むべ山風を 嵐といふらむ

 話し声が聞こえた。
 耳慣れた声だった。見た目の割に少し低めで、落ち着き払った口調だった。
「すまない、参考になった」
「いいや、こちらも勉強になった。頑張りたまえ」
「……ありがとう」
 敷居を挟んで、向かい合って話していた。廊下に立っているのが良く見知った顔で、開けた襖の向こうに居るのは、どうやら蜂須賀虎徹らしかった。
 遠目からでも目立つ黄金色中心の衣装の、その一部がはみ出ていた。優雅に腕を組んで、背の低い短刀を励ましていた。
「珍しい組み合わせだな」
 相対する少年は、寸足らずの長着を着て、裾を折り返して帯に挟んでいた。
 俗にいう尻端折りで、細くて華奢な脚が剥き出しだった。袖をまとめる襷は少し長めで、結び目は斜めに傾いていた。
 藍色の髪は高い位置で結われ、先端は左右に割れていた。全体的に粗末な身なりで、相対する打刀とはかなりの落差があった。
 もっとも本人は、それをあまり気にしていない。多少みすぼらしかろうとも、動きに支障がなければ構わない、という方針らしかった。
 前に交わした会話を何気なく振り返り、前方を気にしながら首を捻る。
 軽く頭を下げた小夜左文字の手には、丸められた紙束が握られていた。
 不思議な取り合わせといい、気になった。いったいどんな話が繰り広げられていたのか、俄然興味が沸いて来た。
「やあ、珍しいね」
 だから、心持ち早足になった。
 開いていた距離を大股に詰めて、歌仙兼定は右手を挙げた。
 挨拶して、会話の端緒を開く。にこやかに微笑んで、自分も混ぜてくれるよう、言外に訴えた。
 しかし。
「おや、歌仙兼定」
「……じゃあ、僕はこれで」
 蜂須賀虎徹が横柄に応じたのに対し、小夜左文字は場を辞そうとした。手にしたものを胸に抱きしめて、一礼して踵を返した。
 ちらりと一瞥をくれただけで、返事すらしない。
 古い付き合いだというのに素っ気ない態度を取られ、歌仙兼定は怪訝に眉を顰めた。
 今までにない反応だった。まるで初対面であるかのような振る舞いで、驚かされた。
「小夜?」
「急ぐから」
 突然、どうしたのか。
 酷くつれない反応に、戸惑いが否めない。思わず声に出して名前を呼べば、小夜左文字はようやく、肩越しに振り返った。
 それでも、目を合わせて貰えなかった。告げられた言葉も、とても冷たいものだった。
 妙に余所余所しく、他人行儀だ。突然目の前に壁が現れた気がして、歌仙兼定は困惑に瞳を泳がせた。
「あ、ああ。そう、か。悪かったね、引き留めて。ふたりが一緒なんて、あまりなかったから」
「まあ、そうだな。だが俺に相談したのは、良い判断だったと思うぞ」
「へえ?」
 たどたどしく言葉を紡ぎ、動揺を懸命に隠す。
 率直な感想は蜂須賀虎徹の心を引き付け、男は得意げに胸を張った。
「蜂須賀虎徹」
 だが、歌仙兼定が相槌を打ったところで、小夜左文字が間に割り込んだ。いつになく低い声を響かせて、凄味を利かせて目を吊り上げた。
 背の低さの所為で迫力に乏しいが、それでも充分脅威だ。
 復讐に固執する短刀に睨まれて、蜂須賀虎徹は嗚呼、と頷いた。
 口元に手をやって、不遜に笑う。含みのある表情で歌仙兼定をちらりと見て、大袈裟に肩を竦めた。
「おおっと。これは、言わない約束だったな」
「う、ん?」
「残念だが、君には教えられない。そういうわけだ。俺はこれで失礼するよ」
 深々とため息を付き、きょとんとする打刀仲間に相好を崩す。立てた人差し指を唇に添えて、内緒だと、右目だけを閉じた。
 最後にひらりと手を振って、彼は敷居の奥へ引っ込んだ。素早く襖を閉めて、唖然とする歌仙兼定の前からいなくなった。
「え?」
 見事な早業に、理解が追い付かない。
 呆気に取られて左を向けば、小夜左文字もまた、パタパタ足音を立てていた。
 小走りに駆けていく背中で、襷が左右に揺れていた。やがて角を曲がって見えなくなって、取り残された男はぽかんとしたまま立ち尽くした。
「……え?」
 彼の周囲だけで、時間が流れていた。呆然と佇んで、歌仙兼定は目を瞬いた。
 教えられない、と言われた。
 露骨に秘密にされて、訳が分からなかった。
「どうしてだ?」
 蚊帳の外に捨て置かれた。どうして教えてもらえないのか、その理由も分からず、はっきり言って、面白くなかった。
 しかしここで襖を開けて、蜂須賀虎徹に問い詰めるのは雅ではない。
 小夜左文字にだって内緒にしたいことのひとつやふたつ、あって然るべきであり、気にしないのが大人というものだった。
「うん、うん」
 あまり子供に干渉し過ぎるのは、教育上、よろしくない。
 あちらの方が年上だというのは考えず、彼は自分を無理矢理納得させた。
 ここは大人の余裕というものを発揮して、気にしないのが得策だ。ちょっと小石に躓いた程度と言い聞かせ、ちくちく痛む胸は無視した。
 少なからず傷ついたが、女々しく引きずりたくなかった。深く深呼吸して心を落ち着かせて、歌仙兼定は大きな一歩を踏み出した。
 目を細め、笑顔になるよう心掛けながら廊下を進んだ。特にこれといった用事はなく、屋敷をうろうろして暇を潰していただけだが、足は自然と小夜左文字を追いかけていた。
 今日は台所仕事から、終日解放されていた。君ばかり働かせてばかりで悪いからと、燭台切光忠が引き受けてくれたのだ。
 お蔭でやることが少なくて、退屈だった。
 出陣も、遠征も言い渡されていないので、こうしてぶらぶらするしかなかった。
 部屋に戻って本でも読むか、客は居ないが茶を点てようか。
 腕組みしながら考えて、歌仙兼定は開けた庭に目を向けた。
「茶室に行くなら、菓子が欲しいな」
 一期一振でも誘えば、付き合ってくれるかもしれない。茶の道仲間の顔を思い浮かべ、彼は小さく首肯した。
 点茶とくれば、和菓子がつきもの。
 出来合いのものでも構わないので、甘いものが欲しかった。
 となれば、台所に行くしかない。小夜左文字も丁度その方角に駆けていっており、行き先は自ずと導き出せた。
 燭台切光忠に頼んで、少しだけ使わせてもらおう。
 この後の予定をあれこれ頭の中で計算して、歌仙兼定は足取りを速めた。
「そう、それに決めたんだ」
「ああ。貴方は、知ってる?」
「うーん、僕はそっち方面には詳しくないんだよねえ。堀川君に頼んだ方が、良いんじゃないかな」
「分かった。そうする」
 そこに、またしても人の会話が聞こえて来た。片方は先ほど会った短刀で、もうひとりは右目を眼帯で覆った太刀のものだった。
 親しげなやり取りに、思わず足が止まった。開けっ放しの戸口手前で息を殺して、歌仙兼定は思わず聞き耳を立てた。
 いったい、なんの話をしているのか。
 状況がさっぱり読めないまま、彼は太い眉を真ん中に寄せた。
 蜂須賀虎徹に続いて、小夜左文字が燭台切光忠になにかを相談している。紙を捲る音も聞こえて来て、神経が逆立った。
 小夜左文字はかつて細川家にいたことがあり、その縁で歌仙兼定と親しかった。
 碌に交友がなかった兄弟刀よりも、余程繋がりは深いと自負していた。なにか困りごとがあれば、真っ先に自分に相談するものと、勝手に思い込んでいた。
 それなのに、あの少年は他の刀に頼っていた。
 衝撃は否めず、言葉が出なかった。
「……さ、よ?」
 惚けたまま、ふらふらと身体を揺らして壁に寄り掛かる。
 眩暈がした。目の前が真っ白になって、足元不如意で倒れてしまいそうだった。
「けど、これ、結構手間がかかると思うよ。材料も、今ある分じゃ足りないんじゃないかな」
「そう、か」
 小夜左文字と燭台切光忠の会話は、まだ続いていた。
 壁一枚隔てた先で、打刀が崩れ落ちているとも知らず、なんとも呑気なものだった。
 いつの間に、ふたりはこんなに仲良くなったのか。
 彼らが毎日のように台所で顔を合わせていた件は、すっかり忘れ去られていた。まるで共通点の無い両名が仲睦まじげにする様を想像して、歌仙兼定は両手で顔を覆った。
 その背中に向けて。
「あんた、そこでなにしてんだ」
「うわっ」
「ん?」
 不意打ちで声がかけられて、油断していた男は吃驚して飛び跳ねた。
 裏返った悲鳴は、当然ながら台所にまで響いていた。歌仙兼定が尻餅ついた音も、同様だった。
 強かに打った場所を庇い、彼は唇を噛み締めた。みっともないところを見せたと赤くなって、顔を上げれば浅黒い肌の打刀が見えた。
 出した手を引っ込めるのも忘れ、大倶利伽羅は怪訝そうに首を傾げた。
「なに、どうかした?」
 騒ぎを聞き付け、中にいた太刀も廊下に顔を出した。隻眼を細めて辺りを見回し、見知った相手に声を高くした。
 隠れていたのに、見付かってしまった。
 背後への警戒をすっかり忘れていて、歌仙兼定はアワアワしながら額を覆った。
「いや、俺は、別に。……こいつが、蹲ってたから」
 穴があったら入りたかった。
 後ろから指をさされ、消えてしまいたかった。
 大倶利伽羅は事実だけを淡々と告げ、自分にもよく分からない、と正直だった。伊達所縁の刀に前後から挟まれて、細川の打刀は頭を抱え込んだ。
 突き刺さる視線が痛い。
 奥歯を噛み締めて耐えていたら、廊下に出た燭台切光忠が頬を掻いた。
「歌仙君、もしかして、今の聞いてた?」
「なっ、なんの話か、な?」
 問いかけられて、反射的に仰け反っていた。声が上擦り、情けないくらいにひっくり返ってしまった。
 視線は宙を彷徨い、燭台切光忠を見られない。顔が引き攣って、嘘を言っているのはバレバレだった。
 誤魔化し切れない。
 醜態を晒して右往左往していたら、燭台切光忠が深い溜息を吐いた。
「参ったな。どこまで聞かれたんだろう」
 黒髪を掻き上げながら呟いて、渋面を作る。
 独り言にピクリと反応して、歌仙兼定は正面を見た。
「うっ」
 視界に、小夜左文字の姿が飛び込んできた。
 しかもばっちり、目が合った。発作的に呻いて、彼は喉に息を詰まらせた。
 見る間に青くなって、冷や汗をだらだら流す。
 床の上で畏まった打刀に、短刀は険のある目つきを投げた。
「盗み聞き、とか。歌仙」
 人を蔑む眼差しで、低い声で呟いた。言葉は変なところで途切れたが、その後に続いただろう罵詈雑言は、頭の中にはっきり響いた。
 馬鹿だとか、そういう可愛いものではない。
 見下され、罵られた。最低な刀だと断じられ、縁切りを言い渡された。
 金輪際近づくなと、そういう雰囲気だった。堪らず目尻が熱くなって、歌仙兼定は奥歯をカチカチ言わせた。
 鼻を啜り、縋る目を向ける。
 しかし小夜左文字は寸前で逸らし、取り合おうとしなかった。
「堀川国広を探してくる」
「うん。いってらっしゃい」
 傍らに立つ太刀にだけ言って、短刀は走り出した。歌仙兼定など最初からいなかったという態度で、存在は完璧に無視された。
「さ、……小夜」
 追い縋ろうと手を伸ばすが、勿論届かない。
 あまつさえ燭台切光忠が、道を塞ぐ格好で立ちはだかった。
「さっきから、なんなんだ。僕がなにをしたって言うんだ」
「あはは。ごめんね」
 蜂須賀虎徹といい、この男といい、どうして教えてくれないのか。
 憤慨して声を荒らげるが、反応は芳しくなかった。
 両手を合わせて謝られたが、少しも気が晴れない。頭を下げるくらいなら、小夜左文字との内緒の話を暴露して欲しかった。
 けれど、それは出来ないと言われた。秘密にするよう頼まれているから、たとえ刀を持ち出されても、応じられない、と。
「別に良いだろう。なんだって」
「君は、じゃあ、平気なのか」
 部外者である大倶利伽羅が落ち着くよう諭したが、逆効果だった。歌仙兼定は激昂して、怒号を上げて唾を飛ばした。
 いきなり水を向けられて、色黒の打刀は迷惑そうだった。頬を擦って舌打ちして、渋い顔で昔馴染みに目を向けた。
 燭台切光忠は苦笑を浮かべ、首を竦めて恐縮していた。
 雰囲気で「ごめん」と謝られたが、訳が分からないのは彼も同じだ。訝しげに眉を顰めていたら、我慢し切れなくなったのか、歌仙兼定が足を踏み鳴らした。
「分かった、もういい。君たちには頼らない。僕が自分で調べる」
「ああ、歌仙君。待って」
「うるさい」
 捲し立て、雄々しく歩き出した。燭台切光忠が慌てて引き留めようとしたが、打刀は耳を貸さなかった。
 こんなにも露骨に秘密にされて、扱いを軽んじられたのだ。こんなに腹立たしいことはなく、耐えられなかった。
 ならば自力で、暴くのみ。
 鼻息荒くする男を見送って、台所前に残された男は困った顔で嘆息した。
「なんなんだ?」
「いやあ、ちょっとね」
 大倶利伽羅に訊かれて、言葉を濁す。肩を竦めて苦笑して、燭台切光忠は対策を考え、鼻の頭を掻いた。
 歌仙兼定が短気だというのを、すっかり失念していた。
「小夜君って、愛されてるねえ」
「は?」
「歌仙君も、愛されてるよねえ」
「……熱でもあるのか?」
 突然しみじみ語り出した男に絶句して、大倶利伽羅が変な顔をする。
 かなり失礼な発想をされて、隻眼の伊達男は呵々と笑った。
 それから、順調に数日が過ぎた。
 歌仙兼定の決意、そして努力も空しく、小夜左文字が抱えている秘密の話とやらは、依然彼の耳に入ってこなかった。
 誰に聞いても「内緒です」としか言ってくれない。
 貴方にだけは教えられないと言われ、すげなくあしらわれ、取り付く島がなかった。
 堀川国広、薬研藤四郎にも当たってみたが、結果はどれも同じ。蜂須賀虎徹に再度問い質してみたが、口は堅く、有益な情報はひとつも引き出せなかった。
 その間、小夜左文字は歌仙兼定を徹底的に避けた。顔を合わせようものなら一目散に逃げ出して、物陰に隠れて追撃を躱し続けた。
 悔しいかな、あちらには協力者が多かった。短刀たちなどは、事情も知らずに面白がって、歌仙兼定から小夜左文字が逃げる手助けをした。
 何度も道を阻まれ、邪魔をされた。
 短刀相手に本気でやり合うわけにもいかなくて、精神的な疲弊は増す一方だった。
「どうしてなんだ、小夜。僕のなにが気に入らないって言うんだ」
「……それをどうして、貴様が俺に言う?」
 冷戦に突入して、今日で四日目。
 喧嘩を下わけでもないのに言葉を交わす機会を失い、歌仙兼定は露骨に落ち込んでいた。
 今や本丸は、すっかり彼を敵扱いだった。
 ひとりくらい、味方が欲しかった。しかし求めても、訪ねても、誰ひとり彼に協力してくれなかった。
 左文字の上ふたりは論外ながら、まさか新撰組の刀たちにまでそっぽを向かれようとは思わなかった。神刀たちは揃って小さい子に協力的で、次郎太刀への袖の下、ならぬ酒の差し入れは、彼の評判を一層悪くさせた。
 なりふり構わないやり方に、同情すら出来ない。
 蹲った打刀に愚痴を零されて、へしきり長谷部は面倒臭そうに肩を落とした。
 ふたりは元主同士の確執が尾を引いて、本丸内では特に仲が悪かった。
 顔を合わせても口を利かず、同じ隊に配属されても結果は同じだった。協力し合うなど不可能で、隙あらば戦場で敵ごと斬り伏せようとする有様だった。
 そんな男が、突然部屋に訪ねて来た。
 本丸の帳簿を整理していた打刀は、背後で鼻をずびずびさせている歌仙兼定に力なく首を振った。
 さっきからずっとこんな調子で、鬱陶しいことこの上ない。集中を乱され、邪魔で仕方がなかった。
「しょうがないだろう。誰も、僕の話を聞いてくれないんだから」
「だから何故、俺のところに来るんだ、貴様は。俺だって貴様の話など、聞きたくないわ」
 普段のつっけんどん具合はどこへ行ったのか、みっともなく縋られた。それを至極嫌そうに振り払って、へしきり長谷部は声を荒らげた。
 襖を指差し、出ていくよう吠える。
 けれど歌仙兼定は首を振って拒み、書類が山盛りの床で地団太を踏んだ。
 紙の山がひとつ、倒れそうになった。ぐらぐら揺れている塔に渋面を作って、へしきり長谷部はこめかみに青筋を立てた。
「いいか、俺は小夜がなにをしているかなど、これっぽっちも興味はない。愚痴なら他を当たれ。こっちは忙しいんだ」
「そんなだから、君は魔王に愛想を尽かされるんだよ」
「それとこれとは関係ないだろう!」
 いつまでも此処に居られては、迷惑だ。
 さっさと追い出そうと目論んだ彼だったが、古傷をぐさりと抉られた。文机を殴って自ら帳簿の山を突き倒し、黒田の刀は目を吊り上げた。
 一触即発の気配が漂い、にらみ合いによる火花が散った。
 歌仙兼定も数日分の鬱憤を滾らせ、いつでも刀が抜けるよう身構えた。
 その時だった。
「長谷部、長谷部、今帰ったちゃ。小夜からん頼まれ物、思ったちゃりも安く済んだったい」
 軽やかに、歌うように言って、赤い眼鏡の短刀が両手で襖を押し開いた。
 粟田口派共通の黒い衣をまとい、九州訛りで楽しげに笑う。商売人気質を前面に押し出して、良い買い物が出来たと満足そうだった。
 それはへしきり長谷部同様、黒田に所縁を持つ刀だ。
 今日は朝から買い物に出ていた少年の御帰還に、歌仙兼定の眉が片方、ピクリと持ち上がった。
 その向かい側で、白手袋の男が顔を覆った。項垂れて、奥歯を噛み締め、肩を小刻みに震わせていた。
 色々な感情を漲らせ、押し殺していた。そんな男から歌仙兼定に視線を向けて、博多藤四郎はたらり、と汗を流した。
「な、なして細川んの、ここに?」
 彼とへしきり長谷部の関係の悪さは、本丸内でも殊に有名だった。その男たちがまさか一緒に居ようとは、商売上手な少年も思わなかったに違いない。
 夢か、幻かと疑って、声を上擦らせる。
 さっきまで何も知らない、と言っていた男を振り返って、歌仙兼定は肩を怒らせた。
「貴様、万死に値するぞ!」
「取って食われる~~!」
 うっかり騙されるところだった。
 矢張りこの男も、歌仙兼定の敵だった。
 眦を裂き、雄叫びを上げる。怯えた短刀は悲鳴を上げて逃げ出して、へしきり長谷部も咄嗟に刀の柄に手を伸ばした。
 しかし、刃が引き抜かれることはなかった。
 それまで真っ赤になって憤慨していた男が、不意にはらりと、涙を流したのだ。
「あ、……」
 本人も、まさか泣くとは思っていなかったようだ。
 頬を伝う雫の感触に声を漏らし、拭いもせずに立ち尽くした。
 大切に想っていた相手から、突然冷たい態度を取られたのだ。周りは皆知っているのに、ひとりだけ内緒にされて、疎外感は半端なかったに違いない。
 へしきり長谷部だって、目の前でこそこそ内緒話をされるのは、心外だ。傷つく。
 僅かながら哀れみを抱かされて、彼は麦色の髪を掻き回した。
「台所にでも行って、顔を洗ってこい」
「へしきり」
「長谷部だ。いいから、さっさと行け。俺は忙しい」
 もう片方の手はひらひら揺らし、最後に廊下を指差した。博多藤四郎が開けた襖はそのまま放置されており、小窓から差し込む光が斜めに伸びていた。
 律儀に呼び方の訂正を忘れず、派手な格好の男を追い出しに掛かる。
 言い切った後は興味が失せたのか、歌仙兼定に背を向けて、振り返らなかった。
 自分で倒した書類の山に悪態をついて、黙々と片付け始めた。そんな男を暫く眺めて、細川の打刀は頬を擦った。
 涙はひと粒で終わり、既に乾いていた。目尻に残っていないのも確認して、彼は怪訝に眉を顰めた。
 顔を洗うなら台所ではなく、井戸ではないのか。
 不思議な言い回しに引っ掛かりを覚えたが、訊ねたところで、教えてもらえそうになかった。
 忙しくしている打刀に小さく頭を下げ、彼は廊下に出た。ひたひた足音を響かせて、向かう先は台所だ。
 ずっと気になっていた。
 どうして小夜左文字は、自分にだけは伝えてくれるなと、皆に釘を刺して回っていたのか。
 そんなに知られたくないことか。
 そこまで信用がないのかと、悪い方に考えた。
 もしや、違うのか。
 大前提からして、間違っているのだとしたら。
 気が急いた。
 心が逸って、いつの間にか小走りになっていた。
 通い慣れた道を行き、角をいくつか曲がって、肩で息を整える。噴き出た汗もそのままに、閉められていた台所の扉を開く。
 左へ滑らせ、目を見張る。
「ああ、歌仙君か」
「なんだ、呼びに行ってやろうと思ってたのに。もう来てしまったのか」
「丁度良かったです。探す手間が省けました」
 そこにいたのは、隻眼の太刀に、白い衣装の太刀、そして臙脂色の上下を着た脇差だった。
 それに加えて、輪の中心にちょこんと、藍色の頭が見えた。
 一斉に振り返られて、歌仙兼定は息を飲んだ。
 昨日までと、反応が違った。誰も逃げたりせず、目を逸らしもせず、にこやかに微笑んでいた。
 小夜左文字も、だ。
「歌仙」
 目が合った。空色の眼を真ん丸にして、短刀はもぞもぞと身じろいだ。
 顔を伏し、両手は背中へ。直前に見えた指先は、なにかを作っていたのか、白い粉で汚れていた。
 刀たちが集う机には、様々な道具が並べられていた。中には料理のどこに使うのか、と思える乳鉢や乳棒といったものまであった。
 なにをしていたのか、これだけではさっぱり見当がつかない。
 皆の態度の変化にも戸惑っていたら、鶴丸国永が悪戯っぽく笑った。
「そんなところに突っ立ってないで、ほれ、こっちに来い」
 へしきり長谷部とは逆の使い方で手をひらひらさせて、傍へ寄るよう言う。しかし躊躇させられて、歌仙兼定は小夜左文字を見た。
 眼差しで問われた少年は、一瞬躊躇してから頷いた。
 深く、顎が胸に着くくらいに首を振られて、それで打刀はやっと敷居を跨いだ。
 段差を下りて、飴色の床へと降りる。
 慎重に歩を進める彼に道を譲って、堀川国広が脇へ退いた。
「小夜」
 意味ありげな笑顔を向けられて、当惑が否めない。顰め面をひと呼吸の間に解いて、男は緊張しながら少年の前に立った。
 彼の斜め後ろには、燭台切光忠と鶴丸国永が控えていた。ふたりとも手を背中に回して、なにかを隠し持っているようだった。
 それが、この場で作られていたものなのか。
 赤や緑といった、色水の入った小鉢を一瞥して、歌仙兼定は首を捻った。
「歌仙」
 そんな彼の名を呼んで、小夜左文字がもじもじと、膝をぶつけ合わせた。
 俯いたまま、時々様子を窺って上目遣いになって、すぐに逸らして、下を向いて。
 なかなか喋り出そうとしない短刀に、太刀ふたりが声援を送った。
「小夜君、頑張れ」
「そうだ、坊主。驚かせてやれ」
 小声ではあったが、しっかり聞こえた。いったい何なのかと堀川国広に助けを求めるが、あちらは屈託なく笑うだけだった。
 またしても、蚊帳の外だ。
 数日分の切なさを噛み締めて、彼は元気に跳ねている藍色の髪を見詰めた。
 それが、突如空色になった。
 バッと顔を上げた小夜左文字が、覚悟を決めて、口を開いた。
「歌仙、あ、あの。い……いつも、その。あ、あ……あり、あり、あ」
 しかし途中で言葉を詰まらせて、言い淀んで。
「蟻?」
「ありがとう!」
 何のことかと歌仙兼定が怪訝にした矢先。
 腰を九十度曲げて、深々と頭を下げた。
 大声で叫んで、両手は膝に揃える。尻尾のような髪の毛が逆さになって、襷の結び目が蝶の如く舞い踊った。
 なにを言われたか、一瞬、分からなかった。
 勢いが良過ぎる御辞儀に、気を取られた。
 そちらに意識が傾いて、もう少しで聞きそびれるところだった。
 目を見開き、ぽかんとして。
「え?」
「じゃーん。小夜君の、力作だよ」
「そうれ。どうだ、驚いただろう!」
 満面の笑みで燭台切光忠に差し出されたものにも、反応出来なかった。
 呆然として、辺りを見回す。
 惚けた顔で停止していたら、期待していたものと違うと、鶴丸国永が不満を露わにした。
「おいおい、なんだその顔は。小夜に失礼じゃないか」
「あんまり、……驚かないね」
「もしかして、本当は知ってたんですか?」
 後方からも脇差に言われて、歌仙兼定は瞬きを繰り返した。きょとんとしたまま左右を見回して、小夜左文字を見て、最後に燭台切光忠が抱え持つものに目を向けた。
 白い大きな皿の中心に、一輪の花が咲いていた。
 牡丹だ。
 幾重にも花弁を重ねあわせた、手のひらよりも大きな花だった。緑の葉を茂らせて、優美な姿を披露していた。
 しかし今、この花は、季節ではない。彼の胸を飾るものは、似せて作られた造花だった。
 それがどうして、ここで咲いているのか。
 なにも分からず、なにも考えられない。
 頭は機能停止して、思考は働かなかった。
「はい?」
 答えを求め、背の高い者から順に見詰める。
 素っ頓狂な声を上げた歌仙兼定に、鶴丸国永はお手上げだと首を振った。
「なんだ、面白くない」
「ええと、歌仙君。大丈夫?」
 口を尖らせ、文句を言われた。燭台切光忠からは心底心配されて、顔の前で手を振られた。
 全く以て、意味が分からなかった。
 小夜左文字の内緒話に、ひとりだけ加えて貰えなかった。あれこれ手を尽くして調べたが、誰も教えてくれなかった。
 数日が過ぎて、手のひらを返された。これまでの非礼を忘れ、急に馴れ馴れしくされた。
 一変した態度にまず混乱し、理解が追い付かなかった。
「歌仙」
 立ち尽くしていたら、袖を引かれた。下を向けば、小夜左文字が申し訳なさそうに首を竦めていた。
 昨日までの素っ気なさが、嘘のようだった。表情は苦しげで、後悔に苛まれているのが窺えた。
 どうして彼が、そんな顔をする。
 泣きたいのはこちらだと腹も立って、巧く息が出来なかった。
「すまない」
 謝罪の声は小さかった。
 耳を澄ませていないと聞き漏らしそうな音量で、残る三人も、神妙な顔で押し黙った。
「えっと。僕の方も、ごめんね。頼まれていたとはいえ、酷いことしちゃったね」
 口火を切ったのは、燭台切光忠だ。抱えていた大皿を机に置いて、寡黙な少年の代わりに説明役を務めようとした。
 それを、小夜左文字が制した。左手を挙げて合図を送って、作業台に咲く一輪の花に目を向けた。
「歌仙、は。いつも、……僕に、よくしてくれる……から」
「小夜?」
「なにか、礼を、と」
 たどたどしく言葉を紡ぎ、両手をぎゅっと握りしめる。
 食紅で赤く染まった爪の先を隠して、彼は卓上の牡丹を見やった。
 白漉し餡に小麦粉を混ぜ、蒸したこなしを使ったのだろう。生地が赤や緑に染まっているのは、色粉を用いたからだ。
 うち、赤色のものは前から屋敷にあった。しかし緑については、覚えがなかった。
 歌仙兼定は、自分で茶菓子を作る。
 その工程を思い浮かべて、彼は視線を泳がせた。
 燭台切光忠は、以前、材料が足りないと言っていた。
 博多藤四郎は、小夜左文字に頼まれたものが安く手に入ったと、嬉しそうだった。
 ばらばらだったものが、真ん中に集まり始めた。
 無関係に思われていたものが繋がって、ひとつの形を成そうとしていた。
「え、と。じゃあ、ずっと」
 無意識に声が上擦った。何度も唾を飲み込み、喉を鳴らして、打刀は両手で空を掻き回した。
 巧く言葉が出て来ない。
 しかし言いたいことは伝わって、小夜左文字はコクリと頷いた。
 蜂須賀虎徹には、花の形を事細かに教わった。
 緑の葉を作るのに必要な色素には、薬研藤四郎に協力を求めた。手に入れるのに、博多藤四郎の伝手を頼った。へしきり長谷部には、資金の援助を申し出た。
 燭台切光忠と堀川国広に、作るのを手伝ってもらった。
 鶴丸国永からは、相手を驚かせる極意を教わった。
 歌仙兼定には、内緒だった。
 秘密にして、吃驚させるつもりだった。
 それなのに、おかしなことになった。計画が事前に、少しだけ漏れてしまったばかりに、嫌な思いをさせてしまった。
「すまなかった」
 ぽつりと言って、小夜左文字は俯いた。頭を垂れて、なかなか上げようとしなかった。
 あそこで正直に告白しておけば、こんなことにはならなかった。
 伝える時期を誤った。後悔して、少年は唇を噛んだ。
 計画立案者の謝罪を聞いて、他の三名もそれぞれ沈痛な面持ちを作った。言葉にはしないまでも、態度で詫びて、目を合わさなかった。
 そんな彼らを順番に見詰めて、歌仙兼定は再度、卓上を見た。
 大皿を飾る花は本当に見事で、細かい細工が施され、本物と見紛う出来栄えだった。
 慎重に、注意深く、丹精込めて作られたのがよく分かる。
 生半可な努力で成し遂げられるものではない。何度も失敗して、諦めずに繰り返して、一生懸命頑張った成果だった。
「……そう」
 言いたいことは沢山あった。
 けれど他に、なにも言えなかった。
 簡素極まりない相槌をひとつ打って、彼は肩を竦めた。苦笑を浮かべ、頬を緩めて、落ち込んでいる短刀の頭をポン、と叩いた。
「ありがとう、小夜。嬉しいよ」
 怒りがあった。
 腹を立てていた。
 否定しない。どれも本当のことだ。
 だが今となっては、すべて過去の話だった。
 目じりを下げて、囁く。
 小夜左文字は弾かれたように顔を上げ、空色の双眸を見開いた。
「歌仙」
「出来れば、もう少し穏やかな方法であって欲しかったけれどね」
「ぐ……」
 声の調子が僅かに持ち上がって、身にまとう空気が穏やかになった。肌に感じた変化に短刀は直後、ちくりと言われて口籠った。
 後ろでは鶴丸国永がブッ、と噴き出した。燭台切光忠は控え目に笑って、明後日の方角を見た。
 一番穏やかでなかったのは、どこの、誰か。
 完全に自分を棚に上げている男に、堀川国広も頬を引き攣らせた。
 但し小夜左文字だけは、自分が一番悪いと反省して、しゅん、と萎れて小さくなった。
 もれなく藍色の髪が下を向いて、襷の紐も元気を失った。その頭をもう二度、三度と撫でて、歌仙兼定は人好きのする笑みを浮かべた。
「折角だしね、茶でも点てようか」
 肩を震わせている鶴丸国永を見ても、機嫌を損ねず朗らかに告げる。
 底抜けに上機嫌な男の現金さには、呆れるしかなかった。
「僕、そういう堅苦しいのは、ちょっと」
「僕も、正座、苦手なので。遠慮します」
「茶の苦さには、驚き飽きたしな」
「なんだい、君たち。ふがいない」
 上物の和菓子がここにあるのだから、茶と一緒に味わうのが最高の贅沢だ。
 だというのに誰からも同意して貰えなくて、総じて辞退された歌仙兼定は不満そうだった。
 自慢の茶器を出して、由来を語りながら、良質の時間を過ごしたかったのに。
「歌仙」
 どうして誰も分かってくれないのだろう。
 小鼻を膨らませて拗ねていたら、またもや袖を引かれた。呼びかけた少年はコクン、と首を縦に振り、自分は参加すると迷わず告げた。
 途端に歌仙兼定の表情がぱあっ、と花開いた。
「小夜。ああ、やっぱり君が一番、僕を分かってくれるんだね」
「歌仙の点てる茶は、好き」
「嬉しいことを。では早速、準備しよう」
 満面の笑みを浮かべ、彼は声を弾ませた。小躍りしそうな勢いで、足取り軽く、颯爽と台所を出ていった。
 大皿を抱えた小夜左文字がそれに続き、場は一瞬にして、静かになった。
 残された刀たちは揃って引き攣り笑いを浮かべ、どっと押し寄せた疲れにため息をついた。
「なんだかんだで、あのふたり」
「良い組み合わせ、だな」
「ですね」
 彼らは単体で扱うには癖が強く、対処に困る事も多々あった。
 しかし文系を気取る打刀と、復讐を望む寡黙な短刀が一緒になると、何故かことは順調に運んだ。気心の知れた間柄だからなのか、少ない言葉で理解しあって、問題行動は極端に減った。
 これから先、あのふたりはなるべく一括りにして扱おう。
 ここ数日の騒動を振り返って、三人は強く心に誓った。
 

2015/08/07 脱稿