心乱るゝ 秋の夕暮

 西の空に、薄い紅が差し始めていた。
 視界の際まで伸びる稜線がくっきりと表れ、光と影の境界がはっきり目に焼き付いた。雲は薄く、高い位置で疎らに散っている。陽の光を受けて、その下側ばかりが妙に明るかった。
 天頂より、地表に近い部分が眩しいのも、不思議なものだ。
 次々に彩りを変える景色を仰ぎ、小夜左文字は被っていた笠を揺らした。
 頭を左右に振りながら、砂利が多く、凸凹している道を行く。そこは所々深く陥没しており、足を取られると、簡単にひっくり返れる悪路だった。
 気を抜くと、転んでしまう。
 けれど俯いて、下ばかり見ているのは勿体ない空模様だった。瞳は頻繁に上下を行き交い、少しも落ち着かなかった。
 お蔭で足取りは鈍く、進みは遅かい。一緒に出掛けていた者たちとの距離はどんどん広がって、完全に置いて行かれていた。
 共に遠征に出向いた面々は、誰もが心持ち、早足だった。
 さっさと本丸に帰り着き、ゆっくり休みたいのだろう。いくら近場とはいえ、こう何度も往復させられては、身が持たなかった。
 今日だけで、十回以上だ。疲労はかなり溜まっていて、皆が無言だった。
 午前中はまだよかったけれど、午後に入ってからは、特に酷い。いつもは背筋が伸びている薬研藤四郎も、流石に猫背になっていた。
「これで、終わりだと。良いのだけれど」
 歩くのも辛そうな短剣仲間の背中を眺め、小夜左文字はひとり呟いた。落ちていた小石を蹴り飛ばして、行く末を見守ることなく、路面の窪みを飛び越えた。
 横幅四尺もない細い道の左右には、人の手が全く入っていない、荒れ野原が広がっていた。
 青々と茂る雑草はどれも背が高く、威勢が良かった。道の真ん中で咲く花もあって、自然の逞しさには毎度驚かされた。
 草花の中には、小夜左文字の背丈を越えるものまであった。無秩序に枝を伸ばす灌木は風の影響を受け、歪に歪み、蔦が絡みついていた。
 夜に見たら、化け物と誤解しそうだ。敵がいる、と勘違いして刀を抜きそうになった過去が蘇り、少年はひとり赤くなって木の前を通り過ぎた。
 太陽は徐々に稜線へと迫り、足元の影は長くなった。遠くに鎮守の森が見えて、烏の鳴き声がどこからともなく響いてきた。
 早く帰るよう、子供たちを急かしている。
 獣にまで背中を押され、短刀は深く頷いた。
 日が暮れると、野犬が出た。昔は人に飼われていたのかもしれないが、戦火が広がり、捨てられて野生化したのだ。
 ここいらの山は、熊は出るけれど、狼はいない。食物連鎖の頂点である人間も居なくなって、手付かずの自然が隆盛を誇っていた。
 たった数秒目を逸らしただけなのに、西の空は赤みを強め、鮮やかな朱色に染まっていた。
「あと、少し」
 細い道の先に、土壁が見え始めた。瓦屋根の建物もぼんやり現れて、前方からは歓声があがった。
 先頭を行く獅子王が、諸手を挙げて跳ねていた。秋田藤四郎の桃色の頭も、西日を受けつつ、輝いていた。
 やっと目指すべき場所が現れて、押し殺していたものが爆発したのだろう。我慢出来ず、鵺の毛皮を担いだ太刀が、疲労も忘れて駆け出した。それに引きずられる格好で、薬研藤四郎や、陸奥守吉行までもが速度を上げた。
 誰一人、最後尾を行く小夜左文字を気に掛けない。振り向きもしなければ、声をかけもしなかった。
 目の前のことに必死で、余裕がないのだ。
 それほどに、彼らは疲れ果てていた。
 簡単な任務の繰り返しは単調で、面白みに欠けた。緊張感に乏しかったのも、刀たちを疲弊させた要因だった。
 小夜左文字だって、疲れている。腹は減ったし、喉だって渇いていた。
 きっと今頃、本丸では夕餉の準備が執り行われている。温かな味噌汁に、米は瑞々しく炊き上げられて、新鮮な野菜が膳を彩り、ホクホクに焼かれた魚が食べられるのを待っていた。
 想像するだけで、涎が出た。今日の当番は燭台切光忠だから、魚料理が供されるのは、ほぼ間違いなかった。
 ゆっくり昼餉を食べる間もなく、遠征ばかり言い渡された日だった。
 これでまた、同じ任務を命じられたら、暴動が起きそうだ。まだ帰還出来ていないのに、大喜びしている刀剣たちを眺め、小夜左文字は肩を竦めた。
「僕も、急がないと」
 彼らだけ先に門を潜っても、任務達成にはならない。隊長が審神者に帰還報告をして、初めて終了となるのだが、その部隊長は、あろうことかここにいる短刀だった。
 あまりのんびりしていると、責められてしまう。けれど夕焼けに誘われて、視線は西に傾いた。
 早くしないといけないと分かっていても、思うように足が動かない。
「夕暮れの まがきは山と 見えななむ」(古今392)
「夜は越えじと 宿りとるべく、かい?」
「っ!」
 朱色の美しさに見惚れ、言葉がするりと零れ落ちる。
 それを途中から補われて、小夜左文字は身を竦ませた。
 びくりと大袈裟なくらい肩を跳ね上げ、反射的に身構えた。利き手は咄嗟に腰のものへと伸ばされて、邪魔な笠は背中へと滑らせた。
 視界を広げ、唇を引き結ぶ。
「僕だよ」
 そんな獣じみた動きと警戒心を見せられて、話しかけて来た男は困った顔で呟いた。
 苦笑して、両手を掲げて小動物を宥める。
 全身の毛を逆立てていた小夜左文字も、三度瞬きを繰り返して後、唖然としながら息を吐いた。
「歌仙」
 いつの間に、傍へ来たのか。
 油断し過ぎだと己を恥じて、左文字の短刀は柄を握る手を解いた。
 肩の力を抜き、両足へ均等に体重を配する。立ち尽くしていたら、藤色の髪の男が朗らかに微笑んだ。
「見事な夕焼けだね」
「う……」
 なにに気を取られていたのか、さらりと言い当てられた。
 悠然と腕を組んだ男に囁かれて、小夜左文字は小さく呻き、頬を空に負けないくらい赤くした。
 夕焼けなど、別段珍しいものではない。日の出、日の入りは毎日繰り返されて、もっと色味が鮮やかな日だってあった。
 但し今日という日は、今日しかなかった。明日の夕焼けはこれと同じではないし、昨日の日暮れ時だって全く違う顔をしていた。
 二度と見るのが叶わない景色だから、焼き付けておきたかった。
 そういう意識が働いて、足はなかなか、前に進まなかった。
 折角だから、陽が沈み切るまで、ここで見守りたい。
 他の刀剣たちの迷惑になるから実践はしないけれど、そんな願いも、心の片隅に存在していた。
 本丸からだと、垣根が邪魔だった。背後に迫る山が視界を遮り、最果てを望むなど無理な話だった。
 遠征続きで疲れていたのは本当で、それで足が重かったのも嘘ではない。
 けれどそれを言い訳にして、人より遅い歩みを維持していたのは、否定出来なかった。
「綺麗だね」
「……ああ」
 責めるでもなく感嘆の息を吐き、歌仙兼定が西を見た。
 小夜左文字も同じ景色を横目に眺め、一瞬の躊躇を挟み、首肯した。
 この打刀は、少し前まで薬研藤四郎の前を歩いていた。こんなのは雅ではない、とひたすら愚痴をこぼして、審神者に対する不信感を露わにしていた。
 これだったら、台所で包丁を握っている方が百万倍、楽しい。
 忌憚ない批判は聞く側をヒヤヒヤさせたが、咎める存在は、最後まで現れなかった。
 まさか朝からこの時間まで、同じ任務だけを押し付けられるなど、誰も想像していなかった。本丸に一番帰りたがっていたのは彼で、てっきりいの一番に駆け出し、獅子王と先頭争いしているとばかり、思っていた。
 予想外の連続に、小夜左文字は深呼吸を繰り返した。まだ少々速かった鼓動を宥めて、咥内に溜まっていた唾液をひと息で飲み干した。
 胸を撫で、唇を舐める。
 隣を窺えば、歌仙兼定は依然そこに佇み、動かなかった。
「歌仙」
「一首詠みたくなる素晴らしさだね」
 名を呼んでも、反応が鈍い。任務中だというのも忘れているのか、語る内容は自分本位だった。
 茶を嗜み、武芸に秀で、和歌を愛する。
 前の主の影響を過分に受けた刀は、どんな状況下であっても己の歩幅を崩さなかった。
 協調性がないとの指摘も多々受けるが、本人は気にしていない。何処吹く風と受け流して、批判に耳を傾けなかった。
 小夜左文字としても、彼には反省して欲しいところがいくつかあった。だがどれだけ言い聞かせても無駄と、最近は諦め気味だ。
 本丸に遅れて辿り着き、獅子王が叱っても、彼は笑ってやり過ごす。もっと早く歩けただろう、と責められても、夕暮れに惑わされたと言って、相手を煙に巻くに違いなかった。
「いいのか。いかなくて」
 一度通った道を、わざわざ戻って来た。
 目前に迫った本丸に向かう方を優先すべきなのに、なにを考えているのか。
 顎をしゃくって屋敷を覆う垣根を示し、小夜左文字は胡乱げに男を仰いだ。
 眉間に皺を寄せて睨まれても、彼は笑みを絶やさなかった。うん、とひとつ頷いただけで、表情は穏やかだった。
「小夜だって、だろう?」
「それは、そうだけれど」
 この道を進むべきは、彼ひとりだけではない。揚げ足を取られた少年は言葉を濁し、気まずくなって顔を背けた。
 夕焼けを眺めるくらい、どこででも出来る。それこそ、門まで辿り着いてからでも、問題なかった。
 だというのに、敢えて小夜左文字の傍に来た。
 真意を図りあぐねて、短刀は困惑を強めた。
 歌仙兼定とは細川の城に居た頃、一時期ではあるが、共に過ごしたことがあった。当時の彼には固有の名がなくて、容姿も今と違っていたのですぐには分からなかったけれど、面影は、所々に残っていた。
 ただ性格の面は、大きく変わった。なにも知らなかった無垢な付喪神は、離れている間に小夜左文字の背丈を追い越し、血腥い謂れを得て、自我を確立させていた。
 小夜左文字の知っている之定と、ここにいる歌仙兼定は別物。
 そう思った方が、心は平和だった。
 それでも彼がそばに居ると、少し安心出来た。昔を知っている気兼ねせずに済み、名前しか知らなかった兄たちよりは、余程身近な存在だった。
 審神者に喚び出されたばかりの、不安定だった時期を支えてもらったのもあって、彼には世話になりっ放しだ。いやに大人ぶり、世話を焼こうとするところが気にかかるけれど、大きな手は優しく、触れる熱は心地よかった。
 気が付けば、いつも隣にいる。
 それが自然なことと思い始めている自分を意識して、小夜左文字はぷっくり頬を膨らませた。
 あちこちを流転した。
 守るべき主を守れず、奪われ、売られ、己の存在意義を見失った。
 仇を討ちたくて、それだけが支えだった。そんなもの、とっくの昔に成し遂げられているというのに、そこに縋ることでしか自分を保てなかった。
 歌など、久しく忘れていた。
 夕暮れが綺麗なもので、景色は季節や時間によって驚くほど変化すると、本丸に来てから思い出した。
 あの頃、自分はなにを見ていたのだろう。
 乾いた大地と灼熱の太陽以外、目に浮かぶものがなかった。
 呼吸を整え、改めて歌仙兼定を見る。
「っう」
 息が喉に詰まったのは、思いがけず目があった所為だった。
 もしや彼は、ずっと人の顔を見詰めていたのか。こちらが物思いに耽っている間も、飽きることなく眺めていたのだろうか。
 気が抜けて、遠い過去に浸っていたところをじっくり観察された。意識した途端かあっ、と顔が熱くなって、小夜左文字は耳の先まで赤くなった。
 それはまるで、藪の中に身を潜ませた野苺だった。
 春先に熟す、小さくて甘い果実を思い浮かべて、歌仙兼定は相好を崩した。
「勿体ないと思わないか。こんなにも美しい夕焼けは、二度とないかもしれないのに」
 それは少し前、小夜左文字がぼんやり考えていた内容に相違なかった。
 笑みを噛み殺し、男が背筋を伸ばして遠くに視線を投げる。
 先を急ぐ仲間たちはかなり小さくなっていて、豆粒ほどの大きさだった。
 後続がやってこないと知り、騒いでいるのが見て取れた。声は聞こえないものの、両手を振り回し、何度も飛び跳ねているのは秋田藤四郎だ。
 気付いた歌仙兼定が手を振り返すものの、歩みは止まったまま。
 依然として動かない男を不思議な面持ちで仰ぎ、小夜左文字は短く息を吐いた。
 夕焼けは色を強め、西の空はまるで燃えているようだった。
 今日の最後を彩ろうと、赤々と照りつけている。伸びる影は一段と長くなり、短刀でありながら、太刀の背丈に追い付きそうだった。
 もっとも隣に在る歌仙兼定の影は、更に長い。
 己の貧相な体格と、彼の逞しい体躯とを我知らず比較して、少年はぶすっと口を尖らせた。
「いこう」
 秋田藤四郎だけでなく、陸奥守吉行もぴょんぴょん跳ねていた。獅子王や薬研藤四郎は蹲っているのか、視界に入らなかった。
 隊長を任された小夜左文字が帰らないと、門の中にだって入れない。
 棒のようになっている足を叱咤激励して、彼は仲間の為に、一歩を踏み出した。
 その背中に向けて。
「いいのかい?」
 歌仙兼定が静かに問いかけた。
 なにが、とは言わなかった。しかし心を読まれた気がして、小夜左文字は大袈裟に振り返った。
 ハッと息を飲み、目を丸くして打刀に視線を投げる。
 藤色の髪を朱に染め変え、優美な男は嫣然と微笑んだ。
「小夜」
 否応なしに過去を想起させる名をくちずさみ、目尻を下げた。根深いところで復讐と結びついているその呼称が、そういえばこの男は、昔からお気に入りだった。
 義の刀と言われようとも、人殺しの事実は変わらない。
 だというのに素晴らしい名前と手放しに褒めて、羨ましいとさえ言い放った。
「歌仙」
「うん」
「歌仙兼定」
「ああ」
 赤は血を連想させた。
 燃えるように赤い夕焼けは、山賊上がりの短刀と、三十六人殺しの刀を魅了して止まなかった。
「君は、君なんだから」
 ぽつりと言って、歌仙兼定はようやく足を持ち上げた。右から踏み出して、たった二歩で短刀に追い付き、追い越した。
 歩幅が違う。
 痛感させられて、小夜左文字は無防備な背中を蹴り飛ばしたくなった。
「君が見たいものを、君が好きなだけ、眺めるのは。とても良い事だと思うけどね」
 それをしなかったのは、西を見やりながら歩く男が、そんな風に言葉を注ぎ足したからだった。
 蹴る直前まで行っていた足を宙に留め、少年はふらつき、前のめりになった。片足立ちで数回身体を弾ませて、のんびりと進む背中を呆然と見つめた。
 今のひと言が、歌仙兼定の行動原理。
 理念ともいうべきものだった。
 流されるではなく、漂うだけではなく。地に足をつけて、一歩、一歩、着実に進むために。
 ただの刀であったのが、審神者によって人の姿を与えられた。付喪神として降臨し、武器を手に戦い、斃すべき敵を得た。
 しかし、それだけではない。
 彼らはあらゆるものを見る目を持ち、掴む手があった。善悪を嗅ぎ分ける鼻や、毒さえ呑み込む口があった。耳は風の囁きさえ拾って、移り変わる季節や時が押し寄せて来た。
 一日、一日が奇跡の連続だ。驚きに溢れている。見るもの、聞くものすべてが新鮮であり、心の襞を擽った。
 興味があるなら、調べればいい。
 飽きるまで眺めて、過ごせば良い。
 それを叱る者がいても、気にしてはいけない。好奇心は人を殺すが、それがなければどこにも踏み出せないことも、確かだった。
「秋ふかみ たそかれ時の ふぢばかま」
「匂ふは名のる 心ちこそすれ」
 男が軽やかに歌を奏でた。
 後を継ぎ、小夜左文字は当たり前のように下の句を舌に転がした。
 残念ながらこの辺りに、藤袴は咲いていない。秋の七草にも名を連ねる花は、匂いによって名乗りを上げてはくれなかった。
 代わりに男が、黄昏時を面白がり、口を開いた。
「小夜」
 太陽は西の稜線に近付き、輪郭は滲み始めていた。棚引く雲は下側だけが朱に染まり、上側は辛うじて昼の名残を留めていた。
 東に目を転じれば、藍と紫が混じり合い、不可思議な彩が生み出されようとしていた。
 気の早い一番星が薄く輝き、烏の声は遠くなった。ひたひたと夜闇が迫って、ふたりの背後に風を起こした。
「歌仙」
 煽られるように、前に出た。
 爪先立ちで駆け寄って、小夜左文字は歌仙兼定の袖を発作的に掴んだ。
 指二本で手繰り寄せ、袖下を抓む。軽く引っ張られた男は一瞬だけ視線を向けて、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「昔と逆だね」
「迷子になって、べそべそ泣いていた」
「そんなことはないさ。小夜が迎えに来てくれると、信じていたからね」
「いけしゃあしゃあと」
「本当のことだよ」
 夕焼けは、美しい。
 人の肉から噴き出る鮮血とは違う、清々しさがあった。
 それを教えてくれたのは、誰であったのか。
 呵々と笑う打刀を仰ぎ、小夜左文字は緩やかに暗さを増す空と、大地と、遠くで待つ仲間たちを順に見た。星は数を増して瞬いて、斜めに伸びる影は色を薄めていた。
 もうじき、相手の顔もはっきり見えなくなってしまう。
 それまでの僅かな時間を惜しみ、少年は指先に力を込めた。
「ゆっくり行こう、歌仙」
 この稀有な光景を、じっくり眼に焼き付けたい。
 二度と同じものはない空に思いを馳せて、小夜左文字は囁いた。
 その小さな手に触れ、覆い、掴み取って。
 歌仙兼定は驚く短刀に目配せし、悪戯っぽく微笑んだ。
「もちろん、そのつもりだよ」
 怒られる役は、任せておけ。
 そんなことまで嘯いて、打刀は人差し指を唇に当て、右目だけを閉ざした。

2015/7/22 脱稿