招くははれを慕ふなるらん

 木の葉が色付き、山肌を舐めるようにして、鮮やかな赤色が広がっていた。庭先に植えられた公孫樹の木は軒並み黄色に染まって、逆三角形をした葉が地面を埋め尽くした。
 銀杏の特徴的な臭いが鼻を突くが、慣れてしまえばどうということはない。落ち葉に埋もれる形で散らばる実を、子供たちは夢中で拾い集めていた。
 誰もが膝を折り、身を低くして屈んでいた。視線は足元に集中して、お蔭で前方不注意か来る衝突事故が多発していた。
「あだっ」
「いったあい」
 愛染国俊と乱藤四郎の悲鳴が同時に響き、ゴチンとやったふた振りが揃って尻餅をついた。小さな星が数個飛び散って、甲高い悲鳴を受け、皆が一斉に顔を上げた。
 これでいったい、何度目だろう。
 だが呆れてため息を吐きこそすれ、腹を抱えて間抜けと笑う者はいなかった。
 少し前にぶつかった記憶が蘇ったのか、前田藤四郎が頭に出来た瘤を撫でた。その隣では秋田藤四郎が、桃色の髪を押さえこんでいた。
 数分前、彼らも派手に激突していた。地面に落ちている木の実を拾うのに必死で、接近する影に全く気付いていなかった。
 思い出して渋い顔をして、短刀たちは首を竦めて縮こまった。反省してか左右を見回し、場所を変えようと数名が立ち上がった。
「俺、あっち探してくる」
「でもそちらには、公孫樹の木、ありません」
「ぐ、ぅ……」
 額を撫でつつ、涙目の愛染国俊が彼方を指差す。けれど前田藤四郎から冷静な指摘がなされて、祭り好きの少年は途端に押し黙った。
 妙案だと思ったのだが、そうことは巧く運ばない。
 既に移動を開始していた五虎退は、耳をピクリとさせてから困った様子で振り返った。
 彼がいつも連れ歩く虎は、この場には一匹もいなかった。
 獣は嗅覚が優れているから、悪臭を嫌って寄り付かなかった。そういうわけだからあの子虎たちは、今頃縁側で、鳴狐たちと一緒に日向ぼっこをしているはずだ。
 ふかふかの毛並みは、とても触り心地が良いらしい。
 だけれど未だ、一度として撫でるのに成功していない短刀は、疲れた顔で肩を落とした。
 秋が深まり、紅葉が庭や、その背後に迫る山を、彩り鮮やかに飾っていた。迫る冬に備えて植物は子孫を遺そうと、種を含んだ木の実を丸く膨らませ始めていた。
 柿の木は眩い橙色に染まり、日々子供たちの腹を満たしている。
 銀杏もまた、加工すれば美味な酒のつまみになった。
 背高の木になる果実の収穫は、上背がある刀たちの役目だった。一方短刀たちは、地面に落ちているものを集めるのが仕事だった。
 秋は、実りの季節。
 畑の方も収穫に忙しく、とてもではないが出陣している場合ではない。本当なら遠征に出るべき面々も駆り出されており、屋敷中が大騒ぎだった。
「なにを、やっているんだろう」
 額の汗を拭い、小夜左文字が呟く。
 けれど彼の声は小さくて、誰の耳にも届かなかった。
 歴史を作り変えようという輩がいた。時を遡って不当に介入を図り、望む通りの未来になるよう、世界をひっくり返そうとしていた。
 これを見過ごすわけにはいかないと、時の政府が動いた。審神者なる者を遣わして、刀剣の付喪神を喚び出した。
 悠久の時を辿れるのは、刀のみ。そんな一介の道具でしかない彼らに、審神者は現身を与えた。仮初の肉体を持たされて、刀たちは歴史修正主義者と日々刃を交えていた。
 ところが、だ。
 ここ数日は、誰も出陣していない。本丸に入り浸って、てんやわんやの大騒ぎだった。
 収穫の後は、祭りをするのだと愛染国俊が言っていた。豊作に感謝して、来年はそれ以上の実りを祈願するのだと、嬉しそうにはしゃいでいた。
 祭事は自分が取り仕切ろうと、石切丸も乗り気だった。次郎太刀は酒が飲めればそれでいいと、特に反対しなかった。
 神輿も山車も出ないのに、不思議な盛り上がりだった。
 誰も疑問を抱くことなく、朝から騒ぐ理由が出来たと喜んでいる。刀としての本質を忘れて、当初の目的を失念していた。
 最初のうちは刀なのに畑当番、と文句を言っていた面々まで、張り切って鍬を振り回していた。蔓を引っ張れば地面からボコボコ芋が飛び出してきて、それがとても楽しそうだった。
 小夜左文字も、最初のうちは周りの雰囲気に流されていた。
 だがふと我に返ってしまって、急になにもかもが馬鹿らしく感じられた。
 浮足立っている皆が愚かしく見えた。どうして審神者はなにも言わないのかと、他者に八つ当たりしたくなった。
 手にした麻の袋には、銀杏が十数個、入っていた。それをガサガサ揺らして、彼は力なく息を吐いた。
「さよくん?」
 立ち尽くしたまま、動かない。
 枯葉を払い退けながら進んでいた今剣が話しかけても、彼はすぐに返事しなかった。
 遠くを見据えたまま緩く首を振り、諦めて膝を折る。
 ストンと姿勢を低くした彼に、長い髪を結い上げた烏天狗は目を細めた。
「いっぱい、あつまるといいですね」
「銀杏は、食べ過ぎると中毒になるけど」
「えええ。そうなんですか?」
 早く食べたくて、うずうずしていた。膝を揃えてしゃがみ込んで、驚き方は大袈裟だった。
 両手を大きく広げて、倒れそうになったところで身体を前に傾けた。一本足の下駄を器用に操って、体幹は誰よりも優れていた。
 無様に尻餅をつく真似はせず、目を真ん丸にして小夜左文字を見詰める。
 じっと穴が開くくらいに視線を向けられて、少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……ああ。身体に合わないようだと、数個でも、気分が悪くなったり、吐き気がしたりする」
 興味津々で、逃げられそうになかった。爛々と輝く眼差しは、詳しく教えるように訴えていた。
 仕方なく答えれば、聞き耳を立てていた他の短刀が一斉にざわついた。一生懸命集めたものに目をやって、信じ難い表情で左右を見回した。
 仲間と顔を見合わせ、不安げな態度で小夜左文字を取り囲む。
 直接話しかけては来ないけれど、更なる情報を求めている空気だ。言うのではなかったと早々と後悔して、藍の髪の少年はこめかみに指を立てた。
「僕らの、その。身体は。人のそれとは、違う、と。思う……けど」
 子供には食べ過ぎると毒な銀杏だが、薬としての効能も広く知られている。あくまでも量を多く摂取した場合の問題であり、少数口にする分には、なんら問題ないはずだ。
 そもそも刀の付喪神である彼らに、食中毒など起こり得るのか。
 未だ前例がないと言ってやれば、途端に安堵の息が漏れ聞こえた。
「こーんな頑張って集めたのに、俺たちが食えねえってのは、納得いかねえもんな」
「だよねー」
 丸く膨らんだ麻袋を掲げ、愛染国俊が口を尖らせる。乱藤四郎が同意して鷹揚に頷いて、他の短刀たちも首肯した。
 小夜左文字は一歩遅れる形で、別の意味で胸を撫で下ろした。腰帯の上辺りを押さえながら息を吐き、安心して銀杏集めに戻った仲間に肩を竦めた。
 彼らは、知らない。
 銀杏が食べられるようになるのに、かなりの手間と時間が必要だということを。
 だが教えれば、確実に文句が噴出する。そういうのは、一度で充分だった。
 外の果肉部分を除去して種だけにして、天日干しにして、更に火で軽くあぶる。そうやって完全に水分を取り除けば完成で、要する日数は一日や二日では済まなかった。
 殻を剥くのも、なかなか大変な作業だ。
 そうやって苦労の末に味わう銀杏は、とても美味しい。火で焼けば鮮やかな緑色になって、煮れば白っぽく濁るのも不思議だった。
 ほんのり苦くて、噛めばもっちりした食感が面白い。
 想像したら涎が出そうになって、小夜左文字は慌てて口を閉じた。
 唾を呑み込み、入れ替わりに息を吐く。視界にはらりと何かが紛れ込んで、見れば樹上から落ちて来た木の葉だった。
 末広がりの扇形で、真ん中に浅く裂け目が入っていた。日に透かせば黄金に輝くそれは公孫樹に他ならず、捕まえるのは容易だった。
 握り締めれば、感触は軽かった。何かを潰した印象は薄く、実感が沸かなかった。
 手を開いて、黒い筋が走っただけの木の葉を地面へ落とす。短い葛藤の末に作業に戻ろうとして、まず目に入ったのは銀杏ではなかった。
「椎の実」
 それは探し物とは似ても似つかない、焦げ茶色をした塊だった。
 大きさは、小指の先ほど。細長く、黄土色の帽子を被っていた。
「どこから」
 この辺りは公孫樹ばかりで、椎の木は生えていない。当然地面に落ちているのも、銀杏ばかりであるはずだった。
 反射的に頭上を仰ぎ、小夜左文字は目を細めた。木漏れ日が優しく照りつけて、庭先の樹林は明るかった。
 直射日光を避け、注意深く辺りを探る。けれど蹲る短刀たちがいるばかりで、目当ての木は見つからなかった。
「さーよくん?」
 みんなでせっせと頑張っているのに、ひと振りだけ手を休めたまま。
 抗議するかのように今剣に呼ばれて、ぼうっとしていた少年は慌てて首を振った。
 但し、手の中のものは隠せなかった。
「どんぐり、ですか」
「この辺には、生えてないのに」
「そういえば、そうですね」
 抓んで持っていたものを覗きこみ、烏天狗の少年が何故か声を潜めた。つられる形で小夜左文字も小声になって、額を寄せ合い、ひそひそ頷きあった。
 肩が擦れ合う近さのふたりに、銀杏拾いの面々は怪訝な顔をした。だが先ほどと違って、耳を澄ませても会話は聞こえてこなかった。
「りすさん、でしょうか」
「狐かもしれない」
「このちかく、はえてるのかもしれませんね」
「たぶん」
 周りが不思議そうにする中、彼らは構わず会話を続けた。必要以上に音量を絞り、囁いて、椎の実の帽子を弾いた。
 笠はするりと外れ、地面に落ちた。枯れ葉に埋もれて瞬く間に見えなくなり、もう探し出せそうになかった。
 けれどあれは、必要ないものだ。取り除いても問題ないと唇を舐め、小夜左文字は艶々している表面を小突いた。
 これもまた、食べられる木の実だった。
 しかもこちらは、えぐみが少ない種類だ。だから生でも食べられるし、軽く炒れば更に美味だった。
 銀杏のような面倒なことをしなくても、すぐに腹が満たせてしまう。なんともお得で、子供向きの木の実だった。
「……どうします?」
「決まっている」
 肩をぶつけ合い、問われ、答える。
 最早彼らの中では、刀の矜持がどうだの、収穫祭がどうだの、関係なくなっていた。
 目先の欲に囚われて、深く頷き合う。
 となれば決行は速いに越したことがなく、ふたりはほぼ同時に立ち上がった。
「どちらへ?」
 それに前田藤四郎が反応し、顔を上げた。行き先を訊ねられてぎくりとして、歩き出そうとしていたふたりは目で合図を送り合った。
 横に並び、揃って後退を図る。言葉を探して口を開閉させて、指差したのはあらぬ方角だった。
 けれどそれが、転機になった。
 小夜左文字が示した方に、皆が一斉に顔を向けた。それで今剣はハッとして、両手を勢いよく叩き合わせた。
「あっちに、も。いちょうのき、あります」
「そ、う。だから、見てくる」
 早口に言って、その場でぴょん、と飛び跳ねる。小夜左文字も彼に合わせてコクコク首を振って、この場を離れる理由を正当化した。
 勿論、それは嘘だ。公孫樹の木は庭の中だと、ここら一帯にしか枝を伸ばしていなかった。
 しかし行儀のよい短刀たちは、そのことを知らない。彼らは奥深い山に立ち入ろうとしないし、食べられる木の実についてもあまり詳しくなかった。
 後で咎められようとも、勘違いだったと言えばそれで済む。やり過ごせる算段は整ったと、ふたりは逸る気持ちを抑えこんだ。
「えー、じゃあ僕も、そっちにいこっかな」
「それは、だめです」
「なんでさ?」
「あまり、数が多くない。こっちの方が、広い」
 銀杏の臭いが立ち込める中、小夜左文字は必死になって言葉を重ねた。今剣も同調して訴えて、自分たちだけで行くと言い張った。
 藤四郎たちは顔を見合わせ、愛染国俊は面倒になったのか、ひらひらと手を振った。
「わーったよ。けどちゃんと、真面目に働けよ?」
「もちろんです」
「ああ」
 見張り役がいないと、子供たちはすぐに作業を忘れて遊んでしまう。ふたりひと組なら心配ないだろうが、念のためと釘を刺した少年に、今剣と小夜左文字は力強く頷いた。
 もっともこの時既に、彼らには真面目に働く気などなかった。
 そもそも小夜左文字は、日頃から屋敷の手伝いに汗を流していた。食事の準備や、掃除に洗濯だってそうだ。
 愛染国俊こそ、普段から遊び惚けている。精力的に活動しているのは、祭りという言葉に反応した今だけだ。
 どの口が、偉そうに。
 少なからず反発を抱き、小夜左文字は椎の実を握り締めた。誰にも気取られないよう、尻端折りで折り返している着物の裾に潜ませて、今剣に続いて踵を返した。
 あまり量が入っていない麻袋を振り回し、粟田口や来の短刀たちに見送られて場を離れる。その歩みは尋常ないくらいに速く、脱兎の如き勢いだった。
 一目散に駆け出して、降り積もる枯れ葉を蹴散らした。柔らかな土を踏みしめて爪先を汚して、草履と下駄の少年は息を弾ませた。
「おお。いっぱいありますねー」
「集めて、歌仙に炒ってもらおう」
 公孫樹の木から遠ざかるにつれて、あの鼻にこびりつく臭いもなくなった。空気は澄み渡り、仰ぎ見る秋の空は飛び上がりたくなるほど高かった。
 黄葉の鮮やかさは失われたけれど、子供たちの目はきらきら輝いていた。色気より食い気、花より団子とはよく言ったもので、周りの景色など眼中になかった。
 胴回りが太い立派な木を見つけ、その足元を覗き込めば、探し物は沢山見つかった。形も、大きさも様々で、数は銀杏の比ではなかった。
 中には灰汁を抜かなければ食べられないものもあったが、構わなかった。
 銀杏を日干しにする焦れったさに比べれば、その労苦はずっと軽い。ただ調理時に難儀するのは避けたくて、ふたつある袋に、別々に入れることにした。
 公孫樹の実と混じってしまうが、これはパッとみただけでも判別がつく。特に問題ではないと息巻いて、今剣はガサガサと麻袋を鳴らした。
「こっちのほうが、たのしいです」
「今剣、見ろ。茸だ」
「やりました、さよくん。おてがらです」
 団栗は食べるだけでなく、加工すれば玩具になる。銀杏拾いなどより、余程遣り甲斐があった。
 更に追加で、嬉しい発見があった。
 木の実を探して枯れ葉を退ければ、木の根に這い蹲るようにして、食べられる茸が姿を現した。中には毒を持ち、身体に害があるものもあったけれど、彼らはこの違いを見分ける目を有していた。
「こっちのは、ざんねんです」
「誰かに、試しに食わせてみるか?」
「さよくん、わるいこです。でも、おもしろそうです」
 ひと口齧れば楽しくもないのに笑い転げ、死ぬほど苦しい目に遭う茸もあった。
 流石に本気で実践しないまでも、想像する分には自由。小夜左文字のひと言に今剣はクスクス笑って、地味な見た目の茸を小突いた。
 やる気の度合いが、格段に違ったからだろう。
 麻袋の中はあっという間に団栗と茸で埋まり、口を絞って持つのが難しい程だった。
 広範囲をせっせと探し回って、素晴らしい成果だった。これなら当分、食うに困らない生活が送れそうだ。
 勿論、朝餉や夕餉はちゃんと食べるし、八つ時の甘味にだって手を伸ばす。だが身体の小さい短刀は消化が早いのか、動けばすぐに腹が減った。
 これで食糧備蓄庫にこっそり忍び込み、怒りっぽい打刀の目を掻い潜らずに済む。満足できる結果が得られて、ふたりは終始嬉しげだった。
「また、きましょう」
「そうだな」
 屋敷の外にある鎮守の森にも、椎や栃の木が沢山あった。
 だが審神者の許可なしに飛び出した時は、後で散々怒られた。他の刀たちに多大な心配をかけてしまい、二度としないと誓っていた。
 だから庭の奥に、こんな場所があったのは驚きだった。意外な発見に興奮は留まることを知らず、胸の高鳴りはなかなか鎮まらなかった。
 茸は、夕餉の食材として、台所当番に進呈しよう。椎の実を炒る代金だと言えば、文句は言われないはずだ。
 勿論このまま七輪で焼いても、充分美味い。火で炙られ香ばしく香り、傘の細かな襞から水分がじゅわ、と滲み出てくる様を想像していたら、刺激された腹の虫がぐぅぐぅ鳴いた。
 食い意地が張った身体が恥ずかしいが、今剣も似たようなものだ。きゅぅ、と可愛らしく鳴くのを聞いて顔を見合わせて、ふたりは照れ臭そうに肩を竦めた。
「もどりましょう」
「あっちだ」
 太陽の位置を確かめ、木々が邪魔して見えない屋敷の方角を指し示す。
 大雑把な予想だったが、誤差はそれほど大きくなかった。何度か左に修正した程度で済んだし、屋敷自体からもそんなに離れていなかった。
 頭に張り付いた木の葉を振り落とし、次も辿り着けるようにおおよその位置を記憶に焼き付ける。銀杏拾いの面々はまだ頑張っているのか、開けた場所に姿は見えなかった。
 満杯になった袋の中身を見られたら、言い訳が出来ない。
 公孫樹の木を避けるように進んだのが功を奏して、彼らが帰り着いたのは、池を挟んだ反対側だった。
 こちらの方が、東側にある台所にも少し近い。
 夕餉の準備中らしき匂いが漂っていて、悪戯な短刀たちは目を輝かせた。
「いそぎましょう」
 今は下ごしらえの段階で余裕があるが、もう少ししたら調理場は戦場になる。大勢の胃袋を支えているわけだから、炊事場の忙しさは他の比ではなかった。
 団栗を炒るのは、今のうち。
 銀杏採りの面々が戻ってくるまでが勝負で、庭に戻った後もふたりは駆け足だった。
 開けっ放しの勝手口を抜けて、薄暗い土間へと競うように飛び込む。
「おや?」
 中にいたのはひと振りだけで、しかも椅子に腰かけ、休んでいるところだった。
 背凭れのないそれは、小夜左文字の足台でもあった。本丸で最も背が低い少年は、これがないと棚の上に手が届かなかった。
 藤色の髪を結い、袴姿だった。紅白の襷は結んでおらず、白の胴衣の袖は垂れていた。
 優雅に足を組み、袴の裾が広がっていた。折り目がぴしっと尖った襞が斜めに流れており、足袋からはみ出た足首がちらりと覗いていた。
 読書中だったらしく、膝には書が広げられていた。左手で滑り落ちないよう支えて、右手は顎の下にあった。
 思案中だった顔を上げ、歌仙兼定が目を瞬かせる。息を弾ませ入って来た子供たちに背筋を伸ばし、手は素早く書を閉ざした。
 流れるような仕草で立ち上がって、土間の手前までやってくる。小夜左文字も沓脱ぎ石の前に進み出て、肩を上下させ、乱れた呼吸を整えた。
「銀杏拾いは終わったのかい?」
「かせんさん、かせんさん。やいてください!」
 唾を飲み、喋る準備を開始する。だが一足先に歌仙兼定が疑問を口にして、割り込む形で今剣が腕を伸ばした。
 抱えていたものを突き出して、弾みで椎の実がいくつか零れた。土間に落ちてコロコロ転がるのを目で追って、袴の打刀は不思議そうに首を捻った。
 当然だろう。彼は短刀たちが銀杏を拾いに行ったと聞かされて、それを疑わなかった。
 実際、このふた振りもその中に加わっていた。だが途中で飽きて、違うことに手を出していた。
 打倒が覗き込んだ袋には、頭にあったものとは異なるものが詰められていた。
 椎の実、樫の実、そしてたくさんの茸。
 森で自生している、食べられるものをひと通り集めて来た雰囲気に、男は間を置いて苦笑した。
「やれやれ。なにを急いで帰って来たかと思えば」
「えっへへへー」
 口調は呆れ気味だったが、短刀を見下ろす眼差しは優しい。得意げにしている今剣と、小夜左文字の頭を順に撫でて、歌仙兼定は背筋を伸ばした。
 食べられるようになるまで時間がかかる銀杏よりも、手早く口に入れられるものを優先したのだろう。他の短刀たちが戻っていないところから類推して、打刀は袋の中身に顎を撫でた。
「また随分と、豊作だね」
「茸は、夕餉に」
「ありがとう。有り難く使わせてもらおう。小夜、水を汲んできてくれないか」
「分かった」
 木の実の種類も、いくつかあった。まずはそれらを分けるところからだと笊を取り、台所仕事に慣れた短刀には短く指示を出した。
 今剣が竹で編んだ笊に、集めて来たものをひっくり返した。紛れていた枯れ葉や、小石を抓んで退かして、茸と銀杏を別の笊へ移していった。
 一旦外に出た小夜左文字は、水を汲んだ桶を手に戻ってきた。歌仙兼定はそこにひと掴みの塩を入れて、胴長の椎の実を放り込んだ。
 地面に落ちていたものだから、当然古いものもある。更に虫が食いついているものもあって、それらを取り除く為の処置だった。
 水面に浮いて来たものを除去して、底に沈んだ分は冷水で良く洗う。七輪に炭を熾し、上に焙烙を置く。水気を払った椎の実を焙烙に入れて、全体に熱を通す。
「爆ぜるから、離れておいで」
「はーい」
 興味津々に七輪を囲んでいたふたりだが、歌仙兼定に言われて素直に従った。今剣が元気よく右手を上げて、直後に乾煎り中の実がボンッ、と大きな音を立てた。
「ひゃっ」
 続けてポンポンッ、と炸裂音が立て続けに響いた。焙烙の上で椎の実が躍るように飛び跳ねて、勢い余った何粒かが外に転がり落ちた。
 熱くないのか、拾い上げた歌仙兼定が即座に火の上へと実を戻す。香ばしい香りは徐々に強くなり、待ちきれない短刀はそわそわ身を捩った。
「口が開いているよ、小夜」
「う」
 火傷して危ないからと遠ざけられているのに、無意識に前のめりになっていた。台所の床にペタンと腰を落としたまま、上半身だけが前方に傾いでいた。
 涎がひと筋、たらりと垂れた。
 言われて苦虫を噛み潰したような顔をして、藍の髪の短刀は両手で口を塞いだ。
 恥ずかしそうに赤くなった彼を呵々と笑い、歌仙兼定は菜箸で木の実をざっと掻き混ぜた。そろそろかと皮の表面に走る割れ目を確かめて、木製の大皿へと一気に移し替えた。
 白い煙が細く立ち上り、匂いが一段と強くなった。
「おおー」
 出来上がりだと見せられて、今剣は両手を叩いて歓声を上げた。小夜左文字も目を爛々と輝かせ、嬉しそうに拳を震わせた。
「冷めないうちに、どうぞ。食べる時に、少し塩を振るといい」
 調理台でもある背高の机に置いて、その横に塩を入れた壺を添える。もうひとつ、剥いた殻を捨てるための笊を用意してやれば、跳び上がって喜んでいた子供が男の袖を引いた。
「歌仙も、食べるか」
「僕は遠慮しよう」
 夕餉の支度まで猶予があるなら、一緒にどうか。
 拾い集めた木の実はかなりの量で、今剣とふた振りだけでは食べきれそうになかった。
 だからと誘った小夜左文字に、しかし歌仙兼定は首を振った。嬉しい提案に顔を綻ばせはしたものの、返答は迷いなく、声は朗々と響いた。
 きっぱり断られ、想定外の事態に少年が目を丸くする。その小さな手を掴んで、解して、打刀は空になった焙烙へと、残る椎の実を注ぎ入れた。
「んー、おいしいですー」
 今剣はさっさと炒られた木の実に手を伸ばし、いくつかをまとめて口に放り込んだ。
 指に張り付く殻を払い落とし、白っぽい中身だけにして、軽く塩を塗し、もぐもぐと咀嚼する。
 満面の笑みを浮かべながらドタバタ足踏みするところからして、本当に美味しそうだった。
「小夜?」
「……だが」
 早くしないと、彼が全部食べてしまう。
 せっせと働く歌仙兼定に促されても、小夜左文字はなかなか身動きが取れなかった。
 折角拾って来たのに、ひとりだけ口にしないのはおかしい。
 美味しいものは、みんなで分け合う。そうすればもっと美味しく感じられると、彼は本丸に来てから知った。
 背中を押されても躊躇して、小夜左文字は唇を噛んだ。見かねた今剣が剥いたものを五個程差し出してくれて、おずおず手を伸ばせば、まだほんのり温かかった。
 奥歯で噛み砕けば、香ばしさが口の中いっぱいに広がった。
 小さいので食べ易く、すぐになくなってしまう。皿に山盛りだったものがもう半分以下で、注ぎ足すべく、七輪の上では焙烙が一所懸命働いていた。
「ぜんぶ、やいちゃうんですか?」
「ああ。必要だろう?」
「そんなに一度に、食べられない」
「ふふ。それは、どうだろうね」
 ふた振りで食べるなら皿の中にある分で足りるのに、歌仙兼定は追加で炒ろうとしていた。剥くのに疲れたのか手を休めた今剣の質問に、彼は意味深に笑うだけだった。
 控えめに微笑まれて、短刀たちは顔を見合わせた。膝を折って焙烙を操っている男に首を傾げ、笊に残された茸と、手付かずで放置されている銀杏にも目を向けた。
 ドタドタドタ、と騒々しい足音が聞こえて来たのは、丁度そんな時だった。
 ひとりではなく、大勢で。
 駆け足で近付いてくる気配にも眉を顰めて、ふた振りは数秒してから首を竦めた。
「手前ら、こんなところに居やがった!」
「見つけましたよ、ふたりとも」
「あー、何食べてるのさ」
「ずるいです、ふたりして!」
「すっごく、良い匂いがします」
 一斉に、戸口から大声が轟いた。一度に声を張り上げられて、個別の台詞は混じりあい、聞く側には何を言っているのかさっぱりだった。
 ただ皆揃って目を吊り上げて、怒っているのだけは明白だった。
 勝手口ではなく、屋敷の廊下側から。
 引き戸を塞ぐ形で、合計五振りの短刀が煙を噴いていた。
 中央に愛染国俊が陣取って、その左右を粟田口が埋めていた。色とりどりの髪は銀杏拾いで乱れに乱れ、まさに怒髪天を衝く迫力だった。
 口元に屑を貼り付かせた今剣が、食べようとしていた椎の実を落とした。小夜左文字も指を咥えた状態で凍り付いて、憤懣やるかたなしの面々に騒然となった。
 彼らのことを、すっかり忘れていた。
 炒った団栗に夢中になって、銀杏拾いが終わったかどうかも気にしてこなかった。
 いつまで待っても戻ってこないふた振りを、探し回っていたのかもしれない。ところがその迷子であるはずの刀たちが、誰より早く屋敷に帰還していた。
 同じ真似を自分がされたら、気分を害するどころではない。
 怒られて当然のことをしでかしたのだと、彼らは今になって青くなった。
「んぐ、ん、……え、えーと」
「すっげー心配したんだぞ。探したって、どこにもいやしねえし」
 口の中がいっぱいだった今剣が、慌てて飲み込んで目を泳がせた。小夜左文字もなんとか巧い言い訳を探すけれど、言葉はなにも出て来なかった。
 凄い剣幕で捲し立てる愛染国俊に圧倒されて、反論できない。
 残りの短刀にも険しい表情で睨まれて、彼らは揃って項垂れて、反省して小さくなった。
「……すまなかった」
「ごめんなさい」
 頭を下げて、小声で謝る。
 目を閉じて肩を小刻みに震わせる彼らに、それでも短刀たちは納得がいかない様子だった。
 嘘まで吐かれ、信頼を裏切られた。戦場で背中を任せる相手に偽られたのだから、憤りはもっともだった。
 だがこのまま謝罪を受け入れず、突っぱね続けるのも、よろしくない。
 軋轢が生じ、関係に罅が入ってしまうのは、出来る限り避けなければならなかった。
 子供達の様子を見守っていた歌仙兼定は、肩を竦め、焙烙を手に立ち上がった。乾煎りした実を箸で掻き混ぜて、食欲をそそる香りをいきり立つ子供たちへと放った。
 最初から匂いに釣られていた五虎退が、琥珀色の目を大きく見開いた。両手を叩き合わせて嬉しそうに背伸びして、皿に注ぎ入れようとする打刀へと駆け寄った。
「うわあ……」
 感嘆の息を吐き、雪崩を起こした椎の実に頬を紅潮させる。視線は木の実に釘づけで、小夜左文字たちへの怒りは欠片も残っていなかった。
 元々彼は、誰かと争うのが苦手だ。臆病で、泣き虫で、虐められても反撃しようとしなかった。
 短気な愛染国俊とは正反対だ。おっとりしており、日向ぼっこが好きで、戦に出るよりも土いじりをしている方が良いと言って憚らない。
 爪先立ちで調理机にしがみついた彼の姿は、憤然としている残りの面々から毒気を奪うのに充分だった。
「美味しそうですぅ」
 魅力的な香りを嗅いで、だらしなく開いた口からは涎が垂れていた。今にも手を伸ばし、食べ始めそうで、もぞもぞ身をくねらせている少年に、残りの四振りは戸惑いがちに目を泳がせた。
 香ばしい匂いの誘惑は続いており、拒絶し辛い。息を止めるわけにもいかなくて躊躇していたら、見透かした歌仙兼定がふっ、と笑った。
「ほら、君たちも。小夜と今剣が、頑張って集めて来たんだよ」
 木目が美しい皿を軽く押し、机の上を滑らせる。
 その前では小夜左文字と今剣が、上目遣いに様子を窺っていた。
 我が強くて意地っ張りな愛染国俊だが、寝は素直で、優しい子だ。乱藤四郎や前田藤四郎たちだって、ふた振りの反省が本物だというくらい、いい加減分かっている。
 このまま彼らを許さず、仲違いしたまま台所を去るか。
 不満を呑み込んで彼らを許し、働いて凹んだ腹を椎の実で満たすか。
 二者択一だが、結果は火を見るより明らかだった。
「もう、しょうがないな」
「次からは、勝手な真似すんなよ」
「分かった」
「は~い」
 五振りの短刀が怒っているのは、ふたりが黙って勝手な真似をしたからだ。ひと言断ってからにしていれば、騒ぎになどならなかった。
 釘を刺し、愛染国俊が敷居を跨いだ。段差を降りて台所に入って、足は真っ直ぐ調理机に向かった。
 五虎退は既に木の実を掴んでおり、皮を剥くのに悪戦苦闘していた。見慣れないものに秋田藤四郎は興味津々で、前田藤四郎は机上のものを眺めて成る程、と頷いた。
「これ、ほんとに美味しいの?」
 団栗なら知っているが、栗鼠や狐といった獣の食べ物という認識が、乱藤四郎にはあったらしい。湯気を立てる山盛りの椎の実に、半信半疑の様子だった。
 愛染国俊も似たような表情で、視線は自然と歌仙兼定に集まった。焙烙を片付けていた彼は子供らの眼差しに首を竦め、答える代わりに目を眇めた。
「小夜、教えてあげるといい」
「歌仙、僕は」
「おしお、かけると。もっとおいしいです」
 身を固くして畏まったままの短刀を呼んで、机を指差す。会話を紡ぐきっかけを作り出した彼に、今剣が瞬時に乗りかかって声を上げた。
 茶壺に似た容器の蓋を開け、中の小匙で塩を掬った。教えられた短刀たちは横一列になって、木の実の皮を剥ぎ、現れた白い粒に塩を落とした。
 恐る恐る口に入れ、噛み砕き、呑み込む。
 疑り深げだった眼が歓喜に染まるのに、そう時間はかからなかった。
「うま。うっま!」
「なにこれ。すっごくおいしいんだけど」
「驚きです。食べられるのですね、団栗って」
 初体験に目を輝かせ、子供たちが歓声を上げた。ひとつでは足りないと次々皮を剥いて、五個、十個とまとめて口の中へと放り込んだ。
 二寸近い高さの山が、瞬く間に低くなった。代わりに殻入れである笊が山盛りになって、その嵩は増す一方だった。
「ずるいです。ぼくのぶんもー!」
 バクバク食べる皆に悲鳴を上げて、今剣が机に飛びついた。謝罪の品として残りを献上するつもりでいたが、苦労して集めて来たのを思い出して、矢張り譲れないと息巻いた。
「こんなにおいしいのなら、僕も取りに行けばよかった」
「これは、良いものですね」
 口々に感想を言い合い、その間も手は休みなく動いた。あれだけの量があっという間に消え失せて、出遅れた小夜左文字は茫然と立ち尽くした。
 呆気にとられて目を点にして、満腹だと腹を叩く愛染国俊には苦笑する。
「はー、美味かった」
「腹が緩くなっても、知らないよ」
「えっ。もしかしてこいつにも、なんか毒があんのか?」
「……ないけど」
「んだよ。驚かせんなよなー」
 ぼそりと言えば、過剰反応された。銀杏とは違うと告げれば大袈裟に安堵されて、周囲からどっと笑い声が起こった。
 なんであれ、食べ過ぎが身体に悪いのは事実だ。すっかり空になった皿を傾け、もう終わりなのか目で問うた五虎退に、歌仙兼定も空っぽの焙烙を見せて応対した。
 彼が小夜左文字の誘いを断った理由は、これだ。
 短刀たちがこぞって押しかけて来ると、予見していたのだろう。だから数が減らないよう、自分は食べないと言ったのだ。
 全てを見越したうえでの判断だった。
 食い意地に負けて仲間を置き去りにしたのを、小夜左文字は改めて悔いた。
「すまなかった」
 今度は、大きな声で言えた。
 歯の隙間に入り込んだ木の実を気にしている短刀に言えば、赤髪の少年はきょとんとしてから、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「もういいって。あ、そうだ。銀杏、集めた奴。玄関の外にまとめて置いてあっから」
「分かった」
 過ぎたことだと笑い飛ばし、愛染国俊は白い歯を見せた。両手を腰に当てて胸を反らして、戸口の方を顎で示した。
 臭いがあるものを、屋敷に入れたくなかったのだろう。
 その判断は正解だと首肯して、小夜左文字は後ろを振り返った。
 肩を叩く手は大きく、温かかった。真後ろに立った歌仙兼定と目を合わせて、微笑みかけられて、なんだか照れ臭かった。
「なあ、これってまだ庭に落ちてんのかな」
「いっぱいありましたよー」
「では、明日以降の分も拾いにいきませんか」
「さんせーっい!」
 前田藤四郎の提案に、乱藤四郎が万歳しながら賛同した。残る面々からも反論は聞こえず、台所は子供らのはしゃぐ声で溢れかえった。
 すっかり、団栗の虜だ。銀杏のことなど忘れて、その辺に落ちている木の実に夢中だった。
 椎の木が生えている場所は、今剣が覚えている。我先に駆け出した彼を追いかけ、足音は来た時以上に騒々しかった。
 嵐のような出来事だった。
 ひゅう、と風が吹き、喧騒が遠ざかった。机の上には笊に入りきらなかった殻が大量に散らばり、一部は床に落ちて砕けていた。
 こちらを片付けてから、行って欲しかった。
 ひとつのことに集中すると、他が見えなくなるのはいかにも子供らしい。仕方がないと肩を竦めて、歌仙兼定はひとり居残った少年に目尻を下げた。
「小夜は、いかなくていいのかい?」
 丸い頭を撫で、訊ねる。
 二つに割れた毛先を揺らし、藍の髪の少年は伏し目がちに頷いた。
「歌仙」
「うん?」
「手を」
 結局彼は、あまり数を食べられなかった。
 前半は歌仙兼定に遠慮して、後半は他の子らの勢いに負けて。
 それで許してもらえたのだから文句を言うつもりはないけれど、食べ足りないのは嘘ではない。だからと彼は男に向き直り、短く言って着物の衿を握りしめた。
 小夜左文字は作業がし易いよう尻端折りをして、布は膝の上で折り返されていた。裾は帯に差し込まれ、ずり落ちないよう固定されていた。
 それを、怪訝にする打刀の前で解いた。折り畳んでいた布を引っ張って、垂れ下がろうとするそれを掲げ持った。
 細い脚を剥き出しにしたまま、長着の裾を宙に泳がせる。
 コロン、と端からなにかが零れ落ちて、床で跳ねて転がった。
 団栗だった。
 細長くて小さい、椎の実だった。
「……おや」
「まだ、ある」
 こんなこともあろうかと、思っていたわけではない。
 だが袋に入りきらなかった分を、こっそりここに潜ませていた。
 全部で三十か、それくらいあった。これならふたりで分けるに充分で、しかも余らない量だった。
「狡い子だ」
「そんなことは、ない」
 こうなったのは、ただの偶然だ。本当はこれで玩具を作ろうと、そんな考えで隠していた。
 今は、彼と分け合いながら食べられたらいいと、強く願っている。
 今剣や愛染国俊らの声はもう聞こえなかった。
 七輪では炭が赤々と燃えており、木の実を炒るには問題なかった。
 着物の裾を持ち上げたまま、小夜左文字が受け取るよう歌仙兼定を急かした。男は急いで両手を揃えると、短刀が守り抜いた実を厳かに貰い受けた。
「茸も、焼こうか」
「悪くない」
「その前に、茶の準備だね。小夜、手伝ってくれるかな」
 掌で集めた木の実を塩水に浸しつつ、打刀が軽やかに問うた。
 だが言われるより早く、少年は湯呑みを用意すべく棚に向かっていた。当然だと口角を持ち上げて、男が椅子に使っていた足台と、その上に置かれていた書を一緒に持ち上げた。
 糸で綴じられた本は、趣向を凝らした様々な料理の作り方が記されていた。簡単なものから、 手が込んだものまで、好奇心を擽られる品々が取り揃えられていた。
 この頃献立が固定化してきたので、打開策を練っていたのだろう。
「歌仙が作るなら、なんでも美味しい」
「おや、ありがとう」
 世辞のつもりはなく、本心から囁く。
 聞こえていた男は誇らしげに礼を言って、洗った茸を串に刺した。

2015/11/01 脱稿

茂りゆきし原の下草尾花出でて 招くははれを慕ふなるらん
山家集 秋 273