細雨

「失礼しまーす」
 敷居を跨いで反転し、遠慮がちに呟く。
 同時に頭を下げて一礼をして、沢田綱吉は素早く扉を閉めた。銀色のレールに板戸を滑らせて、完全に閉まり切るのを待ってから、左足を後ろへずらした。
 前傾姿勢だった背筋を伸ばし、緊張気味に息を吐く。
 そのまま二秒待っても呼び声は聞こえて来ず、職員室は静かだった。提出物に問題がなかったと判断して、彼はようやく頬を緩めた。
「あ~~~……」
 安堵に思わず声が漏れ、心臓は爆音を奏でた。脂汗が首の裏側を伝って、身体中が熱くて堪らなかった。
 これでやっと、解放された。
 ホッとし過ぎて、その場に座り込みたくなった。膝から力が抜けていくのが分かって、綱吉は慌てて首を振った。
「やばい、やばい」
 職員室前でへたり込むのは、あまりにも格好悪い。
 放課後もかなり遅い時間とあって、クラスメイトに見られる危険は極端に低い。とはいえ、油断ならなかった。
 部活動はもう終わったのか、勇ましい声は聞こえてこない。何気なく目を向けた窓の外はもう真っ暗で、体育館らしき建物の灯りが、かなり遠くで光っていた。
 こんなに暗くては、グラウンドを使用する運動部は大変だ。視界が極端に悪い中、互いの位置が見えずに衝突する危険が非常に高かった。
 だから、早めに切り上げたに違いない。
 野球部に所属している親友の顔を思い浮かべ、綱吉はまだバクバク五月蠅い心臓を宥めた。
 制服の皺を撫でて伸ばし、変な風に折れ曲がっていたネクタイを整える。すっかり着慣れた感があるブレザーに顔を綻ばせ、汚れが目立つ上履きで廊下を叩いた。
「よし」
 これであとは、家に帰るだけ。
 晴れて自由だと顔を綻ばせ、並盛中学校の劣等生は教室へ急いだ。
 今回の居残りは、先日の小テストの結果が、あろうことか零点だったのが原因だ。
 寒くなって来たのもあって遅刻回数が増えた上、勉強もまるで駄目。このままでは宜しくない、と担任は思ったらしく、今日中に反省文を提出するよう、雷を落とした。
 期末試験も近いというのに、この調子でどうする。
 懇々と説教された挙句、四百文字詰め原稿用紙五枚以上、というノルマが課せられた。これを提出しない限り、帰宅は認めないと、横暴極まりなかった。
 文才に優れた人間ならば、そう苦も無く終わる作業だ。しかし作文を書けば小学生以下、とまで言われている綱吉だ。うんうん唸って、頭を捻らせても、一枚書き上げるのがやっとだった。
 それがつい先ほど、ようやく五枚分、埋めきった。達成感は半端なく、心は躍り、歌いたい衝動に駆られた。
 万歳したい気持ちを堪え、下手なスキップを刻みながら階段を駆け上る。苦労させられた分心は軽やかで、今なら空だって飛べそうだった。
 もっとも、実際にそんなことは叶わない。
「うわっ」
 調子に乗っていたら段差をずるっ、と滑りかけて、大慌てで手摺りにしがみついた。
 踵を踏み潰し、スリッパ状にしているわけでもないのに、これだ。
 運動神経のなさをつくづく思い知らされて、綱吉は冷たい手摺りに寄り掛かった。
「あっぶな~」
 安堵の息を吐き、職員室に入る時より五月蠅い心臓に唾を飲んだ。乾いている唇を舐めて肩の力を抜き、奥行き三十センチほどの段差に足を揃えた。
 冷や汗が出て、また体温が上がった。ほんのり湿った額を拭って、残る階段は慎重に進んだ。
 それでも教室のある階が近付くに連れ、心が逸った。唯一明かりが灯っている部屋に駆け込んで、出しっ放しだったシャープペンシルを筆箱に放り込んだ。
 鞄のファスナーを開け、筆記用具を入れる代わりに、防寒具を取り出す。
「よし」
 奈々が子供たちのついでに、と編んでくれたマフラーは、市販されているものより幅があり、しかも長い。二重に巻きつけても充分余裕があり、毛糸なので温かかった。
 喉元に余裕が出来るよう形を作って、続けて矢張り手編みの手袋を装着する。こちらはミトン型で、親指以外の四本はひとまとめにされていた。
 フゥ太やランボたちとお揃いなのだが、学校に着けていく分には問題ない。一緒に公園へ遊びに行く時だけ注意すれば、仲良しとからかわれることもなかった。
 帰り支度を済ませ、綱吉は気合いを入れた。無事家に帰り付くまでが学校だ、と普段は考えないことに顔を綻ばせ、すっかり暗くなった空を一度だけ見た。
 窓の向こう側は、まるで墨で塗り潰したかのような色合いだった。
 光を反射し、己の姿がガラス板にぼんやり浮かび上がっている。じっと見つめていると吸い込まれそうで、慌てて視線を逸らし、廊下に向き直った。
「帰ろう」
 声に出して呟いて、廊下に出る直前に教室の電気を消した。立てつけの悪いドアを閉めて、ひゅうう、と響いた不気味な音に背筋を粟立てた。
 どこかの窓が開いているのか、空気が冷たい。
 内股になって身震いして、綱吉は人気の乏しい廊下にゴクリと唾を飲んだ。
「こ、怖くなんか、ない、ぞー」
 一瞬嫌な想像をしたが、持ち前の忘れっぽさで即座に頭から追い出した。震える声で自らを鼓舞し、今来たばかりの道を逆に突き進んだ。
 そもそも、現在時刻は午後五時台だ。間違っても深夜でなければ、丑三つ時でもない。一階の職員室には教師がいるし、体育館や特別教室にだって、部活動中の生徒が大勢居残っている。
 綱吉ひとりが、学校に取り残されているわけではない。だから恐怖を覚える必要はないし、怯える理由もなかった。
 窓を叩く風の音や、意外に反響する自分の足音。
 そういうものにも極力意識が向かわないようにして、滑り落ちそうになるのを堪え、地上階へと舞い戻る。
「……はっ、あ、あー」
 ホラーゲームのやり過ぎだ。
 物陰から何か出て来そうだとか、角を曲がった瞬間なにかに飛びかかられるのでは、なんて。
 想像力だけは逞しいと苦笑して、綱吉は弾む息を整え、癖だらけの頭を掻き回した。
 ようやくたどり着いた正面玄関はひっそり静まり返り、人影は皆無だった。
 但し遠くからは、コピー機らしきものの動く音がした。職員室が近いので、教室がある階よりも全体的にざわざわしていた。
 動くものがなくても、人の気配があるだけ良い。難敵だった学校というダンジョンを抜け出せるのも嬉しくて、綱吉は下駄箱を開け、薄汚れた靴を取り出した。
「……あれ?」
 玄関と外を隔てる扉はガラス張りで、今は閉じられていた。
 鍵は掛かっておらず、押せば簡単に開く。それが分かっていながら触れるのを躊躇して、彼は半眼し、眉を顰めた。
 手前が明るく、奥が暗い所為で非常に分かり辛いけれど、何かが見えた。
 非常に細かく、動きは素早く、靄のようであり、目の錯覚かと疑いたくなるが。
 背伸びをしたり、軽く屈んでみたりと何度も確認して、最後にドアを押し開ける。
 もれなくサアァ、と小川のせせらぎに似た音が聞こえて来て、綱吉はがっくり肩を落とした。
 どうりで、運動部が早めに練習を切り上げたわけだ。
 空が墨汁をひっくり返した色をしているのも、これで納得がいった。
「嘘だろ。降ってるよ」
 口にした途端、実感が押し寄せて来た。有り得ないと愕然として、彼は力なく首を振った。
 雨が降っていた。
 しかもこれは、俗に霧雨と呼ばれる類のものだった。
「つめたっ」
 雨粒が細かく、風に流されてすぐ方向を変えた。玄関前の庇の下も安全圏ではなくて、綱吉は悲鳴を上げ、慌ててガラス戸の奥へと逃げた。
 朝、奈々は何も言っていなかった。降水確率が高めなら、確実に忠告してくれる母なのに、今日に限って天気の話は一切しなかった。
 急な通り雨だろうか。だとしたら、待っていればいつか止むのか。
 ブレザーの袖に付着した水滴を払い除け、渋面を作る。
 だが唸ったところで、答えなど出るわけがなかった。
「置き傘、あったかな」
 降雨の勢い自体はさほど強くないので、頑張れば傘を使わなくても走って帰れるだろう。だが濡れるのは避けられないし、身体が冷えればその分風邪を引く確率が上がった。
 なにより、毛糸の手袋とマフラーが可哀想だった。
 制服や鞄が濡れるのは諦めがつくけれど、母が丹精込めて編んでくれたものは駄目にしたくない。この歳で手作り品、と最初は思ったが、使い易さは群を抜いており、愛着があった。
「こっちには、ない、か」
 下駄箱横の傘立てを探してみるが、『沢田』の名前があるものは見つからなかった。友人らの分を探してみるけれど、獄寺や山本の傘も入っていなかった。
 京子の分ならあったが、女子のものを勝手に拝借するのは心苦しい。それに盗んだ、という濡れ衣を着せられるのも嫌なので、大人しく諦めた。
「と、なると」
 後は教室のロッカーに、折り畳み傘が入っているのを期待するしかない。
 前に使ったのはいつだったか考えて、綱吉は目玉を真ん中に寄せた。
 ともかく、行ってみるしかない。教室に逆戻りだと踵を返して、彼は閉じたばかりの下駄箱を開けた。
 そして。
「おっ」
 使い込んで草臥れている上履きの横に、意外なものを発見して瞳を輝かせた。
 暗い内部に目を凝らし、仄かに漂う酸っぱい臭いも気に掛けない。
 興奮に鼻息を荒くして、綱吉は履き古した靴ではなく、その隣に埋もれていたものに手を伸ばした。
 掴み、取り出す。
 明るい照明の下に引きずり出されたもの、それは小さめの折り畳み傘に他ならなかった。
「そういや、こっちにも置いてあったんだ」
 いつ入れたかは忘れたが、教室まで取りに戻る手間を惜しんだ過去の自分が、家に余っていた分を押し込んだのだ。しかし使う機会がないまま時間だけが過ぎて、存在自体を忘れていた。
 数か月前の自分の判断を褒め称え、降って沸いた幸運にガッツポーズを作る。もとはと言えば居残りを命じられる成績を取るのが悪いのだが、それは考えないことにした。
 奈々が昔使っていたものらしく、サイズはかなり小振りながら、傘としての機能は申し分ない。綱吉の体格では肩がちょっとはみ出てしまうけれど、全身が濡れるよりはずっとマシだった。
 図柄は、可愛らしい花柄だ。もっともこれも、暗い夜道なのでさほど目立たない。
「ついてる、ついてる」
 ひとり居残りを命じられた時はどん底だった運が、ここに来て上昇気流を捕まえた。嬉しさに破顔一笑して、綱吉はいそいそと傘カバーのスナップを外した。
「そこで、なにしてるの」
「――!」
 下手な口笛を吹き、手元ばかりに集中していた。
 背後から突然話しかけられて、驚き過ぎて心臓が飛び出そうだった。
 ビクウッ、と過剰反応してしまった。大仰に竦み上がって四肢を震わせて、彼は噴き出た汗に全身を湿らせた。
 その声には、聞き覚えがあった。
 恐らく全校生徒で知らない者はいないのではないか、と言われるくらいの、有名人のものだった。
 聞こえないフリを装うかと思ったが、それはそれで後の展開が恐ろしい。選択肢はひとつしか有り得ず、妥協の余地はなかった。
「あ……の。えっと」
 首を引っ込め、亀を真似て背中を丸めた。傘と鞄を手に恐々振り返って、綱吉は昇降口手前に佇む青年を上目遣いに窺い見た。
 ベージュ色の上着を着用する一般生徒と異なり、その人物は黒色の学生服姿だった。白のワイシャツを下に着込んで、袖には臙脂色の腕章が輝いていた。
 鋭い眼光は、獲物を求める肉食獣のそれだ。両手は今でこそ空だけれど、隙あらば瞬時に仕込みトンファーを構え、標的を打ちのめした。
 並盛中学校風紀委員会、委員長。
 但し彼が持つ特権は、その肩書きを大幅に上回っていた。
 傍若無人、慇懃無礼。
 横暴にして凶悪、不遜にして傲慢。
 そんな相手に遭遇してしまって、綱吉の震えは止まらなかった。
 圧倒的強さを誇り、数多の風紀委員を配下に従えながらも一匹狼を気取る男。常に戦う相手を探し求める、人の皮を被った血に飢えた獣。
「ひ、ひば、り……さん」
「ああ、なんだ。君か」
 何人たりとも彼を縛れず、彼に命じることは出来ない。まさに自由気ままな雲を体現する人物は、ビクビクしている小動物を認め、緩慢に頷いた。
 後ろ姿で気付いていても良いはずなのに、実にわざとらしい。
 そんなに人を驚かせて楽しいかと、内心反発するものの、言葉にするのは難しかった。
「もう下校時間だよ」
「わっ、分かってます。だからこうして、帰ろうと」
 続けて言われて、綱吉は腕を伸ばした。半分ほどカバーが剥かれた折り畳み傘を見せるが、外向きに布が広がっているのもあり、形状はまるでバナナだった。
 長い間使っていなかったので、固かったのだ。悪戦苦闘している時に話しかけられたものだから、何もかも中途半端だった。
 自分が悪いのではない。
 恥ずかしさを堪えて奥歯を噛み締めていたら、思いがけない勢いに呆然としていた雲雀がふっ、と息を吐いた。
 口元を緩め、目を眇める。
「うっ」
 普段はむすっとして無愛想な癖に、時折こうやって力みのない表情を作る。
 それが思いの外優しげに見えるものだから、落差の大きさに戸惑わされて、綱吉は苦手だった。
 芯が強く、まっすぐで、揺らがず、靡かず、退かない。
 こうと決めたら突き進み、どんな障害だってものともしない彼が、周囲に流されがちの綱吉には眩しかった。
「な、なんです、か」
「別に?」
 不敵な表情を見せられて、怯み、警戒した。
 尻込みしながら声を上擦らせれば、雲雀は首をちょっとだけ右に傾がせ、簀子が並ぶ昇降口へと移動した。
 カンカンと音を響かせ、職員用に用意されている下駄箱に手を伸ばす。
 それでハッとして、綱吉は急ぎ傘カバーを外した。
 要らなくなった布は丸めてポケットに詰め、手早く靴を履き替えた青年を追いかける。
「ヒバリさん、待って。雨、降ってます」
 閉まっていたドアを押した彼に叫び、綱吉は脆弱な骨組みの傘を開いた。
 三つに折り畳まれていたそれを広げつつ、庇の下に出た。だが一歩遅く、雲雀は霧雨が冷たい屋外に足を伸ばした後だった。
「ヒバリさん」
 濡れて冷たいだろうに、意に介さない。見るからに寒そうな格好をしておきながら、少しも怯まない。
 かといって放ってもおけなくて、綱吉は鞄を肩に担ぎ直し、奈々の傘を差して走った。
 地面は湿っているものの、水溜りはそう大きくなかった。細かな霧雨は光を反射して、街灯の周囲はぼんやり輝いていた。
 これが冬の入りの季節でなければ、綺麗だと眺めていられるものを。
 勿体ないと悪態をついて、綱吉は校門を潜った男に駆け寄った。
 雲雀は風紀委員長として、学内に留まらず、この地区一帯の警備も担当していた。
 風紀を乱す者が居ればこれを駆逐し、決して逃さない。相手が大人であろうと、女子供であろうと容赦なく、その悪名は別の町にまで轟いていた。
 今日もこれから、町内を巡回するのだろう――雨の中、傘もささずに。
「寒いですよ、ヒバリさん。傘、使ってください」
 黙々と進む男に呼びかけ、右手を振り回した。握った傘で霧雨を掻き回し、濡れたアスファルトを蹴飛ばした。
 だが聞こえているだろうに、雲雀は振り返らない。綱吉の善意を無視して、一切構おうとしなかった。
 お陰で傘を差している方も、細かな雨に当てられて濡れていた。手編みのマフラーも、手袋も、表面の細かな毛に水滴が張りついていた。
 特に手袋の方は、内側まで水が染み込んでくる。
 これでは防寒具として失格で、襲ってきた寒気にくしゃみが出た。
「へぶっ、しゅ」
 可愛くなければ、男らしくもない不細工なくしゃみに足が止まり、鼻水まで出た。鼻の頭を赤く染めてずずず、と息を吸えば、一連の行動に呆れたのか、雲雀が立ち止まって肩を竦めた。
 街灯の光は細く、あまり明るくない。どことなく困った風に見えたのは錯覚か、綱吉は瞬きを繰り返した。
「ヒバリさん」
「これくらい、なんでもないよ」
 ふたりの距離は、三メートル程。しかし暗闇と、濡れた路面に反射する光が混ざり合い、感覚は頼りにならなかった。
 近いようで遠い男に首を振られ、綱吉は惚けて半開きだった口を閉じた。唇を引き結び、傘を傾け、霧雨を齎す雨雲を仰いだ。
「冷たいですよ」
 ずぶ濡れとまではいかないけれど、彼の上着は湿り始めていた。シャツの下にちゃんと着込んでいるのか、心配でたまらなかった。
 いくら圧倒的な強さを誇る雲雀でも、一応は人の子だ。体調を崩す日があれば、熱を出して寝込むことだってあるに違いなかった。
 傘を差しながらでは、急襲に対応出来ないというのは、分かる。綱吉だって邪魔に思うことが多く、雨など降らなければいい、と恨めし気に天を睨む日は多かった。
 ただこの冷たい雨に濡れ、体調不良を起こし、高熱でふらふらになっている時に襲われる方が、余程危険だ。
 そういう考え方は出来ないのかと睨みつければ、反応が意外だったらしく、雲雀は驚いた顔をした。
 一寸だけ目を大きく見開いて、すぐに戻して、右手を腰に添えた。胸を張って居丈高に構えて、前髪にぶら下がる雨雫を左手で払いのけた。
「だったら、君のそれ。貸してくれるの?」
「え?」
 鷹揚に言い放ち、綱吉が握りしめているものを指差す。
 言われた方はぽかんとなって、三秒遅れで背筋を粟立てた。
「えっ、あ。でも、これは」
 何のことか一瞬分からなくて、自分の手を見てから持っているものを思い出した。当たり前だが傘はこれ一本しかなく、近くにコンビニエンスストアはなかった。
 教室に行けばもう一本、置き傘がある気がした。だが校門は遥か後方に遠ざかっており、走って取りに行っている間に、雲雀が立ち去ってしまうのは明白だった。
 そうなると今ある分を彼に押し付け、綱吉ひとりが取りに戻る選択肢しかない。そして泣く子も黙る鬼の風紀委員は、女性向けの可愛らしい花柄を、頭上に掲げることとなる。
「これは、ちょっと……」
 どう考えても、似合わない。
 いくら雨の夜とはいえ街灯は明るいし、住宅地を出て駅前に出れば周囲はもっと明るくなる。色合いは大人しめであるけれど、持つ人次第で自己主張は激しいものとなるだろう。
 悪目立ちして、雲雀が笑い者になるのは嫌だった。そういう意味合いで尻込みしていたら、向こうは別の理由と解釈したらしく、ふっ、と息を吐いて口角を持ち上げた。
「出来ないことを、言わないことだね」
「あ、ま……待っ」
 自分が濡れたくないから傘を譲らないと、そちらの意味に受け取られた。誤解だと否定しようとしたが、喉に息が詰まり、上手く音に出来なかった。
 待って、と言いたいのに伝わらない。
 気持ちだけが先走って、胸の中でもやもやしたものが大きく膨らんだ。
「ヒバリさん」
 雲雀は身体を捻った。先に上半身を、僅かに遅れて下半身を反転させて、肩に羽織った学生服が軽やかにダンスを踊った。
 緋色の腕章が街灯を反射し、鈍く輝いた。風、の字だけが琥珀の瞳に焼き付いて、綱吉は発作的に駆け出した。
 長くも短い距離を一気に詰めて、後先考えず、手にした傘を突き出した。
「ぐっ」
 サクッ、と六本しかない骨の一本が何かに当たって滑ったが、目を瞑っていた綱吉は見ていなかった。短い悲鳴らしきものも聞こえたけれど、霧雨降る音と混じり、何の音かは分からなかった。
 首を竦めて猫背になって、雲雀は耳の後ろを押さえて振り返った。頭に降りかかっていた雨雫は数を減らして、代わりに大きめの粒が肘を叩いた。
 一瞬だけ上を見れば、空が隠れていた。
 銀色の細い骨組みが六方向に広がって、中心から伸びる芯棒は七十五度に傾いていた。
「刺さったんだけど……」
 出かかった文句は、音になる寸前で呑み込んだ。
 視界に飛び込んで来たのは腕を限界まで伸ばし、更に背伸びをして踏ん張る少年だった。
 身長百六十センチに満たない身体を使って、女性向けひとり用の折り畳み傘を支えていた。腕も足もプルプル震えており、ちょっと小突けば簡単に折れてしまいそうだった。
 人に傘を譲って、雨に濡れていた。一応頭の天辺はカバー出来ているものの、首から下は完全にはみ出ていた。
 毛糸のマフラーが水を吸い、色を濃くしていた。くたりと萎れて、重そうだった。
 爆発している髪は湿気を帯びて、毛先が下がり始めていた。息を殺して苦しい体勢に耐えており、限界は目前だった。
「ぶはっ」
 黙って見ていたら、勝手に自滅した。足りない酸素を求めてぜいぜい息をして、噎せて、細い肩はひっきりなしに上下した。
 聞いているだけで、こちらまで呼吸が苦しくなった。傘は彼の頭上へ戻されて、再び霧雨が雲雀を包み込んだ。
「君って、馬鹿な……いや、馬鹿だったね」
「ぐ、う」
 嘆息混じりに呟けば、小動物は唸った。決まりが悪い顔で俯いて、恨めし気に睨んできた。
 成績は学年でも断トツの最下位で、運動神経はないに等しく、素行は悪くないが遅刻や無断欠席が多い。背が低く、体格も華奢で、男らしさは欠片もなかった。
 一時期まで全く目立たず、周囲に埋没して、雲雀の目に入りもしなかった。それが突然豹変して、学内でもトップクラスの問題児になった。
 怯えてビクビク震えるだけの小動物かと思いきや、追い詰めれば意外に反抗的だ。下着姿で校内を駆け回るのは見過ごせなかったが、近頃はその回数が減っており、どこか物足りなくもあった。
 強敵が次々襲って来る日々はすっかり遠くなり、毎日が平々凡々として、刺激が足りない。
 だから以前なら無視していたであろうことでも、今は少し、好奇心が擽られた。
「もしかして、ああやってずっと、僕の後ろをついてくるつもりだったの?」
「へ? え、いや、あ!」
 試しに問えば、大粒の瞳が真ん丸に見開かれた。夜闇の所為でほんの少し色味が暗くなっている眼をパチパチさせて、小動物はきょとんとした後、薄明かりでも分かるくらい真っ赤になった。
 霧雨が、湯気に見えた。傘を抱えたまま右往左往する姿は滑稽で、見た目もあって随分可愛らしかった。
 これで裏社会を牛耳るマフィアのボスだというから、世の中は意外性に満ちている。額に炎を宿した姿はまるで別人で、その計り知れない強さには心底ゾクゾクさせられた。
 彼ほど見ていて飽きない生き物はおらず、彼ほど傍に居て面白い人間はいない。
 でなければ雲の守護者などという面倒なだけの仕事、引き受けるわけがなかった。
「なんだ、違うの」
 狼狽激しい少年を嘲笑い、前後に触れている傘の軸を小突く。
 振動を受けて小動物は顔を上げ、物言いたげに口をもごもごさせた。
 青くなり、赤くなり、ひとりで百面相して、深呼吸をして。
 強く奥歯を噛み締めて。
「か、貸せま、せん。……けど、でも。いっ、一緒に、なら!」
 躊躇を振り払い、吼えた。
 雄々しく息巻き、懸命に訴えて、両手で持った傘を前ではなく、上に持ち上げた。
 ミトンタイプの手袋は、雨でぐずぐずになっていた。半月型の鞄は濡れているところと、そうでないところで斑模様を作り、ズボンの裾は跳ねた泥で汚れていた。
 言葉は、半端なところで途切れた。
 後に続く筈だっただろう台詞を頭の中で補って、雲雀は濡れた肩を撫で、やれやれと苦笑した。
「やっぱり、馬鹿だね」
 背後から言葉もなく襲いかかって来た連中は数えきれないが、傘を差されたのは初めてだ。
 もうすっかり痛みが引いた箇所を撫でて、彼はその手を翻し、風が吹けば折れそうな細い芯を抓み持った。
「あ」
 引っ張られて、綱吉は抵抗した。咄嗟に強く握り直そうとして、濡れた毛糸が邪魔をした。
 滑って、しっかり掴めない。
 そうこうしているうちに雲雀が傘を奪い取り、その軸で肩を二度、叩いた。
「今日って、赤ん坊、いる?」
「……え?」
「久しぶりに、顔、見たいな」
 やおら訊かれて、戸惑いが否めない。状況に理解が追い付かず、呆然としていたら、不敵に笑って呟かれた。
 視線は僅かに右にずれ、此処に居ない誰かを思い浮かべているのは明白だった。
 彼にこんな表情をさせる相手は、極端に限られている。その唯一とも言える赤子を思い浮かべて、綱吉は悔しさに下唇を噛んだ。
「いる、と。思います」
 朝からずっと学校だから、リボーンの現在地など知るわけがない。ただ出掛ける、という話は聞いていないので、恐らくは家にいるだろう。
 あの赤ん坊がやってきてから、綱吉の人生は大きく狂った。もれなく山本や、獄寺や、此処にいる雲雀の運命も。
 嫌なことが沢山あったけれど、過ぎてみれば案外悪いことばかりではなかった。痛い想いも沢山したが、それまで遠巻きに見るだけだった相手との距離が詰まったのは、意外なご褒美だった。
 傘の影からちらりと窺えば、雲雀は緩慢に頷いた。どことなく嬉しそうに目を眇めて、愛らしい花柄を、ちょっとだけ綱吉の側へ傾けた。
「君の家までね」
「……はい」
 霧雨は勢いを弱めようとしていた。完全に止むところまではいかないけれど、一時期よりは量を減らしていた。
 きっと沢田家に到着して、リボーンと雲雀が会話を交わすうちに、雨雲は遠くへ運ばれて行くだろう。
 あくまで、雨宿りと、気になる友人に会う為に。
 寄り道の言い訳は、心の中で。
 相手のペースに合わせて歩く技術はなかなか難しいと、歩幅を調整して、雲雀は綱吉との距離を十センチ、詰めた。
 

2015/12/12 脱稿