悪しかないので、放っておいても良さそうだった。
 美味しい提案を受けて、小夜左文字は頷いた。
 畑で収穫した芋は焼いても、煮ても、とても美味しい。ちょっと熱を加えるだけでホクホクになって、ほんのり甘く、腹を満たしてくれた。
 想像するだけで涎が出た。濡れてもない口元を拭って、少年は箒を忙しく動かした。
 

2015/12/27 脱稿

心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮
山家集 秋 470