まどふ心ぞわびしかりける

 虫の声が騒がしい夜だった。
 陽が沈み、空は次第に暗さを増して行った。日没の名残が消え去るには幾ばくか猶予があったけれど、闇の訪れは、ぼうっとしていれば一瞬だった。
 まさに釣瓶落としが如く、駆け足で夜がやってきた。あちこちの部屋で灯明が点されて、縁側の釣り灯篭にも火が入れられた。
 一方で短刀たちが暮らす区画の明かりが消されて、既に久しい。粟田口の子供たちは実に健康的な生活を送っており、来派の少年たちもこれに準じていた。
 ただし当然のように、例外だって存在する。
「悪い男ですね、貴方も」
「いいじゃねーか、たまには」
 呆れ混じりで呟いた言葉に、この場で誰よりも年若く見える少年が笑った。首を竦め、口角を持ち上げて、眼鏡の奥の双眸は糸よりも細かった。
 胡坐を崩した姿勢で座り、左手は腿に被せた右足首の上にあった。右手は酒杯を掲げており、薄い器には溢れんばかりの酒が注がれていた。
 透明な液体を波立たせて、少年は赤ら顔で杯を呷った。ひと息に飲み干して、美味そうに口元を拭った。
 上機嫌に身体を揺らして、寝かせていた膝を起こす。行儀悪く姿勢を改めて、見た目にそぐわぬ不遜な表情を浮かべた。
 一瞬で空になった杯は盆に戻されず、おもむろに斜め向かいへと突き出された。
「ん」
 仄かに色付いた太腿を惜しげもなく晒して、注げ、とばかりに座っている男を睨みつける。下唇を尖らせながらの仕草は年相応だったが、彼が求めているものは、おおよそ子供が飲むものではなかった。
 もっとも外見でその年齢を判断するのは、この本丸内では無意味な行為だ。そもそも彼らは人ですらなく、一応は神の部類に入る存在だった。
 刀剣に宿る、付喪神。
 それがここに集った者たちの正体だ。
「んっ」
 だから傍目には子供でしかないこの少年も、実年齢は数百余年。ましてや末席とはいえ神の一員に当たるのだから、酒を飲むくらい、なんということはなかった。
 それなのに、いつまで経っても酒杯は空のまま。
 瓶子はそこにあるというのに、求められた男は応じようとしなかった。
「へし切?」
「長谷部だ」
 薄い座布団に行儀よく畏まって、男は横から紡がれた怪訝な声を叩き落した。
 正面を見据えたまま一顧だにせず、両手は膝の上に揃えられていた。戦仕度は解きつつも堅苦しい性格に変化は見られず、目つきは敵を射抜くが如き鋭さだった。
 明らかに不機嫌と分かる雰囲気に、けれど少年側だって負けていない。大人しく引き下がる気配は見えず、見えないところでバチバチと火花が飛び散っていた。
「酌のひとつも出来ねえたあ、大将もさぞや嘆いているだろうよ」
「主は、そのような些事を求めてなどおらん」
「どうだか。長谷部の旦那の仏頂面の所為で、頼み辛いだけかもしれねえぜ?」
「薬研、貴様っ」
 まだ量が入っている瓶子と、既に空になっている瓶子、そして残骸だけが残るつまみが入っていた皿。
 乾燥させた無花果は、とうの昔に失われた。これから先はひたすら酒を飲み、消費する時間だった。
 気分は高揚し、舌の滑りは常の倍以上、良くなっていた。
 ケラケラ笑いながらの薬研藤四郎の弁に、へし切長谷部のこめかみが引き攣った。
 侮辱されたと受け取って、声を荒らげる。しかし無意識に伸びた先に刀はなく、利き手は虚しく空を切った。
 なにもない場所を握り潰して、行き場のない指先を広げてから、はっと我に返る。
 真向いでは薬研藤四郎が、堪え切れずに噴き出した。
「なんだそりゃ。だっせ」
 片足を立てて腰を浮かせておきながら、肝心の武器がない。空振りした怒りのやり場を失って、へし切長谷部は赤くなった。
 もっとも本丸内での刃傷沙汰は御法度であるので、万が一帯刀していたところで、本当に抜きはしない。せいぜい脅す程度だったのだが、それすらも失敗した形だった。
 屈辱に、麦の穂色の髪をした打刀が打ち震える。
 対する薬研藤四郎はついに大の字になり、畳の上を左右にのた打ち回った。
 酒の力もあって、いつになく楽しそうだ。恐らく兄弟の誰にも見せたことがない姿を曝け出されて、宗三左文字はクスリと、口元に笑みをたたえた。
「おっと。待たせたな、酒の追加だぜ。……なんだ、どうした?」
 それを袖で隠し、軽く腰を捻る。
 ちょうど向いた方角からひょっこり白い頭が飛び出してきて、瓶子を抱えた男が目をパチパチさせた。
 瞬きを繰り返しつつ、斜めに傾がせていた体勢を真っ直ぐに作り替える。そうやって敷居を跨いで入って来たのは、白装束を纏った太刀だった。
 その後ろに、同じく瓶子を抱きかかえた隻眼の太刀が続いた。畳の縁を踏まないよう進んで、空いていた座布団二客にどっかり腰を下ろした。
 持って来たものを前に並べて、空いた手は酒杯へと伸ばされた。それぞれ自分で酌をして、喉越しも滑らかな清酒に舌鼓を打った。
「くっはー。やっぱり美味いなあ」
「五臓六腑に染み渡るね」
 まずは鶴丸国永が心地よさそうに声を響かせ、燭台切光忠が後を継ぐ形でしみじみ言った。ふたりとも胡坐を作ってやや猫背気味で、頬は僅かに朱を帯びていた。
 黄金に近い瞳はとろんと蕩け、ほんの少し眠そうだ。それでいながら口を開けば声には張りがあり、昼間の倍以上に元気だった。
「刀の分際で、五臓六腑など」
「あれれ~、長谷部君。君、全然呑んでないじゃない。具合悪い?」
 室内に敷かれた座布団は、合計五客。その全てが埋まった。中座していた者たちが無事戻って来て、宴はいよいよ盛りとなるところだった。
 耳を澄ませば別の部屋でも、酒宴が催されている。賑やかで、騒々しいはしゃぎ声にため息を吐いて、堅物で知られる打刀は座布団に座り直した。
 中腰だった姿勢を改め、畏まって正座を作る。
 おおよそ酒の席に似つかわしくない体勢に、残る四人は不満げだった。
「俺は、いらん」
「なんでだ。美味いぞ」
 彼の膝元に置かれた杯には、最初に注がれた一杯分が、そのままの形で放置されていた。部屋の隅それぞれに置かれた行燈の光を受けて、水面はゆらゆらとさざ波立っていた。
 笑い過ぎて疲弊しきっていた薬研藤四郎も身体を起こして、寝かせた膝に頬杖をついた。もう片足は折り畳んで真っ直ぐ立てて、上半身を斜めに傾ぐ姿は実に偉そうだった。
 しかし案外似合うものだから、誰もなにも言わない。合計四対七つの眼を向けられて、へし切長谷部は居心地悪そうに口籠った。
「なんだって良いだろう」
「長谷部は、下戸なんですよ」
「おっと。そいつは失礼した」
「嘘を吐くな、嘘を」
 余所を見ながらぼそぼそ言えば、間髪入れずに合いの手が入った。右隣からの発言に打刀はぎょっとして、真に受けた太刀にも青くなった。
 一瞬のうちに表情を変化させて、白に紫を組み合わせた衣服の男が頭を抱え込んだ。片手でこめかみの辺りを包み込んで、横で舌を出している打刀に舌打ちした。
 機嫌悪そうに渋面を作り、睨みつけるが効果はない。宗三左文字はしれっとした顔で、杯に残っていた酒を飲み干した。
 彼だけは両手を使って、ちびり、ちびると舐めるように呑む。それはまるで女人のような仕草であり、夜の暗さも手伝ってか、妙な艶めかしさがあった。
 桜色の法衣に袈裟を合わせ、首元には黒い数珠が覗いていた。彼もまた胡坐ではなく正座だったが、着物の裾が邪魔で見えないだけで、足を崩している可能性は否定出来なかった。
「どこぞの大うつけに、義理堅いことで」
 右に身体を傾けて、つまらなそうに嘯く。
 瞬間、へし切長谷部の右眉が吊り上り、顰め面が益々険しくなった。
 けれど薬研藤四郎を相手にした時と違い、睨むだけだった。左手からは燭台切光忠と、鶴丸国永の笑い声が、綺麗に重なって響いてきた。
 この場で唯一の短刀も腹を抱えており、さっきから喧しい。一対四で数的不利に追い込まれて、麦色の髪の打刀はぎゅうっ、と両手を握りしめた。
「ええい、貴様ら。飲み過ぎだぞ!」
 懸命に堪えようとして、けれど無理だった。
 我慢ならないと声を荒らげ、握り拳を振り翳す。だけれど誰一人として相手にしようとせず、臆する者もいなかった。
 皆して平然と受け流し、怒号など聞こえなかった体を装った。流石に遊ばれているとは察していたが、それでも吼えずにいられなかった。
「明日も出陣があるのだぞ。少しは控えろ」
 立て続けに喚き散らし、この中で最も練度が高い太刀を睥睨する。しかしどれだけ鼻息荒くしようとも、燭台切光忠はにこにこ笑うばかりだった。
 隻眼を細め、頬は緩んで締まりがなかった。
 一見すると素面のようであるが、その肌はかなり赤い。話が通じているかどうかすら微妙なところで、暖簾に腕押しも良いところだった。
 怒られているというのに落ち込む様子もなく、彼は空いた杯に酒を注いだ。ついでに鶴丸国永の杯も満たしてやって、最後にへし切長谷部へと差し出した。
 呑まないのかと、言葉ではなく態度で告げていた。
 急かすような仕草で瓶子を向けられた男は奥歯を噛み、くらりと来る匂いに仰け反った。
「あまり苛めないであげてください。下戸なんですから」
「違うと言っているだろう。しつこいぞ、宗三」
 魅力的で、蠱惑的な香りから逃げ、座布団へ尻から戻って座り直す。右隣では宗三左文字が細い肩を震わせて、つまらない嘘を繰り返した。
 へし切長谷部だけが、杯に口をつけていない。
 気を抜くと手を伸ばしたくなる誘惑に必死に抗って、横から伸びて来た腕は叩き落した。
「なんですか」
「人のものに手を出すんじゃない」
「いいじゃないですか。呑むつもり、ないのでしょう?」
 甲を打たれた宗三左文字が不満げに頬を膨らませるが、耳を貸さない。このやり取りは実のところ三度目で、見ている側はまたやっている、と相好を崩した。
 傍目には微笑ましい光景に苦笑して、薬研藤四郎が手酌で杯を満たした。行燈の光に水面を煌めかせて、甘い香り漂う媚薬を飲み干した。
「俺っちの宴で呑まねえのは、失礼とは思わねえのか?」
 垂れ落ちそうになった雫まで唇で掬って、ひと舐めしてから腕を下ろす。赤く塗られた器は艶を帯びて、血を浴びたかのようだった。
 今宵の酒宴は、そこの短刀主催によるものだった。
 事情はどうであれ、一度は同じ主君を得た刀だ。五振りが本丸に揃ったのを記念して、集まろうという話だった。
 数奇な巡り合わせで、彼らはこの本丸に喚び寄せられた。審神者なる者の力によって現身を得て、歴史に不当に介入しようとする輩を打ち滅ぼすよう、命じられた。
 とはいっても、四六時中戦場を駆けているわけではない。人の身とは存外に不便なもので、一日に三度は飯を食わなければならないし、一定時間床に就いて、眠らなければならなかった。
 疲労が蓄積すれば、敵を討ち滅ぼすのも難しくなる。だから彼らは、ここ本丸を拠点として、様々な時間を巡っていた。
 屋敷での暮らしは、勝手に外に出ない限りは、基本的になにをしようと、自由。飯を食うのも、遊ぶのも、惰眠を貪ろうとも、羽目を外し過ぎなければ咎められることはなかった。
 但し審神者が口出ししなくとも、その代理を自認して、説教する小うるさい刀はいた。ここにいるへし切長谷部が代表格で、彼は酒宴が催されているのを見つければ、問答無用で散会を命じる悪代官だった。
 そんな主命第一の刀が、何故か毛嫌いしている宴に出ている。
 日頃は屋敷の部屋に引き籠ってばかりの宗三左文字も、珍しく顔を出していた。
 というよりは、顔を出さざるを得なかった、という格好だ。なにせ薬研藤四郎が酒盛りをするので来い、と指定した先は、魔王の刻印を持つ打刀の私室だったのだから。
 騒がしい場にいたくなければ、宗三左文字自身が部屋を逃げ出さなければならない。しかし日頃から他の刀と交友を持たない彼には、余所に行き先がなかった。
 左文字の末弟を頼る道は、最初からなかった。あの短刀は過去に縁を持つ打刀の寝床を間借りしており、個室を有していなかった。
 諦めて、参加するしかない。
 狡賢い男だと肩を竦めて、宗三左文字は自らの手で杯に酒を注いだ。
 舐めるように呑んで、突き刺さる視線を感じて左を見る。そこにいた男は瞬間的にそっぽを向いて、視線は全く絡まなかった。
 居心地が悪いのであれば、席を辞せばいい。場の雰囲気を悪くするだけならば、立ち去ってくれた方が有り難かった。
 すごすご逃げていく背中を笑いはしても、文句を言う輩はいない。馬鹿な奴だと鼻息で吹き飛ばして、それで終わりだった。
「ああ、いけない」
 呆れつつ、一旦口から離した器を再度顔に寄せる。
 間が悪く前に流れた髪が器に降りかかって、一緒に呑み込みそうになった。
 唇の端に引っかかり、濡れた毛先が張り付いた。鬱陶しげに払い除けて耳に引っ掛ければ、目ざとく気付いた薬研藤四郎が背筋を伸ばした。
「なんだ。邪魔か?」
「ええ、まあ」
 日頃は片側だけ結い上げられている宗三左文字の髪は、この後寝所に引き籠るだけ、というのもあってか、すべて解かれていた。
 袈裟を着けて、戦支度そのままながら、一部分だけ日常から外れていた。普段は目にすることのない姿に短刀は目を輝かせ、相槌を打った打刀に口角を持ち上げた。
「なら、俺が編んでやるよ」
「薬研が、ですか」
「不満か?」
「いえ。そういうわけでは」
 積極的に手を挙げて、やる気満々で膝を起こした。承諾を得る前に立ち上がって場所を移る準備に入り、不安げな宗三左文字に胸を張った。
「心配すんなって。乱の髪だって、俺が弄ってんだぜ?」
「はあ……」
 得意げに言い張って、自信満々に親指を立てる。
 だが素面ならまだしも、彼は既にかなりの量を呑んでいた。
 足元は覚束なく、たった数歩を進むだけでもふらふら踊っていた。色白の肌は淡い紅に染まって、口元は上機嫌に緩んでいた。
「どうせなら、宗三君に一番似合う髪型を作ってあげなよ」
「お、そりゃいいな。是非とも驚かせてくれ」
「おう。任せな」
「僕で遊ばないでくれますか」
 向かい側から燭台切光忠が茶々を挟み、鶴丸国永も乗っかる形で薬研藤四郎を煽った。真後ろに立たれた刀は早々に後悔に苛まれて、それでも姿勢を改め、居住まいを正した。
 嫌がる素振りを見せつつも、悪い気はしない。
 人に触れられるのはあまり好きではないが、構われるのは嫌ではなかった。
「茶を持ってくる」
「へし切」
「長谷部だ。なにか食うものも探してこよう」
 刻印が施されてからは、愛でられるばかりで、戦場に出ることはなかった。武器としての本懐、戦って折れることさえ許されず、焼かれても、焼かれても再刃されて、本当の自分がどんなだったかさえもう思い出せない。
 皆のように胸を張り、刀としての矜持を示せないのは、己の姿が昔と今とで大きく違ってしまっている所為だ。
 薬研藤四郎が桜色の髪に触れようとして、直前にへし切長谷部が腰を浮かせた。独白めいた呟きで場の空気に水を差し、続けてここへ戻ってくるという確約を口にした。
 淡々とした口調ながら、不機嫌さが垣間見えた。返事も待たずに歩き出して、敷居を跨ごうとして障子戸に左手を置いた。
「食糧庫の左奥の棚、三番目の扉のところに干し芋が入ってるよ」
「承知した」
 廊下に出る寸前、日頃から台所当番を買って出ている燭台切光忠が言った。仰け反るように振り返って、秘密の隠し場所をあっけらかんと白状した。
 干し芋は、子供たちにも人気の甘味だ。前に台所に吊るして保存していたら、こっそり忍び込んだ短刀たちに盗まれて、数日と経たず全滅したことまであった。
 以後、歌仙兼定によって別の場所に隠されるようになった。今のところ、燭台切光忠が告げた場所は、誰にも気付かれていなかった。
 そこに薬研藤四郎がいるというのも忘れ、カラカラ笑ってへし切長谷部を見送る。恐らく明日には忘れているだろうと肩を竦め、宗三左文字は耳の後ろに触れた指にピクリと身を震わせた。
「どんな風にして欲しい?」
 後ろから櫛も使わず手で梳いて、大人びた短刀が声を潜ませた。吐息を吹きかけるように囁いて、髪など生えていない首筋を撫でた。
 挑発的で、煽情的だった。
 口煩い小姑的な刀がいなくなったからと、調子に乗っている。ふた振りだけではないのに妖しげな雰囲気を醸し出され、宗三左文字は呆れて肩を竦めた。
「薬研の、お好きに」
 だが振り払うのもやぶさかではなく、相手に合わせて言葉を返した。垂れ気味の眼を斜め後ろに向けて、うなじをなぞる手に細い指を重ねた。
 もっとも、握り締めはしない。ほんの少し力を加えて、襟足を掬わせるように押し上げた。
 艶っぽいやり取りながら、釘を刺した形だ。
 指の行き先を指定された薬研藤四郎は面白くなさそうに嘆息し、諦めて髪結い作業に戻った。
「宗三は、髪の毛まで細っこいんだな」
 手櫛で集め、束を作りながら短刀が呟く。
 率直な感想に宗三左文字は首を傾げ、瞳に掛かりそうな前髪を抓み取った。
「そうですか?」
「ああ」
 骨と皮ばかりの体躯は否定せず、毛先を指に巻きつけながら半眼する。薬研藤四郎は即座に首肯して、同意を求めて太刀ふたりを見た。
 三本目の瓶子を空にし終えた鶴丸国永は、視線を受けて眉を顰めた。燭台切光忠は楽しそうに頬を緩め、何度も繰り返し頷いた。
「宗三君の髪は、綺麗だよねえ」
「あちこち跳ねて、面倒なだけですよ」
「いつも綺麗に結われているが、ありゃ、お前さんが自分でやってるのか?」
「あれは……いたっ」
「おっと。すまん」
 のんびりとした口調で隻眼の太刀が言い、褒められたのにムッとした打刀が言い返す。そこに鶴丸国永が疑問を投げかけ、答えようとした男が悲鳴を上げた。
 髪同士が絡まっているのに気付かず、薬研藤四郎が引っ張ったのだ。短刀は慌てて手を引っ込めて、折角集めた髪も放してしまった。
 桜色の毛先が一斉に広がって、一瞬で失速して沈んで行った。宗三左文字は痛む頭皮を撫でて慰め、拗ねた眼差しを後方に投げた。
「小夜の方が、まだ丁寧です」
「お?」
 油断していただけに、本気で痛かった。
 口を尖らせてとある短刀の名を口に出せば、それが意外だったのか、薬研藤四郎が目をぱちくりさせた。
 興味を示し、頬が紅潮した。鼻息を荒くして詳しく教えろ、と迫られて、宗三左文字は早速後悔に見舞われた。
「小夜の奴と、どうなんだ、最近」
 早口に質問出されて、面白くなかった。
 訊かれても、言えることはなにもない。そもそも会ってすらないと顔を背け、座ったまま身体を上下に揺らした。
「別に、どうもしません。あの子は、僕があまり好きでないようですし」
 彼の弟である小夜左文字が桜色の髪に触れたのは、一度きりだ。やはり物を食べる時の邪魔になるからと、後ろから梳き上げて支えてくれた。
 それだけで、それっきりだ。あの子が兄の部屋を訪ねて来る回数はさほど多く無く、向き合ってもなかなか喋ろうとしなかった。
 いつだって居心地悪そうで、目だって合わそうとしない。
 他の刀を相手にする時とは、露骨に態度が違っていた。彼にとっては兄よりも、昔馴染みと一緒に居る方がずっと気が楽なようだった。
「なんか結ぶ物、あるか」
「そこの箱に、まとめてあります」
 憤然としていたら、いきなり話題が変わった。懲りない薬研藤四郎に素っ気なく伝えて、指で部屋の片隅を指し示した。
 取りに行った短刀を視界の端で見やり、宗三左文字は濡れている赤色の酒杯へと手を伸ばした。指二本で縁を支え、残りの指を底に添えれば、燭台切光忠が素早く瓶子を傾けた。
「ありがとうございます」
 遠慮なく注がれることにして、先ほどまでとは違ってひと息で飲み干す。
 意外に男っぷりが良い姿勢に、鶴丸国永が不敵な笑みを浮かべた。
「成る程。お前さんは、ずっとそうやって来たってわけか」
「なにか御不満でも?」
「いいや?」
 左手は使わず、豪快な飲みっぷりだ。口元を拭うのも酒杯を持つ右手の甲で、上品さは欠片も残っていなかった。
 誰かが居なくなっただけで、随分な違いだ。
 面白い変化だと笑う太刀に、宗三左文字は疲れた顔で肩を叩いた。
「あまり引っ張ると、千切れてしまいます」
「気を付けるって」
 その上で舞い戻って来た薬研藤四郎に注文を付け、見せられた櫛を小突いた。
 髪を結うのを、まだ諦めていない。
 やめさせるのも面倒だからと観念して、宗三左文字は空いた杯を燭台切光忠に突き出した。
 問答無用で注がせて、合計三杯分、立て続けに喉へと流し込む。
 これまでの鈍さが嘘のような配分に、鶴丸国永はやれやれと肩を竦めた。
「小夜君は、良い子だよね~」
「……おいおい。今頃か」
 そうしているうちに燭台切光忠が、とうに終わった筈の話題を引っ張り出した。宗三左文字の眉は片方ピクリと持ち上がって、予想外だった白髪の太刀も頬を引き攣らせた。
 薬研藤四郎は髪結いに必死で、話に入ってこなかった。せっせと手を動かして、色鮮やかな髪を梳いていた。
「うん?」
 周りが呆れる中、隻眼の太刀はきょとんとしていた。完全に酔っているらしく、屈託なく笑う顔は締まりがなかった。
 およそ格好よさとは無縁の表情には、呆れるより他にない。
 無邪気な子供に逆戻りして、彼は嬉しそうに目尻を下げた。
「いつもお手伝いしてくれる、優しい子だよ」
「嫌味ですか」
「あはは~。そんなことないよ~」
 どこぞの次男とは、全然違う。そんな風にも受け取れる台詞を述べられて、宗三左文字はむすっと頬を膨らませた。
 言った本人に悪気がなかったとしても、そう聞こえたのだから仕方がない。
 彼は出陣や遠征以外では殆ど部屋から出ず、食事だって皆とは別に摂っていた。審神者から内番に命じられた時は嫌々ながら従うが、そうでなければ片付けさえ碌にしてこなかった。
 他の刀たちが一所懸命働いている中で、怠け者の謗りを受けているのは知っていた。審神者から特別扱いされていると僻まれ、敵視する刀があるのも分かっている。
 末弟の懸命の努力がなければ、次兄の立場はもっと悪くなっていた。
 働き者の彼がいるからこそ、宗三左文字はここで、こうしていられた。
「よし、出来た」
 彼に悪いと思いつつ、どうしても自ら動き出せない。目に見えない鎖で絡め取られているかのように、全身が重くてならなかった。
 この本丸で、自分はどのような姿が求められているのか。
 同じように善き兄とはどんなものかも、まるで見えてこなかった。
 手本なら、そこにいる。薬研藤四郎のような真似が出来れば、弟との関係もここまでこじれることはなかっただろう。
 しかしあまりにも本質から離れすぎていて、演じるのは難しかった。そうやって決めあぐねているうちに、時間ばかりがどんどん過ぎていった。
「ぶっは。なんだそりゃ、薬研」
 後ろで満足げな声が聞こえて、正面にいた鶴丸国永は噴き出した。失礼にも人を指差して笑う太刀にムッとして、宗三左文字は忘れかけていた自分の髪に手を伸ばした。
「そんなに笑うこたぁ、ねえだろ。自信作だぜ」
「……すみません、薬研。鏡を」
「おっと、いけねえ。ほらよ」
 尊大に言い放った短刀ではあるが、指に当たった感触からするに、綺麗に出来上がっているとは言い難い。
 凹凸の激しさに嫌な予感を覚え、彼は差し出された手鏡を受け取った。
 細長い持ち手部分を握り、良く磨かれた銀板に己の姿を映し出す。
「わー、宗三君、可愛いよ」
「だろ?」
 左前方では燭台切光忠がパチパチ拍手を送って、薬研藤四郎はどうだ、と両手を腰に当てた。
 けれど鶴丸国永はまだ笑っているし、宗三左文字も絶句して凍り付いていた。彼の髪は見事にぐちゃぐちゃで、編み込みの太さは一定でなく、あちこちから毛先がはみ出ていた。
 いつもは片側だけのものを、両側からやろうとしたらしい。残る髪は高い位置で結い上げて、編んだ髪で根本をぐるりと一周させたかったようだ。
 発想としては、悪くない。
 きちんと出来ていれば、さぞや可憐だろう。
 だが宗三左文字は、そもそも娘子ではない。不器用にも程がある出来栄えに、とても喜べなかった。
「薬研、貴方……」
 見た目に寄らず不器用なのか、それとも酒が入っている所為なのか。
 医療行為を得意とする短刀にがっくり肩を落とし、打刀は力なく首を振った。
 吃驚し過ぎて、酔いが醒めた。
 左手で顔を覆って項垂れて、宗三左文字は鏡を下ろした。
「よっし。んじゃあ、次は俺だな」
「ちょっと」
「いっちょ、驚きの一品を作り上げてやろうじゃないか」
「やめてください。僕の髪は、玩具じゃありません」
 腕まくりをしつつ、立ち上がったのは鶴丸国永だ。舌なめずりまでして、薬研藤四郎以上にやる気だった。
 慌てて止めに入るが、耳を貸してももらえない。必死に訴えて頭を守ろうとするが、頼りになる短刀は味方になってくれなかった。
「別嬪にしてやってくれよ」
 言って、薬研藤四郎が宗三左文字の肩を掴んだ。動けないよう固定して、語る内容は挑発的だった。
 背筋がぞわっとして、打刀は竦み上がった。脂汗を流して懸命に身を捩るが、短刀の割に存外力が強く、抗うが敵わなかった。
「放してください、薬研」
「怖がんなって、宗三。すぐ終わるからよ」
「そうだぜ。楽にして、俺たちに全部任せちまいな」
 にこやかに言われ、簪が引き抜かれた。結い上げていた髪がはらりと解けて、一直線に沈んで行った。
 やや癖を持つ毛先が空中で軽やかに踊り、桜の花弁のようにはらはら落ちていく。そのひと筋を受け止めて、鶴丸国永は意外な柔らかさに目を見開いた。
「やわらけえな、随分と」
「だろう? だから扱いやすいが、却って面倒臭い」
「あはは。それって、結局どっちなの?」
 指先で捏ねながらの感想に、薬研藤四郎が知った顔で正反対のことを並べ立てた。聞いていた燭台切光忠はケタケタ笑って、意味不明だと膝を叩いた。
 三人揃って、酔っ払いだ。始末が悪いのに掴まってしまって、宗三左文字は酒宴に出たのを軽く後悔した。
「いった。なんなですか、引っ張らないでください」
 どうすれば、この狂瀾から逃げ出せるだろう。
 物理的にも頭が痛くなって、瞳は開けっ放しの障子戸に向かった。
 色違いの双眸を眇めるが、残念ながら救いの手は現れない。そのうち燭台切光忠まで参戦し出して、座っている彼を囲んで三人がわいわいやり始めた。
「この簪は、鼈甲か。こいつは見事だ」
「欲しければ差し上げますよ」
「そりゃあ、いい。だが生憎と、俺より似合いそうな奴が他にいるからな」
「こっちの髪留めも、随分と手が込んでるじゃないか。螺鈿細工か? 良い仕事してやがる」
 人の化粧箱を漁って、男たちはわいわいと賑やかだ。
 目についたものから人の頭にぶすぶす挿して、先ほどから重くて仕方がない。自慢にするつもりはないが色美しい桜色の髪は、酔いどれの手によってすっかりぐちゃぐちゃだった。
 薬研藤四郎が毛先まで丁寧に梳いたのも、過去の話。好き放題触られて、弄られて、毛先は絡まり、団子状態だった。
 このままにして寝ようものなら、明日の朝は悲惨だ。いい加減にして欲しいのに言っても聞いてもらえなくて、一方的にやられ放題なのが気に食わなかった。
 気持ちよく酒を飲む気も起きなくて、膨れ面で口を尖らせる。
 その丸くなった頬に、黒いものが被せられた。優しく撫でてくる手は仄かに暖かく、太刀らしからぬ繊細さだった。
「折角綺麗な顔してるのに、そういうのは、似合わないな」
「失礼。口説く相手を間違えていますよ」
「こらあ! そこ、なにしてやがる!」
 燭台切光忠が顔を寄せながら囁き、宗三左文字が手を叩き落したと同時に薬研藤四郎が吠えた。酒臭い息を浴びせられた打刀は喧しさにも辟易して、再度、釣り灯篭が照らす廊下に目を向けた。
 中庭は暗闇に閉ざされ、灯明が照らす世界は朧げだ。夢かうつつか、境界線は曖昧で、晩秋の風は酷く冷たかった。
「……っ」
 酔いが切れてしまい、酒の効力ともいえる温かさまで失われた。寒気を覚えて身震いして、彼は大きく開いた衿を閉ざした。
 数珠ごと掻き毟るように握り締めて、露出していた肌を隠す。そこへどすん、と後ろから短刀に体当たりされて、よろめいた身体は前を塞ぐ太刀へと倒れ込んだ。
「おっと」
「てめえ、勝手に宗三に触るんじゃねえ」
 受け止めて、燭台切光忠が華奢な打刀を抱きしめる。それは不可抗力、というよりはほぼ薬研藤四郎が原因なのに、当の少年は激昂して目を吊り上げた。
 牙を剥き、太刀目掛けて人差し指を突き出した。刺さりそうになった男は仰け反って避けたが、分かってやっているのか、いないのか、宗三左文字を離そうとはしなかった。
 一緒に倒れそうになって、慌てて引き離そうとするが巧く行かない。背中から薬研藤四郎に押されているのもあって、挟まれた身では為す術もなかった。
 それどころか、だ。
「わっ」
「ああ!」
「うおっと」
 押しつ押されつだったのが崩れ、見事に三人重なって、畳の上へと転げ落ちた。燭台切光忠の肩に空の瓶子がぶつかって、跳ね飛ばされたそれは別の瓶子に衝突した。
 ゴン、ガン、ドン、と立て続けに物騒な音が轟き、室内が一瞬静まり返った。ふたり分の体重に押し潰された太刀はといえば、さすがに少々辛そうだった。
「う、う~ん……」
 頭も打ったのか、目を瞑って呻いている。逞しい胸板は上下に揺れ動き、安定しなくて落ち着かなかった。
「薬研、退いてください」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
「良いんですか? そのままだと」
 早く降りたいのに、背中に張り付いている短刀が邪魔で難しい。胸を締め付ける腕は細いくせに力強く、首を振る仕草は駄々っ子のそれだった。
 案の定拒まれて、宗三左文字は嘆息した。下では燭台切光忠が依然苦しそうにしており、更に忘れ去られているもうひとりが、驚きを演出すべく構えていた。
 きらん、と両手を掲げた鶴丸国永の目が輝く。
 こんな滑稽な展開に、あの男がどうして加わらないわけがあるだろう。嫌な予想に頬を引き攣らせて、打刀は擦り寄ってくる短刀の頭を押し返した。
「照れんなって、宗三」
「ぐ、ぐるじ、い……」
「そうらっ!」
「うぎゃ!」
 けれど、どうにもならなかった。
 にっちもさっちもいかない中で、鶴丸国永が満面の笑みで空中に跳び上がった。衣の袖を広げて鳥になって、親子亀状態の三人に向かって飛びかかった。
 ドスンッ、と今までにない大きな音が轟き、部屋全体が激しく揺れた。もれなく一番下にいた父亀、ならぬ燭台切光忠が潰れた蛙のような悲鳴を上げて、母亀ならぬ宗三左文字も、強烈な圧迫感に息を詰まらせた。
「どうだ、驚いただろう」
「あははははは!」
「ちょ、重い……」
「はっ、はやく、退いて……つ、ぶれ、痛い!」
 薬研藤四郎を抱きしめる格好で、鶴丸国永が両手両足をジタバタさせた。太刀を背中に乗せた子亀は、何が面白いのかけたたましい笑い声を響かせて、体重を支えるふた振りの訴えを軽く無視した。
 このままでは本当に、内臓が破裂してしまう。既に肋骨はミシミシ言っており、燭台切光忠などは白目を剥いていた。
 首がカクリ、と折れており、かなり危うい状態だ。
 悶絶している太刀の顔は至近距離にあって、見たくもないのに見えてしまう状況に、宗三左文字は泣きたくなった。
「い、いか、げっ、に」
「なにをやっているんだ、貴様らは」
 誰よりも細くて華奢な打刀の身では、脱出など不可能に近い。それでも歯を食いしばって目を吊り上げていたら、とうの昔に忘れ去られた存在が、茶瓶片手に首を捻った。
 縁側に佇み、へし切長谷部が眉を顰める。
 なにがどうなって、こうなったのか。想像に困る状態を前にして、眉間の皺は一層深くなっていた。
「た、す、け」
「よう、長谷部。お前も混ざるか?」
 渋面で見下ろされて、はっきり言って気分は良くない。けれどようやく訪れた好機に、宗三左文字は必死の思いで手を伸ばした。
 一方で鶴丸国永は呵々と笑い、天辺から黒田の打刀を手招いた。
 失神寸前の燭台切光忠といい、宗三左文字にへばりついている薬研藤四郎といい、さっぱり意味が分からない。
 だが放置すれば隻眼の太刀が手入れ部屋行き確定なのだけは、ぼんやりと理解出来た。
「馬鹿なことを」
 塔に加わるよう誘われたが、へし切長谷部は当然断った。それどころか鼻で笑って虚仮にして、湯呑みを載せた盆と共に敷居を跨いだ。
 鉄製の茶瓶からは、白い湯気が薄く伸びていた。注ぎ口からちゃぷちゃぷと水音が聞こえ、結構な量が入っているのが窺えた。
 ただ肝心の、干し芋が見当たらなかった。
 誘いに乗らない男の態度に、空気が白けた。鶴丸国永は面白くないと不貞腐れて、渋々薬研藤四郎の背中から降りた。
「はぁ……」
 これで少しは、楽になった。
 圧死の危険から解放され、安堵の息が漏れた。短刀は相変わらず張り付いていたが、横に転がれば立場は逆転した。
 燭台切光忠を解放してやり、寝転がったまま天井を仰ぐ。しかしぼんやりはしていられず、胸元に紛れ込んだ手を素早く叩き落した。
「おいたが過ぎますよ」
「ちぇ」
 どさくさに紛れて、衿から潜り込もうとする手があった。制された薬研藤四郎は膨れ面で口を尖らせ、へし切長谷部からも睨まれて、大の字になった。
 束縛を解かれ、宗三左文字は起き上がった。押し潰していた短刀から離れて、不快感がある頭を撫でた。
「なんだ、その髪は」
「僕がやったんじゃありません」
 無作法に挿しこまれた簪がずれて、落ちそうになっていた。それを戻すのではなく、引き抜いた彼に、へし切長谷部は呆れ顔だった。
 すかさず文句を言うが、現場に居なかった男にはきっと分かるまい。不満も露わに小鼻を膨らませて、彼はまだ残っている櫛や、簪に手を伸ばした。
 人の頭を剣山代わりにして、下手な華道を披露されたようなものだ。さっさと取り払うに越したことはなく、手つきは乱暴で、荒っぽかった。
「やめろ、宗三。余計に絡まるぞ」
 一緒になって髪も何本か引き千切れて、頭皮に痛みが走った。それでも構わず手櫛で梳こうとしたら、見かねた打刀が力技で止めに入った。
 春に咲く桜にも勝る髪色は、味気ない黒髪に比べてずっと美しい。
 それを無造作に扱われるのが我慢ならず、茶瓶を置いた上で細い手首を掴み取った。
 声を荒らげたへし切長谷部に、宗三左文字の拗ね顔は一段と酷くなった。
「あなたが、さっさと帰って来ないからです」
「俺の所為だと言うのか」
「ええ、そうですとも」
 ぶすっとしたまま言い放たれて、八つ当たりも良いところの台詞に騒然となる。言い返そうにも咄嗟に言葉が浮かんで来なくて、打刀は憤りに赤くなった。
 しかし彼の手は、両方とも荷物で埋まっていた。まさか熱々の茶が入った茶瓶で殴るわけにもいかなくて、彼は懸命に自身を宥め、平静を装って盆を床に置いた。
 上にあった湯呑みを端に寄せて、空いた場所に茶瓶を移す。畳に直接置いたままにすると、熱で焦げてしまいかねないので、そうならない為の処置だった。
「いった、たぁ。もう、みんな酷いんだから」
 遠くに跳ね飛ばされていた座布団を引き寄せ、腰を下ろせば、今頃になって燭台切光忠が起き上がった。まだ痛む胸を撫でながら二度、三度と咳き込んで、四つん這いで席へと戻って行った。
 三振り分の体重を一度に浴びておきながら、見たところどこにも異常はなさそうだ。流石は太刀とその頑強さに呆れつつ、へし切長谷部はふたつしか用意していない湯呑みに、均等に茶を注いだ。
 白い湯気の数を増やし、片方を自分の口元へと持って行く。もうひとつの湯呑みは、なにも言わずに宗三左文字の前へと置いた。
 その一瞬だけ、色違いの双眸がへし切長谷部に向けられた。しかし薄い唇はなにも語らず、表情は不満そうながらも、手は渡されたものへと伸びていた。
「熱いぞ」
「あれ、長谷部君。御芋は?」
「そうだ、光忠。貴様、俺を謀ったな」
 大人しく座布団に正座して、珍妙な頭をした打刀が湯呑みに息を吹きかけた。右手で胴を持ち、左手で底を支えて、仕草は上品で、淑やかだった。
 隣ではへし切長谷部がなにを思い出したのか、乱暴に自らの膝を打った。
 人数分の茶を用意しなかった男への不満は言わず、燭台切光忠が不思議そうに首を捻る。その太刀に激昂して青筋を立てて、麦の穂色の髪の打刀は湯呑みを握りしめた。
「貴様が言っていた場所に、芋などなかったぞ」
「えー?」
 語気を荒くし、喧しく吠えたてる。宗三左文字に八つ当たりされた分の苛立ちも込めて、元気を取り戻した酔っ払いに牙を剥いた。
 湯飲みの中では激しい波が起こり、一部が縁を飛び越えて男の手に降りかかった。しかし熱いのも構わず目を吊り上げて、へし切長谷部は説明するよう燭台切光忠に迫った。
「食糧庫の方だよ?」
「水場も、そっちも、全部調べたぞ」
「へえ。すごいね、長谷部君」
 本丸の台所は竈が合計五つもある規模だが、米やらなにやらまで、一緒に保存は出来ない。だからその隣に部屋を設け、野菜などをまとめて備蓄していた。
 彼らが呑んでいる酒も、そこにある。昼間から入り浸る輩が多すぎるからと、扉に鍵をつけるか否かの議論が、一部の刀の間で起きていた。
 兵糧の管理は、とても重要な任務だ。へし切長谷部も当然そこに名を連ねており、台所に立つ機会は少ないものの、物の配置は把握していた。
 燭台切光忠が教えてくれた棚に、目当てのものはなかった。他の扉も探してみたけれど、それらしきものは潜んでいなかった。
 誰かが食べ尽くしたのか、それとも嘘を吹きこまれたか。
 茶を沸かしに行っただけなのに、探索に時間を取られ、遅くなってしまった。真に咎められるべきはそこの伊達男だと腹を立てて、へし切長谷部は冷ましてもない煎茶をぐい、と呷った。
「あっち」
「馬鹿ですか、貴方は」
「うるさいぞ、宗三左文字」
 当然、舌が火傷する。
 右隣からの呆れ声に間髪入れず反発して、打刀は苦々しい想いを噛み砕き、少し冷めた茶と共に呑み込んだ。
 鶴丸国永や薬研藤四郎も席へと戻り、手酌で飲み直し始めた。燭台切光忠は疑問符を頭上に生やし、頻りに首を捻って口をヘの字に曲げた。
「おっかしいな~」
 酔っぱらっているとはいえ、毎日通っている台所の件で間違えるはずがない。他の台所当番の仕業だとしても、置き場を変更したら必ず教え合う約束だった。
 歌仙兼定や、堀川国広が、決まり事を破るとは考えにくい。
 となれば別の要因があるはずで、うんうん唸っていたら、静かに酒を嗜む太刀がふっ、と笑った。
「芋だったら、俺が昼のうちに別の場所に隠したぞ?」
 不遜に鼻を鳴らし、得意げに言い放つ。
「なっ――」
「どうだ。驚いたか?」
「そういうことは、先に言え!」
 もれなく絶句した太刀と打刀の前で、鶴丸国永はどうだ、とばかりに胸を張った。
 怒られても平然として、思った通りの反応だと、笑う声は姦しい。今は酒が入っているので尚更で、膝や床を叩く音も喧しかった。
 なんと傍迷惑な悪戯だろう。
 一度失敗して、痛い目に遭えば良い。心の中で呪詛を吐いて、へし切長谷部は湯呑みを置いた。
 半分ほど茶が残ったままなのを手放し、ゆっくりと立ち上がった。些か疲れた表情で、向かった先は化粧箱だった。
 周囲に散乱する簪や櫛を集め、必要ないものは抽斗へと片付けていく。選別作業には手慣れた雰囲気があり、迷いは一切見られなかった。
「まったく。どうやれば、こんな出来栄えになるんだ」
「僕がやったんじゃ、ありませんから」
 歯が細かい櫛と、そこそこ間隔が開いている櫛と。
 梳き櫛と梳かし櫛をひとつずつ残して後は全て仕舞って、彼はごく自然と宗三左文字の後ろで膝を折った。
 腰は沈めず、背筋は伸ばす。櫛は歯の数が少ない方を構え持って、まずは残っている無用な簪を外しにかかった。
「酷い有様だ」
「僕のせいじゃありません」
 細い髪は歪に曲がり、絡み合ってぐしゃぐしゃだった。編み込みも雑で、必要ない髪まで巻き込んでいた。
 それを慎重に解きながら、へし切長谷部が繰り返す。それに逐一反応して、宗三左文字は当たり前のように彼に頭髪を委ねた。
 両手で温かな湯呑みを抱き、他の三振りの時とは違って文句を言わない。嫌がる素振りもなく、完全に任せきっていた。
 薬研藤四郎が面白くなさそうにそれを眺め、酒を口に含ませた。瞳は据わり気味で、露骨に機嫌が悪かった。
 態度に出して隠しもせず、黒髪の短刀は瓶子を傾けた。溢れる寸前まで赤い杯を酒で満たし、苦々しいものと一緒に飲み干した。
「長谷部君って、器用なんだね」
「毎日やらされれば、慣れもする」
「僕は頼んでいません」
「あんな寝癖だらけの頭で、主の前に出るつもりか。貴様は」
 へし切長谷部は慣れた手つきで宗三左文字の髪を操り、毛先まで丁寧に梳いた。その甲斐甲斐しさに燭台切光忠は目を眇め、打刀同士の会話は軽妙だった。
 軽く手刀を叩きこみ、へし切長谷部が宗三左文字を黙らせる。
 首を前に倒した男はむすっとしながらかぶりを振り、気になる点を見つけて振り返った。
 髪を結う作業を邪魔されて、櫛を操っていた男が眉を顰める。
「なんだ」
「いえ。……あの、僕、あとは休むだけなんですけれど」
「あっ」
 低い声で訊ねれば、宗三左文字は申し訳なさそうに呟いた。遠慮がちの、伏し目がちで、表情からは困惑が読み取れた。
 右手は膝に残し、左手で口元を弄りながら、へし切長谷部を窺い見る。
 それで男も気が付いて、無意識の所作に青くなった。
 絡まっていた髪を解き、梳くだけで良かった。だというのに彼の手は、本人も意識しないままに、するすると動いていた。
 習慣づけられていた影響で、流れ作業でその先まで進めていた。必要ないのに片側だけ髪を編んで、高い位置で留め、毛先は無造作に散らしていた。
 外は真っ暗闇で、月が雲に隠れていた。虫の声が賑やかで、吹く風は冷たかった。
 こんな時間から、どこへ出かけろというのか。
 身支度を勝手に整えられてしまって、宗三左文字は困り顔で頬を掻いた。
「……すまん」
 へし切長谷部も、思わぬ失態に顔を赤くした。まさかの状況に恥じ入って、額を覆って肩を震わせた。
 笑っていいのか、嘆くべきか、もうよく分からない。
 素面な筈の男の失敗に、鶴丸国永は容赦なかった。
「すっかり宗三専属の床山だな」
「差し上げますよ」
「おい」
「いやあ、遠慮しておこう」
 腹を抱えてけらけら笑って、人を指差しながらからかう。すかさず宗三左文字が掌を差し出して、巻き込まれたへし切長谷部が声を高くした。
 わざとではないのに、面白がられた。
 自分でも何故こんなことになったのか、全くの謎だった。
 だが間違いなく、宗三左文字の寝起きの悪さが原因だ。そしてぼさぼさ頭を放置しておけなくて、不必要に世話を焼いてしまった己の性格も、大きな要因だった。
 掌中の櫛を放り投げようとして、直前で踏み止まって、唇を噛む。薬研藤四郎は黙々と酒を飲んでおり、燭台切光忠は相変わらずにこにこ笑っていた。
 いやなところを見られ、知られてしまった。
 彼らが朝を迎え、酔いが醒めた後、今宵の記憶を綺麗さっぱり失っているよう願うばかりだった。
「まったく」
「解くか?」
「いいえ。枕を使えば、なんとかなるでしょう」
 馬鹿らしいほど愚直で、生真面目で律儀だからこその失敗だ。呆れこそすれ、笑いはせず、宗三左文字は緩く波立つ髪を指に巻き付けた。
 申し訳なさそうにしている男には首を振って、湯呑みの冷めた茶を飲み干す。濡れてしまった縁を指で拭って盆へ戻せば、櫛を片付けた打刀が座布団へと舞い戻った。
「冷えて来ましたね」
「そろそろ終いにするか」
 へし切長谷部もまた湯呑みに手を伸ばし、残しておいた茶で口を漱いだ。仄かに朱を残す頬を親指で擦って、ぐだぐだになっている宴の終わりを切り出した。
 けれど、酔っ払いが聞き入れるわけがない。
「なに言ってやがる。夜はまだまだ、これからだろうが」
「そうだぜ、長谷部。景気よく行こうじゃないか」
「あはは~。それ、かんぱーい」
「貴様ら……」
 薬研藤四郎を皮切りに、三方向から一斉に声が飛んだ。秋の夜長とはよく言ったもので、下手をすれば彼らは、朝日が昇るまでここに陣取りかねなかった。
 明日も各々仕事があるのに、なんという体たらくだろう。
 さっさと閉会にしてしまうつもりでいたのに、粘られて、彼は痛む頭を抱え込んだ。
 そんな彼の為に茶を注いでやって、宗三左文字はクスリと笑った。
「そのうち、胃に穴が開きますよ」
「俺が倒れたら、貴様らの所為だと吹聴してやる」
「違いますよ。融通が利かない、貴方が悪いんでしょう」
「可愛げのない」
「貴方に言われたくありません」
 少し軽くなった茶瓶を揺らし、自分の湯呑みにも半分ほど注いで、言い返す。
 つんと鼻筋を反らして見栄を張った彼に半眼して、へし切長谷部は正座だった足を崩した。
 珍しく胡坐に作り替えて、凛と伸ばしていた背筋も緩く曲げた。猫背になって湯気立つ湯呑みの縁をなぞり、丹塗りの酒杯を掲げる男たちに肩を竦めた。
「なにが楽しいのやら」
「意地を張らずに、混じればいいではありませんか。向こうでは、呑んでいたのでしょう?」
「小夜にでも聞いたのか」
「いいえ。厚藤四郎が言っていたと、薬研から」
 元主が同じ、という一点だけで集った面々だが、勿論他の刀とだって交流があった。
 ここにいる五振りは、たまたま同じ主の元に場所に集っただけ。
 顔を合わせた事すらなかった者も中にはいるけれど、名前だけは聞き及んでいたりして、存在を知らないというわけではなかった。
 さまざまな主の手を渡り歩いて、数奇な縁で、彼らは今、ここに居た。
 黒田の屋敷でへし切長谷部と一緒だったという短刀は、そこにいる薬研藤四郎の弟だ。
 更には宗三左文字の弟である小夜左文字も、一時期ではあるが、黒田に身を寄せていた。
「あー、そうそう。そうだ。ねえ、小夜君てさ、前はどうだったの?」
「なんだ、急に」
 ぽつり、ぽつりと交わされるふたりの会話に、突然燭台切光忠が割り込んだ。酒杯を揺らしながら声を高く響かせて、藪から棒に、質問を投げかけた。
 前振りも何もなかった問いかけに、へし切長谷部が渋面を作った。湯呑みからひと口茶を飲んで、興味津々の隻眼を睨み返した。
 けれど伊達男は譲らず、屈託なく微笑んだ。左手でくるくる円を描きながら、随分前に終わった話を引っ張り出した。
「さっきもさ、ちょっと話してたんだよね」
 へし切長谷部が台所へ出て行った、その少し後のことだ。もうとっくに忘れ去られていた話題を呼び戻されて、同意を求められた宗三左文字は複雑な顔をした。
 燭台切光忠は小夜左文字をべた褒めして、高い評価を下していた。積極的に手伝いをすると、台所当番らしい視点で語ってくれた。
 けれど彼が知る短刀は、本丸での姿だけだ。
 細川にいた頃の話なら、歌仙兼定がたまに、本人がいない時に教えてくれた。けれどそれ以外での日々は、小夜左文字自ら口にしようとしなかった。
「知って、どうする」
 それが面白くないと拗ねる太刀に、打刀は少し嫌な顔をした。
 他人の過去を詮索するのは、あまり良い趣味とはいえない。当人が語りたがらないのは、知られたくないからだ。ならば黙って頷いて、好奇心に蓋をするのが筋というもの。
 だというのに、燭台切光忠は駄々を捏ねた。
 お手本過ぎる回答につまらない、と喚き散らし、鶴丸国永を味方に付けて強請った。
「お前らな」
「なんで駄目なわけ? さては長谷部君、小夜君と、も~しかし~て~」
「下種なことを言うな。そんな訳があるか」
 二対一だと、些か不利だ。前方左右から同時に迫られて、酒臭い息が不愉快だった。
 挙句に碌でもない邪推をされて、胸糞が悪い。きっぱり否定した直後に一瞬だけ右を窺って、彼は面白がっている太刀ふたりを押し返した。
 酔っ払いの顔面に遠慮なく拳を叩きこみ、肩で息を整える。
 茶瓶の中では激しい波が沸き起こり、蹴飛ばされた瓶子が部屋の端まで転がった。
 八の字になって倒れたふた振りの間からは、まるで桃から産まれたかのように、短刀が現れた。ずっとそこに座っていただけなのに、変な演出をされた薬研藤四郎もまた、荒い息を吐く打刀に不満げな眼を投げた。
「いいじゃねえか、聞かせてやれよ」
「あ?」
 頬杖をついたまま、顎をしゃくって呟く。
 なにかを指し示しながらの台詞にきょとんとなって、へし切長谷部は三秒後に我に返った。
 短刀の視線の先で、薄紅の桜が咲いていた。行儀よく畏まって、但し表情は僅かに戸惑い気味だった。
 寄せられた双眸が、へし切長谷部を映した。左右で異なる瞳に囚われて、打刀はしどろもどろに首を振った。
 小夜左文字は宗三左文字の弟であるが、双方に面識はなかった。
 存在だけなら聞かされていたが、本丸に至るまで、接点は殆どなかった。突然審神者から弟だ、と紹介されても困るだけで、どう扱えばいいか、誰も教えてくれなかった。
 愛おしくは、思っている。だがそれを態度で表せない。長く権力者の手元に居過ぎた所為で、相手に媚を売る真似ばかりが巧くなっていた。
 袈裟を握る手に、無意識に力が籠った。
 唇を引き結んだ男を目の当たりにして、へし切長谷部は力なく肩を落とした。
 片手で頭を支え、無粋な好奇心は手で追い払う。
 わくわくしている鶴丸国永や、燭台切光忠に座布団へ戻るよう促して、彼は短く溜息を吐いた。
「聞いて面白い話など、なにもないぞ」
 そもそも小夜左文字が黒田に居た期間は、それほど長くない。細川では三代に渡って世話になっていたのだから、そちらに比べれば一瞬に近い時だっただろう。
 だからこそ彼は、黒田に馴染めずにいた。
 いつだって高い空を見上げて、ひとりぼっちで佇んでいた。
「手のかかる刀を残してきたのが気がかりだと、いつも言っていたな。そういえば」
 湯呑みを取り、啜る直前に思い出して呟く。
 なんのことか当時は分からなかったが、今思えば、その刀とは燭台切光忠と共に台所を取り仕切る、あの藤色の髪の男だろう。
 へし切長谷部が本丸に来た当初から、あのふた振りは常に一緒だった。
 ずっと寂しそうにしていた。
 帰りたがっているように見えた。
 遠い昔の彼の願いが、長い時を経て叶ったのであれば、それはきっと、祝うべき事柄だろう。
「料理するのが好きだと言っていたから、一緒に作りもしたが」
「――っ」
 喉を潤し、話の流れで思い出したことをぽつり、呟く。
 隣でピクリと反応されて、彼は不思議そうに首を傾げた。
「なんだ」
「いえ。……貴方、料理なんて出来たんですね」
「悪いか」
「えー。長谷部君、作れるんだったらたまには台所手伝ってよー。僕たち、三人で回してるから、もうすっごく忙しいんだから!」
 失礼な想像をされていると予想して、声を潜ませる。一方で燭台切光忠は悲痛な叫びをあげて、初耳の情報に勢いよく噛みついた。
 本丸では、現身を得た刀は一日三食、食事を摂る。作るのも刀たちの仕事で、得意としている者が担っていた。
 ただ最初のうちはよかったけれど、大太刀や槍、薙刀などが本陣に加わるうちに、三人だけでは手が足りなくなっていた。かと言って不慣れな者に包丁を握らせることも出来ず、八方塞り状態だった。
 もしそこにへし切長谷部が加われば、これほど心強いものはない。
 負担が一気に減ると息巻く太刀に、けれど打刀はつれなかった。
「歌仙兼定が許すと思うか」
「……駄目?」
「お断りだ」
 湯呑みを揺らしながら、取り付く島を与えない。にべもなく言いきって、懇願に耳を塞いだ。
 彼と歌仙兼定は、前の主同士の関係がそのまま引き継がれていた。
 つまり、とても仲が悪い。顔を合わせてもひと言も口を利かず、共に戦場に立とうものなら、敵ではなく味方を斬り伏せようとした。
 そんなふたりの険悪さは、本丸でも有名だ。たとえ土下座されようとも嫌だと言い張って、へし切長谷部は鼻息を荒くした。
 主命第一の男であるが、こういうところだけは、変に子供っぽい。
 意地を張っているとしか言いようがない態度にしょんぼりして、燭台切光忠は落ち込んで丸くなった。
 その背中を鶴丸国永がバシバシ叩いて、本人なりに慰めようとする。薬研藤四郎も頑張れ、と声を掛けるだけで、腫れものに触れない対応らしかった。
 笑い上戸だった男が、今度は本気で泣きそうになっている。
 酒の力というものはかくも凄まじく、日頃の伊達男っぷりはすっかり鳴りを潜めていた。
「へし切」
 今度は燭台切光忠を囲んで、賑やかなやり取りが繰り広げられた。
 それには混じらず、少し離れたところから眺めていたら、横からふっと吐息のような声が流れて来た。
「長谷部だ。なんだ、宗三」
「冷えてきました」
 見れば湯呑みを両手に抱いて、宗三左文字が小声で言った。彼にだけ聞こえる音量で囁いて、酔いを残す眼差しで傍らを覗き込んだ。
 淡い色合いの双眸が、熱を帯びて潤んでいた。艶を増した輝きは妖しげで、行燈の光も相俟って蠱惑的だった。
 人心を惑わす妖魔の類を思わせた。
 着物からちらりと覗く白い腿は煽情的で、絡みつく数珠の黒が背徳感を増幅させた。
 寒いというのにはみ出る脚を隠しもせず、逆に裾を捲って露わにする。
 言動不一致の打刀から慌てて目を逸らして、へし切長谷部は茶瓶へと手を伸ばした。
 腰を浮かせて持ち上げて、残り全てを湯呑みに注ぐ。
 最早湯気さえ立たない煎茶を零しそうになり、彼はぐっ、と腹に力を込めた。
「な、ならば。もう休め。宴は終わりだ」
「こら、そこ。勝手に決めるな」
「そうだぜ、旦那。無礼講といこうじゃねーか」
「だ、そうです」
 今宵の酒宴の主催者は薬研藤四郎だが、主賓は宗三左文字のようなものだ。なにせ会場であるこの部屋は、彼の私室でもある。
 彼が眠りたいと言うのなら、残る四振りは大人しく引き下がるのが筋だ。
 だというのにまたしても抗議の声が飛んで、宗三左文字もそこに乗りかかった。三振りを味方に付けてクスクス笑って、魔王の愛刀は楽しそうに口元を覆った。
 眇められた眼が、へし切長谷部を捕えて離さない。
 罠にはまった獣の心境でぞわっと来て、男は意味深な眼差しに背筋を粟立てた。
「宗三」
「温かいものが、食べたいです。飲み物ばかりで、小腹が空きました」
「だったら、そこの光忠に作らせればいいだろう」
「えー? 僕、無理ぃ~~」
 嫌な予感に声を荒らげるが、この刀には通じなかった。凄んだところで受け流されて、逃げ道を探すが拒否された。
 床に寝転がって、燭台切光忠は完全に拗ねていた。ぶすっと頬を膨らませて、顔の前で両手を交差させた。
 もとより酔っ払いに、包丁など握らせられない。下手を打って指の一本でも斬り落とされようものなら、審神者からの大目玉は必至だ。
 へし切長谷部がついていながら、何をやっているのか。
 言われるだろう台詞が楽に思い浮かんで、彼は喉の奥で呻き声を上げた。
「ぐ、ぬ」
 主に見放されることほど、心が千切れそうになることはない。審神者を落胆させる真似はしたくなくて、答えは既に決まっていた。
「ええい。何が出て来ても、文句は言うなよ」
「任せろ。驚きの逸品を頼むぞ」
「宗三、貴様も来い。たまには手伝え」
「はい? どうして僕が」
 半ばやけっぱちになり、勇ましく吠える。威勢よく立ち上がって右方向に手を伸ばして、抗議の声は全て叩き落した。
 食べたい、と言いだしたのは彼だ。
 ならば言葉に責任を持ち、少しは役立ってもらわないと理屈に合わない。
「僕の包丁、水場の隣の棚に入ってるよ」
「知っている。食材、いくつかもらうぞ」
「どうぞどうぞ~」
 問答無用で宗三左文字を立たせた彼に、燭台切光忠が手を振った。
 普段から台所を使っている面々は、専用の包丁を何本か用意していた。それを使って構わないと告げて、彼は床の上で万歳した。
 なにが出てくるか、今から楽しみでならない様子だ。鶴丸国永も、薬研藤四郎も、意外な特技を持っていた打刀に興味津々だった。
「長谷部」
「それで、なにが食いたいんだ」
「え?」
 力技で廊下へと引っ張り出され、宗三左文字はつんのめって転びそうになった。板葺の縁側でたたらを踏んで、手首を掴んだままの男に目を丸くした。
 歩く速度が、ほんの僅かに落ちた。覚束ない足取りを配慮されて、彼は下を見て、前に向き直り、またすぐに俯いた。
 手はまだ離されない。逃げるとでも思っているのか、力が緩む気配もなかった。
 他者の熱が、夜風を薙ぎ払って触れた肌から伝わって来た。
 後ろを見れば、宗三左文字の部屋だけが明るい。檜造りの渡り廊には、釣り灯篭は用意されていなかった。
 へし切長谷部は振り返らない。
 前だけを見て進む男を追いかけながら、彼は唇を浅く噛み、二度、三度と息を吐いた。
「では、小夜に。小夜に、作ってあげたものと、同じものを」
 意を決して、言葉を紡ぐ。
 月は冴え冴えと輝き、空気は凛と冷えて、澄んでいた。
 濃い影より出た男の耳の赤さは、寒さの所為ではない。
「馬鹿が」
 承諾でも、拒否でもないぶっきらぼうな返答に首を竦めて、宗三左文字は緩んだ男の手を握り返した。
 

2015/10/16 脱稿

わが恋は知らぬ山路にあらなくに まどふ心ぞわびしかりける
紀貫之 古今和歌集 恋二 597