花ならぬまた錦着るべし

 風が吹き、木々が揺れる。小石が転がり、砂粒が掬われて空を駆けた。
「うっ」
 細かな粒に襲われて、目に入りそうになった。咄嗟に腕で顔を庇って、小夜左文字は奥歯を噛んで唇を引き結んだ。
 空気が唸り声を上げ、真っ赤に染まった木の葉が一斉に舞い上がった。地表を埋め尽くす落ち葉を巻き込んで、それは一瞬の嵐となって彼を押し流そうとした。
 軽い体躯が攫われて、飛ばされそうだ。腹に力を込めて懸命に堪え、少年は空いた手で背に垂らした笠を掴んだ。
 首が絞まるのをなんとか回避して、未だ止まぬ風の中で薄目を開く。
 網膜を覆う水分を奪われて涙が滲む中、辛うじて見えた景色は見事に朱一色だった。
 春に見事な花を咲かせた桜が、この季節、緑の葉を朱色に染め変えていた。
 それは紅葉にも決して劣らず、とても美しい光景だった。しかもひと度風が吹けば空も、大地もいよいよ朱色を強めて、まるで炎の中に佇んでいる気分だった。
「すごい、な」
 圧倒されて、それ以外に言葉が出ない。
 屋敷が借景としている山肌も一様に紅に染まっていて、どこもかしこも、目に鮮やかだった。
 あまりにも鮮烈過ぎるものだから、見詰めていると目がちかちかして来た。少し休ませようと瞬きを繰り返して、小夜左文字は目尻に残る涙の欠片を削り落とした。
 ずっと握りしめていた笠も手放し、紐の位置を調整し直す。緩んでいないかどうかを確認して、彼はついでとばかりに深呼吸した。
「……はぁ」
 大きく息を吸い込んで、一気に吐く。
 それを二度、三度と続けていると、遠く、鳶らしき鳥の鳴き声がした。
 ただ残念ながら、その姿は見えない。天頂は朱色に塗り潰されており、この位置から空を望むのは難しかった。
 かなりの量の葉が地上に落ちているというのに、視界を埋める木々にはまだまだ沢山の葉が残っていた。
 これらが全て落ち切る頃に、冬がやってくる。
 この一帯は雪深いので、初雪が舞うのも比較的早かった。
 昨年のことを軽く振り返って、小夜左文字は右足を蹴り上げた。爪先に降り積もっていた木の葉を散らして、柔らかな土を踏みしめた。
 草履越しのこの感触が心地良くて、好きだ。大勢が通って踏み固められた道に比べると、時折ぬかるみがあったりして足を取られ易いが、ふかふかの絨毯を歩いているようで楽しかった。
 この気持ちを分かってくれる相手は、思いの外少ない。
 粟田口の面々はまず駄目で、太刀連中も同様だった。
 今剣は、一本足の下駄の歯が埋まるので、土は苦手だという。兄である宗三左文字も履物が汚れるから嫌だと言って、同意してくれなかった。
 この話をした時、江雪左文字だけが辛うじて頷いてくれた。ただ彼と一緒に庭を散策する願いは、未だ叶えられていなかった。
 屋敷が雪に閉ざされてからでは、遅い。
 かと言って春になると、花は美しいが、もれなく毛虫も増えた。
 あれに刺されると痛いし、腫れてしまう。半年前の記憶を蘇らせて、彼は首の後ろを撫でた。
 熱も出て、苦しかった。
 人間の身体とは、なんと不便なのだろう。審神者なる者に現身を与えられた刀剣の付喪神は、すっかり馴染んでしまった体躯を揺らし、自嘲気味に笑った。
「はは」
 両手を広げ、前に向かってぴょん、と跳ねる。
 着地の瞬間爪先が深く沈んで、ザッ、と木の葉が押し潰される音が鼓膜を震わせた。
 揺れ動く笠が邪魔にならないよう、手は自然と後ろに回っていた。
 身の丈四尺足らずの短刀には大きすぎるそれを捕まえて、舳先をほんのちょっと前に倒した。高い位置で結った髪を潰すように浅く被って、爪先立ちで跳ねてはくるくる回り、都度蹴散らされ、宙を舞う落ち葉に目を眇めた。
 足首に巻きつけた包帯が外れ、先端が蝶となって地表を舐めた。絡子環から垂れ下がる房が獣の尻尾のようでもあり、袈裟を纏う少年の動きに合わせ、上下左右、常に落ち着きなく跳ね回った。
 上空で風が唸り声をあげ、雲の流れはかなり速い。けれど今のところ、雨がやってくる気配は感じられなかった。
 空気が乾いており、山火事が心配だ。ここ数日小雨程度も降っていないので、そろそろ一雨欲しいところだった。
「おっと」
 地表から飛び出た木の根に足を取られ、危うく転ぶところだった。
 咄嗟に笠を手放して体勢を立て直して、小夜左文字は随分遠くへ来たと辺りを見回した。
 立ち並ぶ木々に隠れ、屋敷は見えなかった。
 何度も増改築を繰り返したお陰で、本丸はかなり広くなっていた。建物の配置は一層複雑になり、古参であっても時々道に迷う有様だった。
 中庭がいくつも整備され、建物を囲む形で水路が張り巡らされた。畑の水路には水車が完成し、水やりの苦労が幾らか軽減されて、農作業は随分楽になった。
 冬支度に備え、今は収穫の最終段階だ。山に仕掛けた罠で捕えた獣を解体して、皮を剥ぎ、肉と骨と内臓に分け、それぞれ保存食に加工したり、日用品を作ったりと、こちらも大忙しだった。
 本当なら、そちらを手伝うべきだというのは分かっている。
 けれど小夜左文字にはそれにも勝る役目が課せられており、これを果たさぬ限りは屋敷に戻れなかった。
「こちらでは、なかったか」
 審神者はここ最近、大太刀四振りと薙刀に加え、太刀の誰かを引き連れて出かけることが多かった。なんでも時の政府から、実戦に即した気晴らしの場を用意したので挑むように、との通達が出たらしい。
 もっとも帰ってきた第一部隊の面々を見る限り、とても気晴らしになっているとは思えない。大門を潜って戻ってくる彼らの顔は、一様に疲れ果て、うんざりしている様子だった。
 小夜左文字の兄である江雪左文字も、戦が嫌いだというのに無理矢理連れ回されていた。
 出陣前に持たせた握り飯が、帰還時に殆ど減っていないのが気がかりだった。ただでさえ彼は食が細いのに、そのうち倒れてしまわないかと心配だった。
 今日も、例の如く審神者に引っ張って行かれた。留守番を言い付かった弟に出来ることと言えば、美味しいものを作って待つことくらいだった。
「歌仙は、何処」
 その為には、手助けが必要だ。
 昼餉を終えた直後から姿が見えなくなった打刀の行方は、ようとして知れなかった。
 この本丸で最古参に当たる男は、冬支度の旗振り役でもある。
 春が来た際、冬場に使った道具をどこに片付けたのか。備蓄はどれだけあればいいのか。買い足さなければいけないものは、何か。
 そういった情報を一手に引き受け、まとめて整理しているのが、歌仙兼定だった。
 へし切長谷部もこういう仕事を得意としているが、なにせ彼と歌仙兼定は、仲が悪い。ふた振りが協力し合って何かに挑むなど、戦場で敵と相対すること以外、到底成立しない話だった。
 だから彼らには、異なる仕事をやって貰っていた。そして双方の情報をひとつにまとめるのが、両者に顔が利く小夜左文字の務めだった。
 火鉢や炬燵といった暖房器具用に使う炭を、あとどれだけ調達すればいいのか。
 本丸の財政を委ねられているへし切長谷部の質問に、早く答えを与えてやらなければいけない。
 本丸の物品や、在庫の管理を委ねられている歌仙兼定は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
 屋敷内の心当たりは、全て回った。
 彼が日常過ごす部屋や、皆で集まる大広間、台所、食糧貯蔵庫に、演練場。しかしどこに行ってもその姿はなく、目撃者も現れなかった。
 となれば、庭にいる、という線しか残らない。敷地の外へ勝手に出かけるのは、審神者によって禁じられているので、庭のどこかに隠れしていると考えるのが妥当だった。
 もっともその庭も、かなりの広さを誇っているのだけれど。
 桜の紅葉は鮮やかで、目に楽しかった。風流を好み、景色の移ろいを誰よりも楽しんでいる刀だから、てっきりこちらに居るとばかり思っていた。
 推理は、外れた。
「僕も、鈍ったか」
 歌仙兼定が好むものを、正しく把握していたつもりだったのに。
 どうやら驕っていたようだ。肩を竦めて苦笑して、小夜左文字は落ちて来た木の葉を空中で捕まえた。
 木漏れ日に透かせば、葉脈が見事だった。隅々まで綺麗に赤く染まっている葉で鼻の頭を掻いて、少年は来た道を戻ろうと踵を返した。
 彼がこの地に招かれてから、もう既に一年が経過していた。
 思えば、あっという間だった。
 二度目の秋を過ごして、今度は二度目の冬を迎えようとしている。それはとても驚くべきことで、不思議な感じだった。
 駆けて来た往路とは違い、復路はゆっくりした足取りだった。日々移り変わる景色を眺め、堪能し、時に立ち止まって風に耳を澄ませた。
 急がなくてもいい。
 焦らなくても良いと教えてくれたのも、あの男だった。
「おかしなものだ」
 復讐に固執し、仇を討つことばかりを考えていた。勿論今でもその願いは胸の中に有り、戦場に立つ度に生々しく蘇った。
 けれど本丸に帰ると、スッと心が軽くなった。ここが自分の居場所なのだと、気が付かないうちに身体に刷り込まれてしまっていた。
 最近は出撃の機会が減ったけれど、感覚が鈍らないよう、鍛錬は続けていた。いつでも隊を率いる覚悟はあると、小夜左文字は木の葉を握りしめ、拳を作った。
「うあっ」
 丁度そこに風が吹き抜けて、少年の背中を突き飛ばした。
 笠の所為で圧力を受ける面積が大きい分、簡単に煽られた。うつ伏せに倒れそうになって、短刀は片足立ちで飛び跳ねた。
 まるで唐傘お化けだと、何かの折に見た妖怪絵巻を思い出す。どうにか顔から落ちるのだけは回避して、小夜左文字は深く息を吐きだした。
 今の一瞬で鼓動が弾み、首筋は脂汗で湿っていた。耳鳴りを払い除けんと頭を振って、ずり落ちた威儀を整えた。
 所々で擦り切れている袈裟を撫で、額を拭って呼吸を整える。
 大自然に不意打ちを食らわされて、誰も見ていないのに恥ずかしかった。
 ほんのり顔を赤くして、誤魔化すように頬を叩いた。そのまま挟み込んで軽く揉んで、小夜左文字は何気なく辺りを見回した。
 上も、下も茜色に染めつけられて、自分だけが異なる色を纏っている。
 兄の袈裟を借りてくれば良かったか。景色から浮いている気がして、彼は藍染めの袈裟をひょい、と抓みあげた。
「ふふ」
 けれどこの色が一番似合っていると、自分でも思う。
 他の色を選ぶことは無いと断じて、少年は豊かに枝を茂らせる森を駆け抜けようとした。
 ざああ、と風が哭く。
 また吹き飛ばされては敵わないと、先手を打って笠を押さえつけようとして。
「……あ」
 木と木の間、かなり遠く。
 紅に彩られた景観の中、違和感を抱かせるものを見付けて、彼は出しかけた足を引っ込めた。
 たたらを踏み、踵で全体重を支えて、背筋を伸ばす。
 爪先を左右同時に地面に降ろして、小夜左文字は目を見張った。
「いた」
 見間違いではないと確信できた。
 思わず声にも出して、彼は邪魔でしかない木の幹を回り込んだ。
 枝打ちされて真っ直ぐ伸びている木々の合間を抜けて、道なき道を急いだ。柔らかな土を蹴散らし、弾む息と鼓動を抑えもようともせずに。
 その男は色美しく散りゆく秋の木陰で、目を瞑り、なにをするでもなく、ただ佇んでいた。
 裏地に牡丹をあしらった外套を羽織り、胸元には同じ大振りの花を飾って。
 藤色の髪は光の加減か色を強め、はらはらと散る木の葉に合わせて薄ら紅を帯びていた。
 爪先が僅かに反り上がった鞜を履き、椎鈍色の袴を風になびかせていた。時折捲れあがる袖から覗く腕は黒色の肌着に隠されて、指先は緩く曲がり、軽く握りしめられていた。
 やや俯き加減で、微動だにしなかった。
 なにをしているのかと、小夜左文字ですら戸惑いが否めない光景だった。
 風を浴びて、感じているとしか評しようがない。ただこんなところで瞑想にふける理由が思いつかなくて、短刀は小首を傾げ、足取りを緩めた。
「うっ」
 そこにまたもや風が襲い掛かり、地表を舐めるように天へ舞い上がった。大地に敷き詰められた落ち葉が一斉に空を目指して、ざあああ、と滝の水が砕けるような音が耳元に渦巻いた。
 発作的に顔を覆おうとして、小夜左文字は掲げた腕を意識して留めた。
 右腕を額に、左腕を鼻筋と口元に当てて首を竦め、少年は遠くで立ち尽くす男に向け、悲鳴を上げそうになった。
 風に攫われる。
 赤に呑まれ、連れていかれてしまう。
「かせ……っ」
 どうしてそんな風に感じたのかは、正直言えば分からない。けれど本能的な恐怖を覚えて、足が竦み、四肢が震えた。
 心の臓を鷲掴みにされた錯覚を抱かされ、電流が走り、動けなかった。
 袈裟が捲れあがり、振り乱された裾が足や腕を叩いた。巻き上げられた木の葉が膝の裏や脛に集団で体当たりを試みて、笠ごと吹き飛ばされてしまいそうだった。
 歌仙兼定の姿は木の葉の渦に掻き消され、跡形も残らない。
 そんな未来を想像して、息が止まりそうだった。
 時間にして、ほんの数秒。
 瞬きを我慢しても耐えられる程度の、ごく短い、一瞬の出来事だった。
 だというのに永遠に終わらない責苦を受けた気分になって、眩暈がした。ただ立っていただけなのに体力を根こそぎ奪われ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
 いつから忘れていたかも分からない呼吸を再開させて、全身に酸素を行き渡らせる。
 ドッと押し寄せた疲労感に潰されそうになりながら、小夜左文字は目を凝らした。
「かせん」
 その姿は、変わることなくそこにあった。
 幻でも、目の錯覚でもない。紛れもない本物だと、確信できた。
 嬉しかった。安堵に襲われた。膝が笑って、今度こそ立っていられなかった。
「うわ」
 気が抜けて、くらっと来た。
 次の瞬間にはもう、地面にべったり尻を張りつかせていた。
 膝がカクンと折れて、力が入らなかった。腰が抜けるとは恐らくこういうことで、両手で地面を押してみても、下半身はぴくりとも反応しなかった。
 うつ伏せに突っ伏さずに済んだのだから、まだ幸いだ。そう考えることにして自分を慰めて、小夜左文字は膝頭に覆い被さっている木の葉を払い除けた。
「雨の後でなくて良かった」
 地面は乾いており、冷たかったが、濡れてはいなかった。それもまだ幸運だったと胸を撫で下ろし、少年は濃くなった土の匂いに唇を舐めた。
 鍬を入れて耕し、肥料を与えた土とはまた違う。
 もっと泥臭い、けれど胸に心地よい匂いだった。
 それを懐かしいと感じるのは、正直なところ、複雑だ。誰にも踏み荒らされていない地面をそっと撫でて、小夜左文字は不意に沸き起こった泣きたい気持ちを堪えた。
「小夜?」
 目頭がじんと熱くなったのを、息を止めて耐える。
 そこを狙ったかのように呼びかけられて、短刀は忘れていたと顔を上げた。
「いや、あ……、の」
「なにをしているんだい、そんなところで」
 弾かれたように首を伸ばしてから、急にばつが悪くなった。目が合う前にこちらから顔を背けて口籠れば、歌仙兼定は小首を傾げ、ゆっくり歩み寄ってきた。
 木の葉の絨毯を突っ切って、最短距離を選んで。
 一直線に近付いてくる男に顔を赤らめて、少年は巧い言い訳を探して目を泳がせた。
 もっともそんな事をしたって、口下手が解消されるわけではない。
 両者の距離はあっという間になくなって、手はごく自然に差し出された。
 立ち上がる手助けをしようと、歌仙兼定が軽く膝を曲げた。だが小夜左文字はそれを握り返すことなく、右往左往しながら下を向き、猫背になった。
「小夜?」
「地面、が。その。冷たくて、気持ち……いいから」
「うん?」
 涼やかな視線から逃げ、必死に誤魔化そうとするものの、叶わない。
 下手な弁解は墓穴を掘るだけと知っているのに、なにも言い返さないという案も採用出来なかった。
 結局声は尻窄みに小さくなり、中途半端なところで途切れてしまった。まだ先があると思ったのか歌仙兼定は暫く待って、十秒を過ぎてからストン、とその場にしゃがみ込んだ。
 ただでさえ小さい身体を丸めている少年に、圧迫感を与えない為だろう。
 目線の高さを揃えたがった男に、小夜左文字は降参だと白旗を振った。
「冷やすのは、良くないよ」
「……ああ」
 本丸で最も華奢な短刀は、薄着な刀としても有名だった。
 両膝どころか太腿まで丸出しだし、足元だって素足に草履だ。そんな状態で地面にぺたん、と座り込んでいたら、体温を奪われて身体が冷えてしまう。
 時折過干渉に思える男だが、今はその気配りが有り難い。
 深く追求することはせず、改めて手を差し出した打刀に、今度こそ短刀は腕を伸ばした。
 広げられた掌に掌を重ね、しっかり握りしめられるのを待って、腹に力を込めた。
 先ほど自力では達成できなかったことが、ふた振りだとやり遂げられた。ふらつきつつも立ち上がって、少年はホッと息を吐き、太腿に付着した土を振り落とした。
 身を捩り、真ん中で折れ曲がっていた袈裟を振動だけで伸ばす。右手は依然歌仙兼定に囚われたままで、試しに肘から先を揺らしてみたが、めぼしい反応は得られなかった。
「歌仙」
「それで、小夜は。こんなところで、何を?」
「う……」
 一旦は逃れられたと思ったのに、そう甘くなかった。
 改めてにっこり微笑みながら問い質されて、短刀は及び腰で顔を引き攣らせた。
 貴方が秋風に攫われそうに見えた、だなんて、口が裂けても言えないし、言いたくなかった。
 だが既に一度、言い訳に失敗している。
 束縛されている手を取り戻そうと足掻いて、小夜左文字は奥歯を軋ませた。
「だ、から。その……あの。炭、を」
「炭?」
「そう、炭だ。暖房用の、燃料の」
「ああ。そういえば、見積もるよう言われていたね」
 懸命に知恵を働かせ、頭を高速回転させる。その際ぴょん、と飛び出た単語を苦し紛れに口遊めば、予想外にもすらすら言葉が繋がった。
 ハッとなって、小夜左文字は顔色を明るくした。へし切長谷部からの依頼を思い出して力強く訴えれば、歌仙兼定も心当たりを勝手に探り当て、眉を顰めた。
 そう、小夜左文字は歌仙兼定を探していた。
 此処にいる理由は、それ以上でも、それ以下でもない。それ以外なく、他に説明の必要はなかった。
 助かった。
 救われた。
 偶然の奇跡に感謝して、短刀の少年は息を弾ませた。
 興奮気味に鼻息を荒くして、これでもう心配ないと頬を紅潮させる。そんな分かり易い子供を一瞥して、歌仙兼定はゆるゆる首を振った。
「あ……」
「なんだい?」
「いや、別に。なんでもない」
 その流れで指を解けば、包み込んでいた小さな手が零れ落ちた。もれなく温もりも一緒に流れ出して、小夜左文字の指が引き攣るように空を掻いた。
 無意識に何かを掴み取ろうとして、打刀に反応されて慌てて引っ込めた。背中に隠して袈裟を握って、左手は右肘を締め上げた。
 顔を背けながらのひと言は、いつにも増して早口だった。
 そういう誤魔化し方も分かり易いと相好を崩して、歌仙兼定は腕を掲げ、癖が強くて硬い髪をぽん、と撫でた。
 結い上げた先から二手に分かれている藍色の毛を梳り、少年のご機嫌を取る。下から覗き込むように見上げられて、打刀は目を細め、頷いた。
「紅葉が見事だったからね。つい、見入ってしまったよ」
「そう……」
 彼は右手を横薙ぎに払い、地上から空へと続く赤色の洪水に顔を綻ばせた。とても嬉しそうに声を弾ませ、口調はいつもよりずっと楽しそうだった。
 毎日のちょっとした変化を愉しみ、風流を見出すこの男は、自分が文系だと言って憚らない。昔はちょっとでも気に入らないことがあると、口よりも先に手が出ていたというのに、だ。
 再会を果たした時、彼は少しだけ我慢強くなっていた。耐える、ということを覚えて、我が儘な子供ではなくなっていた。
 それが少し誇らしくもあり、寂しかった。
 今もそれと似た心境にあると自覚して、小夜左文字は燃えるように色付く木々と、その向こうに透けて見える空を仰いだ。
「魅入られて、連れて行かれないようにね」
 夕暮れはまだ遠く、茜色の雲は拝めない。
 けれど確実にやってくる逢魔が時を予見して、短刀はぽつり、呟いた。
 深い意味はなかった。
 意識して放った言葉でもなかった。
 ただなんとなく、そう思った。彼が風に攫われる幻を見た所為で、隙が生まれていた。
 ここでの用事は、もう終わった。頼まれていた伝言は伝えたし、後は屋敷に戻って、江雪左文字たちが戻ってきた時の為に、何品か料理を用意するだけ。
 夕餉の材料を少し拝借して、なにを作ろうか。
 手の込んだものは無理だけれど、滋養があり、しかも食べやすいものと言ったら、粥か、汁物が真っ先に思い浮かんだ。
 団子汁も、悪くない。江雪左文字は肉食を忌避しているので、野菜を多めにして、温かいものを供してやればきっと喜ぶだろう。
 これからのことを考え、心が躍った。屋敷がある方角に足を向けて、草履で腐葉土を踏みしめた。
 遠く、微かに獣の声がした。
 郷愁を誘うその声は、鹿のものに他ならない。顔に似合わない甲高い音色に引き寄せられて、小夜左文字はつい、そちらに目を向けた。
 後方への注意を忘れ、どこかに居る四足の獣を探し、瞳を泳がせる。
「いっ――」
 ザザザ、と大きい波が押し寄せて、蹴散らされた木の葉が高く宙に舞いあがった。
 手首を囚われ、捩じられた。強引に、力任せに掴まれて、肘があらぬ角度で折れ曲がり、鋭い痛みが四肢を貫いた。
 武器としての本性が首を擡げ、咄嗟に払い除けようとした。抗い、足掻いて、小さな体躯で大きなものを投げ飛ばそうと試みた。
「それは君だろう!」
 けれど、果たせない。
 力負けした身体は想像した以上に動いてくれず、鼓膜を震わす絶叫は、鹿の声よりも余程哀れだった。
 背中側に腕を捻られて、振り解けなかった。
 手首に絡みつく指は太く、力は強く、遠慮も、容赦もなかった。
 手加減を忘れていた。圧迫された皮膚が見る間に酸欠に陥って赤く染まり、血の巡りを悪くした指先は白磁と化して痙攣を起こした。
 痛い。
 苦しい。
 混乱に陥った頭は思考を停止して、何が起きているのか、状況がまるで理解出来なかった。
 歌仙兼定がそこに居た。
 小夜左文字の腕を捕らえ、力尽くで捻じ伏せていた。
「か、……んっ」
「攫われたのは……居なくなったのは、君の方だろう!」
 不自然な体勢で、呼吸のひとつもままならなかった。声は掠れ、途切れて続かない。懸命に名前を呼んでも届かなくて、獣の怒号に掻き消された。
 なにをそんなに怒っている。
 どうしてそんなにも、腹を立てている。
 なにが癪に障ったのか。
 なにが彼の逆鱗に触れたのか。
 自然とこみあげてくる涙で視界が濁り、霞んで、世界の輪郭がぼやけていく。
 痛みに鼻を愚図らせて、小夜左文字は吼える打刀に奥歯を噛み締めた。
「いつだって、そうだ。君がいなくなる。君の方から、勝手にいなくなる!」
 喉が引き裂かれて、血が噴き出るのではと危惧したくなる叫びだった。
 腹の底から声を絞り出して、涙など一滴も流れていないのに、全身で泣いているようだった。
 癇癪を爆発させていた。
 溜め込んでいたものを、一気に噴出させていた。
 赤色が見えた。
 鮮やかな緋に染まる世界を背景にして、歌仙兼定自身も朱色に濡れていた。
 短刀は脆い。どれだけ俊敏さを武器としようとも、一度でも傷を食らえば途端に足が止まり、敵の格好の標的になった。
 京の夜は騒がしく、道は狭かった。夜目の利かない太刀や大太刀がまともに戦える場所ではなく、いかに素早く駆け抜けられるかが、勝負の別れ目だった。
 眠れぬ夜を過ごし、目を真っ赤に腫らした男に何度抱き上げられたことか。
 髪も整えず、髭も生え放題で、酷い有様の彼を寝床から見上げた日もあった。
 守り袋がなければ折れていたと、後で教えられた。
 手入れ部屋で傷は癒えているのに、なかなか目覚めないから心配したと、あちこちで話を聞かされた。
 最初は、細川の城で。
 餓えた領民を救う手だては他になく、誰かの命を繋ぎとめられるなら、血に穢れた刀でも役に立てると嬉しかった。
 後に残したもののことなど、考えなかった。
 気丈にやっているものと勝手に期待して、信じて。それでも心のどこかで、寂しく感じてくれていたら嬉しいと、酷いことを考えた。
「君は、いつもそうやって」
 顔を真っ赤にして、歌仙兼定が叫ぶ。
「痛い、歌仙」
 抗えば、腕を掴む手に尚更力が込められた。血の巡りは一層悪くなって、手首がミシミシ音を立て、押し潰された骨が今すぐにでも砕けそうだった。
 指が引き攣り、短い爪が空を掻く。
 消え入りそうな声に男は耳を貸さず、牙を剥き、修羅と化して、血の涙を流して慟哭の声を上げた。
「勝手に僕の前から居なくなる!」
 冬が迫っていた。
 実りの季節を終えて、雪に閉ざされた暗い世界が訪れようとしていた。
 だけれど本丸には、たっぷりと食糧が備蓄されている。米も、野菜も、肉も、無茶をしなければひと冬楽に超えられるだけの量が、既に貯蔵庫に集められていた。
 暖房器具も、去年に比べて充実していた。火鉢が増えたし、櫓炬燵だってそうだ。綿入りの半纏は暖かいし、雪沓の編み方だってすっかり手慣れていた。
 来年の為の種籾さえ年貢に奪われ、草木の根を齧るようなことはない。干からびてひび割れた、嘗ては豊かな水田だった場所を前に、呆然と立ち尽くすこともない。
 この本丸が、小夜左文字の帰る場所だ。
 仲間がいて、友人が居て、兄がいて、歌仙兼定がいる。
 長い、長い放浪の果てに、ようやくたどり着いた安寧の場所だった。
「許さない。だったら僕が、君を。君を……っ!」
「之定、痛い!」
 怒りに我を忘れ、男が吠えた。
 茜に染まる大地に首を振って、小夜左文字が泣き叫んだ。
 ざわ、と風が騒いだ。
 ふたりの頭上に木の葉が降り注がれて、一瞬の静寂が場を包み込んだ。
 打刀は二度、三度と瞬きをして、捩じられた腕を前に唇を噛む少年を見た。鋭い眼差しで睨まれて、目尻に浮かんだ涙にハッと息を飲んだ。
「っす、すまない」
 我に返り、慌てて手の力を緩めようとした。
 けれど指の関節が凝り固まってしまったのか、なかなかすぐには外れなかった。
 残る手も使って指と指の間をこじ開けて、小夜左文字の細い手首を解放する。
 白い肌には紅葉より遥かに毒々しい色の痣が刻まれて、その形に凹んで戻らなかった。
 痛みは簡単に引かず、熱もすぐには下がらない。
 チリチリして痺れている指先に息を吹きかけて、小夜左文字は後退を図った男にかぶりを振った。
 目を閉じ、咎めるつもりはないと態度で示す。
 けれど歌仙兼定は自分が許せないのか、頭を抱え込み、ふらついて身を屈めた。
「すまない、小夜。僕は、……僕は、君に」
「いい。僕も、すまなかった」
「違うんだ小夜。君だって、好きであんな――」
「いいんだ、之定」
 狼狽激しく奥歯を噛み鳴らし、顔面蒼白になって男が喚く。
 それを静かに制して、小夜左文字は赤黒く腫れた手を背中に隠した。
 あんな風に怒鳴りつけられて、痛かったし、苦しかったけれど。
 嬉しかったと言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
「帰ろう」
 言えない想いを胸に隠し、反対の手を差し出して、囁く。
 我が儘で癇癪持ちの子供は一瞬怯むように仰け反り、唇を引き結び、泣きそうな眼を瞼の裏に隠した。
「ああ、……そう、だね」
 躊躇を呑み込み、言葉を噛み締めて。
 彼は一番大事なものを傷つけた手で、大事なものを握りしめた。

 2015/11/10 脱稿

もみぢ散る 野原を分けて行く人は 花ならぬまた 錦着るべし
山家集 秋 483